「1654」斎川眞(さいかわまこと)『天皇とは北極星のことである』(PHP研究所)の紹介。日本国の 天皇という称号はどのようにして生まれたか。 2017年2月16日

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 中田安彦です。今日は2017年2月16日です。

 今年の通常国会は天皇陛下の譲位問題で国会が騒がしくなる。おそらく5月までに今の天皇陛下の譲位(じょうい。高齢なので今の天皇の地位を皇太子に譲られること )をどのような形で行うことになるか決まるでしょう。

 だから、そもそも「天皇」という存在はなぜ日本に存在するのか、このことについて私たちは、今、しっかり理解しておくべきだろう。今回紹介する『天皇とは北極星のことである』(PHP研究所刊)は、この疑問を論理的に解き明かしてくれています。「天皇という呼び名、称号はどのようにして生まれたか」「日本の天皇はなぜこんなに続いているのか」という疑問に答える本が、この本です。

●本の購入はこちらで

 著者の斎川眞(さいかわまこと)氏は、早稲田大学法学部、同大学院法学研究科出身の日本法制史を専門にする研究者で、副島隆彦先生の先輩だ。法制史(ほうせいし)を専門にしている人が、天皇を扱うのですから、それは当然のことながら、普通、天皇を扱う学者や評論家たちのような、「天皇に何か呪術的な雰囲気を与えて、何か神秘性を漂わせた宗教の方に、天皇問題をズルズル引きずっていく」(本書252ページ、おわりに)やり方ではなく、「天皇は、政治的生活を持つ存在である」という立場に立って、明確に謎を解き明かしています。政治は合理性を持っている、のだから、資料に基づいて理性的に考えていけば、つまり筋道を立てて論理的に考えていけば、私たちの国の国王である天皇 という存在に 神話的とか非合理的なところはない、というのです。

 それで、天皇は何か、というと、それは北極星のことだ、というのです。北極星というのは北の空の中心にあって、その他の星たちがそれを中心にして、ぐるぐる回っているようにみえる、という星のことです。つまり、北極星というのは、他の星たちとは別格の不動の星であり、それが政治秩序なるもの、だというのです。

 本書から引用すると、こういう説明になります。これは本書の第1部・第1章の冒頭です。副島隆彦先生の冒頭の、解説の文です。

(引用開始)

 そもそも「天皇」という言葉は、どういう意味か。「天皇」の「天」は天であり、「皇」は「輝き」という意味である。皇(かがや)きと読む。煌(かがや)きという言葉もある。したがって、「天皇(てんこう)」とは、「天の皇(かがや)き」という意味である。中国語では「天皇(テイエンファン)と読む。

 そして、この天皇とは、「北極星」=「天皇大帝(てんこうたいてい)」のことである。英語では、北極星のことを The Polar Star(ザ・ポーラー・スター)という。北極点(ポーラー)を指し示す方向にあって動かない恒星(スター)である。他の星たち(スターズ。これも恒星。水星や金星、土星などの惑星=プラネット=ではない。自分で燃えて輝いている大きな星 )は、北極星の周りを周るように移動する。回転する。だから北極星を中心にして他のすべての星が回転しているように見える。(中略)

 北極星を中心に天は運行している。この自然の大きなあり方が、そのまま「人間界=政治秩序」に重ね合わされた。これが、中国を中心にした東アジア全体をおおう政治思想である。(中略)
 だからこの天皇という称号は、まったく中国風の称号である。中国から日本にもたらされたものである。
 

(引用終わり、32−37ページ)

 というように第1章では、「天皇」の呼び名が「中国風の称号」であり、「中国から日本に導入されたもの」であると明かされ、以下で天皇号を日本が、どのように採用したかを次々に説明していく、というのが本書の前半の構成になっています。これはこの本の宣伝文章なので「謎解き」の部分は、実際に本を買って確かめてほしいと思います。目次だけを示します。

=====

天皇とは北極星のことである 目次

序文 副島隆彦  1

日本の建国  5
天皇号の秘密  15
第一部 ● 天皇という称号
第一章  「天皇」とは、「北極星」のことである  32
「天皇」という言葉の意味  32

第二章 「王、皇帝」の称号は、臣下が献上したものである  38
君主の称号  38
新羅の君主号 48

第三章 日本の天皇号はいつから使われたか、『日本書紀』には書いていない  54
日本の天皇号  54
天皇号の献上は史料にない  57
『日本書紀』が主張するものは何か  60
「天皇」号は、いつ使われ始めたか  62
「天皇」とは北極星のことである  66
「天皇」号は、六世紀終わりから七世紀初めにかけて献上された  68

第四章 天皇について「歴史学」として確実に言えること  88

倭(わ)の五王 88

第五章 天皇の地位を保証する「天壌無窮の神勅」  101

天皇統治の正当性  101
天壤無窮の神勅  103

第六章 天皇にはなぜ「姓」がないのか  111

なぜ天皇には姓がないのか  111

第二部 ● 中国と日本

第一章 冊封体制」とは何か  122
皇帝が統治する国が帝国である  122
「冊封体制」という言葉は昭和三十七年に生まれた  124
冊封体制というシステムについて  126
なぜ冊封体制というシステムが存在するのか 130

第二章 冊封体制とは、中華帝国の世界秩序のことである  140

中華帝国は東アジアの宗主国である  140 
中華帝国の政治の論理  143

第三章 天命思想とは、王朝交替の思想である  155

王朝交替の思想  155

第四章 日本は、中華帝国に朝貢して、世界史に登場した  159

世界史への登場  159
倭の女王卑弥呼は外臣である  165

第五章 遣隋使・遣唐使は、中華帝国の官職・爵号はいらないと伝えた  171

冊封秩序からの離脱  171

第六章 日本という国名は、律令体制に伴ってあらわれる  184

「日本」の国名はいつから使われたのか  184
「日本」の国名は方位によってつけられた  185

第三部 「中華帝国」のようになりたくて律令を作った

第一章 日本は、中華帝国のような国家になりたかった  192
設計図と技術者  192
先進国の法制度の導入――法の継受  194

第二章 遣隋使や遣唐使の本当の目的  204

律令の法典編纂  204

第三章 なぜ律令体制を作りたかったか  212

「天皇」は日本の王  212

第四章 律令国家は、行政指導・官僚統制型の国家である  224

行政指導・官僚統制型国家  224

第五章 結論 そして、国家の枠だけが残った  231

名分論は天皇と律令体制に行き着く  231
江戸時代まで存続する官位と称号  236

おわりに――斎川眞  243
あとがき――副島隆彦  255 

 本文の中から抜粋します。
 
 北極星を中心にすべての星が動いているという政治秩序は、東アジアの歴史では中国を中心にした、冊封体制(帝国の周辺国、属国が覇権国との関係を朝貢によって結ぶ)のことであり、華夷(かい)秩序と呼びます。古代日本の指導者は歴代の中国の皇帝から、倭王(わおう)とか、日本国王として封(ほう)じられた存在だった。

 それが、7世紀(600年代)になって、中国大陸の政治秩序から離脱したときに、「日本は中国と同じような国家体制になりたい」と構想して、日本は中国の律令を導入して、それを日本にとって都合の良い形で導入した。日本は、中国の政治秩序から離れて、この日本列島に立てこもることになった。それはそれまでの古代の大和(ヤマト)王権と全く違う政治体制であり、それが日本の律令体制となった、ということです。

 こうして日本は中国の属国(外臣、がいしん)であることをやめました。が、政治体制は中国化したままでした。日本は、中国の王朝から見れば依然として倭国王(わこくおう)のままだった。だが、自らは「天子」という称号を使い始め、これがやがて「天皇」になっていったということが述べられています。天皇号は推古(すいこ)朝時代に使い始められ、大宝律令(701年)で法制度として完成した、となる。

 さらに、日本独自の思想のように見える、日本神話(『日本書紀』)にある、「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」や「万世一系(ばんせいいっけい)」の思想は、中国風の考えであり、中国の『戦国策』や『史記』に由来するものだ、ということが「第1部/第5章」で説明される。

 ここに日本の政治思想のパターンが出てくる。これは、当時の東アジアの秩序を形成していた中国から導入した思想であった。これは、副島隆彦の言う「文明の周辺属国」という思想と同じだ。導入する思想の輸入元がかつては中国であり、明治時代には欧州・英国になり、(敗)戦後は、アメリカになったということです。

 後進国は、先進国の政治・法制度を取り入れることを「法の継受(けいじゅ)」と、学問的には言うそうですが、律令(りつりょう)は中国から、近代憲法(典)は、最初ドイツから、戦後はアメリカから導入された、これが日本の政治体制の簡潔な歴史です。日本はいつもこうでした。

 ただ、その後、日本は、朝貢(ちょうこう。トリビューテイション )をしない、という意思を覇権国に対してに示すことで、中華帝国の政治秩序から離脱したことを示した(ただ、それでも制度的には影響を受け続けている)。このあと日本は「自力で中華帝国みたいな、普遍モデルとなる国家を作り上げることは、ついにできなかった」(本書199ページ)となる。 これが日本の歴史のパターンです。表面上は独立しているが、実際は従属しているということです。

 斎川氏は、日本は「中国風の天皇」という称号を王に与え、律令を中国から導入した、にも関わらず、中国の王朝交代思想である「易姓革命(えきせいかくめい)」は導入しなかった、と述べています。だからこそ、日本には長らく、他と識別するための姓(せい)が存在せず、名前だけであり、天皇家が今もこの古い慣習を残している、と書いています。

 ただし、全く独自のカルチャーではなく、あくまでサブカルチャーであるとしています。さらに、日本の国柄の本質は部族制(トライバル・システム)であり、他の部族を従えて大きくなった拡大部族制の国(エクステンデッド・トライバル・ステイト。213ページ)である。それなのに、律令制度を中国から導入して、これに接ぎ木して、日律令体制を作り上げた。

 だから、地肌としては「拡大部族制の国」のままだ。だが、日本には天皇家の世襲を正当化するために中国にあった「王朝交代の思想」はない。譲位(じょうい。天皇がその地位を譲る)の問題の背景にあるのも、「王朝交代の思想がない」というところに行き着くでしょう。「天」とか「天命(てんめい)」といった抽象的な思想にはならない。

 この本の後半は、「行政指導・官僚統制型国家としての律令国家」ということが書かれています。この斎川氏の議論を、私、中田安彦は、自分の『日本再占領』(成甲書房刊 )で拝借して使いました。このあたりは実際に斎川氏の本を買って読んで下さい。

 斎川氏によると、「ある宗教の規範が、根本的に日本人の精神を形成し、日本人が、その規範を唯一の基準として、自分の生活と行動を規律することはなかった」という。そして、「日本では、宗教は、政治に従属している」。 国家神道(こっかしんとう)というのも、所詮は政治の産物である。ここもびっくりします。

 この本は目次に書かれているように、副島隆彦先生による序文とあとがきがあります。序文は実際に買ってお読みいただくとして、あとがき を以下に掲載します。

(貼付け開始)

 
 あとがき   副島隆彦 

 今からもう、二十年前の一九九七年のことである。私は、大学の先輩で日本法制史学者である、斎川眞(さいかわまこと)氏に、この本を書くように強く勧めた。そして二人で酒を酌み交わしながら、この本を書き進めた。斎川氏は、本来なら、早稲田大学法学部の日本法制史の教授になるべき人だった。

 この本は、日本法制史学というマイナー(少数派)の学会からの画期的な業績である。
振り返って、思い起こせば、私はこの本の書名を『天皇とは北極星のことである』にすべきだ、とちくま書房の編集部に、執拗(しつよう)に求めた。初めからそのように考えてこの本を企画したので、そのように再三強く要望した。

 ところが、編集部が、どうしても『天皇がわかれば日本がわかる』にすると言って聞かなかった。「それならそれで仕方がない。しかし、後々(のちのち)きっとこの本の重要性が認められる時代がきます。そのときは『天皇とは北極星のことである』という書名に戻して出版し直します。いいですね 」「わかりました。それでいいですよ」と編集部から言質を取っている。この件は斎川眞氏も了解している。

 この「天皇(てんおう)=中国からもらって来た王の呼称」のことについて、私、副島隆彦の体験談を以下に少し書く。

 私は、一九九八年に中国を旅行した。この時に、北京で以下の体験をした。それは、北京城(紫禁城。天安門広場の北側 )に行った時のことだ。そこに大きな、「太和(たいわ)殿」という正面の巨大な門の城があって、ここに「太和」という言葉が使われている。「太和」は「始まり(初原)の平和」という意味だが、「大和」と同じだ。

 この時、そうか、「大和」というのは、「大きな平和」という意味だろう。英語で言えば grand peace「グランド・ピース」だ。この「大きな平和、大きな秩序、即ち大和(だいわ)を喜ぶ」という東アジアの歴代の支配者(皇帝)たちの支配観を、ここでこのとき私は理解した。そして、この思想を日本に持ってきて、奈良の「やまと」という地名にかぶせた。「大和」を「やまと」と、むりやり読むことにしたのだ、と分かった。

 どこをどう解釈しても、「大和(だいわ)」は、語源学(ごげんがく、etymology エティモロジー)からも「やまと」とはならない。「やまと」は「山門」である。長門(ながと)と同じ素朴な日本製漢字である。奈良盆地に山門国(やまとこく)があったのである。

 ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』(1987年作)の中に、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ。プーイー)が、宦官(かんがん、ユーナック)たちを、まとめて二〇〇〇人ぐらいを一斉に退職させるシーンがあった。皇帝溥儀(ふぎ)が、免職される宦官たちを眼下に集めて、故宮の城郭から眺め下ろす場面だった。

 ここで使われた、実際の北京城の中の城塞の中の前の広場に私が立った時、通訳の中国人(なかなかの知識人だった)が、石で敷かれた地面を指さしながら、「こちらの溝は、武官=将軍たちが、皇帝から死を賜る時(首を斬られる時)に、流れた血を流す溝です。それと平行して走るこちらの溝は、文官=マンダリンたちが死を賜る時に血を流す溝です」と言って、敷石の上の地面の細い溝を指し示してくれた。このことが今も思い出される。

 次の日に、私は北京市の南五キロぐらいの小高い丘に行った。ここが中国で初めての世界文化遺産に登録(1980年)された「天壇公園」である。この「天壇(てんだん)」は、国宝級の施設である。観光名所として今も有名な場所だ。私が行った時はまだ、草ぼうぼうの中の平たい台形の土地だった。その真ん中(中心)に、大理石で敷き詰めた広い円形の舞台があった。直径で二〇メートルぐらいはある真円形の壇(だん)である。そして「この台の上には、皇帝しか上がれませんでした。今は、観光客が平気でこの台の上に登って歩ける。

 「この円の中心で、中国の歴代の皇帝たちは、天文を実行しました。星占い(占星)をしたのです。そこでまつりごと(政)を行った。中国の歴代の皇帝には宗教はありません。皇帝たちは、ここで当時の天文学に従って、その年の運勢、吉凶を占う占星(せんせい)を行いました」。このように中国人通訳ははっきりと説明した。今、日本人が、ここに行けば、聞く方に知性と教養があれば、私と全く同じことを学ぶだろう。

 それが、この本の斎川氏の文章の中に出てくる「円丘(えんきゅう)」のことである。本書三三ページに「昊天上帝(こうてんじょうてい)とは、冬至に圜丘(えんきゅう、円形の丘のこと。王が冬至に天を祭る丘)に於いて祀(まつ)る所の、天皇大帝(てんこうたいてい)なり 」とある。この円丘がまさしく私が行った北京の天壇公園である。

 ここで、「中国の歴代皇帝には、宗教はない。天文学で政治を行った」という一行は、大変重要である。日本人は、大きな意味での中国という国を今も分かっていないのだ。

 日本最古の寺である四天王寺(してんのうじ。大阪)と、法隆寺(斑鳩寺、いかるがでら。奈良)の両方に残っている、今も古式の儀式の舞で使う衣装は、「中国の皇帝から拝領したもの」と公言されていて完全に中国の古式の宮廷舞踊である。その衣装の背中の部分には、龍の絵柄(中国皇帝の象徴)と大きな七つの点で北斗七星(ほくとしちせい、北辰、ほくしん、ともいう。より正確には、八つ目の星が重なって存在する)が描かれている。

 あれやこれや大きく関連させて推理すると、こういうことが分かってくる。四天王寺と法隆寺は兄弟寺である。どちらも蘇我氏(中国華僑系)の一族の生活拠点である。聖徳太子とは誰か? 聖徳太子は蘇我入鹿(そがのいるか)だ。入鹿その人である。入鹿大王(おおきみ、オホキミ)である。当時の最高権力者だった蘇我馬子(そがのうまこ)大王(おおきみ)の子である。 その前は、蘇我稲目(そがのいなめ)が、大王であり、当時(530年代から)の日本の最高実力者である。だから、蘇我稲目、馬子、入鹿の3人が、西暦500年代から645年までは、日本の国王(男の王、オホキミ)だったのだ。大王は、 御門(みかど)と呼ばれた、甘樫丘(あまかしのおか)という城、王城にいた。この秘密を、今の日本史学者たちが隠したまま、認めない。

 本書は、日本における「天皇」という称号の成立について、歴史文献(史料)にのみ基づいて論じたものである。これが、本書の特徴である。上記の、私、副島隆彦の考えとは異なる。

 斎川氏は日本法制史の学者である。日本法制史という分野の学問は、法学部に属し法学の基礎研究の一分野であり、日本の過去の法律を研究対象にする、法についての歴史学である。

 ふつう法律学というのは、現在の法律を研究するので、法制史などという古くさい学問があることを法学部の人間たちでも知らない人が多い。法制史学者というのは、日本全国に僅(わず)かに一〇〇人くらいであり、斎川氏もその一人である。法制史は、学問としては厳格なものであるが、この学者の数から想像できるとおり、法学部のなかでも、基礎法学と呼ばれる、ほとんど人気のない傍流の学問である。

「天皇」とは、もともとは、「王」や「皇帝」と同じ、中国の君主の称号である。称号というよりは、位(くらい)と言ったほうが、わかりやすい。

 西暦五七年に、中国の後漢(ごかん)王朝の光武帝(こうぶてい)から「漢 委 奴 国 王」(かんのわのなのこくおう)という金印をもらった倭(わ)の奴国(なこく、ぬこく)や、三世紀に魏王朝から「親 魏 倭 王」(しんぎわおう)という称号をもらった邪馬台国(やばだいこく。やまたいこく)の卑弥呼(ヒミコ。本当はヒメミコだ)や、五世紀(西暦四〇〇年代)の魏晋南北朝の南朝の帝国である宋(そう)の王朝から「倭国王(わこくおう)」に任命された「倭の五王」のことは、よく知られている。

 ここからわかるように、日本の政治支配者(君主)の称号(位)は、「王」であった。しかも、この「王」とは、中国が日本に与えた称号であった。

「天皇(てんこう)」という称号(位)は、この「王」、「大王」という称号(位)に取って代わったものだ。王から天皇に変更されたのは、七世紀初め(西暦610年頃)推古(すいこ)天皇(女帝)のときであった。

この「天皇」という称号(位)は、中国王朝から与えられたものではなく、自分たちで勝手につかったものである。七世紀初めに推古朝の役人たちが、「天皇という、この立派な称号をどうかおつかい下さい」と、王に献上したものである。

 斎川氏が本書(三八ページ)で書いている如く、この「天皇」という称号は、前述したとおり、「王」「大王」という称号に代わる称号である。このときからずっと、日本の君主の称号は「天皇」である。当然のことだが、この称号は現在も生きつづけている。

「天皇」は、「皇帝」と同格の君主の称号である、だが、日本の天皇は、実際は皇帝ではなかった。十六世紀のおわりに来日した、イエズス会のロドリゲスという人物は、『日本語小文典(下)』(池上岑夫訳、岩波文庫、一五九ページ)のなかで、つぎのように言っている。

「日本の国王は、皇帝に相当する名をいくつも使っているが、中国人は、これを嗤(わら)っている。その理由は、中国の国王は、中国内外に、王の称号を持つ者を何人も従えているから、まさしく皇帝であるが、日本の国王は、そのような王を従えていないから、ただの国王であって、皇帝ではないからである」(『日本語小文典』、読みやすくするため、訳文をすこしかえた)

 このとおり、外側から見れば、比較によってすぐに真実が明らかになる。このロドリゲスの理解が、世界から見た冷徹な日本理解である。だから、日本は、ずっと王制の国なのである。日本が、六世紀に、この日本列島に立て籠もって、中国風の律令国家を作り上げると決めたときからずっと、日本は、「天皇」を君主とする王制の国である。当然、現在もそうである。日本国憲法の第一章(第一条から第八条)は「天皇」である。

以上のとおりです。本を読む喜びを知っている人は賢明な人だ。大きな真実を知ることで、人間は真に賢くなる。

 なお、北極星という星は果たして存在するのか、という問題がある。厳密に天文学(アストロノミー)の分野では、北極星(The Polar Star)という特定の恒星は存在しない。現在の北極星は、こぐま座α星のポラリス Polaris である。古代からずっとあの星が北極星だ、ということになっている星は変わる。そして別の星になる。地球の地軸の歳差(さいさ)運動(首ふり運動)によって約二万六千年の周期で別の星が北極星となる。現在の天文学では、北極星はPole Star(北極の方向にある星)と書く。古代の人々は、かすかにこのことに気づいていた。現在の私たちで、あの星が北極星だと見分けられる人は、空気の澄んだところで天体望遠鏡で星の観察をしている人たちだけだろう。

最後に、この本が完成するまでに、PHP研究所の大久保龍也氏の真摯なお誘いと指導をいただいた。著者二人の感謝の気持ちを表明します。

二〇一七年一月  副島隆彦

(貼り付け終わり)

 

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