「1624」番 『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所=ばんしょしらべしょ=の研究』(成甲書房刊)が発売になります。 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2016年9月4日

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 副島隆彦の学問道場の古村治彦です。

 来たる2016年9月10日に、私たちSNSIの最新論文集『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究』(副島隆彦+SNSI著、成甲書房、2016年9月10日)が発売されます。


明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究

 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)とは、徳川幕府が江戸に創設した西洋の学問研究・教育機関で、現在の東京大学の源流となりました。

 1855年に洋学所(ようがくしょ)として設立され、1856年に蕃書調所に改められ、1862年に当時の最高教育機関である昌平黌(しょうへいこう)と同格とされ、洋書調所(ようしょしらべしょ)となり、1863年に開成所(かいせいしょ)と名前が改められました。

 このように名前は数度にわたり変わっていますが、その実態は、全国から俊英が集まって、日本に迫ってきていた西洋列強(せいようれっきょう。Western Powers、ウェスタン・パウアズ)理解のために奮闘しました。


東京都千代田区九段下にある蕃書調所跡

 蕃書調所のトップとなったのは、古賀謹一郎(こがきんいちろう、1816~1884年)です。この古賀謹一郎については、本書第4章でSNSI研究員の津谷侑太氏が詳しく書いています。

 更には全国から、岡山津山藩の箕作阮甫(みつくりげんぽ)、津田真一郎(のちの津田真道 つだまみち )、箕作秋坪、長州藩出身の村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩出身の松木弘庵(まつきこうあん 寺島宗則)、津和野藩出身の西周助(西周 にしあまね )、幕臣出身の中村敬輔(のちの中村敬宇)、加藤弘之(かとうひろゆき)といった俊英が招かれました。

 薩長を中心とする討幕勢力によって明治維新が成功し、文明開化と呼ばれた西洋化が始まり、日本は発展していったというのが、学校の授業で私たちが習う「正統な」歴史館です。この歴史観を押し通すために、徳川幕府の下で行われた学問研究や翻訳の業績は不当に低く見られてきたと思います。

 この『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究』の帯に書かれている通り、「さらば!ウソ八百の薩長史観」こそが中心テーマであり、蕃書調所を中心にして集まった当時の知識人たちの幕末の動きを顕彰することが本書の目的です。彼らの蓄えた知識が明治新政府発足後に花開きました。

 本書の最初の3章では、蕃書調所に至るまでの日本の蘭学研究や算学研究の系譜が、石井利明、六城雅敦、田中進二郎各研究員によって読み解かれています。第4章で津谷侑太研究員は、蕃書調所が国内外入り乱れての権力闘争と国益がぶつかり合う最前線であるという説を唱え、それを限られた資料で、論証しています。

 第5章では、幕末に江戸でしのぎを削った、剣術道場と剣術、人的ネットワークなどについて、古本肇氏が解説しています。ちょっと毛色が違いますが、テレビや映画で見る斬り合いシーンと現実が違うことを改めて認識させられます。

 第6章では吉田祐二研究員が蕃書調所を創設した勝海舟について書いています。そして第7章では、私、古村が大隈重信の旧幕臣とのつながりやネットワークについて書きました。蕃書調所を中心にして盛りだくさんの内容が書かれています。

 以下に副島隆彦先生による まえがき と、目次を掲載します。参考にしていただき、『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究』を買って、お読みください。


明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究

(貼り付けはじめ)

●『明治を創った幕府の天才たち 蕃書調所の研究』

  天才級の頭脳が集まった「蕃書調所」──まえがき   副島隆彦

「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」は、幕末(1856年)に徳川幕府の正式の洋学研究所として発足した研究機関である。

「昌平黌(しょうへいこう)」(通称は「昌平坂学問所」)と並び称された。名前だけは知られているが、誰もここに触(さわ)ることなく160年が過ぎた。ここに、私たちSNSIエスエヌエスアイ(副島国家戦略研究所)が初めて光を当てる。その全体像を今に甦(よみがえ)らせる。

 この蕃書調所(野蛮な紅毛人(こうもうじん)=西洋白人の書物の研究、翻訳機関)は、創立わずか12年間で江戸開城(徳川幕府の崩壊)とともに、光芒一閃(こうぼういっせん)を放って消えていった。

 だがここに結集した幕末の日本の俊英たちは、このあと、その多くが明治新政府に請われて「徴士(ちょうし)」というテクノクラート(中堅官僚)となった。 

 御一新(維新)後の太政官(だじょうかん)政府(明治政府)は、まさしく蕃書調所で学んだ旗本直参(はたもとじきさん)と譜代の旧幕臣たちが動かしたのである。のちに維新の元勲と称讃される薩長の頭目(リーダー)たちには、西洋近代学問(サイエンス)の知識が無かった。全く無かったわけではないが、刀(人斬り包丁)を抜くこともあった政争(政治権力闘争)に明け暮れたら、勉強(学問、研究)などしている暇がない。だから当時の天才級の頭脳をした日本人の多くは譜代の幕臣たちである。その人々について細かく調べたのが本書である。 

 長崎伝習所(1855年設立)と、その後身の幕府操練所(そうれんじょ)(築地でそのまま明治海軍になった。今の魚市場。もうすぐ豊洲(とよす)に移転 )は、蕃書調所に1年遅れて(1857年)オランダからカッテンディーケ(のちオランダ海相、外相)たちが招かれて長崎で開校したのである。蕃書調所も長崎伝習所も、形だけは勝海舟(かつかいしゅう)の提言(建議)でできた。 勝海舟とは何者か?

 薩長による京都での討幕運動(1863、64年をピークとするわずか6年間だ)ばかりが有名である。それが血なまぐさい幕末の中心である、と考えられている。刀を抜いて人を殺しに行った者は、自分もやがて(ほとんど)殺された。この人間世界を貫く冷酷な法則を無視して、英雄物語のロマン主義ばかりで幕末維新の体制変動を語る時代は終わった。薩長中心史観は見直される時期が到来したのである。

 私たちSNSIは、現代の壮士(そうし)(=惣士(そうし)=志士=草莽(そうもう)。武士ではなかった。本当は百姓階級だ)の在野の貧乏な集団である。が、志だけは一流国家機関の研究所員のプライド(矜持、きょうじ)を持っている。

 プラトン(紀元前427~347)が、アテネのアゴラ(自由市場)の脇で開いたアカデメイア(のちのアカデミー)は、本当はどんなものであったか。 ラファエロが描いた「アテナイの学堂」(1510年作)は、ウソ、インチキの壮麗な絵で、ものすごく立派な建物になっている。この絵は今もバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁にある。

 本当の本物のプラトンの学問塾とは、アテネの市場(いちば)の雑踏の脇に、たむろして集まってきた閑人の下級貴族の職無しブラブラ若者たちの群れのことだ。彼らはひたすら、ワーワーと議論し合った。地面に幾何学の線を引いて勉強した(黒板も紙もまだない)。小屋掛けしたボロ家があっただけだ。無職のくせに、頭だけは良かった若者たちが、弁だけは立つ口達者の壮年の者たち(これがソフィスト)の知識演説に聴き入って、あとは果てしなく激しく議論し合った。

 「多くの若者たちを不穏な、間違った道に煽動している」という嫌疑を受けて、ソクラテスは政争に巻き込まれて死刑判決を受けた。死刑の直前に毒杯を呷って死んだ。ソクラテスは、本当に悪妻だったクサンチッぺから、「訳の分からない議論ばっかり、道端で人に吹っかけてないで、少しはお金を稼いで来な」と人前で公然と罵られていた。どんな時代でも女という生き物は同じだ。

 譜代(ふだい)の幕臣であることを自負した福沢諭吉と、毛利氏家中(もうりし・かちゅう)大村益次郎(おおむらますじろう、村田蔵六)が学んだ、大坂今橋(いまはし)の適塾(てきじゅく)(蘭学、オランダ書を教えた)は堂島、北浜の取引所のそばの、大勢の人が行き交う雑踏の脇にあった。 

 適塾の塾生たちは、朝は穢多非人(えたひにん)の群れに交じって、火が焚かれた飯場で、立ち喰いで動物の臓物ら雑穀やらを腹に詰め込んでいた。「こいつらはそこの緒方(洪庵こうあん)のところの学生どもだ」と言われていた。と、『福翁自伝(ふくおうじでん)』に書いてある。 建物ばっかりが立派になったら、その時はもう、初めの清新な魂は消えている。立派な建物の大学なんかに中身はない。人騙しの人集めだ。カネばっかりふんだくって碌(ろく)な教師はいない。

 いつの世も、本当の教師(先生)は、道端で、辻説法(つじせっぽう)で、人々に道(理屈、理論)を説く。私はこの決意を死ぬまで変えない。

 私がもう読みたいけど読めない(その人生時間がない)、古い文献史料(もうボロボロの本たちだ)をみつくろって漁(あさ)って、弟子たちがこの本の論文を書いた。「ここ掘れワンワン」だ。このへんの文献を調べてみろ、そうしたらきっと、何か書かれているよ、と私は目見当(めけんとう)の助言はした。あとはそれぞれ自由に彼らが書いた。私はそれに朱筆(しゅひつ)を入れて突き返しただけだ。

 まだ若書きだから文に成っていない。とてもまだ売文(ばいぶん。文を売ってそれがおカネに変わる)するほどの力はない。

 本読みの爺(ジジイ)たちが、妬(ねた)み根性で、「まだまだ、お弟子さんの文は読むに堪(た)えませんね」と私に言ってくる。それならお前が書いてみろ、と私は目だけで言う。

 その結果、この本で新しい事実がたくさん掘り起こされた。あるいは、明治・大正時代に忘れ去られたのだ。

 今どきの、こんなご時勢で、読書人階級(ブック・リーダーズ・クラス)であることだけが、私たちの誇りである。他に何の取り柄もない。よくてひとり前のサラリーマンができる程度の能力だ。今ではその会社勤めさえ、なかなかきつくなってきた。会社が平気でどんどん社員の首を切る。そうなると、いよいよ「道端(みちばた)で裸足でワーワー、バカなことを議論し合う」しか、他にすることのない人間集団に私たちは戻りつつあるのかもしれない。

 本の出版業も風前の灯になってきた。それでも、私たちはこの知識と観念の道をゆくしかない。「人間は考える葦」(パスカル)だからである。葦原(あしはら)で風にそよいで揺れ動く葦(あし)たちが人間だ。 パスカルこそは、人間世界の諸悪の根源であるローマ・カトリック教会(その中心がイエズス会)に、本気で正面から喧嘩を売ったヨーロッパ知識人であった。このことが私にようやく分かってきた。
 

「第1章」は、石井利明(いしいとしあき)君が、「陽明学(ようめいがく)はキリスト教である」という大きな秘密を書いた。日本の儒学(儒教)の正統である朱子学(しゅしがく)と、儒学内部で争ってきた陽明学(16世紀の王陽明=ワンヤンミン=が始めた思想)が実は、その本態・本性はキリスト教である、しかもプロテスタント系のそれだ、と解明した。キリスト教の良い面である、博愛と人間救済の思想だ。これは以後、石井君の大きな業績だ。

 ということは、日本の幕府が厳しく禁教して弾圧した天主教(てんしゅきょう。キリスト教。その中に耶蘇会=イエズス会が含まれる)が、陽明学に姿を変えて、儒学の一種のふりをして、連綿と外様(とざま。反徳川氏)の大名たちの間で長く講じられてきた。林羅山(はやしらざん)だけはこのことを見抜いた。

 日本陽明学の創始者の〝近江聖人(おうみせいじん)〟中江藤樹(なかえとうじゅ)以来、山鹿素行(やまがそこう)、熊沢蕃山(くまざわばんざん)に至る。一方で、「日本中華思想」(日本が世界の中心である)を唱えながら、一方で博愛と人間愛(救済)の思想を説いた。

 石井君は、この他に、8代将軍吉宗(よしむね)の命令で、全国諸藩に昌平黌と似た朱子学を講じる藩校を作れと命じたことに始まる学問新興、しかもここにも蘭癖(らんぺき)大名(阿蘭陀 オランダ 趣味の強い大名)たちが、実は隠れキリシタン大名の秘かな流れを作り、備前岡山藩主・池田氏や、薩摩の島津氏がずっとこの勢力であり、藩主自らが隠れキリシタンとして、幕末まで続いた。そして密貿易をしながら富を蓄えて、幕末から開国路線に転じた、と書いた。表面上の尊王攘夷(そんのうじょうい)と、それとは全く異なる裏側の本当の顔である開国和親(かいこくわしん)を論じた。

「第2章」の六城雅敦(ろくじょうつねあつ)君は、日本の「和算」の数学者たちの全体像を描いた。画期的である。

 この人の、名前だけは有名な関孝和(せきたかかず)( ⑥番 )を前後にして、15人の主要な和算家=江戸時代の日本数学者たちを、つなげて論じることで、その全体図が日本で初めて見取り図となって明らかにされた。彼ら和算家たちは、秘かにキリスト教徒であった。捕らわれた宣教師(伴天連=パードレ=ファーザー=神父)たちから西洋数学を習ったのだ。  

 浅草(鳥越とりごえ)天文台(幕府天文方。てんもんがた)に蕃書和解(わげ)御用 が設置され(1811年)、それが、ペリー来航(1853、54年の2回)の事態の急変で、蕃書調所(ばんししらべしょ)になったのである。

「第3章」の田中進二郎君は、初期蘭学者たち(オランダ通辞(つうじ)=通訳・翻訳官)の誕生から、幕末のフォン・シーボルトに習った者たち(高野長英、小関三英、渡邊崋山 ら)への政治弾圧(蛮社の獄。1839年)の栄光と悲劇を経て、更に そのあと、昌平黌の中で天才級の頭脳をした朱子学者たち(佐藤一斎 さとういっさい、安積艮斎 あさかごんざい )が、蘭学までも自力で習得していた様子を正確に描き出した。

 そして、勝海舟(安芳、やすよし)という男は、幕府の秘密警察長官(公儀隠密のトップ、大目付)であった、大久保一翁(おおくぼいちおう)と川路聖謨(かわじとしあきら)が育てて、蘭学者たちを監視させるためにその中に潜り込ませたスパイである、という大きな秘密が解き明かされた。

 そして更に、前記の佐藤一斎(さとういっさい)が、昌平黌(しょうへいこう)の筆頭教授であるのに、「日朱夜王(にっしゅやおう)」で、昼間は、朱子学=徳川氏礼讃 を唱え(日朱。にっしゅ))ながら、夜になると今の岩本町、人形町あたりの私塾で、顔つきが変わって陽明学(ようめいがく)を講じた(夜王)。この「夜は王(陽明)学」の思想が、徳川氏打倒、天子(天皇)回復(回天 かいてん )の、討幕思想の原動力(始源)となったのだと解明した。この意味は大きい。だから、この大きな流れで、幕府のスパイだった勝海舟は、薩長(背後にイギリスがいた)とつながる二重スパイとなって、上手に生きて、明治まで図々しく生きたのだ。

 幕末最大のイデオローグ(皆に尊敬された)であった、横井小楠(よこいしょうなん)は、一気に全国三百諸藩に勤王同盟ができる原動力になりながら、同時に、朝廷と幕府の団結による「共和政体」(公武合体=こうぶがったい=の正しさ)による、国力の増大を追求した。このことの大きな矛盾を抱えて死んだのであった。

「第4章」の津谷侑太(つやゆうた)君が、前記の田中進二郎君と、「勝海舟が幕末の二つの勢力の二重スパイであった」証明の業績を分担する。 津谷君は、蕃書調所を実質で切り盛りした天才学者古賀謹一郎(こがきんいちろう)を描き出した。古賀謹一郎(この人も〝日朱夜王〟である古賀精里=せいり=の孫)こそは、蕃書調所の要石(キーストーン)であることがよく分かった。

 彼は昌平黌の筆頭教授のまま、蕃書調所(による洋学研究)を幕府から任された。その重たい責務で古賀は早逝した。

 このあとは箕作秋坪(みつくりしゅうへい。阮甫=げんぽ=の養子)の動きから、それと連携した福沢諭吉が、当時の超大国(覇権国)であるイギリスとフランスに対抗する、後進国(新興国)である ロシア帝国とアメリカ(そしてドイツも、オランダも)の代理人(手先)となった、とする驚くべき新説を提起した。

 津谷説のここまでの斬新さは、日本の歴史研究における最先端の突出であるから、過激先生を自認する私であっても、態度を保留している。津谷君はこのことをさらに論究(ろんきゅう)する責任を負う。

「第5章」は、幕末の江戸で大人気の剣術道場の隆盛(りゅうせい)に光を当てる。

 四つの当時の超有名な剣術道場が、まるで現在に再現されたかのようだ。古本肇(ふるもとはじめ)氏が、私、副島隆彦 に向かって詳しく語ってくれた。「二尺三寸(刃渡り70センチメートル)が武士の刀 」として論じる。①千葉周作(ちばしゅうさく、玄武館 げんぶかん)、②斎藤弥九郎(さいとうやくろう、練兵館 れんぺいかん)、③桃井直正(ももいなおまさ、志学館 しがくかん )、④男谷信友(おたにのぶもと 講武所 こうぶしょ。幕府陸軍になる )の四つを取り上げることで、幕末にこれらの剣術道場が果たしたきわめて重要な役割を、今に甦らせた。

 この対談文も、きっと画期的(エポック・メイキング)な作品である。これまで日本史学者と幕末小説家たちが全く描くことをしなかった、実情としての幕末の江戸に集った人間たちの動きが活写される。

 蕃書調所(学問所)と二つ並べて、どうしても剣術道場(軍事)のことを論じておかなければ済まない、と私、副島隆彦は思った。近藤勇(こんどういさみ)ら、新撰組(しんせんぐみ)の暴れ者たちも、ここで修練した。武士になりたい、なりたい、の一心で三多摩壮士(さんたまそうし。百姓)たちが、あわれな人斬りの道に進んだのだ。

 これらの剣術道場は、金持ちたちがパトロンとなって出資もして、人間交流と情報集めのための重要なサロンとしての役割を果たした。人格者であった剣術使いの千葉周作たちは、人斬りになどならずに明治を迎えた。このことが偉いのだ。

「第6章」の吉田祐二(ゆうじ)君も勝海舟を論じて、最後は幕臣のトップにまでなった彼が、「幕府の墓堀人(グレイブ・ディガー)」になったことを鋭く描いている。前記の者たちの論述を最後に補強する筆致である。

「第7章」の古村治彦君は、なぜ大隈重信(おおくましげのぶ)が、薩長土肥(西南雄藩)の肥前(佐賀、鍋島氏)の藩士から、明治新政府の最高実力者にまで成れたのか、の、その秘密を見事に解明した。それは大隈が、フルベッキやヘボンの通訳の任務を果たすことで、新国家建設のマスタープラン作りで枢要な立場を占めたからであった。大隈重信とは何者か? この謎解きは大隈重信研究で今後、大きな業績となるだろう。

 これらの文は、人様(ひとさま)に買って読んでもらえるだけの優れた内容である。そのように私が太鼓判を押す。私にとって、能力のある若者たちをひとりでも多く物書き、言論人として世に出すことが何よりも重要なことである。怒鳴り散らしながらでも、人を育てることこそが人間が本当にやるべきことだと思う。

 この本には本当にびっくりする重要なことが幕末に起きていたことがたくさん書かれている。

  2016年8月                    副島隆彦

(本の内容、目次)

まえがき   天才級の頭脳が集まった「蕃書調所」(副島隆彦)・・・3

第1章 「尊王攘夷」から「開国和親」へ―その歴史の秘密

 幕末明治氏の秘密を解き明かす・・・24
 徳川幕府の正統思想は「開国和親」だった・・・25
 「反徳川」思想としての尊王攘夷・・・28
 外国恐怖症と開国和親の苦渋・・・31
 熊沢蕃山とキリスト教・・・33
 キリスト教と外国貿易・・・38
 蘭癖と大名たちの密貿易ネットワーク・・・41
 勝海舟は蘭癖発祥の洋学ネットワーク=開国勢力に育てられた・・・47
 外国人お雇い教師たちの共通項・・・50
 日本の悲劇はやはり、明治維新から始まった・・・54

第2章 明治の国家運営を担った旧幕臣の数学者たち(六城雅敦)

 「西洋神術(しんじゅつ)」としての江戸時代の数学・・・62
 「数」に目覚めて世界の広さを知る・・・63
 江戸時代は武士も庶民も計算に熱中した・・・65
 そろばん が普及したのは江戸時代中期以降・・・66
 割り算ができることが幕藩エリートの入り口だった・・・68
 武士に必要な素養は「六芸」、特に「数」であった・・・69
 秘密裏に匿われていた宣教師がもたらした「数学」・・・70
 隠れキリシタンの「算聖」関孝和と弟子の建部賢弘・・・71
 鎖国下でも続いていた西洋神術への信仰と信頼・・・77
 暦の発布は国家の実権を知らしめること・・・79
 数学を愛した大坂の豪商たち・・・82
 蘭学とは当時の「ヨーロッパ最先端の神学」である・・・84
 蕃書調所の教授はわずか9歳・・・85
 坂本龍馬は土佐藩主の命で軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)に派遣されていた・・・87
 公文書から龍馬の記述を抹消した土佐藩・・・90
 真実を語らずに世を去った大久保一翁と勝海舟・・・91
 近代学問を習得した幕臣たち・・・92
 適塾と蕃書調所で学んだ数学者・大村益次郎・・・93
 蕃書調所のその後・・・97
 榎本武揚が開陽丸で運び出したのは幕府の数学蔵書・・・99
 天才を生み出せない官僚機構への失望・・・100

第3章 蕃書調所の前身・蕃書和解御用(ばんしょ わげ ごよう)と初期蘭学者たち(田中進二郎)

 朝廷の権威に従っていた幕府の天文方・・・106
 初期蘭学者たちと隠れキリシタン大名・・・108
 フリーメイソンの儀式だった「オランダ正月」・・・111
 蕃書調所の前身・蕃書和解御用に集められた初期蘭学者たち・・・114
 高級スパイ・シーボルトと浮世絵師・葛飾北斎の知られざる関係・・・120
 蛮社の獄(ばんしゃのごく) で刑死した初期蘭学者・小関三英、渡辺崋山、高野長英・124
 蕃書和解御用の翻訳事業の歴史的な意義・・・130
 陽明学=中国化したキリスト教を私塾で教えた佐藤一斎、安積艮斎・・・132
 中江藤樹から佐藤一斎にいたる陽明学=キリスト教のネットワーク・・・135

第4章 幕末の科学研究所・蕃書調所で起きていた権力闘争(津谷侑太)

 幕末の幕臣たちは本当に無能だったのか・・・144
 昌平坂学問所ではどんな講義がなされていたのか・・・148
 幕臣の強権リーダー・川路聖謨(かわじとしあきら)の登場・・・153
 天才国家戦略家・古賀謹一郎・・・159
 福沢諭吉と科学の意外な関係・・・163
 薩英戦争と謀略機関と化した蕃書調所・・・165
 福沢諭吉を広告塔として売り出した桂川家サロン・・・170
 福沢の“意図的誤訳”とシーボルトの姦計・・・178

第5章 「二尺三寸(にしゃくさんずん)が武士の刀」―幕末の剣術道場(副島隆彦+古本肇)

 明治の元勲たちは江戸の剣術道場で何をしていたのか・・・190
 蕃書調所を中心とした情報ネットワーク・・・192
 西郷隆盛と新政府の微妙な乖離・・・197
 男谷信友(おたにのぶとも)こそが幕末剣術家の最重要人物・・・199
 あの新撰組も輩出した千葉周作道場・・・204
 渋沢栄一のビジネス感覚を磨いた玄武館・・・207
 「幕臣は愚かだった」は捏造された歴史館・・・210
 司馬遼太郎『竜馬がゆく』には種本(たねほん)が存在した・・・214
 武士はなぜ「二本差し」だったのか・・・218
 剣豪・宮本武蔵の真の姿を探る・・・225
 「手のうちを見せる」「しのぎを削る」の意味すること・・・232
 幕末の国際情勢が剣術道場の隆盛を呼んだ・・・236
 勝海舟の正体は薩長とつながった二重スパイ・・・242
 稲田朋美説「旧陸軍・百人斬りは不可能」を検証する・・・248

第6章 東京大学の原型「蕃書調所」をつくった勝海舟(吉田祐二)

 幕藩体制の墓堀人・・・256
 希薄だった幕府への忠誠心・・258
 献策を受け入れられた“生き方上手”の幕臣たち・・・262
 長崎伝習所での勝海舟・・・264
 世界覇権国イギリスの命令で果たした「江戸無血開城」・・・268
 幕府の軍事機密をスパイ同然に情報提供・・・272
 勝の本性を見抜いていた福澤諭吉の慧眼

第7章 大隈重信の旧幕府と新政府反主流派にまたがる人脈(古村治彦)

 「お金と人事」で権力を掌握した元勲・・・282
 長崎―大隈重信の基礎を築いた街・・・286
 大隈の資金力、その源泉を探る・・・294
 東京築地にあった大隈屋敷、通称「築地梁山泊(つきじりょうざんぱく)」・・・297
 近代化を推進した幕臣・小栗忠順(おぐりただまさ)との奇縁・・・298
 三菱・三井両財閥との深い繋がり・・・303
 梁山泊以来の盟友・五代友厚と日本の貨幣制度を作る・・・307
 大隈が活用したのは幕臣・小栗忠順の“大いなる遺産”・・・312
 大隈重信年表・・・311

執筆者略歴・・・316

(貼り付け終わり)

(了)

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