「1551」番 栗原康 (くりはらやすし)著 『現代暴力論』 という新刊書 がすばらしいので、私が書評して強く推薦します。 副島隆彦  2015年8月25日 

  • HOME
  • 「1551」番 栗原康 (くりはらやすし)著 『現代暴力論』 という新刊書 がすばらしいので、私が書評して強く推薦します。 副島隆彦  2015年8月25日 

副島隆彦です。 今日は、2015年8月25日(火)です。

昨日、日本の株価(東証の平均株価)が、895円 暴落しました。先週末(金曜日)の600円下落を引き続いたものだ。 NYの株価も落ち続けている。 昨夜、10時半に、「NYダウ 取引開始直後、1000ドル下げ」というニューズがあった。終り値は、400ドルぐらいの下げだろう。

この動きが今週、ずっと続くようだと、世界経済はいよいよ停滞し、大不況に突入する。この動きをなんとか阻止しようとして、現在、米・欧・日の先進国3地域で、深刻に連携、談合をやっているだろう。

計画的な “株価吊り上げ” を、このあとも、政府資金の投入でやって乗り切ろうとするだろう。株価の大暴落をを喰い止めようという必死の弥縫策(びほうさく)だが、この 統制経済(コントロールド・エコノミー)の弥縫策(びほうさく)、市場操作 に失敗するようだと、今の動きは、確実に「ドル覇権の崩壊」に繋(つな)がる。

副島隆彦です。今日は、私が、読んでびっくりした一冊の新刊本を紹介し、強く推薦します。その評論文を載せます。

その本は、 栗原康(くりはらやすし)著 『現代暴力論(げんだいぼうりょくろん)  「あばれる力」を取り戻す』 (角川新書 2015年8月刊)です。

私は、この本を読んだ驚きを すぐに 知人の編集者にメールで伝えました。以下に、私が書いた4日前(8月21日)にそのメールの文を載せます。この文は、この本に対する最大限の 評価、賞賛の 書評文(ブックレヴュー)でもあります。

(転載貼り付け始め)

**書店 編集部
****さまへ

2015年8月21日

副島隆彦から

私は、3日前(8月18日)に、品川駅の 新幹線乗り場の構内の 書店で、出たばかりの 『現代暴力論「あばれる力」 を取り戻す」(角川新書 、栗原康 著  2015年8月10日 刊)という本を 買いました。 そして、その日と一昨日で 読み終わりました。

私は、この 「暴力 を取りもせ」 「あばれてゆく力、暴力だ」(13ページの文) という本を書いた栗原康氏 を最大限に評価し共感し賞賛します。 私は、アナキストの大杉栄(おおすぎさかえ)の研究者で、大学の非常勤講師の36歳で、なよなよした 感じの若手学者 と これから 会って、いろいろ と真剣に話したいと思います。

私は、この 本に感動した、と書くだけでなく、「非常によく書けている」と、年長者(ねんちょうしゃ)の 知識人が若い後進(こうしん)の 知識人に対して 高い評価を与えるときに 使うコトバを 使いたいと思います。

ですから、まず**さんは、私が今からずっとこのまま書くこのメールを、 あなたと同じ****書店の編集部にいる同僚の編集者の****氏に、プリントアウトして届けてください。

私はこの日この本を手にして、このあと****社の****氏と会って自分の本の打ち合わせをしたのですが、買って、そのあとも電車の中で途中まで読んだばかりの この本のことを冒頭で、ずっと 彼に話したら、 「私は彼を知っています。 私たちの編集者たちの集まりで、栗原くんに賞をあげようと話したことがあります。**くんは、佐藤優(さとうまさる)さんの担当で、副島さんにも会ったことがあるんじゃないかな」 との ことでした。それで、あなたにこのメールを託します。

この本の はじめの方(12ページ)に、こう書かれている。
「でも、今の世の中では、この力(引用者注。=民衆の側の暴力)がなかなか行使できなくなってきている。 支配のための暴力とでもいえばいいのだろうか。 ひとにぎりの人間が暴力を独占し( 引用者注。=権力者たちによる暴力の独占)、それ以外の暴力をみとめようとしない。

はじめから(人間は)こう考えるべきだとか、こうふるまうべきだとか、そういうのがぜんぶ決められていて、さからえば犯罪者あつかいされて取り締まられる( 引用者注。 =もし暴力行為を行えば、すぐに逮捕されて刑罰を与えられる)。

それがあたりまえになってくると、いわれたとおりにしないことが、倫理的にわるいことであるかのようにおもわされ、自分からいうことをきくようになってしまう。暴力(の国家、権力者による)簒奪、(民衆の側の暴力の )自己放棄だ。

それは、生きるよろこびを失うことであり、とても息苦しいことだ。私たちは、、こういう暴力をしりぞけるために、いまいちど(引用者加筆。ふつうの人々、民衆が持つ)暴力の力 を 手にすることができるだろうか 」

と、栗原 君は、書いている。 私、副島隆彦は、この考えに同感です。「・・・手にすることができるだろう」で、とめないで、「か」と疑問文にしているあたりの躊躇い(ためら)
いと自己疑問の深さも、私はよく分かります。

同ページのその前の方に、 大杉栄の 「むだ花 」という評論文からの一節で、 「闘え。 闘いは生の花である。 みのり多き生の花である。 」 を引用している。


大杉栄(おおすぎさかえ)と伊藤野枝(いとうのえ)

36歳の若い政治学者である栗原康の 学問上の最大業績は、 すでに出版している 『大杉栄伝 ー 永遠のアナキズム 』 (夜光社、2013年刊)で、きっと展開し始めたであろう、 「 現代国家がやっていることは ・・・・ 対テロ戦争(引用者注。ウォー・アゲインスト・テロリズム) という名 の (引用者注。国家の側の)テロリズムである」という 大発見だ。 この 国家による 「テロリズム反対という名による 国家によるテロリズム」を 栗原康は、徹底的に暴き立て、その 悪辣(あくらつ)で 愚劣な 本性を 満天下に 証明し続けている。

これは、この国の 他の 若い 政治学者、社会学者、評論家には、できない仕事だ。

たとえば 古市憲寿(ふるいち・のりとし、1985年生、30歳)のように、『誰も(ボクたちに)戦争をおしえてくれなかった』(講談社刊、2013年)のように、軽やかな新しい世代のリベラル派の書き手とみせかけながら、 アウシュビッツや 広島やらをたくさん論じるくせに、 政治なるもの本当のおそろしい 悪 を 糾弾することをしない。 誰も敵に回さない。彼は、私たちの 中田安彦(アルル)君が、一瞬で鋭くその正体を見破ったとおり、 「 御用学者(ごようがくしゃ)ならぬ 御用大学院生(ごようだいがくいんせい) 」だ。

自民党の勉強会でも、テレビでも、それから 文部科学省の 審議会の委員でも ホイホイ引き受けるズルい、ワルい 若者だ。この古市くんと 栗原くん は、その生き方が全く違う。 古市憲寿 をホメた 上野千鶴子(うえのちずこ)も、加藤典洋(かとうてんよう)目が節穴だ。 自分たち自身が、すでに鈍感リベラルの おいぼれロートルなのだ。

古市憲寿とはちがって、栗原康を 自民党も官僚たちもメディア(テレビ、新聞)も 利用することはできない。 ここまで過激だと、権力側・体制側は、栗原康を自分たちのいいように手懐(てな)ずけ 飼育することはできない。

今のアメリカがすべての音頭を取っている 「テロとの戦争」、「テロリズムを撲滅するための世界的な共同行動 」という「 対テロ戦争」こそを、私たちは深く疑うべきだ。

アメリカは、自分たちがやった イラク侵略戦争(アメリカによるイラクへの侵略戦争 )を、「アメリカ・イラク戦争」と正しく表記することを世界に禁じた。イラク戦争(2003-2012年)を   War in Iraq (ウォー・イン・イラク) 、War against Terrorism (ウォー・アゲインスト・イラク) と 呼び続けて、世界中の新聞、テレビ(メディア)にもそのように書かせ続けた。

栗原康は、このことの欺瞞をしっかりと見抜いている。 「対テロ」と言う名の 国家(政府)によるテロリズム」が陰湿に、民衆=国民を 自分たちの下に押さえ付けて、国家のいうことをなんでも聞かせ続ける態勢と体制、を 彼は糾弾している。それをものすごく 自分の身体からにじみ出る柔らかい文体と正直な生き方で、表現している。

栗原康は、 西暦2000年ごろからの 世界体制である、「対テロリズム と言う名の 国家テロリズム」 の本性をしっかりと見抜いて、私たちに この本で明瞭に明確に提示した。 すばらしい本である。

国家なる支配秩序が、暴力を独占する(警察と軍隊は国家だけのものである)という 本質をはっきりと抉(えぐ)り出した。 そして、「国家が行う“テロリズム反対”というテロリズム 」を 日本で明確にしたことで、 栗原康は、この研究で高い評価を受けるだろう。

彼がすでに書いている 他の本である、『学生に賃金を』(新評社、2015年)も、『はたらかないで、たらふく食べたい ― 「生の負債」からの解放宣言』 ( タバブックス刊、・・・年) も 明らかに、今の 恵まれない、働きたいのに いい職がない若者たちの知的な部分に強く訴えかける。ブラック企業での 奴隷労働のような仕事しかない。このことへの怒りが今の日本に充満している。だからこれらの本は、 多くの真剣に生きる、何の特権も、コネもないかわいそうな若者たち の胸と脳にズシリと響くだろう。

今の日本で、 一番、かわいそうなのは、大学を出ても、介護の職( 障害者や老人のウンコの世話) 以外に ろくな職がない 知能の高い若者たちだ。 それにくらべて、昔から居るのだが、 親や一族のコネで、当然の特権階級として、公務員とか、特殊法人とか、大企業に ”裏口入学” している 生来、腐敗した若者たちだ。同じ若者でも、互いに 一生涯の敵だ。だが、社会の表面にはこの深刻な事実は、出てこない。

老人のばばあたちを甘やかして、「もっと生きたい、もっと生きたい 」「もっと生きさせろ、100歳まで生きさせろ」を扇動して、 国民ダマシをやっている自民党と、 それら 厚かましい高高齢(こうこうれい)者婆さんたちを相手に、『おのれの分際(ぶんざい)を知りなさい』のような 保守反動(ほしゅはんどう)の本を書いて、まだのさばっている曽野綾子(そのあやこ。 本名、町田智寿子=まちだちずこ=、1931年生。笹川良一の実娘)  たちこそは、日本国の 悪の根源だ。


栗原康氏の他の著書

高高齢(90歳以上)老人は、大半は、「もう死にたい、死にたいよー。あちこち体が痛いよう」と言っているのだから、さっさと 死なせるべきだ。

かわいそうなのはまともな職がない若者たちなのだ。

栗原康の掲げる主題(命題、テーゼ)は、P211に書かれている「 テロ対策の名のもとに、市民の監視でも 暴力の行使でも、警察はなんでもやりたいほうだいだ。これ、いまでは一般化しているように思われるが、テロ対策というのは、言ってしまえば国家による テロリズムなのである。あらゆる国家の根っこには、恐怖による統治がある」である。

本当に、今や、世界中の大都市で、警察による本当に物凄い数の監視カメラがすべての都市のいたるところに据え付けられている。この「カメラとコンピュータによる国民監視」の動きはロンドン市からはじまった。

私、副島隆彦が、書店でこの本を手に取って、ぱらぱらとめくって読み始めたのは、うしろの方の、217ページから223ページの バクーニンの 生き方 を描いた部分だ。 ここで、私は、大きくピンと 来た。


ミハイル・バクーニン(1814~1876年)

「 1840年 (引用者注。バクーニン26歳。ロシア人) 、ベルリンで、 ・・おもしろそうな そして あたらしい思想が みちあふれていた。・・・ドイツ をはなれて、スイス やフランスをまわり、いろいろなアナキストや共産主義者と親交をもつ。プルードンやマルクスにもあっている。・・・・バクーニンはロシアで欠席裁判にかけられ、シベリア追放の判決をうけた。 こりゃあ、逃げるしかない。

そうこうしているうちに、1848年。ヨーロッパ各地で民衆蜂起(みんしゅうほうき)がまきおこった。 いわゆる(全ヨーロッパでの)1848年革命である。 バクーニンは、1849年5月におこったドイツのドレスデン蜂起(ほうき)にくわわっている」

ここで副島隆彦による引用者注記。 このドレスデン蜂起に、偉大なるドイツ・オペラ(楽劇)の大成者のリヒャルト・ヴァーグナーも参加している。多くの 革新思想をもった知識人が参加した。 ヴァーグナーは、このあと命からがらスイスに逃げて、その後苦労を重ねて、ヨーロッパ全体で 音楽家、劇作者として成功してゆく。この頃、偉大なる哲学者の若いニーチェとの長い親交が始まる 。そして二人は決裂する(1876年)。

「(バクーニンは)我を忘れて、夢中になってプロイセン軍とたたかった。バリケードをはり、必死に応戦するも、あえなく敗北。数名の生存者とともに、逃げのびようとしていたところを 逮捕された。 バクーニンは、その地で死刑判決をうけるが、いちおうロシア人ということもあって、本国に移送されることになった」

「・・・しかし、(バクーニンが送られた)シベリアの流刑地(るけいち)は、獄中にいるというかんじではなく、けっこう自由にふるまうことができたらしくて、フランス語をおしえてポーランド人の商人の娘と結婚したりしている。なんかたのしそうだ。その後、1861年

( 引用者注。 ドレスデン蜂起から 12年後) 、バクーニンはシベリアを脱出。ウソにウソをかさねて( 引用者注。 バクーニンのような職業的革命家は、天性の楽天家であり、人をだますことの天才でもある。何があっても、天性、陽気で無責任であり、 どのようにでも 人の懐(ふところ)にはいってゆける。そして資金を出させる ) 、(シベリアの日本海に面した)ニコライエフスク港からアメリカ船にのり、日本を経由してアメリカにわたった。そこからロンドンにゆき、ふたたびヨーロッパにおもむいて、革命運動に奔走する」

引用者注。 このあと、共同行動を取っていたカール・マルクスたちと大喧嘩になって、やがて「第一インターナショナル」(国際労働者委員会)の組織は大分裂。それが、1863年から1868年までのことだ。

「このあと、フランスが、1870年9月に ナポレオン三世ひきいるフランスがプロイセンと戦争して完膚(かんぷ)なきまで敗北し、皇帝自身も捕虜になったことがきっかけである」

引用者注記。 1871年の普墺(ふおう)戦争(プロシアとフランスの戦争)に負けて、ヨーロッパ全体の皇帝を、ナポレオンの甥だと称して、ナポレオンから継いで勝手に名乗っていたフランス国王ルイ・ナポレオン=ナポレオン三世が敗北して失脚する。そして 戦勝国の プロイセン軍がパリに入城する。この講和会議 の最中に、パリの労働者が蜂起いわゆる パリ・コンミューン という 「百日天下」の 労働者政府をつくる。

それに敗北して、バクーニンも、誰も彼も、社会主義者たちも、銃殺刑になった指導者たち以外は、皆、パリから逃げた。 このあと、1872年に、第一インターナショナル(国際労働者協会)から、マルクスたちは、バクーニン派 を除名した。第一インターナショナルも やがて潰れてゆく。

このあとも バクーニンは、北イタリアのボローニャでの、1874年ボローニャ武装蜂起をしようとした。が、他の活動家たちが逃げて、誰も集まらず、ひとりで憔悴する。

(本書223ページ) 「・・・バクーニンは、ひとり武器庫を襲撃しようと思っていたのだが、だれもこない。しばらくして、計画中止のしらせをうけて絶望する。 マジかよ。自殺しようとおもったが、まわりにとめられて、とりあえず逃げることにする。・・・・歳をとった牧師のかっこうをして、タマゴの入ったカゴをかかえながら、ヨボヨボ歩きをして、街を脱出した。散々だ、かわいそうに。それからスイスにいき、1876年7月、ベルンの病院で亡くなった(引用者注。 バクーニン 62歳で死)。・・・」

私 は、この部分を立ち読みして、この本をただちに読む、と決めた。そして、このあと新幹線から乗り換えた電車の中で半分ぐらい読んだ。 おもしろい。 この なよなよした、36歳の 自覚的なアナキズムの研究者で、「大杉栄論」の本と、他に数冊、すでに書いている 若い知識人に、私、副島隆彦は、全面的に賛同する。 君たち、頑張りなさい。なんでもいいから、やりなさい。しかし十分に気をつけなさい。この世には悪魔たちがいることを急いで知ってほしい。

年長者のジジイ(私、副島隆彦も62歳になった)たちで、若い人たちの邪魔ばかりしたがるのがたくさんいる。そういう威張りたがり屋で、過去の怨念を背負った ジジイ活動家たちを、私、副島隆彦が制止します。彼らのいいようにはさせない。その上で きみたち、若い人の ハツラツとした、元気な運動をまわりから応援します。

しかし、君たちの運動も ずぐに腐(くさ)ってゆく。 あれこれ、なんやかや有って、 内部にヘンなのが潜り込んできて、内紛を起こさせ、さらに公安警察たちも潜り込んできて、それで運動を大きく変質させられ、自滅させられる。 私、副島隆彦は、こういうことばかり考えて生きてきた。そのことで、栗原くんと、今度、会って、いろいろ話をしたい。

栗原くんは36歳で、私は62歳で26歳の違いだ。 私の弟子たちも君と同じ世代で“親子の差”だ。 私は近年、シラガ(白髪)になって、腰と方が痛くなって目も眼精疲労できつい。 両手も痺(しび)れている。 もの書き業 (=言論商売人)の 仕事の し過ぎだ。前述した通り、暴力主義的な破壊活動家で、国家・体制の否定主義者の アナキスト思想家のバクーニンが62歳で死んでいる。ヨーロッパ革命の同志だったのに やがて宿敵となったカール・マルクス(1818-1883年)は64歳で死んでいる。

マルクスは、「暴力闘争だけ、ではどうにもならない。労働者の世界的な団結と、戦争反対、労働者に祖国はないという活動を重視すべきだ 」と 考えた。このマルクスたちとバクーニンは考えが合わなくなって分裂した。

私は、自分が若いころに読んで勉強した、マルクスと同時代人で、革命家(そんな職業がヨーロッパにはあったのだ)のプルードン、バクーニン、クロポトキン、ブランキーたち のことがずっと気になっていた。


プルードン

社会主義や 左翼の思想運動は、全部 敗北してこの地上から消滅したのだと、右翼たちは考えたいのだろう。日本の反共右翼たちおよび体制派はそのように思っている。 そういうわけにゆくかよ、だ。

私、副島隆彦は、栗原くんのような、しっかりした、そしてきちんとした文章を書いて、分かりやすく、多くの人々を説得できる若い知識人 が出現していることを 本当に嬉しく思う。

栗原くんは、 きっと貧乏私立大学のビンボー非常勤講師だから、たいした収入はない。この本のどこかに年収100万円だと書いてあった。私、副島隆彦も29歳の時に、年収40万円から評論業を始めた。彼は、埼玉の実家で両親と暮らしていて、いつまでも、自立しないで、だらだらと家にいるようだ。女と同棲生活をすることもしていないようだ。それは分からないが、このように見える。

この本の 第一章は、「国家の暴力」 「我々は奴隷精神を植えつけられた」 である。 冒頭から、「国家は、収奪(しゅうだつ)とカツアゲ (=恐喝)をする」 である。 私も、全く同じ考えだ。 これが、カール・マルクスの思想でもある。 佐藤優氏も、いつもはっきりと この考えを書く。

国家は、「有無をいわさずに、税金をむしりとる。まちがいない、それが国家だ」(28ページ)

「東京にでて、街をぶらぶらしていると、警官に声をかけられる。「ちょっとカバンのなかをみせてください」。職務質問だ。 ・・・ブタのようにうんと腹のでた警官二人組にとめられた。・・・・巨大なブタ二匹がとうせんぼしている。・・・・わたしはカツアゲにあったことがなかった・・・ブルブルふるえがとまらない。どうしよう。わたしは、「これって、任意ですよね」と聞いてみたが、警官は、「はい」というだけでピクリともしない。

・・・警官は・・・バシッと 肩をぶつけてきた。私はぶっとばされて、ふらふらしてしまったが、警官が、・・・「あなたは なにか やましいこと でもあるんですか」。 道ゆく人たちが私をみる。恥ずかしい。これじゃまるで犯罪者じゃないか。・・・・警官というか、国家というか、いったいなんなんだろう。 ひとに恐怖と恥辱(ちじょく)をあたえ、むりやりいうことをきかせようとする。 収奪とカツアゲだ。 ・・・・肥えたブタはかならず食われる」

30ページ 「 (大杉栄は) どんな支配にも、どんな統治にも反対する。ガバメントなんていらない。アナキズムが「無政府主義」と訳されるのはそういうわけだ。・・・大杉は、最終的には、国家に血祭りにあげられてしまうわけだが・・・・」

この大杉栄の血祭りのことは後述する。

アナ(―)キズム anarchism の アナーキー anarch  , anarchic というのは、 「無秩序」のことで、ギリシャ語およびラテン語(ローマ語)の アン・アルケー an – arche が語源(ごげん、etymology エチモロジー)である。 きちんとした型 正しい秩序(と ローマ教会とかが決めたもの)に 嵌(はま)らないこと、入らないこと。ある場合は、その正しい秩序 に 激しく逆らって、破壊してしまおう、という 態度のことだ。

これを、権力者や支配者の側が、力、すなわち国家の暴力で 取り締まり、弾圧(クラックダウン)しようとする。 だから、アナーキズム、アナーキスト には、 始めから「破壊活動主義者」、「体制への暴力的な反抗者」 の 意味が、ヨーロッパで、この200年の間に作られた。

日本では、大杉栄、と その先輩の 幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、導入、輸入して体現した。 ふたりは、水平社(すいへいしゃ)の先輩・後輩で、「当時 (1905年) 、幸徳が30代後半だったのにたいして、大杉は、14歳年下で、まだ20代前半だった」 (本書、p56)


幸徳秋水

「幸徳さん、なにをいっているんですか、暴力はいけないでしょう。ここはやはり議会をつうじて社会政策をひきだし、ちょっとずつ労働者の境遇を改善していきましょうよと。 そういう人たちは、 議会政策派 とよばれていた。 これにたいして、幸徳のまわりには、直接行動 ときいて、よしとおもった若いゴロツキが集まって来る。 その筆頭というか、あばれん坊だったのが大杉だ」(p55)

1908年6月18日、 赤旗事件。  ・・・これは、刑期を終えて出獄してきた同志を、上野まで 迎えにいって、30人ぐらいで (P56)「 ・・・テンションがあがって、 赤旗をかかげて、わいわいいいながら街をねりあるき、デモみたいになった。・・・赤旗をふってさわいでいた荒畑寒村(あらはたかんそん) が警察につかまり、交番にもっていかれた。すかさず大杉は 若い衆をつれて 交番になぐりこんだ。荒畑を奪還し、意気揚々とひきかえす。 これで警察がほんきでキレてしまう・・・・・」


荒畑寒村

「 4日後、・・出獄記念集会が、・・・ 14名がつかまってしまった。 警察署では、とりしらべの名のもとに、ひどい暴行がくわえられ、大杉などは、素っ裸にされたあげく、革靴でわきばらをなんどもけられ、髪をつかまれてコンクリートの壁になんどもアタマをぶつけられたそうだ。 社会主義者はひとではない、なにをしたっていいんだといわんばかりだ。・・・

大杉は一番おもたい2年半の禁錮刑をくらった。 赤旗をもって、外を2,3歩あるいただけである。 ・・・・弾圧はいっきに大逆事件(たいぎゃくじけん、1910年 )までエスカレートしてゆくことになる」(p56)

「 大杉たち 東京にいた・・・メンバーが のきなみ つかまってしまった。 外にいたのは、病気療養のために地元高知県( 引用者注。高知県の西の 四万十川のそばの 中村市。 ここに、私、副島隆彦は 15年ぐらい前に行った時、地元の市会議員の立派な人が、「地元出身 の 幸徳を、国体に逆らった人間だから、と 今でも、銅像が立てられない 」 と 言っていた。)に帰っていた幸徳秋水だけである。 サカイ(引用者注記。堺利彦=さかいとしひこ=。 のちに1922年の 日本共産党の創立ンバーの筆頭 となる人 )ヤラレタ、スグカエレ。・・・・」(p57)


堺利彦

「 東京に入った幸徳は、(1910年 )8月15日、赤旗事件の鋼板の傍聴にいった。 幸徳がはいった瞬間、場内がどよめき、すさまじい歓声があがったという。 これで気分が高揚した大杉は、証拠品であった赤旗を 本物かどうかたしかめさせてくれといって手にとり、うりゃあ といって、おもいきりひろげたそうだ。 幸徳のほうをむいて、ニッコリと笑ってみせる。 バカだけど、ちょっとほほえましいはなし(話)だ」(p58)

「 ・・・・ 1910年(明治43年) 「6月1日には、湯河原にいた幸徳がつかまった。 ・・・・合計26名が大逆罪(=国家反逆罪)で起訴された。 ・・・・1911年1月18日、24名に死刑判決がでて、・・・・(翌年の1912年) 1月24日、幸徳は処刑される。享年40歳。ただ、社会主義者であるというだけで、ひとの首がつるされた。とりわけアナキストは・・・・」 (p61)

引用者注記。 そして、 その11年後の、関東大震災(1923年9月1日。死者14・3万人。全焼家屋58万戸) の 直後の、9月16日に、大杉栄 と伊藤野枝(いとうのえ) とその甥っ子は、憲兵大尉 の甘粕正彦(あまかすまさひこ)たちに、憲兵隊本部に連行され、首を絞められ殺されたあと死体を井戸に投げ込まれた。


甘粕正彦

甘粕正彦は、このあと、満洲国政府の高官待遇で、日本の国策会社の満州映画社の総支配人となった。そして、映画「支那(シナ)の夜」などの名作( 主演、山口淑子=やまぐちよしこ=李香蘭=りこうらん)をプロデユースする。「支那の夜」が出来た背景には、日本人との合いの子で上海で2重スパイのようになったテンピンルーという 悲劇の女性の 話だ。この話は数年前に、ここの今日のぼやきの 「982」番に 私が詳しく書いた。

甘粕正彦は、 終戦(敗戦)の日8月15日に、長春(当時は、日本支配下の満州国の首都の新京=しんきょう=)の満州映画社でピストル自殺した。その部屋を遠くに望む 長春の満州映画社の 正門のゲートまで、私は5年ぐらい前に尋ねた。

殺される前の 1916年11月に、大杉栄は、「 葉山(はやま)日陰茶屋(ひかげちゃや)事件 」というのを起こしている。 (P170)「大胆な自由恋愛(フリーラブ)をかかげて、3人の女性と同時につきあった。でも、結果はさんざん。大杉は 痴情のもつれから喉元を刺され、瀕死の重傷をおってしまう。 ( 引用者注。当事者は、堀保子(ほりやすこ)、神近市子(かみちかいちこ、東京日日新聞の記者)たちである。皆、裁判にかけられた。) その後、3人のなかのひとりであった 伊藤野枝(いとうのえ)と同棲して・・・」 子供も生んでいる。

伊藤野枝は、『青鞜(ブルーストッキング)』誌の 主宰者の 平塚雷蝶(ひらつからいちょう)から文才を認められて、跡を託されて編集長を引き継いだ。自分でも文を書いた。 従来のおしきせの結婚と、女性の忍従への「 習俗打破! 、習俗打破! 」である。

この 自由恋愛の 男女の 痴情の縺(もつ)れの事件が新聞で大きく騒がれて、これも、日本の権力者、支配者層の重低音の怒りをかっただろう。 彼らは、皆、自分は 半ば、堂々と 妾(めかけ)を囲っていた。 それを、一般大衆に、西洋の新式の 自由恋愛の思想でやられたら、「道徳、社会風俗が乱れる」と、生来の 支配者、管理者の思考で怒った。彼ら偽善者たちである支配者たちの怒りは アナキストの大杉栄に対して頂点に達する。 それで、甘粕正彦憲兵大尉に現れた「国体(こくたいごじ)護持」の思想で、大杉と伊藤野枝は、その7年後の関東大震災のさなかに、「暴動を起こそうとしている朝鮮人を殺せ」(多くの朝鮮人が殺された。すべて虚偽の扇動によるものだった)の殺気だった雰囲気の中で、憲兵隊に捕まり絞殺された。

(p198) 伊藤野枝は、「・・・どんなに男にぶんなぐられても、どんなにマスコミにたたかれても、みずからの力を手ばなすことをしなかった。大杉との 奔放な生活がはじまっても、自分が家庭に囲い込まれてしまうことに(彼女は)敏感でありつづけている。伊藤、すごすぎだ。でも、これってなかなかできることではない。・・・・なんどでも 家庭をたたきこわそうとしてみるのかもしれないが、・・・・」

伊藤野枝は書いてる。「 自由恋愛が 罪悪のように思われるのは、従来の結婚の手続きが他人すなわち媒介人や双方の両親・・・・彼らが(言うところの)真の恋愛が邪魔をする場合が多いからでございます。ゆえに世間の多数者は、その不都合な結婚の形式を破ることをせずに自分たちの利害関係から・・・ 自由恋愛を 罪悪視したのです」  (伊藤野枝 「矛盾恋愛論」 全集第二巻) (p181)

栗原くんに、急いで、副島隆彦から 教えておきます。 君の本の P212 の 「 デモのあと、知らない人も含めて大勢で飲みに行ったときに、・・・・(見知らぬ)中高年の活動家にからまれて、「アナキズムをやっているということは、君はテロリストなんですね」 とか、意味の分からないことを言われた・・・・私はへらへらと笑ってなにもこたえようとしないのだが、・・・・・「ほら、やっぱりきみはテロリストなんですね」とからかわれたりする。 」

の 場面に出てくる この 中高年の 活動家を装っている見知らぬ男は、公安警察官(=政治警察) です。 栗原くん。私は、こういうことを 急いで、君と真剣に話したい。これはこれからの政治思想の研究と日本の政治運動の実践の場面における極めて重要な焦眉の課題だからです。

最後に、私が この栗原康著『現代暴力論』(角川新書、出たばっかり)の書評(ブック・レヴュー)として 書いておきたいことは、

P54にある 「・・・おおきくうごきはじめたのが、日露戦争前後。1903年、もともと『万朝報(よろずちょうほう)』の記者であった幸徳と堺利彦(さかいとしひこ) が社を辞職し、新たに平民社(へいみんしゃ。引用者注。今の JR王子の駅のそば )を結成した。 (『万朝報』が) 世間の圧力にまけて、主戦派(引用者注。=戦争支持)にまわってしまったからだ。幸徳と堺は、週刊『平民新聞』を 発刊し、戦争に反対するとともに、社会主義の宣伝を始めた。ここに続々とあたらしい人材があつまりはじめ、当時、まだ、10代だった大杉も、このころからいっしょに動きはじめている」

の部分です。
私、副島隆彦は、この万朝報(よろずちょうほう)の創立者で社主、主筆(編集長)だった 蔑称” まむしの周六(しゅうろく)” 、黒岩涙香(くろいわ・るいこう) の ような人間になりたいと、ずっと考えてきて、私の弟子たちにこのように言ってきた。


黒岩涙香

私は、黒岩涙香のような生き方をしたい、とずっと 思ってきた。彼は、フランスの文豪のデュマの 『岩窟王』(原題「モンテ・クリスト伯」) や ビクトール・ユゴーの 『嗚呼(ああ)、無情』 を訳して出版して評判をとってたくさん売れて資金を作った。 彼は、自由民権運動の生き残りの言論人である。笈(きゅう)を背負って、一管の筆(いっかんのふで)の力(おのれの文章力、知能、博識)だけで、世を渡った人のひとりだ。黒岩涙香は、権力者たちからは、人の私生活を暴く ”羽織(はおり)ゴロ” と 呼ばれた。  黒岩涙香の何がすごかったかと言って。

自分が発行する新聞『万朝報』(当時、新聞は裏表で、たったの一枚。皆、隅々まで読んだ)で、華族さまや、財閥や、権力者(高官)たちの 私生活を暴いたからだ。

毎週、毎週、8人の富裕層、権力者たちの弱点を暴いて載せて、「なになに男爵、 入谷(いりや)三軒下、入る に 蓄妾(ちくしょう。 妾を囲っている )しおり。 女児五歳 」と、このように、懲りることなく毎週毎週、載せた。その欄だけを特別に赤字( 赤刷り)にして載せた。ここから「赤(アカ)新聞」という言葉が生まれた。 これで爆発的に売れた。一時期は売れに売れた。この欄「肖像画報」では、華族さまたちだけでなく、森鴎外や永井荷風も私生活を書かれている。

この萬朝報(よろずちょうほう)の赤刷り欄は、今は、黒岩涙香著『蓄妾の実例』( 社会思想社の文庫、1992年刊)で読むことができる。

だから、私は、黒岩涙香 ”まむしの周六”を 出版業者、新聞報道人、言論人として 深く尊敬している。 人々と時代が欲するもの、需要するものを、世に出す。これこそは、言論商売人の 鑑(かかみ)、お手本だ。 言論や 学問や 知識売り が商売にならないようでは、一体、何のために存在するのか。支配側や権力者の手先になるために、言論人、知識人、ジャーナリストをやっているのか。違う。断じて違う。

だから、この万朝報社で、のちの 幸徳や大杉や、堺利彦、荒畑寒村(あらはたかんそん)たちがいっぱしの言論人、社会活動家たちが育った。彼らを育てたのは、黒岩涙香だ。  黒岩涙香の この エロでも、スキャンダルものでもやって 出版業、新聞業で生きてゆく、という精神がすばらしい。

きっと 日露戦争(1904-5年)をめぐって、社長の 黒岩涙香と 従業員の 幸徳秋水 たちは大喧嘩になった。怒鳴り合いのケンカをしただろう。 「それなら、出てゆけ」 「ああ、出てゆくよ」 という ことで、それで水平社を、支援者のパトロンたちからの資金で、印刷機を買って始めた。日露戦争に反対した 彼ら水平社のことは、日本の小学校の社会科の教科書にも載っている。しかし万朝報のことはどこにも載っていない。おそらく高校の歴史教科書の副読本に名前が載っているぐらいだろう。

そう言えば、私は荒畑寒村の顔を見ている。1975年だったか。私が、早稲田大学の学生だった頃、たまたま荒畑寒村が、どこかの学生サークルの主催で( 大学当局が呼ぶはずがない)、大隈講堂で講演していた。 このジイさんが、ぶるぶる全身、身を震わせながら、激しい口調で、「なんで、学生同士で、内ゲバとか称して、殺し合いをスルのか」と 怒鳴っていた。

あのころの早稲田大学は、日本の内ゲバの 総本山というか、たくさんの 極左学生活動家が、殺し合いをして死んだ。全国の大学が、散発的にこういう犯罪事件の舞台になった。私は、かなり それらの近いところにいたので、いろいろなことを目撃している。私はまだ20歳で、生き延びた。私自身は、殺し合いには参加していない。 だから犯罪者ではないし犯罪歴はない。  あの 心底、殺伐とした時代(19070年代前半)を、冷酷に見切りながら、自分が生き延びることを考えた。

最後に書く。私が、この栗原康の『現代暴力論』(帯は、「気分はもう、焼き討ち 」となっている)を読んで、一番、衝撃を受けたのは、以下の箇所だ。 ここだけは、本気で、私は、スゲーと思った。 あとは、知識と教養だから、私の方が、彼よりも知っていることが多い。長生きしてる分だけ本を読んでいる。

166ページ  「 此の前、気になっている女子に声をかけて、お酒にさそってみた。結果は惨敗で、・・・・そのとき( 相手の女子から) ほんきで説教というか、罵声(ばせい)を(私は)あびせかけられた・・・・『 おまえが私を好きだということは、私の自尊心を傷つけるということがなぜわからないんだ! くそ、きもちわるいんだよ、おまえの存在が。(私の)視界に入るな、消えていなくなれ、死ね、死ね』  あれ、わたしはまたなにか やましいこと でもやらかして しまったんだろうか?

さいしょは、もしかしたらいいかげんな気持ちでさそったと誤解されて、それで怒鳴られているのかとおもい、・・・・相手の怒りはおさまらない。 その後もくりかえし くりかえし罵声をあびせかけられた。 やばい、これは よっぽどだとおもい、よくよく聴いてみてわかったのだが、責め立てられているのは、私の存在自体だということであった」

副島隆彦です。この箇所が、鋭く今の時代を表している。 なぜ、この女子 (私の世代は、「この女性」としか書けない ) が、怒ったのか。私は、このあとの 栗原くんの解説で満足だ。

「・・・カネ(引用者注。堅実な定収入のこと だろう )がないのにそれでいいんだといって、イケシャアシャアと(私が)楽しそうに生きていることが(この女子には)ゆるせないのだ。 ・・・・恋愛というのは仕事とおなじで、生きのびるためにするものだ。恋愛は仕事の原型みたいなもので、将来の安定した経済生活をいとなむためにするものである。・・・・そんなときに、よりによって、わたしのようなクズというか、かせごうともしない人間から、好きだと言われたわけである。 おそらく そういうふうにクズから口説けると(自分が)おもわれてしまったこと自体が、かの女にとっての屈辱だったのだろう。 そりゃあ自尊心も損ねてしまう 」

私、副島隆彦のようなジジイがびっくりしたのは、 この女子が、完全に 男女の性別(ジェンダー gender ) を踏み越えて、「くそ、きもちがわるいんだよ、おまえの存在が」 と 言っている、この コトバ遣(づか)いに びっくりした。 これが、2010年代の日本なんだ、と分かった。

それから、この本の巻末の 「おわりに」 で、栗原康は、2007年に、ドイツのハイリゲンダム・サミット(G8)の反対運動を、見学しに、ドイツまで行ったときの体験記を書いている。 ここで、全ヨーロッパから集まった ブラックブロック black bloc という 黒いパーカーを着ている アナキストの2万人もの若者たちに合流している。 警官隊に石を投げ、ぶつかる場面とかの、このときの体験を、さらさらと書いている。

私は、石川啄木(いちかわたくぼく)の 『時代閉塞(じだいへいそく)の現状』が、幸徳秋水たちが大逆事件で、首を吊られたことへの 悲憤慷慨で書かれたことを思い出した。 世の中の現状の、自分たちへのあまりもの苛酷さに、絶望した若者たちの 真剣な 問いかけが、どんなに苦しいものであっても、それが時代を切り開いてゆく。

ここまでで、おしまいにします。

私は、このメールを 書いている途中で、決めたのだが、私のこの文をこのあと少し書き直して、「学問道場の 今日のぼやき」に載せます。 そうすれば、数十部は、栗原くんのこの本が 売れるでしょう。 また打ち合わせしましょう。

副島隆彦拝

このページを印刷する