「1548」 好評連載企画:「思想対立が起こした福島原発事故」 相田英男(あいだひでお) 第3章 福島事故のトリガーがひかれた日(2) 2015年8月13日
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副島隆彦の学問道場中田安彦です。今日は2015年8月13日です。
会員の相田英男(あいだひでお)氏の大作論文、「思想対立が起こした福島原発事故」の第3章の「その2」です。日本の原子力産業の黎明期(れいめいき)の出来事を丹念に追った労作です。私も全部は理解できたわけではありませんが、非常に重要な報告だと思います。もうすでに半世紀以上も前、60年前の話を扱っていますが、日本の原子力を語る上で重要なキーマンの名前が多数出てきます。
前回「1547」からの続きです。
(貼り付け開始)
3.3 発足当初の日本原子力研究所
第2章で触れたように原研の発足は、1955年11月に財団法人原子力研究所として組織されたことに始まる。 翌56年に特殊法人日本原子力研究所として改組されるが、現在では原子力研究所の名前ではなく日本原子力開発機構と改称されている。原研から原子力開発機構に至る経緯は、これからおいおい述べてゆく。
財団法人時代の研究所の理事長は経団連会長の石川一郎であったが、翌年の特殊法人発足時には安川電機会長の安川第五郎(やすかわだいごろう)に理事長は交代した。この時に副理事長に就任した人物が、元工業技術院長の駒形作次である。いうまでもなく駒形は、武谷、坂田を「極左」と名指しで非難したあの秘密文書の作成者の一人である。安川も駒形も原子力には縁もゆかりも無い人物であったが、理事の一人に、米国ローレンス研究所から呼び戻した嵯峨根遼吉を迎えることで、一応の技術的な体裁を原研は整えていた。
「原研」が財団法人から特殊法人に組織変えされるまでの数か月の間には、紆余曲折の議論があったらしい。この時期の状況については、朝日新聞取材班による「それでも日本人は原発を選んだ-東海村と原子力ムラの半世紀、朝日新聞出版、2014年」(以下は「原子力ムラの半世紀」と略す)に詳しい。以下に原研設立時の経緯についての記載を引用する。
―引用開始―
初の原子力予算が成立した一九五四年以降、超党派の国会議員による原子力合同委員会では、英国を参考に原研を「公社」とする主張が主流だった。だが、大蔵省(当時)は予算措置上の理由で「国立」論を唱えていた。
原子力委員会(委員長=正力松太郎国務相)は一九五六年一月二十日、国立では給与法や定員法に縛られ能率が上がらないとして、「公社」案をいったん内定する。そこへ、経済団体連合会が「国営では弾力性のある運営ができない」として、財界が影響力を持てる「特殊法人」案を提案した。経団連会長は、原子力委員でもある石川一郎だった。
原子力委員長の正力は二月七日に一万田尚登(いちまだひさと)蔵相と会談。民間出資は認めても株主の発言権を持たせず、役員も政府が任命する、という妥協案で説得し、一万田に特殊法人案をのませた。
―引用終り―
相田です。原研の体制については国会議員側は「公社」を主張する一方で、「国立」を主張する大蔵省が待ったをかけたという。国立研究所とすることで職員給与を一般公務員レベルに留めることを、大蔵省は主張した。原子力委員会の正力は「公社」案を一旦は決定するが、経団連から「特殊法人」案が持ち出され、最終的にこの路線でまとまることとなった。要するに、通常の公務員よりも給与を上乗せすることで、原研に優秀な人材が集まることを期待したらしい。
その原研職員の給与はどの程度であったかというと、具体的には、事務系職員では通常の公務員給与の120%、技術系職員では130%と定められていたという。それも、島村武久の国会での説明によると、「通産省、工業技術院、東大などのトップクラスの給与の120%を原研給与の基礎として準則を制定した。つまり、公務員全般に比べて20%増しじゃなくて、トップクラス、しかも中央官庁であり、また技術者、その他、先ほど毛お話がありました学卒者の多いそういうところに比べて120%にきめた」ということらしい。その結果として、「もろもろの(政府の)機関の中で、原研よりいわゆるベースの高いものは、金融機関関係、大蔵省所管、そういうところを除けば、原研はそれに次いで、いわゆる第二グループのトップをいくくらい」のレベルであったという。
これだけの給与をもらっていたにも関わらず、原研ではどうしてストライキが頻発したのだろうか?という素朴な疑問が誰しも湧く。ここが問題の核心の一つであるのだが、最初に高額な給与レベルを設定したものの、大蔵省からの原研への予算が徐々に減らされ、人件費の総枠が当初の約束に達しなくなったことが、労働争議の理由であった。要するに原研の研究員達は皆、通常の公務員以上の給与はもらっていたのであるが、約束よりもまだ足りないではないか、ということが、組合員には不満であったのである。体制側が安易に高給で研究者を釣ろうとしたことが、組合側にゴネる理由を与えてしまったのである。単純に述べれば、であるが。
「なんだかなぁ」と呆れてしまうのは私だけであろうか?
原子力研究所の設置場所も大きな騒動となった55年の末から56年初頭にかけて、原子力研究所の誘致運動が盛り上がった。その詳細は前述の「原子力ムラの半世紀」に詳しいが、有力な候補地として横須賀市の米軍駐留地の武山と、群馬県高崎市が挙げられ、前者は社会党の志村茂治、後者は自民党の中曽根康弘の地元であることから、政治活動の色合いも加えた誘致合戦が繰り広げられたという。
66年2月に発足したばかりの原子力委員会は、横須賀市武山を第一候補として選定したことを発表する。研究者の間からも東京に近い武山を歓迎する声が上がっていたが、政府内では武山の候補地を自衛隊が使用するべき等の異論が出されて、議論は迷走する。4月初めの閣議で政府は、原子力委員会が決定した武山の候補地を覆すことを決定し、この段階になって第3の候補地として挙げられた茨城県水戸の郊外が注目されるようになる。土地選定委員長を務めていた駒形作次からは、「水戸郊外にという場合、原研の計画は半年遅れ、研究も不便になる」との不便さが強調されたものの、原子力委員長の正力松太郎が水戸への設置を容認する姿勢を見せたことで流れは変わる。4月6日の原子力委員会で水戸北部の東海村への原研設置が正式に決定された。
茨城県は誘致活動を全く行わなかったにもかかわらず、原研の設置が決まってしまう。成り行きで漁夫の利を得た形になった東海村であったが、正力は当初から東海村への設置を想定して、水面下で活動を行っていたらしい。日本初の発電用原子炉の導入を目論んでいた正力は、発電設備とその技術支援組織としての原研を併せて建設できる広さの場所は、当時は寂しい寒村であった東海村しかないと判断していたようある。
原研の発足時においては、通常の公務員よりも割増しの給与を掲げたにも係らず、研究員の採用はスムーズにはいかなかった。「原子力ムラの半世紀」から一部を引用する。
―引用開始―
日本で初めての原子力研究機関の要員は注目を集め、一九五六年度前期は採用予定四十六人に対して三百人以上の応募者があった。ところが、二月七日の理事会で、財界出身で理事の久布白兼致(くぶしろかねよし)が、「優秀な人材なので書類選考で採用した」と、二十七人をすでに確定したことを報告する。
「公開・民主・自主」の原則に基づく公正な選考を求めていた学会からは、批判が巻き起こった。日本学術会議の茅誠司会長は採用確定の無効を求め、朝永振一郎は原研に抗議の意を表した。批判を受けた原研側は二月末、二十七人のうち主任研究員などの十七人だけを正式採用とし、他は一般の応募者と同じように選考することを決めた。
―引用終り―
相田です。第2章で触れたように財団法人原子力研究所の目的は、「まずはアメリカから原子力実験装置を買うための組織を作らなくてはならない」という、刹那(せつな)的な理由であった。地道な研究に取り組むことは最初から二の次であった。そのような状況にあって伏見康治は、原研を形だけの研究組織ではなく、優秀な原子核物理学者を揃えることが出来るように、学術会議の原子核特別委員会で訴えたものの、会議が物別れに終わってしまったことは前に触れた通りである。当時の素粒子論グループを始めとする学術会議の学者達は、原子力研究所に対して極めて冷淡であった。坂田昌一は発足当初のこの研究所について、「ただ「原子炉のある研究所」であって、原子力発電の研究を行うところとはならないであろう」と述べたという(西谷正「坂田昌一の生涯」鳥影社、2011年より)。
設立当時の原子力研究所の様子について、初期の採用メンバーの一人である古橋晃(ふるはしあきら)氏が「原研創立の頃」という文章をネットで公開されており、一部を以下に引用する。
―引用開始―
この原子力研究所と、その後身としての日本原子力研究所の少なくとも初期は、「原研(げんけん)」という名で呼ばれておらず、自ら名乗ったわけではないが、「力研(りょくけん)」と呼ばれることが多かった。これは当時既存機関として東京大学原子核研究所があり、それが「核研(かくけん)」として著名であった為、 同じ原子の名を有する後発の研究所が「原研」という名を唱えるのはおこがましく、分かりづらくもあった故である。また原子力研究の開始に批判的であった日本学術会議が、「核研」こそ原子の本家であり、原子力研究所は、それと併存のレベルとしてなら認めるという感じで「力研」という名を敢て頻発していたこと にもよると思われる。
所でその力研であるが、その設立の前から当時では止むを得なかったとはいえ、時の有力者が自然にメンバーになって行き、 その人達の出身組織からの引きや、めぼしい研究者の1本釣りなどによって、設立後も増員して行く情勢にあった。これが学術会議等から縁故採用であるとして攻撃された。1956年になってから漸く公募試験を行うことになり、私も受験が叶った。
私は1月21日に書類と写真を提出したが、なかなか連絡が来ずやきもきした。3月28日に急に4月2日に入所試験をする との通知があった。(中略)私は幸い試験に通り、5月17日に採用通知を受け、6月1日付で財団法人原子力研究所に入所した。何人受け何人通ったのかは私には分からなかったが、同日入所した研究者は約20人であった。この人達とは以後長いつき合いをするわけであるが、受験日には互に未知であった。(中略)同日入所した私達は、我々が正規の所員であり、それ以前に入っていた人は、学術会議のいう所謂縁故採用者ではないかと虚勢を張ったものである。もっとも新卒者を直接公募採用した1957年4月入所者こそ真の一期生であると、その人達には今でも誇られているが。
―引用終り―
相田です。古橋氏によると、設立当初の原子力研究所は研究者達の間では、原研(げんけん)でなく力研(りょくけん)と略称されていた。これは同時期に学術会議の提言で東大に設立された、原子核研究所と区別する意味合いがあった。原子核研究所は核研(かくけん)と略称されていた。当時の科学者達の中には、学術会議の政府への提案により設立にこぎつけた核研の方が、学者達の「正当な」研究所であり、原子力研究所の方は政府と財界がでっち上げた体裁だけのものであると、見下すような風潮があった。核研を差し置いて「原研」と呼ぶことに、研究者達の間で抵抗があったということらしい。
学術会議側から「縁故採用」との批判が浴びされたものの、アメリカからの実験装置の購入が既に決められていた「力研」では、即戦力となる技術者が必須であり、「三原則」に則った厳密な採用ルールに従って人を探す余裕が無かったことも事実なのだろう。先の古橋氏の引用では、56年6月の特殊法人発足時に入所したメンバーは自らを、縁故ではない最初の正式採用であると思っていたそうである。しかし一般には、翌57年4月に新卒者を直接公募して採用した57名が、正式な第一期生とみなされているらしい。
この57年に採用された「原研第一期生」は、西村肇(にしむらはじめ)先生と同年であるが、西村先生によると同期の東大工学部の中の、最優秀の5人が入所したという。その一人に、後に原子力安全委員長として高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故や、JCO臨界事故の対応に当たった佐藤一男(さとうかずお)氏がいる。第2章の初めに学術会議成立に関する文章を引用した、大阪大学出身の物理学者の中井浩二氏も、「第一期生」のメンバーである。中井も初期の原研の様子について「モラルとモラール - 科学技術と「こころ」、(2005年)」というエッセイの中で書かれている。以下に中井氏の文章を引用する。
―引用始め―
原子力研究の始まりには、いろいろないきさつがあり、いろいろなつまずきがあったが、それを乗り越えて発足した。一九五六年に、それまでは財団法人であった日本原子力研究所が、特殊法人という形をとって国家的規模で本格的に発足した。次の年に大学を卒業した私は、原子力研究の将来に大きな夢を抱いて原子力研究所に入った。一緒に入った五十名近くの同僚は、皆希望に満ちていた。
しかし、私達の希望に満ちた気持ちは、大学にいる先輩や旧友の複雑な視線にあって、とまどうことが多かった。原子核研究者である諸先輩の間には、中曽根発言に反発し、大型予算を背景に急速に進む原子力行政に批判的な雰囲気が満ちていた。 世界の先進国では、原子力開発に原子核研究者の多くが活躍し、いろいろな面で指導力を発揮していたのに、わが国では、残念ながら実力者がそっぽを向いてしまった。
(中略)
私が原研に入ったのは、一九五七年、原研が五十人近い大人数を初めて公募により集めた年であった。大学院終了者や、もっと上の人も居られたが、大部分は、私も含めて学部の新卒者であった。この年から数年の間、原研の職員数は急に膨張した。私たち新卒の若者は、みな夢をもち将来への期待に燃えていた。周囲の人々からも大きく期待されていた。或は、少なくともそういう誇りをもっていた。
急に集まった若手の集団は自立の精神を高く掲げ、誰いうとなくセミナーや輪講を始めた。大学院進学者に対する対抗意識も多少はあったような気がする。実用の熱中性子炉は四十才以上、高速中性子炉は三十才代、われわれ二十才代の若手は核融合の可能性を勉強しようと言って、当時バイブルのような存在であったポストの論文や、スピッツアーの本などを、むさぼるように輪講した。みんな夢を描いていた。しかし、若手の共同の夢は、現実の忙しさに次々と崩れた。研究を経験していない大学学部新卒者のもろさであった。
先ず、原子炉運転グループに配された仲間は、日本で最初の原子炉JRR-1の臨界にむけて、立ち上げ作業に忙しく、輪講どころではなくなった。核物理グループの仲間もヴァンデグラーフ型加速器の建設に忙しく、彼らは、彼らの目標に向かっていった。新しい装置の購入、建設、検収、と、巨額の予算の消化にみんなが振り回された。若手のエネルギーを中心に組織しようとしたグループ活動はもろくも崩れた。研究を経験したことのない新卒者の集団には無理だったのであろう。強いリーダシップが全く欠けていた。
当時、この若手を導く室長クラスの中堅研究者は、民間会社の第一線で活躍した人や、国公立研究機関で原子力研究にいちはやく手をつけた人などが多かった。皆さんが優れた方であった。しかし、大学の教官と違って、威勢のよい若手の導きかたはうまくなかった。その理由は近ごろにになって解ってきたような気がする。問題処理の能力は抜群であって、原子力技術の導入を第一の目標に設定されていた当時の原研には、最も有用な人材の集まりであったと思う。しかし、大学を出たばかりの若手が、基礎研究とは何か?学問とは何か?と問うた時、答えられる人たちではなかった。
日本の原子力研究の曙、幕開きのときに燃え上がる勢いのあった若手のエネルギーは、現実の作業に蹴散らされた。「基礎研究を大切に」という若手の声はしばらく続いたが、やがて若手のエネルギーは、強烈な労働組合運動の波の中に吸収されていった。残念であった。私自身も、順番がきて立候補させられ、選挙で選ばれて労働組合の執行委員となり、原研創立以来最初のストライキに情報宣伝部長として「活躍」した。不愉快な一年であった。特に、後年になって、このストライキに不純な仕掛があったことを知って、ますます不愉快な思い出となっている。
―引用終り―
抑えた筆致ではあるものの中井氏の文章からは、初期の原研における若手研究者達の置かれた複雑な状況と、彼らの抱える葛藤が伝わってくる。当時の学術会議等の「良識派」の科学者達からの冷ややかな視線はあったものの、原子力の明るい未来を信じて原研に集まった若手のメンバーは、大きな夢と志を抱いていた。彼らの多くは大学学部卒業者であり、大学院進学者達に負けるものかと、自らで勉強会を行っていた。
しかし、発足当時の原研のミッションは基礎研究ではなく、アメリカからの多数の実験設備の導入と立上げであった。新人所員達は十分な研究指導のないままで、いきなり実務に投入されることとなった。装置メーカーとの交渉、装置仕様の確認、大型機械の据付作業などに振り回されて、地道な勉強を続ける余裕は彼らには与えられなかった。また年長の所員達も、理研やメーカーからの中途採用者や出向者の寄せ集めであり、研究指導者として若手を導くスキルには欠けていた。
志を失った彼ら第一期生のかなりの人数が、時を置かずに原研を離れることとなる。中井氏もその一人である。中井氏が原研を離れた理由は、59年に原研労組が第1回ストライキを行う際の実行委員の一人に選ばれて、「活躍」させられたためであったという。原研で巻き起こる壮絶な組合運動については、これから触れることになる。
3.4 原子の火、灯る
ここで、第2章での説明を省略した一連の原研の実験装置について簡単に触れる。東海村に最初に造られた原子炉であるJRR-1(Japan Research Reactor-1)は、湯沸し型(Water Boiler)と呼ばれる形式で、熱出力が50kW(キロワット)という小型の装置である。燃料には濃縮ウランを用いるが、固体ではなく硫酸ウラニル水溶液という液体燃料を用いることが特徴である。発注されたのは財団法人時代の56年3月であり、57年8月に東海村で臨界に達するという、1年余りの突貫工事で作られた装置である。装置の製造元はノースアメリカン社という、当時は戦闘機(F-86,F-100等)の有名メーカーである。
JRR-2はそれに続いて1960年にアメリカから導入された原子炉で、燃料に濃縮ウラン、減速材に重水を用いる。この装置はCP-5型と呼ばれるタイプであり、1942年にシカゴ大学でE.フェルミが作った世界最初の原子炉であるシカゴパイル1(CP-1)を源流とする、由緒正しい原子炉である。CPシリーズの原子炉は、米国アルゴンヌ研究所で改良が進められ、熱出力1000kWまで増加したCP-5型が原研に導入された。
形式は正統派であったものの、JRR-2の立上げはトラブルの連続であった。原研では当初は10,000kWの出力を予定していたが、臨界後の運転は1,000kW程度の低出力を余儀なくされた。本来CP-5型はウラン燃料に濃度90%の高濃縮ウランを用いる設計であったものが、当時の日本ではアメリカとの協定で濃度20%のウラン燃料しか提供されなかったため、予定の出力に達しないという、お粗末な経緯であった。試行錯誤の末に3,000kWまで出力を上げた後に、アメリカとの協定が改訂されて90%濃縮ウランの使用が可能となり、10,000kW運転を達成したのは2年後の1962年10月であった。
このCP-5型原子炉を作ったメーカーは、アメリカン・マシン・アンド・ファウンダリー(AMF)という、タバコ製造やボウリングの機械を販売する会社であったという(NHK「原発メルトダウンの道」より)。当時の原子力装置製造には、GEやWH(ウエスティングハウス)のような名門以外にも、一獲千金を狙って様々な分野の企業が参入する、群雄割拠の状況にあったらしい。57年にJPDRの一次入札を行った際には13社からの応募があったという。JRR-2の入札時にAMFが提示した価格は、GEの半分という破格値であり、10000kWの出力も保証したことからAMFからの購入が決まったものの、「安物買いの銭失い」を地で行く結果となってしまったようである。
それに続くJRR-3は別名「国産1号炉」と呼ばれており、米国産ではなく国内装置メーカーの協力で作られた初めての原子炉である。このJRR-3の熱出力はJRR-2はと同じ10000kWであり、燃料に天然ウラン、減速材に重水を用いることが特徴である。即ち、アメリカとの原子力協定が持ち上がる前の最初に計画された、国産技術のみで作り上げる原子炉が、3台目にようやく実現したのである。JRR-3が臨界に達したのは1962年9月であり、1年後の「日本の原子力の日」の前日に、原研労組が運転中の抜き打ちストを決行したのが、このJRR-3である。
翌年のJPDRの臨界と発電試験実証を経た後の1965年には、JRR-4と呼ばれる熱出力3500kWの原子炉も臨界を迎えている。JRR-4はスイミングプール型と呼ばれるタイプで、濃縮ウランを燃料とする炉心を、水深10メートルの水槽の底に置いたものである。原子力船「むつ」の原子炉における放射線の遮蔽実験が、このJRR-4を用いて行われた。
JRR-1及び2の原子炉は現在は解体されて存在していない。JRR-3は同名の装置が今も実験で使われているが、原子炉が濃縮ウラン燃料を用いるタイプに換装されており、本来の原子炉は既に無い。
本論考の主要テーマとなるJPDRはさておくとして、これらの原研初期の原子炉の中で最も注目されたのが、JRR-1であった。57年8月27日にJRR-1が臨界に達した時には、「日本に初めての原子の火が灯る」として、新聞等でも大きな話題となった。しかし実際には、原子炉装置はアメリカで組立を終えており、東海村に基礎工事と建屋を作った後に、搬入して組立を行っただけであった。原研では炉心設計等の技術開発は一切行っていない。このJRR-1導入について、武谷三男(たけたにみつお)は次のようにコメントしている。
―引用始め―
57年8月に第1号炉のウォーターボイラー原子炉の連鎖反応が鳴り物入りで行われた。この連資力研究所の建設についてはまえまえからいろいろの問題があったのである。第一にその工事がはなはだ粗雑な調査の上に行われた。そして非常に急いで行われたために、いろいろな欠陥を持っていた。(中略)しかしこのように急がれたにもかかわらず、米国から送られてきたものに欠陥があったり、送ってくるのが遅れたりして、なかなか始動しなかった。
この原子炉を買うにしても、杉本(杉本朝雄、すぎもとあさお、理研仁科研出身、伏見康治の東大同級生)や神原(神原豊三、かみはらとよぞう、日立製作所出身)とかいう責任者は、それが動き出すまで、全然確実なことは何もわからなかったようである。計算もろくにせずに、ただ向こうから送ってきたものを据えつけるというだけで、こんなことばかりだったので、物理学者やエンジニアは必要ではなく、みな土建屋になって東海土建研究所とあだながついたりした。
(中略)
わたくしたちとしては、ただ向こうから持ってきた原子炉、しかも一番簡単な原子炉が連鎖反応するということは当然の事であって、なんの不思議もなく、別になんの功績でもない。それが記念切手まで出す大騒ぎになったということは、やはり日本が未開発国であるという印象を禁じ得なかったのである。こんな切手が外国に行ったら全く日本の物理学者の恥である。
(原子力と科学者、武谷三男作品集2、勁草書房、1968年)
―引用始め―
相田です。武谷に言わせると、「こんな装置は、アメリカで十分に下準備されて組み上げられたものだから、臨界が起きるのは当たり前だろう。装置をただ日本に持ってきて、据えつけるだけでは、単なる土建屋だ。原子力研究者などだれもいないし、必要ないではないか」ということになる。身も蓋もない言い方であるが、実情は武谷の言うとおりの状況であったといえる。そこまでけなすことも無いだろう、と自分には思えるが、「日本の物理学者の恥」とまで書いてしまうのが、やはり武谷である。
東海村でのJRR-1立上げの状況については、朝日新聞の科学記者の木村繁氏の著作の「原子の火燃ゆ」(プレジデント社、1982年)に詳しい。1956年当時の東海村は、北関東のうらさびれた寒村であり、道路は舗装されておらず、ガスも水道も引かれていなかった。鉄道(常磐線)も電化されていなかった。原子力研究所の建設事務所は空き家となった旧村役場が使われて、2階が宿舎に当てられた。先遣隊として作業に携わった所員達は他にも、空き家となった小学校の校長住宅や、借り上げの農家等を宿舎として使っていたという。
1年後のJRR-1の組立が終了しつつある段階でも、所員達の生活インフラはあまり改善されなかった。57年の7月には鉄筋コンクリート製の4階建ての独身寮が完成したものの、間取りは畳が3畳に1畳分の板張り付という狭小であった。当初は水道も使えず、階段の踊り場に置かれた木桶の井戸水を汲んで、生活水として使っていたが、茨城県の衛生研究所の水質検査では度々不合格となる代物だったらしい。
臨界達成後の9月18日にはJRR-1の完成披露式典が東海村で開催された。当日は原子力委員長の正力も出席し、日本テレビによる中継も予定されていたが、原研労組は所員の待遇改善を訴えるため、式典当日のストライキによるボイコットを決定した。労組が掲げた要求の中には、上下水道の完備、放射能の危険に備えて内科、外科の医師の常置、生活物資を買い求めるための売店の設置、等の他に「所内食堂の食事は、労働に必要なカロリーと栄養素を含み、しかも常食にたえうるだけの風味を有すること…」というものまであったらしい。給与については一人平均7%の賃上げと、現場手当、単身赴任者への別居手当の支給を要求していた。
安川第五郎理事長を代表とする原研理事者側は、労組の要求をほぼ認めることでストライキは回避され、式典は無事に開催された。しかし、晴れの式典の日に大規模ストライキをぶつけるという攻撃的なスタイルは、原研労組の悪しき伝統となってその後も繰り返され、最終的に原研を窮地に追い込むこととなる。
3.5 嵯峨根遼吉、原研を去る
JRR-1の完成式典が終わった後に、理事長の安川第五郎は退任し、副理事長の駒形作次が二代目理事長に就任した。駒形の後の副理事長には嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)が昇格し、東海研究所の所長も嵯峨根が兼務した。嵯峨根所長時代の東海原研は、主な研究棟の建設がほぼ終了し、JRR-1の運転も順調に時間を重ねるなどの、研究組織の活動が軌道に乗り始めた時期であった。JRR-2のアメリカへの発注も終えて57年末にはその建屋も完成した。国産1号炉のJRR-3の設計作業も順調に進んでいた。
翌58年には、動力試験炉(JPDR)の原研への導入に向けての準備が開始される。設立当初の原研は、英国製のコールダーホール型原発の受入れも想定されていたという。しかし、英国製発電炉の導入には(株)日本原子力発電が別途に設立されたため、発電技術開発への原研の寄与が低下する事態が懸念された。これに対する回答として出された提案が、アメリカ製の小型軽水炉の導入である。
政治家としての功を焦る正力により、英国製の発電炉導入が強行されたものの、発電装置としての優位性は、米国製軽水炉の方に分があることは、関係者の間では明らかであった。英国炉に続き、電力会社が導入する発電炉のタイプの多くは軽水炉になることが、当初から予想されていた。そのためのパイロットプラントとなる装置を、アメリカから購入して、原子力発電を実証することが原研の重要なミッションの一つとされた。
先に記したようにJPDRの一時入札の際には、13社が応募する盛況ぶりであったが、その後には実績のあるWH(ウエスティングハウス)GE(ゼネラル・エレクトリック)の2社に絞られた。米国での留学経験が長い嵯峨根は、この時に米国側との交渉の中心として活動し、最終的にはGEのBWR型装置の選択に至る道筋を作った。
しかし、嵯峨根の足元の東海研究所では、不穏な空気がくすぶり続けていた。財団法人時代には、理事長の石川一郎から、一流民間企業を上回る待遇がほのめかされていたものの、特殊法人発足後には大蔵省からの指導もあり、公務員給与に準じた給与に減額される事態となった。JRR-1完成式典前の交渉では7%の賃上げでなんとか合意できたものの、その後のベースアップは頭打ちになりがちであった。労組の強いベースアップ要求に対しても、駒形理事長は「予算措置が必要で、大蔵省の承認を得なければならないので・・・・・」と言葉を濁したまま、回答は出されずじまいであった。(日本原子力産業会議編「日本の原子力 一五年史」1971年、三秀社、より)
59年6月に、原研では創設3周年の記念式典が開催されたが、約束した給与水準の維持を求める労組側は式典参加をボイコットし、原研初の24時間ストライキを決行した。7月に入ると労組はスト権を解除するが、対立は中央労働委員会の調整に持ち込まれ、翌年に事務系職員では通常の公務員給与の120%、技術系職員では130%の基準を遵守するという、所謂「中山あっせん」による合意に達することとなった。この労働問題の責任を取る形で、駒形2代目理事長と嵯峨根副理事長の二人が同時に辞任することとなってしまう。
しかし、この時の嵯峨根の辞任の裏には、労働問題以外の別の理由があったらしい。終戦直後に東大の嵯峨根研究室で学んだ後に、嵯峨根の推薦でアメリカのアイオワ州立大学に留学し、その後に東北大、東大等で研究を続けた原子核物理学者の森永晴彦氏という方が、1997年に「原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ(草思社)」という本を出版されている。この本の中に、嵯峨根に関する興味深い記述がある。
57年9月に留学から帰国して、東北大で研究を始めた森永氏は、東大の核研や嵯峨根が指揮を取っていた東海原研の設備を使って、度々実験を行っていた。その際に知り合いとなった、東海原研の同年齢の一人の研究者から、嵯峨根についての意外な話を聞かされる。以下に森永氏の本から引用する。
―引用始め―
あるとき、彼が「お前の先生、東海村をクビになるぞ」という。まさか世界的にも大活躍している、日本唯一の本物の原子力通(げんしりょくつう)の先生がと、私は耳を疑ったのだが、彼は「多少の噂は聞いていたが、もう決まっているらしい。原研の組合新聞にこんな記事が載っていたぞ」というのである。
空ではグラマン・ロッキード
陸ではGE・ウェスティングハウス
チャンチャンバラバラ結局は
サガネが撃ち落とされるらしい
グラマン・ロッキードというのは、自衛隊用主力戦闘機の売り込みで、当時火花を散らしていたアメリカの二大航空機産業のことである。(中略)この問題と先生のかかわり合いは次のようなものだと言われていた。先生は両社(ウェスティングハウスとGE)の売りたがっているPWRとBWRを、それぞれ詳しく勉強されたが、いったん一方に傾かれてから、のちに他社の方式の利を認めて、意見を変えられた。これが原子力開発の上層部の逆鱗に触れたとのことであった。
―引用終り―
相田です。笑うところではないのだが、上の組合新聞に掲載されたという戯れ歌は、きちんと韻(いん)を踏んで作ってあるので、繰返して読むと結構可笑しい。この歌はJPDRの原研への導入を巡って、GE派(三井グループ)とWH派(三菱グループ)の間で起こった熾烈な売り込み合戦について揶揄している。初期の原研の活動を総括した「原研十年史」という報告書には、JPDR契約時の状況について以下のように記されている。
―引用始め―
BWRかPWRかの選定は、国内の下請け業者を自動的に決めることになる上、そのころたまたま、防衛庁の導入戦闘機の機種選定をめぐって、グラマンかロッキードかの論争が世間をにぎわせていたので、理事会の最終検討は慎重をきわめた。価格表の開封の際には、各理事が双方の技術的内容に基づいて、あらかじめ価額を評価したものを持ち寄り、開封と同時にその評価を行うというやり方も取られた。その結果同年(1959年)三月に至り、理事会は技術的検討、経済性比較のいずれの面からも、全員一致でGEのBWR型を選び、ただちに契約のための細部交渉に入った。
―引用終り―
相田です。さて森永氏は著書において、嵯峨根を辞任に追い込んだ張本人の名前を明かさず、「ジイサン」としか書いていない。しかしネットに書かれている情報によると、この人物は日本原産の橋本誠之助であったらしい。森永氏は橋本へのアポを取ることに成功し、嵯峨根の辞任を止めさせるため原産まで抗議に出向くことになる。以下に森永氏と「ジイサン」とのやり取りを引用する。
―引用始め―
ジイサンは「故郷はどこじゃ」「何でサガネのところで働かないのか」というような質問のあと、私の話を聞いてくれた。こんなかけがえのない、唯一の専門知識とアメリカの指導者たちとのコンタクトまで持った学者を下ろそうとするなど、とんでもない。世界のどの先進国を見たって、その国の原子力研究所の所長は、みな自力でこの道を切り開いた人がやっていると言うと、ジイサンは、
「お前は将棋を指すか」
と聞いてきた。
「ルールくらいは知っています」
と答えると、
「王は先に出ていくか」
「イヤ、歩が先に出ます」
「サガネは先に出よる。サガネが日本にとってかけがえのない男だということはよくわかっている。心配するな。お前の言うことはよくわかっている」
と、丸められてしまい、当時としては、貧乏な大学の先生の入るところではなかった隣の第一ホテルでごちそうになった。
いったい、どうわかってくれたのかと思っていると、一週間ほどして、新聞に「日本原子力研究所東海研究所長 嵯峨根遼吉博士辞任 後任は東大原子核研究所長 菊池正士教授」という記事が出た。これにはまったくギャフンであった。
―引用終り―
相田です。「ジイサン」のコメントから考えると、JPDRの導入交渉の際に嵯峨根が張り切り過ぎたことが災いしたらしい。嵯峨根がGEとWHのどちらを選ぼうとしたのかは、私には定かではないが、優秀な研究者であった嵯峨根は、純粋な技術的観点から検討を重ねて、炉の形式を選ぼうとしたのだと私は思う。しかし周囲の関係者達は皆、それでは済まされない事情を抱えていたのだろう。
嵯峨根は原研を去る際のあいさつの中で「自分は二塁打を打ったつもりであったが、グラウンドルールが違っていたと見えて、アウトになってしまった」と述べたという。名家の出である嵯峨根は、友人である叩き上げの茅誠司に比べると、ドロドロした世界に生きる政治家・財界人達と渡り合うには、隙が多すぎたのだろう。そして嵯峨根の次に登板した菊池正士は、嵯峨根に輪をかけた育ちの良さと純朴さの持ち主であった。その菊池の人柄が災いを招く結果となる。
(つづく)
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