「1542」番 戦後七十周年企画  なぜ日本は戦争に向かわされたのか(1)   日本共産党の戦前最後の委員長 野呂栄太郎(のろえいたろう)の命がけの闘いから昭和史の真実が見えてくる。 津谷侑太(つやゆうた)2015年7月13日

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戦後七十周年企画 なぜ日本は戦争に向かわされたのか(1)

※津谷君 の論文はこれまで何回か「今日のぼやき」で紹介しております。日本史、特に明治から昭和史について関心を持って研究しています。

「 日本共産党の戦前最後の委員長、野呂栄太郎(のろえいたろう)の命がけの
闘いから昭和史の真実が見えてくる 」

津谷侑太(つやゆうた)    2015年7月13日

2015年は戦後七十周年を迎える。安倍晋三首相が、祖父・岸信介が目指した絶対国防圏の構築に向かってがむしゃらに突き進んでいる。日本は戦争へ向わされていると憲法学者樋口陽一(ひぐちよういち。リベラル派憲法学者たちのドン)や、小沢一郎たちは警告を発している。

安倍首相の取り巻きたち、とりわけ売れない評論家である八木(やぎ)秀(ひで)次(つぐ)たちは、「安倍首相は憲法改正にまで手をつけるべきだ」と盛り上がっている。このような動きが国民そっちのけで行われている。こういうときに、すでに大きな権力を握っている自民党を従来型の反戦平和理論で批判しても肩透かしを食らう。彼らもまた大きな歴史の流れの中で翻弄されているのに過ぎないのだから。

今年は戦後七十年なのだから、日本国の本当の歴史について勉強するべきときである。最近の歴史学者たちの本に頼っても当てに出来ない。なぜなら彼らは自分が専門とする特定の時代の特定の事件のことはよく調べている、だが同時期に起きていた他の諸事件のことは知らないのである。それが日本の歴史学者たちの世界だ。粗っぽくでもいいからその時代の全体像を示してくれないと読んでいるほうはチンプンカンプンである。

日本政府が勝手に暴走して愚かな戦争を始めたわけではない。そのように最初から仕組まれていたのである・・・・という言論を副島先生が打ち立てた。だから私は、その戦争を止める勢力が必ずいたはずである、という考え方から歴史研究を始めた。そうすると日本共産党という、戦争に命がけで反対して闘った政党を発見した。

戦前の日本共産党があれほどに頑張ってくれたから、戦争を仕組んだ極悪人たちのことが歴史資料として残って今、炙(あぶ)りだされる。日本共産党が壊滅することなく反戦活動を続けていれば、日本の沖縄戦や硫黄島の玉砕の悲劇もなかったし、原爆投下や東京大空襲もなかっただろう。満洲でのソ連による日本の民間人大虐殺もなかった。日本共産党は、昭和7年(1933年)に壊滅させられた。

この年の2月29日に、作家の小林多喜二(こばやしたきじ)が築地(つきじ)警察署で特高警察たちに撲殺されて死んだ。同年の5月29日に、京都大学の刑法学者の滝川幸辰(たきがわゆきとき)が大学を免職された(滝川事件)。そして同年の11月28日に、戦前最後の日本共産党の委員長である野呂栄太郎(のろえいたろう)が品川警察署に逮捕され、翌年の2月19日に拷問により獄死している(33歳)。日本共産党を壊滅に追い込んだ当時の政治警察の大親分たちを今こそ、具体的に証拠をあげながら追及し、その仮面を剥(は)ぎ取らないといけない。


小林多喜二(1903―1933年)の遺体


野呂栄太郎(1900―1934年)

1925年(大正14年)に治安維持法が制定されて共産主義者たちへの取り締まりが始まった。治安維持法は本物の根性の有る共産主義者たちの動きを封じるための法律だった。このあと共産主義者たちは一斉に逮捕された。昭和3年(1928年)の1600人、4年の1000人の一斉検挙が大弾圧だった。これ以外に文学者の団体やらも一斉に逮捕された。 彼らは厳しく尋問され、ある者は拷問されて、やがて転向(てんこう)して、多くが非共産主義者になっていった。以後は、民族運動の右翼になっていった元幹部たちもいる。これで日本の反戦活動はストップした。

この動きを主導したのが日本の内務省(ないむしょう)だ(敗戦後、内務相は、GHQによって廃止された)。内務省の下に特別高等警察が作られた。そこには下級のノンキャリア(今で言えば高卒)の特高(とっこう)警察(けいさつ)官がたくさんいる。幹部たちは、帝大(東大など)を出たエリートたちで、戦後の有名な政治家で言えば、後藤田正晴(ごうとうだまさはる)や中曽根康弘(なかそねやすひろ)のような人たちだ。


後藤田正晴(右)と中曽根康弘

私は、下級の特高警察たちではなく、その上の東大法学部を出た、日本の政治警察であった内務官僚たちを糾弾する。現に彼らの一部は、内務省職員として「思想検事(しそうけんじ)」とも呼ばれた。“初代思想検事”と呼ばれたのは、岩村通世(いわむらみちよ、1883-1965。、明治43年司法省)入省)である。岩村は、検事総長を務めてゾルゲ事件を最高度から担当し、東條英機内閣で司法大臣を務めた。敗戦後、GHQに逮捕されてA級戦争犯罪人の指名(デジグネイション)を受けた。


岩村通世

日本共産党を直接弾圧した最高責任者は、安倍源基(あべげんき)である。安倍は、内務省に入って、昭和7年(1932年)に、初代警視庁特別高等警察部・部長に就任して、日本共産党の弾圧のための取り調べに当たった。昭和12年 (1937年。 2.26事件の翌年だ。 この年に、日本の中国侵略戦争 「日中戦争」の開始であるシナ事変=日華事変=と、第二次上海上陸作戦そして南京(なんきんこうりゃく)、その年末に南京大虐殺が起きた)に、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の警視総監になり、敗戦までずっと治安対策の責任者であった。最後は内務大臣にもなっていた。


安倍源基

彼ら内務(省)官僚こそが、日本の行く末を誤らせた張本人たちであると私は主張する。それに比べて、内務官僚に無意識のうちに戦いを挑んだ、野呂栄太郎や岩田(いわた)義道(よしみち)(再建日本共産党の最高幹部で虐殺された)たちこそは、立派な人たちだった。2千人ぐらいが警察で殺されている。

殺した特高警察官たちや、憲兵たちは、敗戦直後に、書類を焼いて逃走して、その後、何くわぬ顔をして、地方の町長や市長になった。彼らの犯罪は、今も裁かれていない。

アメリカのロックフェラー財閥の大番頭であったアベレル・ハリマン(ハリマン鉄道財閥の2代目。初代のエドワード・ハリマンは優れた経営者で今もアメリカ国民に尊敬されている。ニューヨーク・セントラル駅に銅像が有る)から、上手に操(あやつ)られていたソ連の独裁者スターリンの指図・命令からも、独立しようとしていた野呂栄太郎(のろえいたろう)は、本物の革命を日本に起こす可能性があった人だ。だから日本の内務省が罠にはめて野呂を死なせた。

私はこのことについて、いろいろと証拠をあげながら説明していく。これから何回もの連載となって長くなるが、宜(よろ)しくお付き合い願いたい。

●獄中の野呂栄太郎と滝川事件の東大生の奇妙な遭遇(そうぐう)

戦前の右翼勢力が悪かったのだ、そして軍部が暴走した、という戦後にでっちあげられた、偽物(にせもの)保守派による、虚妄の歴史観をぶち破らなければならない。そうしないことには真実の歴史がいつまでたっても表に出ない。私たちは、これまで隠されたままの歴史の真実を掘り当てて、表に出すことをしなければならない。

それには2015年(今)から82年前の、1933年(昭和8年)へと読者、すなわち皆さんを誘わなければならない。野呂栄太郎が、翌年獄中で死んだ(殺された)1933年、それは石原莞(いしはらかん)爾(じ)の満州事変(1931年9月18日。柳条湖事件。この日を中国は、「日中15年戦争=日本の侵略の始まりの日」とする)が成功し、時の若槻礼二郎(わかつきれいじろう)首相そっちのけで、“ラスト・エンペラー”溥儀(ふぎ)を皇帝にした満州国の建国(1932年)から一年余りのときが流れていた。


石原莞爾

1933年(昭和8年)、日本国内では政府に対する批判が国民の中に渦を巻いていた。2015年の今とよく似ている。その批判勢力の筆頭が非合法政党にされた日本共産党員たちである。日本共産党は当時の日本の知識人たちと優秀な頭脳を持った若者たちが結集した、日本の啓蒙運動の火付け役ともいうべきグループであった。決して粗暴な暴力団体ではない。それでも公然と、天皇制廃止と寄生大地主の廃止を綱領(こうりょう)に掲げていたことは事実である。

このことに対して、日本の「國體(国体)護持(こくたいごじ)」と「国体の明徴(めいちょう)」を唱える日本の体制派が黙っているはずはなかった。日本共産党は、決してテロリストの集団ではなく、穏やかな読書人、知識人たちのグループであった。

1922年の共産党の創立者の堺利彦(さかいとしひこ)、荒畑寒村(あらはたかんそん)たちは、すでに党を去っている。彼らのリーダーだった、日露戦争(1904,5年)反対を唱えた平民社(へいみんしゃ)の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、大逆事件(たいぎゃくじけん)で処刑されて(1911年、明治44年)からも、1933年は、22年が経(た)っている。日本の支配体制と保守派に人々は、1917年(大正7年)のロシア革命に心底、震撼(しんかん)していた。その影響が日本にも及ぶことを真剣に心配するようになっていた。


幸徳秋水

世界中で、すべての国の民衆が、地主制度による過酷な農奴制(小作人制度)の悲惨際(きわ)まりない現状に怒り始めていた。日本でも悲惨な農民や都市の貧民の暮らしに同情する知識人たちの運動が大きく起っていた。トルストイの運動に共感する者たちの運動も有った。

日本共産党は日本国内のいろいろの勢力と連携して、「日本の中国侵略を辞めよ!」と呼びかけていた。これは日本の権力者たちにとっては非常に煙たいことだった。なぜなら、中国侵略によって利権を手にする権力者たちにとって、中国侵略はまさしく金の鳴る木だった。こんなにうまい話を手放すのは馬鹿のすることだ、欧米列強(おうべいれっきょう)も皆やっているではないか、と権力者や財閥たちは金に目がくらんで、中国侵略を推し進めた。

それは、第一次大戦の結末で、日本が、ドイツが中国から租借(割譲)していた膠州湾(こうしゅうわん、チンタオ=青島がある)と山東半島の権利を、パリ講和会議(ヴェルサイユ条約、1919年)で、引き継いだことを始まりとしている。「対華21箇条の要求」であり、それに対する中国国民の大反対の 運動である 「五・四運動」(1919年)である。

右翼の大御所であった頭山(とうやま)満(みつる)とその協力者で、宮内大臣を務めた田中光顕(たなかあきみつ・幕末からの活動家)の二人が、強力に大陸進出を推し進めていた。時の斎藤内閣とそれを支えた“最後の元老”西園寺公望(さいおんじきんもち)は、右翼や陸軍軍人の動きを抑えることができずに、大陸進出を国策として同意していったのである。


頭山満


田中光顕

そんな時代情勢の中で、共産党の若き理論家であり指導者であった野呂栄太郎までが逮捕され拘留された(1933年11月28日)。それまでの共産党の指導者であった佐野学(さのまなぶ)と鍋山貞親(なべやまさだちか)は、同年6月7日に、獄中で転向声明を出した。それに連れて転向する者がたくさん出た。

すでに激しい弾圧で残党になっていた共産党で、人材不足を補うために、若くして経済本「日本資本主義発達史」でベストセラー作家となっていた野呂栄太郎が指導者に名乗りを上げた。野呂栄太郎が、委員長になって、一緒に動いていた宮本顕治(みやもとけんじ)は、それよりも下の中央委員だ。

当時の日本共産党は世界的なネットワークであったモスクワのコミンテルンから「武装蜂起せよ!」と煽られていた。コミンテルンは、正式には(表面上は)、ソビエト共産党とは別組織であり、世界中に共産主義の革命を輸出するための国際組織ということになっていた。

コミンテルンの公用語はドイツ語であった。コミンテルンとは、「コミュニスト・インターナショナル」の略称であり、「第3次インターナショナル」である。第1次インターナショナル(万国の労働者団結せよ! の国際労働者委員会)は、カール・マルクスたちによって、1866年にジュネーブで創立された。

その後のロシア革命の産物である第3(次)インターナショナルは、「国際共産党」とよばれ、日本共産党は、その日本支部である。日本の政治警察=内務省、特高警察は、日本共産党を「コミンテルン(国際共産党)日本支部」であるとして、日本の国体(天皇制)を暴力で破壊、打倒しようとする犯罪集団、テロリストの集団だ、と認定した。

この 内務省・特高の日本共産党への攻撃は、一部の共産党員が大森の銀行強盗を起こした、いわゆる「大森(赤色)ギャング事件」として起きる(1932年10月6日)。この事件を起こした共産党員が、実は特高警察のスパイだった。組織の破壊のために、警察は、必ずその内部にスパイを送り込んで、内部を暴走させ犯罪を起こさせて、そして壊滅に追い込む。新聞もこれに扇動されて、権力側が発表する情報を鵜呑みにして報道するから、一般国民には、共産党というのは恐ろしい犯罪集団だとしか見做されなくなる。

政治警察は、かならず組織内に、スパイを潜り込ませる、というやり方をする。このことの恐ろしさと、違法性を追及する者は、少ない。思想研究や政治研究をしている者たちの多くが、怖がって触れようとしない。

日本共産党は次第に罠にはめられ、犯罪組織として世間から叩かれることになった。本来、軟弱でただのインテリで、真面目で温厚なだけの大学生たちの集まりである日本共産党が「国際的犯罪組織」にされていった。この時期に、慶應大学の若い研究者だった野呂栄太郎は強靭な精神と頭脳で、『『日本資本主義発達史』(1930年刊、鉄塔書房)というを書いて高い評価を受けた。これが元になって、このあと、1932年、33年に『日本資本主義発達史講座』(全7巻、岩波書店刊)の大著の共同研究書が出版された。


『日本資本主義発達史講座』

この本が、当時の日本のインテリ層に爆発的な人気を博した。その矢先に、野呂は特別高等警察に逮捕されたのである。逮捕したのはプロレタリア作家の小林(こばやし)多喜二(たきじ)を実際に拷問して殺害した(木刀による全身めった打ちの撲殺である)とされる山県・・・警部らである。彼らのことは今では、ウィキペディアにさえ詳しく実名が並んで載っている。彼らは、今も法の裁きを受けていない。 まだ多く存命のはずで、警察官としての年金をもらって生きているはずなのだ。 どうして、この者たちを裁判に翔けないのか。

野呂栄太郎はすでに結核を患っており、体調は極めて悪かった。このため、特別高等警察はお得意の拷問ができなくて、野呂を尋問するしか手がなかった。

その拘置の間、野呂栄太郎は警察署の留置場の中でとある人物と出会っている。隣の独房に収容され、特高警察から拷問を受けていた東大生の佐々木恵真(ささきよしまさ?)だ。東大(東京帝大)の文学部で歴史学が専攻の佐々木は、日本共産党の東大内のグループに入って共産主義運動をしていた。

共産主義運動といっても、佐々木は「侵略戦争反対! ファシズム反対! 」のビラを刷ったという、現在の私たちから見れば、極めて穏当な筋の通った活動をしていただけだ。1933年の日本では、そのような活動はまだ禁止されていない。しかし日本共産党は天皇制廃止を掲げており、この主張することは、1925年に制定された治安維持法違反に当たる。戦争反対の活動をしていた佐々木はだから、戦争反対の主張ではなく、天皇制廃止を唱えた治安維持法違反ということで逮捕された。

後述する河上肇(かわかみはじめ)も、京都大学経・済学部長を1928年に辞めて(49歳)、東京で共産党の活動家として ドイツ語からの文献翻訳をやっていた。「32年テーゼ」の訳文を機関紙・赤旗に発表した。河上肇も1933年に逮捕されている。

佐々木のような東大生の逮捕は当時、すでに珍しいことではない。たくさんの学生が捕まった。当時の東大は小野塚(おのづか)喜平(きへい)次(じ)総長を筆頭に、南原(なんばら)繁(しげる)教授 (この人の背景が、実はきわめて怪しい。おいおい書いてゆく)らが東大生の共産主義活動を容認しており、共産主義や自由主義思想に多くの、生来まじめな学生たちが身を投じていたのである。


南原繁

南原は政治学の教授だったが、この頃はまだ無名だった。南原が有名になったのは、終戦後の1946年からで、毎年の朝日新聞の巻頭の提言は南原が書くことになり、岩波書店の本とともに、戦後の知識人層に大いに読まれることになる。戦前の美濃部達吉(みのべたつきち、「天皇機関説」事件で学問弾圧された)や南原繁はオールド・リベラリストと呼ばれる(ちなみに、liberalist リベラリスト=自由主義者=という言葉は、ドイツ語とフランス語にあるが、英語にはない。英語では、リベラル liberals と言う)。


美濃部達吉

この南原の弟子に丸山真男(まるやままさお)がおり、戦後の日本リベラル勢力、左翼勢力の最大のイデオローグとして活動した。それは南原が丸山の才能を認め、東大の政治史学、政治思想の教授として抜擢(ばってき)したからであった。


丸山真男

リベラリストの南原繁が東大にいるとも知らないで、野呂は佐々木と仲良くなった。佐々木は若く、特高の拷問にも屈しない強い精神状態を保っていた。が、問題なのは野呂の方だ。結核に体調は悪化し、憔悴(しょうすい)していくさまは佐々木を心配させていた。

同じ時期に治安維持法違反で捕まった野呂栄太郎と佐々木恵真は、別々の案件で逮捕された。野呂は共産党の幹部たちの一網打尽の一環として、佐々木は京都の滝川事件への抗議運動への取り締まりの一環としてだった。

ここに私は鋭く、注目してみた。なぜなら、この二つの事件は、私には深くつながっているのではないかと思えたからである。そこで、現在では忘れられている滝川事件について、何が起こっていたのか、見ていくことにする。

滝川事件の真実を調べていたら、驚くべき大謀略が、この時、着々と進行していたことがわかってきた。そして、その真犯人たちは今の私たちが想定しない意外な人物達である。

●滝川事件のきっかけは京大講演会

滝川事件(1926年、昭和1年5月26日)というのは、京都大学の刑法学者の滝川(たきがわ)幸(ゆき)辰(たつ)(たきがわゆきとき)教授が時の斎藤内閣の鳩山文部大臣から、辞職を勧告され、拒否したために強制的に休職(実質、免職)になった事件だ。これは大学の自治と学問の自由への政府の弾圧であり、大学の自治権を犯すものだった。京都大学の末川(すえかわ)博(ひろし)教授ら五人は抗議のため、一斉に辞職した(そして立命館に移った)。滝川ら六人の辞職によって事件は全国の大学に普及し、滝川教授への辞職勧告に猛抗議する学生運動に発展していった。

この事件への抗議運動は東大でも盛んで佐々木恵真が逮捕されたことは前述した通りだ。
この事件、一番の問題点と言われるのが、滝川教授がなぜ辞職させられたか、ということである。滝川教授は政府に逆らうようなことはしていないし、ましてや日本共産党の党員でもない。もちろん、ソ連工作員でもなければ、アメリカの工作員でもない。

なぜ弾圧されたのか、今でもよくわかっていないのがこの事件の謎だ。しかも、引導を渡したのが鳩山一郎文部大臣であり、のちに大政翼賛会に反対した骨のある国会議員として、知られる人物だ。そして戦後、国民に大変、好かれて首相になった。

その鳩山がなぜ、滝川辞職勧告などという言論弾圧をしたのか、今もよくわらないのである。当時のマスコミでさえもこの鳩山文部大臣の行動を批判している。

鳩山は、戦争に向かってゆく政権だった近衛内閣や東条内閣に抵抗していた立派な政治家というイメージがある。だが、敗戦後のGHQのウィロビーが主導したG2局(政治、諜報=スパイ=活動)の判断で公職追放になった。ウィロビーは、理想主義者であったマッカーサー司令官に煙たがられながらも、日本を“反共の防波堤”にすることを推進した情報将校(インテリジェンズ・オフィサー)だ。

ウィロビーは戦前から外交官で日本外務省内で、親英米派であった吉田茂とも通じて、吉田茂の参謀をしていた白洲次郎(しらすじろう。この人物は、これからもっと研究されなければいけない)とも親しい関係にあった。吉田・白洲コンビは、リベラル派ではあっても、ウィロビーの反共産主義の考えに同意していた。GHQ内部の、民政局(ニューディーラー。アメリカの左翼と知識人たち)との権力闘争に勝ったウィロビーの支援を受けた、吉田・白洲コンビが日本の政界の表舞台を握った。戦後に長く吉田政権が続いた。


チャールズ・ウィロビー

鳩山率いる自由党は、1946年、戦後第一回目の選挙で勝利して第一党になった。だから、当然、総理大臣となる予定だった鳩山は、ところが、GHQに公職追放された。吉田茂が、マッカーサーに告げ口したからだ、とされる。このとき、鳩山追放の理由の一つが滝川教授を弾圧したことだったのである。

このように戦後の鳩山の足を引っ張ったのが滝川事件だった。自業自得(じごうじとく)とはいえ、鳩山のみならず日本国民にとって不幸なことだった。このあと吉田首相はウィロビーの影響下でアメリカの反共政策の指示に従っていくことになる。それは日本がアメリカの支配下に置かれるということを意味する。副島隆彦の『属国・日本論』の通りだ。

滝川事件は戦後の日本の歴史を決定付ける大きなターニングポイントだったのである。鳩山一郎の滝川教授弾圧は、致命的な判断ミスだった。

滝川事件がこれほど大きく当時の政府を揺り動かすことになったのは実はとても小さな事件がきっかけであった。滝川事件について書かれた本には、このときに京都大学で   行われた講演会がきっかけだったと書かれている。講演した慶応大学の蓑田胸喜(みのだむねき)という講師である。蓑田は当時、新進気鋭の若手の体制派の右翼のイデオローグであった。


蓑田胸喜

ここで蓑田の経歴について触れる。蓑田は現在では知る人も少なくなってきたが、当時の言論界では知らない者はいなかった。蓑田は慶応大学の文学部の講師をしていたが、共産主義に疑問を持ち、マルクス主義を日本国内から排撃せよ! という言論を行っていた。

これが今の日本の保守的な国民には受け入れられるだろうが、戦前や戦後の日本のインテリ層と知的な労働者たちは、ものすごく共産主義思想に影響を受けていたために、蓑田の言論はほとんどのインテリ層から嫌われた。

だが、そんなインテリ層の意向を無視して、斎藤内閣はマルクス主義に厳しい態度を維持していた。それは、1925年に加藤高明内閣が制定した治安維持法が、共産党員の犯罪者としての取り締まりを打ち出していたことを当然のこととして引き継いだからだ。

昭和天皇を君主として戴く日本帝国としては共産党の活動を絶対に

許さない、というのが斎藤首相を支える陸軍や政党政治家の一致した見方だ。それだけではない。華族や皇族たちも共産主義には強く反対していた。

なぜこれほどに当時の日本の支配層は共産主義に強い拒否反応を示したのか。やはり1917年に起きたレーニンのロシア革命が原因である。革命家のレーニンはロシア帝国を共産主義国家に作り変えるために、皇帝一家を銃殺刑に処した(ロマノフ王朝の滅亡)。それに飽き足らず、ロシア貴族五百名を次々と処刑していったのである。「共産主義国家に王様と貴族はいらない」というわけである。これに世界中の王侯貴族や大ブルジョワたちが反発しないはずがない。 今のIS「イスラム国」の首斬り処刑の映像と同じ意味を持ったろう。

日本共産党は、第三(次)インターナショナルという世界に広がった共産革命運動の日本版として設立されたのだから、形式上は、第三インターナショナルの参加国のひとつに過ぎないソ連共産党の、実質的な操られ団体だった。このことが、先々、各国の共産党の悲劇と多くの対立を産んだ。

日本の頑迷な反共人間であった田中義一(たなかぎいち、山縣有朋の子分)首相らは、内務省と治安警察を重視しており、日本共産党がソ連の南下に呼応して騒乱を起こす、と危惧した。

田中義一首相は長州出身であり、吉田松陰を敬愛する長州人だった。金(かね)に汚いという醜聞もあった。ウラジオストックへのシベリア出兵=ロシア革命干渉戦争=の時に、田中は、巨額の軍資金を裏ガネとして確保した。そのカネを日本国内に密かに持ち込んで、この資金で、政友会の代議士たちを買収して、自分自身が政友会の総裁になった。そして首相になる。この時、三井ロスチャイルドの政友会の伝統が、内部から壊されたのだ。田中義一は、政友会=三井財閥の中に、計画的に潜り込んできたスパイなのである。

陸軍出身で長州閥の田中にとっては、ソ連とその前身であるロシア帝国の南下は強く警戒しなければならないものだった。この考えが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の柱になっている考えだ。朝鮮半島は、日本にグイと突き出したロシアの刃物のように考えられた。

田中義一らはそのために革命運動である日本共産党の活動は徹底的に抑え込まねばならない。天皇に危害を加える可能性のある共産主義は到底受け入れられないものだった。

田中義一首相亡き後(1928年6月4日、満州某(ぼう)大試事件=張作霖爆殺事件の責任を、天皇から叱責されて、辞職して、その直後に急死。暗殺説有り) 、日本は内務省や文部省が共産主義取り締まりを熱心に行っていった。


田中義一

カール・マルクスの「資本論」が大ベストセラーとなった(河上肇=かわかみはじめ=の翻訳)。日本全国の大学でも学術書としても読まれるようになった。そこで、当局は右翼評論家で反マルクス主義の理論がしっかりしていた蓑田を都大学に行ってもらうことにした。蓑田に共産主義思想にかぶれている京大生たちを説得してもらおうとしたのだ。

これに反感を抱いた京大生たちは蓑田にブーイングを浴びせた。現に飢えている多くの貧乏な国民を助ける思想であるマルクス主義は間違っていない、と蓑田に質問を浴びせた。蓑田は淡々と丁寧に学生たちに答えていたが、内心は穏やかではなかったろう、と私は推測する。

蓑田は東京に帰るとすぐに自分の原理日本社という言論誌に評論を書き始める。「マルキスト滝川教授を排撃せよ! 」という過激なものだった。滝川が京都大学の学生たちをマルクス主義に洗脳したように蓑田は考えた。滝川教授は、一般向けの評論活動や啓蒙活動はしていない学者だった。蓑田は滝川のことを全く知らなかった。だが、蓑田にとって、滝川こそが京都大学の赤い大学教授に見えたのである。

これに呼応するように動いたのが原理日本社の購読者である右翼政治家たちだ。右翼政治家で治安維持法の制定にも暗躍した小川平(おがわへい)吉(きち)の義理の息子である右翼政治家宮澤(みやざわ)裕(ゆたか)が滝川教授と斎藤内閣を攻撃した。 このように、蓑田の危機感を煽ったのが前述した京都大学での講演会という些細な出来事だったのである。

私は、この京大講演会からが、綿密に仕組まれた罠だったのではないか、と考えている。なぜなら、この講演会で蓑田を攻撃した学生たち、というのがのちの有名人ばかりなのである。

(引用開始)

『京都大学百年史』は、この日の様子を次のように記述している。

「蓑田は河上の研究態度を一面的であると批判し、ロシアを国家資本主義だと論じて、聴衆から猛烈な罵声を浴びた。滝川は司会者に聴衆を静めるよう注意したが、いきり立つ聴衆は司会者の言葉に耳をかさず、蓑田は小一時間も立ち往生した後、講演場を去った。後援会後の座談会でも学生たちは蓑田を攻撃したため、蓑田は逃げるように京大を出たという。実はこれは、宇都宮徳馬、水田(みずた)三喜男(みきお)、勝間田(かつまた)清一(せいいち)ら京大社研の学生が打ち合わせておいて実行したことであった」

ここに名前があがっている、宇都宮徳馬(後に自民党代議士)、水田三喜男(後に自民党代議士、大蔵大臣)、勝間田清一(後に社会党代議士)の三人は当時の社研で最も活動的だったメンバーだった。なかでもボス格だったのが宇都宮徳馬である。

(立花隆『天皇と東大 下』61、62ページ)

(引用終了)

ここに宇都宮徳馬(うつのみや・とくま)という、のちの自民党の大物代議士であり、リベラルな保守政治家として知られた男が登場する。この宇都宮こそが、蓑田を罠に仕掛けた張本人だったと、私は考える。宇都宮徳馬の父親は陸軍の宇都宮太郎大将で裕福な家庭に生まれた。


宇都宮徳馬

水戸高校に通っていた宇都宮徳馬は同級生の水田とともに、共産主義のイデオローグとして一世を風靡していた、新聞連載「貧乏物語」で評判を上げた、“謹厳実直の帝大教授“河上(かわかみ)肇(はじめ)博士に憧れて入学する。こうして、宇都宮は河上の弟子になった。

1930年に宇都宮は治安維持法で逮捕されて、投獄されている。もちろん、京都大学は退学となった。一年ほど投獄されていた宇都宮は転向して保守派となり、戦後は国会議員になった。

このときに宇都宮が取り入ったのが鳩山一郎と石橋(いしばし)湛山(たんざん)だ。(石橋湛山は、戦後、・・・わずが、2ヶ月だけ首相をした。アメリカの政治謀略で、体調を崩したとして辞任。)

石橋は戦前はジャーナリストをしており、自ら主筆かつ社長を務めた「東洋経済」誌で論陣を張って、浜口内閣の金(きん)解禁政策(1929年)に反対した、先見の明の有る、優れた、気骨のある言論人として知られた。
この鳩山・石橋が、GHQの反共右翼のウィロビーや吉田・白洲コンビと対立してきたのはこれまでに強調してきた通りだ。

転向した宇都宮は保守派となったが、その政治信念は共産主義者となんら変わらなかった。鳩山亡き後、石橋湛山の最側近となった宇都宮は自民党では「左翼にさえ近い」と言われたリベラルな政治家になっていく。

ソ連からの指令で南ベトナムのホー・チ・ミンが決起して フランスが敗れると、いわゆるベトナム戦争がはじまって、1967年からアメリカは南ベトナムに侵攻する。これを受けて、日本では「ベトナムに平和を! 市民連合」のべ平連運動が巻き起こる。この運動の旗手になったのが小田実(おだまこと)だ。市民運動家だった小田に資金を与えていたのがなんと自民党の宇都宮だった。

北ベトナムのホー・チ・ミンを応援するということは冷戦(ザ・コールド・ウォー、米ソ対立)の当時において、世界基準では、ソ連共産党の肩を持つ、ということだ。転向した保守派であったはずの宇都宮の行動は矛盾している。

宇都宮は中国とのコネクションもしっかりと持ち、北朝鮮の金日成主席にも何度も会いに行っている。親北朝鮮、親中国の政治家、それが宇都宮の戦後の顔だった。 ここまで読まれた皆さんは、宇都宮徳馬が、老いてから共産主義者戻りをした、と見えることだろう。しかし、私は宇都宮徳馬は、リベラルに見える保守派、共産主義者のふりをした、実は、その正体は筋金入りの反共右翼であったと考える。

次回は、宇都宮徳馬から日本右翼の大物である小川平(おがわへい)吉(きち)の人脈について、見ていく。小川を調べると驚くべき事実が次々と出てくるのである。

津谷侑太(つやゆうた) 筆

(参考文献)

立花隆『天皇と東大 下』(文芸春秋、2005年)

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