「1539」番  俳優 高倉健(たかくらけん)の生き方 と死に方について考えたこと。 副島隆彦 2015.6.27(転載)

副島隆彦です。 以下の私の文は、 会員ページに 一昨日、載せたものです。 こちらにも転載します。

私が、この4月に 弟子たちとの集まりの時に話した内容です。 これは「俳優 高倉健の生き方のすばらしさについて 」です。 この文は、日本文化論であり、評論家である副島隆彦の人物論であるだけでなく、1960年代から現在に至る日本国民が生きた時代考察でもあります。

私は、こういう人物評論や時代考察が好きです。ですから、この文をこの広報ページにも載せますから、私がこの15年間の間に書いた いろいろの人物評論に興味のある人たちに、新たに学問道場の会員になって貰(もら)って過去の「今日のぼやき」を読んで戴(いただ)きたいので、こちらにも載せます。

私が、弟子たちに向かって話した内容には一切手を入れていません。こちらに転載するに当たり、最小限度、不正確な箇所に手を入れ(加筆修正)しました。会員の人は、再度お読みください。  副島隆彦 記

副島隆彦です。今日は2015年6月27日です。高倉健(たかくらけん)という有名な俳優がいます。今日は高倉健という人物について私の考えをまとめて話します。

もうだいぶたちましたが、高倉健が去年(2014年)の11月10日に亡くなりました。83歳でした。1人の有名な俳優が死んだということで、彼が生きた時代は彼よりも20年後に生まれた私が同時代人(コンテンポラリー・マン)として大きく重なるわけです。だから、彼にあらわれた日本の戦後の、戦後どころか現在に至るまでの私にとっての40年間の日本国民の生活とも重なるということでお話しします。


高倉健(1931-2014)

この高倉健という俳優の映画を見たことのある人と、全然知らないと、恐らく今の40代から下の人は名前さえ知らないかもしれない。ただ、ものすごく有名な俳優ですし、彼はそれこそ300本ぐらいの映画に出ているわけですから、テレビの深夜放送で旧作が流れてたりして、かなりの人が知っているはずです。ですから、そういうことを前提にして話します。

私は高倉健の映画をそんなに見てきたわけではないし、ファンでもないです。ただ、同時代を生きたということにおいて、日本の俳優の中では一番有名な映画俳優10人の中の1人に確実に入る人ですから、私が日本知識人として「私たち日本国民が生きた時代の観察」の一コマ(一環)として取り上げないわけにはゆかない。彼の映画作品と、彼の周辺の映画業界の人間たちのことを中心に話します。

それで、そのための資料になるのは「ウィキペディア」です。ウィキペディアというのは、これまで私が何度も書いてきたとおり、これはアメリカのCIAが管理している恐ろしいインターネット上の情報収集用の道具です。有名人の人物像をウィキペディアで引くと、全部出てきます。人物像の簡単な描写のことを英語ではプローファイール profile といいますが、高倉健ぐらいになると私がプリントアウトしたら21枚もありましたから、相当な情報量です。

それで、CIAが世界中のウィキペディアを管理しているのだけど、日本においては共同通信や時事通信の記者たちが、この書く作業、書いてネット上のウィキペディアのページに載せたり修正したりする作業をやっているはずです。そして、電通(でんつう)という大きな広告会社が絡んでいます。高倉健という俳優の業績や人柄やこれまでのエピソードなどをアメリカのCIAが知っているわけがないですから、これは専ら日本人の、要するに通信社や広告代理店の係り員たちによって書かれたものだということです。

高倉健のページを誰が書いたのかは一切明らでない、このことが非常に問題である。ウィキペディアというのは文章責任(文責=ぶんせき=)というのをとれない、誰が書いたかを一切明らかにしない、ものすごく悪質で犯罪的なメディアです。このことをやはり私は、初めに言っておかなきゃいけない。私、副島隆彦は日本国民言論人としてこういう大事なことを堂々と、はっきりと主張します。文章責任をとらない、発行者が誰なのか、書き手が誰かもわからない、こんなことをいつまでも許してはいけない。これは言論、眼メディア犯罪だ。

私はウィキペディアとの闘いを過去に自分で経験しています。いくら私についての偏った記述を訂正せよ、と申し込んでも、相手が出てこない。どこに、その「(投稿者たちの)編集委員会」があるのか明らかにしなかった。

現状として、今の日本のすべての出版社の編集者たちやら新聞記者たちが、ちょこちょこっと、毎日10回どころか、20回ぐらいこのウィキペディアを検索して見ています。私はその様子を目の前でいつも見ているから知っている。事件とか有名人とかのキーワード等を検索すると、ほとんど必ずウィキペディアに行き着きます。だから、みんながウィキペディアを使っている。

それなのに、「ウィキペディアを参照しました」とはどこにも書いてない。これは恐ろしいことで、今の日本の出版業やテレビ、新聞の衰退という問題も、ウィキペディアみたいな恐ろしい根拠のない(裏のある)「インターネット上のフリー(無料)の百科事典」(この表記は最近、外したのか?)と銘打っている情報源を、新聞記者や編集者たちまでが、根拠にしていることの恐ろしさということが現に起きている。

私はウィキペディアという謀略メディアとの闘いを自覚しているがゆえに、逆にウィキペディアの記述を徹底的にマークしようと考えています。こういうことを考えるのは今のところは、日本では私ぐらいではないかと思います。

ウィキペディアは、ウソは書いてない、事実しか書いてないというフリをしていますが、本当はいろんなところで破綻(はたん)というか、奇妙な現象が起きています。
例えば権力者や大企業の経営者とか右翼の大物とかそういう人たちの経歴とか事件とかに関しては、ウィキペディアはかなり捏造、変造しています。かつ、本人が文句を言ったんでしょう、消されて(全面削除)いるものもかなりあります。そういうこともおかしい。私、副島隆彦に関するウィキペディアの記述が非常におかしい。このこともこれからの私たちの重要な課題とします。

さて、高倉健という映画俳優、スターの人生や横顔については、政治問題が絡まないから、かなり正確に記述されていると言える。高倉健は週刊誌でたくさんネタにされて私生活を書かれたりしたと思う。ただ、このウィキペディアの良さというか、週刊誌ライターのような、芸能人・有名人の私生活を暴き立てるというスタイルで書いてなくて、それらを前提にしながらも、新聞記者、通信社レベルでは割ときちんと、あまりにひどいプライバシーについての記述のところは見せないようにして書かれている。そこが良いとも言えます。

そういうわけで、昨年83歳で死んだ有名俳優だから、小さいころからの話をしてもしようがなくて、私が一番気にしていたところから先に話します。

私にとっては、「東映やくざ映画」というのがありました。これが1960年代からものすごくはやったのです。70年代までずっとやくざ映画がはやったと言えます。しかし80年代になると、ヤクザというのは暴力団のことですが、彼らは自分たちのことを自尊心で、任侠(にんきょう)とか、アウトロー(はみ出し者)と言いますが、この暴利力団たち(日本版のマフィア)の 昭和から戦前・戦後のやくざ者たちの争い、戦い、殺し合いみたいなものが映画館というところで堂々と公開されていて、みんながそれをたくさん見に行ったという時代が本当にあった。それが日本国民が憧(あこが)れる芸能人としての国民のヒーローたちでした。今となると不思議な気もしますが、そこが私にとってまず大事なことです。

今、日本の警察庁(けいさつちょう。全国自治体警察の元締め。警視庁は少し格が下)が、組織暴力団の壊滅(かいめつ)作戦を実施していますが、これは、アメリカの財務省(トレジャリー・デパートメント)の命令と指図(さしず)に拠(よ)るものです。 あるいは、半ば秘密の世界警察庁長官会議(あるいは内務相会議、政治警察の機構)で話し合われてい決議されてたことの実行です。 何故なのか? このことは、そのうち纏(まと)めて話します。

高倉健というと彼の代名詞のように言われる、「網走番外地(あばしりばんがいち)」というシリーズが18本ぐらいある。あと、「昭和残侠伝(しょうわざんきょうでん)」というシリーズがあります。それから、「日本侠客伝(にっぽんきょうかくでん)」というシリーズもある。この三つのシリーズで、デヴューからの15年間ぐらい彼は生きている。彼の生涯で大事なのは、1976年(昭和51年)です。この年が転換期でして、このとき46歳ですかね。このときに東映をやめている。やくざ映画の主演をずっとやっていたのですが、もう続けるのが嫌になったのだと思う。46歳というのはもうでき上がっている年齢だし、社会人としても一人前です。そしてその頃、アメリカの大きな映画会社からの声がかかったり、あとは松竹と東宝という大きな競争会社の映画会社があって、そっちのほうから声が掛かったということで、「東映やくざ映画」から足を洗ったということが非常に大事なことです。

ですから高倉健という人は、46歳から後はもうやくざ映画はやめた。このことを理解しておく必要があります。映画「ザ・ヤクザ」とか、マイケル・ダグラスと一緒に出た「ブラック・レイン」という映画には、その直後にも出ていますけれども、全体はもうやめてしまった。私は見てないけども、「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(・・年)というのが非常にヒットしたらしいです。それから「野性の証明」、これは角川春樹(かどかわはるき)事務所ですね。薬師丸ひろ子と出ていた。それから、「南極物語」というのがあって、タロとジロという犬が「宗谷(そうや)」という南極観測船で1957年に南極に行った。それで、50頭ぐらいの犬ぞり用の犬たちをほったらかしにして帰ってきたんですが、その3~4年後に行ったらまだ2頭だけ生き残っていたという感動物語を中心にした、大変ヒットした映画です。

最近(といってもかなり前ですが)には「鉄道員(ぽっぽや)」 (・・年)というのもありました。あと「新幹線大爆破」という映画で、新幹線を爆破しようとする犯人役を演じました。これはヨーロッパで受けて、フランスあたりでこれと似たような列車爆発物の映画になったようです。それから、「八甲田山(はっこうださん)」という映画(・・年)がありまして、戦前(・・年)、秋田県、青森県の八甲田山という非常に大きな山で、陸軍の雪中行軍演習(せっちゅうこうぐんえんしゅう)のときに何十人か死んだんでしょうが、その事件を扱った映画で、これもヒットしました。加山雄三も出ていた。

しかし、60年代末から70年代初めに学生時代を生きた、私たち若いサラリーマンにとっては、「網走番外地」の中の緋牡丹(ひぼたん)のお竜(「緋牡丹博徒(ひぼたんばくと)」)という作品が非常に印象深かった。私も何本かは見ているけども、シリーズ作品がたくさんあるから何が何だかわかりません。

高倉健がヤクザ映画に出ていた時期、例えば1969年というのは、私はまだ高校生で九州の田舎にいましたが、これは日本の学生運動というか東大闘争を中心にする学生運動のピークの年です。全国で、それこそどこの大学も、国立大学を中心に、大抵の私立大学でも数十人から数百人の活動家というのがいて、大学闘争(学園紛争とも言う)というのをやっていた時代です。

この時代の荒れた雰囲気とこの暴力団映画がなぜか非常に時代に合っていた。今から考えると、高度経済成長期の、元気の良かった日本人のエネルギーの発散だったんですね。
だから、「背中(せなー)で鳴いてーる、「唐獅子牡丹」(からじしぼーたーん)」という歌を高倉健自身も歌っていまして、低い声で、これが非常にヒットして、居酒屋みたいな飲み屋に行くと、みんなでこればかり歌っている時代が本当にありました。今では歌舞伎(かぶき)界の立派な奥様になっていった藤(富司)純子という女優さんがいて、この人と高倉健が共演で出ていた映画がかなりありました。

それで、私がウィキペディアの高倉健のところを見てびっくりしたのは、三島由紀夫と非常に意気投合している点です。1970年11月に三島は死んでいます(45歳)が、それは、今の防衛庁ですけど、そこに突入、したわけじゃないけども、楯の会という三島由紀夫に心酔していた70~80人の若者たちを集めてバスで出かける。そこで、東部方面隊(とうぶほうめんたい)と戦後は呼ばれている、戦前は、大本営(だいほんえい)で、陸海軍統合本部が在ったところだ。ああ、そうだ、明治時代からの陸軍士官学校も確かあそこだった。その自衛隊の市ヶ谷駐屯地の最高幹部の部屋で、談笑していたら、突然、三島が刀を抜いて脅迫して、幹部たちを縛り上げて、それでその司令官室に立てこもって、2階のバルコニーから、自衛隊にクーデターを呼びかけた。防衛庁の幹部職員たちが、下に集まって、「ばかやろう」とか「何いい気になってるんだ」とか、下からわめいていたわけです。このあと三島は自刃(じじん)した。


バルコニーから部屋に引き返してて、腹を切って、介錯(かいしゃく)というんだけど、首を森田必勝(もりたひっしょう)とかほかの3人が切り落とした。森田必勝も、まだ19か20歳の早稲田大学の貧しい家の出の学生だったけど切腹して、それをほかの2人が首を切り落としてした。それも血だらけになって。首を切るなんて、本当は切れるわけないんだから、大きな包丁でガッツンガッツン切って、何とか血の海の中に、二つの首をごろっと並べて置いてあったということです。


森田必勝(1945―1970年)

今日は、この三島事件のことはもうこれ以上は話しませんが、三島由紀夫と仲よかったということは、恐らく高倉健とホモセクシュアルの関係だったのですね。やっぱりものすごくそういう関係にあった人のようです。石原慎太郎もこれに絡んでいます。名前がちらっちらっと出てきます。

話がすこしそれますが、高倉健が亡くなった時に、追悼記事のインタビューに答えた梅宮辰夫(うめみやたつお)がこの高倉健のホモ関係についてちらっと語っていました。その記事は「東京スポーツ」に出ていた。

(貼り付け開始)

「梅宮辰夫 健さんと長嶋氏「深夜の密会」を追悼告白」
「東京スポーツ」2014年11月18日 17時53分

俳優の高倉健さん(83)が10日に死去していたことを受け、俳優の梅宮辰夫(76)が18日、都内の自宅で取材に応じた。うっすら涙をためた梅宮は突然の訃報に「ただただ、悲しい。心の支えがなくなりました」と言葉を詰まらせた。

健さんとの交流は55年以上に及ぶが「仕事よりプライベートでご一緒する方が多かった」。最後に会ったのは健さんが主演映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年公開)の撮影を行っている最中で、「たまたまスタジオが隣りだったので、あいさつにうかがった」という。

“ミスター”こと長嶋茂雄氏(78)と健さんのマル秘エピソードも明かした。ずいぶん昔のことだ。「夜に横浜にある老舗(しにせ)のオカマ・バーにホステス同伴で行ったら、そこに長嶋さんと健さんが向かい合って座って、コーヒーを飲んでいたんだ」
梅宮に気付いた健さんは「そんなことしてないで台本を覚えろ」とチクリ。梅宮は渋々その場を後にしたというが、帰りがてらホステスに、「よく考えたら私たちより、おかしいのは(深夜にミスターと密会する)健さんよ」と言われ、梅宮はハッとしたという。

「翌日、健さんには『おかしいのはそっちですよ』と抗議しました(笑い)。健さんも『そうだな』と笑っていました」 健さんの訃報(ふほう)は後輩役者から11日にうっすら聞いていたというが、梅宮は「何をバカなことを、と信じなかった」。ただ、その後(あと)なぜか無性に健さんに会いたくなった梅宮は15日に後輩の小林稔侍(こばやしねんじ)(73)に電話し「会いたいから、段取りしてくれないか」と頼んだという。
「その時、稔侍はハハッと笑って『私がどうこうするより、手紙を書いてあげてください』と言ったんだ。いま考えると稔持はあの時点で健さんが亡くなったことを知っていたのかもしれない」 そう語ると、梅宮はポツリと「会えなかったな…」とつぶやき、空を見上げた。

(貼り付け終わり)

副島隆彦です。雑誌記者は事実報道しかしないから、この程度のほのめかし記事しか書かない。これ以上は誰も見ていない世界だから。

話を高倉健と三島由紀夫の関係に戻します。三島の自死(じし)の後、高倉健が興奮状態になって、「オレは三島由紀夫の映画をつくる」と動き回っている。ロサンゼルスまで行って交渉しているようです。日本の映画会社がお金を出さないからでしょう。ところが最後は、平岡瑤子(ひらおかようこ)さんという、三島由紀夫(本名:平岡公威)の奥さま(配偶者=はいぐうしゃ=)が、いつもいつも反対して、三島の映画ができないという状況が続きました。10年後の1980年に、やっと出来た「動乱」という映画がある。これは二・二六(事件)の反乱将校たちを描いた立派な映画ですが、実際の決起があんな綺麗ごとの、立派なものだったわけないじゃないか、と私は思うけど、その主役をたしか高倉健がやっています。

その「動乱」はそんなにヒットしたわけではないですが、東映がつくっている政治映画というか、右翼の反乱将校たちの生活の様子を描いている、映画史に残る映画でした。

それから、恐らく大事なことは、ウィキペディアの記事の中にありました、田岡一雄(たおかかずお)という山口組3代目の大親分とのことです。その人の映画の主演をやっている。これはまさしく「山口組三代目」という映画です。1973年、私が大学に入った年ですが、これも東映でやっていて、それがヒットしたと思います。次の年に何と、「三代目襲名」という、この映画の続編をつくっている。



田岡一雄と高倉健

そうすると、正式組員だけでも3万人ぐらいいた日本広域暴力団の最大団体の田岡一雄自身が、東映という映画会社までやって来て、「俺はそんなことはしてねえ」とか「ここはこういうふうに描け」とか意見を言ったというんですね、楽しそうに。

このことについての証言は、歌手の美空ひばりの話の中でも出てくるし、田岡一雄自身の話にも出てくる。いろんなところで言われていることです。ですから、主演をやった高倉健は、山口組から見たら自分たちの大親分を演じた大変偉い人ということになっていたはずです。

どの程度のつき合いだったか、が大事なのです。私は高倉健という人は生身では見たことがないけど、いろんな雑誌とかを合わせてみると、非常に真面目な人だったということです。真面目というのはどういうことかというと、芸能界の一番華(はな)やかな世界を生きた人だから、大体、酒の席とか、女たちとか、豪華なキャバレーで遊んで騒ぐとか、そういう、いかがわしい行動を普通はとるものなのです。ところが高倉健の偉さは、そういう形跡がない。この人の偉さというのはそこだろうと思う。

高倉健は、「東映ニューフェイス」といいますが、その枠で採用されています。顔立ちがすばらしくて、スマートで180センチあったそうだから、要するにハンサムな男として売り出されたわけです。ほかに名前が並んでいる連中は、梅宮辰夫とか山城新伍(やましろしんご)とか、彼らはどうしても脇役のチンピラ役ですね。もう一人、松方弘樹(まつかたひろき)という人はテレビ番組にも出たりしたけれども、この人たちはどうもやっぱり身(み)を持ち崩しているというか、酒と女とばくちと麻薬で、みんな相当、人生が崩れています。松方は最近はマグロ釣りをしているようです。伊豆半島の石廊崎とか。彼が釣ったという大マグロのアラを私は魚屋で買ったことが有ります。

あと、歌手で俳優の小林旭(こばやしあきら)がいますね。小林旭は美空ひばりと結婚していたけど、私が過去のぼやきに載せた「熱海から物語 その3」で何年か前に書きましたが、本当は小林旭と美空ひばりが結婚する、その横に媒酌人(ばいしゃくにん)として田岡一雄がいた。それで何年後だったか、10年もたってないうちに離婚式というのがあって、離婚の発表のときにもやっぱり田岡一雄が横に座っていて、無理やり別れさせられたんだ、というのが副島説です。ひばりと 小林旭は、無理やり別れさせられたあとも、熱海(あたみ)の赤根崎(あかねざき)の赤根という波打ち際の立派な日本旅館で会っていた。

一般に言われているように、ひばりのお母さんがうるさかったから別れさせた、とかじゃないんです。田岡一雄が、ひばりは自分の女だ、ということで小林旭をおどしたといいますか、ひばりを取り戻したということだ、と思う。

小林旭はまだ生きていますけど、足がふらふらして、危ないよこの人、と、彼ががたつきながら歌を歌っていたのが、NHKの紅白に出たのがもう20年ぐらい前です。ですからやっぱり、麻薬と酒で相当おかしくなっていたんですね。俳優や芸能人の人たちの世界は、それが当たり前という世界です。今は、ハワイ(の、それもホノルルのダウンタウン)でやっているのかなあ。だから「芸能人はハワイが好き」というコマーシャルが有りました。

高倉健は、やっぱりナルシシストですね。私はこれまでに、20人ぐらいのナルシシストの男と会ったことがあるけど、簡単に言うと、ナルシシストの男というのは、大体自分の家に引きこもっていて、鏡に自分の顔を映して、うっとりと自分の美しい顔を見詰めるんですよ。それがナルシシストというものでしてね。いわゆる優男(やさおとこ)ですね。ハンサムな自分に酔っているだけのアホたちですね。

女がそれをやるのはまだわかるけど、男でもそういうのがいて、自己陶酔ができるタイプの人たちで。これは郷ひろみと似ているといえる。郷ひろみも、崩れなくてずっと番(ばん)を張って歌って踊っていますから偉いですね。郷ひろみ、松田聖子論も、以前、ぼやきに 書きました。

俳優業を徹底的にやり抜く、自分への美意識を中心に世界をつくって、それを頑強に守り通す。それは非常に大事なことだと言える。どんな職業でも、一徹に、おのれの人生を貫き通した人が偉いのです。苦労に苦労を続けて、それでもひとつの職業をやり通す、ということが人間として偉いことです。 ということは、多彩な趣味を持っている人、というにはダメですね。 趣味に打ち込んでいる人、というのはアホです。

だから俳優は、体と顔の線が崩れないようにする。一番大事な商売道具ですから。これは俳優にとってものすごく大事なことです。体を鍛えるとかいうことも大事です。だから、仕事一本槍(やり)といいますか、真面目な人間というのはそういうことを徹底的にする。そして健康に気をつけるということをやるわけですね。ところが元がそれとは対極の虚飾(きょしょく)の世界にいる人たちだから、華やかさが周りに満ちあふれている。

それと、「キャバレー文化」というものがあった。私はよくは知らないんだけど、戦後すぐから凄(すご)かったらしいんですよ。キャバレーというのは、それこそ500人とか1000人入る大きな。それで、それぞれにボックスがあって、大きいところは7~8人、10人ぐらい座れる。そして暴力団の親分もいれば、大金持ちに成り上がった成金(なりきん)たちもいれば、政治家たちもいれば、それから官僚たちも企業の接待で、こそこそ隠れて来ていたと思います。

要するに支配階級の男たちのたまり場ですね。そこにきれいなホステスさんたちがいっぱいいた。そのまま高級売春婦たちだ。戦前戦後は女給(じょきゅう)と言ったけども、ホステスという名前に変わったのもキャバレー文化です。以前、私の「デビ夫人論」 のところで話しました。

ラスベガスとかアメリカのニューヨークに大きなキャバレーがあるんですね。今も。そのキャバレー文化が日本にも敗戦後、すぐに入ってきたわけです。だから、日本にいるアメリカ軍の幹部たちとかも、こういうところで日本側と取引していました。アメリカの大きな石油会社の幹部たちとか、電気会社、初期のコンピューター会社の社長たちも日本のキャバレー文化の中で遊んでいるわけです。そして、必ず、芸能人の志望者の女たちをあてがいます。「あてがう」という日本語の説明はこれ以上、しません。 山口百恵さん、菊川怜(きくかわれい)さんのような女優たちでも、あてがいぶち、でしたからね。

あとはもっと贅沢になると、京都へ行って芸者さん、舞妓さんをあげて遊ぶとかいうのもやるわけです。

京都は今も別格ですが、本当に廃(すた)れてしまった東京の新橋や赤坂や、神楽坂(かぐらざか)、それから向島(むこうじま)の料亭( 「料亭文化」というのも有った )の 芸者たちのことも、そのうち纏めて話しましょう。”芸者(ゲイシャ)ガール”というコトバは、世界で通用する。高級売春婦たちの世界です。必ず女たたちは体を売ります。このことを、日本国内の国民文化ではトボケて言わないことになっている。韓国の(かつて80年代まで有った、制度的に廃止されて表面からは消えた )キーセン(妓生)と同じです。

芸者(ゲイシャ。本当は、その若い人たち)やキーセン(妓生)という 夜伽(よとぎ)をする女たちは、芸妓(げいぎ)と言うコトバが、まだ日本語にも残ってるとおり、この妓女(きじょ) という、東アジア(中国文明)の全てに存在する女たちです。日本の大和朝廷の 正式の官女(かんじょ、女官)たちの位階(いかい)の中にも残っているコトバです。

このキャバレーの文化の中で育っている、それが戦後の金持ちたちです。高倉健は、私より22歳上ですから、戦争が終わったときに14歳です。だから、戦後の焼け跡をずっと生きて大人になっている。大空襲で焼けた死体とか見ている。あとは、九州の炭鉱町の出身だから、炭鉱夫が飲んでケンカして刺されて死んでいる、その上に、莚(むしろ)を被せている、というとかも、学校に行くときに見ている。

それでも、戦後の一番いい時代を生きた世代だとも言えます。アメリカの軍人たちもたくさんいて、このヤンキー(米兵)たちから英語を習う、というようなことをした人たちです。パンパン・ガールと呼ばれた女たちがいた。

ウィキペディアの記述にありましたけど、こういうのは週刊誌の記事になっていたんだろうけど、私がびっくりしたのは、「東映の映画に主演で1本出ると、ギャラが80万円と決まっていた」そうです。映画の作品の名前の列をずっと見ていると、高倉健は、多いときで1年間に12~13本、少ないときでも8本ぐらい映画に出ています。そして、4本から5本は主演をやっているんですね。

ということは、ものすごくハードなスケジュールで動いています。ロケーションがたくさんあったと思います。スタジオの中でやる場合と、ロケーションで網走とか冬山とか海辺とかいろんなところでやったと思うんですね。そういうロケーションが当時はたくさんあった。映画産業の全盛時代ですから。まだテレビはわき役だった。だから、「俳優は肉体労働者だよ」と高倉健自身が言っています。本当にそうだと思います。

あと、待ち時間がものすごく長いらしくて、その間はディレクターズ・チェアと呼ばれている椅子に座って、付き添いの人たちとじっと待っている。ところが、高倉健はなかなかそれに座らないで、ほかのスタッフたちと同じようにずっと立っていることが多かったと言われています。それは気合いを忘れないために、だと本人が言っている。あと、現場で働いている人たちの姿をじっと見ていることが、その空気や景色や様子をつかまえる上で大事だから座らなかったと。そのあたりが彼の偉さだと思う。そのためには体力がなければいけません。体力のない人間はすぐ座ってしまうんです。私はすぐ座ってしまって、だめです。足腰がしっかりしてない。

ギャラが1本80万円というのもすごいことだ。今でいえば、簡単に言えば800万円だと思います。でも800万円というのは、安いといえば安いです。しかしそんなものなんです。ですから、それに6本出て、それ以外の収入で、それは相当の金持ちとしての生活をやったでしょうが、それでも案外厳しかったんじゃないかと思う。やっぱり東映とか映画会社というのは、かなり厳しい使い方を、自分のところに所属する俳優さんたちにした。社員ですから、社員というのはやっぱり厳しい掟(おきて)があって、それに縛られるわけですね。

一番大手で、格式があったのは、阪急(阪神も)や 東急の創業者の 小林一三(こばやしいちぞう)がつくった東宝(とうほう)という映画会社です。東宝が立派な映画会社です。 それから東京では大谷竹次郎・白井松次郎の兄弟がつくった松竹(しょうちく)ですね。竹次郎の竹と松次郎の松で松竹です。歌舞伎座も松竹(しょうちく)ですね。大阪の角座はどこだろう。

映画会社の3番手が東映で、これはやくざ路線でわっと大きくなったと言っていい。本物の暴力団の協力もあった(笑)。4番目が大映。永田雅一(“永田ラッパ”)と呼ばれている人で、この人も大だて者で、1代で這い上がって大きな映画会社をつくった人です。偉い人だったと思う。5番目が、ようやく日活(にっかつ)です。日活というのは小さな新参者の映画会社で、格が非常に低かったんです。石原慎太郎石原裕次郎は、この日活の俳優なんですね。

だから、5番目の一番ビリ会社で、格が低い映画会社だった。そのことの劣等感を石原裕次郎も慎太郎も持っていたんです。そのことをみんなが知らない。これを私は、加山雄三論というのを「熱海から物語」でいろいろしゃべりました。


石原慎太郎と石原裕次郎

加山雄三(かやまゆうぞう)というのは東宝映画の若手のプリンスだった。黒澤明(くろさわあきら)監督からも大事にされた。それで黒澤映画にもよく出ていた。役者としては下手くそな人で、歌も下手くそだけど、ただ、シンガーソングライターですから、自分で作曲も出来た人の走りだ。「湘南文化」というものをつくった立派な男だったと私は思います。今も老人バンドで歌っているようです。加山雄三は、生き残った日本のお公家(くげ)さまの血筋の上品な人です。

だから、加山雄三たちのほうが本当のプリンスで、石原裕次郎は日活ですから本当は格がずっと低かったんです。日活も暴力団映画をたくさんやりました。あとは女の裸(はだか)映画というか、「日活ロマンポルノ」という、今から見れば、ただおっぱいとかが見えて、女の陰毛、下のほうの毛なんかは映せないわけですから、それが映らない程度の映画をたくさん撮っていた。東映もやっぱりポルノ映画路線もやった。要するに女の裸と暴力団の血だらけの殺し合いみたいな、この2本立てで出来ていた。


“湘南サウンド”の加山雄三

あと一つは、私は菅原文太(すがわらぶんた)さん。この人も高倉健の後を追うように、今年の春に亡くなりました。私は彼のラジオに何回か出た後に、対談しましたので。この人は高倉健から見たら、自分の後釜の、2番手の人です。しかし高倉健は1976年に東映から離れて独立した (東映の社長だった 岡田・・氏と仲が悪くなったということも大きい)ので、だからそのあと、菅原文太が大事にされた。それは、「網走番外地」なんかよりももうちょっと泥臭い映画として、深作欣二(ふかさくきんじ)という映画監督によって大ヒットした「仁義なき戦い」で、広島の共政会(きょうせいかい)という暴力団の組が、神戸を中心にして大きく成り上がっていた山口組と殺し合いをやるというシリーズですね。

これが日本の戦後の政治史ともからまる(  児玉誉士夫論 が重要)非常に大事な一幕です。「~じゃけん」とか、しゃべりながらチャカを持って殺しに行くという男を、高倉健なんかよりもずっと下品な感じで、庶民の実感を伴って菅原文太が演じた。そのリアリティーが「仁義なき戦い」を大ヒットさせたわけです。だから、こういう流れの中で重なっているんですね。

さっきのキャバレー文化でいうと、何と、高倉健は年4回、キャバレーに出勤義務があったというんです。キャバレーへ行って、壇上に立って挨拶して、歌も歌わされたと思います。5曲ぐらい歌ったと思うんだけど、それが嫌で仕方がなかったと書いています。それでも何とギャラを一晩で500万円もらえたという。500万円というのは、今の5000万円ですよ。それぐらいキャバレー文化というのはものすごいものだったということです。

日本の大金持ちや大企業経営者たちや暴力団関係から政治家たちまでみんな集まっているわけですから、チップというのは10万円、どうかしたら100万円ぐらいぽんぽん飛んだような日本の高度成長経済の華(はな)のところを、このキャバレー文化がやったわけです。普通の庶民にはとても近寄れない世界ですね。

僕らが名前だけ知っている「ミカド」とか「クレイジー・ホース」とか、ああいう大きなキャバレーが赤坂とか六本木のあたりにたくさんあった。今は銀座のクラブとかいっても、もうほとんど潰れてしまった感じです。ちまちまして、何だかよくは知らないけど40平方メートルもないようなところで女の人が7~8人ぐらいいて、全部で20人でいっぱいみたいなところばかりになってしまった。

私はそういう文化には、ほんの少し連れていってもらって知っているだけだけれども、それはもう90年代ですから、日本が衰退していく時代の銀座の文化ですね。でも、私なんかが近寄れないような、席に1回座るだけで10万円みたいなところが、今もポルシェビルというのを中心に、銀座の六丁目、七丁目のあたりに今もあります。文化としては残っています。ただ、座っただけで10万円みたいな、あんなところに行ける大企業幹部たちがもういなくなった。それは、もう30年前から交際費100%課税という法律になって、それで日本の大企業の経営者幹部たちが会社のカネで遊べなくなった。それで銀座の灯が消えたんです。あと、不景気が押し寄せた。

「電通通り」という言葉が今も残っているけど、今は「西銀座通り」とか「ソニー通り」とか言われていますが、広告代理店の電通(今は新橋に本社の高層ビルがある)の戦後の本社があったところの、その周りにクラブがたくさんあって、そこで電通が接待をするわけです。それは、大企業の売り上げの4%は広告料という形で、会社が出すルールがありましてね、どこの会社も。そうすると、それだけでも年間100億円ぐらいになったのです。それでテレビ番組をつくる。あるいは、新聞の広告、週刊誌の広告を載せるわけだ。

そうすると、一本、一億とか、5千万円とかでテレビ番組をつくったときには、ディレクターとプロデューサーという連中がいて、その上でピンはねをする係が、電通なんですね。電通がテレビ局に仕事を卸すわけですから。だから、本当は逆なんですよ。テレビ局の方が、電通に使われているのです。テレビ、新聞というのは、今でも電通という大きな広告会社の実は下請さんみたいな人たちだ。特にテレビ、ラジオはそうですね。広告料が入らないと、それを電通からもらえないと、番組がつくれない。スポンサーからのカネは広告代理店にまとめて払われますから、テレビ局はそこから貰(もら)う。
出版社はまだ「文化を売っているインテリ産業です」というふりをしていますが、新聞社は、広告収入以外に、月に4000円の購読料を直接取れるからまだいいけど。新聞広告もやっぱり広告会社が間に入っていて、電通が一番大きいです。第2番目が博報堂で、あとはものすごく小さくなっている。

ということで、高倉健という人の生き方を見ていたら、暴力団たちとのつき合いの跡がない。これが偉いことで、ヤクザの親分たちとべたべたしないんですね。そこが非常に偉かったと私は思います。石原裕次郎まで含めて、ほかの芸能人たちは、やっぱり暴力団たちとのつき合いが非常に深くて、それで必ず、それこそ必ず、彼らはやりますが、必ず弱みを握られて、トラブルを必ず起こしています。

高倉健のスキャンダルとゴシップは、奥さんにした江利チエミという人とのことです。最後には江利チエミさんが引いて離婚しました。彼女はおそらく、そのあと45~46歳で死んでいますが、「三人娘」といって、雪村いづみと、誰だって、園まりかな、大変大事にされた映画女優たちですが、彼女のお姉さんという人が精神障害者で、妹に嫉妬して、高倉健と江利チエミ夫婦をしゃべってスキャンダルにしてしまう。お金を盗むとか、たくさん借金をこしらえるとか、で迷惑をかけたらしいです。それで江利チエミも、まあ麻薬だと思うけど、薬を飲んで、お酒を飲んで死んだということになっていますが、・・・死んでしまった。

だから、日本社会の芸能界の裏側の暴力団や麻薬絡みの恐ろしいところと近いところで高倉健は生きています。しかし、自分の身を持ち崩していないということは非常に大事なことで、これが彼が映画俳優として成功した本当の理由だと思う。ロケーションの現場でも、どんな人にも頭を下げて、いつも謙虚な態度をとり続けたらしいです。

このことから一番学んだのが、ビートたけし(北野武)ですね。しかし、ビートたけしはやっぱり本来的な、本性からしてやくざ者ですね。浅草漫才芸人ですから。自分の子分たち(たけし軍団)に対して、まるでやくざ者の親分のような風体で接していましたね。それはもう一生変えられないものでしょう。その人がもって生まれたものだ。たけしは、今もヤクザ映画を撮り続けているでしょう。


晩年の高倉健と映画で共演した北野武

高倉健は、まめにお礼状を書くとか、自分のお世話になった映画監督とか先に死んじゃった女優さんとかのお墓参りに、何気なく行って墓の掃除をするとか、そういうことをずっと高倉健はやっていたらしい。この姿が一番、日本人的でいいですね。それが周りに対する印象を非常によくしたんだと思います。

あと、いつも私が気になっていたのは、中国で高倉健はものすごく売れたんですよ。爆発的、と言ってもいいぐらいに。私は見てないですけど、今から見なきゃいけない、「君よ憤怒(ふんぬ)の河を渉(わた)れ」という映画です。これは1976年ですから、要するに東映から独立した年です。自分の会社をつくるわけですね、自分のお父さんか近親者に経理とか交渉事をやらせて、自分で直接お金を稼げる立場になったわけです。それで収入は恐らく一気に10倍にふえますからね。独立して、嫌がらせがないと、すぐにそれぐらいになる。もう給料が映画1本当たり80万円なんてものじゃないですから、きっと。

この「君よ憤怒の河を渉れ」は、何と中国人の半分以上が見たと言われています。ものすごく大ヒットした映画で、だからこそ中国人は誰でも高倉健のことを知っている。高倉健の訃報も大きく中国で報道された。あと、山口百恵のことも中国人はよく知っていますね。「赤いシリーズ」とか、そういうテレビ番組を中国でずっと流したらしい。あと、中国の子供たちは、連続テレビ漫画の「一休さん」が大好きです。「トン、トン、頓智(トンチ)の一休さん」とか歌うのかな。多くの中国人が、あの歌を知っている。あとは何だろうか。石田あゆみとか、まあ、幾人かいるんだけど、歌でいえば「北国の春」か。中国人にとって一番大事なのは高倉健と山口百恵ですね。

なぜかというと、1976年の作品で、3年後の1979年に中国で、映画館で上映されたんでしょう。そこへみんなが押しかけたんですね。1979年というのは何かというと、鄧小平(とうしょうへい)が復帰した年で、まさしくこの1979年に「改革開放(かいかくかいほう)」政策が始まったんです。毛沢東時代の、残忍で残酷な、餓死者が恐らく1億人ぐらい出た激しい文化大革命というのが、1966年から1976年(毛沢東の死)の、失われた10年間です。1977年には鄧小平が一回、復帰するけどすぐに失脚した。まだ反対派がいまして、鄧小平のことを「資本主義に走る走狗(そうく)」ということで、走資派(そうしは)と言って、たたき潰そうとする動きがありました。しかし、79年になると、もうこれ以上の、餓死寸前の貧乏はもう嫌だ、という中国民衆の地底(じぞこ)から湧き興るような、必死の願いと指導部が団結して、「何が何でも豊かな国になる」という方針が固まったんですね。

その年に、日本に学べという声が湧き起こった。
これは私が、石平(せきへい)さんと話してはっきり聞いたけども、1980年代の10年間というのは、隣に日本という先進国の、自分たちと同じアジア人種なのに、すばらしい豊かな高度資本主義国になった日本という国があるじゃないか、ということで、この10年間は、中国人は日本にものすごく憧(あこが)れたそうです。

ところが、1990年代に入って、1992年からは、江沢民という馬鹿やろうが出てきまして、江沢民が指導者になった途端に反日運動を始めるわけです。自分自身が漢奸(かんかん、日本軍のスパイ)だった過去があったからだ。だから、中国で日本に対する軽蔑感と反感が湧き起こっていった。

日本をあしざまに悪口を言い出したのが1990年代です。2000年代になって、胡錦濤(こきんとう)と温家宝(おんかほう)の体制になったら、また日本との関係をちゃんと見直して穏(おだ)やかにやっていこうと変わりました。

江沢民が 上海閥(=石油閥でもある)の頭目(事実、上海市長をしていた)と言われて、どんなに愚劣な人間だったかはここでは、言ってもしようがない。それが1990年代の10年間は中国の最高指導者だった。それの子分たちが今どんどん失脚しています。石油閥、上海閥というのは腐敗した中国の幹部たちの暮らしを象徴する存在だった。それでも、中国はその間に腐敗しながらも、ものすごい成長を遂げて豊かになりました。私は、10年前から、中国研究本を、ずっともう10冊書いてきたから、大抵のことは知っています。

中国の巨大な成長を、日本人は今も正面からきちんと見詰められないし、ヨーロッパ、アメリカの白人たちも理解できないそうです。何でいつの間に、こんな巨大な成長を、たった30年で中国が遂げたか、がわからない。分からなくて、貶(けな)しているだけだ。この中国の巨大成長への驚きこそは中国分析の非常に大事なところです。だから、中国のことを悪口ばかり言って、けなして見下して、気持ち悪いとか、穢(きたな)いと書き続ける人たちの気持ちが、私はわかるけれども、やはり中国という国が超大国にはい上がっていくプロセスとして見なきゃいけない。

今から180年前の1842年までの3年間のアヘン戦争で、イギリスにぼろ負けして、アヘン、麻薬を中国でいっぱい売られて、中国の支配階級が阿片で脳タリンになって以来の屈辱の150年を、中国が吹っ切れて、そこから脱出して豊かになっている。だから、本当は一番悪いのはイギリスだ。中国人はもっとそれをはっきり言わなきゃいけない。日本軍国主義からの被害ごときは、それに比べれば大したことないんですよ。そのことを中国人は知っていると思う。今、フランス、イギリス、ドイツにも、中国人の頭のいい若者たちが学びに行っていますから、それらのことも全部わかっているでしょう。

それで、だからこの「君よ憤怒の河を渉れ」という映画は、北海道が舞台で、犯罪者を馬に乗って刑事が追いかけていくという映画らしいですが、私はまだ見ていません。これに何でそんなに中国人が感動したかもまだわからない。しかし、ここに大きな何か解くべき謎がある。立派なハンサムなカッコいい日本人俳優である高倉健が、何か非常にすばらしい演技をしたんだと思う。それできっと中国の満州の荒野を駆けていくような馬の走り方とかをしたんでしょう。あとはわからない。

この映画は先ほどの永田ラッパと呼ばれている大映の社長がつくっている。これに、徳間書店社長の徳間康快(とくまこうかい)という、この人も先見の明のある立派な人だった、なんかも資金を出して、まだ貧乏だった中国に持ち出したんですね。まだ1979年というのは中国では、月給が恐らく日本円で1000円もないですね。500円だったかもしれない。そういうときの中国ですよ。普通の庶民は月給が100円だったかもしれない。ということは、庶民(人民)の年収は1000円みたいな国だった。今はそれがようやく3000元ぐらいと言われている。貧しい民衆でもですよ。だから、1元=20円だから、一気に、月給6万円までなっている。大卒サラリーマン階級たちは今はもう20万円ぐらいまで来ましたので、日本とあまり変わらなくなりつつある。

ということは、月給100円だった人が、月給10万円になったら1万倍ですね。1980年代と比べても中国は1000倍の国になっていますね。物価も一万倍だ。 物価というのはそういうものなんです。日本でも、戦後すぐと比べたら、たばこ とか銭湯代とか新聞代、床屋代は3000倍ぐらいになっていま。そういうものです。戦争直後は、職業軍人で一番下の人が給料が16円だった(戦争中もずっとそう)。今は16万円ですね。自衛隊の初年兵の人たちで。だから1万倍になったんですよ。 そういう本当のことをみんなが分からない。もっと私の本を君たちもしっかり読みなさい。経済成長に伴う、ハイパーインフレというのはものすごいものであって、それが一国(いっこく)の成長経済(エコノミック・グロウス)をつくるわけです。ですから、中国で大ヒットした「君よ憤怒の河を渉れ」が非常に重要だ。私は今から研究します。

そして、これを焼き直した映画(リメイク作品)を中国側が作ります。それが日中合作映画でできた、2005年につくられた、「単騎(たんき)、千里を走る。」です。一騎の馬で千里を走るという。これはチャン・イーモウ(張芸謀)という非常に有名な中国の映画監督が撮りました。この間、ちらっとNHKのテレビで、チャン・イーモウが高倉健を回想している場面を流していた。今のNHKでも日本の民放も、中国のことを放送しませんからね。悪口とか、「中国の経済が停滞し」とかだけは、放送する。どっちが停滞しているのかよ、日本(お前)の方だろ、と私はテレビの画面にブツブツ言っています。反共右翼、勝共右翼である安倍晋三政権にヒドく遠慮して中国の作品は取り上げない。
高倉健と中国の関係というのはあまり番組にしてないですけど、中国人にとってものすごく重要な俳優なんです。中国人の半分がこの映画を見たというのですから。


「単騎(たんき)、千里を走る」のひとこま

チャン・イーモウの「紅いコーリャン」(紅高梁)という映画は歴史に残る大作です。それから、「芙蓉鎮(ふようちん)」(監督・・・・、・・年)も大作です。
この2本が大ヒットした。中国が文化大革命から脱出した後の、極貧、飢餓 から脱出した後の中国人の魂を描いた映画です。チャン・イーモウが、今も一番人気の国際女優になったコン・リー(鞏俐)を使った。

「単騎、千里を走る。」は、高倉健が出た「君よ憤怒の河を渉れ」にものすごく影響を受けて2005年につくられて、高倉健自身が脇で出演している? 、日本では大して話題にもならなかったと思います。この後の6年間は、高倉健は何をしていたかわかりません。空白です。このとき既にもう74歳です。そこから2011年まで、80歳までもよくわからない。

その後、「あなたへ」という映画に出ています。降旗康男(ふるはたやすお)という監督ですね。この人がつくった。女優の田中裕子とかそういう人たちが出ている映画だと思うけど、大きな自然の中の、大地の中で繰り広げられる貧乏そうな日本人たちの話だろうから、私はあまり興味がない。「鉄道員(ぽっぽや)」というのも北海道の田舎の鉄道の駅の駅長さんの話でしょう。浅田次郎原作。ああいうのには私は興味がなくてね。心温まるとかの、貧乏な人間関係の話じゃないかと思ったりして、そんなものを美しく描いたって、私は興味がない。私は政治人間だから背後に政治問題や人間の切実な政治思想がないと関心が向かない。

83歳で去年の暮れに死んだわけですが、今50歳になる女性と暮らしていたみたいです。この人を養女として籍に入れていますから、高倉健の遺産は彼女のものになった。売れない女優さんか何かみたいで、その人が最後まで面倒を看(み)たと思う。母親であり奥さんであり娘のようであった、という週刊誌の記事の表現がある。週刊誌はちらっと、そこまでしか書きません。そういうふうにして彼はひっそりと死んでいったわけです。内輪だけで葬式もやって。

だから、死に方としても非常にきれいで美しいです。やっぱり人間の理想の生き方をしている。最後は誰かみとってくれる人が1人いればいいわけですから。その人との関係さえしっかりしていればいい。本当にお世話になり合ったのだ、と。
あとは死体を片づけるというか、葬式なんかも大してやらなくていいという考え方に日本人自身が変わっている。だから、生き方、死に方という意味においても、高倉健はきれいに死んでいるな、というのが私の感じ方です。

ですからこういうところが、なかなかいい。すごくいいといえばいい人ですよ。芸能界なんかにいて、暴力団や麻薬やキャバレーの女たちとの、崩れた、爛(ただ)れた関係をやって死んでいった俳優たちの当たり前のような生き方に比べたら、やっぱり高倉健という人は格段に偉かったんだろうと私は思います。身の処し方というものをよく知っている人だったと思います。

副島隆彦拝

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