「1501」番 「副島隆彦の学問道場」から 新年のご挨拶。2015.1.1 続けて 「1503」番として、「1495」番の谷崎潤一郎論の第3部(終章)を載せます。副島隆彦 記

  • HOME
  • 「1501」番 「副島隆彦の学問道場」から 新年のご挨拶。2015.1.1 続けて 「1503」番として、「1495」番の谷崎潤一郎論の第3部(終章)を載せます。副島隆彦 記


謹んで初春のお慶びを申し上げます。
昨年中は重々お世話になりまして、誠に有難うございました。

皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。

本年も何卒、宜しくお願い申し上げます。

2015年 平成二十七年 元旦

副島隆彦を囲む会

続けて副島隆彦です。 元日の 2015年1月1日です。 年始の挨拶のあとに私が加筆します。

以下に載せるのは、私が、年末に書いて 会員ページに「1495」番として 載せた「谷崎潤一郎論」 の 続きの 第3部(終章)です。これを「1503」番 としてここに載せます。

谷崎論の 第2部 である「1502」番には、少し危険な内容が含まれていると私が判断しましたので、会員たちだけが読める限定としました。

今日のぼやき 「1503」番  谷崎潤一郎論。谷崎はエロス文学の美に没入していただけではなくて、時代の動きと真剣に向かい合っていた。 第3部(終章) 副島隆彦筆  2015年1月1日

・谷崎潤一郎

熱海市「前の雪後庵」にて。『潤一郎新訳源氏物語』刊行宣伝用に撮影された写真。昭和26年5月。

(転載貼り付け始め)

◯「谷崎潤一郎、未公開書簡288通が見つかる 妻、松子へ「忠僕(ちゅうぼく)としてご奉公」」

産経新聞   2014年11月25日(火)


谷崎潤一郎(右)と妻の松子=昭和9年5月ごろ(写真:産経新聞)


谷崎潤一郎が妻松子に宛てた誓約書。4行目に「忠僕として」の文字がある=25日午後、東京・京橋の中央公論新社

明治末から昭和にかけて活躍した文豪、谷崎潤一郎(1886~1965年)が妻、松子とその妹、重子らと交わした未公開書簡288通を遺族が保管していたことが25日、分かった。女性崇拝が重要テーマの谷崎文学と関連する生々しい内容も多く、専門家は「谷崎文学の総体を見直す手がかりとなる貴重な資料」としている。

松子と重子は、代表作「細雪」に登場する4姉妹のモデルとされる。谷崎は昭和2年に大阪・船場の豪商の妻だった松子と知り合う。谷崎はその後、詩人の佐藤春夫(さとうはるお)を巻き込んだ恋愛事件を経て当時の妻と別れ、別の女性と再婚、さらに離婚する。松子とは9年に同居生活を始め、翌10年に結婚。生涯連れ添った。

書簡は松子と出会った昭和2年(1927年)から谷崎晩年の38年までの36年間にわたり、内訳は谷崎が書いたものが180通、松子が95通、重子は13通。谷崎が2番目の妻と事実上離婚した8年、松子から初めて「夫婦之契(ちぎり)」(肉体関係)を許されたとして「忠僕として御奉公」することを誓約する手紙も含まれている。

今回の手紙を分析した千葉俊二・早稲田大教授は「『春琴抄(しゅんきんしょう)』などの代表作を生み出した円熟期に、実生活でも真剣な恋愛を体験していたことがわかる。谷崎の伝記も細部にわたり書き直される必要があるだろう」と話している。書簡は谷崎の遺族が長年保管した後、中央公論新社に管理を委託。来年の谷崎没後50年を機に公表を許可した。 今回の手紙を収録した書簡集は、来年1月に同社から刊行される。

〇「 谷崎潤一郎の手紙288通 未来の妻と激しい恋模様 」

朝日新聞  2014年11月26日(水)

谷崎から松子に宛てた1933年5月20日付の手紙。結婚に際して「何卒御側に御召使(おめしつかい)くだされ候」と「春琴抄」を思わせる調子で忠僕となることを誓っている=中央公論新社提供

作家の谷崎潤一郎(1886~1965)が、代表作の長編「細雪(ささめゆき)」の4姉妹のモデルとなった妻・松子やその妹らと交わした未公開の手紙288通が見つかった。谷崎が、3番目の妻となる松子に送った結婚誓約書など、2人の激しい恋愛模様を伝える内容で、後期の谷崎作品との深い関わりがうかがえる。

手紙は、戦時中の大阪に生きた上流階級の4姉妹を描いた「細雪」で次女「幸子」のモデルといわれる松子や、ヒロインの三女「雪子」のモデルとされる妹・重子らとの間に交わされた。期間は、谷崎と松子が出会った1927年から晩年までの36年間にわたる。東京都内に住む谷崎の遺族が保管していた。

出会った頃、谷崎には妻子がおり、松子も大阪の豪商の妻だった。それでも宿命的な恋に落ちた2人は、「あなた様の夢をあけ方覚めるまで見つゞけました」(松子から谷崎宛て、28年12月30日)など、熱烈な恋文を送りあった。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 (第2部からの続き) だから、私が注目した谷崎の人生は、千代子(ちよこ)夫人と別れて松子(まつこ)と結婚するまでに、それぞれ10年ぐらいかけていることだ。間にもう一人、短い期間だけ奥さんになった女性がいる。このことが谷崎論として重要なことだ。

谷崎は、自分が結婚した相手の実の妹とも、やがて恋愛関係になるという生き方をしている。このことが特徴的だ。 初期の『痴人の愛』もそうだ。 『細雪(ささめゆき)』でもそうだ。

この間に谷崎は作品をたくさん書いている。いよいよ松子と結婚して、ようやく落ちついたときがもう49歳だ。昭和10年だ。昭和10年(1935年)というのは、もういよいよ軍国主義というか、軍靴(ぐんか)の足音で、戦争に向かいつつある時代だ。

その5年前の1930年(昭和5年)が非常に重要な年で、昭和恐慌(しょうわきょうこう)が始まった年だ。3年間続いた。その前に「金融恐慌」というのがあった。それはたった1年間ぐらいの事件で、それが1926年、昭和元年と2年だ。この二つが金融恐慌だ。ばたばたと銀行が潰れた。村井銀行とか渡辺銀行とか、大きな台湾銀行(たいわんぎんこう)が潰れた。先ほど書いた 世界的に大きな船会社で 総合商社でもあった鈴木商店(すずきしょうてん)が潰れた。70ぐらい銀行が潰れた。

銀行業といったって、今の地方銀行並みの銀行がたくさんあって、その半分ぐらい潰れて、吸収合併されていった。大手の財閥系の三井や住友や三菱銀行に。だからその2~3年後に昭和恐慌というのが起きて国中が悲惨になった。本当に日本の田舎の、特に東北の農民たちに餓死者が出た。

この1930年の昭和5年から昭和8年までがものすごく大変だった。都市部でもゴハンを食べられなくなった人がたくさん出た。だからこの時期に満州とか中国、朝鮮、台湾のほうへ出ていって、向こうで一旗揚(ひとはたあ)げようという人たちもたくさん出た。食い詰め者たちがたくさん出た。女性もたくさん売られていった。

だから 谷崎文学とは何かではもうこれ以上しゃべりませんし、ちょっと話がずれる。私は12年前に書いた「預金封鎖」の続編(「実践対策編」2003年12月刊) の本の後ろのほうに、このあたりのエロ・グロ・ナンセンスの時代の話をずっと書いている。この部分は今からまた独立して復活させる。

昭和7~8年ごろ、静岡県の熱海市の海岸の 崖(がけ)の岩場から、200人ぐらい飛びおりて死んでいる。私が今、仕事用の家を持っているところの下の方だ。錦ヶ浦(にしきがうら)という。海からの高さ70~80メーターある崖のところの松の木が岩場にきれいにずっと生い茂っている、実にきれいな崖だ。

ここが極楽浄土だ、と思って、もう生きていけないということで、職がなくて貧乏だから生きていけない、周りに嫌われたから、あるいは生きていても希望も何もない、と死んだ人たちがかなりいる。飛びおり自殺だ。海に落ち切れなくてそこらの岩場に死体が引っかかったり、波打ち際の岩にぶつかったりして死んだと思う。

少しでも金銭的に余裕があった人は、さらに南に下って下田まで行って下田から、伊豆大島に渡った。そこの三原山(みはらやま)という火山の中央火口まで登って、そこから下の火口に飛びおりた人も何百人かいる。

この他に、私が 2003年に懸命に調べて書いたことである。それは、「坂田山心中(さかたやましんじゅう)」という事件だ。

湘南海岸に大磯(おおいそ)という地があって(吉田茂の私邸があったところだ)、ここで「『天国で結ぶ恋』という大ヒットした映画になった重要な事件があった。 新聞で大騒ぎされた。静岡県の良家の子女の、お金持ちの家のお嬢さまと、慶応大学の学生が 薬を飲んで、大磯の駅の裏山で死んだ。ところがその死体を――隠亡(おんぼう)と言うが、死体処理係の非差別民の男が、一旦、死体は埋められていたのだが、腐らないように。それを掘り出して屍姦(しかん)した、死体を愛したと、性欲の対象にしたといって新聞で大騒ぎになった。1932年(昭和7年)5月だ。

大騒ぎになったので、慌(あわ)てた政府は、「検死(けんし)の結果、処女だった (屍姦は無かった)」と警察発表した。それで表面上は治まったが、そんなはずはないのだ。 政府と 新聞、テレビは国民に平気で嘘をつく。私のこの文章に対しても、すぐに「ウィキペディアの記述では、屍姦はなかった、とはっきり書いています」と抗議を書いてくる者がいるが、そういう 情報統制、情報禁圧によって、歴史の真実は歪められてゆくのだと、私たちは知るべきだ。 日本国民の方は、そんな警察・新聞発表など、ほったらかして打ち破って、勝手に騒ぎ続けた。それが庶民大衆というものだ。

だから一斉に、「二人の恋は清かった」というコトバが大流行した。

それから、すぐに「天国で結ぶ恋」という映画になった。突貫工事で3ヶ月かそこらで作られた粗製乱造(そせいらんぞう)映画だ。それでも、この関連の本がばか売れして、この映画は大ヒットした。これが日本における、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスなるものの中心であり、本体かつ本態である。 日本国民が、ひどく厭世的(えんせいてき)、退廃的(たいはいてき)になって、ペシミズム とかデカダンス (頽廃、退嬰=たいえい=)とか当時も言われて、日本国民は、もうどうでもいいやで、投げやりになっていた。

貧乏と貧困がものすごい勢いで押し寄せて、どうしていいかわからない。支配者、権力者たちは大陸、中国侵略をやって中国の富を日本のものにして生き延びようとした。本当はアメリカに上手に扇動された扇動だ。 だから戦争の時代に突入していった。ニヒリズム、英語ではナイアリズム(nihilism)と言うが、虚無的な時代が押し寄せた。それが昭和5年から8年だ。多くの心中(しんじゅう)事件が起きた。

この後、国家による統制経済(コントロールド・エコノミー)に入った。食べられない貧困層が餓死してはいけない、ということで、政府による配給制になった。粗悪な米や麦を政府が、配給で割り当てで配って餓死者が出ないようにした。そしてこの統制経済 のまま戦争へ突入していく。ただし太平洋戦争が始まるまでは、まだそこから、昭和16年(1941年)の12月が真珠湾攻撃(日と米英開戦)までまだ8年あった。 そのまえに中国戦線では、1937年(昭和12年)の7月の日華事変(シナ事変)が起きたから、坂田山心中事件(1932年5月)から5年後だ。

谷崎潤一郎は、46歳にもなって、本気で松子を死ぬほど愛する。溺愛する女性の肢体を舐め回し、奴隷(下男)として足元に這いつくばって屈従する、マゾヒストの本性(ほんせい)が一生治らない。 ひたすら官能の中で生きる。彼は足フェティシズムだから、女の人の足を中心に体をなめ回すことを一生懸命本気でやリ続けた。

よくまあ、この年になってもやるものだ、というぐらいの熱心さで。それをそのまま朦朧(もうろう)とした精神状態のままで文章にする。それが文学者と言うのだろう。それらのことをたくさん小説に書いた。それが『乱菊(らんぎく)物語』であり、これも連載した。『中央公論』誌だと思う。

・森田(結婚前の旧姓)松子。谷崎が撮影した写真。

2
連載したら、その根津(ねづ)家からは、まだ松子は正式に離婚していなかった。まだ前の旦那さんがいて、根津家というのは、船場のかつては大きく栄えた呉服問屋であり、松子はその家の奥様 ( 大店=おおだな=の御寮=ごりょん=さん、 大坂では呼ぶ) だった人だから、やめてくれと言って抗議があった。『乱菊物語』の後の、ではなくて、『夏菊(なつぎく)』というのも 連載中止になっている。ところが、谷崎は、『文章読本(ぶんしょうどくほん)』という本もこの年に出して、この文化、教養ものの、文章の書き方の本の方が、かえってベストセラーになっている。

このあと谷崎と松子は正式に結婚している。1935年(昭和10年)。この後、昭和10年から15~16年、戦争直前までというのは、日本人は茫然としたまま生きていたと思う。1938年(昭和13年)に阪神で大水害が起きて、恐らく台風の大雨だと思うが、芦屋という今でも一番高級な関西地区の大金持ちの大企業の創業者一族がほとんど住んでいると言われている、この芦屋の川までが暴れ出して、そこらじゅう水浸しになったらしい。この様子が確か『細雪』の中に克明に描かれていた。

だから1923年(大正12年)の関東大震災で、京都に逃げ、やがて兵庫、神戸のほうまで逃げてきて、ここで松子を奥さんにして死ぬまで36年ずっと寄り添っている。 しかし、実際には、谷崎は仕事一筋の人だから、戦後も別居状態が長かったと思う。 この後、日本は戦争に突入していく。そうすると谷崎は、開戦後は1942年に熱海市にやってきて、温泉宿である熱海市に別荘を構える。すぐには買ってはいないで借りている。避寒(ひかん)に来ている。

太平洋戦争が1941年(昭和16年)の12月8日に、真珠湾攻撃で戦争が始まった。年が明けたら、神戸は寒い、ということで、谷崎という人はエゴイズムに徹している人だから、戦争が始まった途端に戦争を避ける。大災害も避ける。で、熱海に来て熱海で長編小説を書き始める。それが『細雪(ささめゆき)』だ。戦争中ずっと、これを書いている。そして敗戦後に出版している。まるで息せき切ったように、谷崎は小説家として、敗戦後の明るい時代の表面に出た。 なぜなら 谷崎には、「文学者としての戦争責任」は何もなかった。谷崎は、戦争を賛美するような寸文藻(ぶんそう)は何も書いていない。それが、昭和を生きた他の文学者たちとの違いだ。

『細雪』は、豪華絢爛(ごうかけんらん)な金持ち階級の、かつ男女の愛を描く小説だから、軍部の憲兵隊の検閲に遭って、連載中止になっている。それで仕方なく私家版(しかばん)で自分のお金で、公表しない形で『細雪』の上巻を1944年に作っている。家は神戸の芦屋のはずれ(今の西宮の駅から、どれぐらいなのか、私は、まだ実測していない) にあるのだけれども、かなりの時間、戦争中はずっと 静岡県の熱海にいたようだ。

ところが戦争の末期になって1945年になったら、今度は大空襲が東京を襲って火の海になった。3月に東京大空襲だ。このころになると、どうも相模湾に、米軍が上陸してくると谷崎は思ったのだろう。周囲の人たちもそう思った。 実際、グラマンというアメリカの戦闘機がそこらじゅうで、地上の日本人に襲いかかって機銃掃射をした。グラマンの操縦席から、にやっと笑う米軍の顔が見えたと、あっちこっちで言われて、その話しが今に伝わっている。機銃掃射で、そこらじゅうを撃って回っていた。その恐怖の体験は、日本国民の中に今でも語り継がれている。

だから、今度は東京に米軍が上陸すると思ったのだろう。今度は岡山県の津山とか勝山に疎開している。それで戦争が終わったら再び京都の町なかに戻った。京都はアメリカ軍が爆撃しない、空襲(エアレイド)しないとわかっていた。京都の仏像やお寺を保存して文化財を守るために、京都は焼かれないと知ったから、大金持ちたちは京都に逃げ込んでいた。

京都の一番いいところの東山区の南禅寺のあたりに谷崎は住んでいる。ここのお屋敷も今は谷崎記念館になっているだろう。そういう男だ。京都に暮らしているのだが、京都の冬は底冷えがするので、すぐにまた熱海に来ている。もう老人だ。

そして熱海に本気で住み始めている。1950年(昭和25年)から。これが雪後庵(せつごあん)という名前のお屋敷を、最初は借りてたのだけれど、やがて同じ熱海の中の伊豆山(いずさん)の鳴沢(なるさわ)に建てて住んでいる。立派なお屋敷を。私は雪後庵(それは、だから2つ有るはずだ)の跡地を今から調べようと思う。当時の木造の家はもう残っていないだろうし、人手にわたっている。

1956年(昭和31年)からは、「潺湲亭」(せんかんてい)と名づけた家に住んでいる。京都の自分のお屋敷を売り払って熱海に本格的に住んでいる。このあと、ずうっと何と13年間も熱海で暮らしている。谷崎は79歳で死ぬが、前年の78歳までほとんど熱海にいたようだ。最後に東京にも出ているが、死んだのは京都だ。お墓は京都のお寺に有る。

途中、湯河原(ゆがわら)という温泉地(熱海から北に10キロのところだ。ここは神奈川県 )の、ここは平地にある温泉宿で温泉の質がいい。この湯河原にも家を建てて、「湘碧山房」(しょうへきさんぼう)と名前をつけて暮らしている。でも最後の最後は京都で、7月30日に79歳で死んでいる。だから熱海時代が13年、プラスその前の戦争中も3年ぐらいあるので、40歳からの後半生のうちの合計16年間を熱海で谷崎は暮らしている。

谷崎は、生き方上手の人だから、あちらこちら彷徨(さまよ)って放浪したわけではない。しっかりとした生活感覚とお金の収入と出費と、自分の人生を徹底的に計算して、自分の人生を透徹して観察することに本気だった人だ。まさしく、前述して詳述したとおり、エステティシズム(耽美=たんび=主義 )の極致を貫いた男だ。最後までずっと書き続けるが、高血圧症と、それから 手が動かなくなる。長年の書き過ぎによる腱鞘炎(けんしょうえん)だろう。72歳からこのふたつの病気が起きている。だから後は、速記者による口述筆記だ。72歳から後は。

何というか、谷崎という人は、根っからの職人さん(アーチザン)なのだ。私 もこのあたりのことが非常によくわかる。いま私は61歳だが、谷崎の後を追うように 書くことに没頭している自分に気づく。 谷崎は、体の調子が悪くなっても、死ぬまでずっと小説を書き続けた。このあたりの谷崎の凄(すご)さが私にはよく分かる。しかし70歳を超した後の作品には、もうそんなにいいものはない。戦後は『鍵(かぎ)』がいい。

まさしく『瘋癲(ふうてん)老人日記』とかろくでもないものがあって、却(かえ)ってこういうのが、年齢とともに気力と創作力が衰えていった文学者の作品としては、正直と吐露であり良質だと私は思う。正直に本当のことを、自分の性欲を中心にした妄想を綴(つづ)ることで、老いさらばえながらも生きることに執着(しゅうちゃく)している老人の姿を最後まで描き続けたことが谷崎のすばらしさだ。

あと大事なことは、 戦争中は、『細雪』以外には、ずっと『源氏物語』の現代語訳をやり続けている。『谷崎源氏』と呼ばれている。さすがだなと私が思ったのはこのことだ。戦争が始まる前ぐらいに、これの現代語訳は一応でき上がっている。昭和14年(1939年)にでき上がっているのだけれど、谷崎のすごさは戦争の時代に、さっさと争い事、もめごとから、世の中の大騒ぎから身を避けて、ひとり籠(こ)もって、こつこつと自分の美意識の世界に浸るのだ。このことのすごさ、だ、と私は今、非常に感じる。感じ入るというか共感する。

私、副島隆彦は極めて政治的人間だから、政治問題 を取り扱うことの中にいつもいるように見えますが、そこから距離を置くということも知っている。冷やかに現実や事件を、遠くから、横から見詰める目、というのが文学者や知識人にはある。

だから、私は、今、ふと思い出した けど、30年ぐらい前に、NHKの教育番組で、これは役者(俳優)を使ったドラマ仕立てだったけれど、それを見た。それは、谷崎潤一郎 ともう一人、同じく大家になっていた、精神科の医者でもあった斉藤茂吉(さいとうもきち)という人がいる。斉藤茂吉は歌人で、和歌が非常にうまかった人だ。 彼は、大政翼賛(たいせいよくさん)的な戦争賛美の歌も作った。

この斉藤茂吉と谷崎が、熱海で、自分の屋敷の別荘までの山道を歩きながら、そして2人で縁側に座って。立派な屋敷なんだけど、立派と言ったって、日本の木造ですからね、当時のお屋敷は。

ガラス戸のこっちの縁側のところで、「早く戦争が終わらないかなあ」と二人で話しているんですよ。「戦争が終わってもらわないと、もうお金がなくて困ったよ」と。 大家と言っても、本が売れないし、収入にならないということだ。ここが大事なところだ。私はそれを、たまたまNHKの番組で見た。そのことを思い出した。

この人たちは、冷酷に世の中を見つめている。3月の大空襲があって、東京は焼け野原になって、たくさんの人が焼け死んで、疎開して逃げていた人たち( 小学生と中学生 は皆、学校ごと集団疎開していた。新潟県や山形県の山奥のお寺とかに。ひもじい思いをしたそうだ。そして両親が空襲で死んだ子供たちがいる。 )もいた。 金持ちは真っ先に逃げる。だから死なない。目先の仕事があって逃げようにも逃げられない都会の貧乏な人たちが死んだ。焼け死んだ。

そういうふうにどこの国の戦争も出来ている。金持ち層は死なないのだ。 それから勤労動員(きんろうどういん)や、女子挺身隊(じょしていしんたい)として組織された女子学生たちが工場の寮で死んでいる。湾岸線の軍需工場が一番狙われたからだ。名古屋も大阪もそうだ。

戦争というのは、だいたい3年半から4年間だ。このことははっきりしている。だいたい3年半か4年で終わる。太平洋戦争がそうだ。第一次大戦(ヨーロッパ大戦)もそうだ。どうやら、開戦から3年たつと、そのうち国民が、戦争が嫌になって、あれほど開戦時には熱狂したのに( 国家に騙されて)、どんどん白木の箱で、兵隊さんたちが死んで帰ってくるものだから、嫌(いや)になって、それで、戦争をやめてしまうのだ。

戦争というのは、正式の開戦から、3年半から4年で終わる。これが人類の歴史の法則だ。私は、古今東西の古代からの戦争を、たくさん調べて発見した。この事実は大切だから、皆さんも覚えておくとよい。

この太平洋戦争の3年半の間で400万人の日本人が死んだ。(満州事変=1931年9月18日からの 「日中15年戦争」のうちの終わりの3年半だ) そのうちの9割は病気と餓死だ。本当に戦争で戦闘行為で死んだ人は50万人もいなくて、あとは民間人を含めて、空襲と爆撃で死んじゃったということだ。だから1億人弱(9千万人)だった当時の日本人口の中で、400万人が死んだだけだ。

あとは、2000万、3000万人が、空襲で家を焼かれて逃げ回ったという悲惨な体験と、日本全国、食べるご飯がないから飢えた、という戦後のひどい思いをした人はたくさんいる。本当は、親子で食べ物を取り合った、ということもあるのだ。皆、そういうことは忘れてしまって、もう語り継ぐこともなくなった。書物や記録や、当時の写真集の中にしか残っていない。今年2015年は、敗戦から70年目である。

広島、長崎の原爆で一瞬のうちに、一瞬というか、その後の4カ月間までを含めて、やけどで血だらけになって死んでいった6~7万の長崎の人と、14万人から15万人の広島の人(合計20万人)が死んで、悲惨なことだった。その年末までに死んだ、昭和20年年末までの死者しか、歴史の数字としては数えない。厳格にそのようになっている。昭和21年から後の死者は数えない、死傷者の中に入れない。国家というものの計算法と、統計学的にそうなっている。

だから、谷崎と茂吉は、「早く戦争が終わらないかなあ」と、終戦を冷静に待っていた。それが知識人、言論人というものだ。横でじっと見ていただけだが、このことが大事なことだ。

熱海の北の地区である伊豆山(いずさん)というところは、一帯が、崖(がけ)みたいな土地(平地がない)で、そこの崖の段々みたいなところに、家が建っている。 岩波書店もここに別荘を持っていた。岩波書店の創業者の岩波茂雄(いわなみしげお)は信州松本の人ですから信州のほうで、病気になって伏せていて、そのあと死んだ。

「惜櫟(せきれき)荘」という。ハリエンジュ(針櫟)という木のことを惜櫟(せきれき)と言うが、この惜櫟荘と名づけられていた、この伊豆山の岩波の別荘地に、例えば”憲政の神様”とか、議会政治の神様とか言われた、本当は裏側があって、アメリカに非常に操られた政治家である、今も国会議事堂の前に「憲政記念館」がある尾崎行雄(おざきゆきお)とか、他の大物たちが、終戦時には、ここに逃げ込んできていた。この岩波書店の別荘の、惜櫟荘に。

この惜櫟荘(せきれきそう)は、今は、時代物作家の、佐伯泰英(さえきやすひで ?)氏が買い取って住んでいるらしい。私は、そのうち出版業界の伝手(つて)を頼って、お伺いしたいと思っている。尾崎行雄(右)と岩波茂雄

・惜櫟荘にて。(1942年5月)

参照:http://www.iwanami.co.jp/special/hakuyomi/special/kensei.html

当時のことを、岩波家の娘婿になった番頭さんだった男が「惜櫟荘日記」と題して詳しく書いている。有名な人たちが、ここで、戦争が終わらないかなあと待っていた。それが、世の中というものだ。

私だって、冷酷に物を考えますから、やがて日本も中国との間での尖閣諸島での軍事衝突やら、あるいは北朝鮮が作為的に、ぶっ放すであろう弾道ミサイルの一発で、日本国が一気に震え上がって、準軍事国家になっていく今の時代を、冷静に予測している。それが、これから数年かけて必ず起きる。

戦争へ向かって、憎しみを高め、国家は軍事産業にお金をかけていく時代が、もう始まっている。すべては大きく仕組まれている。そのことをしっかりと見詰めた上、私たちは冷酷に対応するべきだということだ。そのことを日本国民に知らせ、予告し、近未来(きんみらい)の予言を行うことが、私、副島隆彦の残された人生の使命、任務だ。

このように考えることが、世の中を見詰める、ということだ。だから副島隆彦の読者になってくださった人たちや、私 の頭脳の優秀さがわかる人は、どうか物事をこのように冷静沈着に見る目というものを養っていただきたい。

だから谷崎潤一郎というのは、『痴人の愛』みたいな、女性の若い女の体を偏愛することばかりに熱中したマゾヒズムと変態性欲の文学の正直な書き手であっただけの人ではなくて、本当は、対象を冷酷に見詰める、ということをした人だ。日本の時代をずっと横で見詰めながら、しかし狼狽(うろた)えない。しっかりと準備する。自分という人間の内面の世界と、世の中の動乱の世界を、両方をつなぎ合わせるように描いて、かつ時代の精神を生きた人だ。

だから戦後になったら、すぐ文学賞をたくさんもらう。彼には全く罪がない。戦争に加担したわけではないから。人々を悲惨な目に遭わせたわけではないし、日本国民を裏切ったわけではない。騙(だま)したわけではない。このことが大事なことだ。だから「文学」と言われて、その中に生きている人間たちのすごみというのは、冷酷に横から見詰めること、表現し続け、そして発表することだ。

谷崎もノーベル賞文学賞をもらえるんじゃないかで、三島由紀夫までがその推薦人に入っている。もらえなかった。結局、似たような感じだけど、川端康成のほうがノーベル文学賞をもらった。1970年ぐらいだったですか。川端と三島と横光利一(よこみつりいち)は、日本の文学の流派では新感覚派(しんかんかくは)というところに分類されている。こっちは高級な文学みたいに言われている。やっていることは、しかし裸にして眠らせている少女の体を撫でまわすとか、そういう意味においては全く変わらない。

三島は、公然たる ホモ・セクシュアリティ(同性愛)の人だった。美輪明宏(みわあきひろ)だけでなく、ここで、はっきり書くが、中曽根康弘(なかそねやすひろ)とも同性愛の関係にあった人だ。 三島由紀夫は、「三島くん。私が、400人の自衛隊の精鋭を連れてくるよ」と言った、中曽根に騙されて、市ヶ谷の今の防衛庁で腹を切って死んだのだ(1970年11月25日。享年45歳)。

あのときの防衛庁長官は、中曽根康弘なのだと、いうことを、ここではっきり書いておきます。それから、中曽根康弘と長嶋茂雄(ながしましげお)監督がホモ関係だった。このこともはっきりと書いておく。”ズルシャモ” の中曽根康弘は、長嶋茂雄の持ち家に、ある期間住んでいた。これも事実だ。中曽根の奥さんが、「あの人たちはおかしな人たちです」と発言している。  三島は、自分の文学の限界に追い詰められて死んだ、とか、当時、新聞・テレビは報道して、三島のまわりの愚劣な人間たちまでが言った(書いた)。それらは真実ではない。

だから オスカー・ワイルドという英国の文学者が非常に重要だ。谷崎は”日本のオスカー・ワイルド”だ。この指摘は、何も目新しいものではない。昔から言われてきた。

・オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルドには、 Lady Windermere’s Fan  「レイディ・ウインダミアズ・ファン」という劇作がある。これの翻訳も実は谷崎が日本では初めにやっている。

オスカー・ワイルドという人は、1856年に生まれて1900年に死んでいる(44歳。モーツアルトと同じ早死だ)。 フリードリヒ・ニーチェと同じ年の死(1900年)だ。 世紀末文学を生きた。わずか44歳で死んでいるが、ものすごく繊細で早熟だ。

彼は、『ドリアン・グレイの肖像』というのを書いて、あと『サロメ』を書いて、この Lady Windermere’s Fan 『ウィンダミア夫人の扇子』を書いた。彼は劇作家としてものすごくすぐれていて爆発的に人気があった、ロンドンで。 しかし男色(ホモ・セクシャリティ)で投獄されてしまう。日本でいえば男色なんていうのは衆道(しゅうどう)と言ってそれなりに許されてきた。お稚児(ちご)さん=美少年への性愛はそこらじゅうでやっていた。

だが、キリスト教世界では、男色はただのスキャンダルでは済まされない。犯罪だった。それでオスカー・ワイルドは告発されて、1895年に捕まって牢屋に入れられた。『獄中記』も書いている。牢屋に2年入れられて、出た後はパリに逃げて、その3年後には憔悴してパリで死んでいる。

このオスカー・ワイルドの Lady Windermere’s Fan 「ウィンダミア夫人の扇子」は、「理想の女(ひと)」という邦題で、映画でリメイクされている。これを映画論として私はすでに書いている。何というんですかね、若い女と知り合った男を邪魔ばかりする妖艶な年増のご婦人がいた。この女性が、実は自分が愛している若い女性の実の母親だったという話だ。

こういうオスカー・ワイルドにあらわれた男色系の文学が今も文学の世界の中心だろう。男色系の文学が三島由紀夫にはっきりと現れていて、やはりオスカー・ワイルドという人が今も非常に重要だ。谷崎潤一郎は、このオスカー・ワイルドが切り開き創始したエステティシズム、耽美主義という思想を文学運動として日本に持ち込み、多くの文学作品を作った人だ。このことを私たちは分からなければいけない。

これで「谷崎潤一郎の 私信(書簡、288本が公開された」(2014年11月25日に)新聞記事に触発されて書いた、私の谷崎潤一郎論を 終わります。 第1部(前半部)第2部と 併せて通して読んでください。

会員の皆さん。今年もよろしくお付き合いください。

(終わり)

副島隆彦拝

 

このページを印刷する