「1310」 ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』を読む。現在の日本で重要な意味をもつ「ファシズム」とは何かを再考する 2012年6月4日

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吉田祐二です。今日は2012年6月4日です。

 現在の日本の政治シーンにおいて、最も巷間(こうかん)を賑わせているのが橋下徹(はしもととおる)という大阪市長である。タレント弁護士あがりの政治家であるため、ふだんは政治には無関心な若者層や主婦層にまで支持されており、国政へも影響を与えそうな人物だという。

 

 誰がはじめに言い出したのか分からないが、橋下徹の政治手法を、ファシズムをもじって「ハシズム」と言うらしい。内田樹や山口二郎らによる『橋下主義(ハシズム)を許すな!』(ビジネス社)や、中島岳志、上野千鶴子らによる『ハシズム!─橋下維新を「当選会見」から読み解く』(第三書館)など一斉に橋下批判本が出版された。

 著者たちの顔ぶれから、左翼・リベラル系のひとが多いことが分かる。ということは、橋下は右翼なのだろうか? たしかに、国歌である君が代を歌っているかどうか、学校でチェックするようなことをするそうだから、右翼なのだろう。そして右翼で独裁をしていれば、左翼系のひとはすぐに「ファシズム」を思い浮かべる。そこで「ハシズム」になったのだろう。

 橋下徹の政策については、本学問道場でも中田安彦研究員や副島隆彦先生が分析されているので、筆者がふれる必要はない。それよりも、この橋下徹を批判する際に言及される「ファシズム」について、あらためて内容および定義を確認しておきたい。

 ファシズムといえば、なんといってもイタリア最大の政治家ムッソリーニ(Benito Mussolini、1883 – 1945)である。ファシズムといえばムッソリーニ、ムッソリーニといえばファシズムなのだ。そこで、ムッソリーニを調べることにしたが、現在日本語で読めるもっとも詳しい伝記は、イタリア人の外交官ロマノ・ヴルピッタが書いた『ムッソリーニ』(中公叢書)であろう。

 ロマノ・ヴルピッタは駐日大使を務め、ナポリ東洋大学院で日本文学を講じた「日本通」である。だからこの本も翻訳本ではなく、日本語で書かれた原著である。筆者は古本として本書を購入したが、献呈本であった。「○○先生」と書かれたあとに、カタカナで「ヴルピッタ ロマノ」と署名している。

 この本にしたがって、ムッソリーニの政治思想、すなわちファシズムを見ていこう。

●ムッソリーニとその時代

 ムッソリーニは1883年に生まれた。日本でいえば明治16年である。
 イタリアと日本は、近代国家の歩み方としては似ている。日本が近代国家として1868年にスタートしたように、イタリアも1870年になって国土が統一されて国民国家(ネイション nation)となった。

 19世紀は、ナポレオンによる大陸支配が終わり、欧州各国の勢力均衡を原則とするウィーン体制ではじまった。

 イタリアはその体制下で、サルデーニャ王国やシチリア王国などの小国家によって分割されていた。炭焼党(すみやきとう)またはカルボナリ党と呼ばれる革命秘密結社が決起するが失敗する(1820年)。カルボナリ党の失敗から学んだマッツィーニは「青年イタリア」党を組織してローマで蜂起しローマ共和国を宣言したが、ローマ教皇の要請によって出動したフランス軍によって倒された(1849年)。

 ウィーン体制が崩れるきっかけとなったのがクリミア戦争(1853-56)である。ロシアの南下政策に対して、イギリスとフランス、サルデーニャ、オスマン帝国の連合軍が戦い、連合軍が勝利した。

 サルデーニャ王国のエマヌエーレ2世はフランスのナポレオン3世と組み、ロンバルディアを併合した(1859年)。一方で、エマヌエーレ2世の腹心カヴールは、赤シャツ隊(千人隊)を率いる青年イタリア党のガリバルディを支援して、シチリア島を含む南イタリアを併合した(1860年)。エマヌエーレ2世と会見したガリバルディは占領地をエマヌエーレ2世に献上し、イタリア王国が成立した(1861年)。

 しかし、まだヴェネツィアと教皇領は含まれておらず、普墺戦争(1866年)と普仏戦争(1870年)を通じてようやく王国に編入された(1871年)。

 ムッソリーニが生まれたのは、そのような時代であった。

 特に、武力によって併合されたローマ教皇はヴァチカン宮殿に籠居し、イタリア国家に協力しないよう信者に呼びかけていた。そのため、国民レベルでの断絶があった。農民を中心とする信者らはしばしば国家に対して反乱を起し、またイタリアに反抗する教皇をみて多くの人々が教会と宗教から離れていった。

 後年、教会とイタリア国家とを融和させたのがムッソリーニである。1929年、教皇庁と協約を結び、教会はイタリア国家を認め、イタリアは教皇の独立を認めたのである(ラテラノ条約)。

●偉大な政治思想家

 ムッソリーニは、一般的には戦前独裁政治を行った「悪い」政治家とされている。もちろん、一般的な評価というのは時代とともに変わるものだ。

 現在の世界は第二次大戦の戦勝国(アメリカ、イギリス、フランスなど)によって書かれた「歴史」に支配されているため、彼らにとって都合の悪いことは「悪い」ことなのである。歴史はそれくらい突き放して眺めなければならない。だから、アメリカなどが、ファシズムが悪いと言ったからといって、日本人である私たちがそれに倣ってファシズムが悪いという必要はぜんぜん無い。ところが、学校の教育や、継続的に垂れ流される新聞やテレビではそのように報道するから、一般的なひとはファシズムが悪いと思い込むのである。

 前出の、「ハシズム」と言って批判するひとたちはその辺に無頓着(むとんちゃく)であろうから、「ファシズム→独裁→悪い」という至極単純な決めつけのみで批判しているのである。本当のファシズムとは何かを知らなければ、橋下を「ファシズム」とすることが妥当なのかどうかを検証することがそもそも出来ない。

 もちろん、そんな言葉の定義などはどうでもいい、橋下は独裁だからファシズムでいいのだ、と強弁するひとには何とも言いようがない。

 さて、たんに権勢を誇った政治家ならば歴史上たくさんいたが、ムッソリーニのように後世にわたって、毀誉褒貶(きよほうへん)はあるものの、いまだに論じられている政治家は少ない。それは、ムッソリーニが単なる一時的な独裁政治家ではなく、思想家でもあり、数多い業績を残した政治家だからである。

 ムッソリーニの盛名は同時代ですでに知られており、チャーチルは「ローマの精神を具現化した現在の最大の法律制定者」と呼んだ(ヴルピッタ『ムッソリーニ』、5ページ)。ルーーズヴェルトやレーニン、ガンジーまでもがムッソリーニを評価した。そしてヒトラーがムッソリーニに師事したことはよく知られている。さらに文化人では、アメリカの詩人エズラ・パウンドや、作家のモーリヤック、ゴーリキー、作曲家のストラヴィンスキーなどがムッソリーニの支持者であった。

 そのような政治家が、並の政治家であるはずがない。

●政治思想としてのファシズム

 それでは、ファシズムとは何か? オックスフォード英語辞典には以下のようにある。

  an extreme RIGHT-WING political system or attitude which is in favour of strong  central government and which does not allow any opposition
(訳: いかなる反対意見も許さぬ、強力な中央集権政府を支持する、極端な、右翼政治体制あるいは態度のこと)

 これは、英語圏においては典型的な見解であろう。しかし、これでは思想の内容がただの右翼というだけの説明しかない。ヴルピッタ『ムッソリーニ』によれば、そんなに簡単なものではない。

(引用開始)

  ファシズムは複雑な現象で、その定義について学界で定説は未だ成っていないが、最近「十九世紀後半を風靡した合理主義や実証主義に反発して世紀末に台頭した新しい思想的な傾向を統合し、政治的な表現を与えたものである」という見解が定着しつつある。(ヴルピッタ『ムッソリーニ』、6ページ)

(引用終了)

 この定義からは、ファシズムは「反合理主義」であり「反実証主義」である、ということが分かる。

 合理主義とは、副島隆彦のいうレイシオの思想、つまり儲けのうちの何パーセントが自分の取り分、というような「割合」の考え方であり、金銭の思想である。

 そして実証主義とは、ポジティヴィズムであり、これまた副島隆彦のいう「俺が決めたんだ! I said so!(アイ・セッド・ソゥ)」ということである。「人定」(じんてい)、つまり神様ではなく人間が決めたということである。

 ファシズムはそれらに反対しているということである。だから、ファシズムは金銭の思想ではなく、また、人間が勝手に設計して決めた政治体制や社会システムは支持しない、という思想であることが分かる。ヴルピッタはさらに次のように述べている。

(引用開始)

  イタリアのファシズムは、二十世紀初頭のイタリアの思潮を総合し、より古い文化的要素をも含む複雑な運動である。ダンヌンツィオと未来派と革命的サンディカリストが直接的な源泉であるが、パレート、ソレル、ニーチェ、ベルグソン、マッツィーニらの思想、社会主義や協調組合論の影響も受けている。したがって、ファシズムの産みの母は多いと言える。だが、この多様な母体に生命力を注ぎ、一つの総合的な政治文化に結合したムッソリーニこそがその唯一の父である。(同書、6ページ)

(引用終了)

 ムッソリーニは政治家であるとともに思想家であり、知識人であった。師範学校を出ているものの別段の学歴はないが、独学で幅広い教養を身につけたという。思想だけでなく文学、音楽、芸術にも造詣が深かったという。

●パレートとニーチェの影響

 ムッソリーニは裕福ではないが真面目な家庭で育った。母親は貧乏教師であり、父親は鍛冶屋や店主など、職を転々としながら社会党の活動家であったという。ムッソリーニは中学校の先生や工場作業員、そして兵隊などを転々としたあと、社会党に入党する。そして、党員として台頭してくるのである。

 社会党員ならば、とうぜんマルクスの洗礼を受ける。急進左翼として出発したが、ムッソリーニは単なるマルクス主義者というわけではなく、経済学者、社会学者であるパレートに影響を受けている。

 ヴィルフレド・パレート(Vilfredo Pareto、1848 – 1923)は経済学史上では、「パレート最適」に名を残す学者である。経済学史では「価値」とは何かをめぐって論争があった。リカードやマルクスは「労働価値説」を唱え、メンガー(オーストリア学派)やワルラス(ローザンヌ学派)らは「限界効用説」を唱えた。パレートはワルラスの弟子である。

 パレートはまた統計分析に基づいた「パレートの法則」や、工業製品の品質保証分野でよく使用される「パレート図」にもその名を残している。

 パレートはまた、晩年は社会学者として活躍した。経済学における「一般均衡論」を応用し、社会はエリート集団が交互に支配者として入れ替わるとした。ヴルピッタは以下のように述べている。

(引用開始)

  人間行動における非合理的な側面を重視し、歴史を動かすのは力(暴力)であると見ていたパレートの主張はムッソリーニの感情的な革命主義に論理上の根拠を与え、後にファシズムの歴史観となった。また、彼はパレートの提唱するエリートの交代説に決定的な影響を受け、その結果、エリートが政治闘争の主役であるという確信は自分の思想の中核となった。従って、マルクス主義の階級闘争もエリートの交代として解釈されるようになった。(同書、8ページ)

(引用終了)

 「力」についての思想といえば、ドイツの哲学者ニーチェが思い浮かぶ。ムッソリーニはさらにニーチェの影響を受けている。

(引用開始)

  社会主義者としてのムッソリーニの思想の特徴はマルクスとニーチェとの共存である。社会党時代に彼はすでにニーチェ的な人物と見なされていた。しかしニーチェ解釈にも、彼は独自性を発揮した。彼はニーチェの超人主義をエリートの精神的形成への道として理解し、「超人」が革命を指導し、大衆の精神的・知的水準を向上させる任務を「超人」に与えたのである。(同書、10ページ)
  
  ムッソリーニは「超人」と「権力への意思」の観念から強い影響を受けているものの、その解釈に当たってパレートのエリート論とマッツィーニの人道主義を加味して、民族共同体に対し歴史から課せられた天命を自覚する少数エリートの特権として理解したのである。そして、この天命を果たすのに、力の行使も辞さない。エリートの権利の根拠が使命の意識であるというのは、ムッソリーニの思想の根本的な特徴である。(同書、71ページ)

(引用終了)

 ムッソリーニによれば、ニーチェの「超人」とは政治エリートのことであり、政治支配者のことであった。そしてパレートのエリート交代説とマルクスの階級闘争を合わせて、みずからの権力闘争のための理論的基盤としたのである。

 「力」、もっといえば「暴力」を重視する点において、ムッソリーニは金銭の思想である合理主義を否定した。ムッソリーニは、その「力」の源泉を、「大衆」に求めた。「大衆」から沸き起こる民族的意識に、形を与えて指導していくのがムッソリーニのいう「エリート」であった。この意味で、ムッソリーニは「ポピュリスト」でもあるのである。

 また、「超人」たる政治エリートの使命とは「天命を果たすこと」である。 特定の人間によって設計された社会システムを実施するのではなく、「大衆」からの支持を受けつつ時代の要請を実現することが政治エリートの仕事である。ムッソリーニは「私はファシズムを創造したのではなく、イタリア人の深層から引き出しただけである」と述べている(同書、322ページ)。この意味で、ムッソリーニは実証主義、ポジティヴィズムにも組みしていないのである。

●ローマ進軍

 社会党に入党したムッソリーニは若くして頭角をあらわした。まだ30歳前のムッソリーニは党大会で演説を行い、中心的な役割を果たしている。

 その後執行部によって党機関紙『アヴァンティ!』の編集長となった。発行部数を2万8千から10万部に伸ばし、党内での立場を高めてゆく。

 転機となったのは、第一次大戦の勃発である。イタリア社会党は反戦平和を標榜(ひょうぼう)していたが、ムッソリーニは参戦派であった。彼は政治指導者として、国民の意識を高めるため、「大衆の教育という観点から戦争を歓迎した」(92ページ)のである。

 当然イタリア社会党は彼を除名した。ムッソリーニは自らの発言の場として『ポポロ・ディタリア』という日刊新聞を創立した。この時の資金源として、イタリアを参戦させたいフランス政府や、参戦を望むイタリア政府からの資金援助があったとされている。

 この戦争にムッソリーニは一兵卒として参戦し、塹壕を経験し、爆弾の破片を体中に浴び、傷痍兵として帰還した。

 この戦争でイタリアは、イギリス、フランス、ロシアほか連合軍の一員として、オーストリア、ドイツ、オスマン帝国の同盟軍に勝利した。しかし、戦勝国にもかかわらず国家と財政は疲弊し、フィウメ地方の領土問題にも巻き込まれた。詩人ダンヌンツィオによれば「骨抜きにされた勝利」であった。

 しかし、イタリア国民はこの戦争で一致団結し、国民としての意識を抱き、市民の権利を自覚したのである。

(引用開始)

  ムッソリーニは、戦争が社会の変革を要求するとともに、勝利が国民の自尊心を回復したことをみごとに見抜き、二つの現象が不可分一体であることを新時代の特徴であると悟った。社会主義者でありながら参戦を提唱した時点で、彼は十九世紀を動かした二大思想、社会主義と民族主義を自分の行動のなかで合流させたのであった。戦争の経験で彼の政治感覚はさらに成熟し、今や彼が目指した社会革新は、階級の次元を越えて、民族的な次元に達していた。(同書、106ページ)

(引用終了)

 機が訪れたと感じたムッソリーニは、『ポポロ・ディタリア』紙に依りつつ、1919年に「戦闘ファショ」という団体を結成した。ファシスト運動の開始である。

 ファシスト運動は急速に高まり、1921年には834の支部を有し、構成員は25万人に達していた。国民から大きな支持を受けていた。

 混乱もありつつも、1921年11月には党大会を開き「国民ファシスト党」として政党に再編された。

 いよいよ無視し得ない政治勢力となった政権与党の自由党ファクタ内閣は、ムッソリーニに連立政権を打診するが、ムッソリーニは断った。ムッソリーニは「我々は最終目的であるローマまで止まらない進軍を始めた」と断言し、6キロも連なる黒シャツ隊を行進させた。いわゆる「ローマ進軍」である。


 
 ファクタ内閣は戒厳令を出して軍隊を出動させれば鎮圧できると踏んでいたが、国王エマヌエーレ3世は急遽ムッソリーニに政権を命じた。ムッソリーニは勝利した。ムッソリーニを首班とする内閣が組織され、21年間に渡るムッソリーニ政権が始まるのである。

●政治家ムッソリーニ

 政権奪取後のムッソリーニは精力的に働いた。朝は誰よりも早く官庁に着き、夜は深夜まで働いた。他人を信用できなかったムッソリーニは職務を自分に集中した。よく独裁政治の代名詞となるムッソリーニだが、ファシスト党内におけるムッソリーニの権力基盤は案外と脆く、ラッスと呼ばれた地方の親分たちには手を焼いている。

 また、ムッソリーニは独裁政治といっても、弾圧による恐怖政治を敷いた訳ではない。ムッソリーニ政権時に処刑された人数は非常に少ないのだ。冷酷な独裁者像はヒトラーには当てはまるが、ムッソリーニには当てはまらない。

(引用開始)

  ファシスト政権が崩壊した一九四三年七月二十五日の時点で、政治的理由で自由制限措置の対象になっていたのは千八百二十四人であった。そのなかに懲役服務中は二十二人だけであった。(中略)当時、イタリアは戦時体制という非常事態であったことを考えると、この数字はファシスト政権による弾圧の甘さを証明する。ソ連やナチス・ドイツとでは比較にならない数字であるが、アメリカでも当時、日系、イタリア系、ドイツ系の市民は数万人が抑留されていた。(同書、165ページ)

(引用終了)

 政治家としてのムッソリーニの業績は、「コーポラティズム」と産業公社の設立である。コーポラティズムとは、企業活動を国家の目的と合致させることを目的とした、協力体制のことである。

(引用開始)

  一九二六年に発布された労働組合法で、協調組合国家の基礎が置かれた。業種別に編成された労働組合に自治権を含む法人格が承認され、とりわけ組合と経営者団体にそれぞれの業種全体に法的効力がある連帯労働契約を締結する権能が認められた。また労働裁判制度が導入され、賃金設定を含む全ての労働紛争について権限が与えられた。したがって、労働紛争の解決の手段としてストライキは禁止され、労働紛争も民事紛争と同じように国家の管轄のもとに置かれた。同時に、進歩的な社会保険制度も導入された。(同書、167ページ)

(引用終了)

 つまり、いままで各企業で労使間の闘争、ストライキなどが行われていたものを、労働者は労働者としてまとめ、経営者は経営者としてまとめ、これに国家があいだに入り、3者間で政策を決めていく、ということである。

 具体的には、ムッソリーニはすべての産業部門を代表する二十二のコルポラツィオーネ(協調組合)とし、国家の目的に合うように産業を統制したのである。

(引用開始)

  国益に叶うものとして自由企業体制は容認されたが、経済と生産を調整する国家の権利が主張され、社会義務としての労働の解釈の中で、生産は国家に対する企業の義務とされた。これで、経済活動の動機を利益追求とする市場経済の原理は否定された。なお、企業内の従業員の立場は、生産目的達成のための積極的な協力者として位置づけられ、経営者には企業指導権が認められた。(同書、167ページ)

(引用終了)

 また、ムッソリーニの政策で重要なのは、産業公社の設立である。産業公社とは、国家による企業経営である。

(引用開始)

  経済体制の重要な転回点は、一九三三年の産業復興公社の設立であった。これは市場経済体制における国家による本格的な介入の世界初の実験であり、第二次大戦後は多くの国のモデルとなったものである。戦後、西ヨーロッパの特徴となった混合経済体制を初めて導入したのは、当時のイタリアであった。(同書、168ページ)

(引用終了)

 国家による企業経営は、自由な市場における企業活動を進める資本主義を否定する。一方で、国家が計画経済を運営する社会主義とも異なる。いわば「第三の道」なのである。ヴルピッタが述べるように、このような資本主義でもなく社会主義でもない混合経済体制は、戦後の西ヨーロッパで主流となった。
 
 また、野口悠紀雄が主張する日本の「1940年体制」もまたこのイタリアの政策に影響を受けていることは言うまでもない。

●現在の日本とファシズム

 以上、ムッソリーニの政治思想と経済政策を概観した。ファシズムとは、遅れてやってきた国民国家たるイタリアをまとめあげ、強国として発展するための必要な手段だったのである。

 これに照らし合わせて、橋下徹大阪市長は果たしてムッソリーニになれるのかを観察しなければならない。人民の要望、時代の要望を確かに具現しているのか、いつまでも続くこの日本の「出口なし」の状況を打開できるのか。世界の「二流国」から脱却できるのか。それを実現するため、エリートの権力交代としての政権奪取を狙っているのかどうか。そのために手段を択ばないのか、をそれぞれ確認しなければならない。

 それによって、橋下は単なる「民衆扇動家」で終わるのか、「偉大な政治家」となるのか、我々は見届けなければならない。

吉田祐二筆

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