「2112」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ論(第2回・全3回) 2024年1月30日
- HOME
- 「今日のぼやき」広報ページ目次
- 「2112」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ論(第2回・全3回) 2024年1月30日
副島隆彦です。 今日は2月8日(木)です。 私が以下に載せた文は、あまりに間違いが多過ぎて、赤っ恥ものだった。今日、2月8日(木)に、御全面的に手を入れて、加筆訂正しました。申し訳ない。今から、再度読み直してください。 副島隆彦 追記。
副島隆彦です。今日は2024年1月30日です。
源氏物語は藤原道長(ふじわらのみちなが、966-1028年、62歳で死)の人生の物語そのものである論のつづきです。
藤原道長は、スペア(予備)であって29歳までたくさんの女性と付き合って、遊び惚けていた。道長は、長男、次男が、疫病で次次と死んだものだから、急に自分が藤原摂関家(せっかんけ)のトップになった(西暦995年、30歳 )。戦国時代からは、江戸時代も藤原家のトップを、氏長者(うじのちょうじゃ)と言う。天皇のすぐ近くにて、天皇たちと血が濃く混ざっている者たちであるのが、藤原貴族だ。歴代の天皇たちよりも家系がしっかりしている、とされる。
今日は、藤原道長より300年前の、祖先の藤原氏の話をする。
初代の藤原鎌足(ふじわらのかまたり、614-669年、55歳で死)は、本当は、韓国の余豊璋(よほうしょう)という百済の王族の王子です。最後の百済王(くだらおう)の第7子で、日本に人質(および連絡係)として来ていた。百済王国が、新羅と唐帝国の連合軍に、挟み撃ちになって滅びかかっていたので、余豊章は、百済に帰って、王位に着いた((622年)のだが、忠臣のの鬼室福信(きしつふくしん)という大(だい)将軍と内紛を起こした。それで、663年に、百済国は攻められて滅亡した。それを全力で助けに行った倭国(まだ日本ではない)の天智天皇の軍隊は、白村江(はくそんこう)の戦いで、27000兵が全滅した。大宰府(だざいふ)に留(とど)まっていた天智は、急いで逃げ帰って、琵琶湖の西岸に大津京を作って立て籠もった。余豊章は高句麗に逃れ、そのあと日本に戻って来た。
藤原鎌足の家系図 (公表されている作り物)
蘇我馬子の家系図 (公表されている 作り物)
その18年前の、西暦645年に、藤原鎌足と天智天皇(てんちてんのう、626-672年、46歳で死)が、蘇我入鹿(そがのいるか、?-645年)を殺して権力を握った。これを私たちは、「大化の改新」と習ったが、今では、このコトバは使われない。「乙巳(いっし)の変」という。
鎌足(余豊章)の息子の藤原不比等(ふじわらのふひと、659-720年、61歳で死)の娘が聖武(しょうむ)天皇の奥さまの光明子(こうみょうし)という皇后だ。自分のことを、光り輝く女神(アマテラスオオミカミ、観音菩薩)だと信じ込んでいた。
私は先週、やまと(本当は、山門=やまと=と書く。×大和ではない 明日香村)に行って、甘樫丘(あまかしのおか)に登ってあのあたりを見回して、真実を突きとめた。
甘樫丘 (この写真よりも、もっと立派な感じの 山だ)
この甘樫丘(あまかしのおか)のてっぺんの見晴らしの場から北を眺めると、左に畝傍山(うねびやま)、真ん中に耳成山(みみなしやま)、そして右に香具山(かぐやま)の大和三山がある。ここから眺めていたら、例の持統天皇( じとうてんのう、645-703年、58歳で死)「春過ぎて夏来(なつ、き)にけらし、白妙(しろたえ)の、衣干(ころもほ)すてふ、天の香具山」という、あの有名な歌を、持統が、一体、どこで読んだかといったら、まさしく、この甘樫丘の山頂だ。この事実を、日本史学として、はっきりさせないといけない。甘樫丘は、下からずっと牛車と御輿(みこし)で引かれて上がっていけるぐらいの、ぐるりと一周して登って行ける、穏(おだ)やかな、たおやかな丘だここがまさしく、蘇我氏の本当のお城だ。そして、大和朝廷とは、まさしく、この甘樫丘そのものだ。
大和三山の地図
甘樫丘からの畝傍山
甘樫丘からの耳成山
甘樫丘からの天香具山
このあたりを、古代の文献では、いつも、大海(おおみ)と書いてあるけど、実は海ではなく湖だ。ずっと北の方から、南のアスカまで、ずっと湖だった。これを、古代の奈良湖(ならこ)という。奈良湖が、西暦500年代から、300年間、掛けて、どんどん干上がっていった。その「奈良湖」の南側が、甘樫丘周辺で、辺り一帯が、まだ湖だった。それが、干上がって、飛鳥川(あすかがわ)になった。後(あと)で書くが、入鹿(いるか)大王(だいおう)=天皇の 、聖徳(しょうとく)という最高権力者は、法隆寺(曽我氏の大拠点。宝物蔵、輸入品の大蔵、かつ外国からの使節を迎える迎賓館でもある)から、この湖を通って、南のアスカに有った、平地の朝廷に、船で、通っていた。
この甘樫丘の北のほうに大和三山があるのだが、目を、東のほうに向けると、直下に大和川がすぐ下を流れている。きれいな小川だ。そしてそこから100メートルも行ったところに、蘇我入鹿の首塚(くびづか)が有る。そして、そこから30メートル先に行ったところに飛鳥寺(あすかでら)がある。この寺は、本当に本当に本物だ。かなり小振りになって、明治時代に、地元の人たちが建てたものだが。
ここにあった平地の大和朝廷、そのもの、のことを真剣に私は今回確認してきた。
明日香村の地図
本当は、蘇我入鹿(そがのいるか)大王(だいおう)と言って、大王(おおきみ)だ。だから入鹿が天皇だったのだ。大王(おおきみ、オホキミ )は、中国語では、帝(みかど)でもある。私が57年ぶりに、高校2年生、17歳のとき(1970年の夏)に1人で、このあたりを歩き回った。それぐらい私は日本の古代の歴史に関して気合いが入って、本気だ。その後、高校の夏休みが終わって、高校で教師たちとつかみ合いの喧嘩をして暴れて、高校退学だ。この1970年(昭和45年)に大阪万博があった。
私は母親に連れられて大阪万博に行った。どこもパビリオンは大行列で入れなかった。「月の石」が展示されているアメリカ館に入りたかったが、無理だった。「こんなの、ウソだってさ 」と言いながら、少年たちが、出口から出て来たのを目撃した。このあと母と分かれて、私はひとりで、奈良、× 大和(本当は、山門) に来た。
亀井勝一郎(かめいかついちろう、1907-1966年、59歳で死)の『大和古寺(こじ)風物誌』(1943年)とか、『古寺巡礼(こじじゅんれい)』(1919年)という和辻哲郎(わつじてつろう、1889-1960年、71歳で死)という、今では、食わせ者だと、私、副島隆彦は冷酷に判定している、有名な本があった。まだ、それらを読む時間は私にはなかったが、持って行った。唐木順三(からきじゅんぞう、1904-1980年、76歳で死)の『古代史試論(しろん)』(1969年)もあった。
亀井勝一郎
和辻哲郎
唐木順三
それで、私は、今回、甘樫丘のてっぺん(見晴台はない)から、東の方に見下ろしたところにある飛鳥寺の端っこ、手前30メートルのところに入鹿の首塚がある。私はこの首塚に対して異常な執念と愛着を持っています。私、副島隆彦は、入鹿大王という人が大好きなんだ。本当にここで、首を刎(はね)ねられたのだ。天智 と 藤原鎌足(かまたり、百済王子の余豊章 のクーデターの襲撃で。
この曽我入鹿が、まさしく大王(だいおう)であり大王(おおきみ)で御門(みかど)である。すなわち天皇である。この事実は、中国の歴史書の中にはっきりと書かれている。隋(ずい)の2代皇帝煬帝(ようだい、569-618年、49歳で死)の高官で、外務次官クラスの外交官( 鴻臚卿=こうろきょう)である 裴世清(はいせいせい)が、「この東夷(とうい)からの書は、無礼である」と判断して、「ちょっと、この国の様子を、お前が見てこい」と煬帝皇帝に言われて、日本を調査検分しに来た。倭国からの使節である小野妹子=おののいもこ=の帰国に付いて来た。 西暦608年の4月だ。中国の隋書(ずいしょ)という正式の歴史書に、はっきりと書いてある。
入鹿の首塚
『隋書東夷伝』に書いてある。倭国(わこく。日本というコトバの中国からの承認は、701年から )の、大王(だいおう、おおきみ)が居た。自分が会見して来た、と裴世清(はいせいせい)が報告している。
裴世清がこの時、対面した倭国の王(天皇)は、若い時の蘇我入鹿だ。この蘇我入鹿が、37年後の、西暦645年に殺された。乙巳の変(いっしのへん)と言う。私たちは小学校時代に「大化の改新」と習った。今は、日本史学者たちがこの言葉を嫌って使わない。入鹿大王(御門、みかど)殺したのが、中大兄皇子(なかのおおえのおおうじ)すなわち、このあとになった天智天皇(てんちてんのう、626-672年、46歳で死)と、その仲間ですぐ横にいた藤原鎌足(ふじわらのかまたり、614-669年、55歳で死)です。これが百済王子の余豊璋(よほうしょう)だ。
乙巳(いっし)の変 (この絵は非常に重要で、今もよく使われる。斬られた入鹿の首が、宙に飛んでいる)
大和朝廷というのは、どこにあったのか。日本の歴史学者たちが言わない。だから、今、私は、はっきり分かる。それはまさしく甘樫丘(あまかしのおか)だ。このお城だ。これを、日本史学者たちは、今も「蘇我氏の武器庫だ」という表現を使って、嘘ばっかり書いてきた。武器庫じゃない。立派なお城だ。きれいで立派なお城だ。そこに櫓(やぐら)があった。館(やかた)も有った。
それでも、日常は、下の方の平地(ひらち)に、平和なときに政治、政務、人口(じんこう)の統計や、税金の取り立て帖とかを纏(まと)めるを執り行う、内裏(だいり)があった。こっちも朝廷だ。
その時代は、建物は、とてもではないんが、瓦屋根(かわらやね)なと作れない。本当に。茅葺き(かやぶき)だ。江戸時代でも、京都の市街でも、貴族の屋敷でも、茅葺だ。幕末でも、全国、大きな屋敷もすべて茅葺(かやぶき)だ。よっぽどの立派な大寺(おおでら、だいじ。伽藍=がらん=)だけが、瓦で屋根を作っていた。
大きな四角形の大きな茅葺の館(やかた)だ。それが、甘樫丘から、真東に見下ろしたところにあった。そこで、西暦530年ぐらいから、曾我稲目(そがのいなめ)という最大実力者が、ずっと大王(おおきみ)、御門(みかど)として山門(やまと)朝廷の政治をやっていた。それから100年後が、蘇我入鹿の時代で、彼は、645年に襲撃されて首をはねられた。そして、今は、そこから30メートル東の今の飛鳥寺という小さな寺にある飛鳥大仏8あすかだいぶつ)こそは本物だ。本当に百済から止利仏師(とりぶっし)が来てつくった本物だ。少なくとも頭部(とうぶ)だけは本物だ。自分の目で見て、目撃したら見た分かる。これこそが国宝級なのに、なぜか日本の国家体制に嫌われて、敬遠されて、国宝に指定されていない。村人たちが、今も懸命にこの寺と大仏を守っている。
飛鳥大仏 (これは本物)
そこから20キロぐらい北西(ほくせい)にある、法隆寺にある百済大仏というのはくだらないのだ。最近ばれてきた。こっちは、日本でつくられた、後世の日本製(江戸時代?)の、イミテーションで、飛鳥寺の飛鳥大仏の模倣品だ、ということがはっきりしてきた。ただし、百済観音(くだらかんのん)という、ひょろりと、2メートルぐらいある、ゾッとするような、全身から何かを放っている、極めて古い 女神像は、あれは、本物だ。
法隆寺こそは巨大な鴻臚館(こうろかん)で、難波(なにわ)の方から、大和川(やまとがわ)を遡(さかのぼ)って、50トンぐらいの、当時は大きな船だった、中国からの外交使節を迎え入れた建物だ。法隆寺は、だから、中国からの輸入品=宝物の倉でもある。この法隆寺に、代々、蘇我氏の一族が、全員で住んでいた。蘇我氏の建物だ。このことははっきりしている。 だが、今の法隆寺は、何度も焼けて、おそらく江戸時代の終わりごろに立てられたものだ。国宝級でも何でもない。
西暦601年に、厩戸皇子(うまやどのみこ。まさしく若い頃の入鹿大王その人だ)がこの斑鳩寺(いかるがじ)=法隆寺を建立した。この601年からずっと、本当に残っているのは、焼けないで済んだ、大きな扉1枚、だそうだ。あとは、大体、江戸時代に作られたものだ。 木造の寺の建物が、いくら高級品だ、と言っても、何百年ももつことはない。木造は、かならず100年以内に崩れる。雨に当たらない部分は、300年ぐらいは保(も)つだろうが。
だから、聖徳(しょうとく)太子と言われ人物も、蘇我入鹿だ。当時、すでも20歳だいで、大王(だいおう)=御門(みかど)だった。西暦609年に裴世清と会談した時には、もう天皇だ。もう皇太子ではない。裴世清が、「自分は、男王(だんおう)と会った」と報告している。これが蘇我入鹿だ。
日本国は、ずっと、帝国ではなくて、本当は、歴代の中華帝国の属国のひとつの、王国(おうこく)であるから、皇帝(ファンデイ、こうてい)は、いない。だから、帝(てい)とかいて「みかど」と読んではいけない。
蘇我入鹿は、75歳ぐらいまで生きて殺された。だから20歳ちょっとで中国の使節を迎え入れて、天皇の仕事をしている。だから、入鹿大王が、裴世清と会ったとき、恐らくその後ろの御簾(みす)がかかった処(ところ)に推古(すいこ)がいただろう。御簾(みす)というのは、今でいう蚊やハエが入ってこないようにするために、芦(あし)や蒲(がま)で細かく編んだ、フェンスだ。最高権力者たちしか、こういう御簾(みす)の中には入れない。
日本の富裕層が、田舎でも、ようやく夜、蚊帳(かや)を張ることことができるようになったのは、江戸時代の中期だ。近江商人たちが、蚊帳は軽いから、背中に10枚ぐらいずっしりと積んで担(かつ)いで、全国に売って回ったのだ。
御簾(みす)の向こう側に、推古(すいこ)というシャーマン、女の巫女(みこ)さんがいたのだ。入鹿の妹だと思う。だからあとで、推古という天皇を仕立てて、嘘八百で日本書記(にほんしょき。西暦720年完成)という日本の正史(せいし)の本が出来た。中身は、ウソばっかりを書き連(かき)ねている。遠く、ギリシア神話からの借り物がたくさん入っている。インドの神話も、多くは、ギリシア神話からの剽窃だ。
持統という女の天皇が本当に悪い女だ。この持統の夫が、天武(てんむ)天皇(686年)というのは、本当かなあ。私は、今日は、もう説明しないが、天智の後(あと)の大友皇子(おおとものみこ)を滅ぼして、壬申(じんしん)の乱(西暦672年)で、権力を握った 天武天皇 というのは、私の考えでは、殺された蘇我入鹿の息子だ。
だから、天武は蘇我氏だ。 蘇我氏の側からの復讐戦で、蘇我氏が盛り返したの。
だが、この天武が、14年後の、西暦686年に死ぬと、クーデターで、持統という倭人(原住民)の勢力が、また復帰する。 このとき殺された、大津皇子(おおつのみこ、686年10月死)は、天武の息子で、次の天皇になるべき人だったのだ。女である持統が、どうして荒々しい戦いで、権力を握れたのか、今も私は分からない。
持統は、文武(もんむ)という息子に皇位を譲る(698年)が、702年に死ぬまで、太上天皇として権力を握っている。そして、701年に、粟田真人(あわたのまひと)という使節(これが遣唐使=けんとうし=の始め)を唐の帝国に派遣した。そして、唐から、「分かった、分かった。倭国 をやめて、以後は、日本 という国号を認めてやろう」となった。これで国際的に、以後、日本 と言う国になった(日本側では大宝律令で法典を整備した)。
「日本国の建国」は、天智が即位した年である、西暦668年である。日本側ではそのように決めた。倭国という卑小な名前を、以後、すべての国書から消した。この「668年に日本は建国された」説は、私の先生である、
東洋史の権威である、岡田英弘(おかだひでひろ)教授である。私は、この説に従う。皆さんも、従って下さい。
岡田先生は、大著「倭国(わこく)」(中公新書、 〇〇年刊)と、「倭国の誕生」(〇〇年)で、冒頭の1行から、「日本国を建国したのは、華僑(かきょう。オーヴァーシーズ・チャイニーズ)である」と、書いた。
これで、日本の古代史が、全面的にひっくる返った。
そして、まさしく、蘇我氏は、華僑なのである。
今の日本史学者(とくに古代史)たちは、皆、この岡田説に、ようやく、屈服して来た。もうぐうの音も出なくなった。 それでも嫌がってごもごもしている。 もし岡田説以外の、日本の建国は、別の年だ、を公然と本で書く者が出て来たら、私、副島隆彦が、即座に、撃滅しに行く。
ついでも、今の古代史の最大級の居直りである、「聖徳太子は、厩戸王(うまやどおう)である」という、古代史学者たちの醜(みにく)い、見苦しい態度も、そのうち私が、撃滅する。
なぜ、唐の帝国が、西暦701年に、「分かった。日本(ひのもと。東の方の、太陽が出る国)を認めてやる」と決断したか、というと、百済を挟み撃ちにして滅ぼしたあと、新羅(しらぎ。シルラ)が、唐の言うことを聞かなくなった。それで、困った唐帝国は、その先の、倭国(日本)を制圧、占領するのを諦(あきら)めて、対(たい)新羅で、日本を唐の方に取り込もうとして、「よし。仲よくしよう。遣唐使を受け入れる。大きなお土産をやろう。日本を唐の臣下の国として認める」 という決定をしたのだ。
日本の前の、倭人の倭(わ)は、東洋(トンヤン。東の方の大きな海)の海中にいる 小人、ちびころ人間たちという意味だが、このコトバが、以後、中国側でも消えた。
だから、私は断言するが、「みかど」というのは、大きな門(御門)という意味で、これは甘樫丘に登っていく入り口のところに大きな門があった。これが、今、それとなく復元されていた。まったく何の表示もない。それでも、「ああ、ここが、御門=みかど=だ」と、私は、分かった。現在も、宮内庁は、こそこそと恥ずかしそうに、大きな白い、ただの殺風景な大きな公園の出入り口みたいなふりの建物を建てている。(そのうち、ここに、その写真を貼ります)これが、御門(みかど)、大門(だいもん)だ。その背後には、道路を挟んで、飛鳥川の小川が流れている。その向こうに、入鹿の首塚と飛鳥寺がある。
その御門(みかど)から、甘樫丘に向かって、道がなだらかに、上まで、丘(山)を一周するようにして、頂上の、見晴台まで普通の観光道路として、歩いて登って行ける。
このように、私の人生の、真実を追究することでの、気合いの入れ方は、そこらの知識人たちとは質(しつ)が違う。
蘇我入鹿のおじいさん(祖父)ということになっているけど、ほんとは父親かもしれないのが、蘇我馬子(そがのうまこ)だ。息子が蝦夷、蝦夷(えみし)の息子が入鹿だ。蝦夷は、あまり能力が無かったようだ。そういう知能のなりない子供が、経営者の一族にもよく生まれる。
だから実力者の馬子が、孫の入鹿を自分の跡継ぎとして、大事に育てたのだ。 蝦夷とか入鹿とか馬子とか、こういう名前自体が、日本書紀(西暦720年成立)に書かれていること自体が、蘇我氏を心底、嫌って、本当に馬鹿にしているからだ。持統から後の、鎌足の息子の、藤原不比等(ふじわらのふひと)が、この「蘇我氏を、日本国の正史(せいし)から抹殺せよ」という動きになったのだ。
馬子が、用明(ようめい)天皇だったのだ。
馬子、蝦夷、入鹿(イルカ)という名前のつけ方からして異常だ。さらにその父親を稲目(いなめ)という。530年、仏教伝来のころから、稲目がこのアスカ( 阿須賀、あすが)の地の最高実力者だ。
蘇我氏というのは、岡田説で前述した通り、中国からやってきた華僑(かきょう)だ。オーバーシーズ・チャイニーズ(oversea Chinese)と言う。中国皇帝からの官僚の官位をもらっていない、ただの中国商人だ。それが当時、日本の最大実力者なんですね。そして、原住民である 倭人(天智の系統。母親の皇極=斉明 も)との対立、戦いを、ずっとやったのだ。華僑であり貿易商である蘇我氏は、文化が進み、豊かな暮らしをしていて、洗練された生活をしていた。だが、原住民の方が、数が多いし、狂暴だから、蘇我氏は、たびたび襲撃された。そして
西暦645年の乙巳(いっし)の変で、蘇我入鹿が、飛鳥宮(あすかのみや)の本殿で、殺された。
蘇我稲目からの家系図 (作り物)
その前の継体天皇(けいたいてんのう、450?-531年)とか、出雲王朝の天皇と言われている人たちの存在は極めて不確かだ。ただし、西暦400年代には、河内王朝と言うのが100年間ぐあい有った。
仁徳とか応神天皇といわれている「倭(わの)の五王」と呼ばれている倭人の権力者たちは、中国の宋、小さな帝国だった、今の上海あたりにあった宋帝国の『宋書倭国伝』の中に載っている。ここに朝貢(ちょうこう)している。 讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)。この中の最後の、武が、西暦471年で、雄略(ゆうりゃく)天皇である。この事実は、1972年に埼玉県の崎玉(さきたま)古墳の稲荷山(いなりやま)古墳から出た鉄の刀に書かれていた。ぼろぼろの鉄の刀に「獲加多鹵(わかたける)大王」と書いてある。これが雄略天皇だと日本史学者たちも認めている。この倭の5王が、応仁や仁徳だ、と、日本史学者たちも否定していない。
倭の五王の系図
稲荷山古墳出土の鉄剣
その前に、奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)の七支刀(しちしとう)、七つに先が分かれている剣(西暦369年)、これも本物だ。この時は、倭王 興(こう)で、仁徳(にんとく)天皇だろう。最大の前方後円墳の主である。 それからあと江田船山(えたふなやま)古墳から出た鉄の剣、これも中国からもらってきた本物だ。あとは銅鏡(どうきょう)の話になるが、今日は、それはしません。
七支刀
私が17歳でこのアスカに、行ったときは草ぼうぼうだった。石舞台(いしぶたい)という、蘇我馬子の墓とされる。誰でも知っているんだけど。もう、困り果てて、馬子の墓だとも、どこにも説明書きがない。
今は350円取る。周りをフェンスで囲っている。飛鳥村という特別に残してある行政地区の、奈良県の飛鳥村が運営していることにしているが、異様な感じです。何にもしていない。
馬子の墓だから、藤原氏が、暴き立てて石だけ残したのだろう。 蘇我氏に対する日本国家体制からの、歴史の真実をどうしても、隠したい、という動機がある。石の大きな仕組みだけが残っている。すばらしい古墳だ。
私は蘇我氏が大好きだ。
石舞台
53年前(1970年)に私が行ったときは、その隣でお百姓さんのおばあちゃんが畑を耕していた。今は何だか家がいっぱい建って立派そうになって、観光名所の公園にしてしいる。そこから約2キロ手前の、その入鹿の首塚と私が、夕暮れ時に、出会ったときは、やっぱり草ぼうぼうでした。何の標識もなかった。畑の畦道(あぜみち)の中に、ぽつんと捨てられているように有った。それでも、まさしくここで入鹿が殺されたのだ。首塚には、亡霊と怨念が籠(こも)っている。私は、この首塚を抱きしめて涙を流した。その向こうが飛鳥寺だ。私にとっては骨がらみの日本史探索の、真実暴き言論の祈念となる場所だ。ここは私にとってものすごく気合いが入る。
だから、大和朝廷というのはこの飛鳥、主に飛鳥寺のあるこのあたり一帯に、その時々の、本殿があった。本殿といっても縦横20メートルぐらいの茅葺きの大きな家だ。20年に一遍ぐらい、どんどん近くに建て替えていく。だから飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)とか、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)あるいは、板葺宮(いたぶきぐう)という。それから岡本宮(おかもとぐう)とか、甘樫丘の一部にちょっとへこんだ、今も低いところがあって、ここまで池が入り込んでいた、そこにも甘樫宮(あまかしぐう)があったのだ。板葺宮(いたぶきぐう)と言うぐらいだから、大きな茅葺きの家だったのだ。それが大和朝廷だ。
古代遷宮の地図
昔は、木は20年ぐらいしかもたないから、どんどん建て替えた。飛ぶ鳥で、何で「あすか」と読むのか、分からない。日本の小学生は、可哀そうだ。こんな、理屈の通らない、漢字を覚えさせられる。このととも、実にふざけた話だ。本当は、「あすが」と言って、「あすが」の「すが(須賀、菅)」というのは、川の流れのごみがたまっているところを「すが」という。川のよどみのことを「すが」という。他にも、「たまり」とか「ため(溜め)」とか「どぶ」とも言う。東京の赤坂の溜池(ためいけ)とかも、低地の汚いところだったのだ。水たまりの「ため(溜め)」だ。それから海の中では例えば私も一時期住んでいた、大金持ちたちが今は、住んでいる汐留(しおどめ)という地区が有る。汐(しお)のきたない溜まりがあったところだ。
「あすが」も「ため」とか「たまり」と同じだ。そういうところだったのだ。川のゴミのたまりのところが「あすが」だ。何で、それに、飛ぶ鳥という漢字(中国語)をくっつけたのか、私は、わからない。飛鳥は、「ひちょう」と読まなければいけないのだ。飛んでいる鳥、クジャクのようなきれいな鳥が飛んでいる、ことを言うのだ。んですこれは空を飛んでいる天女(てんにょ)でもある。
私は中国の西の奥地の、敦煌(とんこう)の郊外の砂漠の中にある莫高窟(ばっこうくつ)に行った。
そこの仏像たちの背後の壁に、一面に描かれているのが、天女たちに羽根が生えて飛んでいる姿だ。ヨーロッパではニンフェ(ギリシア神話ではニュンペー)、妖精(ようせい)とか、フェアリーと言う。これが東アジアでは飛ぶ天女の鳥だ。この「ひちょう」という言葉を、中国から泥棒して持ってきた。そしてむりやり、奈良盆地の南側一帯であるアスガ地方の上に被(かぶ)せた。
前に何回も書きましたが、「やまと」というのは、山の門と書け、と私は、ずっと言ってきた。「ながと」というのが今の長州、今の山口県の長門と同じように、あるいは鳴門海峡の鳴門「なると」と同じように、やまとは、山の門と書け。山門だ。まさしく、「明石(あかし)の戸より(遠くの方に)山門島(やまとじま)見ゆ」だ。「たたなづく青垣(あおがき)、山門し(よ)麗(うるわ)し」だ。
阿須賀(あすが)の里の、湖の中に浮かんでいた甘樫丘(あまかしのおか)というお城を中心に、山門朝廷(王権)の本拠地が有ったのだ。そして下の平地に、本殿を次々に建てて移ったのだ。
そして10キロぐらい北の方の、大和三山のさらに北の、藤原宮(ふじわらぐう)というところにやがて、西暦694年に移転する。だが、そこも疫病がすぐに出て、これはまずいな、ということで14年で、もっと北の、春日山(かすがやま)の麓(ふもと)の奈良に移った(710年)。今の東大寺や春日大社があるところ。私は、ここも今回、探索してきた。
ここからJR奈良線で奈良からたった30分間で京都に着く。 ほとんど通勤電車だが、急行扱いで、もう急行という言葉も消えていた。欧米人の観光客のこれに乗っている。奈良から、ほんの30分北上すると京都だ。途中、木津川(きづがわ)があって、宇治川(うじがわ)があって、平等院とかがある。ここは、藤原道長の長男で跡継ぎの、我慢強い権力者だった、頼道(よりみち)が作った。頼道は、50年以上、天皇の摂(せっしょう)をして、ほとんど問題を起こさないで、よく政治を治めた。全く目立たない人だ。 源氏物語の夕霧(ゆうぎり)中将だ。
奈良からすぐに京都だ。京都と大阪は、今は時速80キロぐらいの電車で、北に向かってたった30分だ。このことをみんなあまり知らない。奈良と京都は本当に近い。「鳴くよ うぐいす 平安京」ですから、794年に移動している。この年号は普通の人でも一応知っている、ただ、普通の人間は本を読むけど、自分の脳で考える力がない。それはそれで、自分の生活が忙しいからなんので、私はそれ以上言いません。ただ、それでも、今でも意図的に隠されている、大きな真実たちは、明らかにされなければいけない。
(つづく)
このページを印刷する