「104」 インド独立の英雄、チャンドラ・ボースは、敗戦時に、日本軍の特務機関に計画的に殺されたのだ。私は、ようやく、ふんぎりがついたので、関連文章を載せます。副島隆彦 2009.3.7
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副島隆彦です。 今日は、2009年3月7日です。
私は、以下の歴史事実が、ずっと気になって仕方が無かった。今も気にして、時々、考え込んでいる。
インド独立の英雄、チャンドラ・ボースは、敗戦の過程で、台湾から、日本に向かって飛行機で撤退する際に、彼をさんざん利用した日本陸軍の情報将校たちによって、計画的に、殺害されたのではないか、とずっと、怪しんできた。
飛行機が離陸した直後に、エンジン不良で墜落させている。ボースと一緒の便に、無理やり便乗して自分だけ生き残ろうとした、腰抜けの将軍、数人も、上手に、ここで殺されている。すごいことをするものだ。
ボースの副官や護衛兵たちは、上手に、後続機の方に載せている。そして、彼らに、焼け爛れたボースの死体を確認させて、それを事故死である証拠(証人)としている。さすがに、情報将校(特務機関員。残忍で冷酷な忍者部隊の伝統を引く者たち)のやることだ。あとあとのことを考えて、(国際問題になることは分かっていただろうから、)手が込んでいる。
戦争中からアメリカ政府と裏でつながっていた恐ろしい、日本人外交官たちと陸軍情報将校たち、および日本海軍のトップの者たちが存在す。 日本の敗戦のさなかに、彼らは、イギリス政府の要請を受けて、チャンドラ・ボースを、邪魔者(じゃまもの)は消せ、の方針に従がって、飛行機事故に見せかけて、計画的に殺害にしたのだろう。
だから、今でもなお、インド側が、政府と民衆の両方を挙げて、今も大きな不満と、抗議の気持ちを、日本に対して抱いている。そろそろ私たちは、歴史の真実を握り締めなければならない。
チャンドラ・ボースは、敗戦する日本軍を見限って、今度は、ソビエト・ロシアに渡り、北のカシミール地方から、インド国民軍を組織して、首都デリーに進撃しようとした。最後まで意気軒昂(いきけんこう)だった。
それは、イギリス(とアメリカ合衆国)にとっては、きわめて都合の悪いことだった。戦後の世界秩序を、自分たちの指導と支配も下で作ろうとしている、英米にとっては、イドン独立運動の最高指導者であったチャンドラ・ボースは、自分たちの戦後世界にとって煙たい存在だったのだ。
チャンドラ・ボースは、マハトマ・ガンディーよりも、インド民衆に人気があった。実は、今もそうなのだ。今の主要政党であるインド人民党の創設者は、チャンドラ・ボースである。こういう事実を、日本人は、全く、誰からも教えられていない。私、副島隆彦は、2年前に、インド調査旅行をしたが、ベンガル地方(極東に近い方) の中心都市であるカルカッタ(コルカタ)には、まだ行っていない。コルカタが、チャンドラ・ボースの故郷であり、ベンガル人たちの団結の地である。
私、副島隆彦は、ようやく、ふんぎりがついたので、以下に、ネット上で見つけた資料を、ここに載せておく。
チャンドラ・ボースを、暗殺したのは、陸軍特務機関(光機関)や、有末精三(ありすえせいぞう)陸軍中将(陸軍特務機関のトップ)らである。彼ら自身が、良心の呵責(かしゃく)と慙愧(ざんき)の念に耐えかねて、書いているチャンドラ・ボースへの追悼やら記憶の文章の中に、真実が、ポロポロと洩(も)れている。それらを以下に並べて載せる。 歴史上の重要な真実は大きく明らかにされなければならない。チャンドラ・ボースの、今もさ迷う霊(れい)が、私たち日本人に囁(ささや)いている。
インド国と日本国の真の友好のためには、どうしても、この問題を、本当に、明るみに出して、日本人が、自分たちの手で、覆い隠してある真実を、切開(せっかい)しなければ済まない。 覆い隠そうとする者たちとの闘いは、ボースの死を65年経た今から、新たに始まるのである。 日本の寺に、こっそりと、ほったらかしにされている ボースの骨? と 霊を、まっとうにインド国民にお返しする責務を、私たちが負っているのである。
大英帝国の苛烈な植民地支配と闘って、独立を達成したインド国民の、今も猶(なお)、最大の英雄である、チャンドラ・ボーズの霊魂=魂 に、誓って、私、副島隆彦は、大きな真実を、表に出す。
ここの第2ぼやきの 前のほうの「33」番(2007年2月21日に載せた) に、同じくチャンドラ・ボース(殺害)関係の文章を載せている。
このあと、チャンドラ・ボースの立派な一代記(伝記、生涯の記録)もネット上にあったので、これも続けて載せます。 1995年に公表された、スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー=協会= (Subhas Chandre Bose Academy )の林正夫氏らが作成した伝記です。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
「さまよえるチャンドラ・ボース 定説覆す 」
時事通信 2006年5月12日?
インド独立運動の英雄チャンドラ・ボースの死についてインタビューに答える おい のボース下院議員。同議員は 「事故死を否定する多くの状況証拠がある。われわれは真実を求める」 と語っている(11日、ニューデリー)(時事通信社)16時50分更新
台北事故死は“偽装” インド調査委
【シンガポール=藤本欣也】インドの独立運動の英雄、チャンドラ・ボース。第二次大戦終戦直後に台湾で飛行機事故死したことになっているが、インド政府の調査委員会はその定説を真っ向から否定する報告書をまとめた。日本で保管されている「遺骨」も「ボースのものではない」と結論付けている。ボースは死なずにどこに行ったのか。六十年以上にわたり続くインド最大のミステリーに幕は下りそうもない。
ボースは一九四五年八月十八日、台北の松山空港で中国・大連に向かう際、搭乗機が離陸に失敗し炎上、全身火だるまになって病院で四十八歳の生涯を終えたとされる。遺体は台北で荼毘(だび)に付され、遺骨は日本に移送されたというのが定説だ。
これに対し、一九九九年に組織された政府の調査委員会は今月十七日、報告書を公表。(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない-と結論付けた。
その理由として調査委員会は、「しっかりとした状況証拠がある」と説明する。事故があったとされる四五年八月十八日とその前後に、台北で飛行機事故が発生した記録がないというものだ。調査委員長を務めたムケルジ元最高裁判事は、「台北市長(馬英九=ま・えいきゅう=氏)と台湾の外交部(外務省)が確認した」とインドのメディアに語っている。
飛行機事故は「偽装工作」で、ボースは反英闘争を続けるため旧ソ連に渡った、という“義経伝説”ならぬ“ボース伝説”は、四五年当時から存在していた。 ボースはかつて、国民会議派(現与党)内で武力による独立を主張し、非暴力主義を掲げるマハトマ・ガンジーら主流派と対立した経緯がある。このため「ボース人気」の背景として、ボースの存在が独立後のインドでガンジーや国民会議派批判の受け皿となっている側面も指摘されている。
これまでにも国民の要望を受け、政府の調査委員会が五六年と七〇年に組織されたが、いずれも医師や事故の生存者の証言をもとに「ボースは台北の飛行機事故で死亡した」と結論付けている。 初めて定説を否定した今回の報告書についてインド政府は、「細かく吟味したが、その結論には同意できない」とする異例の意見書を付けて、報告書とともに国会に提出した。今後、国会で論議を呼ぶ可能性もある。
ボースのおいの妻で、コルカタ(旧カルカッタ)にあるボース記念館を運営する クリシュナ・ボース さんは産経新聞に対し、「飛行機事故で亡くなったと今でも思っている。不死身のヒーローを願う国民感情はわかるが、(ボースが)生きていても百九歳。もう終わった話です」と語る。
「ボースの遺骨」を保管してきた、東京都杉並区の蓮光寺の望月日康住職も「今さら『遺骨はニセモノだ』といわれても困る。過去二回の調査は何だったのか、理解に苦しむ」と当惑している。
◇【プロフィル】スバス・チャンドラ・ボース
1897年、インド・オリッサ州の弁護士の家に生まれる。英ケンブリッジ大留学後、ガンジーの反英闘争に参加。1938-39年、国民会議派議長。41年にインドを脱出しドイツでヒトラーと会談。43年には潜水艦を乗り継いで日本に。東条英機政権の後押しで自由インド仮政府を樹立。インド国民軍司令官としてインパール作戦に参加した。
● 産経新聞 2006年5月20日
平成2年(1990年) 4月10日、海部首相のインド訪問の際、遺骨返還の請願に対しインド政府からの返電が届き、また実際にアカデミーの方々自らがインドを訪問し、遺骨返還について話し合ったが、いまだ遺骨返還には至っていない。
これは、インドの内政情勢や米ソ冷戦下における日本とインドの関係があった。チャンドラ・ボースのライバルの政治家であったネール一族が政権与党にいる間、チャンドラ・ボースのことは評価されず、またイギリスからの圧力もあり、学校の歴史教育で教えられることはなかった。
しかし冷戦も終結し、インド国内においても、それまで政権を独占してきたガンジー・ネールの国民会議派と対立関係にあり、チャンドラ・ボースを支持するインド人民党(BJP)が平成8年の総選挙で第一党となった。
インド独立50周年、チャンドラ・ボース生誕100周年にあたる平成9年には、チャンドラ・ボースを再評価する動きがはじまり、「カルカッタ空港」は、「ネタジ・スバス(チャンドラ・ボース)空港」(The international Netaji Subhash Airport)と改称、インド国会議事堂内にはチャンドラ・ボースの銅像が建立され、彼の誕生日(1月23日)は国の祝日と定められた。
平成10年には、インド人民党のバジパイ首相を中心とした連立内閣が発足し、チャンドラ・ボースがインド独立の英雄として、歴史教育でも光を当てられることになった。
る。
これ以外にも小さな出来事としては、インド独立20周年の昭和42年、日本国内でビハリ・ボースや孫文に協力し、チャンドラ・ボースも支えた頭山満(とうやまみつる)が、彼に贈った日本刀がインドへ返還され、インド国内でチャンドラ・ボースの再評価が進むとともに感動をよんでいる。また元インド国民軍へ年金が支給が開始され、国会議事堂にチャンドラ・ボースの写真が掲げられた。
また平成3年には、インド文民に与えられる最高位の名誉「インドの宝石」がチャンドラ・ボースにおくられた。
とここまで書いておきながら、実態としてまだ遺骨は返還されていない。それは、彼の遺族をはじめ、出身地であるベンガル地方の人間がチャンドラ・ボースの死を認めていないからである。一部には、ベトナム戦争で指導していたとか、そんな噂もあるほどであり、それだけ尊敬されている。未だにチャンドラ・ボース死亡調査委員会がある。
ただ、現実的にはバジパイ首相 (平成13年=2001年=12月9日)をはじめ、歴代のインドの指導者は蓮光寺を参拝している。
( 副島隆彦注記。 「 日印親善協会 共催:ガンジー平和財団、日本文化チャンネル桜 」 あの加瀬英明氏 が、日印親善協会会長 なのである。 このことの深い意味を、私たちは考えなければならない。副島隆彦注記終わり)
● 「 光機関とインド国民軍 」
陸軍少佐・光機関員・インド国民軍第二師団連絡将校 桑原 嶽(くわばらみたき)
光機関(ひかりきかん)とは、日本が戦争中に行った対インド工作の実行機関です。日本軍はいろいろな国に対していろいろな工作をやっています。その工作も、いろいろなルートでやっております。ことインドに関してはすべて光機関一本に絞ってやりました。海軍も外務省も、対インド工作はすべて光機関にやらせるということで了解しておりました。
藤原機関(F機関) 昭和十六年九月末、参謀総長から藤原岩市少佐に、タイ国に潜入して将来の作戦に関してのインド工作をやれという特命がありました。この、俗に「F機関」と呼ばれた藤原機関が、後の光機関になるものです。F機関のメンバーは将校六名、下士官一名、軍属四名の合計十一名です。この十一名が、開戦直前のタイ国に、外務省の嘱託や商社員に身分を隠して潜入しました。十一名の藤原機関の任務は当初は単にインドだけでなく、マレー人工作、華僑工作、さらにはスマトラ工作までという広いものでした。
開戦直後のマレー作戦が終了してからこの藤原機関が岩畔機関というものになり、その後一年を経て光機関に変わるわけです。昭和十九年一月にこの光機関がインパール作戦の前に南方遊撃隊司令部というものに改編されますが、二十年一月には解散してふたたび光機関に戻るという曲折を経ています。南方遊撃隊司令部は、インパール作戦終了の前後では性格を変えており、一概に「光機関」といっても、五段階の歴史を持っているわけです。
第一段階の藤原機関は小さな機関で、その性格は戦場謀略、具体的に言えばインド兵の切り崩しです。当時のアジアにおけるイギリス軍は、全体の七十パーセントがインド人将兵が占めており、そのインド兵を切り崩すことが大きな任務でした。
バンコクに藤原機関が潜入した頃のタイは日本とイギリスの秘密戦の部隊で、タイ自身がどちらに付くか分からないような情勢でした。幸いにタイには「インド独立連盟」(IIL)という秘密結社があり、日本大便館付武官の田村大佐と連盟のプリタム・シンの間にコネクションがあり、藤原少佐がこれを引き継ぎ、戦争開始後のインド工作をやる基礎準備をします。
このようにして始まったマレー作戦では、プリタム・シンが積極的に参加してインド兵の切り崩しをやります。たまたまアロルスターという町を日本軍が占領したとき、英印軍に約一個大隊の集団投降が起きます。アロルスターの町の治安状態が悪かったため、捕虜の中からインド兵を葉め、棍棒などを持たせ、町の治安維持に当らせました。この時の指揮官がモン・シンで、この治安部隊というか、警察部隊がインド国民草の始まりです。
日本軍と行動をともにしていく問に、このモン・シンが「俺はインド国民軍を作ってインド独立のために戦う」と言う決意をします。彼はイギリス軍の大尉ですから、その行為はイギリスに対する明自な反逆行為です。さらに新婚早々の妻をインドに残していたため、相当煩悶しますが、ついにインド国民軍を正式に作ることになります。日本軍の山下奉文軍司令官の承認を得、正式にインディアン。ナショナル・アーミー(Indian National Army)が組織されました。
マレーでは、地形の関係もあって、敵の中央を突破すると後方に多くの敗残兵が残ります。逃げ場のなくなった敗残兵、特にインド兵はこちらの投降工作に応じ、捕虜は雪ダルマ式に増え、それをまた利用するので、マレー作戦における戦場謀略は非常に成功を収めました。シンガポールが陥落したとき、インド兵は約五万人おり、イギリス兵やオーストラリア兵とは隔難して、すべて藤原少佐の管埋下に置かれました。このとき藤原少佐、プリタム・シン、モン・シンの三人が、シンガポールのファラパークという競馬場で大演説をしています。
岩畔機間(いわくろきかん) その後、藤原機関は岩畔機関に発展、解消しました。機閲長は岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐で、それまでのようなわずかの将校の小さな所帯ではなくなり、非常に規模の大きい組織になりました。岩畔機関が発足した当峙は、日本軍がもっとも景気の良いときで、ビルマ戡定作戦が四月にほぼ終り、海軍の南雲(なぐも)艦隊がセイロンを空襲し、インド洋の制梅権を目本軍が握り、戦線が西に向っており、当時ロンメル将軍の率いるアフリカのドイッ軍が東に進み、面軍がインドで手を結ぶのではと言われるほどでした。
岩畔機関長の下に、総務班長兼情報班長に牧達夫(まきたつお)中佐、政務班長と特務班長には、現役の代議士である高岡、小山の各氏、宣伝班長は斉藤中佐、総勢二百名ほどでした。開戦前の岩畔さんは陸軍省軍事謀長で、野村吉三郎(のむらきちざぶろう)駐米大便が、何とかアメリカと戦争を起こさずにすむようにといった立場で行ったときについていっており、開戦前に帰国し、現実に見たアメリカの強大さを国内でそれとなく話したことから、南方に連隊長として出されました。そのような方ですから政治家や、代議士との交際もあり、政治的手腕のある方です。
一九三九年に第二次世界大戦が始まると、大英帯国を構成していたインドは自動的に参戦しましたが、第一次世界大戦の苦い経験からガンジーやネールは参戦に非常に反対します。これにかまわずイギリスはインド人を兵士として戦線に送り、インドを兵鈷基地にする政策を強引に実行し、インド国内は物情が騒然とし、ガンジー、ネールなど、インド独立の志士が次々に投獄されるという状態の中で、インド独立の気運が持ち上がっていました。
その頃東南アジアには約二百万人のインド人がいたのですが、日本に亡命し 「中村屋のボース」 として知られていたラス・ビハリ・ポースは、そのインド人を結集するということで、昭和十七年四月、アジアのインド独立運動の有力者を集め、後に「山王(さんのう)会談」と呼ばれる会議を開きます。これはインド独立運動を現地のインド人の手でするための準備であり、五月下句にバンコクで大会があり、そこで正式にインド独立連盟(IIL)ができ、ビハリ・ボースが総裁になります。
ところが、これがインド人の難しいところなのですが、戦前から神戸や横浜などにいた日本在住インド人と、上海、香港、タイ、マレー、シンガポールなどのインド人の問に確執が起きていました。海外のインド人にしてみれば、日本に長くいて日本の国籍を取ったラス・ビハリ・ボースがIILの総裁になってもどこかに「日本人の傀儡ではないか」という気待ちがあったのでしょう。
シンガポールの陥落でインド人捕虜は約五万人になり、これをインド国民軍に入れることになります。モン・シンはインドのデラトンの士官学校を出た正規の陸軍将校ですが、捕境のなかにモン・シンより先任の将校が大尉から中佐まで二十人もおり、働きにくいだろうということで岩畔さんがモン・シンを少将にしてインド国民軍の最高指揮官にします。
ところが、ラス・ビハリ・ボースとモン・シンはあまり仲が好くなく、モン・シンが「ビハリ・ポースは日本の傀儡だ」と一言い、ビハリ・ボースは「モン・シンは統率力がない」と言うように、さらにぎくしやくするようになります。このような背景でギル事件が起こります。
インドの名門出身で、イギリス本国の士官学校を出たギル中佐はインド人捕虜のなかで最先任者でした。モン・シンとの関係を考慮し、岩畔機関長はギル中佐に別班を作り、ビルマで対インド謀報工作をさせます。ところが、ギル中佐の片腕の少佐が工作の途中でインドに逃げ帰り、インドからの逆宣伝に利用され「インド国民軍なんてものは傀儡にすぎない」とか、こちらの内情をデリー放送で暴露する事件が起こります。以前からギルは敵に通じているという憲兵の情報があり、ついに岩畔大佐はギル中佐を憲兵隊に引き渡し、彼は終戦まで監禁されてしまいます。これがギル事件です。
この事件が大きなきっかけでモン・シンがおかしくなり、ビハリ・ボースとの間もうまく行かなくなって、モン・シンは昭和十七年の暮に国民軍最高指令官を解職され、大尉に戻されます。インド国民軍は、形式的にはインド独立連盟の下にあり、総裁のピハリ・ポースが解職する形ですが、実際は岩畔機関長が言い渡し、モン・シンは終戦までシンガポールの近くの小さな島で軟禁状態に置かれることになります。このモン・シン事件でインド国民軍が非常に動揺し、一時は反乱を起こすのではないかと言われるまでになります。
当時の岩畔機関の軍事班長小川少佐などの努力で国民軍を納得させ、イギリスの正規の士官学校を出た、人望の厚いポンスレー少佐を長にして国民軍の再建が図られ、国民軍は一応のまとまりがつきました。しかしボンスレー少佐は生粋の軍人であり、「インド国民軍は今のままではダメだ。自分ではどうにもならないから、ドイツにいるスバス・チャンドラ・ボースを呼んでくれ。彼が来ればまとまるだろう」と主張し、ドイツからチャンドラ・ボースを呼ぶ計画が本格化します。
光機間から南方軍遊撃隊指令部へ このモン・シン事件の後、岩畔大佐は第二十五軍の軍政部長に転任し、後任にはドイツの日本大使館武官補佐官で、スバス・チャンドラ・ポースと面識もあった山本敏(やまもとさとし)大佐が着任し、機関の名前も「光機関」というようになります。チャンドラ・ボースが昭和十八年五月、ドイッの潜水艦から日本の潜水艦に乗り移り、スマトラ北郡に上陸したチャンドラ・ボースを山本大佐が迎え、いったん東京に行き、ビルマに戻ります。
そして七月にチャンドラーボースがビハリ・ボースからインド独立連盟(IIL)の総裁を引継ぎ、同時に自由インド仮政府を組織して首席に就任し、インド国民軍(INA)の最高指揮官となります。それまで曖味だったインド独立連盟とインド国民軍の関係が、チャンドラ・ボースが政府も含めた三つの組織の長を兼ねることで、完全に一本化されたわけです。
インド独立運動において重要な役割を果たした国民会議派のなかで、ガンジー、ネール、チャンドラ・ボースは三巨頭ですが、インド独立を目指すことでは一致していましたが、その手段は異なっていました。ガンジー、ネールは不服従、非暴力による運動で独立運動を闘おうとしましたが、チャンドラ・ボースは武器を手に力で独立を勝ち取ろうとしました。
チャンドラ・ボースをドイツからアジアに移すことは政治工作の大きな成功でした。そしてチャンドラ・ポースがIIL、臨時政府、INAを把握すると、インド国内における活動と政治力に自信があったのでしょう、「自分が武力でインドに入ればインドの独立はたちどころにできる」と考え、武力闘争に自信を持ち、当時の東条総埋に「インド進攻作戦をやってくれ」と働きかけるようになります。このような背景があり、日本軍のインドに対する方針が軍事工作中心へと変わります。それを実際に行なった機関が光機関であり、南方遊撃隊司令部です。
昭和十八年の秋頃、日本軍のなかに遊撃戦の思想が重視されるようになり、日本軍の戦う各地で遊撃部隊が編成され、ビルマにもつくられます。しかし、当時のビルマ国内は治安が良く、ビルマ国内で遊撃戦をする必要はありません。インド進攻作戦の際に、インド国民軍をビルマからインド国内に入れて遊撃戦を担当させるという考え方が生まれ、それを支援する役割を果たすために南方軍遊撃隊指令部が生まれます。ですから南方軍遊撃隊司令部は自前の部隊を持たず、遊撃戦はインド国民軍がする形です。
司令官には、INAの最高司令官チャンドラ・ボースの相手としてふさわしい将軍として磯田三郎(いそださぶろう)中将が任命されます。磯田中将は開戦時にアメリカ大便館付武官として野村吉三郎大便を直接補佐され、長い外国勤務を買われたのです。司令部には、幕僚部として参謀部、副官部が、実行機関として軍事部と政治部があり、参謀長はなく、高級参謀には光機関長だった山本大佐が就任します。
南方軍遊撃隊司令部の役割はインド国民軍の遊撃戦の指導ですから、その実行を担当する軍事部が主体になります。軍事部長は北部大佐で、従来の光機間の要員だけでは足りませんから中国大陸、満州方面から中野学校出身者や一般の将校下士官が多数集められます。
総勢五百名という膨大な機関です。当初の構想は、インドのマニプール州の首都インパールを占領し、自由インド板政府をそこに進め、INAの墓地として、インド内に遊撃戦を展開していくというものでした。 (了)
●「「ネタージ」はなお生きておるーわれら日本人の心の奥にー」
元陸軍大将、元ビルマ方面軍司令官 河辺正三(かわべまさかず)
http://www.yorozubp.com/netaji/academy/303kawabe-j.htm
スバス・チャンドラ・ボースが、当時の日本領土台湾の地に、悲しむべき奇禍によってその数奇な一生を終わってから十五年になる。この間ボースの祖国インドをはじめ、中近東からアフリカにかけての国際的大変動は、地下のボースに果たしていかなる感を懐かしめるであろうか。
彼の雄図が成って、デリーの赤い城壁に自由インドの旗が翻し得た暁には、その後二十年間独裁をもって、善後の処置を断行するというのが、ボースの意気込みであった。もし、今の目まぐるしいアジア政局の中心インドの地に、末期の一瞬までわが日本を信じ徹したボースが、思うままにその卓絶した政治手腕を振るったならば、これと呼応する日本の立場、否アジア全般の勢威、ひいては世界平和への貢献にいかに力強いものがあるであろうー。
ああこのようなことは、今やはかない一老兵の午睡に過ぎぬ。しかし、我々がインドをみ、インド人を思うとき、何としてもまず映じ来るものが、ネタージ・ボースの巨像であることは、彼を知る者のやむを得ないところであろう。
しからば何が彼の影像をかくも深く我々の心底に刻み付けたか? 彼の全人格を流れる至誠である。当時の情勢に天機を看破し同盟側に立って祖国の自由奪還に烽火を上げた彼は、戦局の推移が志と違い、ついには破たんに至ってもなお、盟邦に対する誠実を変えずして終わった。この一事をもってしても、だれか敬仰の念を禁じ得ようか。
さらには彼の鉄石のごとき信念である。不服従運動を堅持するマハトマ・ガンジーの師恩にさえもあえて背き、武力をもって断固決起した彼の決意はまさに牢固不動、これまた周囲を感動せしめずにはおかなかった。 そしてこれらの根底を成すものが、彼の祖国愛の熱情であった。不惜身命、一点の私心なきその祖国愛はまことに、燃ゆるごとき概があった。
時に利あらず。彼の雄図は非運の終局をみたのにもかかわらず、祖国インドに偉大なものを残している。同様に彼の巨大なる影像は、日本人にとって永くインド民族との間の結合の鍵となってとどまることを信ずる。 かくて我らは繰り返して叫びたい。ネタージは我ら日本人の心に永久に生きると!(了)
(副島隆彦注記。なんで、この河辺正三 という男は、海軍大将で、インパール作戦の、ビルマ方面軍司令官 だったのだが、戦後も、おめおめと、のうのうと生き延びて、こんなに、元気なのだ。こういう、自分だけ生き残りの、ずるい人間たちというのは、本当に、信用が置けない。 おかしな連中だ。 副島隆彦注記おわり)
●「スバス・チヤンドラ・ボース氏の最後 」
元陸軍大尉 光機関 塚本 繁(つかもとしげる)
飛行機事故
1・事故発生日時 1945年(昭和20年)8月17日午後4時頃
2・事故登生場所 台湾・台北松山飛行場
3・事故飛行機の種類 第3航空軍の97式2型(Sally)重爆撃強4・事故機の乗員
主席操縦士 滝沢少佐・副操縦士 青柳准尉
副操縦士 沖田与志雄曹長・無線技師 富永技官
四手井綱正中将・野々垣四郎中佐・坂井忠雄中佐
河野太郎少佐・高橋岩男少佐・新井啓吉大尉
スバス・チャンドラ・ポースINA最高司令官
ハビブル・ラーマン大佐
搭乗位置略図 ●:死没者
○:負傷生存
〇沖田曹長 ●富永無線技師
●青柳准尉 ●滝沢少佐
〇新井大尉 ●四手井中将
〇河野少佐 (〇)野々垣中佐(上部機関銃座に搭乗)
●ネタージ 〇坂井中佐
〇ラーマン大佐 〇高橋少佐
5,事故の概況
台北、松山飛行場における搭乗機の休憩時問は約二時間で、この間に給油とエンジンの整備を行った。 エンジンの点検は主として主席操縦士の滝沢少佐を中心に、河野少佐と地上整備司令中村大尉により行われた。
河野少佐の左側エンジンがおかしいという申し出に対して、滝沢少佐は二回にわたりエンジンのテストを実施し、その結果異常なしと確認した。
全員機中の人となり(参考略図参照)、爆撃機は大連に向けて出発することになった。
飛行機はいよいよ出発態勢となり、滑走を始めた。
滑定路の長さは八九○メートルであった。重爆撃機の離陸の場合は普通滑走路の大体中間くらいまで滑走したところで機尾が地面を離れるのであるが、この時は滑走路の約四分の三走ったところ(六六六メートル)でやっと機尾が地面より難れたと中村大尉(地上整備司令)は語っている。
飛行機が急上昇に移ったとたん、すさまじい爆発が起こり、機は右に傾き、プロペラとエンジンが吹き飛んだ。
そして飛行場の端から約10~20メートルの地面に突っ込んで炎上した。すなわち、機は大きく右側に傾いて機首から地面に激突し、前部から発火したのである。
乗員のうち、上部機関銃座にいた野々坦中佐が最も運がよく、ほとんど無傷で地上に投げ出され、坂井中佐、高橋少佐、新井大尉は墜落と同時に気を失ったが、まもなく気がつき燃えさかる機内から脱出した。
河野少佐はほぼ中央に乗っていたが、沈着な少佐は、周りがどうなっているかを観察した。 飛行機が墜落した時、その衝撃で燃料タンクが河野少佐とボースの間に落ちた。河野少佐はうしろを振り向いてみたが、このタンクがじゃまになって、ポース氏の姿を見ることはできなかった。しかし、前の座席の状態は確認できた。
四手井中将は後頭部に裂傷を受けて即死、滝沢主席操縦士は握っていた操縦棹が顔に食いこんで即死、青柳副操縦士と富永無線技師は胸を強打して出血していた。(両名とも病院収容後死亡)
この間にも炎はますますひろがり、熱気に耐えられなくなった河野少佐は、機の頭部にあるプラスチックの覆いを破って、そこから飛ぴ出した。両手と両足、額に火傷を負っていた。
墜落して燃え出した機体は、前半分が折れていた。出入口の扉は荷物や破損した機体の部品で閉ざされていたので、そこから脱出することはできなかった。
ボース氏は炎に包まれた前部の折れ口に向って炎の中を走りぬけた。ラーマン大佐もボース氏のあとから走った。 重傷を負ったポース氏は、他の負傷者と共に、台北市の陸軍病院南門分院に運ばれた。
院長は吉見胤義(よしみたねよし)軍医大尉で、ほかに医師二、日本人およぴ台湾人の看護婦、三十名の衛生兵が勤務していた。運び込まれた時、ボース氏の容態は非常に悪かった。
吉見軍医によれば、
「彼の全身がひどい火傷を受け、灰のようなねずみ色になっているのを見た。彼の胸は焼けていたし、その顔ははれあがっていた。彼の火傷は最もひどいものだった。火傷の度合は第三度の重火傷であった。目もはれあがれ、視力はあったが、目を開けているのは容易ではなかった。腹部には出血はなかった。運ぴ込まれた時は、気は確かであった。ひどい熱を出していた。体温は三十九度もあったし、脈拍は一分間に一二○、心臓の状態も悪かった」
ポース氏の診察をした吉見軍医は、明朝まで持たないだろうと診断した。しかしできるかぎりの治療を実施した。 午後七時~七時半頃にポース氏の容態は悪化し、脈拍が衰弱してきた。吉見軍医はボース氏にヴィタカンフォールとデイジタミンの注射をし、さらに刺激剤を与えたが、心臓と脈拍は回復しなかった。吉見軍医は死亡証明書を書き、死因を第三度火傷と記入した。
ボース氏の死亡に立ち会った者は、吉見軍医、鶴田医師、ラーマン大佐、中村通訳、看護婦二名、憲兵およぴ衛生兵それぞれ一名の計八名であった。
6.爾後の處置
ボース氏の死は直ちに台湾軍司令部に伝えられ、軍司令部からは永友少佐が派遣された。翌八月十九日、台湾軍司令部はポース氏の遺体は飛行機で東京へ送るようにとの、大本営からの電報を受けとった。しかし続く電報で、遺体は東京へ運ばないで台北で火葬するように命令が変更された。
八月二十日、ポース氏の遺体は台北で火葬されることとなった。
火葬は台北市営の火葬場で行なわれ、ラーマン大佐、水友少佐、中村通訳らが立ち合った。
九月五日、台北南飛行場に坂井中佐、ラーマン大佐、中宮少佐と林田少尉の四名が集合、ポース氏の遣骨を東京に護送するための飛行機に乗り込み、福岡の雁の巣飛行場に向った。
その夜は遺骨と遺品を西部軍司令部に保管してもらい、東公園の偕行社に一行は宿泊した。 翌日、一行は二班に別れラーマン大佐と中宮少佐は飛行機で、坂井中佐と林田少尉は列車で東京に向った。
午後三時博多発の列車で坂井中佐と林田少尉と護衛の渡辺伍長と兵二名の四名が乗車した。
九月七日午後六時頃、東京駅到着、午後十一時頃、坂井中佐と林田少尉は大本営に遺品と遺骨を運ぴ週番司令木下少佐に二つの箱を渡し、その管埋を委任した。
木下少佐は、明朝当直参謀にその旨を伝えて、大本営が責任をもって一切を取り計らうと確約した。
翌朝、二つの箱の管埋は当直参謀の高倉中佐に引きつがれた。この日の朝坂井中佐は再ぴ大本営に出頭して高倉中佐に会い、高倉中佐がボース氏の遺骨と遺品を受け取ったことを確認した。しかし大本営はこの受領について、受領書も授受記録も作っていなかった。
大本営参謀部はこの遺骨と遺品をインド独立連盟の手に渡すのが最も適当と考えた。そこで高倉中佐は直ちに東京にあるインド独立連盟の責任者であるラマ・ムルチ氏に電話で連絡して、大本営に出頭して遺骨と遺品を受け取るよう依頼すると共に、ムルチ氏邸に自動車を差し向けた。
三十分ほどしてムルチ氏は丁度東京に来ていた同志のアイヤー氏といっしょにやってきた。
こうして九月八日朝、大本営の正面入口で、ボース氏の遺骨は高倉中佐の手から、ムルチ氏、アイヤー氏、両氏に引き渡された。
ムルチ氏邸に運ばれた遺骨は、安置台の上におかれ、花と線香が手向けられた。当時日本の士官学校へ留学しておったインドの青年達が遺骨のお通夜をした。
インド独立連盟としては、ボース氏にふさわしい盛大な葬儀を行ないたかった。しかし米軍の日本占領の処置は着々と進んでいた。人目を引く葬儀は敵対行為と見なされる恐れがあるので、葬儀はごく内輪に杉並区の蓮光寺で行なうことにした。
参列者は、ムルチ氏を始めインド独立連盟に関係のある人々とその家族、インド放送の関係者、インドの青年達(士官学校留学生)などで、大本営を代表して高倉中佐も参列した。
日本の習慣では、普通、遣骨は持ち帰るのだが、インド独立連盟と日本軍当局は、しばらく遺骨を寺で保管してほしいと頼んだ。そこで蓮光寺の望月師は、遺骨が正式の機関に引き取られるまで、ボース氏という偉人にふさわしい礼を尽くして遺骨を保管することを承諸した。 (了)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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