「105」 「104」番に続けて、チャンドラ・ボースの伝記、生涯を描いた文章を、載せます。このボース協会の人たちには、悪意はないようだ。副島隆彦 2009・3.7

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副島隆彦です。今日は、2009年3月7日です。

「104」番に続けて、インド独立の英雄、チャンドラ・ボースの伝記を載せます。 そのうち、この領域のことも、皆で、歴史上の事実の検証をやりましょう。

ただし、ここの第3章に並んでいる、ボースへの追悼文を書いている、元陸軍情報部幹部たち(特務機関員たち)の文章は、要注意である。

 インド人のパール判事が、極東軍事裁判(Tokyo Tribunal トーキョー・トルビュナリ)で、なぜ日本国の戦争中の行動を擁護して、無罪だと派判決意見書に書いたのかは、この文章を読めば分かる。

 ドイツ、イタリア、日本が敗戦したあとの、当時のインド人たちの、反英国の、燃えるような独立への激しい運動があった。現に、当時、刑務所に入れられていた、インド国民軍(INA)の捕虜たち、2千人の愛国者たちを支援し、釈放させようとする熱狂的なインド国民の愛国運動があったのだ。この流れを理解しなければ、パール判事の日本びいきの、理由は、分かったことにならないのだ。

 日本人は、常に、世界の動きの中の一部としての、日本の運命と言うことを知らなければいけないのである。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

「ネタジと日本人」

Subhas Chandre Bose Academy

はじめに 1995年8月18日 アカデミー事務長 林 正夫

  第1章 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの生涯
 1 少年・学生時代(明治30年-大正10年)
 2 インド国民会議派の若き闘士(大正10年-昭和2年)
 3 インド独立闘争における着きベンガルの指導者(昭和2年-昭和15年)
 4 国外脱出・ドイツヘ(昭和15年7月-昭和16年4月)
 5 ベルリン(昭和16年4月-昭和18年4月)
   ドイツにおけるポースの活動
   自由インド、その問題点(ボースの論文)
 6 チャロー・デリー(昭和18年5月-12月)
   ドイツ脱出‐インド洋上の邂合
   イ26号を難艦するにあたり将兵に対する感謝の言葉
   ラス・ビハリ・ポース氏との対面
   インド独立連盟総裁・インド国民軍最高司令官に就任
 IIL総裁就任演説(昭和18年6月4日、シンガポールにて)
   征け征けデリーヘ……岩原唯夫……
   自由インド板政府主席就任演説(昭和18年10月21日)
   対米英宣戦布告(昭和18年12月24日)
   大東亜倉議のボースについての報道
   自由インド板政府制定国歌……岩原唯夫……
   INAの進軍歌 …………………藤井千賀郎……
 7 インパール作戦(昭和19年1月-9月)
   日印共同作戦‐INA進軍
   インド国内の同志への呼ぴかけ(ポースのラジオ放送)
   ジャンシー連隊隊員への特別教書
   インドを生かすために死を(ボース演説)
 8 イラワジ会戦・日本の降伏・ネタジ台北に死す
   (昭和19年10月-昭和20年8月18日)
 9 スバス・チャンドラ・ポース氏の最後の一日
   ハビブル・ラーマン大佐の覚書と回想
   スバス・チャンドラ・ボース氏の最後
   スバス・チャンドラ・ポース氏の遣骨について
   ……望月教栄……
   44年間異国に眠るネタジの遣骨
 10 ネタジへの衰悼の辞
   ネタジの偉大さについて……マハトマ・ガンジー
   偉大なる世界的人物………ビルマ連邦首相ウー・ヌー……

第2章  ネタジと留学生及び江守喜久子さん
 1.INAにおける教育・訓練機関
 2.留学生の母と呼ばれた江守喜久子さん
 3.大東亜戦争とインド
 4.INA東京士官学校留学生名簿
 5.日本留学の思い出

第3章 スバス・チャンドラ・ボース氏への追憶

 ネタジに近侍したころの思い出
     元光機関員ネタジ専属連絡員 根岸忠素

 スバス・チャンドラ・ボースの思いで
    元駐ドイツ大使 大島浩 (おおしまひろし)

 ネタジは尚生きている-われら日本人の心の奥に
      元ビルマ方面軍司令官 河辺正三

 ビルマにおけるネタージ 元岩畔機関長 岩畔 豪雄

 スバス・チャンドラ・ボース氏について 元光機関長 山本敏

 スバス・チャンドラ・ボース主席 元光機関長 磯田三郎

 ネタジの思いで 元衆院議員 高岡大輔

 ネタジを憶う 林正夫

 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースに捧ぐ 野口米次郎

 スバス・チャンドラ・ボース先生 有末精三

 ボースさんに対する思いで 北部邦夫

 ネタジのこと 前田(嘉悦)博

 光機関とインド国民軍 桑原獄

 チャンドラ・ボース氏とインド国民軍 遠藤庄作

 温顔英知の闘志スバス・チャンドラ・ボース 村田克己

 私のボース氏との出会いと氏の最期 高倉盛雄

 チャンドラ・ボース氏の冥福を祈る 吉見胤義

 ボース氏の憶い出  河野太郎

 ボースさん 高木脩三

 中村嘉一との対談 林田達雄

 レッド・フォートの暁 片倉衷

第4章 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの創立と活動

 アカデミーの発足の経緯 橋本洋
 アカデミーの活動 林正夫
 スバス・チャンドラ記念館 ネタジ・パワンに建設決定
 アカデミーと再度の訪印に際して
     1960年4月18日 江守喜久子 English
 遺骨送還に関する報告書
 スバス・チャンドラ・ボースの遺骨について 林正夫
 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの英霊について
          蓮光寺住職 望月康史
 スバス・チャンドラ・ボースアカデミー活動記録

  あとがき   林正夫

少年・学生時代(明治30年ー大正10年)

 名門弁護士の六男

 スパス・チャンドラー・ボースは、一八九七年一月二十三日(明治三十年)、西ベンガルのカルカッタという町に、父ジャンキナート、母プラババティの六男として生まれた。当時イギリスの植民地であったインドで、ジャンキナートの弁護士という職業は社会的な尊敬を受けるものであり、ボース家の家系は何世紀もさかのぼることができ、先祖から藩王国の大臣や顧間を輩出した名家であったからなおさら尊敬され、ボース家は上流階級に属し経済的にも恵まれていた。

 父親は公務に忙しく、六男のボースと接触する時間は少なく、インドの上流階級のしきたりにしたがって、母のプラババティは子供たちの養育を使用人に任せ、スバスは彼を「ラジャ」と呼ぶ乳母のサラダに育てられた。五歳になってイギリス式の小学校に入ったが、校長は二十年もインドに住みながらヒンドゥー語やベンガル語をおぼえようともしない尊大なイギリス人で、生徒にもイギリス人の子弟が多く、教育は英語で行なわれた。後のボースの英語が本国のイギリス人も目をみはらせるほど拡張高いものであった素地はこのころから養われたものである。

 しかし運動神経の鈍かったボースは体操がにが手で、今で言う「いじめ」の対象にされたりもした。またボースはこの小学校時代に手ひどい人種差別を経験している。学内の少年団に加入しようとしたが、参加資格がイギリス人かイギリス人との混血に限られていたのである。このような環境から、幼年時代のスバスは感受性の強い、内気な幼年期を送ったらしい。

 宗教に関心の中学時代

 十二歳になり、ラヴェンショー中学に入ると、スバスは才能を開花させ、秀才の評判を得るようになる。この中学は自由主義的な校風で、英語だけの教育ではなくベンガル語も必修科目としていた。スバスはベンガル語やサンスクリット語で満点をとり、勉学の面白さを知り、その他の科目にも優秀な成績をあげた。校長のベニ・マドハプ・ダスは秀才のスバスをヒンドウー教の道へ導こうとし、スバスもダスの感化を受け、河岸で長い瞑想に耽ったりした。またこのころのスバスは民族主義運動に明確な閲心は示さなかったが、宗教活動の一環として友人たちと社会奉社団体を組織して、セッルメント活動に従事することもあった。

 註 サンスクリット語はインド古代の一言語。文語として長く便われた。梵語。

 一九一三年、第一次世界大戦の勃発する前年の夏、十六歳のスバス・チャンドラー・ポースは二番の成績でカルカッタ大学予科に進学した。カルカッタはベンガル地方の中心都市であり、イギリスのベンガル地方の分割統治をインド中の反対運動を無視して強行した直後であり、ベンガルでは穏健派が多数を占める国民会議とは訣別した過激派が勢力を得ていた。この過激派の行動はその後もインド独立運動に大きく影響を与えることになり、ボースの独立運動もベンガルという土壌抜きには語れないと一言う人がいるほどである。

 註 イギリスのインド進出一六○○年、東インド会社を設立、一七五七年プラッシーの戦いの後ベンガル地方に勢力を拡大した。一八五七年のセポイの反乱が始まると、翌年イギリスはインドを直轄領としている。

 精神的転強 カルカッタ大学入学直後、スバスは精神的転機を迎える。ダスの影響もあり、ヒンドゥー教の原理主義に深く傾斜していたスバスは、哲学的・宗教的思索に耽り、ヒンドゥー教の苦行者になろうとし、忽然と大学から姿を消して国内巡礼の旅に出てしまった。考えに考えた末思い切った行動に出たスバスの青年らしいふるまいは周囲、特に面親を心配させ、修業場にいたスバスはニヵ月後に家に連れ戻されてしまう。しかしこのニヵ月の放浪は、スバスにヒンドゥーの聖者や苦行者が形式にとらわれて精神的に堕落し、現実社会に対する働きを失っていることを痛感させた。放浪の旅から帰ったスバスは宗教から政治へとその関心を大きく移したのである。

 オーテン事件で停学

 インドは第一次世界大戦にイギリス軍の兵士として百十万人の人間と三千四百万ポンドの軍需物資をヨーロッパ戦線に送った。イギリスは、戦争協力の代償としてインドに自治の範囲の拡大を約束したが、インドの総督の植民地統治機関であるインド政庁は、戦争協力を求めるだけで、自治の拡大には知らんふりをするだけだった。

 戦争による死亡者や負傷者の増大は「イギリス人はインド人を弾よけにしている」という噂を生むほどになり、さらに戦時経済による市民生活の圧迫はインド人の不満を高め、一九一六年にはアイルランドの独立運動にならった武力によるインド独立も辞さないというインド独立連盟が創立されている。政治に目覚めたスバスは大学で校内誌を創刊し、インド自治の討論の場とした。

 註アイルランド 十二世紀以降イギリスの支配下に置かれる。

 長い武力聞争ののち一九一三年イギリス連邦内の自治領、三七年に独立し、四七年イギリス連邦を脱退。新教徒の多いアルスター州は現在もイギリス領であり、IRAとイギリスとの間に武力衝突がしばしば起きている。

 このようなカルカッタの状況のなかで、一九一六年の一月にオーテン事件が起る。オーテンはカルカッタ大学予科の歴史学教授で、日頃からインド人蔑視の言動が目にあまっていた。そのころカルカッタで起きていた市電のイギリス人優先席撤廃運動に参加した学生をオーテンがやくざ者呼ばわりし、平手うちを食わせたことから学生の憤懣が爆発し、ついにストライキに発展した。

 学生とオーテンの話し合いは決裂し、数人の学生が彼を殴り、級長のポースは扇動者とみなされ、学校当4局から停学処分を受けた。ボース自身、すでに自分の人生は民衆のために捧げる決意を校内誌に発表していたが、後に自伝で「オーテン事件は私にとって大きな転機だった」と述べている。

 イギリス留学

 翌年の四月に大学に復学するとスバスは猛勉強を始め、一九一九年の五月、全学生中二番の成績で哲学科を卒業する。喜んだ父のジャンキナートは、その年の八月、過激派学生として警察から目をつけられていたポースを心配し、イギリスの大学へ留学し、インド高等文官試験を受ける準備をする決心を二十四時間以内にするように求めた。

 ボース自身は、イギリスのインド統治の手先となる気持ちはなく、今からイギリスに渡っても大学の新学期には問に合わないと考え、父親を安心させるためイギリスに出発した。スバスが船旅を終えてイギリスに到着したのはすでに十一月だったが、運よくケンプリッジ大学の新設の学部に入学することができた。

 ポースはイギリス人に対する新鮮な驚きを感じた。白人の召使がインド人であるスバスの靴を磨いてくれることにこの上ない喜ぴを覚えると同時に、植民地のイギリス人には見られない彼らの特質を鋭く観察している。友人への手紙で「イギリス本国人はたしかに彼らを偉大にした天性が備わっている。決められた時間まで真面目に働き、インド人が人生を悲観的にとらえようとするのとは異なり、しっかりした楽天主義をもっている。健全なコモンセンスを持ち、国益をこの上なく尊重する!」と書き送っているほどだ。

 インド高等文官への道を拒否

 一九二○年の七月にはボースはインド高等文官試験を受け、両親には自信がないと伝えたほどだったが、九月の発表では思いもかけず合格していた。合格者はイギリス本国のインド省に勤務でき、インド人官僚として最高の地位も望める資格が得られ、最も難しい試験といわれており、後のインド首相ジャワハルラル・ネルーも最初は失敗し、二回目に合格したほどの試験である。ボースは合格を誇りに思ったが、インドの大衆のために一生を棒げる決心をすでにしており、両親の勧める

 官吏への道を選ぶか深く悩んだ。父と子の間で八ヵ月の激しい手紙のやりとりが続いたが、ボースは官吏登用資格の返上をついに決意する。郷里ベンガルの革命家で、カルカッタの著名な弁護士デシュバンドゥー・チタ・ランジャン・ダスがベンガルの分割統治に抗議し、全ての地位をなげうってガンジーとともに不服従運動を組織し、その全財産を運動資全に提供した生き方を知ったためであった。

 革命家の道を選ぴ、インド人学生としてはじめて官吏登用書類へのサインを拒否したボースが帰国の途についたのは一九二一年六月末のことであった。

 註 ネルー、P・ジャワハルラル インド独立運動をガンジーとともに達成した政治家。独立後初代の首相(一八八九~一九六四)。

● インド国民会議派の若き闘士(大正十年‐昭和二年)

 マハトマ・ガンジーとC・R・ダス

 一九二一年(大正十年)七月二十一日、ボンベイに船が着くとボースはすぐさまその足でガンジーのアシュラム(道場)を訪間した。手織木綿の民族衣装の人々中に洋服姿の自分が恥ずかしかったが、ポースは一年以内にインド自治を回復できるというガンジーの考えの根拠をたずねた。ガンジーは、

 一、ここ数年間はイギリス製綿布のボイコット、国産綿布愛用運動に力を注ぐ
 二、その運動が成功すれば、インド政庁は国民会議派弾圧を強化する
 三、その時こそ法令に対する不服従運動と牢獄への行進が始められ、牢獄が満杯になれば、運動の最終段階である税金不納運動の時が来るという三つのステップを語った。

 註 ガンジー、M・K・「インド独立の父」と呼ばれる独立運動の指導者・政治家。「マハトマ(偉大なる魂)と敬称されたが、独立直後、狂信的ヒンドゥー教徒に暗殺される(一八六九~一九四八)。

 ボースが「もしイギリス製綿布のボイコット運動でランカシャーに混乱が起れば、そのショックで本当にイギリスの政府や議会はインドに自治を許すとマハトマはお考えなのですか?」とたずねると、ガンジーは「私はそれがイギリス政府や議会を屈伏させる手段とは考えていない」と答えている。

 ガンジーの一年以内に自治を獲得できるという見通しには確固たる根拠が無く、ある種の宗教的信仰のようであるようにボースには思えた。失望した様子のボースに、ガンジーはカルカッタのC・R・ダスを訪ねるようにすすめた。

 もちろんボースは自分が車命家の道を選ぶきっかけとなったC・Rウダスに会うつもりだった。長い旅に出ていたダスはカルカッタを留守にしていた。ようやくダスに会うことができたボースはたちまちダスに魅了され、ダスこそ自分の求めていた指導者だと強く感じた。この時の様子をポースは次のように書いている。

 「ダスがもう御殿のような家に住んでいなくても、やはり青年の友であり、青年の憧れを理解し、悲しみに同情を寄せるあのダスだった。私はダスと話している間に、ここに自らが何であるかを知り、自らの持てるすべてを与え、また青年たちにどんなことでも求めることのできる人物が存在しているのを発見した」

 ダスはボースの才能と熱意を認め、ただちに国民会議派ベンガル支部の広報主任、義勇隊隊長、新設の会議派学校校長という要職に着けた。政治の世界に具体的な場を与えられたボースは精力的に活動を始める。

 註 国民会議派 一八八五年開催の国民会議に始まるインドの政党。独立後は一貫して政権を担当している。

 ハルタルとアムリツァルの悲劇(大正八年)

 弁護士として二十年以上も南アフリカでインド民族運動をしてきたガンジーが帰国したのは一九一五年だった。ガンジーの思想は、ヒンドゥー教の源に帰り、イギリスの植民者の抑圧や弾圧に対しても暴力で立ち向かうのではなく、徹底的な自己犠牲と博愛の精神で相手の良心に訴えようとする「サチャグラハ」運動に凝縮されている。

 サチャグラハは力による弾圧に打ちのめされていたインドの大衆から広い支持を取りつけ、一九一九年、戦前の自治拡大の約束を反固にしたイギリス政府が治安維持の法律であるローラット法を成立させると、ガンジーは直接インド国民にハルタル(ゼネラルストライキ)を呼ぴかけた。

 四月六日のハルタルが行なわれるとインドの町や村からは人影が絶えたが、非暴力抵抗を意図したガンジーの思惑を越えて各地で暴動化し、イギリス当局との衝突を引き起こした。失望したガンジーは民衆の反省を求める演説を行ない、暴力の償いとして断食を行ない、ついに「サチャグラハは失敗であった」と、運動の中止を指示するにいたった。

 パンジャプ地方の都市アムリツァルでもハルタルは成功を納めたが、その後官憲の会議派指導者の逮捕・追放に抗議するデモが行なわれ、警官の発砲でインド人に数人の死傷者が出た。憤激した民衆が報復にヨーロッパ人を殺害し、ミッションスクールの白人女教師を暴行、重傷を負わせた。鎮圧に出動したイギリス人は指導者の演説に集まった数万の群衆に小銃で射撃を加え、千五百人を超える死傷者が出た。このニュースは厳重な報道管制が敷かれたがインド中に口から口へ伝わり、反英の空気は頂点に達した。

 この年の暮れ、惨劇の地アムリツァルで開催された国民会議年次大会は空前の盛り上りを見せ、立憲的手段による自治への足ががりとしてインド統治法を受け入れること、アムリツァルの虐殺を非難し、総督の羅免、ローラット法の撤回を要求する決議を行なった。

 しかしハルタルで運動の担い手をして活動した下層中産階級や都市の労働者の代表は満足せず、これまでの指導者に代わり自分ではハルタルを失敗と考えていたガンジーの評価が高まり、翌一九二○年にイスラム教徒の反英運動のキラーファト運動がガンジーの説得により非暴力不服従運動に合流すると、ガンジーは次第にカリスマ的声望を得るようになった。

 投獄・首席行政官

 ボースがイギリスから帰国して、独立運動に加わったのはちょうどこのころだった。イスラム教徒とヒンドゥー教とを統合した反英独立運動がガンジーを指導者として組織されようとしていた。一九二一年九月、カルカッタでダスと会議派の幹部との会談が開かれ、ポースも出席し、会議派の要人たちとはじめて接触している。

 この会談でダスはガンジーに積極的に協力した。ダスは戦争中治安維持のため投獄されていたベンガルの急進派を、ガンジーの非暴力不服従運動は民族運動を弱めるものではなくかえって強めるものであると説得し、会議派に吸収することに成功した。

 十一月にイギリス皇大子がインドを訪問したが、国民会議派はボイコットしたため、皇太子はインド人の歓迎を受けることなく無人の町を視察しなければならなかった。このボイコットを組織したのは国民会議の義勇隊であったから、カルカッタの隊長であったポースは真っ先に逮捕され、六ヵ月の禁固刑を言い渡された。ボースの生涯における十一回に及ぶ投獄の体験の最初であった。

 一九二二年の国民会議大会は大混乱となった。議長のダスやネルーの父パンディット・ネルーは会議派のそれまでの地方議会ボイコット方針を改め、議会内部から民族闘争を行なう戦術への転換を主張し、旧指導者と鋭く対立した。議長を辞任したダスは、会議派内に完全な自治を目指すスワラジ党を結成する。会議派から脱退しなかったが、ベンガル地方独自の路線を歩もうとしたのである。

 そして翌年の総選挙ではポースは選挙運動に邁進し、ベンガル州の各選挙区でスワラジ党は大幅に躍進し、一九一三年のカルカッタ市議会選では市議会の三分の二を制した。ダスはカルカッタ市長に就任し、腹心のボースを市の首席行政官に任命した。この役職は市議会を代表して行政権を行便し、市議会の事務局長を兼ねるイギリス植民地に独自の要職であり、若干二十七歳のボースがベンガル州第一の都市の首席行政官になったことはインド国中を驚かせた。

 ビルマへの流刑

 カルカッタのイギリス当局は勢力を拡大したダスのスワラジ党を弾圧する機会を狙っていたが、一九二四年の一月に過激派の一学生が警察署長と誤って無関係のイギリス人を暗殺するという事件が起った。学生は逮捕され、法廷の陳述で「罪の無いイギリス人を殺したことを心から後梅し、彼の霊を慰めるために自分の命をもって償いたい。そして自分の流す血の一滴一滴がすべてのインド人の自由をはぐくむ種子になればと願っている」と述べ、インド国中に広い感動を呼んだが、結局死刑の判決を受けた。

 ガンジーは事件に驚愕し「犯人の愛国心は認めるが、方向は誤っている」と言明した。これに対してダスはベンガル地方議会で「非暴力主義は守らなければならないが、青年の自己犠牲の精神は評価すべきだし、尊敬すべきである」と発言し、議会もこの意見に賛同する決議を行なった。

 このような空気を危険に感じたベンガルのイギリス当局は、十月二五日、暴力革命を図っているという口実でスワラジ党員の大量逮捕に踏み切った。市長のダスは逮捕されなかったが、ボースはただちに逮捕された。慣激したダスは「市政の責任者は私である。

 ボースを逮捕するならなぜ私を逮捕しないのか」と迫ったが、ダスの声望を恐れる当局は取り合わなかった。ダスは民衆にポースの逮捕は不当であると働きかけ、民衆は何ヵ月問も公判なしに収監されているボースたちの釈放を要求する大規模なデモを実行した。実力によるポースの奪回を恐れた警察は、翌一九二五年一月、ポースの身柄をビルマのマンダレーの監獄に移した。

 マンダレーの焦熱地帯にある木造の監獄は、マラリヤやデング熱などの伝染病を媒介する蚊の大群に悩まされ、直射日光が射しこむ最悪の環境に置かれていた。ボースはここでヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の宗教書やベンガルの文学や歴史の書物に読み耽り、インドの独立をはばむ原因の一つである宗教的対立をいかにして解消するか、そしてインド独立運動は将来どうあるべきなのかに思いをめぐらした。

 獄中闘争で結核に

 ところが、自分の手足となるスワラジ党を徹底的に弾圧されたダスがこの年の十月に急死した。この報せを聞いたボースは激しい獄中闘争をはじめ、年末には同志たちと二週間のハンストを行ない、極度に衰弱してしまう。翌年の暮れには肺炎を起こし、呼ぴ寄せられたポースの弟で医師のスニルがボースには結核の疑いがあると診断し、獄外療養の必要を述べると、ベンガル地方政府はボースをインド国内に移すように主張した。

 だがデリーのインド政庁は、ボースの国内移送は治安の混乱を招くと反対した。そこでベンガル政府はボースをラングーンからスイスへ直接国外追放する案を提出した。ボースは「自分には国外亡命の必要は無い」と提案を拒否したが、日に日に病状が重くなり、ついに重体に陥ってしまう。カルカッタではボースの釈放を求める民衆の行動が激しさを増し、不穏な情勢についにイギリス当局も一九二七年五月十六日、ついにボースをインドに移してから釈放した。

 釈放後まもなく、ひとりの日本人がボースを訪れている。カルカッタに開設される日本商品館の開所式にボースを招待するため、エルジン・ロードのボース家を訪れたのは高岡大輔である。一時間ほどの歓談で、ちょうど三十歳のボースは二十五歳の高岡に、日露戦争の日本の勝利がいかにインド人を勇気づけ、当時八歳だったボースもアジア人の白人に対する勝利に深い感銘を受けたことを物語り、自分たちスワラジ党はガンジーのような穏便な方法ではなく、実力でイギリスをインドから追い出し、日本のような完全独立を目指すことを力説している。これが日本人とボースの最初の本格的な接触であった。

3 インド独立闘争における若きベンガルの指導者
(昭和2年-昭和15年)

 ヒンドゥーとイスラム
 一九二七年(昭和二年)七月にインドに帰ったボースは、アッサムの四ヵ月の療養で体力が回復すると十月にはカルカッタに戻り、国民会議ベンガル支部長に選ばれ、ダスを失ったスラワジ党の再建に精力的に取り組む運動をはじめた。ボースは、当時死傷者を出すような激しい衝突を繰り返していたイスラムとヒンドゥーの対立解消にまず着手した。

 双方の民衆を公園に集め、たがいに他の宗教を尊重し、不毛な殺しあいは終りのない悲劇であると説いた結果、完全な対立解消にはならなかったものの衝突は終息した。インド独立を阻害する原因の一つである宗教的対立は絶対的なものではなく、融和が可能だというボースの考えの根底には、この時の体験があるのかもしれない。

 註 イスラム マホメッドの始めたイスラム教を信じる人々。イスラム教の教典はコーランで、唯一神アラーを信仰し、偶像崇拝を禁ずるのが特長。

 註 ヒンドゥー ヒンドゥー教を信じる人。ヒンドゥー教はインドの土着信仰とバラモン教が融合した民族宗教で、ビシュヌ神、シバ神等を信仰する。

 宗教的な教義の差以外に、ヒンドゥーとイスラムの対立を抜き差しならなくしたのは、イギリスが分割統治の手段として両者を時代や状況により差別して利用したことが大きく影響している。

 植民地インドのイギリスに対する最初の独立戦争であるとボースが提えた一八五七年のセポイの反乱を、イギリスはイスラムのムガール帝国再建の企てと考え、反乱の後にはヒンドゥー教徒の上流階級に英語教育を行ない、ヨーロッパ文化を与え、官吏、医師、弁護士などに登用して植民地支配機構に取込み、イスラムを排斥した。

 しかし、教育の普及でインド人知識階級が形成され、ヒンドゥー教徒のなかに民族意識が高まって国民会議が自治要求運動の大きな勢力なると、イギリスは国民会議に対するイスラム教徒の不満をあおり、一九○六年に全インドムスリム連盟を結成させる。このようなイギリスの政策はインド独立運動に深い影響を与え、インド独立に至るまで続けられた。

 そしてインド亜大陸には、ボースが願っていた宗教や地域主義を乗り越えた強力なインド国家ではなく、現在のような宗教によって分割されたいくつもの国家が存在する結果となった。

 註 セポイの反乱 一八五七年、セポイ(東インド会社のインド人備兵)が、イギリスの支配に抗して起こした反乱。インド側では最初の独立戦争と位置づけている。

 巨標は自治獲得から完全独立へ

 一九二七年の十月にイギリス本国でインド統治法改正のためのサイモン委員会が設置され、「インドに自治を許すのが望ましいかどうか」を調査、報告することになった。ところがこの委員会にはインド人は一名も参加を許されなかったため、インド人は民族的侮辱と受け取り、反対運動が急激に盛り上がった。

 ロシア革命や第一次世界大戦後の社会主義や共産主義の影響もあり、一九二七年の国民会議年次大会では急進派を代表するポースとネルーが事務総長に選ばれ、サイモン委員会のボイコットだけではなく、イギリス連邦内の自治獲得ではない完全独立を目標とすることが始めて決議された。

 しかし、完全独立の目標がイギリスとの武力衝突を招くことを恐れたガンジーは「学生大会で決議したような実行不可能の空論にすぎない」と論評し、あわてた国民会議の既成幹部は「まずインドの自治領化を目標とする」方針を採択する。ポースとネルーの二人は事務総長辞任を申し出て、青少年運動に専念する意志を告げたが、会議派の長老たちに遺留された。

 会議派内の既成幹部と若手急進派の対立は激しさを増し、次のカルカッタ大会の開催が危ぶまれるほどになった。ポースやネルーは翌一九二八年十月、国民会議の青年党員を結集し、完全独立と社会主義的改革を目標とするインド独立連盟を設立した。国民会議の分裂を回避するため、ガンジーが調停に乗り出し、まず一年以内の自治獲得を要求、それが入れられない場合には会議派として完全独立を求め、大規模な非暴力非協力運動を展開するという点で合意に達した。

 この間、タタ財閥経営の製鉄所の長期ストライキの調停に成功し、ボースは労働者層から広い指示と信頼を得て全インド労働組合同盟の会長に就任、労働者層の支持基盤を国民会議内だけでなくさらに大きな影響力を持つようになっていた。

 獄中でカルカッタ市長に当選

 一年の自治獲得期限が追ってもイギリスは具体的な返事を与えなかった。一九二九年のラホール大会で国民会議は完全独立を目標と定め、不服従運動の方法をガンジーに一任した。ガンジーのとった戦術が有名な「塩の行進」であった。当時インドでは塩の国内生産が禁じられていた。炎暑のインドでは塩は肉体労働者にとって大量に必要だったが、イギリスは塩の輸入関税を高める塩税改悪を実行していた。

 ガンジーは自分たちの手で塩を海水から作ることを運動化しようと考え、一九三○年三月、奥地の道場から海岸に向けて二百マイルの塩の行進を開始し、同時に禁酒と外国製品のボイコットを指今した。

 インドの婦人たちが外国製品を売る店を見張り、イギリス系の商店が次々に破産するようになると、イギリス当局は激しい弾圧を加えた。かえって運動は激化し、ペシャワルなどインド各地で激しい衝突と流血の惨事が起った。

 前年の八月、革命家と政治犯に対する弾圧に抗議して逮捕され重禁固一年の判決を受けたが、その後保釈金を払って仮釈放中だったボースもこの運動の先頭に立ち、たちまち逮捕、収監された。獄中で看守から暴行を受け一時間も失神するような手ひどい扱いを受けたが、ボースは獄中からカルカッタ市長選に立候補し、三○年の九月、みごと当選を果たす。イギリスは三十三歳の青年市長を釈放せざるをえなかった。

 しかし、一九三一年一月二十六日、国民会議派のデリー大会で決められた「独立の誓いの日」にデモ行進の先頭に立ったボースは、手にした会議派の旗を奪おうとした警官ともみあいになり、ふたたび逮捕されてしまう。棍棒で殴られ、右手の指を二本骨折したが、留置場では満足な手当てもされず、法廷は六ヵ月の重禁固を宣告した。現職の市長が暴行され逮捕されたのは全インドでボースが初めてだった。

 デリー協定

 「塩の行進」を中心とする一年にわたった流血のサチャグラハ(不服従)運動の結果、ガンジーとイギリス総督の間に結ばれたデリー協定はボースを失望させた。この協定はイギリスは全政治犯の釈放、没収財産の返還、海岸での自由製塩許可などを、会議派は不服従運動の中止、次の総督との円卓会議への出席を約束したが、さらに重要な合意として、将来のインド政府の形態として藩王国を含む連邦制とし、外交・防衛はイギリス本国の権限とすることを約束していた。これは自治領といってもその実態は保護国に等しいことを示していた。

 ボースはガンジーの一歩後退二歩前進的なやり方に不満を感じ、国内の混乱を恐れるあまり急激な国家形態の変化を忌避しているように感じた。ネルーもこの合意に激しい抗議を行なったが、ガンジーに協定の破棄をちらつかされ、ガンジーのやり方を黙認せざるをえなかった。この時以降、ネルーはボースとたもとを分かち急進派を離れ、ガンジーと歩みを共にするようになる。

 註 藩王国 イギリスの直轄支配を受けず、インドの土侯がイギリスに個々に従属して統治した領域。

 九月に間かれたロンドンの円卓会議にガンジーは出席したが、その主張は少数意見として冷たくあしらわれてしまう。ボースは後に「ガンジーは会議のメンバーも知らず、何の計画も持たずに出席した。聖人政治家は策謀政治家の敵ではなく。

 ガンジーはイギリスに手玉にとられた。ガンジーの失敗は政治指導者と非暴力信仰の説教者のふたつを演じなければならなかったことだ」と手厳しく批判している。

 ウィーンへ

 円卓会議後、英国は国民会議派左派の根こそぎ検挙に乗り出し、ボースも三十二年二月に投獄された。電灯もない仮設の刑務所で、ポースは病気になり、四月半ばには重病となった。七月にはマドラスの監獄に移されたが、結核を再発しており転地療養が必要であると診断された。

 今回はボースも医師の勧めに従い、一九三三年二月二十三日、警官が見守る中をポンベイからヨーロッパに向けて乗船した。ポースの旅券はイギリス政府が発行したものだが、イギリス本国とドイツヘの渡航を禁じていた。

 ポースはウィーンの著名な結核専門医フェルト博士のサナトリウムに入院した。ポースは数週間後には健康を取り戻し、彼の病室はヨーロッパのインド独立運動の中心になっていた。追院後、ボースはウィーンのオテルード・フランスに事務所をかまえ、精力的に活動を開始する。ヨーロッパの知識人と文通し、各国の外交官とも接触、インド独立へ国際的な支援を得られるように努力したのである。

 フランスの作家ロマン。ローランと文通し、当時のヨーロッパで影響力のあったチェコのベネシュ外相にも会っている。また、プラハ駐在のイギリス副総領事がボースの人物に傾倒し、ボースがポーランドヘ行くことを黙認してくれる幸運があって、ボースはポーランドからドイツにも入った。

 註 ロマン・ローラン フランスの作家・思想家で、戦争とファシズムに反対した。代表作に「ジャン・クリストフ」「魅せられたる魂」など(一九六六~一九四四)。

 ヨーロッパ制覇を望むヒトラーのドイツ政府はインド独立運動の大立者を大歓迎し、国賓待遇で歓迎しようとしたが、ドイツに借りを作るまいと考えたポースはこの待遇を辞退した。ドイツでは希望したヒトラーやナチス首脳との会談は実現しなかったが、ヨーロッパ各地を訪れたポースはローマではムッソリー二と会見し、インド独立に関して意見を交わした。この会見でボースは「インドの独立は社会革命を伴わなければならない」と言っていることが注目される。独立を機会にインドの古い社会体質も改革しなければならないという構想が、すでにポースには固まっていた。

 註 ナチス(ナチ) 回家社会主義ドイッ労働著党の略称。ヒトラーを党首に三三年に政権をとる。統制経済、軍備増強、ユダヤ人の排斥やアーリア人種の優越を説く極端な民族差別に特長。

 エミリー・シエンクルとの出会い

 一九三四年の六月にウィーンに戻ったポースは、マドラスの監獄で書きはじめた論文『インドの闘争・一九二○~三○年』の完成を決心し、英語の解るタイピストを紹介してくれるよう友人に依頼する。友人が紹介した女性がオーストリアの食肉工場の経営者の娘で二十六歳のエミリー・シェンクルだった。

 恋愛感情を抱いたのはエミリーが最初だったらしい。茶色の髪の小柄な、思いやりの深い母性型の女性で、タイプを頼まれたボースの論文を読み、次第に深い尊敬の念を抱き、献身的に身の回りの世話をし、ポースの旅にも付き従い、秘書の役割も果たすようになっていった。ボースは青年時代から女性に対してピューリタン的であり、このころのポースは旅先でもエミリーには別の部屋を取り、エミリーの愛情にはこたえようとしなかった。

 翌年の十一月二十六日、ボースは父が重病であるというカルカッタからの電報を受け取った。ただちに飛行機でカルカッタに向かおうとしたが、帰国すれば逮捕すると警吉していたイギリス当局が待ったをかけた。やっとのことでカラチに到着した時、ボースを待っていたのは父の死の報せだった。

 ボースの悲しみは深かったが、ベンガル地方政府が空港からただちにボースを監獄に連行しようとしていることも知らされた。しかしこのことが新聞に洩れ騒ぎが大きくなることを恐れた当局は、ボースにカルカッタの自宅に七日間だけの滞在を許可した。

 七日問が遇ぎたとき、ポースはヒンドゥー教の定めた服喪期問である二十一目まで滞在を延長するよう願い出たが、ボースの影響力を恐れた当局は許可しなかった。傷心を抱いてウィーンヘ帰ったボースを暖かく出迎えたのがエミリーだった。

 父ジャンキナートの死を自分と同様に悲しむエミリーに、その愛情の深さを感じ、革命家には女性を愛する資格はないと考えていたボースもはじめて心を開いたのだった。ボースはエミリーとの結婚を決意した。しかし、当時オーストリアはナチスドイツの影響を受け、オーストリア人女性とインド人の結婚はポースの活動の妨げになると心配したエミリーは、正式の手続きはとらず、表面的にはあくまでも秘書であることを望んだ。

 エミリーという伴侶を得てボースの活動は積極的に進められ、一九三六年の一月には、イギリスからの独立を武力闘争で勝ち取り、ボースがかねて強い関心を抱いていたアイルランドにドーバー海峡を漁船でわたり密航し、デ・ヴァレラ首相と会見している。

 国民会議派議長となる(昭和十三年)

 ボースのヨーロッパ滞在の問に、インドでは事態が進展していた。一九三三年、原則的にインドの自治を認める新しいインド統治法が作られ、三七年にはこれに基づいて州選挙が行なわれる予定になっていた。会議派はこの選挙に参加することを決めていたが、内部の左右対立は激しくなっていた。ポースの国外追放後、左派を代表していたのはネルーだった。三六年二月、ネルーが中途半端な方向に会議派を持っていくことを恐れ、投獄覚悟の帰国を決心した。

 三月二十七日インドに向かって出発したが、船がイギリス領のエジプトのポートサイドに着くと監視の警官が同乗し、ポースは旅券を取り上げられ、ボンベイに入港するとただちに投獄され、数週間にわたり客地の刑務所をたらい回しにされてから兄の家に送られ、外出禁正状態に置かれた。ゼネストを含む会議派の強い抗議が行なわれたが、ボースは翌年の三月までこの状態に置かれ、その間に結核を再発し、釈放されてから五ヵ月間も療養しなければならなかった。

 この間に国民会議派は州選挙に大勝した。しかし右派は州政府に閣僚として行政に加わることを望み、左派は完全自治の実現まで各州の内間には参加せず闘争を続けることを主張し、対立は収まらなかった。ボースの政界復帰は左派の力を強め、会議派の分裂になりかねないと判断したガンジーば、翌三八年の年次大会の議長にポースを推した。ネルーと同様、最大の反対勢力であるボースを自らの影響下に置こうとするガンジーの考えであった。

 議長就任を受けたボースは結核治療のため六週間のウィーン滞在の後、会議派議長候補としてイギリスを訪問し、アトリーなど労働党の政治家と会い、インド独立への理解と支援を求めた。イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンはこの時のボースを「明朝で物静かな態度だが、インド問題では決然とした姿勢を見せたのが印象的だ」と書いている。

 国民会議議長に当選、ガンジーと対決

 一九三八年の国民会議年次大会はボースの政治家としての評価を画期的に高めた。議長就任演説でボースは独立後のインドは農業と工業を漸進的に社会主義化する必要があると述べ、準備のために中央計画委員会の設置を提案し、委員長にネルーを指名した。農地改車や産業の国有化、科学的経済計画、八時間労働を掲げたポースの提案は民衆、青年層から広い支持を受け、全国遊説の会場にはいつも十万人を超える大群衆が棄まり、「ボース万歳」の声があがった。政治家として自信を持ったボースは次期も議長を続けることを望んだが、これはガンジーの強い警戒感を呼び起こし、二人の決定的な対立を引き起こすことになった。

 この年の十一月、日本の商工省や外務省の特命を受けた高岡大輔は、会議派が日中戦争は帝国主義的侵略であるとして決議した日本商品ボイコットの撤回を求め、十年ぶりにカルカッタのボース邸を訪間している。政治家としての貫禄をすっかり身につけたボースは日本が中国と戦争をはじめた意図について「中国を植民地化しようとしているのではないか」という質間をし、高岡が日本は英・米・オランダなどの白人の支配からアジアを解放し、アジア人のためのアジアを作ろうとしているのだ」と答えると、「その点はよく理解できる」と述べた。

 さらにボースは兄サラット邸での食事の席で「近い将来日本に亡命することがあるかもしれない」と述べ、高岡に日本の要人たちとのチャンネルづくりを依頼している。これは後に日本と協力しインド独立を実力で達成しようとしたボースが、具体的に日本との関係を進めようとした最初の出来事として注目される事実である。日本に帰国した高岡は外務省や参謀本部にこのボースの考えを伝えた。

 それまで国民会議の議長はガンジーの推薦する人物を満場一致で承認するのが恒例だった。三九年の一月の大会でポースが議長に立候補し、ガンジーの推薦したシタマラヤを一五八○票対一三七七票で破って当選すると、ガンジーは「ポース氏は今や正々堂々と議長に選ばれたのだから、自前の執行委員会を組織し会議派を運営すべきである。

 会議派は腐りはてた組織になってしまい、ふさわしくないメンバーを多数抱えている。結局ボース氏は祖国の敵ではなく祖国の犠牲者なのだ。彼の意見では自分が最も進歩的で夫胆なプログラムを持っているという。少数派は彼の計画の成功を願うことだけが許され、それについていけなければ会議派から脱退するほかはない」と正面からポースと対決することを宣言する。

 フォワードブロック結成、第二次世界大戦勃発

 あわてぶためいた会議派の指導者は、ポースの兄のサラット・ポースを除き、全員が執行委員を辞任した。ガンジーの隠然たる力を知らされたポースはガンジーを訪問し協力を願ったが、ガンジーは「自分の力で議長になったのだから好きなようにやりなさい」と冷たく突き放した。

 そして三月の大会では会議派は従来どおりガンジーの指導に従うという決議がなされ、ボースは四月末に議長を辞任せざるを得なくなった。後に大統領になるプラサドが議長となった会議派は右派が完全に主導権を握り、左派に対する追求を続け、ポースはついにベンガル州議会委員長からも追われた。

 註 プラサド、B‐R インドの政治家で、ガンジーとともに独立運動に従事し、独立後に初代大統領となる(一八八四~一九六三)。

 ボースもガンジーと対決することを決心する。会議派内に急進派をまとめたフォワードプロックを結成したのである。学生、青年労働者、農民がこのフォワードプロックに結集し、特にベンガルでは圧倒的な支持を集めた。インド独立運動において、ボースは会議派主流との分裂も辞さない姿勢を見せ、明確な自己の運動方針のもとに活動を開始しはじめたが、そのころ世界は第二次世界大戦を迎えようとしていた。

 戦争に備え、イギリスはイエーメンのアデンに英印軍を増派した。これに対し会議派は「インド人の同意なしにインドに戦争を負担させ、資源を戦争に便おうとするいかなる企てにも反対する」と決議したが、イギリスはさらにエジプトやシンガポールに英印軍を増派し、九月三目ついにドイツに対して戦線を布告した。インド総督は植民地のインドは自動的にドイツと戦争状態に入ったと発表したが、会議派の幹部すら事前の相談は全く行なわれなかった。

 ポースは第二次世界大戦を独立達成のまたとないチャンスと提えた。一九四○年回月にパリが陥落すると、イギリス帝国の勢力が弱まったこの時期こそインド人は決起すべきであると考えたボースは、ガンジーに全国民的決起の呼ぴかけを促すためガンジーを訪れた。

 「全インド人が決起して自由を勝ち取るチャンスは今をおいてありません。ぜひマハトマが先頭に立って大号令を発してください」と述べるポースに対し、ガンジーは「なぜ今でなければならないのか。イギリスはこの戦争に勝っても敗けても弱体化し、この国を支配する力を失う。その時こそ暴力を使わず独立が達成できる。今ことを起こすことはイギリスを背後から刺すことになる。道徳的にも政治的にも賛成できない」と冷たく言い放った。

4 国外脱出・ドイッヘ(昭和15年7月‐昭和16年4月)

 戦時下の逮捕で国外脱出を決心
 ボースがガンジー、ネルーといった会議派主流派とたもとを分かち、フォワードプロックを中心に独自の運動を進めようとしたころ第二次世界大戦が始まったことは、ポースの運動に大きな影を落とした。ボースは一九四○年(昭和十五年)、カルカッタにおいてイギリスがインド支配を記念して各地に立てた銅像や碑を実力行使で倒す計画を立てたが、実行の前日である七月二日に逮捕されてしまう。

 戦時中の逮捕は、戦争が終了するまでの収監を意味していた。独立運動、フォワードプロックの活動が大切な時期を迎えるとき、獄中にいることにボースは耐えられなかった。

 そのころポースがかつて日本行きを勧め、当時の松岡外相、日本駐在のドイツ、イタリア、ソ連大使らと会い、ルートづくりをした後援者で貿易商のララ・シャンカルラルが外国から帰り、獄中のボースに海外で活動することを勧めた。すでにシャンカルラルの活動で、日本からフォワードプロックに対し極秘の資金援助があり、カルカッタを訪れた大橋外務次官にボースは秘密裡に会ったこともあったのである。シャンカルラルのことばと戦時中という状況から、ポースは国外脱出を決意する。

 まず牢獄の外へ出るため、十一月二十九日ポースは断食を開始する。ポースは見る問に衰弱し、十二月五日にはこれ以上続ければ確実に死を招くと診断されるほどになった。ボースの死が大きな混乱を引き起こすことを恐れ、イギリス当局は彼をただちに釈放した。

保険外交員モハメッド・ジアウッディン

 家に帰ったポースは髭を伸ばしだす。一月十七日の午前一時半、黒いトルコ帽にゆったりしたイスラム教徒の服装で、二十四時間監視体制をとる警官のわずかな隙を狙い、裏口から脱出した。車は甥のシシルが運転し、夜明け前に兄サラットの長男アショカの家の近くに着いた。生命保険の外交員モハメッド・ジアウッディンと名乗ったポースをアショカは素気なく追い返そうとした。泊まる所がないと訴える外交員をアショカはしぶしぶ家に入れた。この芝居は召使たちの口から秘密が漏れることを恐れたための工夫であった。

 翌日ボースは監視の厳しいターミナル駅を避け、小さな駅からペシャワル行きの列車の郵便車に乗った。駅に停まるたぴに新聞の山に身を隠し、一月十九日、アフガニスタン国境に近いペシャワルに無事に到着、その日はホテルに泊まり、翌日ペシャワル市内のアバド・カーンの家に身を寄せた。ポースはパキスタンとアフガニスタン国境にあるハイバル峠を越える脱出コースを考えていたが、イギリスの官憲が目を光らせ突破は困難であることがわかり、自動車で峠の迂回路を行くことになった。

 しかし車の手配、脱出路の研究に予想以上の時間がかかった。一月二十七日のボースの公判日が迫り、脱出作戦の責任者のアバド・カーンは気が気ではなかった。一方カルカッタの自宅では、ボースの近親者たちが脱出前に書きためたポースの手紙を毎日投函した。イギリス当局が検閲することを予測し、ポースが自宅にいるように思わせるためである。そしてボースの失踪を当局に届け出たのは会判前日の一月二十六日であり、家人は人を使って四方八方にボースを探すふりまでしている。

 カブールへ

 一月二十一日、現地人ガイドが見つかり、ポースは国境地帯に住むパタン族の衣装に身を包み、ペシャワルから国境へ向った。途中で車を捨て、石だらけの砂漠を徒歩で進むのである。昼はベンガル育ちのポースもへきえきする暑さで、二、三時間も歩くと何日も歩いたような疲労が一行を襲った。夜になりやっと小さな村に着いたが、旅篭にはろくな食べ物がなく、窓のない部屋に二十五人が雑魚寝するというひどい有様だった。

 翌日一頭のラバを手に入れた一行は、疲労の限界に達していたポースをそれに乗せ、ゆっくりとカブールヘ向かい野宿をかさね、二十四日、やっと山地を抜け平地のアフガン人郡落に到着した。しかしそのあたりはすでにイギリスの支配地区で、街道筋筋には官憲やs密慣がうろうろしていた。一行は銃を持つパタン族の護衛を雇い、隊商の道をジャララバードヘ向った。

 ジャララバードからアフガニスタンの首都カプールまでは間道を伝い、カプール川を羊の皮袋の筏で渡らなければならなかった。カプールの近くには検問所があり、旅券をチェックしていた。ポースたちは一月の寒気の中で深夜まで検問所近くの路傍に潜み、係官が居眠りしているわずかな隙をついて検問所を通過した。ポーズの会判日一月二十七日の午前四時だった。昼ごろカプールの町に到着し、キャラバンサライ(隊商宿)に宿をとった。

 ソ連大使に直訴も失敗

 カブールから目的地のドイツに向かうにはイギリスの支配する中東を通る訳にはいかず、ソ連を経由しなければならない。そこでソ連大使館と連絡を取ろうとしたが、町の中心部を離れた場所にあったためなかなか見つからず、そのうえヨーロッパにある大使館とは異なり、各国の大使館の門前にはアフガン人の警官が出入りする人間を検問していた。

 アフガニスタンは独立国だが、当時イギリスの影響下に保護国同然であり、見つかればイギリスに引き渡されるのは必死だった。そこでポースたちはソ連大使の車を待ち伏せ直接の接触をしようとした。大使館前の道路で三日間観察するとソ連国旗を立てた車は大使だけが使用していることが分かった。

 ペルシャ語がやっと話せるラムが道路に飛ぴ出し、ついに車を止め「チャンドラ・ボース氏が大使にお願いがあります」と叫び、道端に立つポースを指さした。しかしソ連大使は「どこにボース氏がいるのか」とたずね、パタン族の民族衣装に身を包んだボース氏を見たが、「あれがボース氏だとどうして証明できるのかね」と言うと、車は走り去ってしまった。

 翌日アフガニスタン人の私服刑事が隊商宿を訪ねた。ボースはペルシャ語を話せないので、打ち合わせていたとうり、ラムが目も耳も不自由で目も聞けない兄のジアウッディン、つまりポースをイスラムの霊顕あらたかなサーキ・サーヒブ寺院に連れて行く途中だと説明した。一応は納得したようだが、翌日からも刑事は訪ねては様子を探り、なかなか出発しないのはなぜかと、しつこく付きまとった。

 ボースの金時計や持ち物を袖の下にしたが、それ以上隊商宿にとどまることは危険状況だった。そこで、以前会議派の活動家で投獄されたこともあるカビウールのインド人ラジオ商ウッダム・チャンドの家をやっと探し出した。風呂とインド風の食事でボースたちは一息つくことができた。

 イタリア外交官オルランド・マゾッタ

 チャンドがカプールのジーメンス電気商会のトマス支配人を知っていたので、ポースは芳しくないソ連大使館との接触をあきらめ、トマスのつてでドイツ大使との面会が実現した。ピルゲル大便はボースとヨーロッパ時代に面識があり、イタリア、ソ連の大使と連絡をつけてくれたが、当時のドイツはすでにイギリスと戦っていたので、ベルリンヘの報告ではイギリスの謀略の可能性があることが書き加えられていた。ドイツ、イタリアの大使と日本の公使が協力し、ソ連大使にボースのソ連領通過許可を求めたが、それは結局梨のつぶてに終わった。

 しびれを切らしたボースは、国境地帯に住み密輸業者とも親しい逃亡殺人犯に話をつけ、そのルートでソ連に密入国する決心をし、二月二十三日に出登することをピンゲル大使に告げた。無謀な計画に驚いた大使はポースにイタリア大使のカロー二会うことを勧めた。カロー二大使はボースに危険な計画をさとし、希望を捨てずに待つように助言した。

 結局、カブールからイタリアに帰国する伝書使をボースとすり替え、イタリア外交官に化けさせてソ連領を通過、ベルリンに送ることになった。やっと三月十八日に車でソ連領に入り、サマルカンドから列車でモスクワを経由したイタリアの外交官オルランド・マゾッタがベルリンに着いたのは一九四一年四月三日だった。

註 伝書使 外交文書や外交嚢を運ぶ使者。クーリエ。

 5 ベルリン(昭和16年4月ー昭和18年4月)

 ドイツにおけるポースの活動

ベルリン日本大使館     ベルリンに到着して一週間後、ボースはドイツ政府に覚書を提出した。この覚書でボースは、自由インドセンターを設立しラジオ放送を行うこと、インド独立軍を組織し、アフガニスタン国境からインド国内に進攻することを求めている。

 当時のドイツ軍は、念願のイギリス本土上陸には成功しなかったが、四月にバルカンではユーゴを降伏させてギリシャに進撃し、五月には工ーゲ海のクレタ鳥を占領し、アフリカではイタリア軍を授けたロンメル軍団がイギリス軍を駆逐、リビアに進攻、イギリスの近東の生命線であるスエズ運河をうかがおうとしており、強大な勢力を誇っていた。

 しかしドイツの外務省と軍部はボースの出した枢軸国がインド独立を呼ぴかける宣言を出して欲しいという願いには、ボースが六月にチアノ外相を訪れ要請したがイタリアも同様に冷淡な反応しか示さなかった。自由インドセンターが発足したのは十一月二日であり、二十九日にはリッペントロップ外相との会談が実現したが、その席でボースが強く要望したヒトラー総統との会談が実現するのはそれから半年も経ってからのことである。

 そのころ日本とアメリカは太平洋をはさんで一触即発の状態が続いていた。ニヵ月前参謀本部から「ボースの人となりを直接観察して報告せよ」という訓令を受けていた駐独陸軍武官補佐官の山本敏(やまもとさとし)大佐は、十月下句、大鳥浩(おおしまひろし)大使とともにはじめてボースに対面した。

 山本大佐は、後にビルマで最高指揮官としてインド国民軍を率いて戦うボースに協力する日本軍の機関の代表として、密接な関係を持つことになるが、はじめて会った時から、亡命者にありがちな卑屈さをまったく感じさせず、インド独立への厳しい闘志を秘めながら、あくまでも教養豊かな紳士としてふるまうボースの人間的魅力に魅せられてしまった。

 ドイツの捕虜となったインド人に向けての声明(一九四二年、ベルリン滞在中に)

 「過去百五十年間、イギリスは我々を貧困におとしいれ、我々から国民としての誇りを奪ってきたが、その結果、諸君は祖国の抑圧者の軍隊ために銃を執り、自らの兄弟姉妹を抑圧することを助けてきた。だが、今、諸君には自由のために戦う力を結集し、祖国の解放を助け、外国の抑圧の奴隷としてではなく、自由な人間として勝利のうちに家族のもとに帰る機会が訪れている。」

 ボース、日本行きを熱望

 ポースは十日に一度は日本大使館を訪れた。十二月八日、ついに日本がアメリカとイギリスに宣戦布吉した。そして日本軍のマレー進攻作戦が急速に日本軍に有利に展間していた十二月二十六日いつになく緊張した面持のボースは大島大使と山本大佐に向かって語りはじめた。

「私は脱出に際し、もし日本がイギリスと戦っていたら、万難を排して日本行きを強行していた。今や日本軍のマレー占領は必死であり、ビルマからインド国境に迫る日も遠くはない。私はインド独立の次善の策としてドイツで二階から目薬をさすような努力をしてきた。私はなんとかしてアジアにおもむき、祖国インド解放のため、日本と手を携えて戦いたい。たとえ一兵卒としてもイギリスと直接戦いたい。どうかこの希望がかなうよう、日本政府へ取り次いでほしい」

 参謀本部からはボースの人物を直接観察し、報吉することを求めてきただけだったので、大鳥大使も山本大佐もボースに日本行きを勧めたことはなかったが、ボースの真摯な申し出に動かされ、ただちに東京へ伝達することを約束した。翌一九四二年(昭和十七年)二月十五日、東アジアにおけるイギリスの最大の軍事拠点であるシンガポールが日本軍の手に陥落すると、ボースの懇願はますます熱気を帯ぴ、毎日のように東京からの返事を促すようになっていた。

 しかし、日本からは「目下審議中」という返事が来るばかりだった。それには埋由があった。 太平洋戦争開始にあたって、日本政府と軍郡は『対米英蘭◎戦争終末促進に関する腹案』を作成し、この戦争の基本方針はドイツ・イタリアと協力してまずイギリスの屈伏を図り、アメリカの戦争継続意志を喪失させるように努めることであり、イギリスを屈伏させる方法としてオーストラリアとインドに政治的な働きかけや通商を破壊してイギリス本国と切り離し離反させること、ビルマの独立を促進してその影響でインド独立を刺激すると述べていた。しかしこれはあくまでも「刺激すること」であり、日本軍が直接インドに進攻することを意味してはいなかったのである。

 千載一隅のチャンス

 陸軍がシンガポール要塞を攻略し、海軍がマレー沖海戦でイギリスの戦艦プリンス・オブーウェールズとレパルスを撃沈した。そして真珠湾攻撃の余勢をかって海軍の南雲機動部隊は四月六日、セイロン島を強襲、イギリスの空母一隻と巡洋艦二隻を沈め、小沢艦隊が商船十八万トンを沈めた。ベンガル湾の制海権を手にした日本軍は、昭和十七年の五月末には当時イギリス領だったビルマの全域を占領した。

 註 セイロン インドの南にある島。スリランカ民主社会主義共和国の旧名。一九四八年、イギリスから独立した。仏教徒のシンハラ人が多い

 インド洋に日本の海軍が大挙来ることを恐れたイギリスのチャーチル首相は、五月七日、アメリカのルーズベルト大統領に、アメリカ軍が大平洋で挑発行動をとって、日本軍の動きを牽制するよう、電報を打ち、さらに七月十七日、日本軍のセイロン島占領や東部インド進攻の恐れがあり、これが実現すればイギリスの中東における基盤は根底から崩れてしまうと訴えている。当時スエズ運河一帯はドイツ軍とイタリア軍の制圧下にあり、喜望岬を回る航路が、イギリス軍の兵員、軍需物資輸送の大動脈だったのである。

 このころが、太平洋戦争を通じて、日本軍がインドに進む唯一の好機だった。ダンケルクに匹敵するビルマでの敗退の後、インド東部を守っていたのはインパール周辺に二個師団、アラカン、カルカッタ周辺に各インド師団一個ずつ、予備としてビハール州に一個師団と一個旅団があるだけだった。インド洋にはイギリス海軍はなく、防衛責任者のスリム中将も「日本軍が上陸してきたら葉巻を巻くように壊乱させられると思うと、ひどく落ち込んだ」と述回している。

 インドの中部・西部・東部には五個師団、二個英師団、一個戦車旅団、三個装甲旅団があり、中途半端な勢力では日本軍の成功は困難だったが、国民会議の議長を努め、ベンガル出身のスバス・チャンドラ・ボースの率いるインド国民軍と共に進軍すれば、インド国中に独立への炎が燃え立ったに違いないと思われる。しかし、ミッドウェイでアメリカ軍と正面決戦の準備を急ぐ日本海軍は機動部隊を太平洋に戻してしまったのである。

 揺れ動くガンジー

 第二次世界大戦中には連合国の枠内、つまり反日本の立場で反英非暴力運動を行ってきた印象の強いガンジーも、ある時期には日本軍のインド進攻の可能性を認め、独立運動の方向を変えることを真剣に考えていた。国民会議派の指導者アザードは「スバス。チャンドラ・ボースがドイツに脱出したことはガンジーに強い影響を与えた。ガンジーは以前いろいろな点でボースの行動を認めなかった。しかし今や彼の見方には変化が生じたのが分かった。ガンジーがポースを称賛していることが無意識のうちに戦況全体の見方を性格づけていた。と回想している。

 四月二十二日にはガンジーは「私の確信はイギリスが整然と秩序を保ってインドを去るべきでありシンガポールやマラヤ、ビルマで冒した危験をインドで冒すぺきでないというものです。イギリスはインドを防衛できません。というよりは、どれほどの力を持ってしてもイギリス自身をインドの国土で守ることはできないのです。イギリスのできることは運命にしたがってインドを去ることです。そうすれば、インドはそう下手にはやらないだろうと思います」と手紙で述べ、五月十五日の国民会議派のプライベートな集まりでは「日本と戦い、日本を妨害しているのはイギリスである。

 だから日本はイギリスと戦かわんと欲しているのだ。したがってイギリスが撤退すればインドは日本と折り合うことが可能である。日本はインドに中立条約を結ぶと期待することができる。彼らがなぜインドに進攻しなくてはならないのだ?しかしながら、もし日本が我々を侵略したら我々は抵抗する。私は日本を助けることはできない。自由を獲得したら中立だ」と発言している。

 しかしこの年の六月ミッドウェイの海戦で日本海軍が大打撃を受け、大平洋とインド洋の日本軍の絶対優勢状混が崩れだすと、ガンジーの姿勢は、アメリカ軍のインド進駐を認め、ふたたぴ連合国寄りに戻ってしまう。だが、この八月インドで国民会議派が「イギリスはインドから出て行け(クゥイット・インディア)」という決議をすると、イギリスは会議派に対し大規模な弾圧を開始し、指導者は根こそぎ逮捕・投獄され、インド各地で暴動が発生する。鉄道妨害、電話線の破壊、警察の襲撃、ポースが指導者だった会議派左派を中心に行われた。軍隊出動六十ヶ所、死傷者二千五百七十人、投獄者数は一万八干にのぼっている。

 このころが、日本軍がインド国内に進攻するまたとないチャンスだった。後にビルマ方面軍の高級参謀となった片倉衷元少将は「もし日本軍がインドヘ進攻する機会があったとすれば、インド洋の制海権を奪う能力があり、ビルマにも優勢な陸軍航空部隊がいた昭和十七年(一九四二年)の春から夏にかけてしかなかったろう。ただし地上部隊の四個師団は、戦闘による消耗とマラリア、アメーバ赤痢など風土病で戦力は半減していたから、大本営から兵力の増派が必要だったが」と述べている。

 ヒトラーに失望

 ベルリンのボースはこのような状況を観察し、直接的な行動に移れないもどかしさに苛立っていた。スバス・チャンドラ・ボースがベルリンから世界に向けて自由インド放送をはじめたのは一九四七年二月十九日であり、アフリカ戦線で捕虜になったインド兵で前年の十二月に編成された自由インド軍団も二月十五日正式に成立したが、戦線に出動する見通しもなく訓練に終始していたが、ヒトラーの人種的偏見がインド兵の能力に疑念を抱かせ、ついにこの部隊は実戦に参加することなく終ってしまった。

 五月二十九日、半年間待ったヒトラー総督との会談が実現したが、その内容はボースを失望させた。インド人は自力で独立を達成できないと考えていたヒトラーは、「インドが自治政府を持つには少なくともあと百五十年はかかる」と言い、ボースが「ドイツのインド独立支援声明には軍事的意味より、インド国民に精神的支援を送ることに意義があります」と食い下がっても、ヒトラーは「現段階ではインド問題に関する声明を出しても意味はない」という考えを曲げようとはしなかったのである。

 日本との連携へ

 すでにこの年の二月十七日、シンガポール陥落のインド兵捕虜を結集し、プリタム・シン大尉を指揮官にインド国民軍が正式発足し、東南アジアのインド人によるインド独立連盟が活動をはじめていた。日本軍の対インド工作を担当する藤原機関の藤原岩市機関長は接触を深めるにつれ、彼らがスバス・チャンドラ・ポースのアジア招致を熱心に望むのを知り、大本営に対し「インド人の間のボースヘの敬慕と期待はほとんど信仰に近い。ぜひ早急に招致を実現されたい」という要請を行なっていた。

 日本の陸軍、海草、外務省がボースの扱いを検討し、日本招致が原則的に決められたのは八月だった。長い時間がかかった一つの理由には、ラス・ビハリ・ポースの存在があった。やはりベンガル出身のラス・ビハリ・ボースは古いインド独立の志士で、日本亡命にあたっては民族主義運動家の頭山満の後援を受け、官憲の追及を避けるため、新宿の中村屋の店主相馬愛蔵の娘と結婚し国籍も日本に移していた。

 ビハリ・ボース自身はチャンドラ・ポースの声望と力量を十分承知しており、チャンドラ・ポースが来日すれば喜んで独立運動の指導を委ねることを明言していたが、参謀本部内には運動の分裂を懸念し、「わざわざドイツからチャンドラ・ボースを呼ばなくとも『中村屋のポース』で十分ではないか」という声が強かったのである。

 大島大使はただちにドイツとの折衝をはじめたが、チャンドラ・ボースの宣伝価値を知るドイツ側はなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。大島大使はボース自身がヒトラーと直接談判することを勧めた。ボースの強硬な姿勢を煙たがっていたためか、ヒトラーは即座に日本行きに同意した。問題は日本に行く交通手段だった。

 ドイツ占領下のウクライナからソ連上空を夜間飛行し内蒙吉に着陸する案は、日ソ中立条約を結んでいるソ連上空を交戦国のドイツ機が飛ぶことは背信行為になると考えた東条首相の強い反対にあい、イタリア機でクレタ島からインド洋を横断してマレーに飛ぶ案は航空支援施設が不安で見送られた。結局、ドイツのUボートに乗り、軍事技術交換のためインド洋上でランデプーする日本の潜水艦に乗り移る案が決定した。この計画には細かい打ち合せが必要で、決行が実現するのは翌一九四三年(昭和十八年)二月になってしまった。

 再会そして別れ

 ベルリンに到着したボースの生活の唯一のうるおいは、再会したエミリー・シェンクルとの家庭生活だった。提供されたシャルロッテンブルグの元アメリカ武官邸は、ボースの事務所を兼ねていたので、エミリーは人目に着かないように、奥まった部屋で暮らした。

 四二年二月、エミリーから妊娠を告げられたボースは生まれてくる子供のためにも正式な結婚を決意した。しかしオーストリーはすでにドイツ帝国に併合され、ドイツ女性とアーリア人種以外の男性の結婚を禁止する「民族純血法」が厚い壁となった。

 ボースは怒りに燃えたが、エミリーは冷静だった。ドイツ政府との無用な摩擦を起こすことはボースにとって不利益であり、インドの人々の感情を考えれば、ふたりの結婚は独立運動とポース自身によい結果とはならないことを述べ、生まれてくる子供を自分ひとりで育てる決意を告げた。ボースはせめてものエミリーヘの思いやりとして、ハッサンら二人の副官を招いてヒンドゥー式の互いに花輪を交換する簡素な結婚式を挙げた。

 エミリーは子供を産むため六月ウィーンに帰り、十月女の子を出産し、アニタと名付けられた。ボースはその年のクリスマスに母子をベルリンに招き、つかの間の、最初で最後となった親子三人の水いらずの生活を過ごした。

 ポースとエミリーの結婚はドイツにいた同志のほんの一部しか知らず、アジアに来てからのポースは一言も周囲に洩らしていない。独立運動の指導者としての立場を考慮したためであろう。なおインド独立後の一九六一年、チャンドラ・ポースのたったひとりの子供であるアニタ・シェンクルは父のゆかりの地であるカルカッタを訪れている。

自由インド、その問題点(ボースの論文)

 この論文は、ドイツの雑詰『ヴィー・ウント・マハト』に一九四二年八月に掲載され、インドでは永らく発表されなかった。外国の読者向けに書かれたものだが、現在のインドで読まれるべき独自の価値があるものと思われる。(ネタジ・リサーチ・ビューロー発行『NRBプレティン』編集者の言葉)

 新たなる覚醒

 イギリスによるインド占領は一七五七年、ベンガル・ファーストと呼ばれる地方がイギリスの手に落ちた時に始まる。占領は拡大し、最終的には一八五七年偉大な革命の後に完成した。この革命は、イギリスの歴史家は「セポイの反乱」と記しているが、インド国民の立場からは「最初の独立戦争」である。初期の段階では革命は成功したが、インド人の指導者に戦略と駆引の面が欠けていたため、最終的には失敗した。イギリス側が戦略と駆引の面方で優れていたからだ。とはいえ、イギリスは非常な困難の末、やっと勝利を得たのであった。

 革命の失敗後、インド中は恐怖による統治が跋扈した。インドの人々は完全に武装解除され、イギリスはそれを現在に至るまで続けている。今では彼らはこの一八五八年の武装解除が歴史上おおいな過ちであったことを認識している。というのも、武装解除が広い範囲にわたるインドの弱体化と無気力化を起こしたからである。

 一八五七年の偉大な革命の失敗の後、インドの人々は一時意気消沈した。しかし世界各地の革命によって刺激され、一八八五年にインド国民会議が結成されると、政治的覚醒が始まった。今世紀初め、ナショナリストの運動は二つの新しい方法、イギリス製品排斥と密かな反乱に展開した。

 先の世界大戦の後、一九二○年代、ガンジーは新たな「市民大衆による不服従運動」の方法、武器を持たずに外国の統治を覆すことを目的とする消極的抵抗を導入した。現在、このような運動の高まりは、インド国民がイギリスをインドから追い出す可能性を持つという新たな段階をもたらしている。

 今日の状況

 今日のインドは、イギリスがすべての人々から憎悪されている状況である。国民の大部分は現在の国際的危機を大英帝国の軛を覆すのに利用することを望んでいるが、国民のほんの一部分は可能なことはイギリス政府の妥協を引き出すことと考え、覆すには不十分だと感じている。道義的信念を失い、イギリスに協力しようというインド人は一人としていない。それ故、イギリスの支配はインド人の善意の上に安住することが不可能になり、銃剣によってのみ可能になっている。

 多くの人々が、イギリスがインドのような巨大な国を比較的少ない武力で統治していられるのはなぜか埋解できないでいる。その秘密は、少数とはいえ近代的な軍隊が、膨大だが武器を持たない人々を抑えることができるから可能なのである。近代的な占領のための軍隊は長期間にわたって敵対する勢力との戦争に巻き込まれず、人民により組織され、内部から盛り上がった武力抵抗を鎮圧することが可能だった。

 だが、現在イギリス帝国は他国との戦争に関わり、その力が顕著に弱体化し、インド人民がイギリスの支配をやめさせ、永遠に終らせるための革命に立ち上がることが可能になったのである。従って、インド人民はこの闘争において武器を執り、現在イギリスと戦っている勢力と協力する必要がある。この事業はガンジーには成すことができない。今、インドは新たな指導埋念を必要としているのである。

 インドが自由になる時

 多くの人たちが、イギリスがインドを手放すには何が起きる必要があるのかという質間をする。イギリスの宣伝は、多くの人たちにイギリスなしではインドは無政府と混沌状態になると思わせてきた。だがそのような人たちは、イギリスによる占領が一七五七年に始まったばかりであり、占領は一八五七年まで完全なものではなく、それまでのインドは何千年もの歴史を持つ国であることをいとも簡単に忘れてしまっている。

 もしもイギリスの統治以前にインドにおいて文明や文化、政治的・経済的繁栄があったとすれば、イギリスによる統治が終ればそれらは可能であるに違いない。事実、イギリスの支配下ではインドの文化や支明は抑圧され、政治は国民の手から奪われ、豊かな繁栄した国が世界で最も貧しい国の一つにされてしまった。

 新しい地方自治

 イギリスをインドから駆逐した時、第一の仕事は新しい政府の樹立、秩序と会共の安全の確立だろう。新政府の仕事には地方自治の再構築、国民軍の創設が含まれることが必要だ。地方自治の再構築は比較的簡単である。過去、地方自治は常にインド人の手によって運営され、最高の地位にだけイギリス人がいたのである。この二十年間に、最高位のイギリス人にインド人が徐々に代ってきているほどだ。中央政府の総替府の閣僚の一部もインド人になっている。

 一九三七年以来、地方政府では大臣はすべてインド人で、イギリス人の役人がその下で働いている。高い地位がイギリス人からインド人に代った時、インド人はイギリス人より高い能力を示している。インド人の大臣や役人はイギリス人よりもこの国に精通しており、国民の繁栄に熱意を持っている。だから、インド人がそれまでのイギリス人よりも効率よく活動したのは当然である。

 簡単に言ってしまえば、我々は今日のインドの役所によって訓練された経験豊かな母体を持っているので、地方自治の再構築には何の困難もないのである。自由インドの新政府は地方自治のために新たな政策と実施計画を呈示し、指導者に新たな指導埋念を与えるだけでよいのである。

 国民軍

 国民軍の建設はこれよりは困難な仕事である。もちろん、インドは膨大な訓練され経験のある兵士を持ち、この戦争の結果、その数は増大された。しかしつい最近まで、インドの軍隊は大部分がイギリス人によって指導され、高級将校は例外なくイギリス人だった。戦争状態のため、イギリスは数多くのインド人将校を無埋矢埋任命したが、高級将校はほんの数名にすぎない。戦車、飛行機およぴ重火器等の近代兵器は、以前はイギリス人に渡されていたが、状況におされインド人にも渡されるようになった。

 其のためインド人高級将校の不足という状態は依然残り、国民軍の建設にはいくつかの困難が有在するだろう。このような観点から、インドの主要な問題は、国民軍の完全編成を十年以内に行うため、大量の将校をすべての階級にわたって短期間に養成しなければならないということである。国民軍と共に、海軍と空軍も平行して、可及的すみやかに建設すべきである。ある期間インドが平和を享受でき、いくつかの友好国の援助が得られるなら、国家の防衛組織の問題は満足な解決を得られるだろう。

 新国家

 将来のインド人国家の存在形態を云々すべきではない。可能なのは、ただ国家とその形態を決定する基本原則を示すことである。インドはこれまでいくつかの帝国を経験している。このことは我々は我々の政治的崩壊を招来した原因を考察し、将来における政治の再建を準備しなければならない。さらに、今日のインドの知識階級は現在の政治的諸状況と密接なつながりを待ち、深い関心を抱いていることを忘れてはならない。

 そしてまた、我々はヴェルサイユ以後のヨーロッパの他の場所における政治的体験を考察すべきである。そして最後に、我々はインドの状況から何が必要であるかを考察しなければならないのである。

 しかしながら一つのことははっきりしている。それは強力な中央政府が作られるということである。さもなければ秩序と治安が安全に保持されない。強力な中央政府を支えるのは良好に組織された統制された全インド的政党であり、それが国民と一体化を進める最大の手投になるだろう。

 新国家は個人や団体の完全な宗教的自由を保証し、国家の宗教を持たない。政治的・経清的諸権利は全国民の間に完全に平等である。すべての個人が雇用、食物供給、教育、そして宗教と文化の自由を得た時、もはやインドには少数派問題は存在し得ない。

 新しい制度が確立し、国家期間が円滑に機能を始めれば、権力は分散され、地方政府により大きな権限が写えられるだろう。

 国家の一体感

 新国家の一体化のためにはあらゆる可能な宣伝手段、つまり新聞、放送、映画、演劇等を国が保有すべきだ。反国家的、あるいは国家を分断する要素、イギリスの秘密機関に類するものが国内に存在するならば、それは完全に制圧されるべきである。適当な警察力がこの目的で組織され、国家の一体化に反する攻撃は重く罰されるようすでに国土の大部分で埋解されているヒンドゥー語がインドの共通語に採用されるべきである。ヒンドゥー語による学校における初等・中等教育、大学における高等教育は特別な現象、すなわち早期から国家の一体化の精神の涵養を可能にするだろう。

 イギリスの宣伝は、インド回教徒は独立運動に反対であるという印象を作り上げてきた。しかしこれは完全な偽りだ。国民的運動において回教徒が大きな比重を占めているのが真実だ。現在のインド国民会議の総裁アサドは回教徒である。大多数の回教徒は反英であり、自由インドの実現を求めている。回教徒あるいはヒンドゥー教徒の親英政党が宗教政党であることは疑いない事実だ。しかしこれらの政党は決して人民を代表するものではないのである。

 国家の一体感の上から、一八五七年の革命運動は偉大な実例である。この戦いは回教徒であるバハダール・シャーの旗の下に、あらゆる宗派の人々が一体となって闘われた。それ以来インドにおける回教徒は国家の自由のために働き続けてきた。インドの回教徒問題、あるいはムスリム問題は、アイルランドにおけるアルスター問題やパレスチナにおけるユダヤ人問題と同様、イギリスの人為的産物であり、イギリスの支配が払拭されれば消滅するものである。

 社会的諸問題

 新制度が確立すれば、インドは全神経を社会的な諸問題に注ぐことが可能になる。社会間題で最も重要なのが貧困と失業の解決である。イギリス統治下のインドの貧困は、イギリス政府によるインド工業の組織的破壊と科学的農業の欠如の二つの主要な原因に根ざしている。イギリスの統治以前のインドは必要な食糧と原料を生産し、衣料品などの工業の余剰生産物をヨーロッパその他に輸出していた。産業革命の出現とイギリスの政治的支配はインド古来の産業構造を破壊し、イギリスは新たな工業の構築を許さなかった。

イギリスはインドを意図的にイギリスの産業に必要な原料供給国にしてきた。その結果が数百万インド人の失業であった。この結果、かつて肥沃であったインドの大地は痩せた荒地となり、現在の人口を養うことが不可能になった。貧農層の約七十パーセントが年間約六ヵ月働けないでいる。インドの貧困と失業問題を解決しようとするならば、工業化と科学的農業を国家目標にする必要がある。

 外国の統治下、イギリス人は支配者であるだけでなく、労働力の雇用者であり、インド人を悲惨な状況においた。自由インド国家は生活賃金、疾病保険、事故による保障等の労働者の福祉を用意しなければならない。また同様に貧農層は過度の小作料と常識外の借金から解放されなければならない。

 このような点から、インドにとってArbeitdienst, Winterhilfe, Kraft duruch Freude のような労働者福祉の研究機関が非常に興味深いものである。次いで重要なのが公衆衛生の問題である。この問題はイギリスの支配下では未解決のまま取り残されている。幸いにも、現在のインドはイギリス人医師より優秀な資質の優れた多くの医師が公衆衛生に携わっている。国家の援助と財政的補助を与えることにより、各種疾患の根絶におおいに貢献することが可能である。これにはインド古代の医療法であるアユールヴェーダやウナニも有効である。

 さらに、多くの地方で約九十パーセントにものぼる文盲という恐るべき問題がある。だがこの問題も、国家が財政的基盤を準備すれば、取り組み不可能なほど困難ではない。職に就いていない教育を受けた男女が大勢いる。自由インドでは、こういった人々を国中に送り、学校や専門学校、大学の創設に従事させることが可能だ。このような仕事や体験が、インドの国民が必要な教育組織の発展をもたらす、幸いなことに、サンチニケタンのタゴールの学校、ハルドヴァールのグルカ教育機関、ベナレスのヒンドゥー大学、デリーのジャミア・ミラ(国立ムスリム大学)、ワルドハ近くのガンジーの学校などですでに経験が積まれている。さらに我々にとって、イギリスの統治以前作られた教育機関も興味がある。

 筆記言語に関して私見を述べれば、現在国内に流布されているものとは異なり、自由インド政府はラテン文字の普及に努めるべきである。

 財政問題

 自由インドが大きな課題が要する資金をどのように得るかは非常に重要な問題である。イギリスは金銀を奪い、今では僅かしか残されていないが、イギリスはこの国を離れる前にそれらを再ぴ移動することは確かだ。インドの国家経済は当然金本位制を放棄し、金ではなく労働とその生産に基づく考え方を受け入れるだろう。貿易は、一九三三年以後のドイツのように、バーター貿易(物々交換)を原則に、国家の統制下に行われる。

 計画委員会

 再建の諸問題を実行する際に、一九三八年十二月、私がインド国民会議議長の時、生活のすべての分野の再建計画を作成する国家計画委員会を開設したことが参考になる。この委員会は既に価値ある業績をあげ、その報告書は我々の将来に役立つだろう。

 藩王問題

 インドの藩王(マハラジャ)とその領地は時代錯誤なものであり、早急に廃止されるべきだ。イギリスがこの国の一体化を妨害するために保護しなければ、これらは相当前になくなっていただろう。藩王の大部分はイギリス政府の熱心な支持者であり、イタリアのリオルギメント運動(国家統一運動)においてピエモントが果たしたのと同様な役割を演じようとする藩王は一人として存在しない。

 藩王領の人口はインドの全人口の四分の一であり、英国の統治するインドにおける国民会議派に関係の深い大衆運動が存在する。藩王の大部分は領民と縁遠い存在であり、当然イギリスの統治と共に消滅するだろう。イギリスが藩王に近代的軍隊の保有を許さなかったという単純な埋由から、藩王が自由インド政府に対する障害になることはない。これとは逆に、藩王が革命に参加するなら、居住地が与えられるだろう。

 国際問係

 過去において、インド没落を招いた原因の一つに外部世界からの孤立がある。それ故に、将来インドは他の国々と密接に接触しなければならない。インドは地埋的に西洋と東洋の中間に位置し、これがインドの文化的、経済的、政治的役割を確かなものとするだろう。

 将来、現在インドの敵と闘っている三国同盟諸国と密接な関係を築くことが自然であろう。

 陸軍、海軍、空軍の建設と同様に、インドの迅速な工業化には、海外からの援助が不可欠だ。インドはあらゆる種類の機械、科学技術の知識や設備と専門家が必要になる。さらに、国防力の建設には軍事専門家や兵器も必要だ。

 これらは三国同盟諸国が価値ある援助として用意できる。自由インドでは生活水準が急速に上昇し、その結果消費は急激に増大するだろう。そして自由インドは工業製品の巨大な市場となりそれがすべての先進工業国にとって魅力となる。

 そのかわり、インドは人類全体の文化と文明に何らかの貢献をすることができる。宗教や哲学、建築や絵画、舞踊や音楽、そしてその他の芸術や手工芸において、インドは独自なものを世界に提供できる。このような進歩から判断するに、外国の支配という困難にもかかわらず、インドが学術と工業的発展において大きな成果をあげるのは非常に速いと私は確信している。

 若いインドには成し遂げるべき巨大な課題がある。数多くの困難が起こるのは疑いないが、そこにはまた戦う喜ぴと光栄そして最終的な勝利がある。

六 チヤロー・デリー(昭和18年5月‐12月)

ドイツ脱出・インド洋上の避道逅
   一九四三年(昭和十八年)四月二十六日、チャンドラ・ポースとドイツからただ一人同行した副官のアビド・ハッサンを乗せたドイツ潜水艦UポートU一八○号は、日本梅軍の潜水艦イニ十六号との会合地点であるアフリカ大陸に近いマダガスカル鳥沖のインド洋に到着した。付近の海上はイギリスの制海権下にあったので、会合地点到着後たった一度だけ無線連絡することに日独海軍の間で決められていた。U一八○号が弱い電波で送信すると、イニ十六号からただちに応答があった。

 イニ十六号も太平洋とインド洋を横切り、正確に会合地点に到着していた。方位を知らせ合い、二十七日夜、両艦は近づいたが、インド洋は荒れ接舷は不可能だった。

 波の静まるのを待つ潜水隊指令の寺岡大佐はボースの移乗はできないのではないかと不安にかられていた。その時Uポートから先任将校と信号兵の二人が激浪に身を踊らせ、必死にイニ十六号に向って泳ぎ出した。通信方法の異なる面国の発光信号や手旗信号では意志の疎通が十分に行かないため、決死的行動に出たのだった。

 Uボートからは、ドイツに帰還するにはあと一日で出発しなければならないだけの燃料しかないことが伝えられ、波が少しでも静まったら両艦の間にロープを渡し、このロープを伝いにゴムポートでポースたちを移乗させることを提案してきた。

 ゴムボートの軸先にじっと座るボースが前方のイニ十六号を見つめていると、副官のハッサンが「フカー!」と叫んだ。灰色にあれる波の間に鱶が三角の鰭を見せて泳ぎ、時折白い腹を見せるように飛ぴ跳ねた。さすがに豪胆なボースもこの時は肝を冷やした。

 ゴムボートがやっとイニ十六号の舷側にたどり着き、待ち構えていた水兵が手を差し伸べると、数時間も狭いボートの中で同じ姿勢をとり続けたボースは思わずよろめいた。潜水隊司令の寺岡大佐と艦長の伊豆中佐が両脇からボースを抱き抱え、やっとのことでイニ十六号の甲板に立った。昼間は潜行し夜間は敵の船影を避けるという航海で喜望峰を回る六千海里の旅を終え、インド独立の彼岸達成を目指し戦雲急を告げるアジアにボースが到着したのは、二月八日にキール軍港を出てから七十九日目の一九四三年(昭和十八年)四月二十八日の朝であった。

 大役を果たしたU一八○号の姿が見えなくなるまでボースは甲板に立っていた。イニ十六号が上陸地の北スマトラのサバン島に着いたのは八日後の五月六日だった。桟橋に光機関長となっていたベルリン大使館の陸軍武官補佐官の山本大佐の姿を認めると、ボースは桟橋をかけおり、山本大佐を抱き締め「私はこの喜ぴを天地と神に感謝する」と言って大佐の手を強く握りしめた。

 五日後の五月十一日、ボースは山本大佐などと東京へ向った。ペナン、サイゴン、マニラ、台北、そして浜松を経由したが、ボースの日本行きは最高機密であり、ポースは途中では宿舎を一歩も出ず、髭も伸ばしたままで、「松田」という日本名を使用した。その名前はゾロアスター教の善神で光の神MAZDAからとったものだった。

 イ26号を離艦するにあたり将兵に対する感謝の言葉

  「この潜水艦の旅は非常に輪快だった。この旅を可能にしてくれた大日本帝国政府に多大な感謝を申し上げたい。潜水艦司令は私と副官に旅の全行程で家庭にあるかと思わせる扱いをしていただいた。ここに司令以下すべての乗員が我々に示してくれた好誼に心からの感謝の念を捧げたい。この艦による航毎は私の全生涯にわたり素晴らしい思い出として残るだろう。私はこの航海が勝利と平和への一歩であることを信ずるものである。スバス。チャンドラ・ボース」

 ビハリ・ボース氏との対面

 五月十六日、東京に到着、ボースの宿は帝国ホテルに用意されていた。翌日、参謀本部情報部長の有末精三(ありすえせいぞう)少将に案内され、ただちに杉山元(すぎやまげん)陸軍参謀総長を訪れたボースは、開口一番「日本はアッツ、キスカを占領する兵力があるのに、なぜただちにインドに進攻しないのですか。

 日本軍の支援を得て私を先頭にインド国民軍がベンガルに進攻、チッタゴンあたりに国民軍の旗を立てさえすれば、かならず全インドは我々に呼応して反乱し、イギリスはインドから出ていかざるを得なくなります」と、思うところを語った。

 有末少将はポースのインド独立にかける意気込みを知らされた思いがした。インド駐在武官の経験もある杉山総長は、インド進攻作戦に以前から積極的だったが、参謀本部作戦謀では広いインドの作戦は大兵カが必要と考え実行を躊躇していたから、返事のしように困り、かたわらの有末少将に「なにか適当な答えはないかね」と、少々困惑の体であった。

 しかし、杉山参謀総長は一時間奈りの会談で、すっかりボースの人物に魅了され、全面的支援を約束し、激励した。その後嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外相等とつぎつぎに会談し、協力の約束を得ることができたが、陸軍大臣を兼ねていた肝腎の東条首相にはなかなか合うことができなかった。その埋由は、インド独立連盟(IIL)インド国民軍(INA)が日本からの援助要請はしても、常に日本からの独立性を保とうとしたことと、ポースが国民会議派左派の領袖であり、社会主義的傾向を持っていると聴いていたためだったと言われている。

 東案英機首相との会見を待つポースを慰めるため、ある日杉山参謀総長はポースと星ヶ丘茶寮に昼食をともにした。この席には二十八年前に日本に亡命し、参謀本部のバックアップでインド独立連盟総裁に就任していたラス・ビハリ・ボースも招かれていた。これは二人のボースの関係を見定め、親和を図る意味もあった。

 が、スバス・チャンドラ・ボースはラス・ビハリ・ボースに対し、常に独立運動の先輩に対する敬意を払い、階段の昇り隆りにはビハリ・ボースの手をとり、上着をかけるような気配りをし、ビハリ・ボースは乾杯の音頭はかならずチャンドラ・ボースに譲り、本国の独立運動の指導者に対する尊敬の念を表していた。この光景を目のあたりにした時の言い知れぬ安心感と感激を列席した有末少将は今もって記憶している。

 日本、独立支援を確約

 六月十日、東条首相との会見が実現した。東条首相はボースに会うとたちまちその入物に魅せられ、「さすがに英雄だね、頼もしい人物だ。インド国民軍を指揮する資格は十分にある」と感想を述べている。ボースにはさわやかな弁舌、高度な知識の他に、風采、容貌、表情に独自の魔力にも似た人を惹きつける空気を持っており、たいていの人間を初対面で魅了することができた。それは若くしてガンジー、ネルーと並ぶ会議派の巨頭となり、大衆政治家として衆望を集めた大きな要素であった。

 四日後、第二回目の会談が行なわれ、率直な話し合いとなり、ボースが「日本は我々の独立にヒモのつかない援助をしてくれますか」とずばりたずねると、東条首相は快諸し、そしてポースが傍聴した帝国議会の演説で「我々は日本がインドの独立を援助するために、可能な限りをつくすよう、ここにかたく決意するものであります」と明確な約束をした。

 それまで秘密にされていたポースの日本滞在が六月二十日の新聞ではじめて公表され、大東亜共果圏のために戦っていると考えていた日本の国民各層にある種のセンセーションで迎えられた。この時、新聞に掲載された日本国民に対する声明で、ボースは次のように語っている。

 「日本こそは十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を食い止めようとした東亜で最初の強国であった。一九○五年のロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点であり、それはインドの大衆に熱狂的に迎えられたのであった。アジアの復興にとって過去において必要であったように現在も強力な日本が必要である。――インド人大衆は独立運動の埋論闘争には何らの関心を示さず、ただ一筋にインドの政治的・経済的解放を熱望しているのであるから、当然インドの独立を支援してくれる勢力はすべてインドの友である」

 さらに六月二十一日、ボースは東京から祖国インドに向けた最初の放送を行ない、次のように呼びかけている。  「インド人たちよ、私はいま東京に在る。大戦が勃発したとき、会議派のある者は、圧力と妥協によってイギリスから自治と独立への譲歩が引き出せると考えた。しかしイギリス帝国主義は徴動もしていない。イギリスが自発的に植民地を放棄すると期待することこそ真夏の夜の夢にすぎない。

 一九四一年から四二年に行なわれたような引き伸ばし交渉は、独立闘争を横道にそらせ、インド人の独立意識を低めるために計画されただけだ。われわれの独立に妥協は許されない。真に自由を欲するものは、自らの血をもって戦い取らねばならぬ」

 インド独立連盟総裁・インド国民軍最高司令官に就任

 約ニヵ月の東京滞在は大きな成果をおさめ、七月二日、チャンドラ・ボースはビハリ・ボースを伴い、日本占領下のシンガポールに姿を現した。空港にはインド独立連盟やインド国民軍の首脳陣ほか大勢の在住インド人が出迎え、熱狂的歓迎をくりひろげた。白い背広姿で飛行機から降り立ったポースはインドの少女から花輪を首に飾られ、国民軍将兵を閲兵した。

 二日後の七月四日、インド独立連盟の大会が挙行され、総裁のビハリ・ボースがチャンドラ・ボースを新総裁に推挙すると、それは満場の拍手で承認された。新総裁として演壇に立ったチャンドラ・ポースは自由インド仮政府樹立計画を発表――インド国民軍の最高指揮官として会場を埋めつくしたインド人に向い、「我々の前途には冷酷な戦闘が待っている。自由を手にするための最後の前進において、諸君は危険と飢渇と苦しい強行軍と、そして死に直面しなければならない。この試練を乗り越えたときのみ、自由が得られるであろう」と訴えると、熱狂したインド人聴衆は「自由インド万歳、ネタジ万歳」の声をあげ続けた。

 この時以来、チャンドラ・ボースはヒンドゥー語で「統領」あるいは「指導者」という意味の尊称である「ネタジ」と呼ばれるようになるのである。翌五日、マニラから飛来した東条首相とのインド国民軍の分列行進を閲兵し、ポースは将兵たちに次のように呼ぴかけている。

 「兵士諸君!これからのわれわれの合い言葉は『チヤロー・デリー』(デリーヘ進軍)としよう。われわれのうち果たして何人が生き残って自由の太陽を仰げるか、私は知らない、しかし私は知っている。われわれが最後の勝利を得ること、そしてわれわれの任務は、生き残った英雄たちがデリーのレッド・フォートで勝利の行進をするまで終らないことを」

インド国民軍の再建

 七月九日、シンガポールの中央公園で開かれた大衆集会には、マレー、シンガポール在住のほとんどのインド人六万人が集まり、開始早々のスコールにもかかわらず、最後まで誰一人として帰ろうとするものはいなかった。

 ボースは東南アジアすべてのインド人の力を結集することを訴え、インド独立のためには三十万人の兵士と三干万ドルの資金を求めた。集会が終ったとき、ポースの前のテープルには、聴衆の差し出した紙幣や、婦人たちが身につけていた宝石や貴金属が山のように積まれていた。

 この集会で、ポースが女牲も独立の戦いに参加できるよう婦人部隊編成計画を述べると、著い女性たちがその場で続々と志願した。この部隊は、一八五七年のセポイの反乱の指導者でジャンシー王国王妃のラクシュミーバイイーにちなみ、ジャンシー連隊と命名され、隊長には偶然にも王妃と同名の独身の女医ラクシュミ・ソワミナサンが選ばれた。

 女性部隊は日本軍には想像もできなかったが、ポースは「女性まで独立戦争に銃を執って立つというインド人の決意を示すために必要なのだと言い、この女性部隊に後方勤務だけでなく、戦闘訓練も実施した。

 このように、インド独立連盟の総裁に就任し、インド圏民軍の最高司令官となったボースは四二年末のモハン・シン事件で混乱し、士気の低下していた国民軍の再編成に心を砕いた。ボースは国民軍を単なる部隊ではなく、インド独立軍の中核組織として提え、幹部には時間をかけてその分担と責任を徹底させた。

 ボース自身は最高司今官ではあったが、軍隊内の階級は持たなかった。かつて英印軍内で階級の下だったものが上級者の上に立つことが、国民軍内で無用の軋操の原因となっていたためであった。一九四三年八月、インド国民軍の新たな陣容が整った。

参謀長    J・K・ボンスレー大佐
作戦部長 シャ・ヌワズ・カーン中佐 作戦・計画・情報。訓練
総務部長  N・S・バガット中佐 管埋行政・ー般命令示達
後方部長  K・p・シッマヤ中佐 補給・整備
教宜部長  ジャハンジール中佐 教育・宣伝
医務部長  A・D・ロガナダン中佐

 ボースはインド国民軍の急速な拡大・整備を望んでいた。国際情勢を得るために睡眠時間を切り詰めても海外の短波放送を聴き、情報の把握と分析に努め、周囲の者が、ネタジはいつ眠るのだろうと思うほどであった。当時の情勢について、ボースは「自分はここにくるのが一年以上も遅れてしまった。

 その問に日独伊枢軸の優勢も崩れ、英米は日に日に体制を建てなおしつつある。そうなれば長い植民地統治で事大主義に染まっているインド入はイギリスと妥協しようとする傾向が強まるのは必死だ。急がなければならない」と述べている。

 独立国家・対等の同盟軍

 七月二十九日、ラングーンに飛んだポースは、ビルマ方面軍の河辺正三司今官と面談し、

 「ただちに海岸沿いに、あるいは海路チッタゴン、カルカッタヘ進攻すべきです。その際はインド国民軍を先頭に立てていただきたい。われわれの旗が独立革命の聖地ベンガルに翻りさえすれば、インド民衆はこの旗のもとに集まり、全土に反乱の火が燃えひろがり大混乱に陥るでしょう。そうなればイギリス軍も必ず逃げだします」

と、インド進攻を熱心に説いている。河辺司令官には、ボースの即時インド進攻論は無謀とも思えたが、ボースには確固たる考えがあった。方面軍作戦謀長の片倉大佐に対し、ボースは戦略的見通しについて、次のような内容を述べた。

「この戦争を契機にインドの民衆が武装闘争・反乱に踏み切らなくてはインド独立は達成できないことをガンジーに説いたが、ガンジーは反対したため自分は国外に脱出し、援助をドイツや日本に仰いだ。したがって反英独立闘争のためには、イデオロギーに関係なくどの国とも手を組むつもりであること。

 またインド国民に対する大きな宣伝効果と革命の進撃を促すため、インド国民軍を日本軍に組み入れるのではなく、独自の作戦正面を担当させプほしいこと。そしてこの戦争が長期戦になると思われるので、インド国民軍を拡大し、精強な軍隊にしなければならないこと。同時に国際情勢が枢軸国に不利であるため、インド民衆が連合国側に引きずられ、イギリスとの妥協を防ぐためにも、できるだけ早期にインド進攻を実行すること、そのためにはインド国民軍がインド国内に進撃して独立旗を立て、臨時政府を樹立し、独立運動の急進派を引き込むこと。そしてこの臨時政府を日本が支援すればその勢力はますます拡大すると」

 ボースはインド国民軍を日本の補助部隊ではなく、独立した日本の同盟軍としてできるかぎり対等の立場を堅持することに努めた。インド国民軍の再編成が終った八月に、ボースは日本の南方総軍司令部に軍司令官寺内元師を訪ね、元師から「戦闘は日本軍に任せていただきたい。

 インドがイギリスの支配から解放されれば、その時独立した領土としてあなたがたに進呈しよう」と言われたボースは「いや、われわれは先頭を努めたいのです。インドの大地に最初に流す血はインド人の血でなければなりません」と決意のほどを述べている。

 インド国民軍が傀儡軍ではなく同盟軍の立場を確保するために、ボースはどうしても譲らなかった問題がある。それは敬礼の問題である。日本軍の中にはあまりにも形式にこだわりすぎるという声もあったが、ボースは「英印軍でも、イギリス兵はインド上級者に対して敬礼します。われわれはこれを勝ちとるために血さえ流したのです」と粘り、ついに認めさせたのである。

 自由インド仮政府

 インド国民軍が独立した国家の軍隊であるためには仮政府樹立が急がれた。東条首相もすでに七月の閲兵の際に原則的同意をしていたが、ついに一九四三年十月二十一日、シンガポールに自由インド仮政府が正式に設立された。東南アジア全域から集まったインド人同胞を前に、ボースは独立宣言を読み上げた。仮政府は日本、ドイツ、イタリア、満州国、フィリピン、タイ、ビルマなどから承認され、二十四日、自由インド仮政府はイギリスとアメリカに対する宣戦布告を発表、ボースが、

「私は諸君にこの宣戦布告を承認していただきたい。もし諸君がこの世にもっているすべてを投げうち、生命を捧げる用意があるなら、どうか起立してほしい」

と叫ぶと、聴衆はこぞって立ち上がり、銃を捧げ、熱狂した「ネタジ万歳!チヤロー・デリー!」の歓声が響きわたった。発足当時の自由インド仮政府は次のような内閣を組織し、ボースは国家首席であると同時に首相と国防相と外相を兼ねていた。

  大蔵大臣 A・C・チャタージ中佐
  宣伝相  S・A・アイヤー
  無任所相 A・M・サハイ
  最高顧問 ラス・ビハリ・ボース
  法律顧問 A・N・シルカル

 大東亜会議

 東京で十一月五日から開かれた大東亜会議に、ボースはオプザーバーとして出席した。出席者は日本の東条首相、中国(南京政府)行政院長汪兆銘、満州国総埋張景恵、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのワンワイタヤコン殿下等であった。

 ボースがオプザーバーという位置を選んだのは、インドを大東共栄圏には含めないと彼の意見が日本政府の見解と一致したからであった。ボースの人物は出席した国々の人物をまったく圧倒しており、それは二日目にビルマのバ・モウ首相がインドに関する動議を提出し、満場一致で「自由獲得のためのインドの闘争に、同情と全面的支援を与える」という決議を採択したのに答え三十分の演説で最高潮に達した。

 ボースはまず「この決議ははるかに議事堂の壁を越えて、イギリスの圧追下に苦しむわが幾億同胞に希望と感銘をもたらす」と演説をはじめ、最後に次のように述べている。

「インドに関するかぎり、われわれの運命は日本およぴその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や行き残って自由インドを見られるかは問題ではない。

 ただ一つの関心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドがら駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章をなることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを」

 この演説のあと、東条首相はインド独立の第一段階として、日本軍が占領中のインド領アンダマン、ニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属させるという重要な発言を行なった。面積八一○○平方キロ、人口三万三○○○ではあったが、ここに自由インド仮政府は自身の領土を持つ独立国家の形を整えたのである。

 IIL総裁就任演説(一九四三(昭和十八)年六月四日、シンガポールにて)

 しかし今や非暴力、不服従による運動は次の段階に移るべき時期が到来している。イギリス帝国主義に対し、武装して立ち上がることこそ新しい組織の目標であり、目的である。これを実現するためすべてのエネルギーと武力を動員可能にするため、私は自由インド仮政府を組織する計画である。われわれの革命が成就し、アメリカ・イギリス帝国主義者が印度から駆逐されれば、インド仮政府はその使命を終え、インド国内にインド国民の意志により恒久的政府が樹立され、そこで仮政府は新しい政府に政権を譲るであろう。

 征け征けデリーヘ(岩原唯夫氏の資料による)

  一、征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国圏差して
    征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して
    進軍の歌ぞ高鳴る
    我等の勇士よ眦あげて
    見よ翻るよ独立の旗

  二、征け征けデリーよ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して
    征け征けデリーよ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目指して
    聞かずやあの声自由の叫ぴ
    屍踏み越え征けよ強者
    赤き血潮もてわが旗染めん
    征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して

 昭和十九年の春、インパール作戦の成功を予想して編成されたビルマ派遣の大本営特別班に加わった作曲家の古関裕面氏は、ビルマのINAを見学した。この時INAの兵士たちが歌っていた歌を自ら採譜し、日本語の歌詞をつけたものが「征け征けデリーヘ」として日本に紹介された。力強い中に民族独立の悲願がこめられ、日本の軍歌とは異なった雰囲気が伝わってくる。インド語原文は六七貢参照されたい。

 曲は、東京12チャンネルの人気番組「あ丶戦友あ丶軍歌」で復元された。

 自由インド仮政府首席就任演説(一九四三(昭和十八)年十月二十一日)

 私は神の御名にかけて、インドとその三億八千万国民を解放することを誓う。私は死の瞬間までこの誓約を守るであろう。私はインド国民の自由のためにはあらゆる努力を傾けるであろう。さらに私はインド解放の後にもインドのためにこの一身を棒げることを誓約する。

 対米英宜戦布告(一九四三年(昭和十八年)十月二十四日、シンガポールからの放送より)

 イギリスはアメリカに助けられている。チャーチルはルーズベルトの前にぴれ伏し、援助を願っているのに、インドが他の国から援助を受けられないということはないのである。

 大東亜会議のボースについての報道(一九四三年十一月五日、東京)

 我がチャンドラ・ポースの存在はこの会議を通じて大東亜地域に大きな光輝となった。彼自身にとっても、この一日こそ、その東亜における二年有奈余の活躍期間における最も栄あるひと時となった。後世の史家が大東亜会議そのものの歴史的価値をいかに批判しようとも、この日全インドの運命を双肩に担って立ったチャンドラ・ポースの確固たる雄姿は、決してその史眼から拭い去られることはないであろう。

 参加者:バー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪精衛(中国南京政府)、ワンワイタヤコン(タイ)、ポセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)

 汪精衛(中国南京政府)のチャンドラ・ボース感

 私はこの程大東亜会議において自由インド仮政府主席S・C・ボース氏に会う幸運に恵まれた。彼は会議の間は沈黙を守っていたが、最後にその所信を披瀝した。堂々たる体殖と魁偉な容貌、精力に溢れ、感動的で知力に満ちた講演者だった。彼は十一回投獄され、断食を七回行った。これらのことが自由の戦士として彼を鍛え上げている。イギリス、ドイツで教育を受けた実に聡明な人物である。

 INA の進軍歌

   Kadam kadam barhae ja

  kadam kadam barhae ja
khushi ke git gae ja
ye zindagi hai kaum ki
tu kaum pe lutae ja
tu sher Hind age barh
marne se kabhi na dar
falak talak uthake sar
joshe vata n barhae ja
himmat teri barhti rahe
khuda teri sunta rahe
jo samne tere are
tu khak men milae ja
chalo Dilli pukar ke
kaumi nishan samhal ke
Lal kite pe gar ke
lahrae ja lahrae ja

 自由インド仮政府制定国歌 National Anthem (PATRIOTIC SONG)

1. Subh SukhChain ki barkha barse; Bharat bhag hai jaga
Punjab, Sind, Gujrat, Maratha; Dravid, Utkal, Banga
Chanchal Sagar Vindh Himala; Nila Jamuna Ganga
Tere nit gun gayen; tujh se jiwan paen;
Sab tan paye asha

Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga
Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho; Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho,
Bharat naam subhaga

2. Sab ke dil men prit basae; teri mithi bani
Har sube ke rahne wale; har mazhab ke prani
Sab bhed our farak mita ke; sab god men teri ake,
Goondhe prem ki mala

Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga
Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya ho,
Bharat naam subhaga

3. Subh savere pankh pakharu;tere hi gun gayen
Bas bhari bharpur hawaen; jiwan men rut layen       Sab mil kar Hind pukaren; Jai Azad Hind
     ke nare piara desh hamara

Suraj bankar jag par chamke; Bharat naam subhaga
Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho,
Bharat naam subhaga Jai Hind

  7 インパール作戦(昭和19年1月-10月)

  日印共同作戦-INA進軍
 二十一号作戦から「う」号作戦へ

 東京で大東亜会議が華々しく開催されたころ、太平洋と東アジアの戦況は大きく変化しようとしていた。アメリカ軍はギルバート諸島に上陸、本格的反攻に転じようとしており、ビルマ戦線ではウィンゲート挺身旅団がアラカン山脈とチンドウィン河を越え日本軍の後方に侵入、鉄道破壊などの撹乱をはじめていた。ビルマ防衛の天険であるアラカン山脈が簡単に突破され、日本軍では英印軍のビルマ奪回作戦の拠点であるインパールを攻略し、防衛戦を西に進める作戦が急に浮ぴ上がった。

 インド進攻作戦は、以前「二十一号作戦」として検討されたが、日本軍と運合国軍の戦力の差がありすぎるという理由で無期延期されていた。一九四三年(昭和十八年)三月二十七日にビルマ方面軍が創設され、方面軍司今官に河辺中将、麾下の第十五軍司令官に牟田口中将が就任したころから、これがインパール作戦と姿を変え、ふたたぴクローズアップされる。

 方面軍や各師団の中には補給の困難さ、英印軍の増強、航空勢力の劣性を理由として作戦実行には多くの困難があるという声も依然として少なくなかったが、第十五軍司令官牟田日廉也中将はインパール作戦の実施を強力に押し進め、河辺ビルマ方面軍司令官も、各方面で意気のあがらない全般的戦況をインド方面の作戦で変えようと考えていた東条首相や杉山参謀総長の意向になるべくなら沿いたいという気持ちだった。

 六月二十四日にラングーンで以後の作戦構想を決定する兵棋演習が実施された。本来はビルマ防衛強化を目的としていたが、演習はインド北束部の要衝インパールを攻略して防衛線を前進させる構想で進められた。

  註 兵棋演習 地図の上で兵力や装備を表わす駒を使って行なう戦闘の図上演習、現在の戦争シミュレーション。

 そして八月十二日には大本営が作戦準備を許可し、ビルマ方面軍から第十五軍に対し「う」号作戦と呼ばれるインパール作戦の作戦準備要綱が示され、第十五軍はマンダレー近くのメイミョウで二十五日に兵棋演習を行ない、牟田口(むたぐち)司令官はインパール攻略のみならず、さらに北のディマプールまで突進する構想で演習をリードした。八月二十六日、ボースは第十五軍の新参謀長久野村(くのむら)少将と、曽て藤原機関長としてインド国民軍と関係が深かった当時十五軍の参謀の藤原少佐の訪問を受けた。

 久野村少将はドイツ駐在の経験があり、会談はドイツ語で進められ、ポースは牟田口軍司令官のインパール進攻作戦ではインド国民軍と緊密な連合作戦を行いたいという意向を伝えられた。インド国民軍を率いてインド領内へ進軍する機会を待ちこがれていたボースが勇躍したことは一言うまでもなかった。

 ちょうどこの八月、カナダのケベックで行なわれた米英統合参謀長会議で、インドと中国を結ぶビルマルート再開を目指す北部ビルマ奪回作戦が翌一九四四年二月中句実施と決定された。そしてインドのニューデリーに東南アジア連合軍司令部が設置され、司令官にはイギリスのマウントバッテン将軍が任命された。決戦の機は熟していた。

 日印共同作戦

 十二月二十八日、南方総軍がインパール作戦決行を決め、翌一九四四年(昭和十九年)一月七日に参謀本部が認可、作戦実施命令が出された。その日の午後、ラングーンのビルマ方面軍司今部を訪れたボースは、河辺司令官の「いよいよ日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」というあいさつに、「今ここに神に祈ることがあれば、それは一日も早く祖国のために私の血を流さしめたまえの一念につきる」と決意を述べた。

 当初予定されていた二月半ばの作戦開始は、参加師団の到着を待ち三月八日になった。自由インド仮政府とインド国民軍はラングーンヘ進出し、作戦に先立ち日本軍とインド国民軍の合同幕僚会議が作られ、インパール攻略後の、占領地行政が論じられた。

 ボースは、これまでのように占領地に日本軍が軍政を敷くのではなく、ただちに自由インド仮政府に警察を含め、すべての行政権を与えることを求め、これが認められた。さっそく、ポースは占領地の復興に必要な技術者を葉め、耕作労働者や穀物の種まで用意し、さらに占領地で使う仮政府発行の紙幣の印刷まで行なっている。

 インド進攻を目指す国民軍は二個師団がすでに編成清みで、一個師団が編成中だった。当時のインド国民軍の建制は次のようになっている。なおインパール作戦に参加したのは第一師団だけであり、その第一連隊の正式名称はネルー運隊だったが、将兵はスバス連隊と呼ぴ、ポースへの敬愛の情を表わしていた。

  第一師団 師団長 M・Z・キアニー大佐
第一連隊(スバス連隊)  連隊長シャ・ヌワーズ・カーン中佐
第二連隊(ガンジー連隊) 連隊長I・J・キアニー中佐
第三連隊(アザード連隊) 連隊長グルザラシン中佐
第四連隊         連隊長アルシャッド中佐
第二師団  師団長アーメッド・カーン中佐 マレーから移動中
第三師団  師団長ナガル中佐  シンガポールで編成中

 インド国民軍の進軍

 作戦計画の大綱は、第三十一師団がインパールの北百キロのコヒマに突進、第十五師団は東北方面からインパールを攻略し、第三十三師団の山本支隊がパレルからインパールへ突進、第三十三師団主力がトンザンを経て南西からインパールを攻略するというものだった。インド国民軍は、第三十三師団主力の南、チン高地のハカ、ファラム地区の守備につき、その側面を援助するとともに、第四十四、四十五師団がアキャブで展開する攻撃の目標がチッタゴンであるように見せかける陽動作戦と呼応し、海岸沿いにチッタゴン方面に進撃することになった。

 ボースはラングーンから戦線に出発するすべての部隊を閲兵した。インド国民軍の将兵はいっせいに「チヤロー・デリー」の歓声で激励に応え、マンダレーヘ進発した。

 磯田中将が機関長となった光機関は作戦開始に先立って、国民軍の志願兵で編成した工作隊を各方面に進出させた。英印軍の配置を探り、気候、地形などの作戦情報を入手し、食糧確保のための住民工作がその任務だった。

 ある工作隊は、前面の英印軍のイギリス人大隊長が司令部に出かけて留守であるという情報を入手し、武器を持たず光機関員とともに寝返りの説得に行った。接近し英印軍が射撃をはじめると、国民軍工作員が光機関員の前に出て、ヒンドゥー語で「日本人を殺すな!われわれインド人の独立のために戦っているんだ!」と叫ぶと、射撃は一時は正むが、今度は声のする方に射ってくる。

 すると光機関員が立ち上がってヒンドゥー語で「同胞を射つな。射つならまず俺を射て、俺はお前たちに話に行くところだ。武器は持っていない」と叫ぶ。このくりかえしに相手は根負けし、とうとう留守番のインド人副隊長の所へ案内され、一晩がかりで口説き落とし、ついに一個大隊全部が国民軍に寝返るということも起きている。

 立体防御の円筒形陣地

 しかし、作戦開始予定日である三月八日の三目前の五日、北部ビルマにウィングート旅団の侵入が行なわれた。八十三機の輪送機と八十機のグライダーによる二個旅団による大規模なもので、強力な戦闘機による支援を受けていた。ビルマ方面軍の航空戦力は爆撃機と戦闘機をあわせて百機に満たなく、大部分をウィンゲート部隊の攻撃に向けたため、インパール作戦の地上部隊に対する支援にはごくわずかしか振り向けられなかった。

 作戦開始直後、作戦は順調に推移し、一度はコヒマの一部を日本軍が奪ったが、英印軍は円筒形陣地を構築し、頑強な抵抗を続けた。分断包囲されると直径十数キロの円形に集結し、中央に重砲を置き、円周には戦車と機関銃を配置して日本軍の突撃を退けようとするもので、食料・弾薬は毎日のように輸送機で空輸するという、これまでの常識では考えられなかった空陸共同の立体的防衛戦闘法である。

 日本軍の各師団は険しい山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数しか携行しなかった。三週間でインパールを攻略する予定でいたため、弾薬も最小限しか持たず、二十日分の食料しか用意していなかった。

 スリム中将の指揮する東部インド国境を守る英印軍の基本構想は、人的損害を避け、分断・包囲にあえば円筒形陣地を構築したり後方の拠点に後退し、満足な装備を持ずに日本アルプスに匹敵するビルマ西部の山岳地帯を越え、補給線の伸ぴた日本軍を平野部の出口で迎え撃つというものだった。

 シンゼイワに陽動作戦を実施した第五十五師団の花谷正師団長は、前線を訪れた方面軍情報参謀の全富興志二少佐に、「むこうの師団長は豪気なもんだよ。毎日八時になるときちんと天幕から出てきて、犬をつれて円形陣地の中を散歩してござる」と苦笑しながら語っている。日本軍は食料や弾薬の補給をほとんど得られず、孤立しているとはいえ豊富な支援を受ける円筒形陣地にてこずったのである。

 インパール作戦は牟田口中将の考えていたように二十日間で終了しなかった。第三十三師団は逃げ遅れた第十七インド師団を包囲したが、頑強な抵抗を受け、戦車連隊などの増援を得た敵の反撃にあい、三月末に退路を開放してしまった。三月十九日に国境を突破した第十五師団は二十三日にはインパール東北のサンジャック前面に進出、二十九日にはコヒマヘの街道を遮断したが、英印軍の猛反撃に阻正され、それ以上進むことができず、牟田口軍司令官から前進が遅いという叱責の電報を受けとっている。

 また北からコヒマに向った第三十一師団は三月二十一日にウクルルを占領し、二十二日にはサンジャック北側の高地を攻撃したが攻略には失敗した。四月五日、宮崎少将指揮下の第三十一師団の支隊はコヒマの一角に突入したが、南西に強靱な円筒形陣地を築いた英印軍は増援軍を加えて反撃し、両軍は死闘を繰り返していた。

 最大の敵、雨期到来

 一九四四年(昭和十九年)四月六日、戦線はすでに膠着状態を呈していたが、ポースは司令部をメイミョウに前進させるため、ラングーンを出発した。インパール占領に備え自由インド仮政府の行政機関を運営する人員も同行していた。戦場の正確な状況を知ることができず、第十五軍司令部からの勇ましい報告しか入っていなかったためだった。

 このころ第十五軍の司令部ではコヒマ占領が完全にできたと判断し、ディマプール進軍を命じたが、独走を懸念したビルマ方面軍は追撃中止を命じている。戦線の近くに進出したボースは、軍司令部で聞いたのとは様子が異なるのを知り、インパール作戦の難行に気がついたらしい。

 五月十目、インド本国でとらわれていたガンジーの釈放を知ったポースは、これはイギリス軍が日本軍に対する勝利の目安をつけたためと判断し、ビルマ方面軍の河辺司令官にあてて、インパール攻略の強行とインド国民軍の増強を改めて強調する電報を打っている。

 チン高地を制圧したスバス連隊の第一大隊は五月十六日、第三十一師団支援のためコヒマヘの転進命令を受けた。コヒマまでは途中にナガ山地を越え五百キロを越す距難を踏破しなければならなかったが、祖国進軍に勇躍した国民軍は、入院中の兵士が病院を抜け出してまで参加して出発した。しかし、補給が満足に準備されていなかったため、国民軍が進軍を開始してからは、一粒の米も支給されなかった。

 これはインド国民軍に限らす、日本軍将兵への補給も同様だったが、作戦のための移動は自動車で行ない、食料の補給は指揮官の責任で行なわれるものと考える国民軍の将兵にとって常識を外れた現象だった。国民軍と行動を共にしていた光機関の将校は、武土は食わねど爪楊枝、補給がなければ現地でなんとかするという日本軍の考え方との板挟みになっていた。

 光機関の将校は大部分が中尉か少尉だったが、任務はインド国民軍に対する「内面指導」を行なうことあるとされていた。しかしインド国民軍では単なるリエゾンオフィサー(連絡将校)として扱い、インド国民軍の要求を日本軍の上部機関に伝えることがその任務であると考えていたことからくる行き違いもそれに加わっていた。

 さらに日本軍とインド国民軍の行動を困難にしたのは雨期の早期到来だった。インドとビルマの国境地帯は年間雨量は八千ミリにも達し、現地人が「虎も出歩かない」というほど強い雨が続く。道路は寸断され、乾期の小川が濁流となり、低地はたちまち泥沼と化してしまう。例年雨期の最盛期は六月から八月にかけてだが、この年は四月に入ると雨期が本格化し、英印軍にはプルドーザーなどの機械力があったが、日本軍とインド国民軍には人手に頼る人海戦術しか方法がなく、補給なしで山地で行動する兵士たちの体力をさらに消耗した。

 補給なき戦い

 シャ・ヌワーズ・カーン中佐の指揮するスバス連隊は半月の雨中の難行軍の末、六月はじめコヒマの南に到着した。しかし、五月二十五日、第三十一師団の佐藤幸徳(さとうゆきのり)師団長は、第十五軍から一ケ月も一発の弾丸、一粒の米も補給されないことを激怒し、「六月一日までにはコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に向い移動する」という電報を軍司令部にすでに打電していた。

 牟田口軍司令官が翻意を促したが、佐藤師団長は、「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。――いずれの目にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、師団に撤退を命じた。

 佐藤師団長はシャ・ヌワーズ・カーン中佐を訪れ、師団とともに撤退することを勧めたが、中佐は「自分も部下もはじめて踏んだこの祖国の地から去ることはできない」と抗議し、「インパール攻略はいずれ再開されるから、その時に本分を尽くせ」という説得にも耳を貸さず、インド国民軍第一師団司令部の位置まで後過し、その指揮下に復帰することを申し出た。

 この申し出が六月二十二日に許可されたことを聴いたポースはすぐにビルマ方面軍の河辺司令官を訪れ、「ただちに第一線へ視察と激励のため出発したい」と伝え、危険であると引き止める河辺司令官に、「残りの国民部隊をすべて第一線に投入したい。婦人部隊のジャンシー連隊も同様です。われわれは戦いがいかに困難であり、どんなに長引こうとも、いささかも士気に変わりはなく、独立の大義達成のためこれくらいの犠牲は甘受し、日本軍と協力して目的を完遂したい」という決意を述べている。

 インパール作戦の中止

 雨期の最盛期の撤退行でスバス連隊は半数近い犠牲を出しながら、ガンジー連隊、アザード連隊への支援合流を目指してタムに到着したが、そこで聞いたのは命令変更で国民軍第一師団には復帰できないということだった。シャ・ヌワーズ・力ーン中佐たちは、ことここに至っては日本軍と行動を共にせず、スバス連隊は独自にイギリス軍と戦おうという決心をした。電報でこれを知らされたボースがカレワヘの撤退命令を出し、スバス連隊はやっとそれに従ったのである。

 パレルの英印軍航空基地正面に進出したが、追撃砲だけの装備で敵の圧倒的な砲火に撃退させられ、崩壊に瀬していた山本支隊を支えていたガンジー連隊とアザード連隊も、補給の少なさに悩まされていた。道路が通じていたためときどき補給が行なわれたが、十分ではなく、ヒンドゥー教徒の最高の禁忌である水牛を殺して食べるほどだった。いったん国民軍に投降した英印軍の兵士が、「独立の大義は埋解できたが、こんな生活では将来に希望がまったくない」という置き手紙を残して姿を消したこともあった。

 敵に退路を開放し、作戦失敗を悟った第三十三師団の柳田師団長は作戦中止を具申し、牟田日軍司令官から指揮権を剥奪され、すでに五月九日に解任されていた。重病の第十五師団の山内師団長も五月十五日に更迭され、独断撤遇命令を出した第三十一師団の佐藤師団長も七月七日に解任された。

 第十五軍は指揮下の三個師団の全師団長が作戦中に解任あるいは更迭されるという異常な事態となって、だれの目にもインパール作戦の失敗は明らかだった。ビルマ方面軍が第十五軍のインパール作戦を中止し、チンドウィン河の線まで撤退する命令が出されたのは七月十二日だったが、日本軍とインド国民軍の将兵には、陸空からの追撃を受けながら雨中の敗走が残されていた。

 インパール作戦には約六千名のインド国民軍の将兵が参加した。チンドウィン河に到着したのはわずか二千六百名で、その内二千名はただちに入院が必要だった。四百名が戦死し、千五百名が飢餓と病気で死亡し、八百名が衰弱してイギリス軍の捕虜となり、残りの七百名が行方不明となった。

 この作戦がいかに悲惨であったかはそれ以外の損害の比率にはっきりと表れている。

 インド国内の同志への呼びかけ(ボースのラジオ放送)

 一九四四年三月初旬、シャヌワーズカーン中佐の率いるINA一個連隊がハカ、ファラム地区に進み、インド国内に進出した。この呼ぴかけは、三月二十日、ボースが ラングーンから自由インド放送を通じインド国内の同志に対して行なったものである
 自由インド仮政府の率いるインド国民軍は、日本草軍との密接なる強力のもとに、聖なる使命に出発した。日印同盟軍が国境を越えインド進軍を開始したこの歴史的な瞬間にあたり、自由インド仮政府は次のように声明する。

 一八五七年の戦いにインド軍はイギリスの侵略軍に敗れたが、インド民衆はイギリスの支配に精神的には降伏はしなかった。非人道的な抑圧や強制的な武器剥奪にもかかわらず、インド民衆はイギリスの支配に対して抵抗を継続し続けた。宣伝、煽動、テロ、サボタージュといった手段、そして武力による抵抗、あるいは最近のマハトマ・ガンジーに指導されたサチャグラハの不服従運動により、単に独立闘争を継続しただけでなく、自由獲得の目的に向かい、大きな前進を遂げている。

 この大戦が始まってから、インド民衆と指導者はイギリスから平和のうちに自由獲得のためにあらゆる手段を尽くした。しかし、イギリスは帝国主義戦争遂行のためのインドの支配をますます強化し、あらゆる搾取と非道な抑圧によりインドを巨大な軍事基地化し、オーストリア、アメリカ、重慶、アフリカから軍隊を呼び、疲弊したインド民衆にさらに耐えられないほどの負担を課し、インド各地にこれまでにない飢饉を発生させている。

 インドを戦火の災害から救う最後の試みとして、マハトマ・ガンジーはイギリス政府に対し、インド独立の要求を認め、インドから撤退することを勧吉した。しかしイギリスはガンジーや数万の愛国者の投獄でこれに答えた。イギリス政府の非道はガンジー婦人の獄死にその極に達した。

 悪化する一方のインドの状況を目にしたアジア在住三百万のインド人は、祖国解放のため国内で戦うインド民衆に積極的に呼応参加するため厳粛な決意をした。いまや政治目的のためにインド独立連盟が設立し、インド解放の軍隊であるインド国民軍が編成され、一九四三年十月二十一日には自由インド仮政府が樹立した。インド国民軍は着々と準備を整え、一九四四年二月四日にはビルマのアラカン地区において祖国解放の闘争を開始した。

 この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーヘの進撃を続けている。大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの僕滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。

 この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。

 いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。

 自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。

 自由インド仮政府は、兄弟たちがわれわれの解放を目指す日本とインドの両国に対し直接、間接に援助を与えることを要請する。自由インド仮政府は、全インド人が組織的サボタージュによって敵の戦争遂行を阻止し、自由獲得の闘争が一日も早く達成されることを要請する。

 さらにわが兄弟である敵陣営のインド人将兵が、暴虐な支配者のための戦いを拒否し、すみやかにわが陣営に参加することを要請する。われわれは、イギリス政府に勤務するインド人官吏が、聖なる戦いにおいてわれわれに協力することを要請する。われわれはインド民衆が英米の手先でないかぎり、恐れるものは何もないことを保証し、解放地区には自由インド仮政府を樹立し行政を行なうことを保証する。

 自由インド仮政府は、同胞のインド民衆に対し、英米の飛行場、軍需工場、軍港、軍事施設から遠ざかり、われわれの敵撃滅の戦いの巻き添えにならぬように勧告する。

 兄弟姉妹諸君、いまや待ち望んだ自由実現の絶好の機会が訪れている。諸君がこの機会を利用しその任務を遂行すれば、自由は遠からず達成されるであろう。この重大なときにあたり、インドはインド人がその義務を果たすことを期待しているのである。
 ジャイ・ヒンド!

自由インド仮政府首席
インド国民軍最高司令官
スバス・チャンドラ・ボース

 ジャンシー連隊隊員への特別教書 (一九四四年五月十四日INAの女性軍に向けての手紙による声明)

 姉妹たちよ
 ラニ・オプ・ジャンシー連隊の編成は、われわれの自由への戦いの歴史において独自の重要性を持つ事柄である。インド国民軍の兄弟たちと同様、皆さんは祖国に奉仕し、祖国の自由のために戦うためにやってこられた。家庭から離れ、母なる祖国を変えるための祭壇に命を捧げて欲しいと求めたことに、私は重大な責任を感じている。

 この責任から私は連隊の活動と進歩に常に関心を抱いてきた皆さんの上に神の加護があらんことを、そして永遠に栄えある祖国の自由への戦いで価値ある役割を果たされんことを私は日夜祈り続けている。すべての父、はは、保護者たちが我々の手の中にある娘たちが安全であるかと気遣うように、私はこの連隊を見守り、育むことに努めてきた。

 この重大な責任は皆さんの全面的な協力があってはじめて私に可能だ。そのためには、皆さんも祖国インドの真の娘として義務を達成できる教靱さを授かるように日夜神に祈り続けなければならない。これまで皆さんが成し遂げた成果から、私はジャンシー連隊が成功への道を切り開き、インドの自由のための戦いの歴史の中で確固たる場所を占めるであろうことを確信する。

 今インドが必要としているのは一人のジャンシーにおけるラニではなく、何千のラニが必要であると、これまで何度となく語ってきた。貴女がたのすべて、貴女方の一人一人が、フランスの不滅と名声に貫献したジャンヌ・ダルクと同様に、そしてバラト・マタのためにジャンシーのラニ・ラクシュミ・バイと同様に祖国のために働くことを願う。その名誉と栄光は、貴女がたがインド解放のために喜んでその命を捧げる時、はじめて得られる。

 その日は、貴女がたが兄弟たちと同様に祖国のために血を流した峙、はじめて訪れることを銘記して欲しい。そのためには、軍事的、精神的な厳しい訓練がともに必要である。ラングーンからジャンシー連隊の最初の前線派遣が既に開始されている。さらに大規模な部隊が、来るべき攻勢で前線に進出し、積極的に参加するため、昭南(シンガポール)で移動可能になるのを、熱心に、待ち切れない様子で待機している。

 過去二十年間、私はインドの女性たちが成し遂げたものを知っている。インドの女性たちに不可能な任務、不可能な犠牲的行為は存在しないことを私は知っている。それが、私が貴女方に満幅の信頼を置く理由に他ならない。

 それが、ジャンシー連隊を編成するという歴史的段階に踏み出すことを確信する埋歯に他ならない。貴女がたの一人一人が、それぞれにこの信頼を私と分かちあうことを確信している。今行なわれている貴女がたの訓練、貴女がたの将来の成功、そして勝利を私は望んでいる。
   ジャイ・ヒンド
   一九四四年五月十四日
              ビルマの総司令部において
              スバス・チャンドラ・ポース

インドを生かすために死を

 「今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生かすために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由ヘの路は、殉教者の血で固められるからだ」とネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは、一九四 四年七月四日、ネタジ週間の最初の日に駆けつけたビルマ在住のインド人の巨大な群衆 を前に宣言した。

 感動的な七十五分の演説で、ネタジは自由への戦いに人と物を限りなく差し出すことをめた。その一年の運動の進展を振り返り、近い将来に向っての運動の必然性を説いたこ の演説の間、途方もない熱狂と荒々しい喝采が沸き起こった。以下はその演説からの抜粋である。
(サラト・ボース・アカデミー発行 『ネタジ資料集一九五八年版』 編葉者の言葉)

 友よ、十ニヵ月前、新たな総動員と総犠牲の計画が塔東南アジアのインド人に提出された。今日、私は諸君に過ぎし一年の運動の進展の成果と来たるべき一年に諸君に求めるものを呈示したい。

 しかしその前に、我々が自由への勝利に至る輝かしい機会を持っていることを諸君は理解して欲しい。現在イギリスは世界規模の戦争に巻き込まれ、多くの戦線で敗北に次ぐ敗北を重ねている。敵は相対的に弱体化し、自由への我々の闘いは五年前に比べ非常に楽なものとなっている。これは神が授けた百年に一度のこの上ない好機である。我々は祖国をイギリスの軛(くぴき)から解放する好機を完全に利用しなければならない。

 私はこの戦いの結果に大いなる希望を待ち、たいへん楽観している。というのも私はただ単に東南アジアの三百万のインド人の努力だけを頼りにしているからではなく、インド国内において巨大な運動が進行中であり、解放に近づくため祖国の数百万の人々が最大の協力と献身を準備しているからだ。

 不運にも、一八五七年の偉大なる戦い以来、敵が隙間なく武装しているにもかかわらず、祖国の人々は武装を解除されてきた。この近代社会において、武装解除された国民が武器、それも近代的な武器を持たずに自由を勝ち取ることは不可能である。だが、神の佑けと寛大なる日本の援助により、東アジアのインド人は武器を獲得近代的軍隊を建設できることとなった。

 さらに東アジアでは、インド国内でイギリスが盛んに工作を進めている宗教的なあるいはその他の差別が全く存在せず、東インドのインド人は自由を勝ち取ろうとする一人の人間のように一致団結している。今、我々の闘争を有利に押し進める状況と、すべてのインド人が解放の代償を進んで支払おうとしている理想的状況に我々がいるのは当然なのである。

 総動員計画に基づき、私は諸君に兵士と、資金と物資を求める。兵士に関して、私は既に満足できる志願があったことを喜ぴをもって伝えたい。

 志願兵は東アジアのあらゆる場所、中国、日本、インドシナ、フィリピン、ジャワ、ボルネオ、スマトラ、マラヤ、タイ、ビルマから参集している。

 私が抱いているただ一つの不満は、ビルマにおけるインド人の人口を考えると、そこからの志願兵が多すぎるに違いないだろうという点だ。

 諸君はこの地域から将来においてさらに多くの志願兵が出るように努力していただきたい。 資金について、私は東アジアのインド人に三千万ポンドを求めた。そして実際にはそれ以上を受け取り、申し出からは将来の資金の流れが確実であることを確信している。

 インド国内における二十年以上の活動の経験で、この地で私はそれ以上の成果をあげることができた。私は諸君が差し伸べてくれた心の篭った協力に感謝の意を表したい。と同時に、我々の前途にはさらに責務が横たわっていることに注意を促したい。

 諸君は兵士と資金と物資の動員計画に偉大なる努力と熱意を注ぎ統けていただきたい。そうすれば物資の供給と輸送の問題の解決は満足できるものとなるだろう。

 次に解放された地域の管埋と再建にあらゆる分野に多くの男女が必要である。我々は、敵がビルマの特定の地域から撤退する際、地域の人々がそこにいられなくするため、無情な焦土作戦を採る状況に備えなければならない。

 最後に、最も重要な、前線に兵士を増援し物資を補給する問題がある。さもなければ我々の望むインド進攻は不可能である。 諸君のうち、後方で活動を続けるものは、東アジア特に解放戦線の基地を形成するビルマを決して忘れてはならない。基地が強力でなければ、戦闘で勝利を得ることは決してできない。この戦いは単なる二つの軍隊の戦闘ではなく「総力戦」であることを忘れてはならない。わたしがこの一年間にわたって東アジアにおける「総動員計画」を特に強調してきた埋由である。

 諸君が基本的に後方をしっかりやって欲しい別の埋由もある。それは、きたる数ヵ月間、私と内閣の戦争委員会は、インド国内における革命の情勢のためにも、前線における戦闘に全精力を傾けたいと願っていることだ。当然それには、我々が不在でも、基地の円滑な中断することのない活動が保証されなければならない。

 友よ、一年前私は諸君にいくつかの要求を行い、「総動員計画」が成就すれば「第二戦線」を諸君に与えると言った。私はその約束を履行した。わが勇敢なる部隊は日本軍とともに戦いに続く戦いで敵を圧倒し、現在愛する母国の神聖な地で勇敢に戦っている。

 目の前の責務におおいに働いてほしい。私は諸君に兵士と資金と物資も求め、おおいに得ることができた。今、私はさらに多くを求める。兵土と資金と物資は、それだけでは勝利や自由をもたらさない。我々には勇敢なる行為と英雄的な行動に燃え立たせる原動力が必要である。 諸君が生きて自由インドを見ようと願うのは完全な誤りである。それは、今、勝利が我々の手の届くところにあるからだ。今、誰一人として生き残って自由を楽しもうという願いを持ってはならない。我々の眼前には以前として長い戦いが存在している。

 今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生かすために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由への路は殉教者の血で固められるからだ。

 友よ、我が解放戦争の同志諸君、今日、私は諸君にただ一つものを、至上のものを求める。私は諸君に血を求める。敵の流した血に報復するには血以外にはない。血のみが自由の代償となり得るのだ。私に血を与えよ、私は諸君に自由を約束する。

8 イラワジ会戦・日本の隆伏・ネタジ台北に死す
(昭和19年10月―昭和20年8月18日)

三たぴ東京へ
 一九四四年(昭和十九年)十月、ラングーンに帰ったボースは、インパール作戦後に就任した木村兵太郎ビルマ方面軍司令官がビルマ西部を放棄し、イラワジ河の線で英印軍の攻勢を防ごうとしていることを知り、インド国民軍第二師団を協カさせることにした。そしてインド国民軍の首脳に対し、「この敗勢にあって、なお日本軍と肩を組み提携を続けることに疑問を持つ向きもあるだろう。

 しかしいま日本軍を裏切れば、われわれは景気の良いときだけ日本軍と手を組んだというそしりを受ける。また武装闘争を続けることが、英印軍にわれわれの不退転の決意を悟らせ、インド人兵土をイギリスの支配からわれわれの側に走らせることになる」と説得した。

 サイパンが七月に陥落し、東条内閣は小磯内閣に交代していたが、ボースはインド国民軍の増強や武器供給などを煮詰めるため、十一月一目、三度目の東京訪問をした。十一月三日、日比谷公会堂で『スバス・チャンドラ。ポース閣下大講演会』が催され、ポースは会場を埋めつくした日本人に対し二時間を超える演説を行なった。ポースは「自由インド仮政府は東亜にあるインド人の人的・物的資源を総動員して、日本との共同の戦争目的に向って生死をともにしようとしている」ことを強調し、演説が途中で中断されるほどの拍手喝采を受けた。

 この東京訪問には、自由インド仮政府の権威確立の目的もあった。日本は前年十月の仮政府樹立直後に板政府を承認していたが、まだ外交使節の交換をしていなかった。ポースが日本の軍部を説得し、日本政府は公使を派遣することを認め、翌年二月、蜂谷輝雄公使がラングーンに赴任した。公使交換により名実ともに独立政権として地位を確立するというボースの狙いは、蜂谷公使が臨時政府派遣ということで天皇の信任状を持たなかったために不完全だったが、ある程度達成されたといえよう。

 また、ボースはそれまでは日本からの無償の援助は断り、仮政府や国民軍の経費を受け取る場合には借用書を発行していたのを政府間の正式協定にしようとした。日本政府も認め、新たな一億円の借款協定が内定した。日本の関係者の中には、形式的なことにこだわりすぎるという非難の声もあったが、ボースにとって自由インド仮政府の独立性の明確な確保は、将来を考えると何よりも重要なことだった。

 束京滞在中、ボースは失脚した東条前首相を私邸に訪れ歓談し、病の床にあったビハリ・ボースを訪問した。このときチャンドラ・ボースの手を握り、「ネタジよ、君の力で私の生涯の悲願だったインド独立を達成して欲しい」と涙を流して告げた病床のビハリ・ボースはそのニヵ月後に亡くなっている。

 さらに、マレー、シンガポールなどの優秀なインド人青少年からボース自身が選ぴ、将来のインド国民軍の幹部として日本に学んでいた留学生を陸軍士官学校や航空士官学校に訪れ、「ビルマ戦線に加わりたい」と言う留学生たちに、「諸君はまだ幼いのだから落ち着いて勉強しなさい。それがやがて祖国に役立つ日が必ず来る」

とさとしている。つけ加えれば、このインド人留学生と日本人の結ぴつきが、後に日本のスバス・チャンドラー・ボース・アカデミーの設立、アカデミーの長い活動の原点となっている。

 イラワジ会戦

 ラングーンに戻ったボースは、これまで日本軍の補助的戦力をして扱われることが多かったが、イラワジ河防衛ではマンダレーとプロームの中間正面を主力として担当するインド国民軍の拡張と再編成にとりかかった。ボースの呼ぴかけに応えた東南アジア各地からの志願者を加え、イラワジ会線に臨む一九四四年(昭和十九年)十二月末のインド国民軍は次のような編成となった。

  第一師団  師団長シャ・ヌワーズ・カーン大佐
    第一遊撃連隊 連隊長は師団長の兼任
    第二遊撃連隊 連隊長I・J・キアニー中佐
    第三遊撃連隊 連隊長グルザラシン中佐
  第二師団  師団長アジス・アーメド大佐
        /シャ・ヌワーズ・カーン大佐
    第一歩兵連隊連隊長S・M・フセイン中佐
   第二歩兵連隊連隊長P・K・サイガル中佐(師団長代理)
    第四遊撃連隊運隊長G・S・ディロン少佐
  第三師団 師団長G・R・ナガル大佐 マレー北部で訓練中
    第六歩兵連隊連隊長A・I・S・ダラ中佐
    第七歩兵連隊連隊長グルミットシン中佐
    第八歩兵連隊連隊長ビシャンシン中佐

 国民軍の主力は第二師団で、新編成の歩兵連隊は兵員を六百人増員し二千六百人とし、追撃砲と重機関銃を装備し、どうやら野戦を行なえる形になった。一九四五年(昭和二十年)一月に英印軍がイラワジ河に追ると、インド国民軍第二師団はマンダレーとエナンジョンの中間にあるポパ山を中心に布陣し、日本軍の第二十八軍の防衛する右翼部分を担当することになった。

 ポパ山の戦闘

 第二師団はポパ山に向け七百キロの徒歩行軍を開始した。師団長のアーメド大佐が出発前日のラングーン空襲で負傷しショックで寝込んでしまったため、サイガル中佐が師団長代理となり、二月二十三日北方の第二十八軍司令部に到着した。第二十八軍では、インド国民軍は英印軍並みの優秀装備と考えており、独立した作戦を任せるつもりでいた。

 しかし実情を知っている第二師団の先任連絡将校の桑原少佐が、第二師団の砲兵大隊は現在マレーに残っていてこの作戦には間に合わず、重火器も八十一ミリの追撃砲が最大で、重機関銃が少々ある程度であり、小銃の弾薬も一人当たり二百発しかないという説明に、日本軍参謀たちが驚いた。第二十八軍にも国民軍に分け与えられる弾薬はまったくなかったからだった。

 二月十日ごろ、ミンギャンで陣地構築中の第四遊撃連隊は、有力な英印軍に備えパガンの守備を急に命じられた。十二日にパガンに到着したが、陣地をつくる暇もなく対岸から砲撃を受けた。翌日の偵察部隊の攻撃は退けたが、十三日には戦爆連合と砲兵を伴う本格的渡河攻撃を受け、その夜に連隊は壊乱状態となり、ポパ山の国民軍第二師団司令部には五百名がやっとたどり着いただけだった。

 ディロン連隊壊滅の報を間き、インパール作戦の失敗は自分が陣頭に立たなかったからと考えたボースは、第一師団長に任命したシャ・ヌワーズ・カーン大佐を伴って戦線に向った。すでに主要街道はイギリス軍機が跳梁し、夜間しか進めなかった。メイクテーラの近くでは戦車部隊が接近しており、空からの攻撃も激しくなった。周囲の者が後退を進めたが、ボースは

「戦況の不利な時ほど最高司令官が前線に赴かなければならない。私がいまポパ山で第一師団を陣頭指揮して戦死しても、独立運動の精神はインド人の中に力強く残る。ここで最後の決戦をしなくてはならない」

と言い張った。シャ・ヌワーズ大佐が、ポパ山も猛烈な爆撃を受けて行るという情報を入手し、危険だから思い止まるように説得し、ボースもやっと後退に同意した。

 二月末、ポパ山にはインド国民草の第二歩兵連隊が到着し、第二十八軍から派遣された干城兵団の一個大隊も到着し防衛体制が整った。インド国民軍はポパ山周辺で遊撃戦を展開し、いたる所で敵斥候と衝突したが、敵の斥候は積極的な戦闘を挑まないで後退するのが常で、初陣の第二歩兵連隊の士気はおおいに高まった。

 ところが、三月のはじめに師団司令部の作戦参謀以下五名の将校が敵に走るという事件が起った。サイガル中佐は、味方の少ない兵力、貧弱な装備が敵に知られることを予想し、用心深い英印軍を不安な状態に置くため、敵の占領地に絶えず遊撃部隊を送って撹乱した。戦車を伴った五百の敵がポパ山正面に攻撃をかけてきたが、断崖の地形を利用し、二個小隊で丸一日がかりで阻止、撃過したこともあった。

 三月中旬には干城兵団と密接に協力し、インド国民軍はパガン方面に攻撃前進している。このような協力関係は、ポパ山の日本軍とインド国民軍の将兵の間に友情をはぐくんだ。インパール作戦の教訓から、インド国民軍への食料補給は光機関によってどうにか行なわれたが、弾薬の補給はどうすることもできず、サイガル中佐に「いま手持ちの弾薬は二時間分しかない。射ちつくした後はどうなるのか。攻撃なら銃剣突撃もできるが、弾薬なしの防衛戦闘が成立するのか」と聞かれた桑原少佐が答えに窮するというのが補給の実状だった。

 ラングーン攻撃

 四月一目に、ポパ山北方の敵の補給基地の攻略を命じられた干城兵団とインド国民軍第一師団は攻撃を開始した。しかし頼みの十五センチ榴弾砲が爆撃で破壊され、北からの英印軍有力部隊の反撃も受け、攻撃は挫折し、翌日レジに後過し防御に転じた。三日には英印軍が戦車と砲兵を使用し本格的攻撃をはじめ、国民軍は丸々一昼夜もちこたえたが、四日に大隊長が部下を率いて逃亡したため、戦線はついに崩壊した。

 シャ・ヌワーズ・カーン師団長は部隊を再編成し攻勢を試みようとしたが、四月八日にビルマ国軍が日本軍に反乱したことを知り、十四日、ポパ山からの撤退を決意する。シャ・ヌワーズ大佐は各地で戦闘を交えながら十八日にイラワジ河東岸に到着したが、翌十九日、イギリス戦車部隊の奇襲を受け、師団は四散した。

 その後、サイガル中佐は部下と共に潜伏したインド人部落をイギリス軍に包囲され、爆撃を恐れた村人の説得で降伏する。シャ・ヌワーズ・カーン大佐はプロームで自分の部隊がモールメンに向かったのを知り、ディロン中佐とあとを追ったが、五月十八日イギリス軍に包囲され、交戦ののち補らえられた。

 ちょうどそのころ、イギリス軍戦車部隊は首都ラングーンに追り、四月二十日、ビルマ方面軍はラングーン放棄を決意し、ボースにもモールメン撤過するよう要望した。だが「喜ぴも悲しみも将兵と分かちあい、勝利の時も苦難の時も常に将兵と共にあるのが最高司令官だ」と考えていたボースは、「部隊を置き去りにして逃げられない」と要望を拒絶した。

 またビルマ方面軍は、インド国民軍は現在地で武装解除し、兵器弾薬を日本軍に引き渡し、各自の身の振り方は各自の自主判断に任せるよう提案したが、ボースは「国民軍は完全武装のまま自分が障陣頭指揮し、最後までイギリス軍に抵抗し、抵抗力が尽きたときはじめて降伏し、イギリスの手でインドに連れて行かせる。

 そして捕虜になった兵士の日から、祖国の民衆にわれわれがいかなる理想のもとに何をしてきたかを語らせる。それが独立への火種を残すことになる」と、厳しくこれを拒否している。

 しかし仮政府閣僚が撤退を進言し、国民軍軍医部長のロガナンダ少将が、国民軍の撤退とインド人民留民の保護を責任をもって引受けると申し出たため、ボースはついに撤退を受け入れた。だが、国民軍の武装解除には絶対に武装解除はしないこと、後退してくるジャンシー連隊の到着を確認してから出発することは決して譲ろうとはしなかった。

 四月二十四日、ポースは仮政府閣僚、国民軍司令部要員、ジャンシー連隊とともに、ペグーからモールメンを目指し、トラック十二台でラングーンを出発した。翌日、燃えさかるペグーを通過したが、それはイギリス軍戦車部隊が到着するわずか一日前だった。

 ペグーを出てまもなく、ワウ川にさしかかると橋が破壊されていた。日本軍の輸送指揮官が「ぐずぐずしているとイギリス軍に追い着かれる。いかだで渡りましょう」と言うと、ボースは「男はいかだでもいいが、ジャンシー連隊の隊員はみな良家の子女で水泳の心得はないだろう。戦争だから敵弾に当って死ぬのはやむをえないが、一人だけでも溺死させては親兄弟に申し訳が立たず、私の政治生命も終りになる。橋が修理されるまで待とう」と言い、全員が渡り終わるのを待って先に進んでいる。

 二十七日のシッタン河の渡河でも、ボースは同様にしている。イギリス軍の急追を心配した同行の光機関長磯田(いそだ)中将がポースに真っ先に渡るように言うと、ポースは「とんでもない、ジャンシー連隊の娘たちが全員渡り終えるまで絶対に渡河しない」と答え、光機関のシソタン支部が探してきたトラックに乗るように磯田中将が言うと、「これからはジャンシー連隊と一緒に行動する。私は部下を捨てて逃げたバー・モウとは違う」と、婦人部隊の先頭を歩きだした。

 五月三日、モールメンに着き、九日にはタイのバンコクに向け出発した。やはりジャンシー連隊や国民軍全員が汽車やトラックで出発するのを見届けてからだった。

 ソ連との提携案
  一九四五年(昭和二十年)五月二十五日、トラックと汽車と馬車を乗り継いでボースはバンコクに到着した。あらゆる面で情勢は決定的に変化していた。インド国内では、釈放されたガンジーはムスリム連盟の指導者アリ・ジンナーと会談を繰り返していた。ジンナーの要求は独立に際し、イスラム教徒の多い地域にヒンドゥー教徒とは別の国家をつくることだった。

 ボースはラングーンからの放送を通じ、「ガンジーはヒンドゥーの代表としてではなく、全インド人民の代表としてジンナーと話し合わなくてはならない」と述べ、イスラムとの分難により独立運動の分裂を図るイギリスの策謀に乗らないよう注意を喚起していた。

 しかし、五月にドイツが降伏すると、イギリスのチャーチル内閣は自治付与の妥協案を六月に発表し、ネルー、アザードなど会議派の指導者たちを釈放し、六月末にはインド人各派の代表をシムラに集め、自治政府のメンバー選定協議を開始した。

 ボースの警戒した中途半端な独立が実現されようとしていた。ボースは「形式的独立ではなく、武力闘争を通じて古い社会の枠組みを壊さなければ、インドの後進性は打破できない」という考えを変えず、イギリスの甘言に乗せられ独立闘争を放棄しないように訴えた。しかし、釈放された会議派の指導者たちは、「ボースは日本の傀儡であり、イギリスの譲歩に応えず、派閥的感情からネルーやアザードを攻撃している」と言う非難を繰り返していた。

 すでにインド国民軍はビルマから撤退しており、東からのインド進攻は不可能だった。しかしボースの手もとには、残在兵力の他に、マレー半島で訓練中だったインド国民軍第三師団が無傷でタイに移動中であり、約二万の兵力があった。ボースは、国民軍を中国北部に移動し、臨時政府を北京、上海、天津のいずれかに置き、ソ連大使館と密接な連絡をとり、中央アジアからインドヘ進攻するという壮大な構想を考えていた。

 ドイツ敗戦後の世界は英米とソ連の対立が激化することは必死だから、イギリスの敵であるソ連だけが武力によるインド独立闘争を支援する可能性がある国だと考えたからである。

 ポツダム宣言
  しかし日本軍の大本営は、すでに戦争の終結を有利にする作戦以外を考える余裕はなかった。六月十八日、ボースのもとに参謀本部情報部の高倉盛雄少佐が大本営の考えを説明するために派遣され、臨時政府と国民軍は南方総軍の指揮下で行動するように求めた。

 ボースは納得せず、会談は夜中の三時まで続けられ、根気よく説明を繰り返す高倉中佐の説得に、ボースはしぶしぶ大本営の希望に沿うことを認め、タイにいる国民軍すべてがサイゴンに後退したのち、臨時政府の閣僚とともにサイゴンヘ移ることを決心した。

 八月十一日、マレ半島中部のイポーで第三師団の訓練をしていたボースに根岸思素通訳がタイ駐在の坪上大使からの極秘書簡を持参した。直接ボース自身に手渡すように命じられていたが、なぜか封が開いており、根岸通訳が目を通すと日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏することが英文で記されていた。「天皇の大権」を表す prerogative という単語があまり使われないことばなので辞書で確かめたことを根岸通訳はいまでも記憶している。

 ボースは「またアトミック・ボムでも落ちたのか」と言いながら読むと、師団長に訓練中止を命じた。連合国の短波放送を開くボースは数日前から知っていたようだ。日本の降伏を信じられない根岸通訳が「何かの謀略ではないでしょうか」とたずねると、「いや、明白な降伏だ」と答え、さらに「天皇陛下が降伏の命令を出されるだろうから、日本人としては従うしかないだろう。しかし安心しなさい。

 陛下は退位されるかもしれないが、その場合は摂政を置けばいい。日本は絶対に滅びない。しばらくは占領されるだろうが、独立も回復できる。しっかりやりなさい」とはっきりと根岸通訳を励ますほどだった。

 最後の飛行

 ただちにシンガポールに戻ったポースは、根岸通訳に日本からの借款の残りを南方開発金庫から引き出すように命じた。国民軍将兵と仮政府職員の退職金に充てるためだった。危急の際にも沈着さを示すボースに根岸通訳は感服した。解散したジャンシー連隊のタイ出身の二名の女性が汽車に乗り遅れたことを知ると、駅に行って列車に乗り込むところを確認させてから、ポースは南方総軍と協議するため空路サイゴンに飛んだ。

 南方総軍の寺内総司令官を訪れたポースは、ソ連行きの飛行機の手配を要請した。提供された飛行機は双発の九七式重爆撃機で、関東軍参謀副長に就任する四手井中将のほか、連絡のため東京に向かう七名の日本軍将校が同乗し、ポースたちに提供された席は二座席しかなかった。

 仮政府の主要閣僚の同行を予定していたボースは慣慨したが、副官のハビブル・ラーマン大佐一人を同行することにしたが、他の閣僚や国民軍首脳が次の飛行機で後を追うという確認がとれるまで動こうとしなかった。

 八月十七日の夕方、九七式重爆がサイゴン飛行場の滑走路を走り出すと、一台の車が走りよってきた。仏印のインド人が寄進した貴金属や宝石を積んだ車がこちらに向かっているという知らせだった。三十分後財宝を積めた二個の重いトランクが機内に積み込まれた。定員を三名もオーバーした機は滑走路いっぱいに使って、午後五時サイゴンを離陸した。

 台北、松山飛行場にネタジ・ボース死す
   二時間後、サイゴンとハノイの中間のツーランに着陸し、機の重量を軽くするため操縦士が六丁の機関銃と弾薬を降ろした。翌十八日の早朝、機はツーランを飛ぴ立ち、正午すぎ台湾の台北にある松山飛行場に到着した。ポースたちは天幕の中で昼食をとり、搭乗員たちは機体の点検をして燃料を補給した。エンジンテストをしたが異常はなさそうだった。ソ連軍がすでに旅順を占領したことが知らされ、千八百キロ先の予定地大連に暗くならないうちに到着するため、午後二時に機は雄陸した。

 離陸直後、ハビブル・ラーマン大佐は轟音を聞く。敵機による攻撃かと思ったが、左側のエンジンのプロペラが吹き飛ぴ、ショックでエンジンが外れた音だった。たちまちバランスを失い、飛行場のはずれに落ちた機は二つに折れ燃え上がった。

 ラーマン大佐が「後ろから出ましょう」とボースに叫び、転がりでたとたん爆発が起き、大佐は地面に叩きつけられた。顔をあげたラーマン大佐の目に、火炎に包まれてこちらに歩くボースの不動明王のような姿がうつった。全身にガソリンを浴ぴ、頭から血が吹き出していた。

 南門の陸軍病院で治療を受けたが、ボースの容態は絶望的だった。インドの独立を日本との協力により、実力で達成しようと闘ったスバス・チャンドラ・ボースが最後に息を引き取ったのは一九四五年八月十八日の午後八時だった。

( ここにあった、「チャンドラ・ボースの死亡の検視等の記録の証言」の、陸軍の医官の文章は、ここの第2ぼやきの、ひとつだけ前掲に、載せた。この男も怪しいのだ。犯行の隠蔽の工作用の人物だろう。  副島隆彦注記)

 こういういきさつで、その後も毎年八月十八日のボースの命日に光機関の関係者、日本軍の関係者等ゆかりの者達が集まり、蓮光寺の望月氏の導師で、ボース氏の霊を弔い続けている。
 本年は三十三回忌(一九七八=昭和五十三年)の法要を盛大に挙行したのである。

10 ネタジヘの哀悼の辞

 「 ネタジの偉大さについて 」

 マハトマ・ガンジー
(1947年1月23日ネタジ51回目の誕生日に寄せたマハトマ・ガンジーの言葉)

   我々がネタジの生涯から引き出すことができる最大の教訓は、彼が同士の人々に一体化の精神を注ぎ込んだことである。その結果、同士たちはすべての宗教的、地域的障壁を乗り越えることができ、共通の理由から血を流したことである。彼独自の業績は歴史のページのうえで彼を不滅にするだろう。

 インドに帰ってきたネタジの後継者たちが私に会った時、すべてが例外なく、ネタジの感化が彼らの上に輝き、インドの自由を獲得するというただ一つの目的のために働くことを言ったのである。いかなる宗教的、あるいは地域的差異に対する疑念も、彼らの心に影を落としていなかった。

 ネタジは偉大なる資質、偉大な能力を持つ人物だった。彼は広い学識と知的能力によりインド高等文官試験に合格したが、職務にはつかなかった。インドに帰国した彼は、デスバンドゥー・ダスの影響下に入り、その後カルカッタ市の主任行政執行官になった。後に彼はインド国民会議の議長を二期にわたり務めたが、記すべき彼の活動の最大の業績は、カブールから歩いて祖国を脱出し、イタリー、ドイツなどの国々を経て、最終的に日本に到着するという国外における活動である。

 外部の人々が何を言おうとも、現在のインドにおいて、彼の国外脱出が犯罪であると考える者は誰一人として存在しないことを私は断言する。タルサイダスが「真に有能な人物に汚点は有在しない」と言うように、ネタジの名前をその国外脱出のために非難することは不可能である。彼が自身の軍隊をもって初めて立ち上がった時、彼はその数は重要でないと考えていた。その人数がどれだけ少なかろうと、自由インドのために最前を尽くして耐え抜くであろうと、彼は考えたのだ。

 ネタジの最高、最大の業績は、カーストや階級の違いを払拭したことにある。彼はただ単にベンガル人ではなかった。彼は決してカースト的に考えることはなかった。彼の下のすべての人々にあらゆる違いを忘れさせ、一つの熱意に燃え立たせたのは、一人の人間として行動するということだったのである。

「 偉大なる世界的人物、ネタジ 」
               ビルマ連邦首相ウー・ヌー
(1957年1月23日ネタジ・スバスーチャンドラ・ボースの生誕61年記念式典に寄せられた言葉)

 ネタジは我々の時代の偉大なる人物の一人である。若い学生として才能は光り輝いていた。早くから宗教的情熱をたぎらし、成長しては、祖国の人々の貧困とインドは自由ではないという事実をより深く考えるに至った。

 青年時代、内部に抱いた葛藤は広がり続けた。当時もっとも羨望されたインド高等文官試験を目指し、彼は合格した。彼の内部の葛藤はさらに鋭さを増した。彼は高等文官の地位に着き、外国支配下の行政に奉仕したくなかった。家族、友人の熱心な勧めを振りきり、植民地官僚にならず、祖国と祖国の人々に自分自身を捧げる決心をしたのである。

 インドに彼の足跡が記されるまで長い時間はかからなかった。数年のうちに彼の名は全インドに知れわたった。自由に対する彼の犠牲的精神は、インド国民会議の議長に選ばれることにより認められたのである。

 インドからヨーロッパヘ脱出し、そして日本に到る彼の物語は今ではよく知られている。ネタジはインドの解放を早めようと決心していた。 彼は自由インド仮政府の指導者となり、インド国民軍の基礎を確固たるものとし、「チヤロー・デリー」のスローガンが人々の日に昇った。

 ネタジは力強い人間性の所有者だった。彼は高い知性と強い指導力を併せ持つというたぐい希な人物だった。戦争中、ビルマにいる頃、私は彼を知る機会に恵まれた。彼が常に根底に持ち続けたただ一つの理念がインド独立であった。彼はインドの自由に向って遭進し、そのためにはどのような犠牲もいとわないことを決心していた。

 彼の簡明さは彼の力強さと一体になっていた。彼は人々からもっとも敬愛された人物であり、それは彼の個性と人格が人々にもたらしたものである。何ものにもまして、彼はいずれの国においても誇り得る戦う勢力を創り上げたのである。

 ネタジはインド独立の戦いにおいて巨大な役割を果たしている。ネタジの行動は多くの自由を求める国々を鼓舞し、これからも鼓舞し続けるであろう。ネタジは希に見る偉大なインド人であるばかりでなく、世界的に偉大な人物なのである。挨拶を贈る機会を得たことを私は大変光栄に感じております。

● ラス・ビハリ・ボース の独立運動の志士(革命家)としての経歴

~革命家へ~
   ボースの中の革命家精神を目覚めさせたのは、学生時代、当時の新刊で革命に燃える青年達に広く読まれた『サラチャンドラ』でした。その本に書かれたインド兵反乱に血を湧き立たせ、ボースは学業を捨てインド兵になることを志願。そして、ウイリアム要塞司令官に入隊を志願しますが、ベンガル人は志願兵として登録出来ないとの返事を受けてしまいます。その後も志願し続けて行動に移すも失敗し、結局父の強制で森林調査官に任官します。

  しかし、この森林調査官という職務は革命活動におおいに利用できるものでした。赴任先がグルカ兵輸送の中心地や所在地であったため、兵士に革命思想を叩き込むことで運動を拡大させることができ、また、勤勉な官吏として行動していたため、1912年デリーにおける総督爆殺計画を決行してもしばらくは疑われることなく、逆に警察が革命党員の行動内偵をボースに依頼するほどでした。

 しかし、2年後の1914年にはデリー事件でのボースの主犯が判明、ボースの首には12,000ルピーの懸賞金がかけられます。そして1915年のラホールの反乱も密告により失敗。身の危険が迫る中、ボースは武器を入手のため日本に渡ることを決意、詩聖タゴールの渡日にまぎれて、タゴールの親戚として来日します。

~相馬夫妻との運命の出会い~
  1915年6月、神戸に着いたボースの以後の行動は分かっていません。ただ東京で中国の革命家孫文(そんぶん、スンウエン)や、大アジア主義を唱えた「玄洋社(げんようしゃ)」の頭山満(とうやまみつる)らと会い、親交を深めていくことになります。

 しかし、当時の日本はイギリスと日英同盟を締結しており、イギリスのお尋ね者であるボースには国外退去命令が下ってしまいます。同年の12月でした。官憲の尾行がついたボースは頭山邸から変装し、警官の目を欺き逃亡します。そして逃げ延びた先が中村屋でした。それから相馬夫妻は4カ月間命がけでボースを匿います。

 この戦い(インパール作戦)で敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。

 それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)

 「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は、

 「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」 と語っています。

 また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。

 このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。

 インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先がわたしたちに残してくれた大きな財産だといえるでしょう。

 このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍はさらなる撤退を続け、ついに1945(昭和20)年8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。日本の敗戦後も、起死回生の望みをかけたチャンドラ・ボースは、寺内寿一(てらうちじゅいち)南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に命を懸けた生涯でした。

 その後、ボースのもとで共に独立をめざして戦ってきたインド国民軍(INA)兵士たちには、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為をおこなったという「反逆罪」で軍事裁判にかけることになったのです。

 イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配をやめようとは思っていなかったのです。

 しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」だとして裁くという措置に、インド全土では2年間に及ぶ大規模な反乱がつづきます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧につとめるなど、流血の惨事があちこちで起こりました。さらに、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。

 インド民衆も、「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で、「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。

  こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。その後も、インドは、敗戦にうちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。

 敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、ただ一人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。

 また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。(了)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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