「43」引き続き 「ユダヤ人とは何か?」論文の前半部分を載せます。長文の為にあと一回分が残りました。副島隆彦 200.7.16

  • HOME
  • 「43」引き続き 「ユダヤ人とは何か?」論文の前半部分を載せます。長文の為にあと一回分が残りました。副島隆彦 200.7.16

副島隆彦です。 今日は、2007年5月16日です。

 ここの「42」番に引き続いて、鴨川ひかり君が、ネット上のどこかで見つけて持ってきた「ユダヤ人とは何か?」論文の前半部を載せます。それでも長文であるために、一番始めの部分は、まだ載せられませんでした。 副島隆彦記

(転載貼り付け始め)

「 ヘレニズム時代のユダヤ人 Hellenistic Judaism 」(前4-前2世紀)

1.ハスモニア家(これが本当の最初のユダヤ人王朝)(ギリシア時代 前332-後63)

 紀元前332年、マケドニアのアレクサンダー大王によってパレスティナが征服されると、大祭司たちはユダヤの長としてみとめられ、ユダヤ人によるパレスティナの自治が許された。この時の祭司たちは最も理想的な祭司のあり方として「義人シモン(シメオン)」とよばれた。

 おそらくは複数の祭司を指しているらしい。紀元前320年、大王の死によって、アレクサンダーが一代で築き上げた帝国が部下の司令官達によって複数の地に分割された。彼らをディアドコイという。

 その中でもアンティオキアを中心としてシリアを征服したセレウコス朝と、エジプトを支配したプトレマイオス朝は、以後ローマ時代にいたるまで続くヘレニズム世界の最初の王朝(ザ・ヘレニスティック・キングダム)として覇を競った。

 紀元前301年、プトレマイオス一世がシリアのセレウコス朝からパレスティナの支配権を勝ち取ると、ユダヤ人に文化・宗教的自由を与え、エジプトにおいてユダヤ人達は勢力を拡大し、文化的に繁栄していく。この時からアレキサンドリアにおいてユダヤ人達の人口が増大し、バビロニアと並ぶユダヤ人の古代の代表的な集住地域となる。

 また、最初に書かれた聖書とも言える「70人訳聖書(セプトゥアギンタ)」が書かれたのもこのプトレマイオス王朝下においてである。シナゴーグの最初の考古学的証拠もここにあると言われる。

 紀元前198年、セレウコス朝(シリアン・セレウシッド・ダイナスティ)によるパレスティナ支配が始まる。ここで重要なのは、アンティオコス・エピファネスが徹底的で露骨なヘレニズム化政策を推進したことである。

 ユダヤ人迫害、神殿の冒涜、城壁破壊などを繰り返し行なったが、猛烈にユダヤ人の反感を買ったのがユダヤの神殿の祭壇にゼウスの像を飾ったことであった。ユダヤの神をオリュンポスの神々と同一視したことによって、ユダヤ人の独立運動に火が点いた。

 ただし、もともと彼はユダヤ人達をよりリベラルに扱って、ユダヤ人自らの憲法、すなわちトーラーによる自治を与えていた。
この当時、ユダヤ人達の大祭司は、おそらくはエズラから続いていたとされるオニアッド(ツァドク家のことか?)家が世襲している。

 この時の祭司オニアス三世は、こうしたヘレニズムの影響に反発していたが、紀元前174年、アンティオコス・エピファネスによって、オニアス三世の弟ヤソン(英語でジェイソン)に祭司職のすげ替えが行われ、さらに171年によりギリシア的なメネラオスに変えられてしまう。

 このヤソンとメネラオスによって、パレスティナの急激なヘレニズム化が実施され、当時に支配階級に広まっていたギリシア化推進派=改革派に勢いが増した。

 しかし、同時に支配階級の支持するメネラオス派と民衆が推すヤソンとの間に対立が生まれ、パレスティナに内乱が勃発してしまう。アンティオコスは、メネラオス派の要請を受けてこの内乱に当然のごとく干渉していくこととなる。

 紀元前167年、ハスモン家の祭司マタティアスの反乱を機に、ユダヤ人達の歴史上初の大規模な暴動と独立運動が開始された。マタティアスの五人の息子、マカバイオス(「鍛冶屋」と言う意味)たちが中心になって起こしたものなので、「マカバイ(マカベア)の反乱」と言う。

 この叛乱のすさまじさは「死海文書(デッド・シー・スクロールズ、巻き物)」に残されている。ユダヤ・キリスト教における殉教(martyr)はこの時に始まる。

 また、この戦争でもうひとつ重要なのは、現代につながる律法重視のユダヤ教の基礎を作ったパリサイ派(ファリサイ派)がマカバイたちの反乱を支持したことである(➙英語版ブリタニカ参照)

 兄弟の筆頭ジューダス・マカバイオスによって、ユダヤの神殿が解放されると、再び神殿に献納を行なうことが出来るようになった。紀元前165年のこの解放を記念して現在でも行われているユダヤの祭礼が「ハヌカ祭」である。

 相次ぐ戦いの末、ジューダスが死ぬと、末の弟ヨナタンが大祭司となって、パレスティナ・ユダヤの事実上の支配者となる。

(152BC)次の、マカバイオス最後の生き残りシモンが、140年、自ら神殿内で大集会を執り行い、大祭司、君侯、軍の指導者としてみとめられた。 以後、オニアッド家がエズラの時代から代々次いできたこの地位はハスモン家の世襲となる。

 ここに26年をかけて戦われたマカバイ戦争が終結し、586年のバビロン捕囚によるユダ王国の滅亡以来、事実上初めて政治的独立をユダヤ人達は獲得するのである。

 ここで、重要なことは、このハスモン王朝こそ歴史上最初に現れたユダヤ人王国なのだと言うことである。ユダとイスラエルといった王国の話はあくまでも聖書の中での話である。

2.ギリシア化したハスモン家の分裂

 このマカバイの兄弟の最後の生き残りシモンが暗殺された後、跡を継いだのが息子のヨハンネス・ヒュルカノス一世である。彼の治世の紀元前129年、ついにシリアのアンティオコスが戦死し、セレウコス朝が解体した。すると、ヒュルカノス一世は完全独立を主張して、領土拡大策を推進した。

 この時代のユダヤ時の特徴である領土拡大策は、イドマヤ人(エドム人)などの周辺に住む民族にユダヤ教を強制し、サマリア人(北イスラエル崩壊後、その後も定住を続けた人々。独自のトーラーを持っていた)の神殿を破壊するなど、かなり荒っぽいものであった。有名なヘロデのアンティパテル家もこのときにヒュルカノスによって強制改宗された人たちである。

 その結果、ハスモン家の王朝は、かつてのダヴィデの王国を凌駕する地域覇権国となってしまった。この広さは、ゴラン高原とヨルダン川東岸までに及ぶほどで、見ようによっては現在のイスラエル共和国の領土と占領地域よりも大きい。今のイスラエルでも、ヨルダン川西岸からはみ出ることはない。

 ヒュルカノス一世の「業績」としてもうひとつ特筆すべきなのは、サドカイ派をサンヘドリンなどの地位に登用して、マカバイ戦争の功労者ともいえるパリサイ派を排除したことである。(➙英語版ブリタニカ参照)

 パリサイ派とはハシディーム(敬虔主義者)の流れを汲み、大司祭制度と世俗権力(王)との分離を主張するもの達、つまり政教分離主義者(セパラティスト)のことである。彼らがタルムードを作ることとなる。

 こうして、この二つの聖職者、学者階級の対立が王朝の終焉まで続くこととなった。

 さて、ヒュルカノス一世が死ぬと(前104)、その後を長子のアリストブロス一世が継いだ。ここまではハスモニア家の正統であったが、これをすぐさま継いだアレクサンドロス・ヤンナイオスは弟であったため、ハスモン家は傍系の家系に移り、ハスモン家の内紛勃発の端緒となってしまう。

 この内紛を利用して内政干渉の機をうかがっていたローマの意図を見破った妻のアレクサンドラ・サロメ女王は、サドカイ派を重用していたそれまでの方針を修正して、サンヘドリン内にパリサイ派を登用し、長子ヒュルカノス二世が大祭司職を継ぐという政教分離策がとられた。

 しかし、前67年に女王がなくなると、ヒュルカノスの弟アリストブロス二世を担いだサドカイ派によって、王位継承権をめぐる内紛がおこりハスモン家の滅亡を招くこととなる。

 ヒュルカノス二世にはイドマヤの大臣アンティパテルというものがいて、この男の息子がヘロデ大王である。(ヨハネやイエスの処刑に関わったヘロデは、ヘロデ大王の三男ヘロデ・アンテパスである。)このアンティパテルという男が策士であり、外国の力を借りて、自らが国をのっとっていくのである。

 その外国というのが当時、共和国から帝国への変貌を遂げつつあったローマである。

 ローマは第一回三頭政治(シーザー、ポンペイウス、クラッスス)といわれる時期にあたり、ユダヤに介入してきたのは当時シリア方面に覇権を確立していたポンペイウスであった。ポンペイウスは兄のヒュルカノスを大祭司としてローマに臣従させて、ユダヤの属国化への布石を打つ。大臣のアンティパテルもポンペイウスの後ろ盾を得ていたことにより自身の地位を固めることができた。アリストブロスはその子らとともにローマに送られた。

 このころからシーザーが実力をつけはじめ、ポンペイウスとの戦いの果てにローマの最高権力者となる。この両者の戦いの合間にアンティパテルは抜け目なくカエサル支持に回り、カエサルによってユダヤの行政長官に任じられることになった。同時にヒュルカノス二世も大祭司として認められるが、ハスモン朝内にアンティパテル家の勢力が浸透していくことになる。

3.ローマによる支配開始(前63-後135)

 歴史上正当なユダヤ王家、ハスモニア家は同じくパレスティナの周辺に住むエドム人の血を引くアンティパテル家にたくみにのっとられていく。(ダヴィデも実はエドム人の母から生まれている)この子供がヘロデ大王である。

 ただし、これまでの流れも、ただのユダヤ国内の勢力争いというものではなく、覇権国ローマのお家事情に影響された、国際関係を抜きにしては語れない出来事なのである。

 アンティパテルも毒殺されてしまうが、子供のヘロデはヒュルカノスの下にあって、アリストブロスの子アンティゴノス(つまりヒュルカノスの甥)の襲撃を撃退するなどして手柄を立てていく。このハスモン家の最後、アンティゴノスの行為がハスモン家の終焉とユダヤのローマ支配に引導を渡すことになる。

 紀元前40年、アンティゴノスはパルティアの力を借りて侵入し、おじのヒュルカノスの位を奪うばかりか、二度と祭司職につけぬように両耳を切り落としてしまう。五体が健全であることが祭司規定のひとつであった。

 パルティアによるユダヤ支配を許さないローマ元老院は、逃れてきたヘロデに支配者としての地位を与えてユダヤに侵攻し、エルサレムを占領した。アンティゴノスも首をはねられてしまう。
これで、ローマはヘロデを属州の長として立てることによって、ユダヤの間接統治に成功したことになる。これはハスモン家と歴史上最初のユダヤ独立国の終焉であった。

 このハスモン家というのも、マカバイの最後シモン以降は怪しく、ヒュルカノス一世以降は貴族であり支配階級であるサドカイ派の登用によるギリシア化推進運動でしかない。これをヘレニスティック・ハスモディアンといって、律法遵守の旗印に反シリア闘争をしたマカバイオス=パリサイの方針とはそもそもまったく関係のない筋である。ヒュルカノスが血統によって王位を継承したということも、この短い国家の建国の理念に反するものである。

 結局は、王家というものは血統が傍系にそれていくことによって内紛と外国からの介入を招き、没落していくものだということがこのハスモン朝の中に端的に示されているのである。

 ハスモン家は、ヒュルカノス一世の子供アリストブロスまでは正統の血統といえるが、そのあとのヤンナイオスからがヒュルカノスの甥であり、傍系に移り、さらにヤンナイオスの甥アリストブロスの子が最後となった。つまり、傍系のさらに傍系にいたって消滅してしまうのである。

 ヘロデはローマの傀儡で操り人形である。現在に至るまであらゆる方面から非常に評判が悪いが、壮麗な神殿を再建し、慈善事業などを起こした点で、統治者として非常に優れた才能を持っていた。

 ハスモン家の血統を取り入れるためにヒュルカノスの孫マリアムネと結婚するが、結局はその母親ともども一族郎党を殺してしまう。また、パリサイ派を登用することによって、政教分離がいっそう進み、ユダヤ教の進歩に一石を投ずることとなった。

 前4年になくなったあと、3人の息子たちにそれぞれの地方の支配を任すが、ユダヤを任せていた長子アケラオスの無能のために、民衆のローマへの反乱を許すこととなる。この反乱は、ユダヤの神殿にかかっていたローマのシンボルである鷲の斑を偶像として取り除こうとしたラビを処刑したことから始まった。

 この反乱をうまく抑えることができなかったアケラオスは皇帝アウグストゥスによって追放されてしまう。この後有名なヘロデ・アンティパスが弟の妻と結婚をするなどという戒律違反を犯したり、ポンティウス・ピラトのような歴代のローマの行政長官が、ユダヤの民衆を挑発する行為を繰り返していく。

 こうしたさまざまな事件を経て、ガリラヤのパリサイ派を中心にして、ズィーロット(ゼロタイ、熱心党)が結成されたりして、66年についにユダヤ人が完全に蜂起した。これが第一次ユダヤ戦争である。

 このときのローマの将軍が後に皇帝になるウェスパシアヌスであり、その息子のティトスによってユダヤの反乱は鎮圧されてしまう。有名な戦いが70年の山岳地帯マサダの砦での包囲戦であり、ここにズィーロットのなかの最急進派であるスカリィ(短剣党員)が立てこもった。

 また、このときのユダヤ側の司令官が後の史家ヨセフスである。彼のユダヤ戦記とユダヤ古代史は、聖書時代からこのときまでのユダヤの歴史を網羅している重要な資料である。

 この戦いのとき、パリサイ派たちは積極的に戦いに参加することはなく、ラビのヨハナン・ベン・ザッカイはひそかにエルサレムを抜け出してローマの将軍に学院を設立する許可を願い出て、ヤブネ移った。ここが後にタルムード編纂とユダヤ学問の中心となる。

 70年にエルサレムは包囲の末に落城、神殿は炎上して、ユダヤ国家は滅亡した。しかし、132年、5賢帝の3番目ハドリアヌスがエルサレムにローマの殖民都市を建設し、ユダヤ教の儀式を禁止しようとしたことがきっかけで、再びパレスティナのユダヤ人が反乱を起こした。(第2次ユダヤ戦争)

 このときの指導者がバル・コフバと、彼を救世主メシアとみなしたラビ、アキバ・ベン・ヨーゼフである。この王国はたったの三年で終わりを告げ、エルサレムはユダヤ人の立ち入り禁止とされた。

 こうして歴史上最初のユダヤ人王国は完全に終わりを告げ、次のラビのユダヤ時代へと移行していくことになる。

「 ラビ時代のユダヤ人Rabbinic Judaism 」
(2世紀-18世紀)

1.ソーフェリウムの時代

 「書記」「教師」と言う意味で、前4世紀のエズラ時代の「大会堂」の長老達から、前3世紀、義人シメオン(シモン)まで。

2.ズーゴートの時代

 ズーグは「対」と言う意味で、伝承によればサンヘドリンの正副議長のことであるらしい。ソーフェリウムの最後ソコーのアンチゴノスによって橋渡しされ、最初のズーゴートはヨセ・ベン・ヨハナンとヨセ・ベン・ヨエゼルである。

 それぞれの側の三代目はシメオン・ベン・シャハタとイェフダ・ベン・タバイといい、ハスモン王国時代のサロメ・アレクサンドラによって登用されたパリサイ派である。この対は5対まで続き、最後の二人がシェンマイとヒルレルであった。

3.タンナイムの時代(135-200)

 シャンマイとヒルレルの死後、第一次ユダヤ戦争が起こりユダヤ人の国家が滅びる。このとき徹底抗戦を主張するズィーロットに対して、パリサイ派の穏健派は神殿の保存とユダヤ教の慣習の維持に気を止めていた。

 紀元70年、エルサレムがローマ軍に包囲されたときにエルサレムを脱出して、海岸地帯の都市ヤブネに学院を設立して弟子たちの教育を始めたのがヒルレルの高弟、ヨハナン・ベン・ザッカイである。ヨハナンはズーゴートとタンナイムの橋渡しに位置する人物であり、これをもってタンナイムの始まりだとされている。

 タンナイムとは紀元10年から220年までの間、タルムードの基礎となったミシュナ編纂にかかわったラビたちで、「教師」という意味である。「テナー」=「繰り返す、教える」という意味に由来し、第6世代までに分かれている。ヨハナンからが始まりであるように、ズーゴートであるヒルレルの弟子の系譜である。

 ヒルレルからユダ・ハ・ナシまで148名いたとされている。イエスもこのヒルレルの弟子でヒルレル派であった。つまり、パリサイ派の正統の系譜に属する人だったのである。

 ユダヤ人国家が滅びた後すたれてしまったサンヘドリンの任務を引き継ぐ権威ある機関の設立が必要となった。これをうけてヨハナンはこのあとのタンナイム達の中心機関となるベド・ディンと呼ばれる導師評議会を組織する。これは元老院、議会、裁判所の役割を果たした。ここの長は実質的にはユダヤ人のトップであるのだが、タンナイムらが発展させていくアカデミーとの対立構造も生み出していく。

 こうしてユダヤ人の存続基盤が出来ると、成文法と口承法が調べ上げられて、ヒルレル派とシェンマイ派の間で闘わされていたズーゴート達の長期論争に終止符が打たれた。ヒルレル派の主張が採用されることに決定したのである。

 ヨハナンの業績として持ったも大切なものは、聖書の正典を確定する作業である。ヨハナンは伝承と雅歌を聖書に入れ、「五書、預言者、詩篇、知恵文学」を正典化し、今後聖書にはこれ以上は追加してはならないという布告を出す。ユダの12代国王アハズのころから続く正典化作業に終止符が打たれた。

 ちなみに正典に対する外典とは「70人訳聖書、ヨセフス、黙示文学、パピルス・スクロール」である。これを受け継いだのが最大のラビといわれるアキバ・ベン・ヨーゼフである。アキバはハドリアヌス帝に対するユダヤ人最後の反乱の直前に出現した。彼の業績は、ミシュナ法典の編纂に着手し、ヨハナンの仕事を発展継続させたことである。

 アキバは聖書のテキストのあるがままの内容だけではなく、文法から戒律と原則を導き出す推論法を編み出した。また、伝統と慣習を六つに分類してユダヤ教を学問として組織・体系化する。
しかし、このころのローマ皇帝ハドリアヌスのユダヤ教弾圧のため、第二次ユダヤ戦争が始まってしまう(紀元132年から135年)。

 アキバはこの反乱の指導者、ズィーロットであるバル・コフバをメシアとしてたたえ、共に戦うのだが、三年にして鎮圧され、アキバもこの時に死ぬ。伝説に依ればローマ兵に何度も突き刺され、焼き殺されたと言われている。

 紀元138年、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが即位すると、ユダヤ教弾圧が緩和されて、破壊されたヤブネの学院に代わり、パレスティナ北部ガリラヤ地方のウシャが新しく学問の中心となる。しかし、このころからパレスティナよりもバビロンの機関が栄えるようになって、聖書研究の中心地の移行が徐々に始まる。

 この時期に活躍した学者はラビ・メイルという人である。かれは、このころ各地で行なわれていたアキバの編纂事業を受け継いだ人物であるが、アキバの方点編纂作業を事実上完成させたのはこのメイルである。ミシュナで権威者の名前が特定されていない場合はほぼメイルによるものであるといわれている。

 紀元220年頃、このメイルの編集したテキストを使って、それまでの148名のタンナイムの見解と判定が六つのカテゴリーに分類され、ミシュナとして完成させたのが学頭の正統の継承者であるベド・ディンの長ユダ(イエフダ)・ハナシ(135~220)である。

 ヤブネに始まり各地に散らばったアカデミーの学頭はヒルレルの孫ガマリエルから代々その子孫が受け継いでいた。ハナシもその子孫であるため「君主のハナシ」といわれた。ちなみにガマリエル一世はキリスト教を広めたパウロの師匠である。

(ガマリエル二世はヤブネの学院からヨハナン一党を追放している。)

 彼はメイルのもとで訓練を受けただけでなく、学者の家系であったので、当代一流の人物と交流があり、皇帝マルクス・アウレリウスと交流があった。彼の家庭で話す言葉が土着のアラム語ではなく純粋なヘブライ語であったことも聖書解釈に決着をつける要因ともなった。

 ミシュナの六つのカテゴリーとは「種子、饗宴、女性、損害、神聖なこと、斉戒」であり、農耕法や結婚、儀式などの規定をまとめたものである。

 ミシュナはそれでもあくまで口承法であり、トーラーに代わるものとなることが恐れられて、記述が義務づけられることはなかった。

4.アモレイムの時代(3世紀-6世紀)

 ミシュナが完成したので、その注釈であるゲマラの編纂が開始される。ミシュナとゲマラをあわせてタルムードという。このゲマラの編纂に関わったものをアモレイムといい「語るもの」という意味である。パレスティナとバビロニアで競争するような形で行われた。パレスティナのアモライムは5代4世紀末まで続き、バビロニアでは8代5世紀末まで続いた。

 パレスティナではティベリアの学院を中心にして、カイザリアとハナシのいたセフォリスといった学園があり、ラビ・ヨハナン・ベン・ナッハバによって編纂が始められ、ミシュナ編纂の二世紀後、425年までに終了したといわれているが、最終編纂者の名前すら分かっていない(390年と言う説もある)。ローマ軍の包囲の最中に編纂されたと言う事情もあって統一性がないとされている。

 したがってこのころにはすでにバビロニアへの頭脳流出が始まっており、425年、テオドシウス帝によってユダヤの全アカデミーが閉鎖された。

 バビロンはネブカドネザルの補囚いらいユダヤ人社会の重要センターとして栄えていて、ミシュナ完成時には100万人を越えていた。ユダヤ人社会は実質的に自治が認められており、首長はレシ・ガルータ(補囚・離散の王子、エグザラーチexilerch)といいダビデから続く世襲統治者として王族に準じた扱いを受けていた。

 しかし、バビロンのユダヤ人社会での真の権威はアカデミーと学者達にあった。現代に続くバビロニアのタルムードはバビロニアの南にあったスーラの学院(160~247年)と、ネハルデアの学院(259年以降はプンペディタの学院、10世紀まで)が2つの中心であった。

 前者を設立したのはユダ・ハナシ弟子であったラブ・アッバ・アリカ、後者の学院長は同時代のサムエル・ベン・アバという人である。スーラの学院はバビロニアのほかの学院を圧倒した。

 紀元226年、ペルシャがユダヤ社会に寛容であったアルケサス朝からゾロアスター教を信奉するササン朝になると、宗教的弾圧が始まり、ネハルデアの学院は259年に破壊されてしまう。その代わりにプンペディタとマホザに学院が作られ、スーラと並んでここでもゲマラ編纂の仕事が続けられたのである。

 サムエルとアッバ・アリカの仕事を引き継いだのがスーラの院長ラブ・アシ(375~427年)であり、サムエル以降の膨大な口伝を編纂した。ラブ・アシがまとめた口伝をさらに文書化してとうとうゲマラを完成させたのが、スーラの新院長ラビナ・バル・フナ2世(在職474~499)である。500年頃までに完成したらしい。

 それに若干の補足を加えた5世紀半ばから6世紀半ばにかけて活躍した筆写師たちをサボライム(「熟考する者、理論家」という意味)という。彼らは次のジェオニムへの橋渡し役とし位置づけられている。

 こうしてゲマラの完成を見たわけだが、それはそのままパレスティナに対するバビロニアの学問的勝利であり、タルムードの完成を意味したのである。このバビロニア・タルムードはパレスティナ・タルムードの3倍の分量がある。現在一般に言うタルムードとはこのバビロニア・タルムードのことである。

タルムードの内容、ハラハーとハガタ

5.ジェオニム(ゲオニム、ガオン)の時代(640-1038)
六世紀と七世紀はササン朝ペルシャと東ローマ・ビザンチン帝国が戦争を繰り返していた。しかし、628年に平和条約が結ばれたときには双方共に疲弊していた。

 この間隙を縫って登場し始めたのがアラビアの砂漠から興ったイスラム帝国である。

 イスラム教徒の軍隊は周辺諸国とペルシア、ビザンチンと圧倒し、最初のイスラム王国ウマイヤ朝が建てられた。このウマイヤ朝による中東、北アフリカ、イベリア半島の占領によって、中世時代のユダヤ教の統一した特徴の環境的枠組みがもたらされたのである。

 ウマイヤ朝のカリフのもとでユダヤ人は、人頭税と地代さえ払えば文句を言われず、イスラム教徒と同じ「経典の民」としてそれまでアルサシッド朝とササン朝で発展してきたのと同じ自治を認められることとなる。

 捕囚地バビロニアでは、共同体首長「レシ・ガルータ」と、知的活動の長であるスーラなどの学院長、ガオン(複数形はゲオニム、ジェオニム)による二重構造体制が11世紀まで続いた。このガオンは首長達の権威を脅かすほどの存在で、世界中から弟子たちが集まり、タルムードの教えを継承・維持していったのである。

 彼らガオン達の功績は、パレスティナのアモライム達の文学を含むパレスティナの慣用語法を置き換えることによって、バビロニア・タルムードを比類無きものにしたことである。これによって、このバビロンにて作成されたタルムードこそがタルムードだと言うことになり、バビロンの勝利が確定したのである。パレスティナのものはバビロニア・タルムードに従属したものと見なされている。

 しかしこの時期はどうじにタルムードとガオンの権威を一切否定する運動が起こり始めた。彼らは聖書のみを生活における至上の権威としてみなし、書かれていない口伝律法であるタルムードは認めなかった。このはっきりと書かれた律法の言葉に厳しくこだわろうとする態度から「ブネイ・ミクラ(書の子供たち)」とか「カライ派(聖書朗読者達)」と呼ばれるようになった。

 このカライ派の総帥はアナン・ベン・デヴィッドという人である。アナンはタルムードの権威主義に嫌悪感を抱いていた実力者達から反世襲統治者として祭り上げられて、世襲統治者達との対立を招き、紛争へと発展したが、反逆行為とみなしたカリフによって投獄されてしまう。

 カライ派の思想も、聖書の律法のみしか認めないために、食物規定などのさまざまな細かい規定から解放されるという反面、それぞれの社会で勝手に規則を作ってしまうため、小集団の群れに陥るというそれ自体の特性による欠点を持っていた。つねに運動の空中分解の可能性をはらんでいたのである。

 それでもカライ派の運動はシリア、エジプト、南東ヨーロッパに広がり、一時はユダヤ教の主流になる勢いに達した。このカライ派と徹底的に戦ったのが、ガオン中のガオンと言われるサアディア・ベン・ヨーゼフ(892~941)である。スーラの学院長に任命された彼は、ラビによるユダヤ思想、つまりタルムードに対するカライ派(カライト、スクリプチュアリスト)からの攻撃に対して徹底的に論陣を張り、かれら聖書の原典のみを拠り所とする一派を一掃した。

 11世紀以降カライ派は、その個人主義により組織化が妨げられ、人口が減少しつつけ、キリスト教の宗教改革のときに一時注目されたことを除いて、ユダヤ人社会で影響を及ぼす力がなくなった。

 サアディアはまた、ユダヤ=イスラム文化(ジュデオ=イスラム・カルチュア)のパイオニアである。彼はエジプトの生まれであったため、イスラムトタルムードの両方に関する造詣が深く、アラビア語ができた。だからサアディアによる聖書のアラビア語訳と注釈によって、10世紀以降のスペイン・アンダルシアにおけるセファラディム・ユダヤ人たちの文化が花開き、一般大衆への聖書理解が行きわたったのである。

 さらに、ギリシャ哲学とトーラーを融合し、真理に到達する手段として「信仰(啓示)と理性」が両立するものであるということを初めて唱えたことが偉大である。といってもこれはプトレマイオス時代のフィロの影響であろう。しかし、サアディアの思想が後代のモーゼス・マイモニデスに多大な影響を与えたのである。

 この同世代のイスラム哲学者アヴェエロスにも影響を与え、後のマグヌス・アルベルトゥス、トマス・アクィナスによるキリスト教スコラ哲学の源流であるということも言うまでもない。

 ユダヤ教のマイモニデス、イスラム教のアヴェエロス、キリスト教のアクィナスなどはいたるところでその治世と業績を称えられているが、実はそれらの本当の始まりはこのサアディアなのである。

 このサアディアの死後バビロンはトルコの侵入を受けて学問的環境と世襲統治体制が崩壊し、ユダヤ人社会と学問の中心はスペインに移った。スーラの学院も閉鎖された。

 このスペインで15世紀にユダヤ人とムーア人が追放されたときに、アラビア語がスペインで通じなくなり、著作が手に入らなくなってしまったために、後にカイロのゲニザ(シナゴーグの倉庫)で著作の一部が発見されるまでサアディアの思想は忘れ去られてしまう。

 エンサイクロペディア・ブリタニカの「ジュウダイズム」の項で、人物が見出しとなっているのはサアディアだけである。マイモニデスでさえ見出しになっていない。

6.中世ヨーロッパ時代(950-1750)

「セファラディムの発達」

 スペイン・イベリア半島にユダヤ人は少なくともカルタゴ時代には住んでいたといわれる。カルタゴというのはフェニキア人の植民都市であり、ローマがわからの呼び名がハンニバル達の登場したポエニ戦争のあのポエニ=フェニキアである。フェニキア人というのは聖書の時代以前から地中海交易で知られた海の民であり、12氏族のうちフェニキア人の地域に定住したアシェルなどは、フェニキア人と一緒になって消えてしまったといわれている。

 いずれにしろユダヤ人達は捕囚時代にはすでにエジプトからギリシャにいたる地中海東側に多数が定住していたし、最初の離散(ディアスポラ)以降ローマ時代以前には既に地中海一帯に広がっていたことは確かであろう。

 イベリア半島はローマ、スエービー、アラン、バンダル西ゴートなどの所属が相次いで侵入した経緯を持つことから、混血が進み独自の人種形成が進んでいった。

 中世の扉を開く最初の変化は、589年西ゴート王リカルド一世がカトリックを受け入れたことである。これによってそれまで大方平穏に暮らしていたユダヤ社会は迫害を受け始める。

 しかしそれも紀元711年アラブのムスリム達の軍勢による侵入によってひとまず終了する。そして、前ウマイヤ朝の王族であったアブドゥル・ラフマーンが755年コルドバで後ウマイヤ朝を開き、イベリア半島のイスラム王国時代が始まった。

 10世紀、アブドゥル・ラフマーン三世はカリフとして正式にイスラム王国の王となった。彼は学問芸術を保護したため、コルドバはバビロンが衰退した後のユダヤ人の学問の中心となる。
ここからスペインユダヤ人達は宮廷の高官となっていき、学問文芸の黄金時代を謳歌していくことになる。これがセファラディム(セファラディーは単数形)である。セファラディーとはスペインのことである。主にスペイン南部、アンダルシア地方で活躍した。

 ユダヤ人達は(おそらくはエジプトなどから移住した人達であろう)、ギリシア語の著作を多数アラビア語に翻訳し、アラビアの数学、天文学や文学をヨーロッパへ紹介して、アラブとキリスト教徒との橋渡し役となった。

 この時宮廷で最も重んじられた人物がハスダイ・イブン・シャプルートである。彼は宮廷医、通訳、税関長であったが実質的な外交担当者であり、神聖ローマ帝国やビザンチン帝国にも知られるほどの名声があった。

 バビロンのスーラの学院が閉鎖された後、支援を求めた学者達がスペインにやってくる。彼らのタルムードの知識に驚いたハスダイはかれらに金を出し、コルドバに学院を開いて彼らを招聘した。この学院に各地から学者とタルムードが集まって、ユダヤ人の社会緒学問が繁栄していく。

 このハスダイに関してもう一つ特筆しなくてはならないことは、東方のカスピ海と黒海周辺にあったと言われるユダヤ教王国カザール王国の王レオンと書簡を交換していたということである。

 カザール王国はトルコ系遊牧民を起源に持つ人々が建てた国であるといわれている。彼らは当時キリスト教国のビザンチンとイスラム教国の間に挟まれていたため、苦肉の策として双方の信仰に通じるユダヤ教を国教としていた。

 紀元70年のユダヤ戦争以降王国を失っていたユダヤ人としてハスダイは、ユダヤ教国家が存在していたことに無上の喜びと憧れを抱いていたことがこの書簡から見て取れる。ただし彼らはタルムードの存在を知らず、ただトーラーのみを深厚の拠り所としていたらしい。

 この類似性からカライ派の一派ではないかとも取りざたされた。カザール王国に関しては、現代のユダヤ人の素性を見る上で非常に重要な位置を占めているので後に詳しく述べる。

 11世紀初めになると後ウマイヤ朝が没落し始め、内乱と宮廷闘争が始まり、コルドバがベルベル人によって荒らされてしまう。これによってイスラムによるスペインの統一が失われて、中心が北アフリカに移ってしまう。

 このベルベル人の支配する次のイベリアユダヤ文化の中心地グラナダの宮廷に仕え、外務大臣であったのがサムエル・イブン・ナグデラ(993~1055)という人である。

 サムエルはバビロンのゲオニムや北アフリカの学者達と連絡を取り合って、たくさんのレスポンサを残している。これは世界各地に散らばるユダヤ人達が、日常生活で生じる諸問題に対する回答書である。各地の学者達はこうしてユダヤ人の諸問題をタルムードに照らし合わせて戒律上の解釈をし、運用していったのである。サムエルのレスポンサは現存している。

 この11,12世紀にサムエルがユダヤ人文芸家と学者を保護したことで、この時代はユダヤ文学の黄金時代となった。その中で有名な詩人にソロモン・イブン・ガビロルとユダ・ハレビがいる。

 11世紀末、1085年、ヨーロッパ中から集まったキリスト教との軍勢がカスティリア王国の旗を立てて総攻撃を開始し、西ゴートの首都であったトレドからイスラム教とを一掃しようとしたが、逆にベルベル人のアルモラビデス族の反抗にあって半東南部一帯が制圧される。

 12世紀にはこの王国のもとでユダヤ人社会は経済的に安定し、学問の活動が活発になるが、12世紀末のアルモハデス王国になるとユダヤ教の迫害が起こり、カスティリアに難民が流れ込んだ。そして13世紀と14世紀初期にはアルフォンソ九世のような寛容で有能な統治者がカスティリャには続いたため、学問の中心がカスティリャのトレドに移っていく。

 このころ(12世紀末)に活動していたのがツデラのベンヤミンで、ラビでありながら13年に渡ってヨーロッパとアジアを旅してまわり、その回想録が旅行記として編集されて後世に残った。

 そしてこの12世紀末に出てくるもう一人の重要人物がモーゼス・ベン・マイモンつまりモーゼス・マイモニデス(1135~1204)である。マイモニデスはコルドバで生まれたのだが、アルモハデスの襲撃を受けたために、若いころは父親と共に各地を流浪しなければならなかった。

 最終的に彼はエジプトに落ち着き、有名なアイユーブ朝の始祖サラディン(サラーフ・ウッディーン)の大臣アルファデールによって宮廷医として迎えられる。ここで非常に名声を博したようで獅子王リチャード二世からも宮廷医として迎え入れたいという要請があったようだ。

 マイモニデスの神学上の業績は二冊のタルムードの解説と一冊の哲学書である。まずミシュナの解説書である「シラージ」。これは流浪の旅の間にまとめられたもので、ミシュナに対する解説に自分の見解を付け加えている。この中で、ユダヤ教の信仰を十三ヶ条にまとめている。

 2冊目は「ミシュネ・トラー」といい聖書とタルムードの律法の法典を編纂したもので、十四冊に及んでいる。迷宮に似たタルムードの枝葉末節を整理して、タルムードを非常にわかりやすくしたものだといわれている。この中にアリストテレスの論理学を導入した。

 しかしそのわかりやすさと論理の導入によって、保守勢力から「ミシュネ・トラー」がタルムードに取って代わられることを恐れられ、後の反マイモン派運動のきっかけともなった。

 三番目の著作は「モレー・ネブヒム」といい、「途方に暮れた人のための指針」という意味である。これはユダヤ教の哲学的解釈を施した書物で、最も重要な著作である。このなかでマイモニデスはサアディアが発展させた前提、信仰と理性(=合理、理由、疑問、問答)は相容れないものではないという考えを継承したり論を展開した。

 「律法は完全無欠なものであるゆえ、どれも合理的に解釈することが出来る」という仮説を証明するために、聖書の徹底的な合理的解釈を進めた。そして「信仰と理性は同等に真理へ導き、神は理解し崇拝しなければならない。宗教は感情的現象であるのみならず、心の奥底にある迷いに対する答え」という、後のスコラ学の源流である思想を生み出す。

 この意見に対して13,14世紀に「神秘主義」がうまれ、モーゼス・ベン・ナフマン(ナフマニデス、1194~1270)とハスダイ・クレスカス(1340~1410)が「信仰と理性の一致」に対して批判を加えていく。

 ナフマニデスは神秘主義者であり、マイモニデスのことを評価しながらも、「象を針の目から無理矢理通そうとしている」といって弁証法的に聖書を解釈したり、細かすぎることにこだわることを認めなかった。神の意志は人間の貧弱な心では理解できないし、信仰上の真理や奇跡を合理的に説明したり理解することは出来ない。ただ啓示された律法をそのまま受け入れ信じていくことだと、信仰のみを拠り所とする宗教観を示した。

 クレスカスは神に近づけるのは理性によってではなく、愛によってであるとして、初めてアリストテレスの論理学を批判した。
この二人のマイモニデス批判が当時生まれつつあった「カバリスト運動」に大きな影響を与えていった。

(ナフマニデスとクレスカスの間がカバリスト、レオンの「ゾハル」がはいるかどうか?レオンは13世紀の人1250~1304)

 こうしてこの14世紀いっぱいで10世紀から続いたスペインでのユダヤ人の活動の黄金時代が終わるのである。

(副島隆彦記。先週、2007.5.10に、この論文の全体のうちの後半部を、先に第二ぼやき「42」 に載せた。そして今日、前半部のうちの、うしろの部分を「43」として載せた。あと一回で終わります。)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

このページを印刷する