「42」 「ユダヤ人の歴史」 という出典は、私に不詳の、しかし簡潔で優れた欧州ユダヤ人の全歴史を説明した文章を載せます。その後半部を先に載せます。副島隆彦記

  • HOME
  • 「42」 「ユダヤ人の歴史」 という出典は、私に不詳の、しかし簡潔で優れた欧州ユダヤ人の全歴史を説明した文章を載せます。その後半部を先に載せます。副島隆彦記

副島隆彦です。 今日は、2007年5月10日です。

「ユダヤ人とは何か?」を大きく理解しようとして、以下の載せる文章は、優れています。以下の文章は、今から2年ぐらい前に「重たい掲示板」に、鴨川光君が、載せたものです。

それを、わざと、私は、今日、その後半部から先に載せます。
ユーロッパ中世の13世紀ぐらいからの、ユーロッパ・ユダヤ人たちのことからずっと、説明してあるので、分かり易いです。

そうしないと、例の、旧約聖書の「アブラハムのイサクの・・・」と、始まる前半部から、再度、読み始めることは、私にとってもきついことです。ですから、私の判断で、故意に、後半部の「スファラディー(セファラディウム)・ジューの没落と離散(りさん、ディアスポラ)」から載せます。

前半部は、後日載せます。以下の後半部から先に読むと、「ユダヤ人の歴史」がよく分かります。

この論文の出典を、私は知りません。鴨川君が知っているでしょう。私、副島隆彦にとっては、鳥生(とりう、バード)君が、発表した「セソストリス王の話」を使った、私がこれから発表する、「人類の古代文明と古代世界帝国の発生は実は同じだ」論 という、私にとっては、重要な「副島隆彦の世界史の全体像」論にとって必要不可欠なものです。

 以下の論文は、私の理解と学問成果にとって、ユダヤ人の歴史を「世界史の中に正確に、冷酷に混ぜる(組み込む)」ための基本の知識となるものです。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

「ユダヤ人の歴史」 ・・・・・著
の後半部 から

「セファラディーの没落と離散」

 ユダヤ社会に対する圧迫は、14世紀の間に徐々に高まってくるが、1391年のある出来事によって、ユダヤ人のキリスト教への大規模改宗を引き起こすこととなる。この年の聖灰水曜日に、教会の高僧フェランド・マルチネスという人がセビリアで暴動を扇動し、暴徒がユダヤ人を襲撃する。

 強制改宗に従わなかった者数千人が死んだといわれる。この暴動はスペイン南部のアンダルシア地方からコルドバから北部カスティリャのトレド、そしてアラゴンへと広がりスペイン全土を覆った。

 この「改宗かさもなくば死か」という厳しい選択を迫られたユダヤ人達はユダヤ人社会が丸ごと改宗するということが起こった。

 しかしこの多数の改宗者達が改宗によって就くことの出来るようになった新しい地位を利用して、これまで就くことの出来なかった職業分野へ進出していった。それは大学や国政の重要ポスト、教会での高い地位などであったため、貴族達への接近も可能となっていく。

 この新キリスト教と達は富を蓄え、宮廷の高位高官や要職を独占しているとみなされて、一般大衆から妬まれ始める。キリスト教徒からはもちろんのこと同じユダヤ人からもマラーノ(豚)と呼ばれた。

 マラーノ達に対する憎悪は15世紀中頃から高まり始め、トレドやコルドバでマラーノが虐殺されるという事件も起こる。つまり、改宗ユダヤ人達は、改宗したからといってその安全が保障されたわけではない。

 1479年アラゴンのフェルナンド、カスティリャのイザベラが共同統治者となり、スペイン王国が成立する。二人はイベリア半島からイスラム教徒を一掃し、キリスト教国家を作り上げようとしていた。

 二人は1480年スペインに異端審問所開設し、ドミニコ修道会士を審問の監督責任者となる。この審問所はローマ法王らかの許可がなかなか下りなかった。それは裁判を世俗の機関として王権の下に置くことがためらわれたからである。これは裁判権が世俗のものとなったことを表している。

 これ以降ドミニコ修道会は「主の犬(ドニミ・ケイニス)」と呼ばれるほどイスラム教徒やマラーノを見つけ出して、公開火刑(アウトダフェ)を行なっていった。

 異端審問は南部アンダルシア地方にかぎられていたが、1483年アラゴン・カスティリャの支配地全土にに広げられ、執行者としてトルケマーダが大審問官に任命される。トルケマーダはマラーノも疑いのある人物で、改宗ユダヤ人にありがちな徹底さと執拗さでユダヤ人を追い回していった。

 1492年イスラム・ムーア人最後の拠点グラナダ(アンダルシア地方)が落ちると、それまで撤回と延期が繰り返されていたユダヤ人のアンダルシア地方からの一掃が現実のものとなった。
これはトルケマーダが国王に執拗に迫っていた政策であったが、ユダヤ人の追放でスペイン経済が駄目になることを知っていた国王がためらっていたのである。

 しかしグラナダの陥落とユダヤ人財産の没収を行なうことで国王の心が揺れ動いた。1491年に教皇インノケンティウス八世に許可を求めたが、教皇でさえ非人道的な行いであるとして許可を出さなかった。しかし、トルケマーダによって、教皇の許可なく教皇に進められたのである。つまり、スペインのディアスポラはマラーノによって強行されたものであるといえるかもしれない。

 1492年3月31日グラナダのアルハンブラ宮殿から布告が出され、四ヶ月以内の国外退去命令が言い渡された。

「難民の移住先」

 難民の移住先は主に次の通りである。オトマン・トルコ、ナポリ、ベネチア、アフリカ、ナバーラ、ポルトガル、オランダ。
移民はまずナバーラ、アフリカ、ポルトガルに向かったようである。ナバーラは王が異端審問に抵抗していたので、宗教的に寛容であるということが予想された。

 しかし、同じイベリア半島にあるこの国ではフェルディナントの影響力が広がっていたために、宗教選択を迫られ、大多数がマラーノとなったようである。イベリア半島対岸の北アフリカでスルタンは上陸を許したが、生き残ったのはごくわずかであったらしい。生き残ったものは北アフリカで立派な社会を作ることが出来た。

 ポルトガルではお金の額次第で滞在を許されたが、1495年に即位したマヌエル一世はユダヤ人に対して人間的に対処していた。しかし、マヌエルの結婚相手はフェルナンドとイザベルの娘で、結婚条件がポルトガルからユダヤ人とムーア人を追放することだった。そのため、1496年に法令が出されて、一年以内の国外退去が命じられた。

 それでもマヌエルはユダヤ人を手放す経済的損失を考え、出国を妨害するための条件を出したり、ユダヤ人を全員自分の奴隷と宣言したりした。そして、ユダヤ人に改宗を迫り、強制的に洗礼を施したりした。これは苛烈を極めるものであったらしいが、ユダヤ人を守るための人道的な安全保障であったのだろう。

 このころポルトガルに1391年の最初の迫害で逃れていた名門宮廷ユダヤ人がいる。元はカスティリャの大富豪であったのだが、難を逃れてきたエンリケ航海王の時代の開かれたポルトガルで出納長になっていたアブラバネル家である。

 出世頭のイサーク・アブラバネルは聖書注解者でもあり、ポルトガルの財務大臣に上り詰めていたが、ある公爵らの隠謀に連座したためにポルトガルを追われてトレドに逃れた。ここでフェルナンドとイザベラの出納長なる。1492年の完全追放のときはトルケマーダの布告撤回させようとし、王もイサークを手元においておきたかったが、失敗いしてナポリに移住する。ここで、再び啓明王といわれるフェルディナント一世の財務大臣になる。

 しかし、しかし、この後ナポリはフランス・スペイン軍の侵攻を受けて異端審問が始まってしまう。他のイタリア諸国でも1516年ベネチアで初めてゲットーが導入される。教皇領・ローマにも洪水の起こるテベレ河畔の一画にゲットーが作られた。

 オトマン・トルコは1453年にコンスタンチノープルを攻略して小アジアから北アフリカにいたる大帝国となったイスラム国家である。トルコの支配地はそもそも古代からユダヤ人が住んでいた地域であり、人頭税にしか興味のなかったスルタンは伝統的にユダヤ人に寛容であった。だからこのディアスポラでも最も多くのユダヤ人が移住した地域となった。この地にセファラディム風の高い生活様式を持ち込んで、イスラム社会に貢献し、学問も栄えることとなった。

 その中でも有名なユダヤ人がヨセフ・ナシである。もともとはポルトガルのマラーノの出身で、16世紀にポルトガルを追われて、アントワープで銀行業を行なっていた。しかし、カトリックを捨ててコンスタンチノープルに移住しスレイマン二世の宮廷顧問となり重用された人物である。

 そして、オランダである。プロテスタント国であるオランダはすでに16世紀に独立していたが、フェリペ二世治下のスペインの侵攻をたびたび受けていた。ここに、マラーノの異端審問が激しくなっていたセファラディムたちが1593年い初めて上陸した。初めはカトリックと誤解されて、襲撃されたが、マラーノであるということを説明すると定住を認められ、ユダヤ人としての生活が可能となった。

 裕福なセファラディム達はスペインで禁じられていた事業を展開し、資産と人脈を生かして活躍し始める。こうして、アムステルダムはオランダのエルサレムといわれるようになり、多数のユダヤ人達がスペインから移住するようになった。

 この後東インド会社と西インド会社がスペインの通商を打破して、ポルトガルのアジア・アメリカ通商ルートをそのまま引き継いでオランダが世界帝国になっていく。

 このオランダの活躍によってユダヤ人は再びイギリスに入国を認められるようになる。1650年、アムステルダムのラビ、マナセー・ベン・イスラエルはイングランドにいるのマラーノと協力してクロムウェルに再入国許可の嘆願書を出す。これが認められて、1657年、公の宗教活動を禁ずるという一定の条件拘束下での入国が認められた。1290年以来約600年ぶりのことである。

(フランスも三十年戦争の後にアルザスを併合した結果、そこの住民であったユダヤ人が入ったが、ユダヤ人が本当に市民権などを認められるのは近代に入ってからである。イタリア、スペインでもまったく同じことであった。)

「アシュケナージの発達」

 ドイツのユダヤ人社会はライン側沿いに発達した。このラインラントの都市とは、南はストラスブールなどの現在はフランス側に入っている地域から、ドイツ側のシュパイアー、ヴォルムス、マインツ、ボン、ケルンといった古代ローマの植民都市である。ライン川支流のマイン側にはフランクフルトがあり、河口地域はオランダである。

 こうした都市はすべてローマ軍団の基地、要塞、植民地から発達した都市である。ケルンとはコロニーという意味である。ヨセフスの「ユダヤ戦記」によれば、ユダヤ人は70年のユダヤ戦争のころにはローマ帝国中に広がっていたという。70年の戦争のときも多くの女性と子供がローマ帝国全土に奴隷として売られていったらしい。

 ヴォルムスの伝説によれば、エルサレムの包囲戦で戦功を立てた兵士が褒美としてユダヤ人の娘をヴォルムスへ連れ帰り、彼女たちに産ませた子供を彼女たちの希望どうりユダヤ人として育てたのだという。

 記述資料によって裏付けられる最古のユダヤ人団体(ゲマインデ)はケルンに存在した。321年にコンスタンチヌス帝が参事会員宛てに送った勅令の中で、ユダヤ人をケルンに住まわせることを書き送っている。彼らは奴隷だけではなく、商人、職人、農民であったらしい。

 いずれにせよこの時期にユダヤ人は既にラインラントに住んでいたらしい。八世紀、現在のフランスとドイツにカロリング朝(8~10世紀)が興り、ローマ時代の自治制度が再び敷かれると、イタリアからフランスとラインラントにユダヤ商人とラビ達が移ってきた。これによって、ユダヤ人共同体に新しい活力がもたらされることとなった。

 カール大帝(在位768~814)は「経典の民」という理由でユダヤ人とユダヤ教を保護した。これは父親のピピン(パパン)がイスラム教徒との戦争のときにユダヤ人から武器供与があったことも関係しているのだろう。以降ディアスポラネットワークを利用した東西貿易に長けた保護され、「商人」と同義語であったという。

 カール大帝のとき、イザアクというユダヤ人が通商交渉役としてバグダッドのカリフ、ハールーン・アッラシードのところまで派遣されている。彼はコルドバで後ウマイヤ朝を開いた人物であるから、このころからセファラディム系ユダヤ人とのつながりを示唆するものである。

 こうして11世紀になると、このフランスとドイツにまたがるライン河諸都市(ストラスブール、シュパイアー、ヴォルムス、マインツなど)では大きなユダヤ人社会がすでに成立しており、平和な時代が続いていた。ここでこの時期タルムード研究が進み、ゲルショムとラシという重要な学者が出てくる。

 ゲルショム・ベン・ユダ(960~1040)はマインツで活動し、寛容なユダヤ教の解釈を施した。それはキリスト教へ強制的に改宗されたものに対する厳しい掟を緩和したことである。キリスト教からユダヤ教へ戻った人々に対してもユダヤ人社会が受け入れることを勧告した。彼もまたタルムードの複雑な中味を解釈し、ヨーロッパの神学界における最高権威としてみとめられた。

 彼の没年と同じ年に生まれたのがソロモン・ベン・イサーク(1040~1105)である。ヘブライ語の頭文字を取って通称ラシと呼ばれている。

 彼はフランスのトロワで人生の大半を聖書の注解ですごした。彼の注解はユダヤ史上どの注解者よりも一般化に成功したもので、ラシの研究がなければタルムードはアクセス不能の文献になっていたという。注解の多くはヘブライ語を使ったフランス語で書かれている。さらに彼の聖書研究はタルムードの一部に組み込まれることとなり、現在でもそれが読まれている。(ページの右側がラシの注解)

 ラシの仕事は義理の息子達によって引き継がれた。彼らをトサフィストという。ラシの研究は、後のルターの宗教改革に間接的に寄与していくこととなる。

 しかし、11世紀末、1096年に第一次十字軍が始まる。ウィリアム・ザ・カーペンターに率いられた一団はその年の四月にライン川を北上し始め、フランス側流域を通過した後、ロレーヌ、メッツ(メス)でユダヤ人の殺害を始めた。ライン川沿いの古くからユダヤ人居住地がある都市は南からシュパイアー、ヴォルムス、マインツである。

 五月、十字軍はシュパイヤーに入るが、キリスト教の司教の保護によって大きな被害は起きなかった。その後暴徒となった十字軍はヴォルムスに入り、司教館を襲ってそこにかくまわれていたユダヤ人達を殺戮した。最後にマインツに入るとそこで1300名のユダヤ人を殺害したといわれている。この集団はその後方向をプラハへ向け、その後ハンガリーに向かったとされている。

12,13世紀は、十字軍に引き続いて、ユダヤ人にとって好ましからざる騒然とした世の中となる。(12世紀は、第二回、三回の十字軍以外わからない。)

 13世紀になると、インノケンティウス三世が登場する。かれは、ローマ教皇庁を最高権威として位置づけ、王や領主、皇帝の上に立つ権力を振るった。ユダヤ人に対しては、1205年、寛容なカスティリャのアルフォンソ王に宮廷でユダヤ人を重用しないようにと圧力をかけたり、自由なユダヤ人社会のあった南フランスのプロヴァンスに対しても、シトー修道会のシモン・ド・モンフォールに命じて異端征伐をやらせた。

 しかし、インノケンティウスの行為で一番重要なのは、1215年の第四ラテラノ公会議での決定である。十字軍に参加した兵士達がユダヤ人から借りた謝金の金利を免除することや、ユダヤ人にトンガリ帽子や星印などの識別用の記章を義務づけたことである。これによってキリスト教徒に対するユダヤ人の影響を極力排除しようとした。

 ユダヤ人に対する正式な国外への完全追放は、この世紀イングランドで初めて行われたのである。イングランドのユダヤ人達は1066年のノルマン・コンクウェストの時にウィリアム一世が連れてきたという。ここでもユダヤ人はその資本を必要とされて重要な地位を占めていた。しかし、1200年代にはイングランドとイタリアの金融業者の勢いが高まっていた。

 13世紀の大半がその在位期間であったヘンリー三世(1216~72)はユダヤ人財産の三分の一を税として没収し、その一方でドミニコ会修道士達を使って、ユダヤ人が「儀式殺人」の行為に及んでいると煽り立てた。

 「儀式殺人」とは要するに「子供殺し」である。ユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐してきて、「過越祭」などの儀式にその生き血を使用するといったものである。この中傷もイングランドではじめて起こった。

 こうした迫害が加えられた後、1272年、エドワード一世が即位して、1275年に「ユダヤ教法」を制定し、ユダヤ人の唯一の生活手段であった金貸し業を全面的に禁止する。最後に1290年、ユダヤ人達に数ヶ月の猶予だけを残して国外退去を命じた「ユダヤ人追放令」が出され、ユダヤ人達はフランスやフランドル(フランダース、ベルギー)へ追い出される。

 次の14世紀はフランスからの全面追放である。フランスでは1242(44年?)年にルイ九世よってタルムードの焚書などが起こり、その後200年にわたってたびたび焚書事件が起こっている。ただこのタルムード焚書という行為は元々はキリスト教に改宗したユダヤ人ニコラス・ドニンによって行なわれたものである。

 1306年にユダヤ人達は国王フィリップ四世によって財産を没収されて国外退去を命じられるが、この時点では多額のお金を払えば再入国を許されている。

 完全追放は1394年9月17日に追放令がシャルル六世によって出され、近代にいたるまでユダヤ人が存在しないとされる国となる。(このユダヤ人達がどこへいったのか不明である。おそらくスペイン、ラインラント、ナポリか?)

 こうして、フランス、イギリスではユダヤ人がいなくなるのだが、ドイツではユダヤ人の全面的追放は行われなかった。その理由は次の経緯からである。

 14世紀中期、ヨーロッパ全土で黒死病つまりペストが流行する。ヨーロッパ人口の4分の1だとか3分の1といわれるほどの死者を出す猛威を振るったようである。この時にペストをばら撒いたのはユダヤ人であるという噂、デマが広まる。噂はユダヤ人が井戸に毒を入れたといったものまであった。こうした噂が広まったために、ドイツ・オーストリア各地でユダヤ人の虐殺、迫害が起こり、ユダヤ人社会が破壊されてしまう。

 ドイツではこの時期ユダヤ人がキリストの体を表すパンを盗んだり臼などで砕いたりするという「聖体冒涜」を行なっているという噂が広まり、ユダヤ人が虐殺されるということもあった。
十字軍と黒死病などに端を発するユダヤ人迫害はドイツのユダヤ人に、後世大きな影響を与える重大な結果をもたらすことになる。

 カール四世は1356年「金印勅書」を発令し、選帝侯たちに支配地のユダヤ人の所有権を認めることとなる。ただし、13世紀前半に既に、フリードリッヒ二世(啓明王)は、全ドイツのユダヤ人が直接ドイツの国庫(カイザリッヘ・カンマー)に属することを主張しているし、そもそもドイツ皇帝も早くからユダヤ人を「自分個人の財産(アイゲントゥーム)」「国庫の下僕(カンマークネヒト)」と呼んで、保護の代償にさまざまな納税義務を負わせていた。

 14世紀にすでに、十字軍の結果、神聖ローマ皇帝は多額の金銭的見返りと引き換えにユダヤ人を保護し始めていた。これが習慣化してユダヤ人の隷属状態が始まるのだが、ユダヤ人を「王の動産(セルビ・カメラ)」として実質的にユダヤ人の安全を保障したのである。

 しかし実際は、ユダヤ人に対する徴税権を担保にして選帝侯や皇帝選挙の鍵を握るものに借金をし、借金のかたに徴税権を債権者に譲渡していた。カール四世の勅書は、借金の清算と引き換えに、黒死病に由来する迫害からのユダヤ人の安全保障を諸侯に負わせたのだということになる。これによって、14世紀に皇帝の権力が揺らぎ出し、ユダヤ人の支配権は諸侯や領主の手に移っていったのだ。

 こうして15世紀後半にもなるとドイツではユダヤ人を市の一定の地区に強制的に住まわせることが行われ、ゲットーが設けられていくこととなる。ゲットーという言葉の由来は諸説あるようで、ヘブライ語の「隔離」という意味の単語がゲットghetというからだとするものや、一番振るいベニスのゲットーが鋳造所(イタリア語でゲットというらしい)の側にあったからだという説などがある。

 ヨーロッパにはローマ、ベニス、プラハなどに有名なゲットーがあったといわれているが、最も典型的なのが1432年に建設が計画されたフランクフルトのものであった。それまでは通商上有利な市の繁華街に住んでいたユダヤ人は、市の中心部から離れた旧シュタウフェン王朝時代の城壁の外側に作られたゲットーに移されるのを相当嫌がり、強制移住が実施されるまで長い期間がかかったようである。

 強制移住が実施されたのは1460年で、16世紀にはフランクフルト・アム・マイン(マイン河畔にあるフランクフルト)評議会の条例「ユーデン・シュタッティカイト(容認できるユダヤ人の居住法)」が施行され、ゲットーの時代が始まる。しかし、ドイツではユダヤ人が一定の規制の下に定住できるという事実には変わりなく、16世紀以降ゲットーの人口は急増していった。
そして皮肉なことに、このゲットーがユダヤ人の現代にいたる経済的な地位の基盤を作ることになる。

 このユダヤ人達が金融行を営むと同時に、15世紀末からの大航海時代と重商主義の流れに乗ってヨーロッパからオスマントルコに散らばっていたユダヤネットワークを活かして広域商取引に乗り出した。これが19世紀から現在に至る国際金融システムの端緒なのである。

 16世紀南ドイツ、アウグスブルグのフッガー家がローマ教皇や諸侯に対して宮廷貸し付けを開始したが、これが宮廷ユダヤ人(ホフユーデン)を生み出すことになる。この宮廷ユダヤ人はゲットーとのつながりを密接に持ち、あるいはそこに実際に居住しつつ、宮廷の財務大臣の役割を果たした人々である。ヴェルナー・ゾンバルトは1911年に出版された「ユダヤ人と経済生活」において、資本主義への道はゲットーから始まるという仮説を述べたが、それはゲットーには彼ら宮廷ユダヤ人がいたからである。

 宮廷ユダヤ人は17世紀、三十年戦争で活躍し、彼らの宮廷での役どころは、戦費と軍需物資の調達、国家財政の顧問と資金提供、そして貨幣の鋳造であった。

 ユダヤ人がなぜ資本主義を作れたか、それは数百年を経て作られていったタルムードの律法に鍵がある。タルムードも聖書も共に高利貸しを禁じているし、タルムードは高利貸しを人殺しにまでたとえているという。

 しかしそれも同じユダヤ人までであって、律法に縛られていない異教徒すなわちキリスト教徒に対してはそうした禁止がなくなる。律法を守るとはそうした二分法的な割り切り方なのである。明記、規定されていないものにまでは律法の範囲は及ばない。
金貸しの仕事とは債権の回収である。債権さえ回収できれば誰からでもいい。しかし、中世までの債務はそれを負った個人本人のものであって、第三者に売ることは出来ないということになっていた。少なくともこうした債券売買はこのころまでは奇怪で邪悪な方法と思われていたのである。

 しかし、そのような信用と流通証券に基づいた商取引をユダヤ人が作ることが出来たのは、タルムードが、非個人的な信用制度を認めつつ、負債は支払いを要求するものに支払われなければならないと規定していたからであるという。つまり債権を保持するものは誰であってもよく、債権の売り買いが出来るということなのである。

 当然その債権は回収が保障されている相手に対するものが最もいい。それは国の主権者(ソーヴリィンティ)つまり、王、領主、司教そして皇帝である。彼らは徴税権を持っているから、領民がいる限り無限にお金を支払えるからである。さらにその徴税権を担保に取れば、自らが税金を徴収、あるいはそれを売り買いすることが出来るのである。土地所有を禁じられたために土地に縛られていないだけ、そうした割り切った行いが可能である。最悪の場合債権を放棄して、あるいは売って逃げればいいだけなのである。

 神聖ローマ皇帝の場合「金印勅令」によってその権利(この場合領内のユダヤ人に対する徴税権)を諸侯に売り渡してしまっている。次に諸侯はその徴税権を誰に売るのであろうか?次はユダヤ人に対する徴税権をユダヤ人に売るしかないのである。つまり、税金の免除、優遇である。ユダヤ人はこれを利用してこの債権を他の事業で運用すればいいのである。この状況が1618年にドイツを中心として始まった三十年戦争の後から始まっていったのである。

「宮廷ユダヤ人列伝」

 三十年戦争以降神聖ローマ帝国内の200にのぼる主要な大公国、公国、領主領のほとんどが宮廷ユダヤ人を抱えていた。以下はその宮廷ユダヤ人列伝である。宮廷ユダヤ人とはドイツ、オーストリア、ボヘミア諸宮廷でのユダヤ人、ホフユーデンのことである。スペインなどにいたアブラバネルらはこの流れにいる人々ではないセファラディムなので除外している。

 ロスハイムのヨスル(1476~1554) -カトリック的な王シャルル五世の宮廷ユダヤ人。ヤーコブ・パッセヴィ(1580~1634)-実質的な最初の宮廷ユダヤ人。三十年戦争時のハプスブルグ家の宮廷ユダヤ人。カトリック側に立ったヴァレンシュタインが、皇帝フェルディナンド二世に用意した傭兵部隊の財源を提供した。フォン・トロイエンベルクという貴族の称号を受けた。

 ザムエル・オッペンハイマー(1635~1703) -神聖ローマ皇帝への軍事力補給者 サムソン・ヴェルトゥハイマー(1658~1724) -オーストリアの財務官。戦費調達者。ハンガリー・モラヴィアの主席ラビ。

ベーレント・レーマン(1661~1730) -ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人 ヨーセフ・ジュース・オッペンハイマー(1698~1738) -ヴュルテンブルグのカール一世(カール・アレクサンドル)の大蔵大臣。貴族の特権を奪って憎しみを買い、絞首刑となる。

レーブ・ジンツァイム(?~1744?) -マインツ宮廷のユダヤ人。イスラエル・ヤコブソン(1768~1828) -ブラウンシュヴァイクの宮廷ユダヤ人、宗教改革者

ヴォルフ・ブライデンバッハ(1751~1829) -ヘッセン選帝侯の仲買人(factor to the Elector of Hesse) アーロン・エリアス・ゼーリッヒマン -バイエルン王国の筆頭宮廷ユダヤ人。国王の税収入を担保にとって国王に貸しつける。

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド- 1555年アウグスブルグの宗教和議、17世紀からM・A・ロスチャイルド(18世紀後半に活躍、1740年生まれ)まで(ここにアーサー・ケストラーを持ってきて対照させるかな?)

「近代のユダヤ人 Modern Judaism」

 バール・シェムトブ、ビルナのガオン・エリア、モーゼス・メンデルスゾーン 三十年戦争、ハスカラ運動、啓蒙主義、改革派と正統派、フランス革命、ロスチャイルド シオニズム、アメリカのユダヤ人

(別枠)アメリカのユダヤ移民 5回にわたるユダヤ系移民(1.セファラディー 2.ドイツ系ユダヤ人 3.アシュケナージ 4.ナチス難民 5.戦後の移民)

「カザール王国とアシュケナージ」 アーサー・ケストラー

 トルコ系遊牧民とされるカザール人の独立王国。カザール人がユダヤ教に改宗し、後に東ヨーロッパに移住するまで。アシュケナージはこの人々である。ドイツのユダヤ人はアシュケナージとはまったく別の人々である。

 アーサー・ケストラー「ユダヤ第十三氏族」を詳述する。これによれば、カザール人はノアの子セムの子孫ではなく、ヤペテの子孫である。ヤペテは白人種の祖先とされる。(さらにヤペテの子孫トガルマだという)

「ユダヤ・コネクション」リリアンソール
バルフォア宣言に始まるパレスティナ問題とシオニズム運動

注)資料

歴史資料
1.聖書の正典の中での歴史資料

 「救済史」(モーゼ五書-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、あるいはこれにヨシュア記を足して六書)
-歴史的な記録を残すという鮮明な意図はなかったので、五書をそのまま資料にしてただちに歴史を再構成するということは困難。5つのテーマ「族長への約束」「エジプトからの導き出し」「荒野の導き」「シナイでの啓示」「約束の土地取得」

「ダビデ台頭史」(サムエル記上16・14からサムエル記下5・25) 「ダビデ王位継承史」(サムエル記下9から20章、列王記上1から2章)

-この2つは紀元前5世紀のヘロドトスよりも500年古い

「申命記的歴史」(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)
-捕囚時代の一歴史化によってまとめられたという説。イスラエルのカナン侵入からイスラエル王国滅亡までの歴史。年代記ではなく、因果関係によって記述されている。

「歴代史家の歴史作品」(歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記)
-申命記的歴史作品を主要な資料として扱った、祭司的な立場から編集されたもの。歴史資料としての価値は申命記よりも低い。捕囚後の時代の資料は独自の資料を使っている。

2.聖書外典での歴史資料

「マカバイ記上下」
-前2世紀のマカバイの戦い記。
「ユダヤ古代史」「ユダヤ戦記」(ヨセフス作)
-紀元前1世紀から、紀元73年のエルサレム陥落までの歴史情報としてはかなり正確なものとされている。

歴史以外の資料

1.正典-「五書、預言者、詩篇、知恵文学」
三度にわたる編纂作業 1.ユダ王国12代アハズ王のとき。

2.ユダ王国16代ヨシュア王の時。神殿から五書が見つかる。
3.捕囚期の書記エズラによる編纂。4.タンナイム、ヨハナン・ベン・ザッカイによって正典化される

2.外典-「70人訳聖書(セプトゥアギンタ)、ヨセフス、黙示文学、パピルス・スクロール」

3.その他-「アマルナ文書」「象牙文書(エレファンティネ・スクロール)」、さまざまな碑文-シャルマナサルにひれ伏すイエフ、モアブ王メシャの碑文(アハブに対するメシャの勝利)など

「忍の聖書研究解読室」http://elbaal.hp.infoseek.co.jp/index.html#contents
UBIKというサイトhttp://www.tamano.or.jp/usr/ubik/ubik/index.htm

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

このページを印刷する