「35」 「数学の公理(アクシアム)は全て仮説(ハイポセシス)である」を説いた小室直樹先生のデジタル文章を、ここにも載せておきます。

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副島隆彦です。 今日は、2007年3月9日です。

 私は、先日、インド、ネパールの旅から帰ってきましたが、旅の間もずっと、「数学者のロバチェチェフスキーが発見した、上記の理論」を考えていました。そのことを詳しく説明している小室直樹先生の本と、もう一冊「天皇の原理」(文藝春秋、1993年)の中の仏教の記述を考えていました。それで、インドまでいって仏陀(ぶっだ、ゴータマ・シッダルダ)その人の足跡をたどったのです。 勉強になりました。

 以下に載せるのは、私たちの「会員専用掲示板」に、横山君が投稿してくれた優れた文の中の、小室直樹著『超常識の方法』の中の、「数学とは何か」を論究した部分です。この文は、ものすごく重要です。私は、これまでに何十度も読み直して、今もあれこれ考えています。

ですから、横山君が、デジタル文章にして、会員専用掲示板に載せてくれていましたので、ここに再録します。

横山君のほかにも、会員の坂井君と長津君と、茂木君と、高野君らが、私の11月4日講演に触発されて、優れた数学論を書いてくれています。ですから、会員専用掲示板の昨年の11月、12月ごろに載っている数学論の数々も「過去ログ」から検索して、どうぞお読みください。  副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

(小室直樹『超常識の方法』[1] pp.161-167 より引用開始)

「非ユークリッド幾何学――否定からの出発」

題4章

  科学における「仮定」の意味――近代科学の方法論を決定し  た 大発見

(2) 近代科学の基本となった発想法――なぜすべては仮説にすぎないのか

<公理の概念を根底から変えた非ユークリッド幾何学>

 近代数学の濫觴〔らんしよう〕がギリシャ時代にあったというのは前述したが、ギリシャ数学と近代数学との根本的違いは、公理をどう考えるかにある。

 すなわち、ギリシャ数学では、公理は自明なものと考えられていたのに対し、近代数学においては、「公理は仮説だ」と考えられるようになったのである。

 このように、ロパチェフスキーの数学という学問における功績は、非ユークリッド幾何学の体系を作ったこともさることながら、公理は仮説であるということを見いだしたことにこそある、と言ってよい。

 公理が仮説だとすれば、ある一つの公理系〔アクシオム・システム〕(公理のあつまり)を置けば、その公理系に従って一つの数学が出来上がるし、また別な公理系を置けば、別な数学が出来上がるということになる。

 先ほどの平行線の公理で言えば、平行線の公理を仮定すればユークリッド幾何学が出来上がり、一直線外の一点を通ってその直線に平行な直線は一本とは限らないという仮説を置けば、非ユークリッド幾何学が出来上がるということなのである。

 ただし、平行線の公理と、平行線は一本とは限らないという公理とは、互いに相矛盾するのだから、もちろん、両方を一度に仮定するというわけにはいかない。

 つまり、いくつかの命題が公理になり得るためには資格が二つある。一つは互いに矛盾しないという「無矛盾性」であり、もう一つは、ある公理は他の公理からは絶対に導かれないという「独立性」である。言い換えれば、「無矛盾性」と「独立性」があって初めて〝公理〟と見なされるのであり、そこから一つの数学が生まれ得る。

 こうした考え方から発して、幾何学に限らず、代数においても解析学においても、すべて公理主義の体系〔システム〕がとられることとなり、現代のようなきわめて洗練された形の数学としてまとめあげられたのだ。

 そして、さらに重要なのは、他の学問においても、数学をお手本として公理主義的な方法を採るようになったということである。

 たとえば、物理学の場合でいえば、ニュートン力学の第二法則、第三法則が、いわばユークリッドの公理に当たる。また、現代に至ってアインシュタインの相対性理論が出てくるのだが、これはニュートンの公理よりももっと一般的な公理を立てて、ニュートン力学をその部分的ケースとして含むように作りあげたものなのである。

 ところで、ここで改めて、方法論的にいって公理主義的な考え方が、どういう意味で重要なのかと考えてみると、公理主義のおかげで、学問とはすべて仮説であるという考え方が徹底したことが挙げられる。

 公理主義の考えが出現する以前においては、実体主義的に、〝そこに真理がある〟というのが大前提であって、それを発見することが学問であった。

 たとえば、数学の場合でも、神様か誰かが、そこいらに産み落としておいてくれた真理を発見するのが、数学者の務めであった。

 ところが、現代では、数学とは数学者が作るものであると考えられている。つまり、数学者が、まず私はこれこれの公理を要請します、とやって、そうするとこれこれしかじかの定理が証明されます、とやるわけだ。

 つまり、ギリシャの昔と現代では、方法論的な意味では、一八○度の大転回が行なわれたと言わねばなるまい。

 こうした方法論は、他の自然科学や社会科学においてもまったく同じことで、科学は、科学者が仮説を要請するところから始まる、とされるようになった。

 この仮説とは、方法論的には公理と同じものであるから、そこから論理的に導き出された科学的知識とは、実体的、絶対的なものではない。あくまで科学者が要請した仮説のうえに成り立つ、仮の知識でしかないわけである。

<なぜ、科学だけは無限の進歩が可能なのか>

 では、数学とほかの科学に方法論的な違いがないのかというと、そうではなく、大きく違う点が一つある。それは、数学では公理を実証する必要がないのに対して、ほかの科学のほうは、仮説を実証してみて、その仮説に現実的妥当性があるかどうかを検証することが、まず必要になってくるのである。

 たとえば、数学の場合でいえぱ〝一直線外の一点を通ってそれに平行な直線は無限にたくさんある〟という公理をある学者が要請した場合に、「じゃあ、お前、それをグラフに描いてみろ! 何だ描けないじゃないか、じゃあインチキだ」などという議論は成り立たない。数学の公理は要請すればそれでおしまいで、実証する必要はないのである。

 だが、数学以外の科学の仮説のほうは、いくら論理的に筋が通っていたとしても、実証してみて駄目だったら、仮説として認められない。

 たとえば、ニュートン力学を例に採っても、ニュートン力学の第二法則、第三法則から「エネルギーの法則」とか「落体の法則」とかが引き出せるわけだが、引き出しただけでは十分ではなく、本当にそうなるのかを必ず実験してみなくてはいけない。実験してみて正しいことがわかって初めて、仮説として認められることになるわけだ。

 では、こうした科学的知識とはまったく正反対なものに何があるのかといえば、その代表は神学的知識だろう。神学的知識とは、本来、神の言ったものなのだから、絶対的なものであり、その現実的妥当性を実証するなどとは、とんでもない涜神〔とくしん〕行為だということになる。

 哲学的知識というのも、科学哲学などという言葉もあるが、大部分は科学的ではない知識だといえる。さらにまた、常識とか迷信的知識、道徳律などといったものも、とうてい科学的とはいえない。

 それでは、科学的知識と、それ以外の知識との根本的な違いは何か。それは、科学的知識に限っては、公理主義によって出現したものなのだから、その知識がどんな仮定によって出てきたものかがわかることである。

 さらに言えぱ、仮説が違えぱ別のことが成り立つということである。また、科学においては、実証をしなければならないから、どこまでが科学で研究されており、どこから先はまだ未知なのかという境界がはっきりしている。つまり、知識に対して、それが生まれた条件、そして、その限界が明らかにされているわけである。

 それから、科学的知識だけに見られる第二の特徴には、その探求において分業が可能であり、違った人間同士でも協力できることがある。何しろ、どこまでがわかっていて、どこから先がわからないかがはっきりしているのだから、当然、複数の協力ができる。したがって、知識の積み重ねができるのだから、無限の進歩も不可能ではない。

 まとめると、科学においては、わかっているかいないかの境界がはっきりしており、しかも方法が確定しているから、分業ができる。分業ができれば、皆の協力によって積み重ねができ、積み重ねができるから進歩もできる。

 この点は、科学的知識だけが持っている特性であり、他の知識はそういう特性を持つ場合も、持たない場合もある。つまり、進歩する場合も退歩する場合もあり得るわけである。

 宗教的知識を例に採ると、キリスト教の場合には、キリストが最高で、あとはだんだん退化してきたのかもしれないし、儒教の場合だって、孔子が最高で、あとは退化しているのかもしれない。

 常識にしても同様で、常識人の手本のような父親が死んだ時に、息子がその父親の常識を継承できるかといえば、そんなことはあり得ない。哲学や芸術における知識についても然〔しか〕り。

 人間が係わりあっているいろいろな分野について、宗教はどうだ、芸術はどうだ、哲学はどうだ、道徳はどうだ、という具合に見ていくと、現代社会において、昔に比べてかえって退歩している面がたくさん見つかるのではなかろうか。

 しかし、科学的知識だけに関しては、進歩のスピードに速い遅いはあるにしても、また、一時的に立ち止まったことがあったにしても、けっして退歩することだけはなく、着実に進歩を続けてきたのである。

<科学の本質は〝研究方法〟にこそある>

 さて、こうして考えると、科学であるかないかのけじめは、研究対象にあるのではなく、方法にあるということがわかるはずである。

 最初に、まず一つの仮説を立てる。そして、その仮説を実証する。実証してみて、もちろん完全に証明される場合もあるわけだが、大抵は、いやそうじゃない、もっといい仮説がありそうだということになって、また、よりよい仮説を立て直す。また、それを実証する、またよりよい仮説を立てる。そんなチェーンがどこまでも続くことになり、これが、つまり科学の方法であり、この方法で研究するなら、たとえ研究対象が何であっても、科学といえるのである。

(小室直樹『超常識の方法』[1] pp.161-167 から引用終了)

小室直樹.超常識の方法 頭のゴミが取れる数学発想の使い方 祥伝社 1981/09.216p (ISBN 4396101937)

 『超常識の方法』は,2005年4月に『数学を使わない数学の講義』として改題改訂され,ワック出版から出版されている。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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