「31」 「分かりやすい日本仏教史」の第4回、5回、6回を載せます。これで終わりです。副島隆彦
副島隆彦です。 さらに続けて、第4回、第5回、第6回(これで終了)を載せます。
私たちが、これまで読んできた日本の歴史の本は、僧侶たちの目からみたものではなかった。僧侶の目からみた日本の権力者たちや体制の作り方、というものの本当の姿を、横山老師の文から知って、私は本当のことをたくさん知りました。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
わかりやすい日本仏教史④
室町時代から安土桃山時代の仏教
[大法輪誌平成十八年三月号カルチャー講座掲載]
鎌倉幕府が滅ぶと、建武の新政を経て室町幕府が起こり、応仁の乱の後、戦国時代が到来します。そして、やがて信長秀吉の時代を迎える戦乱の世に、仏教がどのように時代に関わったのか見てまいりましょう。
● 建武の新政
天皇制の歴史の中で稀な天皇親政を実現した後醍醐天皇(在位一三一八ー一三三九)は、地方武士のほか天台真言や興福寺などの寺院勢力をも味方に付けていました。中でも真言僧文観(一二七八ー一三五七)は後醍醐天皇の帰依を受けて醍醐寺座主となり、鎌倉幕府倒幕を祈祷。後醍醐天皇は倒幕を果たし、新政を実現します。
しかし京都の治安は乱れて政治は混乱し、足利尊氏が兵を挙げて光明天皇を擁立すると、三年足らずで新政は崩壊。後醍醐天皇は逃れて行宮を営み、吉野と京都に朝廷が両立し、全国の武士も両勢力に別れて抗争が続く南北朝時代となります。文観は側近の一人として吉野や河内にも随行し、南朝復興に尽力しました。
● 室町幕府と臨済p> 京都に幕府を開いた尊氏は、鎌倉幕府滅亡や南北朝の動乱で死んだ人々の怨霊を何よりも恐れていました。そこで帰依していた臨済宗南禅寺の夢窓疎石(一二七五ー一三五一)に勧められ、諸国に安国寺と利生塔を建立。敵味方一切の霊を弔う怨親平等の精神に基づく鎮魂を祈らせ、後醍醐天皇追悼のため京都に総安国寺として天竜寺を建立します。「安国寺」は既存の禅刹を安国寺と認定し、「利生塔」は真言天台律などの旧仏教寺院により新たに建立されました。
幕府は、一三四二年南宋の官寺に倣い「五山十刹の制」を定めます。南禅寺を五山の上に置き、五山の下に十刹やその他末寺が定められました。天竜寺、相国寺、建仁寺など権勢上五山と格付けされた臨済宗寺院では、五山文学と言われる自らの修養の境涯を漢詩に表現する漢詩文や儒学などの研究が盛んでした。
夢窓門下の春屋妙葩は、三代将軍義満によって禅宗寺院僧侶を管理する「僧録」に初めて任ぜられ、諸禅寺の住職任免、所領寄進などの行政的権力を与えられます。義満は京都と鎌倉にそれぞれ五山を定め、臨済宗は室町幕府の官寺と化し、大勢力を築きました。
● 室町文化と時p> 臨済禅の宗風は文学だけでなく、書画や印刷、建築、彫刻、造園術なども明からもたらします。
枯淡の美を追究する水墨画が流行し雪舟など山水画に卓越した禅僧が現れ、苔寺で有名な西芳寺庭園などこの山水画の趣向をいれた禅宗庭園が夢窓らによって造営されます。枯山水・竜安寺の石庭も室町時代後期に築庭されたものでした。
また、八代将軍義政によって、鹿苑寺銀閣など後の住宅建築の原型となる書院造りが発達します。茶の湯も、義政が書院の茶として禅の精神を茶に取り入れ始めたもので、侘び茶として町衆や公家・武家に広まり、後に千利休が登場し大成します。
時宗(じしゅう)は、遊行回国を行う一方、各地に道場を設けて信徒を組織し、農民や在地小武士らにも教えが広まります。
また、従軍して負傷者を看取り、戦没者を弔う陣僧としての役割を担い、軍旅を慰める興を催す活動から阿弥衆として芸能文化の創造に関わることとなります。猿楽師観阿弥・世阿弥の父子は時宗の徒と伝えられ、将軍家の庇護のもとに能を大成しました。
●曹洞宗の発展
幕府公認の臨済禅は次第に一般武士や商工業者などとの関係が薄れたのに比べ、曹洞宗は、時代に相応した浄土教や真言などとの兼修禅を唱えることによって民衆に禅を広め、発展します。
瑩山紹瑾(一二六八ー一三二五)が出て、北陸に教勢を張り、能登の諸寺を禅院に改め、また後醍醐天皇の「十種勅問」に奉答して帰依を受け、総持寺に勅額を賜って永平寺と並ぶ根本道場としました。
室町時代後半、戦国の世になると臨済禅の間隙をぬって教線を拡大し、各地地頭、領主など武士を支持者にして全国に広まりました。
●浄土宗の発展
法然歿後二十あまりの流派に分かれていた浄土宗では、法然の弟子で、平生の多念の念仏を重んじる弁長の流派から聖冏(一三四一ー一四二〇)が出て、浄土宗の教義を大成。独立した一教団としての基礎を築きます。関東地方へ布教して信徒を獲得し教団を拡張しました。
弟子の聖聡は常陸や千葉の領主の保護を獲得し、江戸に増上寺を建立。浄土宗寺院は全国の在地領主たる武士団の援助のもとに建立され、菩提寺として発展していきます。
また、皇室の浄土宗への信仰は非常に篤く、浄土教に深い知識のある僧侶に帰依して教えを受けています。清浄華院等煕は、一四六二年国師号を後花園天皇から賜り、一四六九年には知恩寺の法誉が朝廷の命令で天下泰平・国家安全・宝祚長久を祈祷しています。
●応仁の乱と一向一揆
一三九二年、義満の時代に南北朝の和議が交わされ、後亀山天皇が京都大覚寺に入り南朝が解消。これによって武家の分裂は収まります。
しかし、八代義政の後嗣争いから応仁の乱(一四六七~一四七七)が起こると、京都から各地へ戦乱が広がりました。京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退していきました。そして、和議成立後も幕府は有名無実の存在となり、ついに群雄割拠の戦国時代が訪れます。
親鸞亡き後、有力教団が三派に分かれた浄土真宗(一向宗とも呼ばれる)では、親鸞の曾孫で比叡山や南都で学んだ覚如が、大谷本廟を中心とした本願寺を建立し、教団を立て直します。
その後一世紀に及ぶ沈滞期を経て蓮如(一四一五ー九九)が出て、現在にいたる真宗教団の発展を基礎づけたと言われています。蓮如は、階級職業の差別無く、平常の信心が確立するとき往生が決定するなどと平易な文章にしたためた「御文」を用いて伝道しました。
そして、北陸、東海、近畿の手工業者や農民に布教し、多くの信徒を獲得するようになると比叡山衆徒に襲撃され、蓮如は北陸の吉崎に本願寺を建立します。
その隆盛を見た加賀の守護富樫政近が本願寺を攻撃すると、蓮如は京都山科に逃れ本願寺を建設。その後本願寺門徒による一向一揆は政近を敗死させ、一四八八年加賀国は本願寺領となり、一世紀あまり土豪や農民と僧侶が合議制によって統治しました。
●法華一揆
応仁の乱後、焦土から復興した京都の町は幕府権力の低下により、武装化した町衆による自衛が計られます。法華(日蓮)宗は鎌倉末期に京都に布教して以来、しだいに勢力を拡大、戦国時代中期には洛中に大寺院が多く建てられ豪壮な寺域を擁していました。
一向一揆が京都に迫ると、細川晴元らと結んで法華門徒が蜂起。生活と財産防衛のため町衆が法華の信仰と結びつき二年に亘り戦い、法華宗門徒による京都防衛は成功します。
しかし、一五三六年法華宗徒が比叡山衆徒と衝突すると、比叡山に味方する興福寺や六角氏の援兵により寺院を焼かれ、法華宗側は敗北。京都の法華各寺院は堺に逃れました。
●信長の叡山焼き討ち
天台宗では、皇族や摂関家出身者を延暦寺座主に迎えて祈祷や修法に努め、また学者も輩出し念仏も盛ん
に行われていました。
西教寺の真盛(一四四三ー一四九五)は、戒を重んじた称名念仏を説いて、後土御門天皇の帰依を受け、天皇はじめ公家たちに源信の「往生要集」や浄土経典を講じています。各地に百余りの不断念仏道場を開き数多の帰依を受けました。
しかし、一方で比叡山には暴逆な衆徒が僧兵となり、浄土真宗など新しい宗派の進出を圧迫して戦乱を起こしていました。
一五四三年、ポルトガル人によって鉄砲が伝えられると、いち早く導入した織田信長が諸大名を破って上洛を果たし、なおも激しく抵抗を続ける寺院勢力の根源を抑えるため寺院所領の削減を図ります。
(根来寺根本大塔)
真っ先に削られた延暦寺は、それを不服として朝廷に訴え出ますが、浅井・朝倉勢を匿ったことに端を発して、信長は、一五七一年、比叡山の堂塔を焼き払い僧俗三千人を殺戮。
さらに、徹底抗戦していた各地の一向一揆をも平定していきます。最後まで抵抗していた石山本願寺も一五八〇年に開城し、一向一揆もついに終息しました。
●秀吉の根来・高野山征伐
応仁の乱の後、真言宗でも、高野山や根来山
では学僧とは別に経済的運営を司る行人と呼ばれる僧らが寺領を守るため自ら武器を取って僧兵化していました。彼らは寺領保護の名目で他領を横領し、一時高野は百万石、根来は七十万石を領していたと言われます。
高野山は信長に反逆した浪士を匿い、信長と対立します。ときあたかも戦国武将の間を隠密として徘徊する聖衆があり、信長は千人を越える高野聖を捕らえ処刑。
さらに、一五八一年、信長は高野征伐を決し、十三万の軍勢を配して高野山を包囲、攻撃します。これに対し山上では防戦と降伏祈祷の修法に努め陥落せず。翌年、信長は京都本能寺で明智光秀の夜襲により客死します。
信長の後を継いだ秀吉は、一五八五年十万の兵とともに根来山を攻め、大小二千七百の全伽藍を焼き払い、これにより根来山は貴重な聖教重宝の数々を失いました。
秀吉は根来山攻めの後、高野山にも迫ります。高野山客僧・木食応其(一五三六ー一六〇八)は、このとき秀吉の陣中にいたり赤心から一山の無事を請い願い上げます。これに感動した秀吉は、自らの祈願のため存続を許し、逆に一万石を寄進。さらに生母供養のため青厳寺(現在の金剛峯寺)を建立しました。
(高野山金剛峯寺)
●キリシタンの波紋と秀吉の宗教政策
反宗教改革の戦いを挑む尖鋭集団であったイエズス会の創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルが鉄砲伝来の六年後に九州に上陸し、キリスト教を伝えます。
イエズス会は、日本の神仏信仰を偶像崇拝だとして批判。仏教僧、特に禅僧との論争を早くから展開します。仏教側の唱える輪廻思想に対しキリスト教は創世説を説き、万物の創造者を認めるか否かで議論が分かれたと言われています。また、キリシタンになった者でさえ、神の存在を知らずに死んだ先祖が地獄に堕ちて永久に救われないという教えには納得しなかったと言います。
信長は、寺院勢力を押さえ込み、また貿易の利潤を手にするためキリスト教の布教を許可。そして、京都に南蛮寺(教会)、安土にはセミナリオ(神学校)の建設を認めます。
布教を認めた大名の港には貿易船が入港し、布教と貿易が一体となっていました。さらにキリシタン大名大村純忠が長崎を教会領として寄進したことを知ると、秀吉は「日本は神仏国であり、日本の神を認める仏教と認めようとしないキリスト教とは氷炭相反する」として、一五八七年、キリスト教の布教を禁じ、バテレン(宣教師)追放令を発布します。
秀吉は、太閤検地(一五八二)によって土地制度を一新してすべての寺領を没収し、後に由緒確かな所領のみ寄進名目で返還。本願寺や比叡山、高野山、興福寺などの復興を援助します。
そして、一五八九年奈良の大仏をも凌ぐ方広寺大仏を京都東山に造立。亡き父母の供養として大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養(一五九五)を行いました。しかし、これら一連の施策は仏教界全体の懐柔を目論むものであったと言われています。
鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで深く浸透する一方で、仏教が政治権力に対する抵抗勢力として影響力を示した時代でした。しかし、それが故に体制に飲み込まれていく先駆けともなりました。
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わかりやすい日本仏教史⑤
江戸時代の仏教
[大法輪誌平成十八年四月号カルチャー講座掲載]
今回は、二百数十年に及ぶ近世封建制度の中で仏教がどのように継承されていったのかを見てまいりましょう。
●江戸幕府と寺院統制
一六〇三年江戸に幕府を開いた徳川家康は、二年後には征夷大将軍を秀忠に譲与し、大御所として実権を掌握。寺院統制や外交文書起草のため南禅寺金地院崇伝や天台宗の学僧天海ら僧侶を政治顧問として招きました。この頃既に、寺院勢力は武力も経済力も失っており、しだいに幕府に干渉統制され、封建機構の中に組み込まれていくことになります。
幕府はまず、各宗ごとに江戸に触頭寺院を置き幕府の命令を周知させ、本山の地位を保証した上で全国の末寺を組織統制させます。そして、一六〇八年に天台宗延暦寺に下した法度を皮切りに、崇伝(一五六九ー一六三三)起草による寺院法度によって各宗寺院の守るべき規則を定め、一六六五年には各宗共通の法度を発布。
各宗内の職制、座次、住職資格、本寺末寺関係などが規定され、末寺住職の最終任命権を本山が握ります。そして、すべての寺院が本山から本寺、中本寺、直末寺、孫末寺へいたる中央集権的な組織に組み入れられることになります。
また、法談の制限、勧進募財の取締まり、新寺建立や新興宗教の禁止などが規定されて、自由な布教活動や新しい教義、異説の提唱が禁止されたのでした。
●キリスト教禁制と檀家制度
キリスト教布教がスペイン、ポルトガルの植民地獲得の手段であることを知った家康は、一六一三年、崇伝に対し「バテレン追放の文」作成を命じます。
これにより宣教師が追放され、信徒の改宗が命じられると、改宗した者にはその身元を引き受ける檀那寺から寺請の証文を取らせました。
重税と飢饉に苦しむ農民らが起こした一揆にキリシタンが多く含まれていた島原の乱(一六三七)が起こると、幕府は寺請制度を強化。キリシタンだけでなく全住民に寺請が強要され、誰もがどこかの寺院の檀徒になることが義務づけられます。
一六六四年幕令によって、家ごとに各人の年齢宗旨を記載し捺印させて、村の名主と組頭が連署し、檀那寺の住職が証明する「宗旨人別帳(または宗門改帳)」の作成が全国画一的に法制化されます。これは戸籍の原簿として、また租税台帳としても利用されました。
婚姻、旅行、移住、奉公の際にも檀徒であることを証明する寺請証文の携行が、また死亡時には住職が検分し、キリシタンでないことを請け合いの上引導を渡すことが義務づけられました。そして、形の上では全国民が仏教徒となり、葬式、年忌法要、墓碑の建立が定着し風習化していきます。この所謂檀家制度が全国に普及するのは、四代将軍家綱の時代でした。後には一家一宗旨、さらには檀那寺を変更することも禁止されたのでした。
●東照宮造営と天海
家康は、死に際に幕府の守護神となることを遺言したと言われます。一六一六年、駿府で家康が息を引き取ると、側近の一人であった天海(一五三六ー一六四三)が、徳川家の子孫繁栄と幕藩体制の維持を願い、神道と仏教を融和した山王一実神道方式により、「東照大権現」の称号を勅許に基づいて贈与。天海は、日光山に東照宮を造営して、死の翌年家康を神として改葬しました。
さらに天海は江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺を創建して、東の比叡山、すなわち東叡山と山号して関東一円の鎮護とします。法親王の入寺を請い、天海死後法親王は輪王寺宮と称し天台座主として東叡山に常住しました。
●紫衣事件
尊貴を象徴し、古来高徳の僧尼に対し朝廷より賜っていた紫衣(紫色の法衣)は、朝廷の収入源の一つでもありました。
しかし幕府は、一六一三年、この紫衣勅許に先立ち幕府への申し入れを要するとした「勅許紫衣之法度」を定めます。そして、一六一五年には「諸宗本山諸法度」を定めて、僧侶・寺院の地位や名誉に関する朝廷の特権を剥奪し、僧侶の昇進一つも天皇の一存では通らない事になりました。
後水尾天皇(在位一六一一ー二九)は、幕府に相談なく十数人の僧に紫衣着用の勅許を与えます。このことが明らかになると幕府はその無効を宣言し、これに抗議した臨済宗大徳寺の沢庵宗彭ら四人の僧を流罪に処し、天皇は譲位。しかし、沢庵は後に許されると三代将軍家光の帰依を受け、品川に広大な敷地を有する東海寺を建て迎えられています。
●不受不施派(ふじゅふせは)の弾圧
法華(日蓮)宗に不信者から布施を受けず法を施さないとする不受不施派があり、京都妙覚寺の日奥はこの義を頑なに守り、秀吉の催した千僧供養を拒否。池上本門寺など関東の諸寺院に不受不施派の勢力が強まります。そして、国主の供養は別であるとする受不施派の身延山と対立。
法華の信者でない者を謗法者として、国主からの布施を受けないということは国主を誹謗者扱いすることになり、国家に対する反抗であるとして、幕府は一六三〇年、不受不施義の唱導を禁止。しかし、その後も勢力が衰えなかったため、寺領も布施であるとして、一六六九年不受不施派の寺請が禁止されて寺院からも追い出され、不受不施派は地下に潜伏したのでした。
●教学の振興と各宗の変遷
各宗派の自由な活動を制限する一方、寺院住職に一定期間の修行や学問を義務づけるなど、幕府は教学の振興を促します。檀林、学寮、談義所など学問所が整備され、宗祖研究、経典解釈など教学が促進されました。
浄土宗では、源誉慈昌(一五四六ー一六二〇)が家康の信任を受け、増上寺を現地に移して伽藍を整備。徳川氏との師檀関係を結び、関東に十八檀林を興して弟子らの修学に寄与しました。
本願寺が東西に分立した浄土真宗では、西本願寺に西本願寺学黌(後に学林と称す)が創設され宗学研究を奨励。東本願寺では、学寮と称して真宗学と南都の仏教や天台の学問を学ぶ兼学制により盛大となり、すぐれた学者を輩出します。
また曹洞宗では、早くから江戸に栴檀林が設けられ、祖録、仏典研究、漢学詩文の学問が学ばれ、儒学研究の昌平黌と並ぶ江戸の二大学問所として名を馳せ、多くの碩学を生み出しました。
新しい宗派の設立が制限された江戸時代に、唯一黄檗宗の開基が認められています。渡来僧の招きにより、一六五四年、中国黄檗山万福寺住持を辞して隠元隆(一五九二ー一六七三)が渡日。明の禅と念仏が習合した禅浄一致を説く念仏禅を伝えます。隠元は京都宇治に黄檗山万福寺を建立、日本の[黄檗宗]の開祖となりました。
臨済宗では五山は振るわず、妙心寺に教勢を奪われます。至道無難は禅を平易に表現して生活に即した禅を説き、一絲文守は天才的な禅説法により多くの人の菩提心を喚起、後水尾上皇の帰依を受けました。
無難の孫弟子に白隠慧鶴(一六八五ー一七六八)が出て、妙心寺第一座となるも名利を離れ、諸国を遊歴して三島の龍澤寺を開山。平易な言葉で喩えを用いて禅を説き、禅の民衆化に努めました。また多くの門弟を育て、今日臨済宗僧徒の大半がこの白隠の法流に属すと言われるほどの影響力を及ぼし、臨済禅の中興と言われています。
●綱吉と護持院隆光(ごじいん・りゅうこう)
五代将軍綱吉は、世に悪法とされる生類憐みの令(一六八五)を発布し、犬に限らず動物の殺生を禁じます。
綱吉は仏教に帰依して、寛永寺などを修築し、また筑波山知足院別院を移転して護持院と改称し神田橋外に大伽藍を造営。特に護持院の隆光には、生母桂昌院とともに帰依して毎年二回護持院に参詣するのが定例でした。
隆光(一六四九ー一七二四)は、真言宗新義派の開祖覚鑁に諡号奏請のために尽力し、興教大師号を賜ります。護持院は幕府の祈願所となり寛永寺、増上寺と鼎立。隆光は真言宗新義派の「僧録司」に任ぜられ、将軍の外護のもとに熱田神宮、室生寺など多くの寺社を復興。日々登城して権威を振るい、今日にいたる真言宗新義派の大勢を築きました。
●戒律復興 安楽律と浄土律
檀家制度ができて生活が安定し安逸に陥った僧界に対する非難の声が挙がると、各宗に僧風の粛正運動や戒律の復興運動が起こります。
最澄の念願により大乗戒壇を建立した比叡山に妙立(一六三七ー九〇)が出て、堕落を弁護する口実ともされた梵網戒に加え四分律を護持することによって乱れた僧風の粛正を主張。さらに本来衆生は等しくさとりの性を備えているとする天台本覚思想を批判して、中国の正統天台教学への復帰をも目指します。
弟子の霊空は、一六九三年第五代輪王寺宮公辨法親王の帰依を受け、叡山飯室谷の安楽院を律院として与えられます。そして、「安楽律」を唱えて宗内の改革を志し、東叡山、日光山にも律院を設けて安楽律を宣布。元禄以後は特にこの妙立・霊空の門流が栄えました。
浄土宗でも中期に僧風刷新のため浄土律が興ります。京都法然院を再興した忍徴は自誓受戒して律を広め、弟子に霊潭があり僧儀の復興に努めました。その弟子に湛慧、普寂の学者が出て、倶舎唯識など各宗を兼学。自誓受戒して律院を設け持戒念仏に専心し、多くの講席を開筵して、宗内に大きな影響を与えました。
●真言律と慈雲尊者
一方真言宗では、江戸の始めに明忍が出て、廃れた戒律復興を誓い、一六〇二年栂尾山で自誓受戒。槇尾山を戒律復興の道場として学徒を集めます。
そして、浄厳(一六三九ー一七〇二)は、戒を仏道修行の基本と位置づける「如法真言律」を唱導します。高野山で密教を修め梵語を研鑽して、明忍の旧跡槙尾山に登り、和泉高山寺で自誓受戒し、延命寺を創建。
一六八四年、江戸に出て講座を開くと常に聴者は千人を超え、数多の帰依を受けます。五代綱吉は湯島の地を与え霊雲寺を建立。浄厳は関東如法真言律宗総統職に叙せられ、百五十万人を超える人々に三帰五戒を授け、結縁灌頂を授けた者三十万余人と言われます。
さらに慈雲尊者飲光(一七一八ー一八〇四)は、お釈迦様在世当時の戒律復興を目指して
(慈雲尊者)
「正法律」を創唱します。慈雲は、奈良に出て南都仏教や真言宗を修学し、律を研究。臨済宗にも参禅し、のちに河内高貴寺が正法律の本山として幕府に認可され、無数の道俗、様々な人々を教化しました。
「十善戒」を人の人たる道と説き、宗派意識を越えてお釈迦様の根本の教えへの復帰を主張。後生の仏教者に多大な影響を与えました。神道、西欧の事情にも明るく、多くの著作がありますが、中でも日本に伝わる梵学及び梵語学習上の参考資料を蒐集網羅した「梵学津梁」一千巻は今日でも世界の驚異とされています。
●巡礼の流行と庶民信仰
檀家制度により信仰を選ぶことのできない民衆の自由な信仰心をかなえ、かつ物見遊山半分で遠く旅をして聖地に詣る、参拝旅行が元禄時代前後から流行します。
特にお伊勢詣りや讃岐・金毘羅詣りをはじめ、富士山、江ノ島、高野山、善光寺などへの参拝が盛んになります。また西国・板東・秩父の百観音巡礼や四国八十八カ所遍路が一般民衆にも流行します。
さらに、遠国の寺社の秘仏や霊宝が、江戸などの都市に出張して公開される「出開帳」が盛んに行われ、民衆が群参し賑わいました。
幕府権力の管理統制のため封建機構の一端を担わされた江戸時代の仏教は、信仰心を問うことなく全国民に仏教信者としての勤めを強いることになり、人々に崇高なる信仰の価値を見失わせる発端となりました。
しかし、各宗に真摯に時代と対峙し、特に持戒研学修禅に基づいて民衆を教化した高僧が現れ、仏教を継承していくのでした。‐
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わかりやすい日本仏教史⑥
明治時代の仏教
[大法輪誌平成十八年五月号カルチャー講座掲載]
今回は、明治時代という近代国家形成の過程において、仏教がどのように近代化を経験したのかを見てまいりましょう。
●排仏論と出定後語(しゅつじょうこうご)
黄檗宗(おうばくしゅう)開祖隠元(いんげん)の弟子鉄眼道光(てつげん・どうこう)は、一六八一年漢訳経典を総集した大蔵経六七七一巻を出版します。
この鉄眼版大蔵経出版に関わった富永仲基(一七一五ー四六)は、「出定後語」を著して仏典成立に加上説を創唱。真にお釈迦様が説いたのは阿含経の数章に過ぎず、後は後人の付加であると主張。後に大乗非仏説論に発展しました。
江戸後期になると、国学者本居宣長や平田篤胤らは仏教伝来以前の古神道を理想とする復古神道の立場から仏教を排撃。平田篤胤は「出定後語」の理論を借用して「出定笑語」を書き、文章が平易通俗的であったこともあり多くの人に読まれ、明治維新にいたる王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になるのでした。
●神仏分離令と廃仏毀釈
九月より明治と改元される一八六八年三月、神祇事務局より神仏分離令が発令されます。神社に別当あるいは社僧として仕える僧侶の復飾(僧侶を辞めること)、神社でご神体としている仏像や梵鐘、仏具などの撤去を命じ、神社から仏教勢力の排除を通達します。
当時は神仏習合により、大きな神社であっても神職の上位に社僧など僧侶がいて神社を管轄し、神職はその指示に従っていました。しかし、仏教勢力からの独立を長年求めてきた神職らは、この神仏分離令が発令されると、幕藩体制下で寺院からの精神的圧迫に反発していた民衆を巻き込み、強引な破壊行為を各地で巻き起こします。この、世に廃仏毀釈と言われる野蛮行為によって、仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものが瞬く間に全国各地で灰燼に帰す事態となりました。
一方では、奈良興福寺のようにすべての僧侶が何のもめ事もなく復飾して神官となり春日社に仕え、伽藍仏具などは処分されるといった例もありましたが、その多くは、神社と寺院に境内を分離して別々の管理のもとに置かれ、今日に至っています。
こうした神仏分離令による混乱の最中、この危機的な状況を打開すべく、一八六八年(明治元)十二月各宗派合同の「諸宗同徳会盟」が京都興正寺にて発足し、僧風の粛正と仏神儒の三道による国民教化、キリスト教排撃のための護国護法を訴え、仏教界全体に革新の気運を促すものとなりました。
●明治新政府の宗教政策
かくして王政復古の旗印の下にうち立てた明治新政府は、その権威のため天皇陛下を神権者とする国家神道を国教とする政策を推進します。
そのため、寺院を勅願所とすることや勅修の仏教儀礼は廃止され、それまで天皇皇族の菩提寺であった京都泉涌寺との関係は、一八六八年(明治元)十二月には改められ、皇室の葬礼も神式に改訂。
さらに江戸時代民衆掌握の手段として寺院に作成させた宗旨人別帳に代わり、一八七一年(明治四)戸籍法並びに氏子調規則が制定され、それまでの寺院の役割を神社がそのまま取って代わることになりました。
●大教院の設立と信教の自由
西本願寺の島地黙雷は、キリスト教に対抗するためには民衆教化に実績ある仏教が中心的役割を担うべきであるとして神道唯一主義を批判する建言を提出。一八七二年(明治五)教部省が設立され、神官僧侶双方による教導職が定められます。
そして、敬神愛国を広めることなどを規定した「三条の教則」が布告され、僧侶も天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治的思想を国民に浸透させる役割を担うことになります。
しかし教導職養成の為に設置した大教院は神道様式に仏教側が迎合し、単なる神仏混淆の新しい国教を作る運動と化し、神仏分離の当初の原則とも矛盾するものとなりました。
一方、一八七一年(明治四)末から欧米を訪問していた岩倉使節団は、訪問国でキリスト教迫害を抗議され、信教の自由を承認せざるを得ない状況に追い込まれます。時同じく欧州に宗教事情を視察した島地黙雷らは三条の教則は政教を混同するものであり、政教分離と信教の自由を主張する建白書を提出。仏教の自律性を要望します。
そして、一八七三年(明治六)にはキリスト教禁制を撤廃。氏子調べも中止となり、大教院は解散。神道を非宗教として信教の自由を保障することが通達され、仏教諸宗派の宗政については各管長に委ねることとなりました。
●肉食妻帯の解禁
一八七二年(明治五)四月、「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事」という、それまで僧尼令によって定められていた肉食妻帯の禁を解く布告がなされます。
さらに同年九月には僧侶にも一般人民同様に苗字を称させる太政官布告がなされます。これらは国家として出家者を特別扱いしないという意思表示であり、神道を国の教えとする上で当然のことでした。
戒律は、本来国家とは何の関わりもなく自発的に遵守されるべきものです。しかし、古来国法によって厳重に管理されてきたために、仏教の世俗化に拍車をかけるものとして志ある僧侶たちは反対し、一方では喜んで肉食妻帯する僧侶もあったということです。
その後、この肉食妻帯問題は明治後期に各宗の宗議会で戒律問題として公認すべきか否かで紛糾し、結局自然の成り行きに順じることとされ、今日に至っています。
●護法運動の旗手 行誡と雲照
こうした仏教排撃の機運に抗して仏教擁護のため僧風の粛正と宗派を越えた通仏教の立場から様々な護法活動が展開されます。
浄土宗の福田行誡(一八〇九ー八八)は、この混迷期に政府に対し数々の意見を建白したことで知られています。仏僧本来の面目に帰るには、まずは戒を守り自戒内省し、広く他宗の学問も修める兼学を提唱します。
伝通院、増上寺貫主として、縮刷大蔵経刊行にも着手。「仏法を以て宗旨を説くべし、宗旨を以て仏法を説くなかれ」と言われ、仏教の真理に基づいた説法をすべきであると戒めています。
また、肉食妻帯は法律上のことであって、僧侶のあるべき姿を真摯に守るべき事を要求して自らもそれを実践し、他宗の僧侶や民衆からも崇敬されたと言われています。
真言宗の釈雲照(一八二七ー一九〇九)は、古今未曾有の排仏の事態に至ったのは、みな僧侶自らの破戒濫行の罰であるとして仏教界の刷新を主張。その一方で、太政官に出頭して「仏法は歴代天子の崇信する所にして皇国の神道及び儒教の忠孝と相助け国家を擁護するものである」などと数度に及び建白。また宗内でも護法に奔走します。
一八八五年(明治十八)東京に出て、政府の大書記青木貞三、山岡鉄舟らの支援のもと目
(雲照律師五十歳頃東洋書院「釈雲照」より)
白僧園を建立します。戒律学校として平素四十名ほどの持戒堅固な僧侶がその薫陶を受け、その学徳と戒律を厳格に守る崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信はじめ、財界人、学者に及ぶ錚々たる人々が訪問し帰依しています。
雲照は、西洋哲学の方法論から仏教哲学を体系化した井上円了が創設した哲学館(後の東洋大学)で「仏教大意」を講じるなど、慈雲尊者の唱えた人間の原理としての「十善戒」を広く紹介。在家者のために「十善会」や「夫人正法会」を発足して、社会の道徳的宗教的な教会として国民道徳の復興に貢献しました。
●近代仏教学の萌芽
明治時代の仏教は、こうした戒律主義からの護法運動に加え、欧化主義の影響から原坦山、大内青巒、井上円了らによる仏教の開明的啓蒙活動が盛んに行われます。そして、さらに欧州で花開いた近代仏教学がわが国にもたらされてまいります。
欧州では十八世紀末頃から、植民地であったインドやセイロンに渡った官吏や司法官などが現地の言語文化を研究し、中でも梵語や初期仏教語であるパーリ語に惹かれ、辞書を編纂、数々の典籍を翻訳していました。
この欧州で発展した近代仏教学を学ぶため、日本からも多くの学者が訪れますが、中でもいち早く東本願寺の南条文雄、笠原研寿の二人が本山よりロンドンに派遣され、一八七六年(明治九)、梵語文献による仏教研究の開拓者マックス・ミューラーに師事。梵語を学びます。
南条文雄(一八四九ー一九二七)は、岩倉使節団が帰国後イギリスに贈呈した鉄眼版大蔵経の目録を梵語題名と題名の英訳、それに解説を付した「三蔵聖教目録」を出版するなどの功績によりオックスフォード大学から学位を得て、一八八四年(明治一七)帰国。
南条文雄の紹介で、一八九〇年(明治二三)ロンドンにマックスミューラーを訪ねた高楠順次郎は、欧州におけるインド学の黄金時代にインド学梵語学を学び帰国。渡辺海旭らと共に漢訳経典叢書である「大正新脩大蔵経」や南方仏典を翻訳した「南伝大蔵経」出版など大事業を指揮。文献実証主義によるインド学仏教学の伝統をわが国に築きました。
こうして、学問の世界では漢訳仏教ではない、インドの香り高い仏教が欧州経由で研究され、中でも小乗と貶称されてきた南方上座部所伝の仏教が仏教学の主流となりました。
(インド文字によるパーリ語在家勤行次第)
●海外交流の先駆者 興然と宗演
時同じくして、仏教の本場を訪ねその実情を学び、わが国の衰亡した仏教を振興すべく海外に旅立つ僧侶が現れます。
釈興然(一八四九ー一九二四)は叔父雲照の勧めにより、一八八六年(明治十九)セイロンに渡ってパーリ語を学び、一八九〇年キャンディにてスマンガラ長老を戒師に具足戒を受戒。ここに日本人として初めて南方上座仏教の僧侶(グナラタナ比丘)が誕生します。
翌年には、のちにインド仏蹟復興に貢献するダルマパーラ居士と共にインドに渡航しブッダガヤに参拝。ヒンドゥー教徒に所有され荒廃した大塔を含む聖地買収をダルマパーラ居士と共に計画。興然は雲照とも連絡を取り奔走しますが、諸般の事情が許さず断念します。
興然は七年に及ぶ外遊後も南方仏教の黄色い袈裟を終生脱ぐことなく、自坊三会寺で南方仏教の僧団を日本に移植すべく外務大臣林董を会長に「釈尊清風会」を組織。弟子らをセイロンに派遣します。
一九〇七年(明治四十)には、当時わが国で最も持戒堅固の聖僧として仏教国タイに招待され、一年間滞在。しかし南方仏教の僧団移植は叶いませんでした。
また、鎌倉円覚寺の釈宗演(一八五九ー一九一九)は、一八八七年(明治二十)より興然滞在中のセイロンの僧院に三年間滞在。帰国後円覚寺管長となり、一八九三年(明治二六)米国シカゴの万国宗教大会に日本代表の一人として出席。この時の講演原稿を英訳したのが宗演の弟子鈴木大拙でした。
その講演に感銘を受けた宗教雑誌「オープンコート」発行人ポール・ケーラスのもとに大拙は編集員として奉職。禅や東洋思想を次々に米国で紹介していきました。
宗演は、日露戦争にあたり建長寺管長として従軍僧となり、一九〇六年(明治三九)に両派管長を辞すると、渡米して諸大学で禅を講じ、大統領とも対談するなど、大拙とともに禅の世界に向けた啓蒙に成功したのでした。
●西域探訪 光瑞と慧海
脱亜入欧と言われ、仏教も欧州を経由して新しい研究がなされ始めた頃、アジアに目を向けて旅立ち貴重な文物をもたらす僧侶が現れます。
ロンドンに当地の宗教の実情と制度研究を目的に滞在していた西本願寺の次期宗主大谷光瑞(一八七六ー一九四八)は、スタインなどの西域探検に触発され、中央アジア探検を決意。光瑞は、大谷探検隊を組織、一九〇二年(明治三五)から三回にわたり、仏教東漸の経路を明らかにすることや遺存する経論仏像などの蒐集を目的に派遣、各地から貴重な仏像仏画古文書類を持ち帰りました。
また黄檗宗の河口慧海(一八六六ー一九四五)は、漢訳経典の正確さに疑問を感じ、梵語やチベット語経典の入手を発願。一八九七年(明治三十)より二回にわたりインド、ネパール、チベットを訪ね、チベット語、梵語を習得。梵語仏典、チベット大蔵経をはじめ仏像仏具、動物植物鉱物の標本に至る膨大な資料を持ち帰ります。
帰国後は、持ち帰った膨大な経典の研究翻訳、文法書や辞書の編纂に努めます。東洋大学などでチベット仏教を講じる傍ら、お釈迦様の教えへの回帰を目指して仏教宣揚会を結成。出家が成り立たない時代にあっては、三帰五戒受持を根幹とする在家仏教を実践すべきであると提唱し、真正なる仏教の再生に邁進しました。
文明開化の明治という変革の時代、僧侶や在家仏教者により仏教の近代化のために様々な活動が展開され、仏教を時代に対応させようと努めた時代でした。
六回にわたり日本仏教史を学んでまいりました。各時代の歩みに学び、今を生きる私たちの教えを模索する一助となればありがたいと思います。 おわり
(本稿が掲載された大法輪誌の 創刊号と最近の表紙)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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