「32」 「人類史の古代帝国の誕生と、4大文明の発生とは同じことだ。「バード論文」から古代の人類史の全体像が解明された。副島隆彦記

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副島隆彦です。 今日は、2007年2月20日です。

 続けて、私は、勢い込んで、以下に長文の「鳥生バード論文」を載せます。私は、これをここに全文掲載できることを、心から嬉しく思います。念願がかなった、という気持ちです。

 私は、このバード論文を発表することを、去年の6月からずっと気にかけていました。ところが、これを、一体どこに、どのように載せていいのかが、全く分からなかった。それでもがき苦しんでいました。

 バード君との約束を、こうして果たせて、そして、彼の論文のすばらしさを、先の「29」「30」「31」の横山全雄老師の仏教論文に続いて、こうして、公表できて、大変、嬉しい。今日は、これだけで私はもう満足です。人間は、いつ死んでもいい、という覚悟を決めて、毎日を、すがすがしい表情で生きたいものです。

 ところが、現実の私は、目の前に山積する原稿と、デジタル文章のウズの前で苦しんでいます。いつか私たちの真実探究の苦闘の日々が報われる日が来るでしょう。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

—– Original Message —–
From: “副島隆彦”
To: “Toriu Mamoru”
Sent: Thursday, June 01, 2006

鳥生(とりう)バード君へ

副島隆彦です。
 私は、君の以下の歴史論文を、読んでひどく驚き、かつ大変気に入りました。私は、君の以下の、「紀元前2900年に、エジプト初期王朝の王が、メソポタミアまでを、遠征していた。それが、シュメール人を征服して、セム人の王権を打ち立てた。そして、これがどうやら人類最古の世界帝国だろう」とする。この論述に大賛成です。すべては、丁度、紀元前3千年から始まった、とする説に納得がゆきました。

 私の頭の中で、エジプトと、メソポタミア(バビロンの都、いまのバグダッドの南あたり。エデンの園の跡 もこの近くにある。今も残っている) の関係が、ずっと分からなかった。

 どちらも紀元前3000ぐらいだ。同じだ。この時に、古代文明というよりも、人類の文明=王権 の誕生があった(都市らしきもののの成立だけでなく)とする、考えに、今回、私は、君と一致しました。私にとっても大変、嬉しい、とです。

 私は、この世界史の全体像を、鴨川君が送ってくれた、「ユダヤの歴史」というさる学者が書いた論文とつき合わせるようにして読んだことで、君の書いていることの真実性が判定できました。たいへん嬉しいことです。

 私は、一昨日(2006年5月30日)に、大学から、アルル君と電話で、「人類の古代史、人類の歴史の発生、四大文明=帝国の発生なるもの」をヴィオス録音しました。 私にとって気になっていた、紀元前3000のエジプト文明 と紀元前2900年の メソポタミア文明の、発生(誕生)のことが、ずっとこの10年来気になっていたのです。なぜなら、発生=誕生こそは、重要なことだからです。

 録音をしてから、君の文を、今朝読んで、その重要性が、ようやく分かった。エジプト王のセソストリス王という王(ファラオ)のメソポタミアへの大遠征が、すなわち、エジプト文明とメソポタミア文明の同時期発生を理解する上で、ものすごく重要だということです。

 その紀元前3千年に、バグダッドに成立した人類最初の、古代帝国(世界覇権国)は、どうやら、エジプト人による征服王朝であって、原住民であるシュメール人を征服した、セム族の、黒人種の、どうやら、今のヌビア人のようなスラリとした漆黒の民族による出張政権による古代帝国であった、ようだ、という考えに大賛成です。私の中で、これらのことがはっきりしました。

 従って。バード君。君が、「ヘロドトスの大著、歴史」を読み破って、セソストリス王の重要性を、再発見したことは、のちのち、大変な業績だと私は思います。それを、私は、今後は、ずっと喧伝(けんでん)し称賛するでしょう。

 西洋の西洋史学者たちでも、この明白な事実の確認が出来ていない、ということは、一体、どういうことでしょうか。 私、副島隆彦は、自分が独力で築き上げてきた、「すべては帝国―属国関係で説明がつく」理論に、従って、これを、実際の人類史の、いろいろの場面に当てはめてみさえすれば、大きな真実が、たくさん、浮かび上がってくるのだと、いよいよ確信を深めています。

 西洋(欧米)の学者たちでも、駄目なのですから、中公文庫の「世界の歴史」シリーズ本を書いているような、日本人の世界史の古代史学者たちでは、とてもではないですが、こういう人類史の根幹に関わる大きな真実を知りえないでしょう。だから彼らは、そろって馬鹿者たちなのだだということも君の文から分かりました。私たち在野の学究(がっきゅう)が、頑張らなくてはいけない。

 私は、岩波書店刊の歴史学研究会(西洋史、世界史の日本人学者たちの学会)の編の「世界史年表」という本を、読みながら、自分でメモをずっと取っていって、先週、古代史の部分を全部まとめました。それを使いながら、アルル君に私の考えを録音を頼んだのです。

 それと、鴨川ひかり君が、重掲に貼り付けた、「ユダヤの歴史」の文章が気になって仕方がなかった。これらのすべての事実を付き合わせて、「人類の古代世界史の全体像」すなわち、「古代文明と人類初の世界帝国の誕生、発生」を自分の脳で、しっかりと理解しておきたかった。

 ユダヤの旧約聖書の記述と、古代世界史を、しっかりと一致させて起きたかった。古代のユダヤ王国は、バグダッドに在(あ)った世界覇権国の属国に過ぎなかった。丁度紀元前千年(BC1000)ぐらいに、続けて出現して王位に付いた サウル王、ソロモン王、ダビデ王というユダヤの3人の王は、バグダッドのシュメール人の帝国に服属して、属国となっていたことがこれで、はっきりと、確定できました。

 ですから、同時に、紀元前1250年(BC1250)だと、世界史学者たちが全員一致で確立しているモーセの出エジプト(Exodus エクゾダス)は、それよりも、250年前である。そして、どうやら、モーセたちは、エジプトから脱出して、カナーンの地に「帰った」のではなくて、帝都であったバビロン(バグダッド)の捕囚(ほしゅう)から、自由になって、今のイスラエル(パレスチナ)の地に、定住して、属国として、それなりに繁栄したのだ、ということも分かりました。

 だから、ユダヤ人が、自分たちの聖典(キャノン)として、ものすごく大事に言う、旧約聖書(バイブル、Biblo ビブロ)も、それほどのものではなくて、にしても、そんなに権威はないし、威張れるほどのものではない、ということが分かってきました。シュメール人(バビロン人)の存在が、今から8千年から7千年ぐらい前まで遡れることと、彼らの集落(古代の都市のはじまり)の存在があった。

 そして、そこに人類の最初の統一王朝のようなものが出来ていた。そこには、自分たちの創世(そうせい)の神話がすでに出来ていただろう。ユダヤ民族の、旧約聖書の記述は、それらのシュメール人の神話を、真似して、うまい具合に自分たちの創世の物語にしてしまったのだ、ということもよく分かりました。道理で、そのせいで、旧約聖書には、「バビロン、バビロン」と、呪(のろ)うがごとくに、たくさん出てきます。

 ですから、君の論文にも触発されて、私は、「人類の古代史の全体像、全歴史を、世界史年表を使って説明し尽くす」という試みをやってみました。それは、このヴォイス録音で、うまくいったと思います。

 人類史上の、世界帝国というのは、紀元前3000年からこっちの、人類史において、ほとんどの場合、どんな民族による征服王朝であっても、たいていは、バグダッド(今のイラクの首都)にあった帝国のことだ。このことが、私の頭で、はっきりしました。

 紀元前490年と480年の、2回のペルシア戦争と言って、ギリシア人の都市同盟が、果敢に戦って、侵略してきたアケメネス朝のペルシア帝国(ダレイオス一世)に負けなかった、征服されなかった、というが。 しかし、それでも、いくら西欧中心主義での世界観であっても、それでもなお、当時のペルシア帝国(首都はバグダッドだ)が、世界覇権国(ヘジエモニック・ステイト)だったのだ、ということが、透けて見えるし、この事実は覆(おお)い隠しようがない。

 ですから、私は、BC1250年の、モーゼなる男の、ユダヤ人(メソポタミアでは、アピル=ヘブライ人と呼ばれた)たちを引き連れて、カナーンの地(パレスチナ)に、40年掛けて「戻ってきた」という「出エジプト記」 Exodus エグゾダス の記録が、本当にあるのか、それは、メソポタミア(バビロンの都)からの「バビロン捕囚」も第4次まである、4回もあって、そのうちの一つだろう、と、ずっと疑っています。いまもそうです。 バード君に、このことを調べてほしい。

 アルル君に、話し始めたのは、 「あのな。いいか。アルル君。今から丁度、紀元前1000年頃に、サウル王、ソロモン王、その子のダビデ王というのがいてな。それが栄えていたの。しかし、それは、アッシリア帝国という、バビロン(今のバグダッドだよ)にあった(おそらくシリア人)の帝国の属国だったのだ。この事実が重要なんだ。

 すべては、帝国―属国の関係なんだ。そして、帝国の首都はだいたい、バグダッドだったんだ。おもしろい視点だろ? これで、人類史のすべてが、鳥瞰(ちょうかん)出来るんだよ。 私は、このことに一六歳の時から気づいて、知っていたんだ。それで、山川出版の、高校世界史の教科書を読み破っていた。」 と言う風にヴォオス・レコードしてもらいながら、語り始めました。

「それでな。この紀元前千年あたりに在ったアッシリア帝国を遡ると、シュメール人、アッカド人、古バビロニア人。 それから、ヒッタイト人(これは五〇〇年間も続いた) が、あった。」

「それから、アケメネス朝のペルシャ帝国の時代があって、ペルシアが世界覇権国で、これが、ギリシアを攻めたから、「ペルシャ戦争」というのだ。ダレイオス一世が強かった。ギリシア都市同盟は、征服はされなかったが、相当に弱かった。」

「ところが、その孫だろう、ダレイオス三世の時に、紀元前333年に、イッソスの戦いで、マケドニアのアレキサンドル大王という 二十歳ぐらいのガキの王様に、イッソスの戦いで、なんと、ペルシアが負けてしまったんだ。打ち破られてしまったんだ」

「それで、そのあとの、たったの8年間である。アレキサンドル大王が、子分どもを引き連れて、ペルシア帝国の全土を、うろうろあっち、こっち、財宝を求めてだろうが、移動して回った。これをアレキサンダーの大遠征と言っているんだよ。たったの8年間だよ」

「だから、紀元前2900年と、紀元前1000年頃のこと、と紀元前333年とかを、しっかり区別をつければ、 世界史の古代史の全体像は、はっきりと分かるのだよ。

「陰謀論のアホたちが、6千年前から7千年前にメソポタミア(今のイラク)にいた、シュメール人というのは、宇宙人だ、宇宙からきたのだ、とか言うのも、簡単に、粉砕出来る。」

「それと、旧約聖書の全部のユダヤ人の歴史を、しっかりと檻(おり)の中に入れて、すべて、冷酷に測定できる。ユダヤ人の歴史なんて、そんなに古いわけがないよ。各予言者(民族指導者)たちの存在を、歴史年表の中にしっかりと、はめ込んで、事実の中にはめ込むことが出来る。」

「 だから、人類の古代の世界史というのはな、チグリス河・ユーフラテス河の分岐点にあるバグダッドを中心に考えて、それが、文明の発祥、すなわち、それが、そのまま、世界帝国(覇権国、世界政治権力)の誕生と同じなのだ、と分かるのだ。このことがものすごく重要なのよ。これで全部だと言っていい。 人類の4大文明とか、言うけれども、やっぱりすべての中心は、バグダッドを首都とする帝国の文明だな。この理解で十分だ」

「頭の容量の足りない、歴史知識を順番に、頭に入れることの出来ない連中は、断片的な知能しかない人間だから、すべての事象(じしょう、できごと)を相互に深く関連させて統一的に考えることができないからね、ほっておくしかない。私、副島隆彦のような人間でなければ、こういう大きな壮大な仕事は、日本では出来ないんだろうねえ」

と、こういうことをアルル君に電話で話しました。

 ですから、バード君。君の以下の論文は、大変優れています。しかし、私の、この「バード論文は凄い」ということの意味がわかる者は、なんとかこれを読んでくれる人を含めて、ここの弟子たちを含めて、今のところは、日本に50人ぐらいしかいないでしょう。

 それで、まず私が、私の「古代史の全体像」を書いて、紀元前2900年の重要性と、紀元前1250年のモーゼの出エジプト記、それから、アッシリア帝国と、ソロモン王たちが、丁度、紀元前1000年のことだ・・・・とかを、分かりやすい解説文にして、今日のぼやきの会員ページに載せます。

 そのあとで、君の論文を誉(ほ)めます。 それに、上記のような解説文を私がつけます。それまでに、君は、私たちの歴史掲示板とかに、君のこの重要論文を載せておいて下さい。一回で載ると思います。

 分量制限は、今は、よしなお君がはずしたはずですから。 重掲に載せてくれてもいいです。 冒頭に、君なりの前書きを、つけてください。「副島隆彦が、もうすぐ、私の論文を理解し、評価するための、前提となる『古代世界史の全体像』というような論文をぼやきに載せます」と書いて下さい。

 知識は、断片的であってはならない。頭の良くない人間というのは、ものごとの全体像が、つかめない人間のことを言う。私たちの学問道場は、従来の知識、全学問を、縦横無尽に、横断的に、大きく、総合し、統合して、それを抽象性の一番高い水準のところで、まとめてあげてみせる。それがすばらしいことだ。それが学問(サイエンス)なるものだ。大きな謎解きでもある。大発見でもある。大きな真実を明らかにすることでもある。

 バード君の今のままの文では、まだ、読む人たちの方が大変だ。知識と教養の基礎のところがみんな出来ていないからだ。 バード君。モーゼ(最近は、モーセ Mosesと書く)の存在を、さらに、「4回のバビロン捕囚」 と、「帰還を許される」というコトバとの関係で、探って下さい。ここには大きな秘密があるはずです。

 私は、バビロンの都(今のバグダッド近く。メソポタミア文明、すべての古代帝国の首都) こそは、すべての時代の世界史の中心なのだ、とずっと考えています。この基点の考えを 採用すれば、世界史の「帝国-属国」理論で、すべてが明確に分かるのです。

 そして、後の、紀元1096年からの十字軍という、国際軍事活動、(PKO)と、今のアメリカ帝国のバグダッド爆撃、イラク占領までが、全てつながって分かるのです。

 アルル君は、私が手書きで作成して、FAXで送った、各時代の いろんな人種、民族のトーナメント戦であるいろんな帝国(覇権国) の一覧表を、よしなお君と、図式・画像にする(イラストレーター? アドビー社の?で)作業をやってくれませんか。

 論文は、説得力が大事です。読み手に、なるほどなあ、と思わせる、見せ方、読ませ方が、ものすごく重要です。論証の力は、証拠不足などのせいで弱くても、気合いを入れて、「なんとしても、読み手に分かってもらおう」という気持ちで、気合いを入れて書くことが大事です。

 バード君に承諾してもらいたいことは、この君の論文を、後に再度、ぼやきの会員ページに載せることになるかもしれませんということです。 ただし、それは、会員の読み手たちの半数ぐらいが、「なるほどなあ」 と、思うようになれるだけの、歴史教養の基礎の枠組みを、私、副島隆彦が丁寧に、実感を込めて、説明してからあとの話です。この手続きが大変なのです。

 今の日本では、相当に頭のいい、私たちの会員の読書人階級の人たちの理解を何とか得られるように、君の論文を、私が、読み解いて、解説しつくさなければ、ならないのです。この作業が大変なのです。そのために、副島隆彦の頭脳が、この国に出現し、需要されているのです。私の頭と口と文章を、経なければ、「実感を伴ってなるほど、と理解する」ということがなかなか出来ないのです。

 私が、いつももどかしく思い、「どうして、みんなは、このことを分かってくれないのだ」道端(みちばた)に倒れ伏しそうになるのは、こんな時です。 ですから、どのように君の優れた論文をどのように「上手な見せ方に」処理するかを、私が真剣に考えますから、しばらく、お待ちください。

 私は、バード君の以下の論文で、「エジプトとメソポタミアだけが、紀元前3千年ごろには、古代世界の肥沃な地帯であり、そこに文明=世界帝国が出現したのだ」ということを知りました。やっぱりそうだっかのか、という気持ちです。 かつ、一番初めは、エジプトの方が大きくて、アフリカがどんどん乾燥していった残りのナイル河の肥沃な地帯だった。

 そこに出現していた大きな王権があって、セソストリス王という王とが、はるばる出かけて行った。 しかし、それは陸続きに、あるいは、沿岸部を船も使って、「肥沃な三日月地帯」だったところを、ずっと遠征して行って、そして、シュメール人たちがいた、メソポタミアの大平原までやってきた。そしてシュメールの都市国家群を征服して、そこに、人類で始めての古代帝国を築いた。

 それが同時に、「人類史の4大文明」と言われるものの誕生、発生 と同じことでもあるのだ、ということを、私は君の論文から、はっきりと知り、非常に満足しました。

 この喜びを、なんとしても、他の人たちにも、伝えなければなりません。ただし、時間をかけて、です。どうせ時間がかかるのです。 ヘロドトスの「歴史」の記述は正しかった。

 モーセは、本当は、エジプトからではくて、バビロン(バグダッドから)脱出(Exodus 、エグゾダス、出エジプト)したのだということの更なる研究をよろしく。

副島隆彦拝

—– Original Message —–
From: “Toriu Mamoru”
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Sent: Sunday, May 28, 2006 4:57 PM
Subject: 簡単な一言で結構です、批評を戴ければ幸いです。

副島隆彦先生へ

須藤喜直様へ
鳥生(バード)です。いつもお世話になり有難うございます。

 ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)には、初期王朝時代(前3000年-2660年頃)にエジプト王(ファラオ)セソストリスによる「大遠征」があったことが書かれています。

 しかしこれは一般に無視されています。添付ファイルでの私の提出論文は、この人類史上の特筆すべき「大遠征」があったのではないかというのがテーマです。お忙しい中、また度々のことで、まことに申し訳ないのですが、もちろん簡単な一言で結構です、批評を戴ければ幸いです。  以上です。

(ここからが、バード論文です。副島隆彦注記)

「前3000年頃に、エジプトによる大遠征があったのでは     ない か。――バード筆 2006.0?.??」

はじめに

 ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)には、初期王朝時代(前3000年-2660年頃)にエジプト王(ファラオ)セソストリスによる大遠征が書かれている。一般の歴史書はこれを無視し、これを記すことはないが、これはあったのではなかろうか。

エジプト王(ファラオ)によるアジア・ヨーロッパへの大遠征ついての記述

ヘロドトス(前485-425年頃)は『歴史』において、エジプト王による大遠征を書いている。エジプト王(ファラオ)のセソストリスは、有史以来、初めて艦隊を率いて紅海からアラビア海、ペルシア湾までの沿岸住民を征服したという。

  彼はさらにその遠征からエジプトに帰還後、大軍を率いて大陸を北上し、その進路の民族をことごとく征服し、アジアばかりではなく、トラキア(エーゲ海北岸、黒海西南岸)、スキュティア(黒海西北岸)などのヨーロッパにまで達したという。また、エチオピアをも征服したという。

(引用開始)

ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から

  そこで私もこれら諸王のことは措き、彼らの後に王位に就いたセソストリスという人物について語ることにしよう。   司祭たちの語るところによれば、セソストリスは有史以来初めて艦隊を率いて「アラビア湾」(訳注1)を発し、「紅海」(訳注1・2)沿岸の住民を征服したということで、彼はさらに船を進めて浅瀬のために航行不能の海域にまで達したという。

 その遠征からエジプトに帰還すると――祭司たちの話は続く――大軍を召集して大陸を席巻し、その進路を阻む民族をことごとく平定した。独立の維持に懸命となって勇敢に戦う民族に遭遇するごとに、セソストリスは自分と祖国の名および自分の武力によってこの民族を征服した次第を記した記念柱を、その国に建てるのが例であった。

 また戦闘もなく容易に町々を占領できた国には、勇敢に戦った民族の場合と同様の事項を記念柱に刻んだ上、さらに女陰の形を彫り込ませたのである。それによってこの国の住民の怯懦〔きょうだ、臆病で意志が弱いこと-引用者〕であったことを示そうとしたのである。(巻2-102)

[訳注1]たびたび注しているように、「アラビア湾」が今日の紅海、「紅海」は主としてインド洋を指す。(P425)

[訳注2]ここにいう「紅海」は今日慣用の語より広義で、紅海のみならずアラビア湾、ペルシア湾をも含む。「南の海」と呼ぶこともある。この用語法は今後も頻出するので、括弧に入れてそれを示す。なお、これに対して次の「こちらの海」は、いうまでもなく地中海を指す。(P391)

 かくしてセソストリスは大陸を席巻し、アジアからヨーロッパに渡り、スキュタイ人およびトラキア人をも征服するに至ったのであるが、これはエジプトの軍隊が達した最遠距離の記録であると私には思われる。というのは右の民族の国土では例の記念柱がたっているのを確認できるが、それより以遠にはもはや見られないからである。(巻2-103)

 またエジプト王でエチオピアに君臨したのはこの王ひとりである。(巻2-110)

(引用終了)

バードです。 このエジプト王セソストリスが大遠征をしたらしい。ヘロドトスはメンフィスのヘパイストス(プタハ)神殿の祭司(神官)たちからそれを聞いたのだ。その際ヘロドトスが、この神官たちの話に対して疑念を抱いている様子は全くない。エジプトの大遠征がずっと大昔にあったのは皮膚感覚として了解しているかのようだ。

 しかし上の引用にみるように、それは驚くほど簡単に書かれている。したがって、その全容がよく分かるように書かれてはいない。実に不親切でそっけない記述であり、ここはヘロドトスらしくない箇所である。これでは、この「大遠征」の実体はよく判らない。

 ヘロドトスは本当にこのように不親切に書いたのであろうか。それとも写本時の編集の際に、詳細説明の部分が省略されたのであろうか。私は現在、後者の「省略された」可能性が大きいだろうと想像している。

 それはともかく、ヘロドトスの『歴史』の記述から、なんとか、この「大遠征」の実体を読みとってみよう。その際に、留意すべきポイントが5つある。それを次に示そう。

(1) 訳注にあるように、本書の訳者松平千秋氏によれば、ヘロドトスの『歴史』では、「アラビア湾」が今日の紅海であり、「紅海」がアラビア海、ペルシア湾、インド洋などを指すという。これは注意しなければならないことである。これに従った理解をする必要がある。

(2) 次に、上記の引用では、「浅瀬のために航行不能の海域にまで達した」とあるが、これはどういうことか。海域ならば浅瀬であっても上陸できるし、水深のあるところを迂回すれば先へ進めるはずだ。どうとでもなるだろう。これはあまり意味ある言葉ではない。ここは、河川の遡行(そこう、川の下流から上流へさかのぼって行くこと)のことを言おうとしたのではなかろうか。

 つまり、ここは「浅瀬のために航行不能になるまで河川を上流までさかのぼった」とか「河川は船でいけるところまで上流に行った」ということを言おうとしたところだと解すべきではなかろうか。今はそういうように読み替えを行なうことにする。

(3) エジプトに帰還の後、再度大軍を率いて大陸を席巻した時、艦隊を使ったとは書いていない。なんとなく艦隊を使わなかったかのような雰囲気にもみえる。しかし、艦隊を使わ・u桙ネいというのは、いかにも不自然である。それは無理がある。もとよりヘロドトスの記述は、艦隊の使用を否定するものではない。そこで、その二度目の遠征のときも艦隊を使ったこととする。

(4) この遠征による征服地域は、大帝国アケメネス朝ペルシア(前546-330年)の最大版図と同等かそれ以上の地域であるだろう。これは、次のような記述があるからである。

(引用開始)

ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から

 ペルシア王ダレイオスが右の像〔エジプト王セソストリスの家族の巨大な石像6体-引用者〕の前面に自分の像を建てようとした時、ヘパイストスの祭司は、ダレイオスにはセソストリスの果たしたほどの業績がないといって、それを許さなかった。セソストリスはダレイオスに劣らず多数の民族を征服したのみか、スキュタイ人をも平定したが、ダレイオスはスキュティアを占領することができなかった。

 されば功業においてセソストリスを凌駕することができなかった者が、その人の奉納した物の前に自分の像を建てるのはよろしくないというのである。祭司の言葉に対し、ダレイオスもこれを了承したという。(巻2-110・u栫j(引用終了)ペルシア王ダレイオスとは、おそらくペルシア帝国のダレイオス1世(在位前522-486年)のことだろう。

 その頃は、エジプトはペルシアに征服されていた。そのダレイオス1世に対してエジプトの祭司(神官)が、スキュティア(黒海西北部および北部地帯)を征服したかどうかの分、エジプト王セソストリスに及ばないとして、反論し了承させている。それでエジプトから見れば自分たちの神聖な場所に、異民族の支配者の石像を設置しなくて済んだのだ。ということは、エジプトの支配地域がダレイオス1世当時のペルシア帝国と同等か、あるいはそれ以上の広さであったということだ。

 ダレイオス1世の治世にペルシア帝国は最大版図となり、東はインダス河流域から、西は小アジア、トラキア(エーゲ海北岸)、エジプトまでである。

(5) ヘロドトスの『歴史』によると、初代エジプト王ミンがいてメンフィスを開きその地を安全して、「広大なヘパイストス神殿(エジプト名はプタハ神殿)」を建立したと書いている。(巻2-99)セソストリスが、この初代エジプト王から何代目かは書かれていないので、判らない。

 が、このセソストリスの4代後のケオプスが大ピラミッドを建造したとなっていぁw)?@Αι豎譟ΑΡ譟ΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΡ譟ΑΑΑΓ貲譯譯譯譽譯譟Γ貲譯譟ΑΑ譟τ譽髻ΑΑΑΑΑΓ譟Ψ譟Ρ譽豺紂並6-2181年頃)の第3王朝期(前2686-2613年頃)から建造されたので、セソストリスは初期王朝時代(前3000-2686年頃)の人である。その第1王朝(前3000-2890年頃)か第2王朝期(前2890-2686年頃)の人だ。

 ヘロドトスは、エジプト王3代で100年として計算している。これに従って計算すると、セソストリスは前2820-2786年頃となる。ただし、セソストリスからケオプスまでを実際の王位継承通りに記したかどうか、はなはだ疑問である。途中少しずつ省略している可能性がある。

 だからもっと古い人である可能性がある。ここではとりあえず、セソストリスは前3000-2800年頃の人とする。以上のような留意点を考慮して、ヘロドトスの『歴史』をつなぎ合わせると、次のような「大遠征」があったことになる。

 前3000-2800年頃、エジプトによる「大遠征」があり、東はインド沿岸、インダス河流域、イラン南岸、メソポタミア、南アラビア、エチオピア、パレスティ・u档i、シリア、小アジア(トロイアが含まれる)、クレタ島、トラキア(エーゲw)海北岸)、スキュティア(黒海西北岸)を支配したというエジプト王の事績が浮かび上がってくる。

 おぼろげながらではあるが、ヘロドトスの『歴史』にはそのことが書かれている。(ただし、ギリシア以西に関しては、その征服は断じてなかったと言っている。ヘロドトスがそう書いたのか、写本時にそうなったのか、判らないが。)

ヘロドトスがあげた「大遠征」の証拠ヘロドトスはその遠征は実際にあっただろうと考え、証拠を4つほど挙げている。

(1)  ヘロドトスが第一に挙げているのは、コルキス人の存在である。黒海東岸のパシス河はアジアとヨーロッパの境界にある。(この境界はヘロドトスの時代から現在まで変わらない。)そのパシス河流域のコルキスに住むのがこのコルキス人である。ヘロドトスは、このコルキス人がエジプト人であり、これはその「大遠征」従軍兵士の一部がそのときにここに住みついたのであるとして、その証拠としている。(巻2-103~104)

 コルキス人は色が黒く髪が縮れていること、世界中でコルキス人とエジプト人とエチオピア人だけが昔から割礼を行なっていること、コルキス人はエジプト人と同じ方法で割礼を行・u桙ネうこと(フェニキア人およびパレスティナのシリア人はその風習をエジプトから学び、小アジア東部カッパドキアのシリア人はコルキス人から学んだという)、エジプト人と同じ方法で亜麻を栽培していること、これらがコルキス人がエジプト人であることを示すという。(巻2-104~105)

(2)ヘロドトスが第二に挙げているのは、記念柱の存在である。ヘロドトス自身が、エジプト王が建てた記念柱をいくつかパレスティナ・シリアで見たというのだ。

(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から

エジプト王セソストリスが各地に立てた記念柱は、大部分失われて残っていないが、私はパレスティナ・シリアで現存するものをいくつか見た。それには前述の碑文や女陰の形も刻まれていたのである。(巻2-106)

(引用終了)

バードです。 エジプトの支配から脱したところにおいては、この記念柱はその地の新たなる支配民族によって撤去されたのであろうが、このパレスティナ・シリアではヘロドトスの時代(前5世紀)まで残っていたのだ。女陰の形があるので、その地では戦わずして服従したのだろう。そしてそこはエジプトに近く、エジプトの支配が続いていたということだろう。

 残念ながらヘロドトスはこの記念柱の高さとか幅とかの寸法や材質を書いていない。それは彼らしくない。もしかしたら、彼は書いたのに、後世の写本・編集時に省略されたのかもしれない。

(3)ヘロドトスが第三に挙げているのは、岩壁に浮き彫りにした人物像の存在である。ヘロドトスは自身の目で、その人物像をイオニア地域(小アジア西岸)で、ふたつ見たという。

(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から

 またイオニア方面にも岩壁に浮き彫りにしたこの人物の像が二つある。一つはエペソスからポカイアへ通ずる街道上にあり、他はサルディスからスミュルナに通ずる路上にある。いずれの場合も、4ペキュス半(199.8cm-引用者)ほどの背丈の男の姿が掘り込まれており、その男は右手には槍を、左手には弓をもち、その他の服装もこれに準じている。

 というのは、つまり一部はエジプト式、一部はエチオピア式の服装をしているという意味である。そしてその胸部には、一方の肩から他方にわたって、エジプトの神聖文字で記した碑銘が刻んであるが、その意味は、「われはこの地を、わが肩によりて得たり」というものである。

 それがどこの何者であるかをよそでは碑文に記しぁw)?气ナ譯譟譴里任△襪・海海糧衒犬砲狼?靴討い覆ぁ・修海任海譴蕕料鮓・燭發里涼罎砲蓮△海譴鬟瓮爛離鵝別・蹌院砲了僂反篦蠅靴燭發里盍佑・△襪・・・磴い發呂覆呂世靴い箸い錣佑个覆蕕覆ぁ・粉・押檻隠娃供[訳注1]トロイア戦争において、トロイア方の援軍として参加したエチオピアの王。(引用終了)ヘロドトスは、エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)で「われはこの地を、わが肩によりて 得たり」 という意味の碑銘が刻まれているのを見たというのだ。

 これはエチオピア王の像だという学者も幾人かいたが、ヘロドトスはエジプト王セソストリスのものだとしている。(ここでトロイア方の援軍としてエチオピア王が参戦したとあるが、これはトロイアとアフリカ、つまりエジプトとエチオピアの深い関係を暗示している。トロイアはエジプトによって建設されたのではないだろうか。)

(3)ヘロドトスが第四に挙げているのは、メンフィスのヘパイストス神殿(エジプト名はプタハ神殿)の6体の巨大人物石像の存在である。このエジプト王は自分の業績を記念するために、高さ13mの石像2体と9mの石像4体の巨大石像を建てたのだ。

(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から

  彼は自分w)の功業を記念するために、ヘパイストス神殿の前に、自分と妻の姿を写した30ペキュス〔13.3m-引用者〕もある二個の石像と、四人の子供のためにはおのおの20ペキュス〔8.8m-引用者〕の石像を残している。(巻2-110)

(引用終了)

バードです。 この6体の石像は、現在はなくなっているが、ヘロドトスは明らかにそれらを見たはずである。残念ながら、これもこれ以上詳細に書かれていない。彼らしくないと思う。以上4つが、ヘロドトスが挙げた証拠である。

 その他考えられる「大遠征」の証拠これまで述べたように、ヘロドトスはメンフィスのヘパイストス神殿(プタハ神殿)の祭司(神官)からエジプト王の「大遠征」を聞かされて、特別疑いを持った雰囲気はなく、むしろ当然のように聞いている様子である。おそらく、ヘロドトスの時代、すなわち紀元前5世紀には、人々の間ではそのようなことは、広く人びとが共有する記憶であり、常識であったのではなかろうか。

 そのヘロドトスは先の4つの証拠を挙げたが、現在の歴史学からあげると、次の2点が挙げられると思う。(1)第一の証拠は、といっても状況証拠であるが、エジプトぁw)?气气气气カ辰塙餡氾譴任△襦 前3000-1000年頃までは、世界の総人口の過半がメソポタミアとエジプトの狭い地域に集中して住んでいて、その人口はそれぞれ数百万人あるいは1000万人以上であった。それに対して、それ以外の地域の総人口は、数百万人規模でしかなかったという。つまり、当時はメソポタミアとエジプトが突出して栄えていたというのだ。

(引用開始)
 佐藤次高&鈴木董ほか『都市の文明・新書イスラームの世界史1』(講談社現代新書、1993年)から

 メソポタミアとエジプトの当時〔前3000年頃のこと-引用者〕の人口は、それぞれ数百万人規模とも、1000万人をこえていたとも想定されている。世界のその他の地域の総人口は、数百万人規模であったろう。

 それぞれが百万ヘクタールの、二つの地域に、世界総人口の過半が集中して、そこだけに文明があった時代がおよそ2000年間〔前3000-1000年頃のこと-引用者〕続いたのである。この中東の歴史は重い。(P38)

(引用終了)

バードです。 このようにこの時期は、メソポタミアとエジプトだけが世界に抜きん出て力があったのだ。実はメソポタミアにしてもエジプトにしても、その可住地域は狭い。それぞれチグリス・ユーフラテス両河流域、ナイル河流域に沿った狭い地域なのである。

 しかしここで灌漑農業 (かんがいのうぎょう。田畑を耕作するのに必要な水を水路から引き、土地をうるおすなど、水利をはかる農業) が始まると、非常な余剰生産をもたらし、ここだけが栄え、大人口増加をもたらしたのだ。このような時期にエジプトは世界ではじめての国家統一がなり、これによってエジプトは圧倒的に優位にたったのである。

 メソポタミアは文明の発達はエジプトよりも早かったのであるが、ティグリス、ユーフラテス両河の激しい氾濫と、北東(山岳地帯)と西南(乾燥地帯)からの異民族(蛮族)の侵入があり、その対応に追われていた。それで都市国家を脱して統一国家の形成に至ることはなかった。都市国家に分立したまま外敵に備え、また都市国家同士で不和抗争が絶えない状態であった。外の世界に対して遠征をおこなう発想と余裕はなかった。

(引用開始)
岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)

 シュメール人は灼熱の太陽の下、土と水を相手に「エデンの園」の建設にはげむ。しかしそれは決して容易なことではなかった。彼らの生活を脅かすものが絶えず周囲に存在した。害虫、猛獣、毒蛇、病原菌の類がそれである。それに、この地に侵入をはかる異民族があとを絶たなかった。

 シュメールの地をも含めて、メソポタミアは、エジプトのように周囲を自然の防壁で保護されているわけではない。西からは遊牧民がうかがっていた。北や東からは山岳民がねらっていた。それにシュメール人どうしでも、水や土地の問題をめぐって、早くから不和抗争が絶えなかったであろう。しかし、かれらの生活をおびやかす最大のものは、またしても水であった。

 エジプトが「ナイルのたまもの」といわれるように、たしかにメソポタミアも、ティグリス、エウフラテス両河のたまものであったにちがいない。けれども、エジプトのナイル河の氾濫は文字通り定期的で、その年ごとの増水の速度も緩慢なものだった。

 だから古代エジプト人が恐れたのは、氾濫ではなくて、むしろ氾濫の不足、つまり「低いナイル」であって、それは飢饉、飢餓を意味していた。反対に「高いナイル」は、豊作を示すものであった。

 ところが同じく肥沃な沖積土を運んだと入っても、チグリス、エウフラテス両河は、ナイルにくらべてはるかに始末におえなかった。川はそのコースを絶えずかえたし、また川が運ぶ土の沈殿が水路をすぐにだめにしてしまう。そしてさいごには、土砂の堆積のため浅くなった川を流れる水が、堤防自体を破り、いっさいのものをのみつくす。

 当時のシュメール人は洪水の危険に絶えずおびやかされていたことは、考古学的調査によっても知ることができる。(略)メソポタミアは、一方では聖書の作者に「エデンの園」のイメージをあたえていながら、他方では「ノアの洪水」の伝説も、この地が起源となった。

 シュメール人の住みついた土地は、最初から楽園であったわけではない。楽園にするために、かれらは土と水を相手にし、そしてこの地に侵入してくる人たちと争わなければならなかった。これらがシュメール人のすべてを決めていった。(P31-33)

(引用終了)

バードです。 このようにメソポタミアは、異民族と洪水に悩まされた。しかしエジプトは、ナイルは穏やかな河であった。ナイルの東西は砂漠であり、エジプトの南端以南には6つの急端(滝にような早瀬)があって航行不能であり、外敵の進入路はナイル河口からしかなかった。そういう自然の防壁で保護されていた。

 それゆえ外敵の侵入は比較的簡単に防ぐことができた。その自然的、地理的条件はメソポタミアよりはるかに恵まれていた。それが、エジプトに世界最初の統一王朝ができた大きな要因であったのだろう。だから統一されたエジプトだけが、この時代世界の中で圧倒的に強かった。それで、先述した前3000-2800年頃の「大遠征」が可能であったのだ。

(2) 第二の証拠は、メソポタミアには、初期王朝時代にキシュ第1王朝が成立したことである。年表によると、これは前2900年である。キシュはシュメールの北方、のちのアッカド地方に位置する都市である。キシュ王国成立のときから、メソポタミアの地に王権という覇権の概念が登場したというのだ。そしてそれ以後「キシュの王」の尊称は長く続いたという。

(引用開始)
大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮『世界の歴史1・人類の起源と古代オリエント』(中央公論社、1998年)から

 ウバイド期は、0,1、2、3、4期に分類されるが、つづくウルク期(前3500年~前3100年頃)やジャムダド・ナスル期(前3100年~前2900年頃)にいたるまで、南部メソポタミアでは文化の大断絶はない。(P151-152)

 最古の粘土板記録が成立したウルク後期の最末期(おそらく前3100年頃)から初期王朝期。 Ⅲ期までがシュメール人による都市国家時代である。(P165)

「洪水が襲った。洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。王権はキシュにあった」。キシュでは計23王が即位したという。「洪水」後はじめてのこの王朝を、われわれはキシュ第Ⅰ王朝とよんでいる。キシュはシュメールの北方、のちのアッカド地方に位置する都市であった。(P166)

 キシュには、ごく古くからセム人が住みつき、彼らが強大な王権をうちたてたのであろう。王朝表では、キシュ第1王朝初期のほぼすべての王たちに、セム後の名前が与えられている。けれども、王朝創始者であるかのように位置づけられているのは、第13代エタナであった。彼は「牧人であり、天に昇り、国々を平定し」、1560年治世した。

 前2000年紀のはじめまでには、『エタナ物語』がアッカド語で書かれた。これによれば、神々によってキシュの王権を与えられたエタナが、のち「子宝の草」を求めて、鷲(わし)にのって天にのぼったのである。エタナより数えて9人目のエンメバラゲシ、そしてその息子のアガは、確かに実在したのであろう。

 アガのときにキシュの覇権は終わる。「キシュは武器もて打たれ、王権はエアンナ(=ウルク)へうつった」。ウルク(第1王朝)では、まず太陽神 ウトゥ の息子が324年統治したという。けれどもアガと同世代だったのは、第5代のギルガメッシュである。(P168)

 セム人はおそくとも前3000年紀〔前3000年-前2000年までのこと-引用者〕のはじめには、南メソポタミアの北部地方、つまりのちのアッカド地方に住みついていた。王朝表は、大洪水の後、北部の都市キシュが全土の覇権を得たとしているが、たしかにセム人が強大な王国をキシュに建設していたのであろう。セム人ははやくからシュメール地方の一部にまで進出している。(P182)

 マリ出土碑文ではメスカラムドゥは「キシュの王」を名のっていたが、その息子とおもわれるメスアンネパダも、ウル出土の円筒印章で「ウルの王」でなく「キシュの王」とされていた。都市国家ラガシュやウルクの支配者のなかにも、「キシュの王」という称号をもったものがいる。

 北方にまで支配権を及ぼそうとした諸都市王が、好んでこの称号を用いたのである。古い時代には、キシュの強大な王権がシュメール南部にまで影響力をもっていた。この記憶のために、「キシュの王」という尊称が生まれたのであろう。(P175)

《年表》(P548-549)
・3300-3100年 ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物がさかんに作られる。ウルク後期最末期(エアンナⅣa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始。

3100-2900 年メソポタミアでジャムダド・ナスル期。シュメール都市文化が各地に伝播。

2900-2750年 シュメール初期王朝Ⅰ期。このころアッカド地方で強大な王権が存在(キシュ第1王朝)

2750-2600年 シュメール初期王朝Ⅱ期。このころエンメルカル、ギルガメッシュらのウルク第1王朝か

2600-2350年シュメール初期王朝Ⅲ期。このころウル第1王朝。シュメール・アッカド諸都市国家の抗争も活発化。すこし後に、シュメール北部のシュパルク(ファラ)やアブ・サラビクで最古のシュメール文学テキスト成立。(サルゴン大王のアッカド王朝が成立するまで)

(引用終了)

バードです。 この歴史書は恐る恐るキシュ王国のことを書いているようだ。がともかくここでは、セム人は早くからシュメール地方の一部にまで進出し、前2900年頃強大なキシュ王国を建設し、メソポタミア全土の覇権を得ていたということが書かれている。おぼろげではあるあるが、これがエジプト王の「大遠征」の証拠ではなかろうか。

 この「大遠征」の時に、この「大遠征」を背景としてキシュ王国を中心にして、セム人がメソポタミア全土を征服した。ということではないだろうか。ちなみに、その後メソポタミア文明で重要な役割を果たしたアッカド人、バビロニア人、アッシリア人などは、セム系の諸民族である。また、フェニキア人もイスラエル人もセム系の民族である。

 引用文中では、ウルク後期の最末期から初期王朝期Ⅲ期まで(前3100年-2350年頃)が、シュメール人による都市国家時代であるとする一方で、ウバイド期(前5300-3500年頃)、つづくウルク期(前3500年-前3100年頃)やジャムダド・ナスル期(前3100年-前2900年頃)にいたるまで、南部メソポタミアでは文化の大断絶はないとも言っている。

 だとするならば、前2900年頃、文化の断絶があったということだろう。この断絶は、「セム人の進出」だったのであり、それはすなわち、エジプト王の「大遠征」によるメソポタミア支配だったのではなかろうか。だから、キシュ王とは、エジプトから見れば、総督(地方・u梺キ官)であったのだろう。

(この総督を従属する異民族に任せたのが、エジプトの失敗だったかもしれない。それは長く続くことはないからだ。長い目で見れば、失敗だろう。エジプトから見れば、総督は自民族で構成すべきであったろう。)

 以上の2つが、現代の歴史学から見た証拠である。この時期、エジプトはメソポタミアを征服し、支配したのだろう。だとすれば、世界人口の過半がメソポタミアとエジプトに集中していたこの時期に、エジプトがその他の地域を征服することは比較的簡単であっただろう。

 以上によって、ヘロドトスの『歴史』における、エジプトは前2900年頃メソポタミアを支配し、その他にも広大な地域を征服、支配したという記述はほぼ間違いないとみていいのではなかろうか。このようにみると、エジプト王セソストリスによる「大遠征」は前2900年頃の出来事ということになる。第1王朝と第2王朝の境目である。そのどちらになるかは判らない。

「大遠征」の否定説ところが、この「大遠征」はなかったことのように否定されている。この否定説が一般である。訳者の松平千秋(まつだいらちあき)氏も、訳注で「異論はある」としながらも、第19王朝のラムセス2世のことだとしている。また、藤縄謙三(ふじなわけんぞう) 氏も同じく、ラムセス2世の遠征だろうとしている。

(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から

[訳注] セソストリスは普通第19王朝のラムセス2世(前14世紀後半〔ママ-引用者〕)のこととされる。ただし異論はある。(P425)

藤縄謙三『歴史の父 ヘロドトス』(新潮社、1989年)から

 さて、右の王名表に続く時代の王たち十代になると、様相は一変し、神官たちは詳細に事蹟を物語る。例えば、その第一代目のセソストリス王は、名前から言えば、第十二王朝の Senwosret を指すらしいが、国外へ大遠征を敢行しているから(巻2-102~110)、その点から言えば、第十九王朝のラムセス二世(前1290-24)を指しているようである。

 遠征から帰ったセソストリス王は、捕虜たちを強制労働に使役し、全土に縦横に運河を開削させて灌漑し(巻2-108)、国民の各々に同面積の方形の土地を分与して、年貢を課したという(巻2-109)。要するにエジプト王国の経済や財政の基礎は、この王によって置かれたことになる。(P168)

(引用終了)

バードです。 藤縄氏は、国外への大遠征はラメセス2世のこととし、遠征で連れてきた捕虜たちを使役したのは、セソストリス だというのである。そして遠征の記述に対してはなにも論及しない。これは変な論理である。

 これが世界の学界の動向なのであろう。だから普通、この大遠征を書いた歴史書はないのだ。エジプト王で最大の遠征をしたのはラメセス2世だということだろう。しかしラメセス2世は北シリアのカデシュで五分五分の激戦をしたのみで、それ以上北に進めなかった。つまり、小アジアへさえも進めなかったのである。また、紅海やアラビア海への遠征もないようだ。

(引用開始)
岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)

 この(第19)王朝が理想としたのは、第18王朝時代の繁栄を取りもどすことであった。夢よもう一度というわけである。ラメセス1世(在位前1303-02年ごろ。ギリシア名、ランプシニトス)が在位わずか2年で死んだあと、セティ1世(在位前1302-1290年ごろ)、ラメセス2世、メルネプターの諸王は失地回復につとめた。

 かれらはたびたび西アジアに出兵したが、南下するヒッタイト国の勢力と衝突して、戦局は思うようにはかどらなかったらしい。ラメセス2世 (在位前1290-24ごろ)がヒッタイト軍とまじえたカデシュの戦い(前1285)はことに壮烈をきわめた。その模様は両国の記録にくわしくとどめられて、今日まで伝わっている。

 戦機いよいよ到来したとき、ファラオは、敵のスパイの偽情報をまに受けたばかりに大敗を喫し、奮戦のすえ、やっと危地を脱することはできたものの、この戦いでエジプト軍は甚大な損害を受けて、南に退いた。このように何度も戦いが繰り返されたのち、両国間には平和条約が結ばれた。ラメセス2世はのちにヒッタイト国の王女を第一婦人に迎え、永遠の友好関係を誓っている。(P245)

(引用終了)

バードです。 このように、『歴史』の「大遠征」とラメセス2世の遠征は全く違う。なのにどうして、これらを同一視しようとするのであろうか。そして、この「大遠征」の記述に対しては論評を避けている。エジプトの神官がこれをラメセス2世の事績として話したのならば、ヘロドトスにはそれはウソだと判ったはずで、この記述はなかったか、もっと異なったものになったであろう。

 ヘロドトスは初期王朝期の事績として聞いたはずである。この「大遠征」がラメセス 2世の遠征のことであるとするならば、ヘロドトスが ウソを書いた、あるいはエジプトの神官に騙されてそのままウソを書いたということになる。

 実際、一般には、『歴史』のこの部分(巻2-102~110)は事実無根の架空の話、間違いだらけの記事として扱われているのだと思われる。そしてそれゆえ、この部分は歴史学から無視されているのだろう。

むすび

 このように、ヘロドトス『歴史』に書かれたエジプトの「大遠征」は、なかったことになっている。初代エジプト王が建てたヘパイストス(プタハ)神殿は、今はほとんど跡形もなく、ナツメヤシが茂る畑地になっているようだ。セソストリスの建てた6体の巨大石像も跡形もないのだろう。

(引用開始)
尾形禎亮監修『ナイルの遺産-エジプト歴史の旅』(山川出版社、1995年)から

 メンフィスは、統一王朝の成立後間もない時期に上下エジプトの境界に建設された都であった。この都は初め「白い壁」インブウ・ヘジュとよばれたが、のちにペピ1世のピラミッド名をとってメンネフェルとよばれるようになり、これがさらに転訛(てんか)してメンフィスとなった。

 メンフィスの町は、古王国時代まで首都として栄え、その後も長らく下エジプト第一州の州都として重要な位置を占めていた。ミート・ラヒーナ村の近くにあるメンフィスの遺跡には、かつての繁栄をうかがわせるものはほとんど残っていない。

 わずかに、メンフィスの主神プタハの神殿跡とそのまわりにいくつかの遺物、たとえば石灰岩製のラメセス2世の横たわる巨像や、アメンヘテプ2世のものとされるスフィンクス、聖牛アピスのミイラづくりに使用された解剖台などが散在しているだけである。(P79)第1王朝成立後(前3000年頃)首都であったメンフィスの主神プタハを祀った神殿のあったといわれる遺跡跡。かつての繁栄を物語るものは残っていない。(巻頭・写真でみるエジプト-メンフィス)

(引用終了)

バードです。 これは、エジプトが最も栄えた時代の遺跡が徹底的に破壊されたということである。いつごろだれがなぜ破壊したのだろう。この破壊とともに、エジプト初期王朝時代の歴史が消えてなくなったようだ。これによって、この「大遠征」の具体的証拠はなくなったのだろう。

 しかしそれでも、私はこの「大遠征」はあったと思う。さらに、ヘロドトスの『歴史』は、この「大遠征」はトラキア、スキュティアまでだとしているが、私は、艦隊を率いて、ギリシア、・・・スリア、フランス、スペイン、アルジェリア、チュニジア、リビアと地中海を焔uれたのではないかとさえ考えている。

 当時それがあったとしても、ちっとも不思議ではないと思うのだ。(言うまでもなく、このころはまだ、ギリシアの地にギリシア人はいなかった。ローマ人はローマの地にいなかった。)

 私は、歴史知識があるわけではない。歴史学者からみれば、中学生程度の知識しか持ち合わせていないだろう。ここ数年当学問道場で得た知識によって、歴史にウソがかなりありそうだと確信し、それから歴史を批判的、多面的に読み出したばかりである。

 だから、エジプトの支配があった場合どういう意味になるのか、またエジプト文明の評価がどうなされているのか、どうなされるべきか、そういうことは判らない。またエジプトを深く知るにはどんな本がよいかなど、知らない。

 しかし少ない知識でもそれらを丹念につなぎ合わせれば、見えなかったものが見えてくる。無視され抹殺されたところも見えるようになる。そのわずかの知識・情報を検討した結果、エジプトの征服が、その頃(前2900年頃)あったのではないかと思うのだ。またそう考えれば、この時代の人類史の据わりがよくなると、感じてのことだ。(了)

(鳥生バード論文、転載終わり。副島隆彦記)

From: “副島 隆彦” GZE03120@nifty.ne.jp
To: “鳥生 守 様
Sent: Saturday, December 09, 2006 9:49 AM

鳥生 守君へ

副島隆彦です。
 私は、去る2006年11月4日の私たちの講演会でも話したとおり、、君の学説を採用して、セソストリス王が、紀元2900年ごろに、エジプトから攻め進んで、メソポタミア(シュメール)人がずっと住んでいた地帯、今のバグダッド=バビロン 周辺)を征服して、人類で最初の、世界帝国(世界覇権国)である。

 セム族=もともとの北アフリカ黒人系?=による征服王朝?)をつくり、これが、そのまま人類の古代文明のはじまりである。そして以後、ずっとこの5千年間、ここが人類のすべての文明のである、と言う考え。

 そして、セソストリス王は、トルコ(小アジア半島)から、さらに先の方まで、ずっと征服して回った、本当の大王(大王というのは、本当にものすごく戦争が強かった王だけに与えられた尊称である) だという考えに賛成します。

 ところが、このセソストリス王の記述は、ヘロドトスの「歴史」中で、わずか、2ページだということ。このことが少し気になります。

 それから、「船で紅海(こうかい)を渡った」とか、書いてあります。私は、当時の、紀元前3000ぐらいは、エジプトからメソポタミアまで、ずっと、森林(レバノン杉のような大木が生い茂る)もあったような沃野(よくや)が続いています。

 そして、草原や農耕地にも部分的 (川のほとりとか)にははなっていて、そこをたどって、セソストリス王のエジプト人の軍団がメソポタミアまで、攻めて行って、征服したのだと、考えています。 すなわち、当時は、シナイ半島も今のような砂漠ではなかっただろう、と。

 ですから、船で、アラビア半島に渡った部隊もいただろうけれども、本隊は、陸路を行ったはずだ、とどうしても考えます。 この辺が、私は、どうもしっくり来ないのです。

 この紀元前3000年(今から丁度5千年前)問題を、第四?氷河期(最後の氷河期)の終わりの時期との関係で、まだ、確定できないのです。それで、まだ、考え込んでいます。さらに最新の君の考えを教えてください。  副島隆彦拝

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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