「27」 西郷隆盛は、征韓論(せいかんろん)など唱えていなかった。どうやら西郷つぶしの謀略があったようだ。やっぱりそうなのです。副島隆彦
副島隆彦です。今日は、2007年2月16日です。
以下に載せるのは、「西郷隆盛のホームページ」というサイトの中の、「西郷隆盛の生涯」という伝記風の偉人解説文の中の、その中の一章として、載せられたいました、
「西郷隆盛の遣韓論(けんかんろん)」という一文です。ものすごく重要な文章でしょう。かつ、大変すばらしい筆致で書かれています。
書いた人は、「tsubu(ツブ)」と名乗る人物で、彼が主宰するサイトのなかの、彼の文章のようです。 私、副島隆彦は、以下の文章は、きわめて重要だと、一読して分かりました。
それで、ひとまず、以下に転載します。この場合、まだ、上記のブツ氏の転載許可をもらっていません。それで、彼から抗議がくることが大いに予想されます。そのときは、謝罪して、すぐに以下の貼り付けを削除します。
このブツ氏のような、匿名、仮名の人のサイトには、責任と所在の明瞭性がありませんので、どうも、私は、すぐには、転載以来のメールを出す気にならないのです。
どうか、優れた言論は、書き手の姿を、ある程度は、はっきりさせて、自分の全人生の実像を明らかにした上で、堂々とやっていただきたい、というのが、私、副島隆彦の願いであり考えです。
こんな、ネットばい菌がうようよしている危険な時代に、自分の姿形(すがたかたち)を、表にさらして、どういう攻撃がかかるか分かるか、分からないのに、勇気がある、というよりもただ単に、裸(はだか)踊りをしているだけだ、という、生来、慎重で用心深い人たちの考えは、私も分かります。
それでも、自分の実像と姿をさらして、勇気を持って、公開の場で、しっかりと、はっきりと、責任のある言論と思想活動をする知識人、言論人が、層を成して出現しなければ、一国(いっこく)の国民の自由は守れないのです。この切実さを、どうか、すべての人が分かってください。
私は、知識、思想、言論、は、なるべくみんなのもの(公共の財産)であるべきだから、著作権の過度の主張のしすぎは、いけないと思っています。 私自身は、自分のネットの文章の転載依頼があれば、作為的な人々からの要請でなければ、すぐに応じようといつも考えています。
このネット上の文章の転載問題(ネット文章の著作権問題)は、これから重要な話題になってyくでしょうから、私たちも一種に考えてゆかなければならないでしょう。 とりあえず、転載します。 西郷隆盛という希代の本物の英雄についての、驚くべき本当のことが書かれていました。
私は、以下の課題は、そのうち、この文章を使いながら、それを、「今日のぼやき」で、自分の作品としての評論文として、公正に引用して、優れた内容を称揚(しょうよう)しながら、日本の著作権(これは国際条約でもある)が定めるライト・オブ・クオート(引用権)を行使することで、「フェアコメントの法理」に従って、どんどん、自由に書いて、国民の言論の増大、増進と、学問の真実性の探究のために、努力しようと思います。
ですから、ツブ氏に、以下の勝手な引用、転載を、ひとまずお許しいただきたい。
併(あわ)せて、私は、「第2ぼやき」の建設の必要性をどうしても、強く感じていて、それを近く、「第2東名(高速道路)」と同じように、解説するではないか、と弟子たちに打診しています。副島隆彦拝
副島隆彦です。2007年2月20日に加筆します。
弟子のひとりの小暮君が、以下の本が、「西郷隆盛は征韓論など唱えなかった」を書いた本であると、教えてくれましたので、その出典を書きます。おそらく上記のツブ氏は、この本を使って、まるで自分で調べて書いた自説であるかのように書いたのでしょう。私は、そういう人は好きではない。 常に、出典、典拠を明らかにして、引用をしなければいけません。 ですから私からは、上記のツブ氏には連絡を取りません。その気がなくなりました。
『 西郷征韓論は無かった 附篇・実在した易断(ユタ)政府と岩屋梓梁(いわ・や・しん・りょう)』 窪田志一(くぼた・しいち)著 日本ロマン集団会発行 昭和57年6月10日発行
定価1300円
です。副島隆彦の加筆終わり。
(転載貼り付け始め)
「西郷隆盛の生涯」から
西郷の遣韓論(けんかんろん)
(征韓論の経緯)
いよいよ西郷の一番の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。
前にも少しですが書いた通り、西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。では、なぜ西郷が征韓論の巨頭と呼ばれることが、歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきた、悪化してきたのかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際(国交)を復活させようとしたことに始まります。
元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていました。しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は日本との国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた節操の無い日本とは交際出来ないという判断だったのです。
このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間や暇がありませんでした。当時の江戸幕府としては国内に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
そして、その江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。しかし、その当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。
朝鮮政府としては、先の「皇上」とか「奉勅」という言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。
明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送りつづけましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否続け、一向にらちがあきませんでした。そのため、明治政府は、直接外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
目的を果たせず帰国した佐田は、そのことで激烈な「征韓論」を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわりました。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。そして、この佐田の激烈な「征韓論」に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允でした。
木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかも分かりませんが、これは紛れも無い事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙の中に「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
このように当時の木戸は「征韓論」に熱心になっていたのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、その征韓論ばかりに構っているわけにはいきませんでした。そして、廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまう形になったのです。
しかしながら、前述した佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも熱心に説いてまわっていたので、征韓論は人々の間で次第に熱を帯びてきたのです。そして、明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされたのです。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機にありました。
その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。
(西郷の遣韓大使派遣論)
閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、
「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」
と説明しました。
その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、
「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」
と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。
しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」
西郷の主張することは、まさしく正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。
その西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振りました。
「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす。」
この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。
その意見に西郷は、
「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」
と大隈に言いました。
このように西郷に言われれば、大隈としてももはや異議を唱えることは出来ません。そしてその後、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決出来るのは、自分しかいないとも思い、相当の自信もあったのでしょう。しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。
また、この朝鮮へ派遣される使節には、大きな危険が伴う恐れがあったのです。西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったとしたら、政府にとってこれほどの危機はありません。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。
これまで「征韓論」と呼ばれる一連の出来事の経過をごく軽くですが書いてきました。これを読んで頂ければ分かって頂けると思いますが、西郷のどの言葉や行動にも「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこないことが分かることでしょう。逆に、「征韓論」について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
これとは逆に、西郷を征韓論者だと決め付けている人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡(西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これはまったく当ての外れた推測としか言いようがありません。
この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後も「テーマ随筆」で取り上げていくつもりなので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは紙幅の関係で控えます。しかし、一応この後のこの征韓論争の経過だけを軽くですが、書いていきます。
西郷はその後、紆余曲折の過程を経て、朝鮮使節の全権大使に任命されます。西郷としては大いに頑張るつもりでその準備を始めたのですが、ここに洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が西郷の前に立ちはだかりました。岩倉と大久保は、再び閣議を開き、その席上において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べたのです。理由は次のようなことでした。
西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。
一見すればもっともな意見と思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず殺されて戦争になるということを前提として論を展開しています。しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと主張しているのです。当然、岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べるのには、西郷自身は納得がいきません。ここで西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局は西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定されたのですが。
しかし・・・、最終的には岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいました。岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上すると言い張ったのです。今から考えればそんなバカなことがあるか、と思われるかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。そうなれば、今までの閣議は何のための会議だったのかと思わざるを得ません。一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのです。こうして西郷の遣韓論は潰されたのです。
ここで一つ付け加えます。よくこの「明治六年の政変」(いわゆる征韓論争)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれている本がたくさんあります。しかし、それはまったく事実と反します。まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしているのです。また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、大久保がその後にした事と言えば、明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
また、朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけたのです。これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったのかが分かることでしょう。
いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性を主張するがゆえのまやかしであったと考えるべきではないでしょうか。この「征韓論」に関しては、いずれ「テーマ随筆」で取り上げていきたいと思っています。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝