「9」 6年前に本間英世・日債銀の頭取(社長)が殺された事件の事実情報の記事の集成を載せます。2006.3.20

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副島隆彦です。 今から6年前の、2000年9月20日に、大阪のホテルで殺された、元日銀理事で、あおぞら銀行(旧日債銀
、にっさいぎん)の社長になったばかりの本間英世(ほんまひでよ)氏が殺された(警察は、自殺扱いのまま)事件の、記事を、今頃になってですが、ここに集めて載せておきます。

以下の記事は、楽天のブログの中から私が、見つけたものです。
このようなブログは、覆面か仮名で書いている人が多いですから、私は、彼らへの敬意は一切、払いません。ただ、記事を正確に集めてくれている点だけを評価します。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)


(1)<訃報>本間忠世・日債銀社長が急死 就任直後、大阪で倒れる

毎日新聞 2000年9月20日

 元日銀理事で、今月4日に日本債券信用銀行の社長に就任したばかりの本間忠世(ほんま・ただよ)さんが20日午前9時11分、急性心不全のため大阪市北区の病院で死去した。60歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。自宅は東京都渋谷区代々木4の55の5の104。喪主は妻美智子(みちこ)さん。

 本間氏は、破たんして一時国有化されていた日債銀が今月1日、ソフトバンク、東京海上火災、オリックスの3社連合に譲渡され、民間銀行として再出発するのにあたり、社長に就任したばかりだった。

本間社長は就任以来、支店や取引先へのあいさつ回りを続け、19日夜は大阪支店での会合に出席し、スピーチした後、ホテルに宿泊。20日朝、迎えに行った秘書がベッドの上でぐったりしているのに気づき、救急車で病院に運んだが、死亡が確認された。
本間社長の死去に伴い、日債銀は同日、小寺義信専務が社長代行に就任した。日債銀の筆頭株主であるソフトバンクの孫正義社長は「新体制のスタートを切り、これからという時に誠に残念でなりません」とのコメントを発表した。 【大塚 卓也】

(2)「本間忠世・日債銀社長が出張先の大阪で自殺」


日本債券信用銀行社長の本間忠世(ほんま・ただよ)氏(60)が二十日午前八時三十分ごろ、大阪市内のホテルで首をつっているのが見つかり、病院に運ばれたが、同九時十一分、死亡した。遺書があり、大阪府警曽根崎署は自殺とみている。告別式、社葬などの日取りは未定。葬儀は近親者のみで執り行う。自宅は東京都渋谷区代々木4の55の5の104。喪主は妻、美智子さん。

日債銀は一時国有化された後、ソフトバンクを中心とする企業連合に譲渡され、今月四日に民間銀行として再出発したばかりで、日銀出身の本間社長の手腕が期待されていた。

本間氏は一九六三年、東大法学部卒業。日本銀行に入行し、前橋支店長、信用機構局長、理事・大阪支店長嘱託を経て九八年四月に退行。退行後は東京中小企業投資育成に入社、同社副社長を経て、今月四日に日債銀社長に就任した。

社長就任後は全国の支店・取引先のあいさつ回りを始め、十九日も午後から大阪市内の取引先や支店を回り宿泊、二十日午後に帰京する予定だった。

本間社長の死去に伴い、日債銀は小寺義信専務を社長代行に充て、後任社長の人選を急ぐ方針だが、民間銀行として再出発した直後の経営トップの急逝は、今後の経営の行方にも影響を与えそうだ。(9月20日23:23)

 なぜ自殺に追い込まれたのか-。20日午前、出張先の大阪市北区のホテルで首をつって自殺した日本債券信用銀行社長の本間忠世氏(60)=写真。同行は、一時国有化された後、ソフトバンクを中心とした企業連合に譲渡され再出発。「ミスター破たん処理」といわれた本間氏はその“切り札”として今月4日にミ長に就任したばかり。それだけに関係者の間では「なぜ?」と衝撃が広がっている。

調べによると、本間氏は19日午後から大阪市内に出張し、支店や取引先を訪問後の午後9時20分、ホテルにチェックイン。20日午前8時、朝食の時間になったため出張に同行して隣室に宿泊していた秘書が部屋を訪れたが、カギがかかっていて応答がなかった。秘書はホテルの従業員に連絡し、合いカギでドアを開けたところ、本間氏がゆかた姿で壁にもたれるようにしてぐったりしていた。部屋のカーテンレールには3メートルのひもがかけられ、本間氏の首にもひもが巻きついていた。

秘書によると、19日は変わった様子はなかったが、以前から「息苦しい」「疲れた」などともらし、「病院に着いたときには意識はあった」と話している。

本間氏は日銀の出身で、その間に培った金融の専門知識や幅広い人脈を買われて民間銀行として再出発した日債銀の社長に就任した。就任後、行内の掌握に分刻みの激務が続いていたうえ、本間氏とソフトバンクや東京海上火災保険、オリックスの3社側とで目指す銀行像が全く食い違っていたという声もあり、本間氏は期待と再建への重圧との厳しい板挟みになっていたようだ。

相沢英之金融再生委員長は「3社の板挟みにあって、心労が重なっていたという話は聞いたことがある。3社がいろいろ注文をつけてきたのだという。だが、心不全と聞いていたので、心臓が悪かったと思っていた」と話す。

 日銀の本間氏の先輩は、「最近もちょくちょく会っていたが、再生委とやりあってだいぶ疲弊はしていた」と振り返っている。

本間氏は、平成10年に自殺した日銀理事(当時)の鴨志田孝之氏と同期の入行(昭和38年)。この奇妙な一致もより一層謎を深めている。


〈資料〉最近の銀行マンの自殺

鴨志田孝之さん(58)
(日本銀行理事)平成10年5月2日=東京板橋区の母親の実家で首をつって自殺。現場には「もう疲れた」などと書かれた遺書

上原隆さん(59)
(旧長銀副頭取)平成11年5月6日=東京都杉並区内のビジネスホテルで首をつって自殺。現場には家族あての遺書

福田一憲さん(51)
(旧長銀大阪支店長)平成11年5月17日=兵庫県西宮市の同行武庫川寮の自室で首をつって自殺。部屋には「疲れた」などと書かれた遺書

阿部泰治さん(63)
(そごう副社長・ 旧長銀常務)平成12年4月27日=神奈川県鎌倉市の自宅で首をつって自殺。平成6年に長銀からそごうに副社長として移り、財務や経理を統括していた。部屋には「申し訳ない。勝手を許してください」と書かれた妻あての遺書


(3)日債銀社長自殺、「仕事の重圧としか…」
讀賣新聞 2000年9月20日

 再スタートを切ったばかりの日本債券信用銀行の本間忠世社長(60)が自殺したとの悲報がもたらされた二十日夜、関係者の間には「信じられない」との衝撃が走った。今月四日には新しい日債銀のかじ取り役として、力強く抱負を語り、その後も取引先のあいさつ回りに奔走していた。周囲は「まじめな人だけに、追い詰められていたのかも知れない」と、重責を担った本間社長の胸中に思いを巡らせた。

 東京・代々木にある本間社長の自宅マンションでは、長男(31)がインターホン越しに、「(自殺については)残念です」と話し、「日債銀社長という職が重圧になったのでは」という問いに、「父は仕事のことは家ではあまり話さないのでよく分かりませんが、そう思わざるを得ません。でも、本人が(社長を)やると言った以上やり通してほしかった」と、震える声で無念そうに語った。

 本間社長の遺体は二十日夜、自宅に到着し、妻の美智子さんや長男夫婦が寄り添っているという。 東京・三鷹市に住む本間社長の義姉、本間千枝子さんは同日午後、外出先から帰宅して悲報を聞いたが、自殺とは知らなかったという。「自殺と聞いて本当にびっくりしている。『大変なポストを引き受けた』とは話していたが、それほど気持ちが大きな人ではないので、気の毒だとは思っていた」と動転した様子だった。

 日債銀によると、本間社長は社長に就任後、取引先へのあいさつ回りや行内の打ち合わせに追われていた。社長室で行われる各部からの業務報告は午後十時過ぎまで続くこともあり、休日も返上することがあったという。一泊二日の予定だった今回の大阪出張も取引先回りが目的で、ある同行幹部は「社長一人に仕事が集中していた。疲労の色も濃かった」と肩を落とした。

 本間社長は、今月四日、就任後初の会見で、「新世紀型の金融機関を目指したい」など力強い口調で抱負を述べた。孫正義・ソフトバンク社長、宮内義彦・オリックス会長ら新経営陣十人が並ぶテーブルの中央に座り、記者の質問の大半を自ら引き受けた。よどみなく新銀行の将来像を語る姿は、けん引役としての意欲を強く印象付けた。

 一方、会見では、日銀理事として九七年に日債銀救済のため金融機関から出資を募った「奉加帳増資」に関与したことについて、厳しい質問も浴びた。本間社長は「当時としてあの対応しかなかった」と淡々と振り返り、「詰めて、詰めて考えたが、周囲から『過去は過去。ぜひ出てきてほしい』と強い要請を受け、最終的に(社長就任を)決断した」と述べ、就任までの揺れた胸中ものぞかせた。

 日銀で後任の信用機構局担当理事で、一時国有化された旧日本長期信用銀行の頭取を務めた安斎隆さんは、ニュースで本間社長の死亡を聞き、自宅に駆け付けた。

イトーヨーカ堂が設立予定の銀行の初代社長含みで、今年八月、同社の顧問に就任した際には、本間社長から「お互いに大変な仕事になるが、がんばろう」という励ましの手紙も受け取ったといい、「(自殺の原因に)思い当たることはない」と言葉を詰まらせた。 (9月21日01:54)

(4)「金融再生委 公的資金投入決めたのに…」
産経新聞 2000.9.21

本間忠世氏の自殺に金融当局は大きなショックを受けている。
ソフトバンクを中心とした三社連合への譲渡は、そごう問題を契機に債権買い取り特約の「瑕疵(かし)担保条項」に対する批判が集まったことから一カ月延期するなどトラブル続きだった。約三兆円という巨額の国民負担を投じての再建に、金融を知り尽くした本間氏によせる期待は大きかっただけに、かじ取り役の突然の不幸に動揺は隠せない。
金融再生委員会は、日債銀の自己資本増強のため総額二千六百億円の公的資金投入を承認したばかりで、「これで立派な金融機関としてやっていける」(再生委首脳)と安堵(あんど)感が漂っていた矢先だけに、「自殺なんて…」と一様に驚いている。


(5)「新日債銀、船出に試練 本間社長自殺で小寺専務が代行に」
朝日新聞 2000.9.20

 特別公的管理(一時国有化)を終了し、民間銀行としての営業を再開した日本債券信用銀行(来年1月4日から行名を「あおぞら銀行」に変更)の本間忠世社長が20日、自殺した。新銀行の再建を託され、経営に乗り出したばかりの訃報に、日債銀や古巣の日本銀行などには驚きと戸惑いが広がった。日債銀は当面、小寺義信専務が社長代行をつとめる。

 本間社長は今月4日、ソフトバンクなどの企業連合が買収した日債銀の社長に就いた。経営破たんの影響で、貸し出し資産が大幅に減るなど経営基盤が失われたなかで、中小・ベンチャー企業向け融資の積極化などを打ち出し、具体的な業務計画の実行を急いでいた。就任後の9日、朝日新聞社のインタビューでは「できるだけはやく再上場を果たし、本当の意味での一本立ちができるようにしたい」と意欲を見せていた。

 本間社長は日銀時代、金融システム不安に対応するため、1990年に新設された信用機構局の初代局長に就任、大阪支店長を経て同局担当の理事をつとめた。理事のときは、97年の山一証券の破たんに際し、資金繰りを支援する日銀の特別融資(日銀特融)の発動を決断するなど、金融システム維持に力を尽くした。ある日銀職員は「難しい判断を迫られるつらい仕事が多かったが、人柄で難交渉を乗り切っていた。部下が働きやすいと定評があった」と話し、こらえきれずに涙を流した。

 日債銀は、米国流のスピード経営を目指し、常勤取締役を本間社長と小寺専務の2人だけに絞っていた。株主からの再建の期待を一身に担った大黒柱を失い、今後の経営に大きな影響が出るのは必至だ。まだ具体的な業務体制や新規事業の計画などは固まっていない。当面は小寺専務が代行をつとめるが、大株主のソフトバンクが中心になって、早急に後任社長探しを始めるものとみられる。 (01:22)


(6)「日債銀・本間社長、就任直後自殺のナゾ」

(2000年9月21日夕刊フジ)

 なぜ自殺に追い込まれたのか-。20日午前、出張先の大阪市北区のホテルで首をつって自殺した日本債券信用銀行社長の本間忠世氏(60)。同行は、一時国有化された後、ソフトバンクを中心とした企業連合に譲渡され再出発。「ミスター破たん処理」といわれた本間氏はその“切り札”として今月4日に社長に就任したばかり。それだけに関係者の間では「なぜ?」と衝撃が広がっている。

 調べによると、本間氏は19日午後から大阪市内に出張し、支店や取引先を訪問後の午後9時20分、ホテルにチェックイン。20日午前8時、朝食の時間になったため出張に同行して隣室に宿泊していた秘書が部屋を訪れたが、カギがかかっていて応答がなかった。

 秘書はホテルの従業員に連絡し、合いカギでドアを開けたところ、本間氏がゆかた姿で壁にもたれるようにしてぐったりしていた。部屋のカーテンレールには3メートルのひもがかけられ、本間氏の首にもひもが巻きついていた。

 秘書によると、19日は変わった様子はなかったが、以前から「息苦しい」「疲れた」などともらし、「病院に着いたときには意識はあった」と話している。

 本間氏は日銀の出身で、その間に培った金融の専門知識や幅広い人脈を買われて民間銀行として再出発した日債銀の社長に就任した。就任後、行内の掌握に分刻みの激務が続いていたうえ、本間氏とソフトバンクや東京海上火災保険、オリックスの3社側とで目指す銀行像が全く食い違っていたという声もあり、本間氏は期待と再建への重圧との厳しい板挟みになっていたようだ。

 相沢英之金融再生委員長は「3社の板挟みにあって、心労が重なっていたという話は聞いたことがある。3社がいろいろ注文をつけてきたのだという。だが、心不全と聞いていたので、心臓が悪かったと思っていた」と話す。

 日銀の本間氏の先輩は、「最近もちょくちょく会っていたが、再生委とやりあってだいぶ疲弊はしていた」と振り返っている。
本間氏は、平成10年に自殺した日銀理事(当時)の鴨志田孝之氏と同期の入行(昭和38年)。この奇妙な一致もより一層謎を深めている。


(7)「異様な新社長発表、日債銀の暗い再出発」
夕刊フジ

 あえて皮肉を込めて言わせてもらうとするならば、ソフトバンク絡みの“イベント”としては、「笑顔ナシ」、「握手ナシ」というスタイルでまさに異例としか言いようのないものだった。その様子はまるで、お通夜のような…。

11月20日午前、日本債券信用銀行は東京・九段にある同行本店で記者会見を開き、故・本間忠世前社長の後任社長人事を正式に発表した。12月5日付で新社長に就任するのは、現オリックス・クレジット会長の丸山博氏となった。そして、冒頭で「ソフトバンク絡みの“イベント”」としたのは、この記者会見のことを指す。

 この日の記者会見は、日債銀の経営母体となるコンソーシアム、“ソフトバンク連合”から、孫正義ソフトバンク社長、宮内義彦オリックス会長、樋口公啓東京海上火災社長の3氏も同席し、記者団からの質問に応じる格好となった。

 ソフトバンク-特に孫社長が“主役”を務める記者会見は、前述したようにマスコミ報道を強く意識した“笑顔”と“握手”がつきものだった、と言っていいだろう。ところが、この日の記者会見では、そうした孫社長が好む“パフォーマンス”は一切行われなかったのである。

 「それはそうでしょう。今回の社長人事は、前社長の自殺という異常事態を受けてのものだったのですから…。丸山次期社長だって本音を言えば、日債銀の社長など引き受けたくなかったのが実情です」(ソフトバンク経営中枢幹部)

 本間前社長が自殺したのは、さる9月12日のことだった。こうした異常事態を受けて、後任社長人事は迷走に次ぐ迷走を続けていくこととなる。

 孫社長自身その辺の事情についてこう認めている。
「最初は、株主以外から新社長を選ぶつもりだった。しかし、(われわれが)適切な人と思う人については、双方の合意に至らなかった」 そうこうする間に、社長不在期間は3カ月近くにも達しつつあった。 こうした状況を受けて、“ソフトバンク連合”サイドとしては、自陣営から社長を選任しなければならない局面に追い込まれていったのである。

 当初有力視されたのは、笹井和彦日債銀取締役(ソフトバンク取締役と兼任)だった。笠井取締役は、富士銀行副頭取を経て、安田信託銀行会長ポストも務めた人物で、銀行経営者としてのキャリアについては十分、と言っていいだろう。

「ところが、笹井氏が固辞したのです」(ソフトバンク関係者)
この結果、自らを評して、「銀行業そのものについては、全く経験がない」(丸山次期社長)と認める人物が社長に就任することになったのである。 それではなぜ、こうした事態に陥ってしまったのであろうか。

 「言うまでもないことですが、本間前社長の自殺の理由がいまひとつ判然としていないからなのです。とはいえ、日債銀にかかわる何らかの問題が引き金になったことは間違いないでしょう。孫さんには心当たりがあるのではないでしょうか。日債銀の取引先-特に関西地区の-を丹念に洗っていけば、その理由はおのずと見えてくるはずです…」(ソフトバンク連合経営中枢)

これでは「笑顔ナシ」「握手ナシ」もうなずけるというもの。日債銀の迷走劇はまだまだ続きそうだ。

 

(8)「日債銀・本間社長の自殺がもたらすもの」(00/10/03)

日経ビジネス誌

 日本債券信用銀行がソフトバンクを中心とする企業グループ(オリックスと東京海上火災保険が参加)に正式に譲渡されてからわずか半月後の9月20日午前、新社長に就任したばかりの本間忠世氏が、出張中の大阪市内のホテルで死亡しているのが発見された。自殺だった。

 本間氏は5通の遺書を残していた。2通は家族あて。そして残りの3通の中には、ソフトバンクの孫正義社長にあてたものもあった。そこには「期待されていたのにお役に立てず申し訳ございません」、こうしたためられていたという。

 何が本間氏に死を選ばせたのか。その理由は窺い知れない。だが、日本銀行のエリートとして理事にまで上り詰めた人の死である。新日債銀の社長に就任したばかりということを考え併せると、本間氏が相当なプレッシャーの中に置かれていた、とは容易に想像できる。

「今から思えば、最初の取締役会が本間氏にはショックだったのかもしれない」――。

 9月4日、預金保険機構から正式に譲渡を受けた日債銀は東京・九段の本店で、初の取締役会を開いた。出席者は、本間氏ともう1人の常勤役員である小寺義信専務、それに11人の社外取締役──孫氏、宮内義彦オリックス会長、樋口公啓・東京海上火災保険社長と新たに社外取締役に名を連ねた常盤文克・花王特別顧問、成毛真インスパイア社長(マイクロソフト前社長)、池尾和人・慶応義塾大学教授、笠井和彦ソフトバンク取締役、ダン・クエール米国元副大統領らである。

(中略)

「ビジネスモデルは完成したが…」

 孫氏が日債銀買収に意欲を燃やしたのはそもそも、ソフトバンク・グループが進めるベンチャー投資の一翼を担わせるためだった。新興ネット企業を中心とするベンチャー企業投資と、そうした企業の株式公開による付加価値で時価総額を極大化してきたのがソフトバンクである。

 孫氏はそのために、右腕である北尾吉孝ソフトバンク・ファイナンス社長に投資事業を任せ、ベンチャー企業の株式公開の場としてナスダック・ジャパンを開設した。直接金融の舞台を整えた孫氏にとって、足りなかったのがベンチャー企業群に運転資金を提供する間接金融機能である。それが日債銀買収の動機であり、その実現をもって孫氏のビジネスモデルはほぼ完成した。

 ところが、皮肉なことに最近、ソフトバンクグループ内部にはある種の「遠心力」が働き始めている。象徴的なのが、孫氏と北尾氏の関係。今年春ごろから孫氏と北尾氏の間には微妙なすきま風が吹き始めたと言われる。もともと日債銀買収には消極的と言われた北尾氏がソフトバンクの常務を退任してソフトバンク・ファイナンスの社長に専念し始めた5月ごろから、株式市場には「北尾氏がソフトバンクからの独立志向を強めている」との見方が強く流れ始めた。

 加えて、北尾氏とナスダック・ジャパンの佐伯達之社長との関係の悪さは知る人ぞ知る。孫氏が「ソフトバンクのための市場」という批判をかわすために、ナスダック・ジャパンの運営に物申さなくなっている半面、北尾氏は同市場に上場したグループ会社株の取引低迷に業を煮やして、「他の市場への上場を検討する」と発言するなど、揺さぶりを強めている。そのため佐伯氏は、当初は予想もしなかった孤軍奮闘を強いられている。

 こうした状況に加えて、後継社長のもとで、日債銀までもが「ソフトバンク離れ」の姿勢を強めたとしたら…。

本間氏の予期せぬ死が、ソフトバンクグループに働く「遠心力」をより一層強めるきっかけになる。こう考えるのは、穿ちすぎだろうか。(田村 俊一、小栗 太)

http://bizns.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/search/wcs-bun.cgi?ID=113274&FORM=biztechnews


(9)2005年07月14日
本間忠世の“死”に対する“闇” 「世界を動かす国際金融(152)」

日本債券信用銀行

債務超過額:3兆 943億円
平成10年12/13に一時国有化。総資産:6兆5772億円
公的資金注入:3兆2000億円、資本増強:2000億円

※ 日債銀の貸出記録には朝鮮信用組合への何億ドルもの疑わしい記録が残っている。

※ 平成11年5月の金融再生委の資産判定で1兆2000億円の「譲渡不可能=不適資産」が含まれていることがリークされた。

※ この銀行は平成12年9月4日「あおぞら銀行」として「瑕疵担保条項」とともに民間に譲渡された。社長本間忠世は16日後に自殺(本当に自殺か、その真相は謎。97年以降に起きた政府高官や大銀行のトップの急死はこれで7人目)した。

 平成15年9月、普通株式について証券取引法による公開買付が実施され、主要株主であったソフトバンク株式会社は同社保有のすべての普通株式を、サーベラス エヌシービー アクイジション エルピー ジェネラル・パートナー サーベラス・アオゾラ ジーピー・エルエルシーに委譲。

2004年9月30日現在、サーベラスとオリックスと東京海上が持つ「あおぞら銀行」の株数と割合は、以下になっている。

サーべラス
1,753,328(所有株式数・単位:千株)
61.84%(発行株式総数に対する所有株式数の割合)

オリックス株式会社
425,041
14.99%

東京海上火災保険株式会社
425,041
14.99%

「あおぞら銀行」の取締役社長は水上博和である(写真中央の白髪)。
会長はマイケル E. ロッシ。
副会長がピーター C. ヘイガン。
取締役には、前会長のエドワード G. ハーシュフィールド、サーベラスのクエール会長、オリックスの宮内義彦などの名前がある。(2005年6月30日現在)


※ 余談だが、新生銀行の取締役からデイヴィッド・ロックフェラーとヴァーノン・ジョーダンの名前が消えた(6月24日と30日にそれぞれ退任)。ジョン・リードとポール・ボルカーは現在も取締役にいる。

(10)米サーベラスのクエール会長「対日投資80億ドルに」(2005年6月24日)

 米サーベラス・グローバル・インベストメンツのダン・クエール会長は24日、「日本への投資額はこの8年間で合わせて80億ドルに達した。今後もさらに投資を続ける」と述べた。傘下に収めているあおぞら銀行については「業績が好転しており、経営内容に満足している」と語った。

 あおぞら銀の株主総会に出席するために来日したもので、都内で日本経済新聞記者と会見した。クエール氏は日本経済について「不良債権の処理という大きな宿題を達成し、企業改革という新たな課題に取り組むべき段階に入りつつある」との認識を示した。

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20050625AT1F
2401924062005.html


(11)「預金保険機構:買い取り債権は総額1兆6573億円」

毎日新聞 2005年6月18日

 金融庁は17日、98年に経営破たんした旧日本長期信用銀行(現新生銀行)と旧日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)から預金保険機構が買い取った債権が、計486件で総額1兆6573億円になったと発表した。簿価から2割以上目減りした債権を簿価で購入する約束した瑕疵担保条項に基づき、預保が引き取った。

 預保が実際に支払った金額は両行が積んだ貸し倒れ引当金を除いた1兆2214億円で、今後、不動産などの担保資産の売却で回収できない部分が国民負担として確定する。同条項に基づく両行の申請期限は00年の営業譲渡から3年後の03年3月末で終了しており、今後新たに引き取る案件はない。【斉藤信宏】


(12)「日米中21世紀の展望」(平成13年5月)

浜田和幸(はまだかずゆき)

(途中から)

 もっと最近の例では、日債銀という銀行のケースがあります。今ではあおぞら銀行と名前が変わりました。あれがおかしくなって、結局ソフトバンクの孫さんとか、東京海上の樋口さんとか、オリックスの宮内さんらがお金を出して受け皿を作った。その新しい頭取になった本間さんという方が大阪で自殺をしたという事件がありましたね。

 何で自殺をしたのか。日銀から建て直しのために来られて、頭取になってまだ2週間たらず。その人が最初のあいさつ回りに行って、泊まったホテルで首を吊って死んだ。その事件が起こった後も大阪の曽根崎警察署というところは、検死も何もしなかった。すぐ東京に送り返して、荼毘にふしてしまった。司法解剖ということを全くやらなかった。そのお兄さん、本間長世さんという有名なアメリカ文学者は、「弟が自殺するわけがない」とおっしゃっていました。

 ところが、荼毘にふされてしまっては、原因の究明のしようがない。実は先月アメリカの有力経済誌「フォーブス」で、「本間頭取の死因は自殺ではなくて、他殺であった疑いが濃い」との記事が大きく出ました。要するに、北朝鮮関係の朝銀関与説です。そこの不良債権の取立て問題で本間さんが大阪に乗り込んだところ、こういう世界の人たちとトラブルがあったというのです。

 あの日の晩も打ち合わせが終わって、9時過ぎにホテルの部屋に戻ってきた。それから休むまでの間に、その世界の人たちが押しかけてきたとの情報があるのです。たまたま隣室に泊まっていた人がいた。なんだか隣りの部屋がうるさい。叫び声がするというのでホテルのフロントにクレームをつけているんですよ。しかし、そういったことは一切ふせられて、何か原因はわからないけれども自殺ということで処理された。

 アメリカの雑誌はそのあたりを詳しく調べまして、あれは他殺であったことをにおわす記事を大きく載せたのです。何でそういう記事を載せたのか。結論が大事です。要するに日本では金融機関が不良債権の処理とか機構改革といった課題に対して、まともに取り組んでいない。それどころか、全く進んでいない。だからそういうところにお金を預けたり、投資をするのは危険だ、という結論になっている。

 まずは関心をつかむために、あれは自殺でなくて他殺だったということを大きく報じて、記事を読んでみると日本の金融機関がいまだに過去の呪縛に引っ張られていると断じている。よって、お金は日本の金融機関でなく、アメリカのしっかりとしたところに預けないさいよ、という筋立てになっている。恐ろしいまでの情報操作です。
(略)

http://www.joho-shimane.or.jp/cc/sic/news/no59.htm

※ 浜田氏の文中に登場する「隣室に泊まっていた人」とは、「フォーブス」の日本支局長・フルフォードによると、タレントの森公美子(もりきみこ)さんです。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

 

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