「187」ユーチューバーたちの世界(私が見た限りでの) ⑱ 藤田田 1⃣

副島隆彦です。今日は2026年5月25日です。今日から2回で、日本マクドナルド社の創業者 藤田 田(1926-2004 ふじた でん 78歳で死)について話します。

藤田田は日本マクドナルドの初代社長ですから有名人に決まっているんですけど、若い人たちはもう知らないと思う。アメリカのマクドナルドを日本に展開した人です。私はこの藤田田との接点がいくつかありまして、割と気になっていた経営者の一人でね。藤田は私の父親より3歳年下です。

最近、私は彼の人生を自分のそれを重ね合わせて考えることができるようになった。

藤田 田【日本の実業家。大阪府大阪市東淀川区出身。輸入雑貨販売店「藤田商店」「日本マクドナルド」「日本トイザらス」「日本ブロックバスター」創業者。藤田田の功績は多岐にわたります。彼は日本マクドナルドの創業者として知られ、1971年に日本初のマクドナルドを銀座三越にオープンさせました。

この業績は、日本におけるファストフード文化の礎を築いたことにもつながりました。また、彼は日本トイザらスの設立にも関与し、日本国内での玩具業界の発展にも寄与しました。藤田田の経営哲学は、ユダヤ人から学んだ商法を基にしたもので、彼のビジネス戦略は時代を超えて多くのビジネスパーソンに影響を与えています。byAI Wikipedia+5】


マクドナルド公式サイトから会社概要 | 会社情報

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副島隆彦です。藤田田について、きっと若い人たちにはちょっと理解できないだろうと思うところを、私なりに、できるだけえぐり出すように解説します。私が去年の秋からみているYouTubeの、8か月前にアップロードされたばかりの、藤田田に関する動画のリンクを貼ります。人物評をやっているYouTuberが作った番組です。それを見てもらえば、概要はよく分かります。

〇関連YouTube 藤田田の軌跡を18分で解説【1000万円をドブに捨てて世界の信用を得た銀座のユダヤ人】

この藤田田は頻繁にメディアに登場した時代があるんですが、しかしそれでも、実際には、彼は社会の表面からはあんまり相手にされなかったんですよ。これが私にとっては不思議で、今でも気になっててね。

【マクドナルドといえば超有名企業ですが、そうなんですか?】

藤田田が会社を大きくはしたんだけどね、「たかが食べ物や」ということで、財界人扱いはされなかったんです。

西暦2026年の今、マクドナルドなんか名前だけは有名ですが、皆、もうどうでもいいわけですよ。好きな人は毎月みたいに食べに行くんだろうけど、食べない人はほとんど食べませんからね。体に悪いと昔から言われていまして、今も言われていると思う。

20年くらい前かな、朝から晩まで1ヶ月間マックを食べ続けた男の話っていうのがあってね。その男はブクーッと太って、血糖値や血圧が異常になって、おかしな病気になった。これはルポルタージュ番組でしたが、こういう告発ものが公開されて、えらく世間に受けたことがありました。あとはマックのハンバーガーには牛肉以外の肉が入っているとか、そういう話が定期的に広がったりね、やっぱり商売というのは大変ですよ。

スーパーサイズ・ミー【2004年に公開されたアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画。俳優で監督のモーガン・スパーロック自身が、「1日に3食・30日間、ファストフードだけを食べ続けたらどうなるか?」を映像で記録したものである。この間、食事は水を含め全てマクドナルドで提供される物を摂取し、健康のための運動は行わず、彼の身におこる身体的・精神的な影響について記録している】

 

■ 戦後、GHQが日本人通訳を多量に雇用

藤田田は、日本が戦後の焼け跡だったその最中の時に東京大学法学部の学生になった。藤田は1926年生まれですから1945年の敗戦の時に19歳。そこら中が焼け野原で、闇市がわーっと立っていた。

1945年の東京(写っている人物は米兵)

場所のいいところから順番にビルが立っていって、急激に日本が復興していくんです。米兵たちがいっぱい、ブラブラ歩いてるわけですね。この時一番気の利いた頭のいい人間たちは、無理やり英語の勉強をした。GHQが日本人通訳をたくさん必要としたんですね。とても通訳なんかできないようなレベルの会話しかできなくても、それでもGHQとしては、どんどん何百人も何千人も採用したと思う。藤田はその中の一人なんです。優秀な学生だということでね。


GHQ【連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、第二次世界大戦後の日本占領政策を実施した連合国の最高機関。ポツダム宣言の執行を目的として1945年10月2日に日本に設置された。最高司令官はダグラス・マッカーサー元帥。名目上は占領支配ではなく、降伏文書に基づく日本政府の統治権の監督を行う機関であったが、実質的にはアメリカ主導の占領機関として機能した。

GHQは最高司令官(SCAP)の下に参謀長、副参謀長、各参謀部および民政局・経済科学局・天然資源局・民間情報教育局・民間諜報局などの部局を持ち、政治・経済・社会制度の改革を直接指導した。

1948年最盛期には文官約3,850名を含む約6,000名が勤務。間接統治の形を取り、日本政府を通じて政策を実施した。天皇制は存続させつつも、政策決定権はGHQが握り、民主化、非軍事化、経済改革、教育改革などを推進した。具体的には、憲法改正、財閥解体、労働改革、農地改革、公職追放などを行った。

GHQの指令に基づき、日本は外交関係を制限され、物資・資本・人の移動もSCAPの許可が必要であった。占領費用は日本政府が負担し、国家予算に大きな影響を与えた。占領は1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効まで続いた。byAI】

 

■ 藤田田は通訳として、ユダヤ人米兵と交流があった

藤田は、米軍兵士の中でも差別されて嫌われていたユダヤ人の下士官たちと付き合った。彼らユダヤ人兵士は他の米兵たちを相手に金(カネ)貸し業をやっていたみたい。だから他の兵士たちよりもお金を持っていて、いい暮らしをしていたんです。彼らと交流したことで、藤田は、戦後の世界で、世界と自分の頭がつながったんですね。藤田は1972年に『ユダヤの商法』という本をベストセラーズ社から出している。それで周りから尊敬された。


【↑の本の裏表紙から引用貼り付け 始め】
●著者本人の広告(コマーシャル) 藤田田(デンと発音してください)
どうやれば儲かるか―ということを公開するのは、はなはだ不本意である。なにも他人に金儲けのコツを伝授するために、今日まで苦労して来たわけではない。
しかし、世の中を見渡すと、どうも不景気色が強い。
私一人が儲けるよりは、国民全部に設けてもらったほうが、国の将来のためにはプラスになりそうな気がする。
そういうわけで、あえて「ユダヤ商法」という名のもとに、金儲けのコツの公開に踏み切った。
この本には、金儲けのノウハウが、ギッシリ詰まっている。定価690円ではなくて、読者は690円のノウハウ料を支払って、金儲けのノウハウを買ったことになる。
だから、決して他人に貸したりして、ノウハウ料を払わない者を、儲けさせてはならない。
【引用貼り付け 終わり】
〇アマゾンリンク ユダヤの商法(新装版) | 藤田 田

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副島隆彦です。藤田の経歴に戻ると、GHQの通訳をやった後は、輸入雑貨賞を15年間もやっていた。そこである出来事があった。岐阜県に関(せき)という、刃物や金物の有名な生産地があるんです。鎌倉時代から刀の産地だったんですね。前に会社訪問で行った(燕三条のヨシカワ 探訪記)燕三条(つばめさんじょう)は農具です。それが日本の戦後の躍進(やくしん)の一つなんだけどね。

綺麗で安いステンレス製の、カラトリーというんだけど、食卓で使う日本製のナイフとかフォークとかが世界中で使われたんです。愛用された。すごかった。

岐阜県 関市

藤田は、この日本製のフォーク・ナイフのセットをアメリカに輸出することをやっていた。アメリカへの発注先を取ってくるんです。あるときに300万本の注文が入った。とても受けられない、間に合わないという量だったんだけど、藤田はなんとかして、自分が損をしてまで納期に間に合わせて納品した。

それで「約束をちゃんと守って商品を渡した」いうことで、藤田はそのユダヤ系の経営者たちから信頼されたと。それでマクドナルドの本社が藤田田を契約相手に選んだんですね。最初の契約時に藤田が何億円を米国のマクドナルド本社に払ったかは分からないんだけど、フランチャイズの権利ですね。当時の一般の人たちは、フランチャイズの意味も知りませんでしたが。


【フランチャイズは、事業の本部(フランチャイザー)が商標や商品・サービス、営業ノウハウなどをパッケージ化して提供し、加盟店(フランチャイジー)がその対価としてロイヤリティや加盟金を支払うことで、同一ブランドで事業を展開できる仕組みです。未経験者でも本部のサポートを受けながら開業できる点が大きな魅力です。Wikipedia+1】

 

■ 1970年代までは、大衆文化や企業経営者は軽蔑された

当時は、世の中全体が左翼思想の時代でした。当時の日本の知識人というか、新聞や本を読む人はみんな左翼だった。朝日岩波文化だったんです。彼らは、お金儲け、すなわち商売や経営者、大衆文化というのを軽蔑していた。だから1970年代までは、経営者たちというのは、読書人階級というか新聞を読む一般の大衆からは相手にされなかったんです。

【朝日新聞の朝日、岩波書店の岩波、ということですか?】
そうですよ。

【よく分からないので調べてみます。
岩波文化とは:岩波文化は、岩波書店が展開する出版活動の一つで、文学、哲学、宗教、自然科学、社会科学など幅広い分野の書物を刊行しています。岩波文化は、岩波文庫や岩波新書などのシリーズを通じて、古典的著作を提供し、学びや教養の礎として愛読されています。 コトバンク+2

岩波文化は、岩波書店の創始者である岩波茂雄によって築かれ、戦前から先見の明を持ってシリーズを刊行し始めました。岩波文化は、言論統制が厳しくなった昭和10年代においても、山田盛太郎、矢内原忠雄、津田左右吉などの著書を発禁や押収処分から守るための出版活動を行いました。 コトバンク

岩波文化は、岩波書店の出版活動の一つとして、文学、哲学、宗教、自然科学、社会科学など幅広い分野の書物を刊行し、学びや教養の礎として愛読されています。 コトバンク+2】

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副島隆彦です。それが今は、「企業経営者になってお金を儲ける」ことがみんなの目標になっちゃった。何千万円、何億円の収入を得られるトップユーチューバーたちに憧れる」という時代です。当時はそれとは全然違うんですよ。その当時の雰囲気を、今の若い人たちは分からないんですね。50代以上の人は、分かると思いますよ。

「文芸春秋」が日本を代表する雑誌みたいに言われます。今は読む人もいなくなりましたが。しかしこれはあくまで文芸の本です。この雑誌に戦後ずっと、「同級生交歓(どうきゅうせいこうかん)」というコーナーがあって、有名企業の経営者になった人たちの紹介と、その人の同窓生の写真が載るんです。「この人は、高校大学時代に誰誰と同じクラスだった」とかね。

 

■ 1971年、一等地である銀座への日本マクドナルド一号店出店と民衆の反感

藤田田(当時55歳)は、1971年にアメリカのマクドナルド本社と契約を結んで日本にマクドナルドを開きました。その時に藤田は、「日本で一番いい場所である、銀座四丁目の三越の1階に第一号店を開きたい」とこだわった。マクドナルドの本社は嫌がったと思う。家賃がとんでもなく高いからね。三越の一角(いっかく)と言ってもそんな立派な店舗という訳ではなくて、脇のところの小さなスペースでしたが、それでもね。

おそらく今でいうと、家賃だけで月に5000万円とか、そういう大変なお金だったと思う。権利金とか他にもかかります。だから三越自身がマクドナルドを誘致するわけがないんです。ちなみに、ケンタッキーフライドチキンは「地方から攻めろ」で、地方に出店したらしい。

結局、藤田の方が正しかったんです。マクドナルドの商品は全国的に話題になって、爆発的に揺れて、銀座の辺りの、今では上層サラリーマンたちですけど、一流企業の社員や女の子たちがわっと並んで買いに行った。

〇関連YouTube 昭和46年 マクドナルド1号店が誕生した頃 ~70ー80年代の銀座~ 

その時の一般民衆の反応がどうかというと、「あんな高級な場所に、銀座の三越にマクドナルドというハンバーガー屋なんかが入るなんて」ってバカにしたんですよ。「身の程知らず」だって。その頃の雰囲気を私は覚えています。

似た事例では、25年前の六本木に、ディスカウント・ストアのドン・キホーテが店を開いた時(2001年)もそうだ。六本木はかつてディスコ文化の華でしたから、ドン・キホーテはすごく嫌われた。あの感じとよく似ている。

でも、バカにしながらも、新しがり屋っていうか。マクドナルドのハンバーガーは世界文化ですから、みんなもちょくちょく食べるんですよ。1970年代、ハンバーガー一個が200円ぐらいだった。高かった。あんなもんね、若い男は3つ4つ食べないととてもお腹がふくらまないから、やっぱりラーメンとかうどんとかに行っちゃうんですよ。

 

■ 1989年、藤田 田(63)の真っ盛りの頃

それから10年後くらいのことです。1982年頃、私(30歳)は藤田田という表札がかかった家の前を通ったことがある。そのころ私は外資の銀行に勤めていて、世田谷の梅ヶ丘(うめがおか)というところの賃貸の鉄筋アパートに住んでいた。当時家賃が8万円ぐらいで、今なら20万円くらいする結構いいところです。

周辺を自転車でブラブラ散歩しているときにオッと思って見たら、あったんです。藤田田邸という表札が掛けてあって、和風の綺麗な家でした。でも決して大金持ちの気取った家と言う感じは無かった。

梅ヶ丘

その7年後に、私は藤田田の姿を実際に見たことがある。1989年ですね。その年の9月に、私が『欠陥英和辞典の研究』という本を宝島社から書いたことで、ドカンと騒がれたんです。私が当時勤めていた予備校に各テレビ局が取材に来たり、宝島社で記者会見をしたりした。それが放映されたんですが、各テレビ局の番組では私の顔を大写しで、犯罪者扱いだった。「こいつ(副島隆彦)がこういう、おかしなことを言った」と。

当時の日本を代表する立派な研究者と出版社と東大や外国大の教授たちが、私の発言に怒り狂ったという場面があってね。でも全体としては、メディアは私の肩を持ったんですよ。テレビや新聞の記事ではね。

〇アマゾンリンク 欠陥英和辞典の研究 : 日本でいちばん売れている研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』はダメ辞書だ!

 

翌月の10月に、私の友人のYの結婚披露宴がありまして、帝国ホテルの、100人ぐらいが入れる部屋でした。私は予備校の授業の仕事が終わってから、30分くらい遅れて午後2時くらいに会場に着いたんです。そしたらちょうど、藤田田がスピーチをしているところだった。友人のYは弁護士で、Yが勤める弁護士事務所が日本マクドナルドの顧問をしていた。だから藤田が主賓で来ていたんですね。商業経営をやっていると、裁判になるケースが全国でいっぱいあるからね。

藤田のスピーチは、日本の結婚披露宴にしてはぶっ飛んでいた。だから私は覚えているんだけど。藤田はこう言っていた。「私(藤田)はマクドナルド本社の会長にこういわれた。日本人は夫婦でセックスをしないそうだけど、アメリカではしなきゃいけないんだ。だから君たちもそれをやらなきゃいけない。Y君、がんばりなさい」と。こういう本当のことを言ってね。スピーチの他の部分は忘れましたが、私は驚いて、「これが経営者というものか」と思ったから、そこだけは覚えています。

今から考えたら1989年に藤田は63歳。経営者としてはその頃がピークでした。

 

■ 2000年から、マクドナルドの業績が急落

日本のマクドナルドはこの後、業績が悪くなっていく。特に2000年からは急激に業績が落ちて、ついに、「平日はハンバーガー半額セール」をやりはじめた。もう冗談抜きでマックのハンバーガー1個が120円になって、平日セールでは半額の55円で売られていた。私は年に一回も食べないので鼻で笑っていましたが、マックの評判が悪かったんでしょう。

【その頃(秘書S当時30代)は、若いお母さんたちが、小学生までの子供さんたちを連れて頻繁に行っているのを身近にたくさん見ました。毎週末、マクドナルドの駐車場周辺は大渋滞だった。安かったのと、ハッピーセットについているおもちゃで子供が喜ぶから。当時のマクドナルド社長の発言「子供にマクドナルドを食べさせて育てたら、将来大人になっても食べ続ける。だから今採算が合わなくてもいいんだ」、を覚えています。なるほどと思いつつ反感を持ちました】

〇関連記事

企業家ミュージアム 38. 藤田 田(日本マクドナルド創業者) – (上記サイトから転載貼り付け 始め)
「毎日百万人近くの赤ん坊が生まれてくる。彼らは醤油も味噌も知らんのですよ。あの子どもたちは小さなころからポテトをかじり、ハンバーガーを食っている。あの子どもたちはもうスシとかウドンとかに帰らないですよね。だからパイは同じたけど、人口の構成比率はハンバーガー人口がどんどん増えていくわけです。だから前途洋洋だと私は言っているんです」
(転載貼り付け 終わり)

 

■ 2003年に藤田田は首を切られた

その次の年だ。2001年に狂牛病(BSE、牛海綿状脳症)騒ぎがあった。このBSEが日本中でわっと騒がれて、それで「輸入牛肉が危ない」ということでさらに赤字が2年続いた。


【BSE(Bovine Spongiform Encephalopathy、牛海綿状脳症)は、牛の脳に異常プリオンと呼ばれる感染性タンパク質が蓄積することで発症する伝達性海綿状脳症で、俗に「狂牛病」とも呼ばれます。感染した牛は異常行動や運動失調を示し、最終的には死亡します。主な感染経路は、肉骨粉を混ぜた飼料による水平感染です。異常プリオンは高温・高圧でも不活化が困難で、通常の調理では滅菌できません。 Wikipedia+2
日本では2001年9月に千葉県で初めてBSE感染牛が確認され、その後北海道、神奈川県、熊本県でも発生しました。国内では2001年から2009年までに36頭の感染牛が確認されましたが、2003年以降に生まれた牛からはBSEは確認されていません。 mhlw.go.jp+1
BSE問題は単なる家畜の疫病にとどまらず、食肉偽装事件(雪印食品、日本食品、日本ハムなど)と相まって、食品業界全体の信頼を揺るがしました。これにより、消費者の食の安全に対する不安が拡大し、企業倫理や政府対応の遅れが社会不安を増幅させました 。Wikipedia+1】

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副島隆彦です。そしてついに、2003年3月28日の日本マクドナルドの株主総会で藤田田は首を切られるんです。この時にいわゆる退職金にあたる慰労金24億円と経営指導契約の解約金が62億円。合わせて86億円をもらって、それで藤田はマクドナルド社から切り捨てられた。以後、二度と会社に近寄らなかったそうです。最後は誰にも会わなくなって、翌年に78歳で死んでいます。近親者だけでお葬式を出したと聞きました。

だから社会的に有名な偉い人、と言ってもね、一人一人の人生は厳しいものなんですよ。特に経営者はは厳しいです。売上が落ちたり利益が出なくなったりしたら、本当に責任を追及されるんです。マクドナルドが銀座に最初に出店した時、売上目標は一日で100万円だったけど、実際には40万円しかしなかったと。 お客さんはワーッと来て行列になっているんですど、それでもね、という事実もあって。経営をするというのは、その内部の事情は大変なんですよ。それでも藤田田は商売の才能があったから、成功者なんですが。

この30年間ぐらいで、日本は「お金持ちになること、会社企業の経営者になること」が人生の目標になっちゃったような国になりましたからね。私には感慨深い。派手そうに、華やかそうにみんなからワッと騒がれる時とその後 、というのに対して。

 

藤田田 ② へ続く

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