西郷どんにウィンク

かたせ2号 投稿日:2025/07/05 07:11

件名_西郷どんにウィンク

かたせ2号です。

本日は2025年7月5日ですが、
「2025年7月5日に日本に大災害が起きる」という予想は、おそらくはずれるでしょう。

では始めます。

JR京都駅を降りて、そのまま京都市営地下鉄に、乗って、鞍馬口という駅で降ります。
鞍馬口とは京の七口といういわれる京の市街と周囲とをつなぐ道の玄関口の一つで、とりたてて有名な、観光地はありません。
強いていえば、上御霊神社くらいでしょうか?

この神社の境内には、京都市による以下の案内板が立っています。

(引用開始)
文正2年(1467)正月18日早朝、この付近、すなわち上御霊神社の森の合戦から、応仁の乱ははじまった。17日深夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと兵約二千を率いてここに布陣した。翌18日早朝、政長と畠山家の家督を激しく争っている義就(よしなり)が兵三千余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦闘が続いた。義就方には朝倉孝景、ついで山名宗全が加勢した。しかし政長方にはたのみの細川勝元がこの段階では動かず、まる1日の合戦ののち、政長方が敗退した。これが、応仁の乱の最初の合戦である。3月、年号は応仁と改まり、細川、山名両陣営ともに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に、東西両軍の全面的な戦闘にはいる。上京区上御霊鳥居前北入(御霊神社内)
(引用終わり)

この神社は、「かみごりょう」と読みます。この地から、当時の政治的中心であった関西地方の、戦国の世が始まったわけです。

「ごりょう(御霊)」とよみます。
丁寧語の「御(おん)」がついた、霊ですから、さぞ、尊い人物たちが祀られているに違いありません。

「そうだ京都行こう」のサイトから。
https://souda-kyoto.jp/guide/spot/goryojinja.html

(引用開始)
神霊を鎮めるために桓武天皇の勅願により造られた平安時代の御霊社のひとつ。祭神の御霊を鎮めると共に、参拝者の心も自然と静まる、「こころしずめ」の社として有名。政争で非業の死を遂げた高貴な方々の神霊を祀る御霊信仰の中心で、崇道天皇(早良親王)や橘逸勢など非業の死を遂げた八柱の神霊を祀る。畠山政長が陣をしき、応仁の乱の火蓋を切った場所でもあり、境内には「応仁の乱勃発地」の石碑が残る。
(引用終わり)

かたせ2号です。

創建当初は、以下の6名が祀られました。
すべて、桓武天皇と嵯峨天皇親子が関連します。

・崇道天皇(早良親王)_桓武天皇の実弟。藤原種継の暗殺に関与した罪により、皇太子の地位を廃され、絶食して没した。
・伊予親王と藤原夫人(藤原吉子)_桓武天皇の実子と夫人。謀反の罪に問われ、共に自殺。後に無罪が認められた。
・観察使(藤原仲成)_いわゆる「薬子の変」の際に、嵯峨天皇の手勢に捕縛、射殺される。
・橘逸勢_嵯峨天皇死去の直後、謀反の罪を問われ、伊豆への護送中、8月13日に遠江国板築駅で客死し同地に葬られた。
・文屋宮田麿_嵯峨天皇死去の直後、謀反の罪を問われ、伊豆に流罪。

かたせ2号です。
つまりは、御霊は、ごりょう。
御霊、
すなわち「ごりょう」というよみは、「おんりょう」からの言い換えでした。
じつは怨霊。

この御霊(ごりょう、おんりょう、怨霊)のスターが、上の時代を少し下るころの、
「天神様」、すなわち、 晩年を太宰府の地に流された、菅原道真です。

全国の天神社の総数は約12,000社です. これらの神社は、学問の神様として知られる菅原道真公(天神様)を祀っています。
天神社の総本社は、京都の北野天満宮と、道真公が亡くなった太宰府の太宰府天満宮の2社です。
天神社の多くは、北野天満宮から御霊を分けた神社であるとされています。

これも怨霊。

次は、崇德天皇。平安時代末期、保元の乱で、後白河に敗れ、讃岐に流され、現在は、サッカーの神様になっています。幕末になって、京都の地に、(赤峰ではなく)「白峯神社」の祭神として祀られました。

「白峯神社」のサイトから。

崇徳天皇御廟所

(引用開始)
保元の乱(1156)に敗れた崇徳天皇(第75代)は、讃岐国に御配流の悲運に遭われ、血書をもって京都への御還幸を願われたのですが、意の如くならず、憤怒の御姿のまま、長寛2年(1164)に46歳にてその地で崩御あそばされ、そのまま白峰山陵に奉葬されました。天皇の寵愛厚かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き亡き天皇の霊をお慰めしたと伝承されています。
(引用終わり)

このように、
「霊をお慰めした」、「祭神の御霊を鎮める」という由緒書きの神社の御祭神はだいたい、怨霊です。

以降の怨霊は、怨霊であるという風には、現代では、思われてないですが、紹介しておきます。
両人とも、島根県の隠岐の島に流された上皇と天皇。

まず、一人目は、後鳥羽上皇。

北条高時.comから。

(抜粋開始)
後鳥羽院が崩御する。配流後の後鳥羽院は当時は「隠岐院」と呼ばれていたが、ここに朝廷は後鳥羽院の怨霊化を防ぐために「顕徳院」という諡号が贈られたのじゃ。
そしてその3年後、今度は佐渡院(順徳院)が父の後を追うように崩御した。佐渡院は、京に帰れないのであればこれ以上は「存生無益」と断食して餓死したとか、頭に焼き石を置いて自害したと伝えられている。壮烈すぎて、いかにも怨霊になりそうじゃな。朝廷は佐渡院にも「順徳院」の諡号を行なっている。

四条天皇の死。皇統は後鳥羽院の子孫に

そもそも後鳥羽院は崩御前から生霊として都人に畏れられていた。天福元年(1233)には後堀川院の中宮藻璧門院竴子が出産時に落命し、続けて文暦元年(1234)5月には仲恭天皇が、同年8月には後堀川院がそれぞれ崩御している。さらに嘉禄元年(1225)には承久の乱で都に攻め上がるよう積極論を煽った大江広元が没し、続けて尼将軍・北条政子が落命している。

そして後鳥羽院が崩御すると、今度は怨霊として猛威を振い出す。まず延応元年(1239)末の12月、三浦義村が没した。ご存知のとおり、義村は承久の乱のときに後鳥羽院への合力を拒否し、弟・三浦胤義を見捨てて幕府についた鎌倉の重鎮である。そして直後の年明け正月、夜空に不吉な妖霊星(彗星)が現れた。すると1月24日、北条泰時公とともに京に攻め上り、初代六波羅探題をつとめた北条時房も死亡してしまうのじゃ。

きわめつけは仁治3年(1242)の四条天皇崩御である。なんと13歳の若さであった。四条天皇は女房たちを転ばせようと御所の廊下に滑石を撒くいたずらをしようとしていたが、自分が転んでしまい、それが元で亡くなったらしい。なんとも奇怪な、珍妙な最期と言わざるを得ず、宮中は後鳥羽院の怨霊に恐怖した。

まだ少年だった四条天皇に後継ぎがいるはずもない。皇位継承は揉めに揉めたが、執権・北条泰時公の意見により、承久の乱で中立的立場をとった土御門院の皇子が即位し、後嵯峨天皇となる。後嵯峨天皇は後鳥羽院の孫である。

仲恭天皇の廃帝により、後鳥羽院の子孫は皇統から永遠に排除されるはずだったのじゃが、これにより復活。現代の天皇家ももちろんその系譜上にある。こうなると四条天皇の命を奪ったのが後鳥羽院の怨霊であるという指摘は、妙に説得力が増すではないか。

執権泰時の死。猛威を振るう後鳥羽院の怨霊
そして同年6月には北条泰時公が没する。日頃の過労に加えて赤痢を発症したとされるが、世間は後鳥羽院の祟りと考えた。泰時公は承久の乱で京の軍勢を蹴散らした総大将じゃからな。

「執権殿の最期は高熱で苦しんで、かなり酷かったんだって」
「まるで『平家物語』の平清盛のような最期だったらしいぞ」
「そういえば北条義時も北条政子も大江広元も、みんなこの季節に死んだよね」
「顕徳院さん(後鳥羽院)が島流しになったのも、この季節だったっけ?」
「後堀河天皇(四条天皇の父)が20代の若さで崩御したのもこの時期だったな」
「祟りじゃ。これはまちがいなく後鳥羽院の怨霊のせいじゃ」

ここに至り、朝廷と幕府は怨霊の鎮魂に本格的に乗り出したのじゃ。
まず、朝廷は先に贈った「顕徳」という諡号を取り消し、あらためて「後鳥羽」の追号を贈った。諡号が改名された例は、歴史上後鳥羽院のしかない。「顕徳」は「崇徳」の例に倣って贈られた諡号だが、これが神仏の御意に叶わなかったと考えられたからじゃ。「顕徳」の諡号そのものが怨霊のレッテル貼りになり、後鳥羽院がお怒りになったったというのじゃよ。
後鳥羽院の離宮跡には御影堂が建立された。後の水無瀬神宮じゃ。さらに幕府は鶴岡八幡宮北方に後鳥羽院、順徳院を合祀する新若宮をつくる。世間は後鳥羽院の怨霊鎮魂に躍起となったんじゃよ。
(抜粋終わり)

かたせ2号です。
承久の乱の後、流罪となった、後鳥羽、土御門、順徳院の怒りを鎮める目的をもって、織りなされたのが、藤原定歌の「百人一首」といううわさがあるので、ご紹介しておきます。

「金谷武洋の『日本語に主語はいらない』」サイトから。
https://blog.goo.ne.jp/shugohairanai/e/2238971c9e38285cf10c4b2ea788eea1

(抜粋開始)
第76回 「百人一首の謎」
2012-05-16 20:41:13 | 日本語ものがたり
それでは、日本人にさえ意外に知られていない「百人一首の謎」を、お話ししましょう。

何を隠そう、ずっと昔からこの百人一首は謎に包まれてきた歌集なのです。選者は藤原定家(1162-1241)ですが、その定家が日記「名月記」にこんなことを書いています。「小倉山にある私の山荘のすぐ近くに住む僧の蓮生に頼まれて、障子に貼る色紙用に天智天皇から今日までの歌人100人の和歌を一首づつ選んでみた。私は達筆ではないので気が進まなかったが、仕方なく筆を取って書いた。それらの和歌を選んだ基準は私の心の中にある」当時の知識人の習慣として、この日記の原文は漢文で書かれています。なお、蓮生というのは定家の息子の妻(つまり嫁)の父親のことです。ここで問題なのは、最後の「選んだ基準は私の心の中にある」という個所ですが、定家は何故こんな謎めいた言葉を残したのでしょうか。

それもその筈、定家は実に不思議で不可解な和歌の選び方をしています。これまで多くの研究者が指摘してきた疑問点は主に次の3点です。(1)当時の有名な歌人が多数選ばれていないのは何故か(2)多くの歌の中から、いかにも駄作、愚作と思われる歌を敢えて選んでいるのは何故か(3)同じ様な歌がとても多いのは何故か。(2)でよく槍玉に挙げられる例は22番の「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐と言ふらむ」で、これは単に「山」と「風」を重ねると「嵐」になるという駄洒落にすぎません。(3)の例では1番の「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ」と15番の「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」の下の句がそっくりですし、さらにこの15番は4番の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高ねに雪は降りつつ」と全く同じ終わり方をしています。かと思うと「ひとりかも寝む」で終わる和歌も二首あって、3番の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」と91番の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」です。以上、(2)と(3)の問題点を調べると、定家が当時の有名な歌人の代表作を選んだとは、とても思えません。定家自身、「一体どういう基準で選んだんですか」と問われるのを予想した上での答えが日記に書いた「和歌を選んだ基準は私の心の中にある」だったと想像出来ます。ではその隠された基準とは何だったのでしょうか。

この問題に見事に答えたのが大阪市立大学名誉教授(経済学)の林直道(1923-)です。日本語のクラスでその答えを紹介したところ、教室には数秒間の沈黙が訪れ、その後全員の顔に恐怖と「それで納得した」という表情が浮かびました。出典は林直道『百人一首の秘密:驚異の歌織物』(青木書店1981)ですので、ご興味のある方は是非お読み下さい。また、自身も歌詠みで作家の織田正吉著『絢爛たる暗号:百人一首の謎を解く』(集英社1978)も大変参考になる一書です。

林は、百人一首は定家が後鳥羽上皇の怨霊・祟りを畏れ、上皇の愛した水無瀬川離宮の絵を描いたのだと、驚くべき主張をします。後鳥羽上皇と言えば1221年に鎌倉幕府打倒を目指したクーデターを起こした歴史上の人物ですが、結局これに失敗し、上皇は隠岐、子の順徳天皇は佐渡にそれぞれ流されました。そして、苦境の中で二人とも流刑地で亡くなります。後鳥羽上皇の場合、隠岐で18年後に崩御するのですが、亡くなる前によく京へ手紙を送りました。その中で、まだ定家が若かった頃、水無瀬川離宮にも招待し、様々な形で援助してやったのに、最近は自分の歌人としての力量に慢心し、都を追われた自分に対して敬意に欠いているという恨みの言葉があったのです。真っ赤な呪いの手形を押した置文まで残っており、「言霊」という意識がまだ生きていたこの時代、定家は上皇の呪いが何より怖かったのです。それで、同じ言葉が使われている和歌を集め、それを縦横に並べ繋げると一幅の絵になる一世一代の試みを企て、「文学的絵巻物」に仕立て上げました。つまり後鳥羽上皇がこよなく愛した水無瀬川離宮の絵を、絵筆の代わりに和歌で織り上げたのが百人一首なのです。そうすることで、過去にお世話になった恩人で、今は流罪の罪人と化した後鳥羽上皇を追悼、顕彰しようとした訳です。そしてその秘密は自分の胸だけに留めておきました。

それこそが「それらの和歌を選んだ基準は私の心の中にある」と定家が書いた真の理由であることを初めて見抜き、定家の深い恐怖心と800年間闇に包まれていた意図を明るみに出した林直道先生の洞察力にはただただ驚嘆するしかありません。しかも、林先生ご自身の専門は経済学なのですから、百人一首研究は日本文学の研究者も舌を巻くアマチュア探偵の成果です。因みに、百人一首は99番が後鳥羽上皇、そして掉尾を飾る100番が順徳天皇の歌で締めくくられていることも決して偶然ではないでしょう。(2012年5月)
(抜粋終わり)

最後に、後醍醐天皇。
現在の関西地方の歴史では、最後にして最大の怨霊。

講談社学術文庫&選書メチエのサイトから。
https://gendai.media/articles/-/115842?page=3

(引用開始)
現世に恨みを残して死んだ貴人は、没後に怨霊となって、怨みの相手だけでなく社会全体にも災いをもたらすと考えられており、このような考えは、当時、御霊信仰(ごりょうしんこう)と呼ばれていた。
安定的な幕政を敷くためには、後醍醐天皇の怨霊が社会全体に災いなすことを防がねばならない。怨霊をコントロールすることは、都の治安を守る大事な幕府の仕事だったのだ。
こうして後醍醐天皇の御霊を鎮めるため、室町幕府は天龍寺(当時は暦応寺)という大寺院を建立したのである。
建立を企画してからも、反対意見や財源の問題など、天龍寺の建立には問題が山積みだった。困難を乗り越えていく一連の経緯からは、当時の幕府や朝廷のさまざまな様子を伺うことができる。早島大祐 著『室町幕府論』(2010年に講談社選書メチエ、2023年に講談社学術文庫で刊行)
早島 大祐 (著)を手にとってお読みいただきたい。
(引用終わり)

かたせ2号です。
日本史の教科書にも出てくる、「天竜寺船」とは、
後醍醐天皇の怨霊を鎮める費用を、ひねり出す目的で実施されたようです。

さあ、長い、前置きはさておき、
ここまで、日本の歴史の怨霊の歴史を縷説(るせつ)して(=ながながと述べて)まいりました。

ここまで怨霊の歴史を書いたのには、きっかけがあります。

政治学者の白井聡さんの著書「国体論」で、明治時代以降の日本は、勃興→興隆→破滅というサイクルをすでに2回繰り返していて、2018年(発刊)年は、ほぼほぼ破滅の時期に来ているという分析をしていて、それに触発されたから。

ご丁寧に、同じような経路を経て、同じような二度目の破滅をする
おバカな日本の歴史に対して、怒り心頭に発する歴史上の人物は誰かなと想像してみたときに、
「怨霊としての西郷隆盛」というワードが、ふと、心に浮かんだのでした。

以下は、西郷隆盛の人生を巡る、わたしの想像と仮説です。

幕末、新政府軍の軍隊を率いて、先頭を切って、ほぼ暴走気味に、江戸に進軍した西郷と、
西南戦争では、最高指揮官であるはずなのに、ほぼ動こうとしなかった姿は、あまりに対照的です。
そこにはなにか、意味や意図が秘められているんではないでしょうか?

NHKの番組で、「英雄たちの選択」という人気番組があります。

NHKサイトから。
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/
(引用開始)
歴史を大きく変える決断をした英雄たち。その心の中に分け入り、ほかにどのような選択肢があったのか?選択の崖っぷちに立たされた英雄たちが体験したであろう葛藤を、専門家の考証に基づいて復元。独自アニメーションなどを駆使してシミュレーションする。
スタジオには、異分野の専門家が集結。英雄たちに迫られた選択のメリットやリスクを検討し、歴史的決断の意味を深く掘り下げていく。
(引用終わり)

かたせ2号です。
本当は、この番組がとりあげるべき話題のはずですが、取り上げてくれないので、
「なぜ、西南戦争で、西郷隆盛は動こうとはしなかったのか?」を、
西郷の心理に分け入って考えてみます。

<わたしの仮説 開始>
「日本の邦を、当時の清国のような、列強の介入を許す状態にはさせない。このことを一番の優先順位とする」
この決断をして、覚悟を決め、西郷隆盛は、すべての行動を決めた。

だから、
まず、自分たちの勢力を、明治政府に敗北させる決断を、おこなった。

一方で、自分がその暴走を結局止めることができなかった、自分のことを心から慕う桐野利秋ら薩摩人の部下のことが、かわいくて、かわいくてしかたなかったはずです。

「囀り(さえずり)をこぼさじと抱く大樹かな」(星野立子)です。

西郷隆盛は、こういう人です。
大人物だと思います。あれだけの豪傑は日本の歴史でそんなにはいません、まあ゛楠(くすのき)゛、
巨大な楠、ということ。神社の前にでっかい楠の大樹、あんな感じ、どてっとした楠のような男。

それだから、かれは、西南の役の開始寸前にその行動を制御できなくなった薩摩人の部下に
「よろこんで、自分の命を差し出しました。」

「日本の邦のことを考えると、『おまえたちに勝たせる、あるいは、新政府軍をとことんまで追い詰める』ことはさせない、そのかわりにわたしの命を、あなたたち(薩摩人の部下)に差し上げる。本当に申し訳ない。」
これが、西郷が世間に決して表明できなかった、本当の政治的決断だったと思います。

そうして、西南の役の最終局面、鹿児島の城山の地で、西郷が別府晋介に告げた最期のことばです。
(故郷の鹿児島が西郷の終焉の地となりました。)

「晋どん、もうここらでよかろう」

ここに、ユーモアを感じ取ったのが、徳富蘇峰ですが、その解釈では、浅い。

「自分が自分にくだした政治的決断を、ほばほぼ、果たし終えた、あとは、自分の命を、ここで差し出せた終わり。」

こういうことではないでしょうか?
<わたしの仮説 終わり>

かたせ2号です。
西郷さんが鬼籍に入られてから、ほぼ150年。
今の日本を見て、さすがに、怒っているだろうな。

もしあの世があるとすれば、以下が本音かもしれない。
「おいどんは、おいどんの心情ば明かせば、もそっと違う時代に、もそっと大きか仕事して死にたかったです――。あげな、あげな、仕事ばするために、おいどんは日本人として生まれたんじゃあなか。おいどんはもっともっと大きか、仕事ば、やりたかった。」

だから、いまごろになってではありますが、2度目の敗戦を迎えた現在、その歴史の結末をみて、
怨霊になった西郷隆盛さんを、そろそろ本気で、日本人は鎮めないといけないと思います。

ここでエピソードを一つ。

https://www5b.biglobe.ne.jp/~honyomi/kokoro35.htm
(引用開始)
西郷隆盛という人を知っていますか?その人の、若い頃のお話です。
ある日のことです。西郷隆盛は忙しい用事があったので、朝食を済ませて外出しました。
その後、西郷隆盛の弟の従道(つぐみち)が朝ごはんを食べようとすると、どうしたことかみそ汁に味がついていません。朝ごはんを作ったおばあさんが,付け忘れたのでしょう。

おばあさん、みそ汁にミソが入っていないじゃないか。
と、大きな声でおばあさんを叱りました。
おばあさんは、びっくりして「ごめんなさい」と言いました。
そして、その後、次のように言ったのです。
変だねえ。お兄さんにも同じみそ汁を出したのに。
さあ、ここで問題です。

お兄さんの西郷隆盛は、どうして気がつかなかったのでしょうか?
次の3つの中から選んで下さいね。
①わざと、知らないふりをしたから
②急いでいたので、言うヒマがなかったから
③実はみそ汁を食べていなかったから

正解は、①です。弟の従道は、兄さんがみそ汁を食べていないのだと思いました。しかしおばあさんは、次のように言いました。

「お兄さんは、おいしそうに、少しも残さずに召し上がりました。」

兄さんの西郷隆盛は、実は気がついていたのでした。そこで、初めて弟は兄の心遣いを知りました。
「ああ、何という立派な兄さんなのだろうか。おばあさんへやさしさで、黙って食べたのだ。」

西郷隆盛は、人間としても立派で思いやりがあったのですね。
(引用終わり)

かたせ2号です。
これだけ優しい心根の人だからこそ、
「自分たちの勢力を、明治政府に敗北させる」という非情の決断を下すことができたんじゃないかなあ。
そんなことを思ったりもします。

最後に。
怨霊としての役割を背負わされた西郷隆盛さんも、今後、
西南の役のときと同様に、「身を殺して仁を成す」でしょう。

以上