「29」 遂に、僧侶たちが読む「大法輪(だいほうりん)」誌に連載された横山全雄老師筆の「分かりやすい日本仏教史」全6回を載せることになりました。のちのち記念すべき日となるでしょう。副島隆彦
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副島隆彦です。今日は、2007年2月20日です。
この「第2ぼやき」が、開通して、私は大変、嬉しいです。
私は、ずっと困っていたのです。 せっかくの大著の、大論文を、一体、私は、どうやって、優れた会員たちに読ませれば
いいのか、私は、ずっと考え込んで、悩んでいたのです。
一体、どうやって以下に載せる「日本の仏教の全体像」の大論文を、みんなに読んでもらったいいのか。私は、去年の9月から、ずっと悩んでいました。
ただ横山老師の論文を、お許しをもらって、こうして貼り付けるだけでいいのか。それでは、きっと多くの人には分かってもらえない。以下の文章の何がそんなに、すごいものなのかを、自分には、分からない、という人々がたくさんいるだろう。
だから、私、副島隆彦が、解説を加えなければならない。どうして、副島隆彦が、驚愕(きょうがく)して、驚嘆(きょうたん)したほどの文章=論文 なのかの、解説が為されなければならない。ところが、解説を加えるには、本文の論文の方だけでも、ものすごく長文である。
どうして言いか、分からないまま、年を越して、そして、私は、1月半ばに、自分のPCの故障(ウインドウズが起動しない)に直面して、それで、慌てふためいて、新品のPCに買い換えたのだが、そうすると、今度は、送受信メールの7千本を、新しいPCに移し変えることが出来なかった。
それで、横山老師から、送っていただいた「日本への仏教の伝来の全体像」は、そのまま虚しく半年間寝込んでいました。
私は、私でずっと、どうやったら、この論文を、会員に読んでもらえるのかが、分からなかった。
それで、思い余(あま)って、主要な弟子たちに、「第2ぼやき」を作ってくれ、と頼み込んだ。「そこには、第2東名 と同じように、目下、工事中の文章を載せるのだ」と説得した。
きっと、私の言いたいことの意味が、よく分からなかったと思う。「先生は、出来るだけ会員ページに書いてください」というのが、主要な弟子たちの、私への切実な要請であった。そのことは、私も痛いほどよく分かる。私は、ここの会員をこそ大切にしなければならないのだ。
それでも、すばらしい、論文や、文章は、どんなに長いものであっても、それを、みんながネット上で読めるようにしてあげなければならない。それは、言論人としての、私、副島隆彦の一生涯の闘いの、その工程であり、行脚(あんぎゃ)の旅そもものだ。
同行(どうぎょう)の人々と、喜びと悲しみを共にしたいのだ、という私の勝手な願望(よくぼう)だ。
こうやって、遂に、「第2ぼやき」という、「現在、工事中」を意味するページ(サイト)が、旧路を改良して、開設してもらった。私は、「どうしたらいいのか」で悩んでいた自分の苦悩が、一気に、吹きとんだ、気がします。
ですから、このあと以下の横山全雄(よこやまぜんのう)老師の文章の解説付きの、「これが副島隆彦による、仏教とは、何か、の読み破りだ」の文は、会員ページに、どんどん書いてゆきます。 この2段構えの体勢が、ようやく整った、ということです。私は、この体勢が出来たことを、ひとりで欣喜雀躍(きんきじゃくやく)で喜んでいます。
何を、そんなことで、喜んでいるのか、と思う人がまだ大半でしょうが、私は、私の抱えてきた、ネット文章を発表する際の、「人の苦労を盗作することなく、自分の業績としての思想・知識の創意工夫をきちんと残せるようにする」という大問題を、こうやって解決出来ました。 冒頭での説明は、以上です。
横山氏の「分かりやすい日本仏教史」は、6回分あります。
それを、まず、この「29」から始めて、3回ぐらいで、載せます。 真剣に読んで、各所で、その内容の凄(すご)さにびっくりする人は、相当な読み手(読書人)です。そうでない人たちは、後日、私、がどんどん、「何がそんなに凄い内容なのか」を解説して行きます。 ご期待ください。 副島隆彦拝
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(まず、メールのやりとりの転載貼り付けから始め)
横山全雄(よこやまぜんのう)様
副島隆彦から
2006年9月15日
拝復。
横山住職様から先に、有難い ご本 と冊子をお送りいただいておりました。
私はこの夏の間に、「仏前勤行次第の話 2」を、就中、「わかりやすい日本仏教史1~6」を繰り返し5回ほど、徹底的に読み込みました。心から感謝申し上げます。大変勉強になりました。
私の仏教知識など浅薄きわまりないものであります。先刻の私の「船井幸雄氏は道教の思想家である」論に、驚かれた横山様からのご指導ご助言ということもよく理解しています。
それでも私は、「横山版 簡潔日本仏教史」に感嘆いたしました。日本の全歴史上の名僧高僧そして権力者と結びついた権力僧たちのことが全て関連づけられて、理解できました。
私のこれまでの日本史理解の足りない分からない点の半分ぐらいを横山論文が、きれいに見事に穴埋めして下さいました。
それでお願いでございますが、この「日本仏教史1~6」の部分のデジタル文章が横山様のお手元にありましたら、メール(ネット)で、お送り下さいませんでしょうか。
もし、横山様にご了承いただけるなら、ぼやきの会員ページ(会員1,500人にだけ限定ですので、世の中には広まりません)に載せさせていただきたいのです。
大変優れた日本仏教通史であるからです。このような研究はふつうの日本史学者にはできないのです。仏教コトバの使い方の不正確さも含めまして。その他に、私、副島隆彦の考えを、要所要所にお返事の形で書いて、横山様に返信メールとして全編に渡って加筆しまして差し上げたいのでございます。
私は、とりわけ持戒堅固(じかいけんご)な僧侶(戒律を厳格に守る崇高な人格の僧侶)が果して、高僧のうちどの人物たちであるかを厳しく確定したいのです。それと日本独特の自誓受戒問題と兼学問題も徹底的に調べたいのです。
横山様、時期を見まして、私は福山の御寺に参りますので、お時間をおとりいただき、まず2泊3日ぐらいで、私にあれこれ日本仏教界の真実を率直にお教えいただきたいと思います。いかがでございましょうか。横山様に一切のご迷惑はおかけしませんので宜しくお願い申し上げます。
こういうことをメールでお願い申し上げることをいささかためらいましたが、自筆にいたしますと、このように乱筆の限りであります。長年もの書きをやっておりますと、このような早書きの汚い文字しか書けなくなりました。申し訳ありません。
私は、まず驚いて富永仲基(とみながなかもと)の「出定後語(しゅつじょうこうご)」から読んでいます。神仏儒へのこれほどの批判があったのか。そして、それをわい曲した平田篤胤(ひらたあつたね)の狭隘(きょうあい)、偏頗(へんぱ)なる神道簒奪思想が幕末から明治神国体制を作って行ったのか、と一連の流れの真実を、やっぱりそうだったのかと知って驚いています。
横山老師に伏して、私と学問道場のためにご尽力下さいますようお願い申し上げます。取り急ぎ。以降はeメールで交信させて下さい。 敬具 副島隆彦拝
(貼り付けおわり)
To: “副島隆彦” GZE03120@nifty.ne.jp
Sent: Wednesday, September 20, 2006 8:00 PM
Subject: 日本仏教史テキスト文書と一太郎文書を
送らせていただきます
副島隆彦先生
昨日19日夕、書状拝受いたしました。直々に、しかも手書きの書状を頂戴し、誠に有り難く、また申し訳なく思っております。日々お忙しい中、小生のために貴重な時間を煩わせてしまい恐縮いたします。
不遜にも送らせていただきました冊子をお読みいただきましたとのこと、重ねて有り難く思う次第であります。自誓受戒(じせいじゅかい)や兼学(けんがく)、出定後語(しゅつじょうこうご)についてなど、日本仏教の急所を鋭くご指摘になられており、さすがに目の付け所が冴えておられると感心いたしております。
「わかりやすい日本仏教史」は、大法輪(だいほうりん)誌から、掲載依頼を受けたため、急遽短時間に手元にある数点の資料から、大事な部分だと思った内容をつなぎ合わせた文章であります。それにもかかわらず、興味を示して下さいまして、ぼやきの会員頁に載せていただけるとのこと。誠に恐縮いたします。もとより十分な内容とは言いがたいものではないかとは存じますが、日本の最高の知識人である学問道場会員の皆様に、少しでも仏教を知っていただく縁となれば誠に有り難いことだと思います。
このメールに添付いたしますので、どうぞご利用下さい。(なお、数字がすべて漢用数字になっております点や、読みにくい言葉遣いなどはお手数ですが、ご訂正下さい。また写真がうまく送れませんでしたら別送致しますので、ご連絡下さい。)
それから、國分寺(こくぶんじ)まで先生がご足労下さり、日本仏教界の真実について述べよとのことでございますが、様々な資料に基づいて、あれこれと書くことは出来ましても、浅学非才にして先生のような碩学にご教示するほどの知識も経験も不足しているかと存じあげます。従いまして、代わりに、仏教に関し何かお問い合わせのことがございましたら、出来る限り意に添えるよう資料渉猟の上、ご返答させていただけましたらありがたいと存じます。
また、わさわざ先生に遠路お越しいただきますのは誠に申し訳なく、小生東京に出る機会が年に数回ございますので、その折にでも先生のご都合が宜しければ、立川の事務所、またはどこか適当なところにお伺いさせていただいては如何かとも考えております。
先生からの丁寧な書状に対しまして、このような簡単なメールを差し上げますのは心苦しい限りですが、要用のみにて失礼申し上げます。先生におかれましては、益々お忙しい毎日かとは存じますが、どうかお身体ご自愛の上ご活躍下さい。 全雄拝
備後國分寺 横山全雄
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領1454
(ここからが論文の掲載です。副島隆彦記)
わかりやすい日本仏教史br> 仏教伝来から奈良仏教まで
[大法輪誌 平成十七年十二月号カルチャー講座掲載]
本講座において、平成十四年七月号より七回にわたり「わかりやすい仏教史」と題してインドから中国にいたる仏教史を学んでまいりました。
今日私たちが目にする仏教は国々によってかなりの違いがあるようです。その違いはどうして生じてきたのか。同じ仏教としてお釈迦様にはじまる教えの変遷を辿りその歩みを見てまいりましたが、いよいよ教えがわが国へと海を渡ります。
● 仏教伝来
日本へ仏教を伝える百済には四世紀の中葉、インド系の僧摩羅難陀が海路百済を訪れ仏教を伝えたといわれています。
その後百済は新羅・高句麗連合軍との戦時下に入り、任那を領有していた日本に援軍を頼む際の土産として、金銅の釈迦仏像と経巻ならびに僧をわが国の朝廷に贈ったというのが仏教の公伝(西暦五三八)と伝えられています。欽明天皇七年のことでした。
既にインドでは仏滅後一千年が経過し、唯識説が確立してそろそろ密教が勃興してくる時代。中国では鳩摩羅什が法華経、華厳経といった重要経典を含む膨大な経典を翻訳し終わった時代のことでした。
欽明天皇の「西蕃の仏を受け入れるべきや否や」との問いに、蘇我氏は諸国の例に倣うべきであるとして賛成し、物部氏は古来の天神地祇の怒りを招くとして反対したと言われます。この崇仏排仏に端を発した両者の抗争は、その後政治的社会的権力争いの様相を呈し戦闘にまで発展しました。
結局崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって、仏教は豪族たちの間で採用され、競って氏寺を建立し、美しい仏像や経典類の調達に奔走することになりました。
百済や高句麗から仏像や仏舎利などが流入し、それら仏像に仕える僧が必要となり、五八四年蘇我氏の仏殿(後の法興寺)にて、高句麗僧恵便を師として司馬達等の娘らが出家して善信、禅蔵、恵善の三人の尼僧が誕生。
これをもって日本仏教史上の起点と位置づけ、日本書紀は「仏法の初め、これよりなれり」と記しています。後に善信尼らは正式な受戒のために百済に渡っています。その際百済からは僧恵聰はじめ数名の僧侶の他、造仏工、造寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者が来朝しています。
● 聖徳太子の仏教
推古天皇は即位(在位五九三-六二八)とともに兄用命帝の子聖徳太子(厩戸皇子、五七四-六二二)を摂政として指名しました。太子は、かつて物部氏との戦いに戦勝祈願した四天王を祀る寺を難波に造り、翌年には高句麗僧慧慈を師として「三宝興隆」の詔勅を発し、仏教を基礎にした道徳精神を国民に宣布。
(わが国最初の寺と言われる奈良飛鳥寺)
わが国の黎明期における先覚者である太子は、氏姓による社会階級の他に個人の力量に応じてその身分を表示する階位制度である「冠位十二階」や社会の秩序を制約する道徳法である「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など内外の政治外交に活躍され、その後の国家の道筋を形作りました。
この遣隋使の主目的は、仏教文化の摂取にあったとも言われ、学問僧を随行させ仏法の修得や経典の蒐集にあたらせています。これによって、仏教を本場中国からも直接摂取するなど、自発的計画に基づく積極的な大陸文化の輸入が計られていきました。
六〇六年、太子は推古帝に勝鬘経の講義をし、翌年には法隆寺を建立。この頃から太子は仏教研究に専念されたと言われています。遣隋使によってもたらされた仏教書に基づいて太子は勝鬘経義疏や法華義疏などの経典注釈書を残しました。これらは古来太子の真撰か偽撰かの議論がありますが、いずれにしてもこれらの著作を日本仏教として重要視してきた事実に代わりはありません。
外護者であるべき太子がわが国最初の仏書を著し、その著作においては広く人々を救うとする大乗教を重視し、在俗の身による修行を尊重するなど、その思想傾向は、後々まで日本仏教の性格を規定するものとなりました。
六二二年太子が斑鳩宮で逝去すると、妃橘大郎女は天寿国繍帳を織らせ、太子の来世に天寿国(弥陀の浄土)への再生を願ったと言われています。この聖徳太子の時代を経て、仏教は日本に定着し国家仏教として繁栄していく基礎が出来上がりました。
● 仏教文化と僧尼の統制
大陸から流入した儒教道教の類が文字の修得や文学の理解に役立つものでしかなかったのに比べ、仏教は、あらゆる生活芸術にいたる諸々の文化水準向上に繋がりました。
金銅や木彫の神秘的な相貌、流麗な肢体をもつ仏像は精緻な彫刻技術を、瓦葺き、重層、丹塗りの複雑な仕組みの伽藍は精密な建築技術を、調度類である、天蓋、仏壇、厨子、仏具は精巧な工芸技術をもたらし、さらには、その寺院で催される法会には伎楽が演奏され、経典を写すための筆や紙の製法に至るまで、仏教は大陸の数多の新文化技術をわが国に一度に導入する効用がありました。
そして、公伝から百年経った推古帝の時代には飛鳥地方を中心に四十六もの氏寺がその壮麗さを競い、僧八一六,尼五六九、と記録されています。そこでこの時代には早くも次第に増えていた僧尼の統制が必要になり、六二四年に僧正、僧都、法頭の役が置かれました。
大化の改新後は、中央に「十師」の制を置いて衆僧の監督をさせ、諸寺には寺司、寺主を置かせました。そして、七一八年には「僧尼令二十七条」が定められ、僧尼統制の規則が完備することになります。
それによれば年間の出家者の数に制限を設け、希望者は試経を受けねばならず、そこでは教学の素養と「金光明最勝王経」などの音訓読誦が試験されました。得度後は十戒の護持を制約され、寺院に住し、護国経典である「金光明経」や「仁王経」「法華経」などを読誦して鎮護国家、風雨順時、五穀豊穣などを祈祷する責務があったのでした。
また許可なく山林に入って修行することや寺と別の道場を設けて民衆を教化したり、天文災禍を説いたり、吉凶を占ったり、巫術療病することも禁じ、違反者は還俗させられました。こうしてわが国では鎮護国家を祈り国家に奉仕する者として僧を位置づけ、伝来百年ほどにして仏教は国家の統制のもとに保護管理されることになります。
● 平城遷都と国分寺
壬申の乱による政変を経て、即位した天武天皇(在位六七二-六八六)は一切経の書写、放生会を行う詔、大官大寺の造営、また使を諸国に遣わし金光明経や仁王経を説かせるなど積極的に関連事業を行います。
天武帝の死後皇位を継いだ皇后持統天皇も、六九四年金光明経百部を諸国に送り、毎年正月に読誦することを命じて国家の公の行事とするなど、天武帝の施策を継承。こうして律令国家として強力な実権を掌握したこの天武、持統の政府において、正に仏教が国家の宗教的支柱として重要な位置を与えられることになったのでした。
しかし、次の文武天皇時には旱害、風害、疫病、飢饉が相次ぎ治安も乱れ、さらには政情不安に陥ります。そこで平城遷都の大事業がなされ、七一〇年、律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病に対する攘災招福の意を込めた奈良遷都がなされました。
そして聖武天皇(在位七二四-七四九)が即位すると、七三七年に国毎に釈迦仏一躯、脇侍菩薩二躯を作らせ大般若経の書写を、続いて国毎に法華経十部の書写と七重の塔の建設を命じ、七四一年国分寺制度の詔勅が発せられます。
国分僧寺には僧二十人、尼寺には尼十人を置き、水田十町ずつを施入することと規定。金光明経の読誦によって天神地祇が国家に永く慶福をもたらし、五穀豊穣で、先祖の霊魂をも含めた平和安穏を祈念し、国家を守護することがその目的でありました。
● 大仏造立
それら国分寺の総国分寺として大和国分寺を東大寺とあらため、七四三年毘盧舎那大仏造像の詔が発せられます。諸国国分寺と相応じて全国に毘盧舎那仏の世界を現出させ、天皇を中心とする中央政府と国司、国民との繋がりにおいて理想的国家の建設を目指したのでありました。
その理想国家の象徴が大仏であり、身の丈は一四.七㍍もあって当時世界最大の金銅仏でした。七五二年、既に皇位を譲られた聖武先帝は、文武百官とともに大仏の開眼法会に臨席。一万の僧が列席し、大導師の座には唐から来朝したインド僧菩提僊那が着し、呪願師を唐僧道?が勤め、またベトナム僧仏哲が故国の伎楽を披露するなど異国情緒溢れる、正にかつてない盛大な儀式が執り行われました。
この大仏の造立には、官僧から離脱して民衆を教化し様々な土木事業をはじめ社会活動に尽力した僧行基(六六八-七四九)を勧進職に任命し、彼の組織した公的得度を経ていない私度僧集団を公認して、勧募に協力させています。かつて民衆に罪福の因果を説いて様々な事業に民衆を駆り立てた罪で朝廷の迫害にもあった行基ではありましたが、この大仏造立の功績から最高位である大僧正に任ぜられました。
● 南都六br> 日本に伝えられてから、徐々に蓄積されてきた仏教が、奈良の諸大寺においてその専攻科目ごとに出来上がった六つの集団を南都六宗と呼びます。今日のような教団組織としての宗団ではなく、あくまでも専門分野ごとの研究グループという意味合いであったようです。
最も早く伝えられた[三論宗]は、龍樹の「中論」と「十二門論」それに提婆の「百論」の三論に基づいて大乗仏教の中心課題である空思想を中心に研究する学派でした。
正倉院文書によれば天平年間に当時の皇族貴族が発願した般若心経の写経が数多く作成されており、心経に対する関心が早くもこの頃から芽生えていたことが窺われます。三論宗の学僧智光はわが国最初の般若心経注釈書「般若心経述義」や「大般若経疏」などの著作を残しています。
この三論宗に付随して研究された[成実宗]は、インド部派仏教の学派にあたり、現在時における外界の対象は実在と見るが心やその作用は実在と認めないとする、訶梨跋摩の「成実論」を中心に研究する学派でした。
また[法相宗(ほっそうしゅう)]は、インド大乗仏教の唯識学派にあたり、入竺沙門玄奘三蔵によって中国に伝えられ、入唐した道昭(六二九-七〇〇)は直接玄奘から学んだと言われます。意識下に潜在する心の分析に特徴があり、菩薩は輪廻を繰り返し永遠に近い時間修行する必要がある、機根により仏となれない人があるなど、三国伝来の持説を主張しました。
道昭は諸国を遍歴し社会事業をもなし、わが国で初めて火葬に付されたことでも有名です。後に入唐した学僧玄(-七四六)は、唐の玄宗皇帝から紫の袈裟着用を許されるなど重んじられ、帰朝後も国分寺の創建に関わり聖武帝に重用されましたが、それが為に政治に深く関わり遂に筑前観世音寺に左遷されてしまいます。しかし彼が唐より将来した経論五千余巻は興福寺に勅蔵され、後のわが国仏教学の発展に大きな役割を果たすことになりました。
[倶舎宗(ぐしゃしゅう)]は、法相宗に付随し、世親の「倶舎論」を中心に学ぶインド部派仏教の学派に相当します。倶舎論の中で規定する諸概念によって唯識説が成立することから、法相宗の基礎学として学ばれました。
[華厳宗(けごんしゅう)]は、初期大乗を代表する華厳経を学ぶ学派であり、大仏開眼の大導師菩提僊那とともに来朝した唐の道?が初めて伝えました。
一つのものが世界の一切を含み、また一つのものは全てのものとの関係のもとに成り立っているとする華厳の教学は、律令体制の目指す統一国家の原理としてこの時代特に重要視されたのでした。
また[律宗(りつしゅう)]は、遣唐僧普照らの招請に応えて渡日を決意し、苦難の末七五四年に来朝した鑑真(がんじん)和上(わじょう)(六八七 - 七六三)によって伝えられました。当時の僧尼は官僧とはいえ、正式な三師七証という受戒を受けておらず、他国で承認されるものではありませんでした。そこで、当時中国で主流であった「四分律」(インド法蔵部所伝)に則った授戒制を導入する必要に迫られていました。
鑑真が来朝するとその年のうちに東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、そこで、聖武太上天皇、光明太后、孝謙天皇はじめ四百余人が菩薩戒を受け、既に官僧であった八十名あまりも旧戒を捨てて正式な具足戒を受けたということです。さらに下野薬師寺と筑前観世音寺にも戒壇が設けられ、僧はこれら三戒壇のどれかで受戒することが必須となりました。
なお、これら六宗のうち、法相宗、華厳宗、律宗の各宗は、それぞれ興福寺・薬師寺、東大寺、唐招提寺を大本山として今日までその法灯が継承されています。
こうして大仏開眼を頂点とする華やかな燦然たる仏教文化が咲き誇ったかに見えるこの時代、政治的には様々な内乱クーデターが続発する時代でもありました。また玄、道鏡など僧侶が政治の表舞台に躍り出るなど、僧風が乱れ腐敗堕落を招きました。
しかし乍ら、こうしてわが国は国家の形成期に、はからずも伝来した仏教の理念と文化によって、その基盤が形作られたのでありました。
(分かりやすい日本仏教史」第一回 転載終了)
副島隆彦拝
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