「4」 米内光政(よないみつまさ)という海軍軍人政治家が、日米開戦の最大の責任者で、暗躍した人物だ。歴史の真実をここでも暴かなければ済まない。

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副島隆彦です。  今日は、2005年10月31日です。

「三十郎」という人物のサイトから転載します。
この本は、本当に重要な本です。私は、米内光正(よないみつまさ)という海軍大将、海軍大臣
になり、開戦前のほんのわずか首相にもなった人物が、一番の開戦責任者で、そうとうに裏のある
人物だと睨んでいます。 私は、やがて、「日米開戦をロックフェラー財閥の手先となって仕組んだ
男、米内光正」を書きます。

(転載貼り付け始め)

「三十郎」という人のサイト
 http://www.abysshr.com/san/index.html

書評 『米内光政と山本五十六は愚将だった』
  著者:三村文雄 出版社:テーミス

 魂から搾り出した言葉があるとすれば本書がそれだと思う。拙者は本書を読んで、筆者の憤怒の声、慟哭の声を確かに聞いた気がした。 筆者に対して深く畏敬の念を感じ、拙者ごときがとやかくこの書に対して書くのは恐れ多いと思った。 だが、書かねば本書を紹介することはできぬ。拙者は多くの人にこの書を読んでいただきたいと思う。
 以下に本書を引用しつつ、拙者の感想を記す。

・引用始め
 かえりみれば、不条理の戦争に多くの国民が命をすてた。私と同世代の多くの人が、不条理の中でも国をまもることに意義を見出して、死んで行った。あの戦いを侵略戦争と言ってのける人たちにいいたい。人は侵略戦争のために死ねるものではない。自らを犠牲にすることによって、自らをこえる大さなもの、それは人によっていろいろだろう。国土、国民、家族あるいは国の歴史、文化、それとも国家の理想、そのいずれかのために、家をすて、知らぬ土地におもむき、そして死んだのだ。日本の戦争の実態が、自分の信じたものとちがっていても、理想の姿としての日本を信じ、理想のために死んだ人たちの鎮魂を祈りたい。戦後日本でいろいろ説かれた史観とは別の、そういう人たちの戦争があったことを訴えたい。
 稿を了えるにあたって、最初の命題「米内を斬れ」にかえらねばならない。軍人として政治家としての米内の言動をとり上げ、論じて来たが、「斬れ」に値する要素は多い。その中でも最も問題になるのは、天佑発言である。もし米内が阿南の面前で、これを口にしたとしたら、その場で阿南が斬ったかもしれない。だが発言は密室の中であり、阿南が伝聞でこれを知ったという事実もない。
 米内にとって米軍より憎い陸軍が大打撃を受けたことは、痴呆のためとはいえ、天佑という言葉が出るほど、うれしかったのだ。言葉には出なくても、廟堂密室での米内の一挙一動のうちに、それが出てしまっていたのだろう。痴呆がそれをおさえられなかった。理性において阿南が米内の和平指向を理解し、ある程度尊敬の念を持っていたことは、角田房子氏の前掲書も論証するところである。だが米内を痴呆とは考えない阿南は、米内の天佑を本性と感じとり、「斬れ」と口にしたのではないか。痴呆でなかったら、今の私でさえ、「斬れ」といいたいところだ。それほどの発言だつたのである。
 三百万の国民を殺した不条理の戦争は、もっと早くやめるべきであった。痴呆と阿呆の廟堂密室を上にいただいた国民の不幸、不運が、改めて思いかえされるのである。
・引用終わり

 戦後、米内光政は対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされた。しかしながら、戦史をつぶさに検証していくと、米内光政が日中戦争を拡大し停戦の機会を失わしめた張本人の一人であることが判る。中国においての泥沼が無ければ三国同盟があったとしても対米戦争を避けられた可能性は高い。筆者は米内光政を痴呆と断じているが、米内光政はどうしようもない愚者であったか、そうでないならば、あえて利敵行為を行う売国奴であったと拙者も思う。

・引用始め
 彼等は陸軍に救出され、海軍に帰還することが出来た。従来の例からみて、捕虜の件、機密文書の件、どちらか一方だけでも、ただではすまない筈であった。しかしいずれも不問とされ、軍法会議にかけられることもなかった。そればかりか、二人とも栄転してしまうのである。福留は中将に進級して、第二航空艦隊司令長官に、山本は第二艦隊先任参謀に、それぞれ出世してしまった。前者はその後レイテの戦いで、大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官と共に、特攻作戦の指揮をとり、自殺攻撃の命令を出しつづけるのだ。おなじ捕虜でも下士官兵は処刑され、高級将校は出世する。このダブルスタンダードは、帝国海軍のモラルの顧廃を明瞭に示すものではないか。当時の将星たちに、日露戦争の記憶は残っていた筈である。明治のヒューマニズムをすて去って、戦陣訓に迎合した、これが帝国海軍末期の姿であった。敗れるべき軍隊の姿であった。
・引用終わり

 戦陣訓は陸軍の汚点の一つと拙者は思う。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉に従って、どれほどの将兵が死んだことであろうか。
 明治の時代にはあった「名誉の捕虜」という国際標準の思考が昭和軍人からは失われていた。
 現代においてリベラルであったと美化されている海軍も例外ではなかった。むしろ本書にあるような異常な待遇差別のある組織であった。

・引用始め
 山本五十六海軍大将は、その最期から悲劇の名将といわれる。たしかに悲劇にはちがいないが、名将と呼ぶにはあまりにも疑問が多い。むしろ愚将とするのが穏当な評価であろう。それも並の愚将ではない。その判断の誤り、失敗の重大性から天下の愚将という名に砿じない軍人であった。例えばミッドウェー海戦で、山本は空母八(三百七十二機)、戦艦十一、重巡十七、軽巡十一、駆逐艦七十四、総計三百五十三隻、世界最強の連合艦隊を率いて出撃した。ニミッツはハワイで指揮してこれを遊撃した。空母三 (二百二十一機)、戦艦ゼロ、重巡七、軽巡一、駆逐艦二十一、総計五十七隻の太平洋艦隊である。普通の陣形で戦えば勝つのが当然という圧倒的な勢力差である。ニミッッは「あれほど航空優位を主張していた山本が、自分の指揮する艦隊を最も妥当な形に編成し運用できなかったとは信じられないくらいだ」とする (「ニミッツの太平洋戦史」恒文社)。この海戦に敗れた山本を愚将と呼ばずして、何と言っていいのだろうか。しかしその欠陥を逆手にとってまで彼をたたえ、粉飾して名将に仕立てる幇間的作家評論家たちはこれまで数知れず、今ものさばっている。旧軍人の中でも彼を正当に評価する者は少なく、彼をたたえる事によって、国運を傾けた拙劣な戦争指導を糊塗することが多いのである。
・引用終わり

 ミッドウェー海戦は、圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した戦いであった。
 連合艦隊は山口多聞少将の索敵徹底に関する意見具申を入れなかった。山本五十六は大和の情報分析能力により敵機動部隊の動向を知りながら無線封鎖を理由に南雲部隊にそれを伝えなかった。大戦力を擁しながら空母部隊に十分な護衛をつけなかった。
 そのために空母部隊による敵艦隊の発見が遅れ、敵部隊の攻撃により空母四隻を失ってしまった。
 「運命の五分」は言い訳に過ぎない。
 海軍がミッドウェー海戦における戦果を偽ったことも罪が重い。それこそが早期停戦への道を閉ざし、あたら国民の犠牲を増やす結果を招いたのだ。
 もし山口多聞少将が連合艦隊司令長官であったならばあのような戦いにはならなかった。そう拙者は思う。

・引用始め
真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する山口多開少将はじめ、渕田美津雄中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けられたが、連合艦隊司令部でもその是非で、激論が続けられた。その結果最終的には幕僚のほとんど全員一致で、第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし山本は「いや待て、むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官にまかせておこう」「やる者は言われなくったってやるさ、やらない者は遠くから尻を叩いたってやりはしない。南雲はやらないだろう」と言って却下した。まるで他人事のような、傍観的な言辞である。南雲も南雲なら山本も山本だ。この将にしてこの部下あり。「鳴かぬなら鳴かせて見せよう時鳥」ほどの統率力も山本にはなかったのか。それとも戦果をあげた以上、フリート・イン・ビーイングという帝国海軍の保全主義が何よりも優先して、急にこわくなったのか。
ニミッツは「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾門の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であっただろう」(「ニミッツの太平洋海戦史」恒文社)と書いているが、山本の戦術眼からは、重油タンクやドックは物の数ではなかったらしい。
・引用終わり

 ハワイは米国の太平洋における重要な戦略拠点であった。
 真珠湾攻撃の際にハワイの基地機能を破壊しておけば太平洋戦争の様相は大きく変わったであろう。
 山本五十六は軍事的合理性に基づいた部下の意見具申を斥けた。そして、それにより当然獲得できる筈であった太平洋における戦略的優位を失ったのだ。

(転載針貼り付け終わり)

副島隆彦拝<>0<><><><><><>
2005年11月04日(金) 00:10:32<>2005年10月27日(木) No. 1<>「3」 なつかしい「若い根っこの会」のこと、とある代議士秘書の死で、政治家の本当の人格が分かる。<>副島隆彦です。私だって、遠くの方から、昔なつかしく聞き知っていただけの「若い根っこの会」の由来が分かって納得した。それから、加藤紘一という政治家は、本当に首相になるべき国家逸材だったのだと分かる。  副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

▼2005年10月13日発行号
▼南十字星(10月10日)

 今は少し体調を崩されている様だが、東京の豊島区に政治が大好きで活動を共にしてきた、大沢さんという印刷会社を経営していた人がいる。私が青雲の志しを抱懐して、政治への門を叩いたばかりの20才位の頃だと思う。

大沢さんに「社長はどうしてスポーツカーに乗るのですか」と聞いたことがある。「年をとって(その頃50代?)おかしいと思うだろうね。でも、若く、貧しい頃『いつか成功して赤いスポーツカーに乗って見たい』と思い続けていたんだ。経費でおとせるのは、酒と車くらいしかないしね」と笑いながら言っていたのを憶えている。

人生を意欲的に生きている人は年をかさねるごとに、今、自分は若い時よりも青春の中にいる、という思いを持っている人が多いかも知れない。但し、ある一定の時間的余裕と少々のお小遣いは必要条件だろうが。

 東京オリンピックの始まる前の時代、中学校を卒業して東北から多くの子供達が集団就職に上京した。まだ15才で親からの真の精神的自立もできない時期での東京(圏)での生活は、彼等にとって淋しく心細いものであったに違いない。そんな時、秋田県出身の青年、加藤日出男(かとうひでお)さんが地方から上京してきた子供達を励まそうと、川越に“根っこの家”をつくった。これが若い根っこの会のスタートだった。

仕事が終わって時間ができた時や、土・日には多くの少年が集
まって楽しい時間を過ごした。爾来、加藤会長はずっと青少年の育成の仕事にとり組んでこられた。文字通りこれが会長の畢生の大業となった。

私が31才で市会議員になった時には、後援会の顧問も喜んでお引き受け下さった。最初にお目にかかってから、何年か後にお会いした時には「あ~山根さんお元気ですか」と声をかけて頂きびっくりした事があった。加藤さんは一度会った人の名前を誰でも決して忘れないという、凄い記憶力の持ち主である。そして人の心の胸奥もつかみ、細かな気配りの人でもある。

「山根さん、集合写真を見る時、誰でもがさりげなく、先ず自分がどこに写っているかを見つけるものなんだ。そのことを忘れてはいけませんよ」と私に教えてくれたことがあるが、加藤会長は、一人一人の小さな関心、心配、喜びを理解し気遣うことの出来る方だ。

76才になる現在も続けている一貫した社会運動は、本物の活動家であることを証して余りあるもので、天が日本に送り込んだ使徒といえるだろう。

その加藤さんがもう30年以上も毎年続けている洋上大学というイベントがあり、10日間、船中で各界の有識者の講義を受けて学ぶという企画だが、これには10才に満たない子供から80才を超える人々が参加しているという。私も知人に勧められたことがあるが、4月の行事であり、通常国会の真最中なので断念したことがある。夜中、船の甲板に出て無数の星々を見、南十字星を眺める時の心地良さは、別世界に参加者の誰しもが誘(いざな)われ、例えようもなく恍惚感に満たされるようだ。

去る10月7日、若い根っこの会、加藤会長を励ます集いが九段会館
で行われ、改めて加藤会長から南十字星の美しさを聞かされ、参加への思いでムムッと心動かされたが、国会の開会中では何ともならない。若い時の熱気をそのまま今も発散し続けている76才の青春というのは、奇跡なのだろうか。

▼代議士秘書の死(10月12日)

 既に衆院が解散されていた。若い秘書が急逝し、その告別式に代議士が夫人と共に、最初から最後まで列席し、弔問に訪れる方々、一人一人に丁寧に挨拶をされていた。数日後、通夜に行かれた人の話を聞いたが、その日も最初から最後まで、その代議士は夫人と共に列席されていたそうだ。亡くなられた秘書氏とは生前多分、私はお会いしたことはないと思うが、故人のご尊父は、市議会議員時代から多大なご支援を頂いている私の恩人である。

戸田葬祭場に着いてみると、私は当然ご尊父の今日までの経歴からいって、民主党関係者でいっぱいになっていると思い込んでいたが、あに図らんや生花は、小泉総裁をはじめ自民党関係者のもので埋め尽くされていた。

私は一瞬、混乱し、余所の斎場に入り込んでしまったのかと見間違う程、自民党色でいっぱいだった。何か居心地の悪さを覚えながらも前から数列目の席に座り、遺影を眺めたりご尊父の姿などに眼を移したりしていたら、見覚えのあるお顔が眼に止まった。それが自民党元幹事長、加藤紘一代議士だった。

ずっと以前、ご尊父から「息子が加藤紘一さんのところでお世話になっているんだよ」とお聞きしたのを一気に思い出すことができた。 亡くなった秘書氏がどれだけ事務所内で重んじられていたか、そして、加藤紘一代議士が秘書思いの人柄であるのかを垣間見たような気がした。

解散間もないあの日、あの時、政治家にとっては最も厳しい日々であった筈だが、その怱忙(そうぼう=超忙しい時)の間ご夫妻での加藤代議士の列席は、私には小泉総理の時代だけに、心暖まる思いであった。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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