「4」 米内光政(よないみつまさ)という海軍軍人政治家が、日米開戦の最大の責任者で、暗躍した人物だ。歴史の真実をここでも暴かなければ済まない。

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副島隆彦です。  今日は、2005年10月31日です。

「三十郎」という人物のサイトから転載します。
この本は、本当に重要な本です。私は、米内光正(よないみつまさ)という海軍大将、海軍大臣
になり、開戦前のほんのわずか首相にもなった人物が、一番の開戦責任者で、そうとうに裏のある
人物だと睨んでいます。 私は、やがて、「日米開戦をロックフェラー財閥の手先となって仕組んだ
男、米内光正」を書きます。

(転載貼り付け始め)

「三十郎」という人のサイト
 http://www.abysshr.com/san/index.html

書評 『米内光政と山本五十六は愚将だった』
  著者:三村文雄 出版社:テーミス


 魂から搾り出した言葉があるとすれば本書がそれだと思う。拙者は本書を読んで、筆者の憤怒の声、慟哭の声を確かに聞いた気がした。 筆者に対して深く畏敬の念を感じ、拙者ごときがとやかくこの書に対して書くのは恐れ多いと思った。 だが、書かねば本書を紹介することはできぬ。拙者は多くの人にこの書を読んでいただきたいと思う。
 以下に本書を引用しつつ、拙者の感想を記す。

・引用始め
 かえりみれば、不条理の戦争に多くの国民が命をすてた。私と同世代の多くの人が、不条理の中でも国をまもることに意義を見出して、死んで行った。あの戦いを侵略戦争と言ってのける人たちにいいたい。人は侵略戦争のために死ねるものではない。自らを犠牲にすることによって、自らをこえる大さなもの、それは人によっていろいろだろう。国土、国民、家族あるいは国の歴史、文化、それとも国家の理想、そのいずれかのために、家をすて、知らぬ土地におもむき、そして死んだのだ。日本の戦争の実態が、自分の信じたものとちがっていても、理想の姿としての日本を信じ、理想のために死んだ人たちの鎮魂を祈りたい。戦後日本でいろいろ説かれた史観とは別の、そういう人たちの戦争があったことを訴えたい。
 稿を了えるにあたって、最初の命題「米内を斬れ」にかえらねばならない。軍人として政治家としての米内の言動をとり上げ、論じて来たが、「斬れ」に値する要素は多い。その中でも最も問題になるのは、天佑発言である。もし米内が阿南の面前で、これを口にしたとしたら、その場で阿南が斬ったかもしれない。だが発言は密室の中であり、阿南が伝聞でこれを知ったという事実もない。
 米内にとって米軍より憎い陸軍が大打撃を受けたことは、痴呆のためとはいえ、天佑という言葉が出るほど、うれしかったのだ。言葉には出なくても、廟堂密室での米内の一挙一動のうちに、それが出てしまっていたのだろう。痴呆がそれをおさえられなかった。理性において阿南が米内の和平指向を理解し、ある程度尊敬の念を持っていたことは、角田房子氏の前掲書も論証するところである。だが米内を痴呆とは考えない阿南は、米内の天佑を本性と感じとり、「斬れ」と口にしたのではないか。痴呆でなかったら、今の私でさえ、「斬れ」といいたいところだ。それほどの発言だつたのである。
 三百万の国民を殺した不条理の戦争は、もっと早くやめるべきであった。痴呆と阿呆の廟堂密室を上にいただいた国民の不幸、不運が、改めて思いかえされるのである。
・引用終わり

 戦後、米内光政は対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされた。しかしながら、戦史をつぶさに検証していくと、米内光政が日中戦争を拡大し停戦の機会を失わしめた張本人の一人であることが判る。中国においての泥沼が無ければ三国同盟があったとしても対米戦争を避けられた可能性は高い。筆者は米内光政を痴呆と断じているが、米内光政はどうしようもない愚者であったか、そうでないならば、あえて利敵行為を行う売国奴であったと拙者も思う。

・引用始め
 彼等は陸軍に救出され、海軍に帰還することが出来た。従来の例からみて、捕虜の件、機密文書の件、どちらか一方だけでも、ただではすまない筈であった。しかしいずれも不問とされ、軍法会議にかけられることもなかった。そればかりか、二人とも栄転してしまうのである。福留は中将に進級して、第二航空艦隊司令長官に、山本は第二艦隊先任参謀に、それぞれ出世してしまった。前者はその後レイテの戦いで、大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官と共に、特攻作戦の指揮をとり、自殺攻撃の命令を出しつづけるのだ。おなじ捕虜でも下士官兵は処刑され、高級将校は出世する。このダブルスタンダードは、帝国海軍のモラルの顧廃を明瞭に示すものではないか。当時の将星たちに、日露戦争の記憶は残っていた筈である。明治のヒューマニズムをすて去って、戦陣訓に迎合した、これが帝国海軍末期の姿であった。敗れるべき軍隊の姿であった。
・引用終わり

 戦陣訓は陸軍の汚点の一つと拙者は思う。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉に従って、どれほどの将兵が死んだことであろうか。
 明治の時代にはあった「名誉の捕虜」という国際標準の思考が昭和軍人からは失われていた。
 現代においてリベラルであったと美化されている海軍も例外ではなかった。むしろ本書にあるような異常な待遇差別のある組織であった。

・引用始め
 山本五十六海軍大将は、その最期から悲劇の名将といわれる。たしかに悲劇にはちがいないが、名将と呼ぶにはあまりにも疑問が多い。むしろ愚将とするのが穏当な評価であろう。それも並の愚将ではない。その判断の誤り、失敗の重大性から天下の愚将という名に砿じない軍人であった。例えばミッドウェー海戦で、山本は空母八(三百七十二機)、戦艦十一、重巡十七、軽巡十一、駆逐艦七十四、総計三百五十三隻、世界最強の連合艦隊を率いて出撃した。ニミッツはハワイで指揮してこれを遊撃した。空母三 (二百二十一機)、戦艦ゼロ、重巡七、軽巡一、駆逐艦二十一、総計五十七隻の太平洋艦隊である。普通の陣形で戦えば勝つのが当然という圧倒的な勢力差である。ニミッッは「あれほど航空優位を主張していた山本が、自分の指揮する艦隊を最も妥当な形に編成し運用できなかったとは信じられないくらいだ」とする (「ニミッツの太平洋戦史」恒文社)。この海戦に敗れた山本を愚将と呼ばずして、何と言っていいのだろうか。しかしその欠陥を逆手にとってまで彼をたたえ、粉飾して名将に仕立てる幇間的作家評論家たちはこれまで数知れず、今ものさばっている。旧軍人の中でも彼を正当に評価する者は少なく、彼をたたえる事によって、国運を傾けた拙劣な戦争指導を糊塗することが多いのである。
・引用終わり

 ミッドウェー海戦は、圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した戦いであった。
 連合艦隊は山口多聞少将の索敵徹底に関する意見具申を入れなかった。山本五十六は大和の情報分析能力により敵機動部隊の動向を知りながら無線封鎖を理由に南雲部隊にそれを伝えなかった。大戦力を擁しながら空母部隊に十分な護衛をつけなかった。
 そのために空母部隊による敵艦隊の発見が遅れ、敵部隊の攻撃により空母四隻を失ってしまった。
 「運命の五分」は言い訳に過ぎない。
 海軍がミッドウェー海戦における戦果を偽ったことも罪が重い。それこそが早期停戦への道を閉ざし、あたら国民の犠牲を増やす結果を招いたのだ。
 もし山口多聞少将が連合艦隊司令長官であったならばあのような戦いにはならなかった。そう拙者は思う。

・引用始め
真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する山口多開少将はじめ、渕田美津雄中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けられたが、連合艦隊司令部でもその是非で、激論が続けられた。その結果最終的には幕僚のほとんど全員一致で、第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし山本は「いや待て、むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官にまかせておこう」「やる者は言われなくったってやるさ、やらない者は遠くから尻を叩いたってやりはしない。南雲はやらないだろう」と言って却下した。まるで他人事のような、傍観的な言辞である。南雲も南雲なら山本も山本だ。この将にしてこの部下あり。「鳴かぬなら鳴かせて見せよう時鳥」ほどの統率力も山本にはなかったのか。それとも戦果をあげた以上、フリート・イン・ビーイングという帝国海軍の保全主義が何よりも優先して、急にこわくなったのか。
ニミッツは「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾門の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であっただろう」(「ニミッツの太平洋海戦史」恒文社)と書いているが、山本の戦術眼からは、重油タンクやドックは物の数ではなかったらしい。
・引用終わり

 ハワイは米国の太平洋における重要な戦略拠点であった。
 真珠湾攻撃の際にハワイの基地機能を破壊しておけば太平洋戦争の様相は大きく変わったであろう。
 山本五十六は軍事的合理性に基づいた部下の意見具申を斥けた。そして、それにより当然獲得できる筈であった太平洋における戦略的優位を失ったのだ。

(転載針貼り付け終わり)

副島隆彦拝<>0<><><><><><> 2005年11月04日(金) 00:10:32<>2005年10月27日(木) No. 1<>「3」 なつかしい「若い根っこの会」のこと、とある代議士秘書の死で、政治家の本当の人格が分かる。<>副島隆彦です。私だって、遠くの方から、昔なつかしく聞き知っていただけの「若い根っこの会」の由来が分かって納得した。それから、加藤紘一という政治家は、本当に首相になるべき国家逸材だったのだと分かる。  副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

▼2005年10月13日発行号
▼南十字星(10月10日)

 今は少し体調を崩されている様だが、東京の豊島区に政治が大好きで活動を共にしてきた、大沢さんという印刷会社を経営していた人がいる。私が青雲の志しを抱懐して、政治への門を叩いたばかりの20才位の頃だと思う。

大沢さんに「社長はどうしてスポーツカーに乗るのですか」と聞いたことがある。「年をとって(その頃50代?)おかしいと思うだろうね。でも、若く、貧しい頃『いつか成功して赤いスポーツカーに乗って見たい』と思い続けていたんだ。経費でおとせるのは、酒と車くらいしかないしね」と笑いながら言っていたのを憶えている。

人生を意欲的に生きている人は年をかさねるごとに、今、自分は若い時よりも青春の中にいる、という思いを持っている人が多いかも知れない。但し、ある一定の時間的余裕と少々のお小遣いは必要条件だろうが。

 東京オリンピックの始まる前の時代、中学校を卒業して東北から多くの子供達が集団就職に上京した。まだ15才で親からの真の精神的自立もできない時期での東京(圏)での生活は、彼等にとって淋しく心細いものであったに違いない。そんな時、秋田県出身の青年、加藤日出男(かとうひでお)さんが地方から上京してきた子供達を励まそうと、川越に“根っこの家”をつくった。これが若い根っこの会のスタートだった。

仕事が終わって時間ができた時や、土・日には多くの少年が集
まって楽しい時間を過ごした。爾来、加藤会長はずっと青少年の育成の仕事にとり組んでこられた。文字通りこれが会長の畢生の大業となった。

私が31才で市会議員になった時には、後援会の顧問も喜んでお引き受け下さった。最初にお目にかかってから、何年か後にお会いした時には「あ~山根さんお元気ですか」と声をかけて頂きびっくりした事があった。加藤さんは一度会った人の名前を誰でも決して忘れないという、凄い記憶力の持ち主である。そして人の心の胸奥もつかみ、細かな気配りの人でもある。

「山根さん、集合写真を見る時、誰でもがさりげなく、先ず自分がどこに写っているかを見つけるものなんだ。そのことを忘れてはいけませんよ」と私に教えてくれたことがあるが、加藤会長は、一人一人の小さな関心、心配、喜びを理解し気遣うことの出来る方だ。

76才になる現在も続けている一貫した社会運動は、本物の活動家であることを証して余りあるもので、天が日本に送り込んだ使徒といえるだろう。

その加藤さんがもう30年以上も毎年続けている洋上大学というイベントがあり、10日間、船中で各界の有識者の講義を受けて学ぶという企画だが、これには10才に満たない子供から80才を超える人々が参加しているという。私も知人に勧められたことがあるが、4月の行事であり、通常国会の真最中なので断念したことがある。夜中、船の甲板に出て無数の星々を見、南十字星を眺める時の心地良さは、別世界に参加者の誰しもが誘(いざな)われ、例えようもなく恍惚感に満たされるようだ。

去る10月7日、若い根っこの会、加藤会長を励ます集いが九段会館
で行われ、改めて加藤会長から南十字星の美しさを聞かされ、参加への思いでムムッと心動かされたが、国会の開会中では何ともならない。若い時の熱気をそのまま今も発散し続けている76才の青春というのは、奇跡なのだろうか。

 

▼代議士秘書の死(10月12日)

 既に衆院が解散されていた。若い秘書が急逝し、その告別式に代議士が夫人と共に、最初から最後まで列席し、弔問に訪れる方々、一人一人に丁寧に挨拶をされていた。数日後、通夜に行かれた人の話を聞いたが、その日も最初から最後まで、その代議士は夫人と共に列席されていたそうだ。亡くなられた秘書氏とは生前多分、私はお会いしたことはないと思うが、故人のご尊父は、市議会議員時代から多大なご支援を頂いている私の恩人である。

戸田葬祭場に着いてみると、私は当然ご尊父の今日までの経歴からいって、民主党関係者でいっぱいになっていると思い込んでいたが、あに図らんや生花は、小泉総裁をはじめ自民党関係者のもので埋め尽くされていた。

私は一瞬、混乱し、余所の斎場に入り込んでしまったのかと見間違う程、自民党色でいっぱいだった。何か居心地の悪さを覚えながらも前から数列目の席に座り、遺影を眺めたりご尊父の姿などに眼を移したりしていたら、見覚えのあるお顔が眼に止まった。それが自民党元幹事長、加藤紘一代議士だった。

ずっと以前、ご尊父から「息子が加藤紘一さんのところでお世話になっているんだよ」とお聞きしたのを一気に思い出すことができた。 亡くなった秘書氏がどれだけ事務所内で重んじられていたか、そして、加藤紘一代議士が秘書思いの人柄であるのかを垣間見たような気がした。

解散間もないあの日、あの時、政治家にとっては最も厳しい日々であった筈だが、その怱忙(そうぼう=超忙しい時)の間ご夫妻での加藤代議士の列席は、私には小泉総理の時代だけに、心暖まる思いであった。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝<>0<><><><><><> 2005年11月04日(金) 00:12:14<>2005年10月26日(水) No. 1<>「2」 竹中平蔵の懐刀の財務官僚の名前が出てくる。<>副島隆彦です。 私が重要情報、知識と思う情報文を転載する、の2本目です。 以後、番号をふって、どんどん載せます。
出典は、下↓の実質「1」で書きましたとおり、わざと曖昧(あいまい)にしようと思います。この試みは、情報伝達の仕方についての新たな実験だと私は思っています。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

▼2005年10月20日発行号
▼国会中継(10月18日)

全ての国会での委員会審議は院内(国会内)テレビ中継されているが、一般家庭にこの映像は届かない。予算委員会や際物の委員会では時折NHKのテレビ中継が行われるが、その時に質問に立てる機会は極めて少ない。

幸い郵政特別委員会のNHKテレビ入り生中継の時に質問の機会
(13日)を与えられた。既にこの委員会では、4度、質問や討論に立
っている。細かい未消化の質問は未だ残っていたが、テレビ中継となると、視聴者に解り易い内容でどう討論を展開するか、工夫しなければならない。自分なりに考えて作り上げた質問だが、視聴者にはどう映ったのだろうか。民主党は、私を含めテレビ中継のこの日、4人が質問に立ったが、それぞれ個性的な質問ができたような気がする。

質問内容の詳細は、下記でご覧頂けます。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php


▼郵政特のドラえもん(10月19日)

 7月27日のメルマガにも書かせて頂いたが、竹中大臣の郵政特別委員会での答弁席の後ろにはいつもピタッと付いている補佐官がいる。

竹中さんが答弁するに当たって、一寸でも間が空くと、すぐにメモを出したり、小声で大臣に囁いている。同僚議員何人かに「あの人は誰」と聞いたが誰も知らなかった。仕方ないから郵政特の始まる前に、私から歩み寄って名刺交換させてもらったが、竹中大臣の秘書官で井上裕之さんという人だった。

財務省から派遣されているそうで郵政法案が通ったので、本省へ戻るのかもしれない。あるいは、竹中さんが大臣の間、ずっと留まるのかも知れないが、政府はすごい人材を抱えているなと思った。井上氏と言葉を交わしているとすぐに竹中さんが振り返って、私に「彼は本当に優秀なんですよ。これからも宜しくお願いします。」と言われた。

参院では、かなり突っ込んだ専門的な議論が多かっただけに、竹中大臣にとって井上氏は無くてはならぬ人材だったろう。彼はドラえもんのポケットのように、大臣が答弁に窮している場面ではいつでも答弁メモを取り出していた。彼の脇には30センチ幅程のカバンが2つあって、その中には資料がぎっしりと詰め込まれて
いたのだが、それらの資料を全部しっかりと読み込んでいないと、とてもではないが、俄に取り出すことなど不可能だろう。

翻って、井上氏ばかりでなくこうしたレベルの人材を数多く抱える政府に対し、わが党は、短日時で対案をまとめ提出したことを私は誇らしく思う。

国全体の資料を思うままにつくり出し、数万という官僚群を使って漸くまとめ上げた政府案に、ほぼ数10人の関係議員だけで議論し作成したわが党の法案は、数の力であっさり否決されはしたが、政府案に比べ決して遜色がないばかりではなく、優れていたと、私は今でも思っている。


▼言い忘れたこと(10月20日)

 テレビ中継された郵政特別委員会に於ける私の質疑で、終わってみて後から言い足りなかったこと、言い忘れたこと、遠慮しすぎたと思われることがいくつかあった。労組のことについては、もっと小泉さんにその認識を質せばよかったかな、という思いが残った。

刺客を送るなどの非情な措置は、選挙としては好結果をもたらしはしたが、国民各界、各層への影響についてどう考えるか、聞いてみたかった。目的の為には、法律の許す範囲なら何でもやるという手法が良しとされれば、経済界や、教育界等あらゆる分野で築き上げられてきた日本の“和”の文化を破壊しかねないという思いが私にはある。

特に青少年への影響は計り知れないだろう。狩猟民族であることからくる特性や、一面には多人種をまとめるという目的のために考え出されてきた、と私が考える民主主義の根本理念というものは、意識するとしないとに拘わらず和の心として、私はわが国が永く築いてきた精神文化だと思っている。その日本の根幹のところを小泉総理は、いたぶってしまったように思えてならない。

他党のことではあるが、自党の議員を思いやるなら、前国会で与党自身が出してきた参議院での15項目の附帯決議のうち、1ツや2ツの項目を法案に新たに入れ込んだものを、改めて提出することができた筈だ。そうすれば前回、反対にまわった議員も多少とも修正されたものだから、今回は賛成に転じたと、有権者に説明できたろうし、大義名分を持つことができた筈だ。前回と全く同じ法案を反対から賛成に転じた自民党議員の政治的良心は、これでズタズタにされてしまった。

評論家や一部議員は小泉総理のいう造反議員の転向に“国民への裏切り”と批判するが、私は個人的には斬界に身を置くものとして同情を禁じえない。

評論家は、鳩山一郎もかって除名処分を受けたが、その後、総理になったではないかと解説していた。しかし、一度、党を除名になった者が復活できるのは、力のある少数の議員でしかなく、ほとんどの者は政治生命を失うのではないだろうか。

参院の郵政特で自民党議員が小泉総理の行った非情な措置を「義理と人情でなく・・・」と評価していたが『義理と人情』を『感謝と思いやり』という言葉に置き換えても尚、小泉流を支持する人がわが日本国にそんなにいるのだろうか。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝<>0<><><><><><> 2005年10月21日(金) 18:27:16<>2005年10月21日(金) No. 1<>ペルーの元大統領 アルベルト・フジモリ氏の意気軒昂な最近の様子の情報を、ここに載せます。<>副島隆彦です。 今日は、2005年10月21日です。
私は、これから、ここの掲示板を利用して、私の元に集まった
情報文で、優れた内容のもので、私の判断でここに転載することに決断しました。
「重たい掲示板」に載せるわけには行かないような、他所から発信された情報や、知識文章です。私の判断基準で、私たちの学問の会員の皆さんの役に立つであろうものを、こっそりと載せます。

こっそりと載せるのですから、公開はしたままにしますが、このあと、私の判断で暫定的に掲載を続けてみます。問題が起きるようでしたら、方針を変えます。閉鎖して会員しか読むことが出来ないようにしようと思います。そういうシステム変更は簡単です。

ですので、以下の文章は、第一回目として、ペルーのあのすばらしい世界基準の日系人の大統領であった、アルベルト・フジモリ氏の近況です。たしかに、たいした人物です。どんな逆境にあってもめげない人です。

以下の文章の出典と筆者は、上記の理由から、明らかにしません。私の知己の人です。
こっそりとはじめるのです。趣旨をご理解ください。副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

以下は2005年10月20日に書かれた文章である。


◆今週のテーマ

フジモリ元大統領の挑戦

  10月6日、ペルーのフジモリ元大統領の講演会(弊会主催)が憲政記念館で開催された。フジモリ氏は「私の支持率は3割以上ある。法的に問題はない。私は必ず復帰する」と明言した。

これは来年4月に行われるペルー大統領選への立候補を正式に表明したものだ。当初はフジモリ氏からテレビカメラの持ち込み取材は断ってほしいとの要請があった。ところが当日になって急遽記者会見を行った。

フジモリ氏は既にペルー政府発行のパスポートを9月に取得している。当日は帰国時期を明らかにしなかったが、帰国後逮捕されないよう、弁護士を通じてペルー司法当局に働きかけていることを明らかにした。

フジモリ氏は、刑事訴追手続きの不備で逮捕命令が取り消されるとの期待を示した。現在10年間の公職追放決議を受けており、取り消しか否かペルー中央選管の国家選挙審議会(5人)の決定が待たれている。

●講演会を中止せよ

10月6日、講演会当日の朝、会場側をはじめペルー側の関係者から“講演会を中止せよ”との連絡が入った。しかも中には“中止しなければ何が起こるか分からないぞ”という強硬なものまであった。

さらに前日の夕刻、ペルー大使のルイス・マキャベロ氏からFAX が送られてきた。つまり“この講演会はペルーと民主体制に対する非友好的行為であり、断固とした抗議を表明する”というものであった。

マキャベロ大使のFAX内容は以下の通りである。

「自国の司法から、人権侵害、汚職を含む様々な犯罪により召喚され、インターポールから国際手配が出され、日本政府にペルー政府より正式に2件の引き渡し要請が出されています。また、これからも様々な件での引き渡し要請を手続き中のペルー国民にこのような形で後援するということに対して、断固とした抗議をせざるを得ません。(中略) 多くの国が前大統領を逃亡者と認め、国の領土内に入った場合は身柄を拘束しペルーに引き渡すという決定を表明しています。これらの国々は『アメリカ合衆国、ドイツ、中国、スペイン、イタリア、メキシコ、ニュージーランド、ポルトガル、チェコ共和国、ベネズエラ』などです。(中略)フジモリ氏は1992年4月5日にペルーの憲法をねじ曲げ、民主国家の権利を侵害し、ペルー国会を解散させた人物です。今回議会制民主主義についての一般認識を深めることを目的に設立された憲政記念館で講演を行うことは許されない行為です」
などとの抗議内容であった。


●フジモリ氏、再出馬表明

ペルーでは現職のトレド大統領の不人気に加え、それに変わる対立候補もいない。今や貧困層の不満は最高潮に達しており、フジモリ氏復活の声が次第に盛り上がりを見せている。現在ペルーの各種世論調査でもフジモリ氏が第1位を占め、約35%以上の支持率だ。さらにこの時期に事実上の立候補を宣言したのは、ペルー世論や審議会に大きなインパクトを与えるのを計算に入れてのことと思われる。

●側近の不正蓄財が飛び火

現在、フジモリ氏は殺人、公金横領、汚職などで刑事訴追を受けている。大統領を辞任して以来5年も経過している。フジモリ氏が辞任に追い込まれた最大の理由は、側近だったモンテシノス
国家情報部元顧問の不正蓄財事件である。モンテシノス氏はとかくの噂が絶えず、問題ある人物であった。しかし彼は軍や情報機関の人脈を持ち、いざとなれば役に立つ部下である。彼はこの人脈を維持するために裏金を必要とした。

モンテシノス氏は、1997年の日本大使公邸人質事件の武力解決と難局打開で活躍した。しかし野党議員買収疑惑を引き起こし、フジモリ政権(三選後)崩壊の引き金となる。

●証拠なき容疑

 フジモリ氏への疑惑には、「20億円を邦銀の口座に入金、ペルー当局捜査開始へ」とか「東南アジア、パラグアイなど世界各国に複数の口座を持っている」とか、犯人と決めつけた報道もあった。さらに日本からの寄付金や学校建設の寄付金を横領し、不動産資産を14件持っている、さらにミグ29戦闘機を39機保有しているなど、ばかげた情報まで垂れ流されていた。

これに対してフジモリ氏は「私が寄付金を横領したというモンテシノス氏の言葉を信じるなら、私がアジア各国に口座を持っている証拠、私が所有する不動産資産を新聞で公表できますか」と問いかけた。

●初の無罪判決/ペルー最高裁

 10月18日、現職当時のことで公金横領罪に問われたペルーのフジモリ元大統領について、同国最高裁は証拠不十分で無罪とする判決を言い渡した。このフジモリ氏問題について、特に共同通信社はかなり深く突っ込んだ取材や調査を行っている。取材担当者は、証拠のないフジモリ疑惑より今後の大統領選に出馬できるか否かに焦点を絞っていた。今回の無罪判決は想定内のことである。

●米国は反フジモリだった

 かつてフジモリ氏はペルーの民主化と国家再建に大英断を下した。彼は手段として非常国家再建政府を樹立した。このフジモリ改革によって旧支配層の既得権益(政治・経済基盤)がずたずたに破壊されたのである。それゆえ彼らの反撃は、米国を巻き込みフジモリ追い落としに拍車をかけたとしても、決しておかしな話ではない。

そこで米国のフジモリ氏に対する疑問、不信感が募り、全世界にウソとデマ情報を流したという見方もある。フジモリ疑惑の発信元は米国だというわけだ。フジモリ氏の辞任後、ペルーは旧支配層が再び実権を握ることになった。

今まで、何らかの意図で作為的に情報操作されてきたことは明白である。物事の真実を確かめず、疑いもせず、我々は一方的な情報を受け入れてきた。

●フジモリ時代の功績

 フジモリ氏による大統領時代には輝かしい功績がある。それまで慣例化していた公務員の贈収賄や汚職の追放に力を注いだ。歴代大統領たちの、一部の特権階級の利益しか考えない無責任な無能無策の政治を改革した。前大統領の対外債務支払拒否政策のために失っていた諸外国の信用を回復し、年率7600%のハイパーインフレに見舞われていたペルー経済を立て直してインフレ年率を数%に減らした。

また、インディオの教育に重点をおいて2000校を超える学校を設立し、非識字率を14%から7%に減らし、隣国のエクアドルおよびチリとの長年の国境問題を解決した。

テロリズムの問題に取り組み、民衆を虐殺していたセンデロ・ルミノソとMRTAをほぼ制圧して民衆を恐怖から解放し、国民治安を改善して観光業を振興させ、ペルーを見捨てられていた政情不安定な後進国から国際的に重視される国へと引き上げた、などフジモリ氏の政策によってペルーは大改革されたのである。[著書「大統領への道」より]

●復帰を待つペルー国民

 6月10日、名古屋観光ホテルでフジモリ氏と朝食を共にする機会があった。フジモリ時代、ペルーの再生に成功した要因は何かと聞いたことがある。彼は「会社の経営も国の統治も同じことです。私が1975年にラモリナ国立農科大学の学長時代、学校経営に苦労した体験が役立っている」と語った。

又、フジモリ氏は政権のスローガンとして「誠実、技術、勤勉」を掲げた。これは昔の日本人が大切にしてきた民族的なDNAである。フジモリ氏は大学教授であったことを誇りとし、昔の日本人魂を精神的支柱とした。

フジモリ氏はたくさんの仕事をこなしてきた。彼はいつも「私は有言実行ではなく無言実行である」と言っている。大統領就任と共に立法府・司法府の改革を行う。さらに「民営化促進法」
「規制解除法」をはじめ国営企業の民営化、財政支出のカット、金融の自由化など、自由市場経済への道を開いた。

今、ペルーは政治的・経済的混乱が続き、テロが復活するなど治安は危機的状況だ。つまり、昔のペルーに回帰している。最近、フジモリ氏は一日の大半をパソコンに向かっている。今後の復帰に備えて着々と準備を始めているかのようだ。ペルー国民の大半がフジモリ氏の大統領再選を望んでいる限り、その期待に応えなくてはならない。   次回は10月27日(木)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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