「1718」 西部邁(にしべすすむ)の自殺死に対して、私が思ったこと。副島隆彦 2018.1.24
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副島隆彦です。今日は、2018年1月24日です。
評論家の西部邁(にしべすすむ)が、21日に、多摩川に飛び込んで自殺した。78才だった。自殺という死に方は、頭をたくさん使う言論人に職業病としてありふれた行動だから、他人事(ひとごと、と読む)とは思えない。私も自分の頭を酷使しているからきつい。
これからもっともっと知識人が、西部と同じように「自分が抱える頭の病気」で自殺するだろう。
西部邁氏(桐原正道撮影 写真:産経新聞)
「おれは自裁死(じさいし)するぞ」と周囲に言っていたそうだから、自分が意欲して計画したとおりに自死(じし)を実行できて仕合わせだったろう。それでも強い現世への執着を持って死んだら、あたりに亡霊となって出るそうだから、多くの知人たちのところに、西部の霊(れい)が出ただろう。強い強迫観念を西部に対して持っていた者たちには、その霊魂が現れる。
私は、この男の、本当に狡猾な正体、ずるい人間の本性を見て知っているので、哀悼の気持ちは起きない。だから私のところには西部の霊は出なかった。が、なぜかこの3日間、ひどく寝苦しかった。
私は、西部の死を聞いて、咄嗟には、次のようにメモした。「ついに西部も逝ったか。 今日の 午後3時に、○○から電話があって教えられた。 私は一瞬、アハハと笑った。それが私の西部の死への反応だった。私は、この男については、書きたいことがたくさんある。私が西部から、なぜ嫌われて(その理由はあとで書く)、1994年に創刊した彼の「発言者」誌 の連載予定者だったのに、私に何の断りも無く外された。創刊準備号には書いた。 このことで、今からでも、編集長だった東谷堯(ひがしたにぎょう)を問い詰めなければいけない。・・・」 これが、私の西部すすむの死への冷ややかな反応だ。
私が、西部とすれ違った、1994年という年は、今から24年前で、この頃の私と西部のやりとりや、激論とかを追い追い書いて公表しなければいけない。あとに書いて残さなければいけない。
あのとき私は41才で、もう政治評論の評論家になっていた。西部は、1939年(昭和14年。まだ戦争中だ。米軍の爆撃の記憶があったそうだ)の生まれだから、あのとき55歳だ。東大の駒場教養部の教授を、中沢新一(なかざわしんいち)事件で、学内の策略で追い出されたか、辞任した年だ。私と西部は15才の違いだ。 たったの15才の年齢差なのだ。しかし、男どうしの、15歳の年齢差は、親子の差に近い。
あの頃、日本の言論界で、「 左翼知識人が、雪崩(なだれ)を打って保守言論人に、転向していった」時代の一番、その先頭にいて、「大衆への反逆」(愚かな大衆なんかとは一緒にいたくない。オルテガ・イ・ガゼーやチェスタトン牧師 たち保守思想家の思想の真似、追随 )という本を書いて、華やかに、時代の頂点にいたのが西部だった。
保守(すなわち自民党支持)であることが当たり前の経営者や資産家からは、西部は、「左翼崩れの知識人」と呼ばれ続けた。西部と似たような崩れ方をした大学教授や、テレビ新聞業界にいた人間たちが、あの時代に、同様にに「くずれ左翼」と呼ばれた。
西部すすむが、やはり、ただのくずれ左翼であると判定を受けるのは、反共(はんきょう)運動の実践者として、自分の正体を現したからだ。 反共産主義(アンタイ・コミュニズム)の正当性、正義の主張は、世界中で起きた、ソビエト、中国での残酷な、社会主義国家に失敗から、知識人と民衆の大量死(粛清、しゅくせい liquidaiton リクイデイション )を招いた巨大な人類全体の 深刻な打撃、大失敗に対する、強い怒りと批判に基づくものだ。
それでも、西部たちに見えたのは、 歴史的に、転向した左翼(共産主義者)たちが、たどった、見苦しい反共主義者たち(佐野、鍋山たちの姿、そして、田中清玄=たなかせいげん=のような 謀略人間への転落 )の姿と、全く一致していて、見事に、同類であることを示している。
西部が自伝として遺書のように書いた「 我、ファシスタ(ファシストのことだ)にならんとして(でも、なれなかった)」という本( ・・・年刊) に、自分が、ただの反(はん)共主義者に転落して、そこに純化していったことをよく表している。
西部たちの周辺には、この20年間、気色の悪い宗教団体の影が、見えるようになったら。世界規模での、反共団体が連携する、恐ろしい宗教団体のネットワークだ。ここからの資金提供が、西部たちを生活費、出版物の資金 として、出ていた。 私は、このことを苦々しく、ずっと観察していた。
やっぱり、ただの反共主義者への、純化と転落、というのは、見苦しい限りだ、と 私は、強く感じた。
ソビエトの、残酷なスターリン主義体制に対する、激しい怒りとして、はじまった、Trotskyite トロツキー主義者 (トロツキズム、トロツキストはドイツ語では使うが、世界基準では、このトツカイトである)として、西部たちは、自分の少年期からの政治思想を始めているから、だから、レオン・トロツキー Leon Trotsky 1879-1940 )の「世界永続(えいぞく)革命論」の駄目さ、と政治思想 としての質の悪さがある。
西部たちには、ニューヨークのトロツカイトたちが、その後、ネオコン Neo-Con になっていって、ソビエト憎しの一念、強い確信で、やがて、ただの反共主義者に 変質していったことを自覚できなかった。現代のアメリカ政治思想の諸流派の研究を、私、副島隆彦は、40年掛けて、ずっと、やった。
だから、私は、西部のような愚かな、固執と、頑迷な ひねくれ人間 になることはなかった。
恐るべき反共主義の宗教団体 (安倍晋三もこの宗派だ) に所属して、自分たちの、ねじくれきった、歪(ゆが)み 尽くした人間像からは、人間が、どんなに虐(いじ)められて苦労しても、努力して維持すべき、明るい、爽やかな生き方が出来なかった。 西部すすむは、「われファシストたらんとして」などという遺書の本 を書いて、ひねくれ者、ひがみ根性、怨念、恨み(韓国人がこれ )の信仰 を持ったまま一生を終えたのだと、言い切ることができる。
あと、私が、西部をはっきりと 軽蔑したのは、10年ぐらい前に、西部が、小沢一郎のことを、蛇蝎(だかつ)のごとく罵ったときだ。 梅原猛(うめはらたけし)や渡部昇一(わたなべしょういち)と全く同じ反応だった。ああ、この人たちは、やっぱり、あの政治的な宗教団体の囚われ、虜(とりこ)になったのだなあ、と、私は、はっきりと認定した。
2010年に、西部は、『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。』(飛鳥新社刊) という、誰もが驚く、書名の本を書いている。こういう奴なのだ。自分の方が、よっぽどゴロツキだ、ということに全く自覚がない。
自分は、何か上品で優雅なインテリなのか。泥だらけで汚物だけの、政治の海を、自分こそは泳いできたと、ずっと書いてきたのに。 お前の方がゴロツキだ。
小沢一郎は、自民党のプリンスとして育ちながら、やがて、日本の、できる限りの、アメリカからの自立、独立を、本気で追求した、日本の民族指導者だ。 小沢一郎は、田中角栄の魂(たましい)を受け継ぐ日本の本物の ナショナリスト( ナショナリストとは、帝国の皇帝と、必死になって交渉する係り。
国王である。帝国は他民族だから、ナショナリズムはない )である。 日本のアメリカからの出来る限りでの独立、自立のために、闘うことこそは、本当の民族主義者、国民主義者の立場だ。
西部は、「アメリカによる日本支配」の悲しさを言いつのり、事あるたびに、自分こそは反米(はんべい)主義の言論人の代表であるかのように、振る舞った。 それが、どれほどの謀略( ぼうりゃく。マニューバー)の言論であったことか。日本の 少しは知的な大衆( 政治評論の本を進んで読む)を騙(だま)くらかす上で、西部の、何を言っているのか、ぐちゃぐちゃと話し続ける。
西部が、書いたすべての本の中の文章もすべて、そうだ。意味不明なことをずっと、ずっとどこまでも、 書き続ける。生来のひねくれ根性が、よく露出していた。西部本人も、自分が、何を考えているのか、分らなかったのだ。そういう大秀才を気取る、愚か者がときどきいる。自分を、極めて高級な複雑さだと装い、相手を煙に巻いて、まじめな人間たちの脳を混乱させるだけだった。実に、いやらしい人間、ひねくれ者の、諧謔(かいぎゃく)人間だ。こういう生来の詐欺師体質の人間はどんな時代にもいた。
戦後史( 敗戦後からもう73年がたつ) の中で、1950年代の終わりに、日本共産党に逆らって、激しい内部での争いを起こして、共産党からの、除名、脱党、分裂 をしていった、日本の左翼知識人たちの歴史がある。その全体像を、大きく、読者人レベルの人たちだったら、誰にでも分るように、大きく解説、説明させることのできるのは、おそらく、私、副島隆彦だろう。そのように、私の言論は実は期待されている。戦前も戦後も、日本共産党が光輝いていて、日本のおそらく9割の知識層が、理科系の人たちも含めて、皆、左翼だった時代が続いたのだ。そんなことを私が書いても、今の人たちにはほとんど分ってもらえない。
戦前から、ずっとつながる( 日本共産党の結党は、1922年。国際共産主義運動=コミンテルン=日本支部として始まった。アメリカ共産党、中国共産党はその前年、前々年に結党。多くの党員たちが、革命の暴動や反戦運動への弾圧で、世界中で殺されていった。それが、世界中のすべての国の左翼たちの運命だ)よりも前の、幸徳秋水(こうとくしゅうすい。大逆事件で死刑)たち以来の、日本の政治知識人たちの歴史だ。
日本共産党から追い出されて、1956年ごろから、ヨーロッパの反スターリン主義の、暴動が、東欧諸国で起きて、その世界を吹く風は日本にもやって来て、それに大きな影響を受けた若者たちが、「ソビエトの体制は許せない。あんなものは社会主義、労働者の国のすることではない」と、日本にも新(しん)左翼( New left 、ニューレフト。反(はん)日本共産党系。のちに過激派や極左と警察に呼ばれた) の左翼たちが生まれた。その生き方と、その、悲劇的なところは、どうしようもなく幼稚で、若い善人たちの理想主義だった。そして大きな敗北と幻滅が、彼らを次々と襲った。
当時から、安保ブント(共産主義者同盟)と呼ばれる、西部も加わった運動の活動家たちが作った、幻想が、日本の温厚で純朴な、貧しい人たちの味方の、リベラル派で、ちょっとだけ知的な大衆知識層にまで、大きく振りまかれて、席捲した時代がある。私、副島隆彦もその中にいた。彼らが、自分の貧乏生活の中で作った、(拘置所に入れたりたり、出たり、就職の邪魔を公安警察にされたりした。ひとりひとりは、人生の大変な苦労だった。だが弱音は吐かない。 )政治神話、言論詐欺、虚構の話が、たくさん折り重なって、大きな作り話になっていった。西部すすむは、その作り話の中の主要な登場人物のひとりだ。 すべて明らかにして、徹底的に切開(せっかい。外科手術)しなければいけない。
大きくは、アメリカの手の中で、動かされて、踊らされ、操られた、日本のバカな、急進主義(ラジカルと言う)の若者だった政治活動家たちの話だ。
大きな真実を、彼らからずっと遅れてやってきた私、副島隆彦が 暴き立てて、書いて公表しなければ、済まない。 西部やすでに死んだ者たちの霊が、怨霊(おんりょう)となって出てきそうな感じが、この3日の私の周囲にあった。西部の亡霊が、自分の枕元に出てきた人たちが、数百人はいるのだろう。
どうして、1960年の安保闘争 を、「国会突入」とかの仕組まれたドラマで、民族の英雄のように華々しく闘ったとされる、あのときの国会の敷地内にいた、1万人の秀才の学生たち(本当は、すべて仕組まれていてドラマだった)が、共産党から追い出された者たち(一番、上で、29歳。青二才だ)を指導者として、西部すすむを含む、その後、アメリカに巧妙に買収された者たちの、日本の戦後史の、作られたドラマを、私、副島隆彦だけが、その真実を大きく抉(えぐ)り出して書いてきた。後ろの方に、その証拠の文を載せる。
なぜ、安保ブントの指導者たちは、あれほどの激しい、反米(はんべい)闘争をして、戦勝国アメリカ憎し、安保条約破棄・粉砕 を旗頭に、闘ったはずなのに、どうして、この者たちは、その後、アメリカ留学して経済学者とかになった者たちが出たのか。
この秘密は、副島隆彦が、解明した、「帝国―属国」理論に依ってのみ、明瞭に解明に謎解きが出来る。真実の露出、公表ができる。 このことに気づいている、日本の知識人たちが、今、すこしずつ出てきている。私は、その波頭(なみがしら)にいる。だから、西部が私をひどく嫌ったはずなのだ。
自分たちが、アメリカ帝国主義の手先になって、転落していいったくせに、この絶対に隠し通さなければいけない、恥ずべき秘密が、副島隆彦によって、暴かれることを、彼らは、怖れおののいたのだ。そうでない、と言う者がいたら、その人のところに、私、副島隆彦は押しかけていって、徹底的に、真実を白状させる。私が、ここの闘いで、いい加減な終わり方をする、と思う人間はいないだろう。
アメリカがやることは手が込んでいる。属国の民衆の不満を、逆手に取って、不満分子の若者たちを、巧妙に、密かに教育、洗脳、扇動して、なんと、自分たちに反抗させる、反米(はんべい)運動まで、やらせるのだ。 世界帝国であるアメリカというのは、そこまで計画的で、策略を使う、悪辣(あくらつ)極まりない支配者、まさしく帝国(エムパイア)なのだ。
反米闘争まで、裏から準備して、跳ね上がり分子を育てて、暴動のようなことも、今も、世界中でやっている。それがアメリカだ。帝国というののは、そのように悪魔的で残酷なものなのだ。それに踊らされた人間たちが、後述する、島茂郎(しましげお)を最高幹部として西部も、8歳下で加わった、安保ブント
(1960年安保闘争)の暴かれるべき真実だ。 安保闘争の、数年からの、王子病院闘争も、警職法阻止闘争も、砂川闘争、 も、全部、裏からアメリカの軍と CIAが、画策して、扇動して、わざと、反米闘争をやらせた、仕組まれた政治闘争だ。
このことを、私たち日本人は、あれから、60年遅れでもいいから、今からでも、腹の底から分かることで、歯を食いしばって、「もう、瞞されないぞ 」とうめき声を、私たちは、あげるべきなのだ。 そのために、日本国の、民族防衛の遺伝子が、私、副島隆彦を生んだのだ。私は、日本国を守るための、アンタイ・ヴァイラス・アンチ・ボデイ(anti virus anti body 抗ウイルス抗体)なのだ。
私が、これから、まだまだ大きな真実、大きな策略を、あばき続ける。そして、日本国民に伝え続ける。私は、自分が死ぬまで、この道を突き進む。 東京の都会の中を流れる多摩川の、冬の冷たい、よごれた水の中に、もう飛び込もうと逡巡したであろう、西部萬のような、愚劣な、「ファシストになりたかったのに、なれなかった」と、ゲロゲロと自白して死んできった、周囲を煙に巻くことだけが好きだった、気取り屋の死に方を、 私が、してたまるか。
私は、最後まで戦うのだ。 そして、「おいは、後方(こうほう。最前戦 の後ろの方)じゃ、死なんど」 と言って死んだ、西郷隆盛に学び続ける。そして、私は、自分の敵たちにどんなに厭(いや)がられようとも、厭がられるからこそ、言うのだが、「小沢一郎が西郷隆盛なのだ」と言う。 敵どもよ、今もずっと続いている、日本国内での戦争の、所在をよーく、自覚せよ。
西部すすむ の死をきっかけに、副島隆彦は大丈夫か、自殺しないだろうな、という心配というか、野次馬根性というか、善意の出歯亀(でばがめ)根性の、私の読者たちからの反応があったので、私は、とにかく急いで、ほんの少しでも真実を露出させるべく、「1月21日、西部萬の自死事件」に合わせて、急いで書いておかなければ、と思ってこうして書く。
(転載貼り付け始め)
「 評論家・西部邁さん死去、多摩川で自殺か 78歳…遺書のような文書も 」
2018年1/21(日) 16:36配信 産経新聞
21日午前6時40分ごろ、東京都大田区の多摩川河川敷で、「男性が川に飛び込んだようだ」と110番通報があった。駆けつけた警視庁田園調布署が男性を救助し、病院に搬送したものの、まもなく死亡が確認された。死亡したのは評論家の西部邁(すすむ)さん(78)で目撃情報などから自殺とみられ、同署で当時の状況を調べている。
同署によると、西部さんに着衣の乱れや目立った外傷などはなく、付近では遺書のような文書も見つかった。西部さんが21日未明から行方不明になっており、同居していた家族が探していたところ、多摩川に流されている西部さんを発見したという。現場は東急東横線多摩川駅から西に約600メートルの野球のグラウンドやサッカー場などがある河川敷近く。
「ウソじゃないぞ。俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」-。21日に死去した西部邁さん(78)はここ数年、周囲にそう語っていた。平成26年の妻の死などによって自身の死への思索を深め、著作などでもしばしば言及していた。
昨年12月に刊行された最後の著書「保守の真髄(しんずい)」の中で、西部さんは「自然死と呼ばれているもののほとんどは、実は偽装」だとし、その実態は「病院死」だと指摘。自身は「生の最期を他人に命令されたり弄(いじ)り回されたくない」とし「自裁死」を選択する可能性を示唆していた。
言論人として人気を集めたきっかけは、テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」。「保守」をあ、
・・・・
(副島隆彦割り込み。あとで、ここの消えた部分の記事の文を復元します)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。以上が、西部萬の死に対する新聞記事の代表である。
さえ、ここから私の本に中の、4ページを、 画像を貼り付けることで、みんなに読んで貰う。
これで、大きな真実は、分かるだろう。 大きな字で画像にしたので。読めるはずです。
私が、書いた『日本の秘密』(初版は、1994年に出た。弓立社刊。 そのあと、2010年にPHPから新版で復刊した) の中の、重要な箇所だ。この文を読めば、西部の死にも関連する、大きな真実が分かる。 まさしく、この本を私が書いて、大きな真実を暴き立てた、1994年というのは、前述した、私が、西部とぶつかった、その年なのだ。 私は、きっと、このころ、西部の大きな秘密と恥部に、無自覚に手を突っ込んでいたのだ。それで、私はものすごくこの男たちの集まりから嫌われた。
それは、文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)という日本の保守の主流派でを装い続けた出版社と、西部たちの共同、協働の動きだった。日本の保守本流、愛国者のふりをして、その実態は、アメリカのCIAの手先として、動き続けた、この文系春秋という、このゴロツキ出版社の その本性、正体を
まだ40歳の私が、暴き立てに出てようとして、私はひどく嫌われたのだ。
西部たちと文春の編集者たちは、事あるたびに、新宿の風花(かざはな)とか、に寄り集まって、飲んでいた。私も当時、その席にいたことがあるので、知っているのだ。自分たちが、本当は、アメリカの手先となって、歴史をねつ造する言論を書かせ続け、本当の愛国者(=民族主義者)の政治家たちを、次々と、週刊文春とかの、スキャンダル攻撃で、追い落とし、公職から失脚させ、として、石で追われるようにして、消していった。 田中角栄が、こいつらに血祭りに上げられた、その代表だ。日本国民は、ボーッとだが、この真実に気づいている。
しかし、西部たちやら、文春の飯窪(いいくぼ)たち、は、自分たちが、謀略政治の、アメリカの手先の、きたない動きをしていることにどこまで自覚があったか。アメリカの日本にすることを罵(ののし)り、反米をがなり立て、まるで、自分たちが、反米で骨のある愛国者であるように、飲んで おだを挙げ、気勢を上げて、気取っていた。だが、その真実は、アメリカのポチ公 ども だった。
この時期に、小林よしのりが、この「ポチ保守」たちを嘲(あざけ)って、そのために、小林は、テレビに出ることが出来なくなった。だが、私は、小林よしのり肩をそれほど持たない。 小林よしのりの子分が、私、副島隆彦の言論から、かずかずの泥棒、アイデア盗用をしてきたので、小林よしのりとも、そのうち、このことで、ぶつからないと済まない。
私が書いた、以下に文を載せる、この本の 内容を読んで、何とか理解できる知能の水準の人たちだけでいい。それ以外の、「一体何の話ですか」という人たちは、政治問題なんか自分には分らない、で、 ポカーンとしていてくだされば、それでいい。世の中は、自分に関わりの無いことがたくさんあります。それはそれでいいのです。
『日本の秘密』P156
P157
P158
P159
副島隆彦です。 以上のような、文を、私はこれまでに、たくさん書いている。たくさん、たくさん書いている。この真実の暴きが、西部たちにとっては本当に怖いことだろう。
私は、上記の本の中に次のように書いた。
私は、ブント書記長、即ち、共産主義者同盟・全学連の最高幹部であった島成郎(しましげお)その人に、直接会って、質問している。98年8月1日に、東京の麹町で島氏にインタビューをした。そのとき、私は、自己紹介をしたあとは、非礼を承知で、単刀直入に質問した。
「島さんたちは、60年安保闘争の頃、CIAから資金をもらいましたか」と聞いた。このような、周囲から見れば、非礼きわまりない質問を私はした。はじめは、生来の、善意を貫く優しい人間性を全面的に表に出して、終始ニコニコしていたが、途中から、少し気まずい表情をした。長年精神医療の現場にいて相当な境地に立っている医者であるから、動じることなく、笑(え)みをうかべたまま、「当時のことでは、まだ、迷惑をかける人々がいるので、語れないことがたくさんある」と答えた。そして、つけ加えるように、「自分たちは、ソビエト大使館から狙われて消されるのではないか、と思っていた。KGB(ケイ・ジー・ビー)(ソビエトの国家情報部)から殺されるかもしれない、と本気で心配していましたね」と語った。
と、このように書いた。
「そんなことは無いよ、副島。お前なんか相手にならないよ」と。言える者がいたら言いなさい。それを公言したら、私は、必ずお前のところに会いに行く。面会拒否でも会いに行く。そして戦後史の大きな部分の真実を明らかにする。私からの真実の刃(やいば)が怖い人間は、これまで同様に、私、副島隆彦を無視するがいい。
それならそれで、不戦勝(ふせんしょう)で私の勝ちとする。「勝ち負けなんか、どうでもいいんだよ、副島、うるさいやつだなあ。歴史に真実なんか無いんだよ」と、言う、ずるシャモの人間どもを、私は、捕まえに行く。
西部が、60年安保の後の、貧乏で、孤立して、刑事裁判をずっと抱えて、犯罪者扱いで、生き難かったころに、どうして、ずるシャモの、中曽根康弘に助けられたのか。ブント仲間の佐藤誠三郎(さとうせいざぶろう。自民党のブレーンになった学者。アメリカではネオコン )の伝(つて)を頼って、それで、中曽根のコネで、横浜国立大学の助教授にしてもらった。それから東大だ。これらのことも、私は、全部知っている。西部のまわりの、取り巻きたちは、これらの真実を、私よりもよく知っているはずだ。私の方からもっと聞きに行くよ。
中曽根康弘(まだ生きていて、100歳になったそうだ) と ナベツネ(渡邉恒雄)が日本の最高指導者だ。今もナネツネが、安倍晋三に、キッシンジャーからの伝言、指導を、翻訳して伝えて、日本の政治は、一番上の、外交のところは動いていいる。だから中曽根の伝(つて)と命令で、反共のくせに、安部は、親(しん)中国の態度を取らざるを得ない。この日本のドン、ふたりの 世界基準での親分は誰だか、知っているか?
そう。まさしくヘンリー・キッシンジャーだ。中曽根(100歳)を、ハーヴァード大の夏季講習に呼んで、38歳の時から育てたのは、キッシンジャーだ。属国群の20年後の指導者を、そうやって、アメリカ帝国は、着々と育てるのだ。ということは、西部の親分の親分は、キッシンジャーだ、ということだ。
そして、ヘンリー・キッシンジャー(今、94歳)こそは、現在の世界体制を、一番、頂点のとことろで指導、統治している人間だ。私が名付けた「世界皇帝代理(だいり)」だ。世界皇帝だった故デイヴィッド・ロックフェラー(101歳で物故。去年の3月20日)が亡き後の世界皇帝の代理はキッシンジャーだ。
キッシンジャーが、アメリカのトランプも、中国の習近平(シーチンピン)も、ロシアのプーチンも、3人ともの先生として崇められている。それが今の世界だ。この3帝国の、3巨頭の先生がキッシンジャーなのだ。アリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師で、ご養育係(アレキサンダーが32歳で死ぬまで)だったことと同じだ。
私、副島隆彦は、このように、明確に明瞭に一番大きなところの世界の実態、実体、現実をあからさまに書いてきた。だから今の日本の政治言論界で、私の言論、世界理解に、敵対したり、競争できる者はいない。ただ、知らん顔をして無視をするだけだ。本当に自分は頭がいい、と自惚れている人間がいたら、私に会いに来なさい。私が直接お相手してあげる。
私は、ここまで豪語する。そして、私は、キチガイ副島として、孤立して、この土人の国の業界人ども(テレビ、新聞、政府役人を含む)からは、全く相手にされていない。それなのに、こいつらは、私の言論を、ペロペロと遠くから盗み読む。 この事実を受け入れながら、私は、じっと我慢しながら生きている。
私が、これから徹底的に解剖して、切開して、もっともっと戦後の日本政治の真実を暴き立て続けなければ済まない。 だから、前掲の 本の画像4ページの中に出てくる、安保ブントの「書記長」
で、最高指導者(頭目)だった、 1. 島茂郎(しましげお。1931-2000)と、
2.生田浩二(いくたこうじ。1933-1966)。ブントの事務局長でNo2だ。
生田は、留学先のペンシルベニア大学で、学寮(ドーミトリー)で、奥さんの恭子と不審な焼け死にをした。33歳。
3.森田実(もりたものる。1932- )は、ブントの国際部長だった。私は、森田実とは、2冊、対談本を出している。もっと、たくさん書かなければいけない真実がある。私は、森田実に、「森田先生たちは、60年安保のころ、アメリカのCIAから資金を貰いましたか」とズケズケと聞いた。
4.香山健一(こうやまけんいち。1933-1997)。自民党のブレーン学者になって、一番、清潔に生きた。若い頃の政治体験の発言は一切しないで死んでいった。
私は、この他の安保ブント の幹部たち、54人 のすべての人間たちの動きと、思想の水準をすべては把握している。しかし、ここでは、このトップで有名人の6人だけに絞る。
そして、5.唐牛健太郎(かろうじけんたろう。 1937―1984)。60年安保闘争の、全学連委員長として北海道大学の学生だった、貧乏な家の子が、時代の表面に出た。47歳で、かわいそうな死に方をした。時代の英雄を演じ続けた。実像は本当に哀(あわ)れだった。
私は、唐牛と、新宿のゴールデン街で、3回飲んで、激しく口論した。その中味は、そのうち書く。
最近、『唐牛伝(かろうじでん) 』という本を、失墜した“ルポルタージュ文学の大家” だった佐野眞一(さのしんいち。彼は、70年安保、全共闘世代 )が書いている。私の真実あばき研究の足しになった。
6.青木昌彦(あおきまさひこ。 1938-2015、77歳で死 )。青木は、安保ブントになかでも、貴公子としていた。 姫岡玲治(ひめおかれいじ)の名で、若くして、 レオン・トロツキーの『永続革命論』(現代の理論社 刊だったか) を書いた。そのために、日本の新左翼の、私たちあとの若い
世代にまで、名前が轟いていた。 青木は、さっさと、26歳ぐらいで、アメリカに留学して、ミネソタ大学? だったか。
そして、36歳で、ハーヴァード大学の経済学の助教授になり、すぐにスタンフォード大学(こっちも名門)の経済学部教授になり、スタンフォードでほとんど、長く生きた。●(青の旧字体)木昌彦のことは、私は、これから徹底的に書くつもりだ。 彼は、日本人の経済学者として「ノーベル賞に一番近い男」と呼ばれていた。一体、何の業績で?
青木は、今から3年前の 2015年の7月に死んだ。西部と深い付き合いで、唐牛と、この3人は、ほとんど同年で有り、ベタベタしていた。自分たちを神がかりのナルシストだと分っていた。
青木が死んだとき、日本では誰も相手にしなかった。経済学者たちの業界人以外は、誰からも知られずにスタンフォードでひっそりと死んだ。それでも、青木は生前、経産省の研究所長も3年やり、京都大学にも帰って来ていた。佐波高光(わかたかみつ)という策士に嫌われて、追い出された。再びスタンフォードに戻った。
青木は、スタンフォード大学で、中国人の留学生たちの面倒をよく見た。中国人たちに、徹底的にアメリカ経済学(=近代経済学 =数理経済学 =計量経済学 =エコノメトリックス)を教えた。 青木が、教えたことで、何と、中国人の大秀才たちは、はっと、大きくもの凄いことに、気づいた。天啓(てんけい)のようなもの彼らにが降ってきた。
彼ら中国人は、飲まず食わずの文革時代を生き延びた青年たちだったので、爛々(らんらん)と目を輝かして、人間世界の、一番、深いところの真実に気づいた。アメリカやヨーロッパの、ブルジョワ=資本主義 経済学の、神髄を知って、大きく見抜いてしまったのだ。資本主義の裏の真実を、中国人たちは知った。
それが、今のワンフー(王泥寧、 おうこねい)、で、“ 現代の諸葛孔明(しょかつこうめい)”、
“ 中国のキッシンジャー” とも呼ばれる国家戦略家だが、彼らは、日本人の学者たちの経済学の本から、大きな真実を見破った。王泥寧は、今度、中国のトップ7(政治局常務委員)の5番目になった。
中国の大秀才たちは、真に偉大だった、「もう、中国人は、地獄の飢餓と貧乏から脱出する」を30年かけて実現した、鄧小平(とうしょうへい、デン・シャオピン)が、キッシンジャーと組んで作った、中国の大秀才の青年たちを、アメリカ全土の大学に留学させて、何が何でも中国を豊かな国にするためのマスタープランを作れるだけの人材を大量に養成する計画を実行に移した。
それが、今の中国に、急激な、巨大な繁栄を作ったのだ。
そのために、日本人の経済学者が、極めて重要な真実を、中国人たちに教えた。
それは、森嶋道夫(みりしまみちお)と、置塩信夫(おきしおのぶお。神戸大学教授。死ぬまで日本共産党員)が作った 「マルクス経済学を、近代経済学に置き換え、移し替えた。微分方程式で、マルクスの「資本論」を描き直した」。
その結果である、森嶋の『マルクスの経済学』(英文の原著、1972年刊)を使って、青木は、中国の大秀才たちのを育てた。それが、今の中国の巨大な成長、爆発的な 強国化=世界帝国 を作ってしまったのだ。 だから、森嶋道夫( 私の先生である 小室直樹先生 の先生。大阪大学と京都大学。ロンドンのLSE教授をした。日本に帰って来て死んだ )が書いた本を、勉強して、それを、OS(オウ・エス、オペレーション・システム)、青写真、大きな設計図にして、中国の大秀才たちが、今の巨大な中国を作ったのだ。ここで青木昌彦が果たした役割は大きい。
ところが、ノーベル経済学賞をもらったレベルの欧米白人の 経済学者たちには、「マルクスをケインズに置き換える」という思考が、全く理解出来なかった。アジアの土人たちは、何か、大変、凄いことをやり遂げたようだ、と、ようやく、最近、気付いたようだ。
中国で王岐山(ワンチーシャン。おうきざん。引退したのに、中国の政治警察の今もトップ。習近平の盟友 )と、周小川( しゅうしょうせん。中国の中央銀行の今もまだ総裁 )たちが、北京で、青木が死んだとき、盛大な慰霊祭を行ったという。「 青木先生は、中国が、本当に恩義に思う人だ」と。こういうことになったのだ。
青木は、読んでもなんだか、よく分らない、自分勝手な、インドのアマチアル・センと同じような、貧乏人を制度、体制全体で救済できるような、経済学なのか、何なのか、自分の夢と幻想を追い求めたのか知れないような、おかしな本をたくさん書いて死んでいった。悪たれ仲間で、ケンカばっかりしていたようだ。
西部とほとんど同年だから、青木は77歳ぐらいで死んだはずだ。唐牛は、北海道で、セイウチ(トド?)撃ちをやったり、漁師(やんしゅう)をやったり、居酒屋のオヤジをやったりで、体を壊すのがやはくて47歳で死んだ。
西部は、青木と愛憎悲喜こもごもの関係で、5.の唐牛とも、一歳ずつ違いだ。
そして、6人目として、6. の西部すすむ(1939-2018) が、やっとここに登場する。青木と、唐牛と、西部の、ぐちゃぐちゃの人間相克は、周りから見ていても、どうにもならないぐらいの複雑さと、愚かさだ。こんなくだらないドラマに、私は付き合わない。
それよりも。やはり、青木を筆頭に、キッシンンジャーの子分である中曽根の戦略に載せられて、「 反米運動の優秀な日本の若者たちを、ソビエト共産党の支配(日共は当時その忠実な子分だった )から、取り上げて、上手に教育しよう 」ということだったのだ。
このことは、副島隆彦が自力で作った、「帝国 ― 属国」 理論の方程式、公式を導入しさえすれば、解明する。それ以外では解けない。
私の、西部すすむへの 怒りと反感は、やはり、私が、西部に、「 西部さん。安保ブントは、アメリカのCIAから、お金を貰って、思想転向(コンヴァージョン)して、アメリカの大学にどんどん留学していったのですか」と、ずけずけと聞いたことで、西部が勘に障って、「こいつは、オレがだませる玉(たま)じゃないな。うるさいやつだ 」と、私を、切り捨てた、24年前にさかのぼる。
私は、西部が、もっと度量があって、私のような「言論を刃物に変える」人間までを包摂することが出来る度量と 頭脳をしていればよかったのに、と、今頃、思う。 だから、私は、自分よりも若い、才能のありそうな人間を虐(いじ)めることをしない。その若い才能を、応援して伸ばそうと思う。
最後にここで、どうしても書いておくが、私が、西部すすむたち 左翼くずれ あるいは、くずれ左翼 ( 副島隆彦、お前もそうじゃないか、という批判は、大いに受け入れる )じゃないか、という問題について、最後に書いておく。
それでは、保守の側が、そんなに立派であったかというと、そういうこともない。
日本の保守あるいは、右翼たちも、皆、昭和天皇を 筆頭として、保守くずれである。あるいは、愛国者くずれである。あるいは、くずれ右翼よごれ右翼である。あるいは、愛国者を名乗る、奇妙で奇っ怪な宗教団体の信者だちだ。彼らを支えているのは、反共産主義、略称(りゃくしょう)、反共の信念のドス黒い、人間たち、という 保守の側の人間たちも、どいつもこいつも、保守くずれ、くずれ保守なのだ、と断言しておく。私に反論がある者は、名乗り出てください。具体的に、その人物の人生を点検してみせます。
日本は、東アジアの、海中の島嶼(とうしょ)国であるから、世界文明の中心であることはできず、帝国(大国)の属国のひとつ として、生きてきた。この運命をゆくしかなかった。この日本国の哀しい、運命を、私は、誰よりも知っている。だから、西部氏に対して、「あんな、保守言論人を気取った、左翼くずれが 」 と、言い放つ、その保守の人たちに、あなたも同じ、くずれ保守なのだ、それ以外には、日本人は、生きようが無かったのだと、はっきりと書いておきます。
ただし、世の中には、まったく政治的発言を、好まず実直で温厚な人々で、従業員たちを含めて、周囲の人たちから尊敬されている、生来、立派な経営者だ、という人々がいることも事実です。真に愛すべき人です。
副島隆彦拝
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