「1436」 後藤新平―日本の「セシル・ローズ」論(全4回/第1回) 中田安彦・記 2014年3月16日

後藤新平―日本の「セシル・ローズ」論
副島国家戦略研究所 中田安彦
(2014年3月15日記)

明治、大正期に日本の内外で勇名をはせた、殖民政治家・後藤新平はフリーメイソンであった。この事実の指摘は極めて重要である。この事実は、欧米秘密結社の研究で知られる、綾部恒雄著 『秘密結社』(講談社学術文庫、2010年刊)の中に、唐突に登場する。

(引用開始)

一八九七年(明治三〇年)頃、横浜のロッジを調べようとした日本の警官と、これを阻止しようとしたフリーメイソンの間にトラブルが生じているが、結局、日本政府はロッジを認める代わりに、日本人を会員にしないという条件を出している。ただ、大正から昭和にかけての日本人フリーメイソンとして、山梨半造、山本権兵衛、後藤新平などの名が見られるから、日本人が完全に締め出されたわけでもなさそうだ。

『秘密結社』(一九三ページ)
(引用終わり)

この記述は綾部の著書の中の一箇所でさらりと述べられているだけである。残念ながら、、すでに綾部当人は亡くなっているので、この記述について問い合わせることもできない。しかし、綾部は日本を代表する文化人類学者の一人だ。米カリフォルニア大学に留学し、その後パリで国連・ユネスコの職員として勤務した後、筑波大学の名誉教授にまでなっていることを考えると、嘘を書いているわけではないだろう。

綾部の言うとおり、後藤が実際にフリーメイソンリーの結社員であったことが事実だったとすれば、これまでの後藤新平研究は、おとなしく言えば、大きな見直しを迫られるし、極論すれば根底から覆されなければならない。


後藤新平

後藤新平は東日本大震災直後に注目されたように、大正期の関東大震災の後にできた帝都復興院の設立に関わった政治家であることや、台湾の植民地経営については広く研究されている。私は本稿を執筆するにあたり、後藤の外交人脈については一般向けの著作では近年まであまり詳しく紹介されていない事に気づいた。そこで、後藤新平の対外人脈という形で本稿を執筆しようと考えていたのであるが、この「後藤はフリーメイソンである」という綾部の記述に突き当たり、この事実を軸に後藤の外交政策を検証していこうと考え直した。いろいろな文献調査をした結果、後藤新平がフリーメイソンのような国際的な市民結社の一員でなければ、当時を考えるとありえない事実が色々見つかったわけで、今回はそれを紹介していきたい。

<これまでの後藤研究のパターン>

これまでの後藤研究はどのようなものであったか?

後藤新平という人は“一つのものさし”で見た場合、全体像を見誤る可能性を秘めた人物である。まず最初に、はっきり言ってしまえば、作家や歴史学者を問わず、これまでの後藤新平研究の全ては、一九二九年に後藤が死去して後に、後藤の女婿である鶴見祐輔(つるみゆうすけ)が代表となり、斎藤實や犬養毅、そして若槻礼次郎といった首相を経験した人物、石黒忠悳(いしぐろただのり)子爵、また、新渡戸稲造が編纂会を結成して編集された『正伝 後藤新平』(現在は藤原書店・刊行)が土台になっている。鶴見は一九二八年に初当選し、戦後にも三木武夫派に所属して一九七三年まで生きた政治家であり、一般的には戦後の代表的な進歩的文化人の鶴見俊輔の父親として知られる。

この鶴見本から出発点となり、様々な後藤論が生まれている。その代表格が、現在は安倍晋三政権の安保法制懇の座長代理を務める北岡伸一・元国連代表部次席大使が一九八八年に書いた『後藤新平―外交とヴィジョン』(中公新書)である。ただ、近年では後藤の植民政治家としての業績に焦点を絞り論じた、渡辺利夫・拓殖大学総長による民族主義的な立場からの著作(『アジアを救った近代日本史講義』PHP新書二〇一三年)もあり、これに加えて、後藤と個人的関係にあった星一(ほしはじめ)を父に持つ小説家でもある星新一による人物評伝や、御厨貴(みくりやたかし)らによる日本政治史の中での後藤論、そして、震災復興と都市政策を紹介した本などがある。

しかし、後藤新平が、明治大正期に非常に高く評価されるきっかけになっているのは後藤が持つ国際人脈であるだろう。私はそのように断言してもいい。後藤新平の周りの星雲を明らかにすることで、これまでのバラバラになりがちだった後藤研究を一つの線でまとめることができると私は思っている。

<フリーメイソンリーの本質を一言で理解する>

そこで、私が述べた後藤がフリーメイソンであったという綾部の指摘が重要になってくるのだ。フリーメイソンとはなにか。映画『ダ・ヴィンチ・コード』などの登場もあり、最近ではさすがにフリーメイソンを悪の秘密結社として一方的に断罪する風潮は下火になってきているが、だからといってフリーメイソンリー(フリーメイソンは結社のメンバーのことを指す表現で結社を指す場合はこう呼ぶ)が何であるかということは明確にだれでも納得できる形で示されているとは言いがたい。そこで、私が極めて単純にフリーメイソンリーとは何かということをまず述べる。

フリーメイソンリーとは、一言で言えば、「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」のことである。人間の集まりであり、エリートである以上、だいたいにおいて金持ちの集まりだから、往々にして世間的な基準で言えば、悪巧みが行われる。しかし、本質を言えば、昔は爵位を持った人々、今で言えば、政府高官、企業の重役、優秀な科学者たちの集まり、結社なのである。もとはメイソンリーは、専制君主やカトリック教会の支配に対抗して自分たちの権益を拡大しようとして、その中で知識人階級とも結びついた。例えば、イギリスの自然科学者であるフランシス・ベーコンやアイザック・ニュートンもまた広い意味で言えばイギリスのメイソンだ。

現在は、フェイスブックのようなSNSが当たり前のように、インターネットが世界中の人間を結びつける役割を果たすが、それでもトップエリートの間ではいまでも外部の人間を寄せ付けない、対面を重視した情報ネットワークが形成されているのが普通だ。大学の学生クラブも重要なネットワーク組織であるが、これは同じ大学の出身という共通項でくくられているものであり、フリーメイソンは「自由」「(結社のメンバー間の)平等」「博愛」を重視する。異なる職業の人間が集まって情報交換のネットワークを作るといえば、身近なところではロータリークラブ、その女性版であるソロプチミストがある。本質的にはそれらの団体とメイソンリーは同じである。

<後藤新平はいつメイソンになったか>

以上のようにフリーメイソンリーの理解をした上で出てくるのが次の問いである。「そうか、フリーメインソンというのは、異業種の世界中のエリートが集まった結社なんだな。そこまではわかった。それでは日本人の華族である後藤新平は一体どこでメイソンになったか、それが知りたい」

この問いの答えは、フリーメイソンリーが異業種の人間の集まる結社であることを踏まえると直ちに出てくるのである。後藤新平は、台湾民政局長官、満鉄総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、まで務めた政治家であるが、元々の職業は医学者である。このことに気づくと後藤新平がどのような経路でメイソンになったかはすぐに分かる。

重要な事実をあげる。後藤新平は一八九〇年から九二年にかけてドイツ留学をしている。後藤が初めての主要な著書である『国家衛生原理』という本を世に出した翌年のことだ。そこで有名な医学者のコッホや北里柴三郎と交流している。ただ、ここで重要なのは、後藤は初の欧州訪問で様々な国際医学会に出席しているのだが、滞在の最後の年にローマで開催された「第五回万国赤十字会議」に出席しているという事実である。

万国赤十字は国際赤十字と今では呼ばれるが、その創始者は、YMCA(キリスト教青年同盟)世界同盟の創始者であるパリの医師アンリ・デュナンであることはよく知られている。そして、デュナンは有名なフリーメイソンであり同時にテンプル騎士団員である。このことはカナダのブリティッシュコロンビア州のフリーメイソンのロッジ(支部)のウェブサイトで容易に確認可能な事実であるからまず疑いない。そして、日本赤十字の前身である組織は「博愛社」と呼ばれている。この博愛こそがフリーメイソンの掲げる「自由、平等、博愛」であることは言うまでもない。


アンリ・デュナンはフリーメーソンだった

博愛社は、一八八三年にベルリンで開催の「衛生及び救難法の博覧会」に際し、欧州における赤十字事業の調査とその加入を前提に作られた組織である。その加入の際に活躍したのが、アレクサンダー・フォン・シーボルトという外交官、とその弟のハインリッヒで、ともに明治期の有名な「お雇い外国人」である。江戸時代に日本から世界地図を持ちだしたとして知られるオランダ商館駐在員のシーボルトの息子たちだ。明治期の日本が世界にデビューする際に動いた。ここで重要なのは、後藤は、第五回万国赤十字大会に出席した際にはこのアレクサンダーとともに日本赤十字社委員の立場での参加であるということだ。


アレクサンダー・フォン・シーボルト

ここから推定されることは、後藤はこの万国赤十字大会が開催された一八九二年(明治二五年)までに、フリーメイソンリーの一員として迎え入れられたということだ。後藤はドイツ留学の折は私費留学のはずだったが、実際は内務省職員だったために官費として一時金一〇〇〇円を提供されている。後藤の一回目の訪欧では各地のロッジ(メイソンリーの支部のこと)でのメイソンたちとの交流があったはずだ。後藤は帰国後、明治天皇に赤十字会議の結果報告を行っている。イギリスの属国として開国を果たした日本にとって、メイソンらのネットワークからもたらされる情報はよくも悪くも貴重であった。

後藤はこのドイツ留学を含めて、欧米諸国に都合三回外遊している。当時は飛行機がなかったので、世界一周の外遊となれば船と鉄道を乗り継いで、短くても一年かかりのものとなり、同時に巨額の資金が必要だった。だから限られたエリートと認められなければ外遊などできなかった。ここが現在の感覚ではわかりにくいところである。フリーメイソンであることはその重要な判断基準であったわけである。

このようにして国際人(=フリーメイソン)・後藤新平が誕生した。

国際人脈というのは重要な人物を知っていればそれが次々とつながり、結果的に自分自身が「重要な人物」になるというものである。そのようなつながりの中心にいる人物を「ビッグ・リンカー」と呼ぶ。あるいは、よく「ロックフェラーやロスチャイルドが世界を支配している」などと言われるのは、彼らがそのような人脈を重層的、多角的に蓄積しているからだ。

後藤は、ロシアや中国を除いた欧米諸国には、この後一九〇二年、一九一九年に外遊を果たしているが、この時に面会した人物のリストを見ると、後藤が国内での実績を積みながら、同時に国際人として人脈を蓄積していることがわかるのである。特に、この二回の外遊はいずれも通訳に新渡戸稲造(にとべいなぞう)を同行させている。新渡戸は、後藤と同郷の岩手出身である。後藤がその力量を見込んで、陸軍の児玉源太郎が台湾総督だった時代に民政長官の仕事の一つとして、台湾の製糖産業を振興しようとした。その時、新渡戸を一九〇一年にわざわざ呼び寄せたのである。翌年、台湾に新渡戸の意見にそって台湾製糖業奨励規則を発布し、糖務局を設置して一仕事終えるのと前後して、後藤は新渡戸と横浜から米国に出航している。

新渡戸はクエーカー教徒としてアメリカでの人脈を作った知識人・技師であるが、メイソンであるかはわからない。しかし、このメイソンリーとクエーカー主義の2つは親和性がある。後に詳しく触れるが、後藤は先に紹介した正伝を編纂した女婿の鶴見祐輔を新渡戸の秘書としている。そのようにして後藤人脈は新渡戸人脈と結びついているわけである。


新渡戸稲造

<もっとも重要な三回目の外遊>

だが、後藤新平の外遊でもっとも重要な意味を持つのは、三回目の一九一九年の欧米歴訪である。先に述べたようにここには後藤の盟友である新渡戸が常に通訳として付き添っていた。

この外遊がなぜ重要なのかというと、第一次世界大戦が終わり、アメリカが新しい世界覇権国として確実に存在感を示し始めていたまさにその時の訪米だからである。この年は一月には世界大戦の後始末を行うパリ講和会議に講和大使となった西園寺公望が、牧野伸顕らと一緒に出発しており、後に後藤らの一行と一時合流している。そこで新渡戸が戦後の国際秩序を管理するための国際機関として設立されることになった、国際連盟(リーグオブ・ザネイションズ)の事務次長に転出することが決まるのだが、それは別に譲るとして、ここで重要なのは、後藤が外遊でどのようなアメリカ人と交流したか、ということである。

後藤は、すでにこの一九一九年にはすでに外務大臣を経験済みである。外遊の折の訪米メディアでは、「次の総理大臣」として後藤を紹介する論調が多かった。後藤が初めて大日本帝国政府の閣僚として登場するのは、一九〇八年に発足する第二次桂内閣の逓信大臣である。ついで、やはり一九一二年発足の第三次桂内閣で同じく逓相となり、第一次世界大戦中の発足した桂と同様に長州系(山県有朋系)の政治家である寺内正毅(てらうちまさたけ)の内閣で内務大臣を、続いて当時の外相が病に倒れたため、外務大臣の重責を担うことになる。

後藤は台湾総督府時代に児玉源太郎の信頼を受けて民政長官に任命されたことはすでに述べた。児玉は、後藤とは日清戦争終了後の防疫事務を通じて関わりを持つようになっていたが、後藤のテクノクラートとしての力量を高く評価したようである。


児玉源太郎

後藤の台湾総督府民政長官時代の経験は他で論じつくされているので、あえて詳しくは述べないが、後藤が台湾の原住民の昔ながらの慣習を調査させながら台湾を統治したことや、台湾経営の資金を作るために阿片(アヘン、精製すれば医療用モルヒネにもなるが麻薬)を全面的に禁止しなかった阿片漸禁政策を掲げたことだけは述べておく必要がある。この徹底した旧慣調査や阿片政策がこの後に赴任する満鉄総裁の時にも生かされているからだ。

これらの経験は、「ビジネスを発展させること植民地の経済的自活を促し、同時に武断的な植民地統治を行わないことで植民地の原住民を日本に経済的に依存させる」というし植民地経営手法として定式化されている。中国大陸とは異なり、台湾では、親日的感情がいまも根強いのはこの後藤の「植民地支配」ではなく「植民地経営」という発想があるためである。

つまり、後藤は行政官僚=テクノクラートであると同時に、実業家でもあった。台湾総督府に来た時点で後藤はフリーメイソンだったから、そのネットワークを駆使し、イギリスの東インド会社などの欧米植民地支配をケーススタディしたのであろう。欧米植民地支配の欠点を理解し、それを補うべく、旧慣調査を採用して、現地の慣習を尊重し、同時にそのことで原住民を懐柔し、富ませるという発想が生まれたのだろう。このやり方が中国大陸の満州経営でも最後まで貫かれていれば、帝国陸軍や海軍が中国国内の反日運動を掻き立てることはなかっただろう。

後の外相・松岡洋右は、後藤が満州にいた折、中国大陸で役人をしていたが、その折を「後藤新平総裁が旅順の偕行社(注:陸軍の親睦クラブ)に行かれて、『満州に来ると皆が軍人病にかかっている』と喝破せられた」と回想している。後藤の植民地経営思想、外交思想は「文装的武備(ぶんそうてきぶび)」と言われる。これはリベラルの政治思想の流れにあるもので、「経済的に投資しあってお互いが発展すれば、日中が共存共栄できる」という、経済的な立場からの「大アジア主義」であるといえる。後藤は過度に軍隊が植民地経営に関わることを嫌った。後にも述べるが、後藤が三菱財閥の女婿でありながら、外交政策では失策続きの政党政治家・加藤高明(憲政会総裁、外相、総理大臣)を批判し続けたのは、外務官僚上がりの政治家には、ビジネスの発想がない、近視眼であることが強く影響していると思われる。

鶴見による後藤正伝を読むと、旅順・大連などの海に面した港を商業港にして日支間の貿易を盛んにしようという発想もあった事がわかる。現在、渤海湾に面した大連が中国の一大商業都市やテクノセンターとなり経済特区の恩恵を受け、同時に現在のフリーメイソンリー的組織である

「世界経済フォーラム」の地域分科会であるサマーダボスの開催地となっていることからも、後藤の発想は現在にも通用するものであることがわかる。


2011年夏に開催された大連・サマーダヴォスの様子

(以下次回)

このページを印刷する