「195」 信州旅行 ② 

副島隆彦です。
今日は2026年9月18日です。信州旅行 ② です。

■相馬黒光は、インドの独立指導者をかくまった
相馬愛蔵・黒光夫妻は本業のパン屋「中村屋」(1909年、碌山が死ぬ1年前に新宿駅の近くに移転)を大きくする一方で、文化人や芸術家たちが集まるサロンを作ってね。荻原碌山や高村幸太郎、それから、最近の第2ぼやきで書いた(リンク)人気女優の松井須磨子とも「中村屋サロン」で交流があった。

それで、ほんの一時期(1915年に4か月間)ですけど、相馬黒光は、ラース・ビハーリー・ボース(1886-1945)というインド人をかくまったんです。ラース・ビハーリー・ボースはインド独立運動の英雄のひとりです。イギリス公使に爆弾を投げて、イギリス政府から指名手配された。

ラース・ビハーリー・ホース

日本政府はイギリス政府から、「ボースを犯罪者として引き渡せ」と言われたんだけど、犬養毅(いぬかいつよし 1855-1932 76歳で暗殺)
ら日本たちは、「そういうわけにはいかん」と。でも明治政府としては、イギリス政府からやーやー言われるからもう嫌なんですよ。だから黒光に頼んだんですね。

この頃の日本の指導者たちというのは、実にしっかりしていた。アジア解放の運動を応援するという意思を持っていたんです。これを大アジア主義(だいあじあしゅぎ)【欧米列強のアジア侵略に対してアジアの一体性や解放を説く主張・理念。植木枝盛や大井憲太郎・岡倉天心・宮崎滔天らによって主張された】と言います。アジアの、欧米列強からの解放に本気だった。

ところが大正(1912~)・昭和時代(1926~)になっていくと、日本の指導者たちは、だんだん国粹主義者になっていった。アジア諸国を見下すようになった。だから中国侵略の方にどんどん変わっていくわけですね。太平洋戦争の前になると、日本の民衆の女たちは「愛国婦人」になるんです。相馬黒光も戦争を賛成(翼賛)する方向になっていく。思想的に変わっていって、キリスト教を捨てて国家神道に傾倒した。いい先生がいると聞いたら、その先生のところにわざわざ行って、教えを受けたりする人だったそうです。

 

■古田晁記念館(ふるたあきらきねんかん)
松本市の南が、以前は筑摩(筑摩)郡だった。今の塩沢市になったのかな。松本から20km以上南の、山に囲まれた小さな盆地にある「古田晁記念館」に行きました。古田晁(ふるたあきら)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%99%81は筑摩書房の創立者です。古田と交流があった作家たちとの書簡が展示されていて、その時代の雰囲気がよくわかります。古田晁記念館に流れているアナウンスから引用して、紹介します。

古田晃記念館の場所

(古田晁記念館の紹介 はじめ)

古田晁は、1940(昭和15)年に筑摩書房を創立し、日本の出版文化の発展に尽くした。塩尻市が古田晁の遺族から庭園や建物、資料等の寄贈を受けて、1996(平成8)年に「古田晁記念館」を設立。門と渡り廊下は建築の歴史的価値が評価され、平成21年に国の登録有形文化財になった。

現在、資料館として利用されているこの古田邸には、戦時中から戦後にかけて古田晁を慕って、中野重春や宮本由里子多くの著名な作家や学者などが訪れて、この土蔵の2階の和室で語らいまた創作活動をした。

・古田晁の生い立ち
古田晁は1906(明治39)年1月、北小野に、商家の長男として生まれる。旧制 松本中学校在学中には、後の筑摩書房編集者 臼井吉見(うすいよしみ)や、評論家となる唐木純三がいた。

古田は東京帝国大学文学部に進むと臼井吉見との交友関係をますます深めた。在学中に結婚。大学卒業後は評論雑誌を刊行するなど出版会を目指し、郷里の先輩である岩波書店の岩波茂雄に相談するも、「出版など失敗するに決まっている、絶対にやめろ」と反対される。父が経営する貿易会社、日光商会を手伝うため、妻と共に渡米した。

出版人になることを諦められない古田(34歳)が父親に申し出ると、父親はあっさりと承諾して資本金10万円(現在の額で1億5000万円)を用意する。1940(昭和15)年1月1日付で筑摩書房(社名は臼井吉見によるものと言われる)創業の挨拶場を各方面に郵送した。同年6月18日、中野重春随筆集が刊行され、この日が筑摩書房創業の日とされる。

当時あった100の出版社の中で筑摩書房が現在まで生き続けることができたのは、経営者古田の人間的魅力と編集者臼井の優れた眼力と企画力そして古田の実家の財力でした。古田は経営が悪化した時でも、私財を売り払って社員の給料に充てていたと言われる。

・太宰治と古田晁
古田晁と太宰治(1909-1948 38歳で死)は親しい友好関係にあった。太宰が入水して自死したのは1948(昭和23)年6月13日の深夜だったが、その前日の昼過ぎに大宮にいる古田を訪ねていた。しかし古田は不在で会えなかった。太宰の死後、古田は「会えていたら太宰さんは死なかったかもしれん」、と痛恨のセリフを残している。古田晁記念館には、太宰の葬儀の際に古田が読んだ弔辞の原稿が展示されている。葬儀の翌月に刊行された太宰の「人間失格」は、筑摩書房の最初のベストセラーとなった。

終戦間際の1945(昭和20)年8月5日、古田が原稿を印刷所に入れるために新宿発長野行きの列車に乗っていた時に、古田の近くに座っていた男性が、突如来襲した米軍機の機関放射により即死した、ということもあった。東京で出版できない目立たない作家の作品を郷里で印刷すべく、古田は命の危険を冒して奔走した。

古田晁記念館には、古田晁が親交を持った著名な作家学者たちとの間で交わされた書簡を中心とした資料や、古田の愛蔵品などを展示しております。どうぞごゆっくりとご覧ください。

(要約おわり)

副島隆彦です。古田晁記念館は、ちょっと分かりにくい、あまり目立たないところにありました。JRの小野駅が近くにありましたが、これも本当に小さな駅でしてね。古田家がその地域の代々の地主だったんでしょう。

古田晁のお父さんが商社をやっていて、アメリカのロサンゼルスにも進出していたくらいに開(ひら)けてる人だった。古田晁は東京帝国大学を出た後、ちょっと外に働きに行ったりしています。半年くらいで実家に帰ってきて家業を手伝うようになった。だけど結局、死ぬほど出版業をやりたかったんですね。父親に多額の金銭支援をしてもらって、筑摩書房(ちくましょぼう)を開設した。筑摩書房は、岩波書店【岩波書店は1913(大正2)年に古書店として開設。翌年に夏目漱石の「こころ」を刊行】より25年ぐらい後の創設ですね。

 

■大正時代(1912~1927)、ロシア革命の影響を大きく受けた
当時の風潮というのは、やっぱり1917年のロシア革命の影響がすごく大きかったんです。この革命思想というのがドカーンと世界中に広がった。インテリの知識人階級も労働者階級もみんな、左翼思想のほうに行ったんです。世界中の知識人階級の8割、9割は、左翼になっていった。

日本の、その旗頭(はたがしら)が岩波書店です。後で岩波書店の創始者の岩波茂雄(いわなみしげお 1881-1946 64歳で死)の話もしますが、筑摩書房もこの流れの中にある。岩波書店よりも格が一つ上なのが中央公論(1887年創刊)なんですね。中央公論が、民本主義を説いた吉野作造(よしのさくぞう)という大学教授を盛り立てた。吉野作蔵は大変な人気があったんですよ。

吉野作造

その頃は天皇中心体制で、国家主権が天皇にあった。だから民主主義という言葉は使えない。国家、領土はもちろん人民まで天皇のものですからね。だから「民本主義(みんぽんしゅぎ)」と言ったんです。この民本主義というコトバも大変な人気だったから、「中央公論」が大売れしたんですよ。この頃は大正時代だから、大正デモクラシーと言います。

1912年からが大正時代です。この年号を覚えてください。逝く人2人(いくひとふたり)=い(1)く(9)ひと(1)ふたり(2)で、1912年です。明治天皇が死んで、殉死するために老い腹を切ったのが乃木希典(のぎまれすけ 1842-1912 62歳で死)と静子夫人ですね。「ここで腹を切りました」っていう場所が今も残っていますよ、乃木坂のところに。

乃木公園・旧乃木邸

〇参考ブログ 旧乃木邸一般公開・乃木神社の開催レポート|2026年9月13日 | ゆる歴史散歩会【公式】東京の歴史を巡る散歩サークル

乃木希典は「自分が、日露戦争(1904-5)兵隊をいっぱい死なせた」ということで殉職したんですが、それに対して「それは立派な人だ」ということで国民が尊敬した。日露戦争では、乃木の息子二人が死んでいます。

 

左翼の話にもどすと、明治末期の1908年、天皇陛下を殺す計画に加担したということで幸徳秋水(こうとくしゅうしゅい 1871-1911 39歳で死)たちが絞首刑になっている。この事件に、知識人たちは大きなショックを受けた。ほとんどの知識人が左翼になっていったんです。幸徳秋水は四国の高知の西の方の、中村という四万十川のほとりの町の出身です。中村市は比較的大きな町ですが、幸徳秋水の記念碑は今でもありません。国賊ということでね。でも幸徳秋水は、日本の社会主義者の走りです。社会主義運動は彼からなんですね。

幸徳秋水

幸徳秋水とその弟子の堺利彦(さかいとしひこ 1781-1933 62歳で死)が、平民社(へいみんしゃ 1903年設立)
を作って、水平運動というのをやった。全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ 1922年設立)ができたのはその後ですね。

平民社

堺利彦たちは、今の東京の大塚の駅のところで、当時はまだ瓦屋根ですね。それで100万円の、今で言えば1億円ぐらいする中古の印刷機を香港から輸入して、それで印刷を始めた。活版印刷(かっぱんいんさつ)を始めて、新聞社を興した。印刷機がないと新聞は刷すれないですから。そこで印刷工、食事工たちが働いてね。関東一円、千葉県あたりから住み込みで東京に働きにきていた。

活版印刷の様子

 

■大正時代の紡績工場
大正デモクラシーの頃、日本全国に紡績工場というのができていた。百姓の娘たちはもう15歳で、紡績工場に働きに行く。その頃、労働運動がもう始まっているんです。「待遇改善、12時間労働、賃上げ」とね。男の労働者たちが騒いで、女の女工たちもみんなでストライキをやるんです。大正時代はそういうのが激しく起きた。それが吉野作造の民本主義の運動ですね。1912年から4,5年間です。

大正時代の大阪紡績工場

紡績工場の歴史【紡績工場の歴史:日本の紡績工場の歴史は、明治時代の開国以降に始まる。当時、英国から機械生産による規格の統一された安価な綿織物を大量に輸入された影響を受けて、我が国の伝統的な綿織物工業を混乱させた。しかし明治政府は外国綿糸の大量輸入に対抗するために、官営紡績所を設立し民間に払い下げる。それにより日本の紡績業は発展を遂げた。

特に、1867年に設立された鹿児島紡績所が日本の最初の洋式紡績工場として知られる。1882年に設立された大阪紡績会社は、近代的設備を備えた紡績工場として日本の紡績業の発展に大きく寄与した。この会社は、1886年に三重紡績と合併し、1914年に東洋紡績が発足。東洋紡績は、資本金1,425万円、精紡機44万台錘、撚糸機2万錘、織機1万台を超える大企業となり、世界最大規模の紡績企業に成長した。

日本の紡績工場の歴史は、近代化と発展の過程において重要な役割を果たしてきました。これらの工場は、日本の紡績業の発展に大きく寄与し、世界最大の紡績大国へと成長させました。AI要約を修正】

鹿児島紡績所

 

■当時の雰囲気~書生と女中と清国留学生
新聞がまた、何十万も飛ぶように売れた。まだラジオもない時代です。新聞で知識人階級というか、日本の読書人階級が育つんですね。書生(しょせい)さんというのがいて、頭のいい学生たちが田舎から出てきて、お金持ちの家に寄宿するんです。明治●学校とか法政大学の前進の法律学校とかに通った。将来出世したいという人たちがいっぱいいて、その人たちの間で、この新聞が流行ったんですよ。書生が女中たちに新聞を読んで聞かせるわけね。それで義憤(ぎふん)に駆られて怒り狂うわけです。それで正義の観念が生まれてね。それが日本の社会主義運動の大きな土台になった。

書生さん

まあ、都会で暮らして何が楽しいかって言ったら、女を買いに行くお金もないからね。実情は、書生が女中さんとくっつくんですよ。家を作って、家族を作っていくんだけどね。女中さんが、昔は2階建ての木造の家で、屋上の物干し台に洗濯した衣類とかを抱えて登る。それを下から見ているのが楽しいとか、そういうことです。それが日本の都会の文化を作ったんですね。

屋上の物干し場(イメージ)

そういう時代の大きな雰囲気を知らなきゃいけない。そして神田に古本屋がわーっとできた。古本(ふるほん)とか古書(こしょ)というのはボロい本という意味じゃないんですよ。当時、古書というのは大変な値段がしてね、高価ですごい価値を持っていた。「本が命」だった時代があって。

1894年の日清戦争で清国が負けて、その10年後に日露戦争(1904~5年)があって「日本が勝った」という頃に、中国からの留学生が日本に2万人来たんですよ。清国留学生というんだけど。この事実もあんまり知られていません。

一番最初に、命からがらに日本に逃げて来たのが康有為(こうゆうい 1858-192769歳で死。1895年来日―1911年帰国)

康有為
〇参考リンク 世界史の窓 康有為

という立派な人です。中国のインテリで、かつ政治指導者になろうとしていた。ところが、西太后(せいたいごう 1835-1908 72歳で死)にいじめられて殺されかかって(戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)、それで日本に逃げてきたんです。明治政府が助け出した。

西太后

康有為の弟子の梁啓超(りょうけいちょう 1873-1929 55歳で死)というのと、もう一人弟子が来てね。横浜で新聞を発行したりするんです。当時、「新聞を出す」とか「言論を唱える」ってことは大変なことだった。康有為が、今の日比谷公園の●に住んでいた。当時の中国人からしたら「日本には既に10万冊のロシア、フランス、ドイツ、アメリカの文献が揃っている。ひらがなを飛ばして読めば、中国人でもなんとか読める」と。そうやって欧米文明に負けない知識人を中国でも育てなきゃいかんと言って。この運動で2万人の中国人が日本に来たんですよ。

梁啓超

日本で明治法律学校や●学校を卒業しさえすれば、中国に帰ったら裁判官が官僚になれたんです。なぜなら1911年の辛亥革命で、科挙の制度が廃止になっていましたからね。

日清戦争で負けたと言っても、まだ中国は銀(ぎん)をいっぱい持っていましたから、金持ち階級がまだまだいっぱいいたんです。彼らは「日本に留学すれば世界がわかる」ということで、神田のあたりにわーっと詰めかけてね。東大の本郷からも近いですから。ものすごい熱気だったんですよ。そこでロシア語、フランス語どころか、ギリシャ語ラテン語まで教える学校があったんですから、すごいんです。

その当時のハイカラさんというのは、もう今の日本人にはちょっと理解できないぐらいすごいんですよ。加納治五郎(かのうじごろう 1860―1938 77歳で死)という立派な人がいた。柔道の創始者として知られています。この人が後楽園の周りにアパートをいっぱい作って、この中国人の留学生たちを大事にしたというか、ちゃんとお金は取るんだけどね。この加納治五郎のこの偉さはね、日本ではあまり知られていません。

加納治五郎

そのころの日本人の食事は貧しくてね。タクアンとか梅干しとか竹の子とか、あんなのばっかり食べていた。日本に来た中国人が「日本人の食事はなんて貧しいんだ」と言って、中国から中国料理屋を呼び寄せた。それで中華料理屋が神田にいっぱいできたんですよ。

(信州旅行 ③ につづく)

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