[1839]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/12/07 08:10

   天皇制を支える二つのドグマ(教義)

 天皇制を支えているドグマの一つは「万世一系の天皇」、つまり天皇は日本国の開闢から血統の絶えることなく受け継がれてきたとする主張である。

 もう一つのドグマは、「天孫降臨神話」である。
 皇孫瓊瓊杵尊(すめみまのみことににぎのみこと)が、主神天照大神が下された「葦原の瑞穂の国は王たるべき地(くに)なり」の神勅に従って葦原の瑞穂の国(日本国)の王(きみ)に成ったと云う神話である。

 まず「万世一系」の主張から検討すれば、「壬申の乱」に勝利して皇位に就いた天武天皇は、『日本書紀』では天智天皇の「同母の弟」と書いているが、すでに何度も論じてきたように明らかに偽りである。天皇の「万世一系」の主張は、天武天皇の即位を正統化するために創造されたのである。

 では「天孫降臨神話」はどうだろう。持統天皇は、西暦697年八月に、孫の軽皇子(かるのみこ)に譲位している。『懐風藻』に依れば、696年六月、天武・持統朝の実質的主宰者であった高市皇子(天武天皇の長男・壬申の乱の主導者)が突然亡くなられた。皇位継承については、何も決めていなかったのである。
 そこで持統天皇は、皇族・主だった貴族を集め、皇位継承の事を相談した。天武天皇の皇子たちの中に皇位に色気を示す皇子もおり、簡単に結論が出そうになかった。
 その時、葛野王(かどののおほきみ)が立ち上がり、「我が国の法(のり、古来からの決まり)では、相続は、親から子へと決まっている。この正しい決まりを破るところに、世の乱れが生ずるのだ。次の皇位に就かれるのは、亡くなった皇太子・草壁皇子の遺子・軽皇子に決まり切っている。と天武の皇子たちを一喝した。
 この葛野王の一言で軽皇子の即位が決まったと『懐風藻』は記す。持統天皇は、この葛野王の発言を大いに喜び、多くの褒賞を与えたと記す。

 しかし、親から子への継承が、我が国の正しい法(のり)と云うなら、天武の正統性は、根底から否定されることになる。持統は、天武の皇后であったのだ。皇后自らが、夫・天武の正統性を否定しているのだ。皇孫・軽皇子への譲位も平坦な道ではなかったのだ。

「万世一系」の主張、「天孫降臨神話」この天皇制を支える二つのドグマは、共に歴史編纂時代の現代史を反映しているのです。当時の人々は、『日本書紀』の歴史・神話が、創造された、辛辣に言えば、捏造された神話、でっち上げられた歴史であることを自覚していた。歴史の綻びを隠蔽するには、天皇を神の座に祭り上げなければならなかった。

   天皇、雷丘に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌

 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵らせるかも(235)

 「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き」

 (大意)心にかけて思うことも畏れ多い、まして言葉に出して言うことなど心底畏れ多いことだ。

 これが天皇に対する枕詞になるのだ。あれこれ考えるな、つべこべ言わず黙っとれ、と云うことである。奈良時代の日本人、平安初期の日本人は、正史『日本書紀』の歴史は「創造されたもの」であることを自覚していた。自覚しながら信奉していたのである。この事が、後の日本人に大きな影響を残したのではないかと考えている。