ウォルフレン著『誰が小沢一郎を殺すのか?』
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植草一秀の『知られざる真実』2011年3月 2日 (水)
ウォルフレン著『誰が小沢一郎を殺すのか?』
私たち日本人が必ず読まねばならない書、必読の書が出版された。
カレル・ヴァン・ウォルフレン著
『誰が小沢一郎を殺すのか?』
(角川書店、井上実訳)
である。
私は昨年12月に
『日本の独立-主権者国民と「米・官・業・政・電」利権複合体の死闘』
(飛鳥新社)
を上梓したが、極めて類似した問題意識の下に執筆された書き下ろし新刊である。
ウォルフレン氏は「人物破壊」という言葉を使う。欧米ではよく使われる表現だという。
「標的とする人物を実際に殺さないまでも、その世間での評判や人物像を破壊しようとする行為」
のことである。
私も、その標的とされた一人として、「人物破壊」を、自らの過酷な体験を通して理解できる。
ウォルフレン氏は、政治生命を抹殺するために用いられた手法が「スキャンダル」であり、「スキャンダル」を成功させるためには検察と新聞の協力が不可欠であると指摘する。
そして、
「小沢氏の人物破壊キャンペーンに関する限り、これは世界のあらゆる国々の政治世界でも目にすることのない、きわめて異質なものだと結論せざるを得ないと指摘する。きわめて異質だとする焦点は、このキャンペーンが実に長期にわたって続けられていることにある」
とする。
「世界のどこを見回しても、ひとりの人間の世評を貶めようとするキャンペーンが、これほど長期にわたって延々と繰り広げられてきた例はほかにない」
と指摘する。
小沢氏に対する「人物破壊」キャンペーンは1993年の政変以降、20年近くにわたって展開されてきた。その理由は、小沢氏が実際に何をしたかとはまったく関係がなく、彼と言う存在が体制側にとって最大の脅威であること、それこそが理由なのだとウォルフレン氏は指摘する。
私は、『日本の独立』を、ウォルフレン氏とはまったく独立に、そして一切の接触なく執筆した。しかし、基本的判断、歴史的な経緯の分析などに無数の共通点があることに驚きを禁じ得ない。
私は本ブログ2008年5月29日付記事に
「自民党が恐れる最大の存在は小沢一郎民主党代表である」
と題する記事を掲載した。
利権複合体=悪徳ペンタゴンは小沢一郎氏を最大の脅威として、激しい「人物破壊」攻撃を浴びせ続けているのだ。併せて記述するのはおこがましいが、私が執拗な攻撃を受け続けてきているのも、同様に、悪徳ペンタゴンにとっての脅威、障害物と位置付けられてきたからだと認識する。
ウォルフレン氏は小沢一郎氏に対する不正な「人物破壊」キャンペーンについて、
①日本を超法規措置によって支配する官僚機構からの視点、
②とりわけ、日本の政治システムのなかで特異な地位を占めている検察制度の特異性とその行動規範、
③「検察」とともに「人物破壊」を実行する実働部隊の一翼を担う「メディア」=「マスゴミ」の行動様式、
④日本を支配し続け、今後も日本支配を続けようとする米国からの視点、
から、説得力のある分かり易い主張を展開する。
官僚機構・大資本・利権政治屋・マスゴミの四者を支配する、米国を頂点とするピラミッド構造。
これが米官業政電の利権複合体、悪徳ペンタゴンの立体構造である。
ウォルフレン氏はそのなかの、米国、官僚機構、マスゴミに焦点を当てる。官僚機構のなかでは、検察の特異性について欧米との比較の上に、日本の現実の異常さを際立たせる。
ウォルフレン氏は次のように総括する。
「省庁の高級官僚と、ビジネス界やメディア界の幹部からなる日本の政治エリートは、アメリカ政府が日本の超法規的で非公式な権力システムの存続を支援してくれる見返りに、日本を引き続きアメリカに隷属させようとしている。」
そのうえで、ウォルフレン氏は小沢一郎氏について、日本のどのジャーナリストよりも的確にその本質を表現する。
米官業政電の日米利権複合体による上記の密約に対して、ウォルフレン氏は次のように記述する。
「小沢氏はもちろんそのような密約を反故にしたいと考えている。なぜなら彼が対米関係でめざすのは、日本の主権を確立することにほかならないのだ。」
前段では小沢氏について、
「小沢氏は、日本が変わらなければならないことを知っている。しかも彼は本気でそれに取り組んでいる。そしてだからこそ、日本の旧態依然とした体制を変えまいと固執する勢力から見れば、そんな小沢氏は脅威なのだという事実を、我々ははっきりと認識しなければならない。」
と記述するのである。
ウォルフレン氏は日本の未来について、
「もし私の分析が正しければ、日本が真に独立することで、この国の政治家と政党政治は旧態依然とした状態から解放され、よりよい民主主義が日本にもたらされることになる。」
と述べる。
この意味での『日本の独立』こそ、私が拙著で主張した主題である。
だが、ハードルは決して低くない。ウォルフレン氏は、
「いまなお日本にはふたつの異なる階層が存在している」
と指摘する。
「すなわち、現実を知る手がかりを与えられたごく少数の人々と、政治を知らないか、あるいはたてまえの裏には本音があるかも知れないと疑ってはいても、その実態をしかと把握することのできない大多数の人々である。」
ウォルフレン氏は、次の言葉でこの著作を締めくくっている。
「本書の結びにあたって、私は次のような質問を日本のみなさんに投げかけようと思う。果たして日本には、これまで縛りつけられてきたものからの解放を望む大勢の人々がいるのだろうか。そして彼らの結集をはかることで、変化をもたらすことを可能とするような、ひとつの強い声を生み出し、やがては日本を変えていくことができるのであろうか、と。」
第二維新を成就するには、眠れる獅子=日本のサイレント・マジョリティーが立ち上がらねばならない。この巨大な山が動けば、必ず日本は変わる。
信頼を置ける米国ではない外国のジャーナリストが示してくれた、値千金の指摘を、日本国民が放置することは、あまりにももったいないことである。100万人の同志が新著を読み、情報を共有することが、大変革への第一歩になる。
日本の政治状況を、日本を支配する米国ではない外国の人物からどう捉えられるのか。ウォルフレン氏の著作を読み抜くことは、この側面だけを捉えても意義のあることだ。
米国は鳩山政権に対して、きわめて無礼な態度で応じた。鳩山前首相は首相に就任すると、米国の大統領を含む政府幹部と膝を突き合わせてさまざまな論議をすることを求めた。ウォルフレン氏はこれほど道理にかなったふるまいが一体ほかにあるだろうかと述べる。
米国は鳩山首相の要望に応じないどころか、コペンハーゲンで開催された環境会議でヒラリー・クリントンと話す機会があったが、その後にヒラリー・クリントンが日本大使を呼びつけて鳩山首相がウソをついたと非難したのである。
ウォルフレン氏は、
「二国関係のなかでアメリカのようなふるまいは決して許されるものではない。このような侮辱を受ければ、自国の大使を召還させることすらあるだろう。友人であるはずの日本に対して、アメリカがこのような態度をとるなど、信じがたいとしか言いようがない。」
と指摘する。
さらに、
「これまで私を除けば、日本の政治や日米関係について詳細に検証し、それについて執筆し続けてきた非アメリカ人作家はオーストラリア出身のギャバン・マコーマックただひとりだ。」
と述べる。
非アメリカ人の立場から、日本政治を詳細に検証し続け、客観的な立場から分析を提供するウォルフレン氏の指摘は、私たち日本国民にとって、きわめて貴重なものである。
私がいくら主張しても耳を傾けない人も、第三国であるオランダの国籍を持つ正統派研究者の発する言葉であれば、耳を傾けようとするだろう。その意味でも、ウォルフレン氏の著作は大きな意味を持つのである。もちろん、その点を差し引いても、純粋な日本政治分析書として、ウォルフレン氏の検証は第一級のものであると私は確信する。
詳細については、本書をお読みいただくとして、著書の紹介として、あと二点だけ、特記して多くの主権者国民にお伝えしておきたいことがある。
ひとつは、ウォルフレン氏が日本の官僚主権構造、あるいは日本の政治システムの中枢として法務省=検察を位置付けていることだ。
私もまったく同様の判断を持っている。官僚主権構造の中核は法務省=検察と財務省である。そして、このふたつの省は結託して日本支配の実権を手放そうとしないのである。
ウォルフレン氏は日本検察の歪みを見事にあぶり出している。
いまひとつは、現在の民主党主要議員について、きわめて的確な人物評価をウォルフレン氏が示していることである。ウォルフレン氏の人物評価は、当然のことながら、日本の主要メディア=マスゴミの提供する人物評価とはまったく異なる。
私の人物評価、判断が、国内メディアにおいては、異端中の異端であるのとまったく同様に、ウォルフレン氏の人物評価も、その基準に照らすならば、異端中の異端ということになるのである。
小沢一郎氏に向けられた銃口、「人物破壊」の刃は検察とマスゴミの結託によって生み出されるものである。マスゴミが「人物破壊」キャンペーンに乗らない限り、「人物破壊」は成功しない。「人物破壊」キャンペーンが成功するのは、マスゴミが積極的な役割を果たす場合に限られるのだ。
マスゴミが適正な人物評価を示すわけがない。マスゴミの提供する人物評価は、必ず裏のある、特定の目的に沿ったものとなるのだ。
日本の検察の特異性について、ウォルフレン氏の指摘はまさに正鵠を射る。
「日本では、法律は支配しているのではなく、支配されている。」
「日本の法律には、検察がみずから達成しようとする目標に合わせてできるだけ自由に解釈できるような、意図的に曖昧な表現が使われている。」
「検察は、どのようなケースを法廷に持ち込むべきかについても、かなり自由に判断することが許されている。」
「みずから裁判にかけたケースで、99.9パーセントの勝利をおさめる検察は、事実上、裁判官の役割を果たしているということになる。」
「裁判官もまた体制に大きく依存している。最高裁事務総局に気に入られるような判決を下さなければ、地方に左遷されかねないことを、彼らは考えなければならない。」
私は、日本の警察・検察・裁判所制度の前近代性について、最大の問題として、警察・検察の巨大な裁量権をあげてきた。
その裁量権とは、
①犯罪が存在しても、犯罪が存在しなかったこととする裁量権
と
②犯罪が存在しないのに、人為的に犯罪を捏造する裁量権
である。
この検察が日本のど真ん中に居座ることにより、数々の政治謀略が実行されているのである。
ウォルフレン氏はこのことを、
「日本の検察が守っているのは法律などではない。彼らが守ろうとするのは、あくまで政治システムである。」
と指摘するのだ。
民主党主要議員の人物評定について、ウォルフレン氏は以下の記述を示す。
「これまでスキャンダルによって多くの才能ある人々が奪い去られたことは、日本にとってきわめて不幸であったが、もしいま、小沢氏という政治家が無きものにされてしまえば、日本にとってこれ以上の不幸はない。」
「民主党政権は、情勢の変化に応じて、日本の方向性を調整していくべきである。しかし、菅氏、前原誠司氏、そして岡田克也氏といった、メディアなどを恐れるあまり、はっきりとした方向性を打ち出しもせずに、無益に時間を浪費するばかりの政治家たちの主導下では、そんなことが期待できるはずもない。」
「民主党のトップを任じる人々の行動が示すのは、悲しくも実際に国家の統治に慣れていない政治家の姿である。彼らは仲間内で些細な出来事をめぐって場当たり的に対処するばかりである。」
「前官房長官・仙谷由人氏といった民主党の中核をなす人物に、政策や日本の将来に関してなにか原則なり信念があるとでもいうのだろうか?
そして鳩山氏に代わって首相になった人物はどうなのか?
彼がメディアの批判を恐れているという以外にどんな説明が可能だというのか?」
日本の政治システムを刷新するため、まずは、ひとりでも多くの主権者国民にウォルフレン氏の著書、そして拙著を熟読賜りたい。