「2088」 副島隆彦著『狂人日記。 戦争を嫌がった大作家たち』が発売 2023年9月26日
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SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。今日は2023年9月26日です。
2023年10月2日に副島隆彦先生の最新刊『狂人日記。 戦争を嫌がった大作家たち』(祥伝社新書)が発売です。
狂人日記。 戦争を嫌がった大作家たち
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以下に、目次と書き出し2ページを貼り付けます。参考にしてぜひ手に取ってお読みください。
(貼り付けはじめ)
『狂人日記。 戦争を嫌がった大作家たち』 目次
1 谷崎潤一郎と日本の戦争
亡霊の囁(ささや)き
死ぬのがいいわ
戦争を賛美した知識人と戦後を先取りした知識人
ハーレム
共同幻想
松子夫人と谷崎潤一郎(挙式の翌年、1936年ごろ)
2 戦争に背を向けた知識人たち
谷崎と芥川の文学論争
社会主義運動の時代
芥川の死
妻を譲る
二人目の妻と三人目の妻
川端康成と三島由紀夫の真実
エリートと文学部
谷崎は日本の映画産業にいち早く関わった
作家と女たち
3 漱石山脈
言論弾圧の時代
スキャンダル
文学者仲間たち
1万倍のインフレが起きた
漱石山脈
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『狂人日記。 戦争を嫌がった大作家たち』の書き出し
●月×日
私は静岡県の熱海(あたみ)市に棲(す)んで19年になる。東京の家と往復している。崖(がけ)の上の家からは相模(さがみ)湾の向こうに伊豆(いず)大島(おおしま)が見える。晴れた日には海から太陽が上(のぼ)る。
ある日、私は、今にも亡霊が出そうな廃屋(はいおく)の洋館に、引き込まれるようにして行った。その洋館は熱海市の北のほうにある。私の家から車で20分ぐらいである。
その亡霊洋館は、お化(ば)け屋敷と呼んでもいいが、広大な土地の斜面に建っている。1980年代バブル景気の時代の象徴的な廃墟(はいきょ)だ。私はそこで、100体ぐらいの女神像(めがみぞう)たちと出会った。白いギリシア彫刻の女神さまたちだ。私は美神(びしん)たちの亡霊、怨霊(おんりよう)に引きずられるようにして、この女神像たちに出会ったのだ。私は、ついに自分に怨霊、亡霊が現われたことを嬉(うれ)しく思っている。たとえ悪霊(あくりよう)だとしても、怖くはない。私にとってはいい亡霊たちだ。(略)
私は霊魂(れいこん)の世界に引き込まれた。そしてさらに、そこから、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)という文学者の世界に引き込まれていった。谷崎潤一郎も戦前と戦中、戦後も、熱海に住んだ。そしてまさしくここに住んでいた(後述する)。谷崎は1886年(明治19年)に生まれて、1965年(昭和40年)に79歳で死んだ。
座っているのが左から松子(谷崎夫人、二女)、朝子(長女)、立っているのが左から信子(四女)、重子(三女)、松子の娘・恵美子
●月×日
私がこの数年、ずっと追いかけてきたテーマは、日本が戦争(1931年、昭和6年からの15年間)に入っていく前の、太平洋戦争よりかなり前から、谷崎潤一郎という大(だい)作家がどのような人生をたどったかということだ。
私は、まさしくギリシア彫刻の女神さまの霊感で、ふらふらと神戸(こうべ)に行った。神戸は、関東大震災(1923年、大正12年)で被災した谷崎が、その後ずっと移り住んだ地だ。熱海で出会った美神(びしん)たちの霊に囁(ささや)かれて、導(みちび)かれて、私は神戸市の東灘(ひがしなだ)区(芦屋(あしや)市の隣の一帯)で谷崎潤一郎の旧宅たちを探して歩いた。その辺(あた)りを見て回った。同時に谷崎の亡霊とも対話した。
谷崎は、日本が戦争にのめり込んでゆく、そのころも、ずっと耽美(たんび)と女性崇拝(すうはい)と女体窃視(せっし)のエロスの世界を描き続けた。それは自分の文学の信念である。谷崎は戦争中も、ずっと『細雪(ささめゆき)』を書き続けて、自分の奥さまの松子(まつこ)夫人への愛と、さらにその実(じつ)の妹たちへの愛を作品にし続けた。
谷崎には敗戦後の日本が分かっていた。 他の知識人や文学者たちは、戦争肯定と、皇国(こうこく)への賛美と、翼賛(よくさん)体制による戦争への追随(ついずい)と、ひたすら八紘一宇(はっこういちう)の思想にのめり込んだ。谷崎は、彼らとは決定的に異なる。
女流文学者たちまでも戦争を肯定した。虐(しいた)げられた女たちのために、ずっと言論で闘(たたか)っていた与謝野晶子(よさのあきこ)も、平塚(ひらつか)らいてう(らいちょう)も、市川房枝(いちかわふさえ)でも、翼賛(よくさん)体制を支持したのだ。彼女たちは「銃後(じゅうご)の守り」を唱え、切実な愛国の母としての活動で、戦地へ兵士たちへの慰問(いもん)を続けた。国民も、「自分たちも兵隊さんたちの後に続いて、日本本土での決戦で死ぬのだ」と脅(おび)えながら覚悟していた。
そして昭和20年(1945年)8月の無残な敗戦になった。戦後78年が経(た)つ。戦争を煽動(せんどう)した指導者たちと、さらには言論人たちまでもが指弾(しだん)され、「文学者の戦争責任」が問われた。責任を感じて、女流文学者たちも自分たち自身で鬱屈(うっくつ)した。
高村光太郎(たかむらこうたろう)のように、己(おのれ)の戦争翼賛を自己処罰して、岩手の花巻(はなまき)のあばら家で沈黙して自炊生活を送り、東京の小さなアトリエで死んだ誠実な者もいた。だが、戦後は、今度は反共(はんきょう)右翼(うよく)となって、敵であったアメリカの忠実な手先、子分、下僕(げぼく)となって変質し尽くした、恥知らずで厚顔無恥(こうがんむち)な者たちも大勢いる。私は、知識人の責務として、彼らすべてのことをコツコツと調べている。
それに較(くら)べて、谷崎潤一郎は、戦争肯定も、戦争反対も一言も言わず、ただひたすら英国人の鬼才(きさい)オスカー・ワイルド(Oscar Wild 1854-1900)張(ば)りの、人間の女性の美と、男女の愛の世界に没頭して、そのことのための文学作品を黙々と書き続けた。この態度がすばらしいのである。
そして敗戦後に、谷崎の作品は、『細雪』を始めてとして、日本国民に改(あらた)めて高く評価された。谷崎は本当に偉かった。
映画「細雪」(東宝、1983年公開、市川崑監督)の一場面
(貼り付け終わり)
(終わり)