「2031」 新年のお慶びを申し上げます 2023年1月1日 加筆で副島隆彦が年頭の文。1月4日

 SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。本日は2023年1月1日です。

 学問道場の会員の皆様に、新年のお慶びを申し上げます。旧年中は大変お世話になりました。本年もお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。

 2022年は2月24日にウクライナ戦争勃発、7月8日に安倍晋三元首相殺害事件と大事件が頻発する激動の年となりました。私たち学問道場は、副島先生を先頭に真実の言論を展開しました。その決意はいささかも揺らぐことなく、2023年も精進してまいります。

 来る2023年4月9日(日)に、東京・御茶ノ水の全電通労働会館ホールで定例会を開催いたします。詳細は後日お知らせいたします。奮ってご参加ください。本年が皆様に取りまして、実り多き一年となりますよう祈念申し上げます。  
副島隆彦の学問道場  古村治彦拝

副島隆彦です。今日は2023年1月4日です。
 私は昨日と今日は、高血圧で、上の方の数値が200くらいあって、ボーとしています。少し頭が痛くて横になっています。この文は弟子に打ち込んでもらっている。

 年末からずっと毎日、晴れている。晴天で私の熱海の家からは、朝日が午前7時前くらいに海から上がる。雲がない時は直接、水平線から上がる。太平洋である。私は人類(人間)がするべき祈りは、太陽崇拝 だと考える。それ以外の宗教のようなものはすべて要らない。人類は太陽だけを拝んでいればいい。しかもそれは旭日(きょくじつ)の日の出の時だけだ。

まだ暗い、明け方にだいたい東雲(しののめ)の赤い雲がある。それに照りかえって6時半くらいから東の空が赤くなる。太陽が出始めて光線が出ると素晴らしい。水平線あるいは雲の間から、太陽が上がりきる(出終わる)まで2分30秒かかる。出始めの時の太陽は黄色い。それから赤くなる。出終わってしばらくすると、有難味(ありがたみ)がなくなる。
 きっと朝日には特別な成分・要素が入っている。それ以上は分からない。30分もすると白くて丸い、その回りが輝いている、普通のお日様(お天道様)になる。もうまぶしいばっかりでありがたみがない。人間は勝手な生き物で、こうなるともうカーテンを閉め始める。まぶしすぎるからだ。都会で住んでいる人は、こういう経験はほとんどしないだろう。

 ご来迎(らいごう)は山登りをして、無理をして夜中に懐中電灯を照らしながら登山して寒い中を山頂まで行って、日の出が始まるのをみんなで見る。普通はそれくらいしか太陽のありがたみを感じない。

 太陽神は古代エジプトでは、みんな知っているとおり、ラー(Roah)である。メソポタミア文明や古代バビロニアでは、セト(Setho) である。これが、その後にわき起こった人格神(唯一神)に嫌われて、このセトがサタン(悪魔 Satan )に変わったらしい。対談相手のベンジャミン・フルフォード氏が言っていた。この本も1月末に出る。

 私は古代バビロニアやメソポタミア(紀元前1760年にハンムラビ大王が統一)から始まった文明が一番古くて、その影響を他の文明も受けたと知っているので、その後に生まれた、ユダヤ教(紀元前1250年。モーセが作った)、キリスト教(紀元後30年、イエスが処刑されて作られた)、仏教(仏陀=ゴータマ・シッダツルダーが、紀元前534年、悟りを開いた)、イスラム教(ムハンマドが紀元後622年に創始した。へジュラ元年)たち人格神(特別な人間信仰)を、今はもう否定する。人間に宗教は要らない。人間(人類)は日の出の太陽だけを拝んでいればいい。さっさとそこに戻るべきだ。

 日本では天照大神(あまてらすおおみかみ)と観世音菩薩(かんぜおんぼさつ。観音さまのこと。これが妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を短くした法華経(ほけきょう)という経典の巻(まき)21が観音経。ゆえに法華経の中心となる女神様は観音様である)がある。この2つも実は、太陽神である。かつ女神(めがみ、ゴデス godess) である。

 天照大神と観世音菩薩の両方とも旭日の日の出の太陽のことである。それが女神の形になっている。「天照(あまてらす)」とは「遍照(へんじょう。遍(あまね)く照らす」とも言って、まさしく太陽の日光のことである。今はこれ以上は書かない。

 私は年末の29日から2日までお客さんというか、友人たちが来て、一緒に過ごした。家族や弟子たちのことは書かない。はじめて来た母親と子ども2人(小学生ぐらい)が面白い人たちだった。母親は酪農家の娘で、お父さんは優れた酪農家で、ホルスタイン種をオランダから輸入して育てたりした人だった。周りの同業者に尊敬された。夫婦で酪農を50年間くらい営んだだろう。搾乳用の乳牛と高級な和牛の肉用の飼育である。この酪農家として優れた両親が亡くなった後は、廃業してその牧場の跡地が残っている。

 このお母さんは何か高い見識がある人で、その後は観光牧場で働いたりしていた。夫、すなわち子どもたちの父親は今は、自動車のディーラー会社に務めている。男の子と女の子だが、小学校に行っていない。いわゆる「フリースクール」というもので、親が家でそのまま教育する形である。特別に何か学校の勉強を教えている感じはない。自由気ままに育てている。酪農の経験で牛の放牧もしていたから、動物の扱い方にものすごく慣れているのだろう。

 地元の教育委員会はこれを嫌がって話し合いをしたようだ。それでも子どもを学校にやらないという自分の方針を貫いて家で育てている。理解者の県会議員がいて、応援してくれて、なんとかなっているようだ。国家の義務教育である中学校卒業の証書はくれるだろう。

 まわりのお母さんたちが、仕事(パート)に出るので、小さな子どもを預かってほしいという依頼がある。子どもたちを昼間引き受けておそらく、10人や20人は面倒を十分に見られるようだ。危ないことさえ、させなければいい。「年長の子が自然に年少の子の面倒を見るんですよ」と。牛の放牧とあまり変わらないだろう。子どもたちは元気いっぱいだ。普通の子とはちょっと違って礼儀正しく、ひねくれた感じが一切無い、元気いっぱいである。

 どうやら日本国民の中の感覚の鋭い人の中から、国や役所、役人たちには頼らないという人たちが現われている。考えてみれば、学校教育というのは地獄の世界である。私たちがそれを受けた。小学校、中学校、高校まで、あんな軍隊調の、公(こう)教育という名の締め付け、押しつけをやって、学校の行事に合わせて、何でもかんでも、子どもたちを集団行動で、行政の言うとおりに国民教育という名の洗脳(せんのう)をやってきた。

 そして、朝から晩まで試験勉強だ。試験、試験、テスト、テストで能力競争ばっかりやらせる。「人間は皆、平等だ」と教えておきながら、その端(はし)から試験(テスト)を何百回、何千回もやらせて、教師たちは、その仕組みの中で自分たちの職業として、いいように生きている。

 学校教育なんかいい加減、や(止)めてしまった方がいいのではないか。子どもたちへの強制と押しつけと負担がものすごく大きい。今は土日を含めた公休日が多くて、休みの数がかなりあるから、子どもたちには学校に行ってもらわないと困る、家にいられると困る、と親たちは思う。
 私立学校にやると学費が高くて大変だ。だから学校制度を止めてしまうことはできないに決まっている。だが、それでも日本全国で、このお母さんのように、勇気を持って子どもたちを自分で育てるという人が出て来ているだろう。

 さらに実態は、今はシングル・マザーがたくさんいて、さっさと夫と離婚して、小さな子どもを連れて独立したアパート暮らしをはじめる女性がたくさんいる。その子どもたちがお母さんが働いている間に学童保育(がくどうほいく)と称して夕方、子どもたちを引き受けて面倒を見る制度が完全に全国で実施されている。

 シングル・マザーになった女たちは本当の自由を手に入れて、自分の力で生き始める。苦難の人生でもある。情けないか、くだらない男の支配から脱出して生き生きと生きる。目の前に、何とか子どもを育てるという目標があるので仕事がちょっとくらいきつくても頑張る。だいたい貧乏な人々に多いだろう。

もっと言うと、夜は、地方都市のキャバレーやクラブみたいな所で働いている女たちも多いだろう。そこにまで、少子化対策の予算が今はじわじわと配分されているだろう。

 この社会の実態は、いわゆる中流家庭から上の都市部の進学競争とはまったく別の世界だ。少しでもいい学校に入れて、いい大学に入り、そしていろいろな国家資格を取って、少しでも子どもたちがよい暮らしができるように、が中流より上の行動だ。だが、このこと自体が、だんだんおかしな事になってきている。なぜ人はそんなに勉強ばっかりさせられねばならないのか。勉強をして立派な人になるというのは、嘘だ。

 「親ガチャ」という言葉を私は最近知った。自動的に「子ガチャ」という言葉もあるようだ。この親ガチャを、知っている人はみんな知っているだろう。子供が、自分が希望したとおりのいい親に恵まれなかったという意味で、親ガチャという悪口を、おそらく子どもたち自身が使い始めたのだろう。そうすると子ガチャは、こんな出来の悪い子どもが生まれるとは思っていなかった、という親の立場からの嘆きのコトバである。

 私が最近知ったくらいだから、知らない人はまだたくさんいる。「ガチャ」というのはゲームセンターやスーパーの脇にある機械で、100円か200円で自分が欲しい小さなぬいぐるみのようなものを選びだそうとして、だいたい失敗する。そして、がっかりする。ここから親ガチャが生まれた。

 今日本国民の正直な感覚はここまで来ている。このことは、国家や政府が押しつけてくる、期待される人間像とか勤勉に働く立派な国民像 は嘘八百で虚妄だということだ。これは前述した、フリースクールで子どもを育てるお母さんと同じ感覚から出ている。せめて地元の農業高校や工業高校に子どもを行かせたいという地方の人々の願望が、その内部から壊れつつある。

 私は10年くらい前に不登校児童、生徒を集めて中学校、高校を経営している人物が理事長をしている学校法人に呼ばれて講演をしたことがある。子どもたちと親たちが集まっていて、大きなホールで催し物をやっていた。四国のなんとか島にも、特別な不登校児の寄宿舎制の学校も持っている。大きな都市にはほぼその系列学校がある。どうしても子どもが学校に行きたがらなくて、その痛ましく傷ついた精神を抱えた家庭が子どもたちをその不登校児の専門の学校にやる。文科省は、これをこそこそと歓迎して、そのやや奇妙な人物である民間教育者に大きな補助金を出したりしながら、不登校児問題に対処している。

 昔々の、もう40年前の「戸塚ヨットスクール事件」のことがきっかけだったように思う。私の先生の小室直樹は、その親に暴力を振るう障害児童たちを預かっていた戸塚宏と仲がよくて、何回も現地に訪ねていった。小室直樹先生も明らかに人格障害者であり、今の言葉では激しい発達障害であり、まあ規格外れの人間であった。天才であるが故の痛ましい精神をずっと抱えていた。年を取れば、ただの激しい飲んだくれのおっさんの生き方だったのだが。

 私、副島隆彦も少しだが発達障害であり、人見知りとかをする。一方で、サヴァン症候群でもある。この話はもうここではしない。
 この親子を熱海の家に連れてきたのは福島県の石川町(いしかわまち。新白河の近く、大都市である郡山からはかなり遠い。福島空港の南の方だ )の人で泉浩樹(いずみひろき)君だ。彼はアメリカで労働生活をずっとやって料理人などもやった。その後は東京で 映像カメラマンをやった。かなり多くの映画作品や歌手たちのコンサートの映像スタッフであった。

 その後、原発事故のあと、石川町の実家で「農村食堂 里のカフェ」というレストランをやっている。その地方一帯のおばさん、おばあさん、おねえんさ、そしておじさんたちがこのお店にやってくる。泉君が雇っているシェフがものすごく料理が上手な人で、その味の良さに引きつけられて客が絶えない。ネットで検索してみてください。
(ここに「里のカフェ」のURLを載せてください。有るだろう)
https://www.facebook.com/satonocafe/
https://www.nhk.or.jp/fukushima/fmap/fmaprecords/ver9_4/

 私はまだ行ったことがないが、彼の実家には昔、行った。お父さんもまだ健在だった。お母さんが畑一枚分を使って 広々とバラ園をやっている。なんでも高さが30センチくらいあるパフェも出るそうだ。泉君は「ちっとも儲かりません」と言っている。自分の給料分も出ませんと。まぁそれでも月に1000人くらい客が来て、評判が立って大変に人気のあるお店だ。皆さんも機会があれば行ってください。

 もういまから12年前になるが、2011年の3・11の大地震・大津波の24時間後に起きた福島第一原発の爆発事故(連続して4基)の後、私と学問道場が、すぐに現地に行って、「こんな超(ちょう)微量(びりょう)の放射能では誰も死なない。放射の被害は出ない。みんな家に帰ってゆっくりしなさい」「作業員も、赤ちゃんも誰も死なない」と現地から学問道場のサイト書いた。その頃は、一日当たり70万人の人がこのサイトを見に来た。

 私は、放射能コワイコワイのバカたちから激しく非難され、嫌われたが、私はなんともない。そして、その4月から原発から20キロの都路(みやこじ)に現地活動本部を開いた。その活動の様子は、この学問道場の過去の記録に全部残っている。見るべきものはすべて見た。

 放射線量を毎日測ったりした。海岸端は津波でやられて悲惨な光景が続いたが内陸部は何もない。ただ恐怖のどん底に陥らされた人々が、会津方面にまで避難させられた。福島県の金持ちは5万人くらいは逃げて他県に移住してもう帰ってこなかったはずだ。しかし、多くの原住民(地元の人たち)は今も元気で皆、生きている。泉君はその活動本部にやって来た人で、彼がたくさんの映像記録に収めている。

 私はそのお母さんに教えた。あなたがやっていることは昔、30年ぐらい前に、NHKでやっていた「大草原の小さな家」Little House on the Prairie というアメリカの連続テレビドラマそのものだ。この「大草原の小さな家」のことを知っている人はたくさんいる。このテレビドラマはものすごく人気のある作品で、みんなの記憶に残っている。

(ここに大草原の小さな家」の画像を貼る)

 ローラ・インガルス・ワイルダーという女性作家が書いた。それのテレビドラマ化だ。きっと今でもネット上で見ることができる。このインガルス家は本当はボロの小屋に住んでいる。布団はわら布団である。貧乏である。お父さんは何を職業にしている人か分からない人で、大工をやったり農作業に出たり、頼まれ仕事でどこへでも行く。実はこれがアメリカのリバータリアニズム Libertarianism という政治思想なのだ。

アメリカの開拓農民の生き方から生まれた思想だ。テレビドラマだから毎回きれいそうに映っているが、貧乏なアメリカ白人たちの世界である。彼らはなるべく政府や役所に頼らない。猟銃を持っていて、自分たちの命は自分たちで守る。もっとひどい時はインディアンとの戦いになる。貧しい者たちほど、一番僻地(へきち)に行かされる(そこの土地なら空いている)わけだから、インディアンたちの怒りを買って、夜中に襲われて殺される白人の入植者(にゅうしょくしゃ)たちが出る。

 それに対して怒った村人たちが自警団(possi、ポッシー)を組織して、インディアンたちに仕返しに行く。犯人のインデアンたちを殺す。それが開拓時代の本当のアメリカだ。だが、彼ら貧しい開拓農民たちは、それ以上のことはしない。決してワシントンの中央政府から騎兵隊を呼んでインディアンを討伐(とうばつ)してくれとは言わない。インディアンにも生きる権利があるからだ。リバータリアンの思想はこういう厳しい環境から生まれたのである。

 だから私はフリースクールをやっているお母さんに「あなたがやっていることがリバータリアンだ」と教えた。それ以上は教えられない。泉君もリバータリアンなのだろう。そしてこの「大草原の小さな家」の中には、けちくさい雑貨店・乾物屋(かんぶつや、グローサリー)を営むオルソン夫妻というユダヤ人の夫婦が出てくる。インガルス家のお母さんが、ここに卵や野菜を売りに行くと、けちって値切る。この感じもよくドラマに出ていた。みんな涙が出そうになる。
 だがここで大事なのは、この雑貨商の夫婦もまたリバータリアンなのである。だから、リバータリアンには、資本主義(カピタリズム)に対する大胆でおおらかな肯定がある。金儲け活動もまた人間にとって、経済法則の中で行なわれる、大事なものなのだ。今の中国が習近平独裁体制のまま実行しようとしているのは、まさに文革時代に走資派(そうしは)と呼ばれて激しく叩かれた鄧小平や習仲勲(しゅうちゅうくん。習近平の父)たちの思想となって現われている。このことは別の機会にまた書く。

 このお母さんに聞いた。牧場の牛たちを買い取り業者に売って、それらは屠殺場(とさつば)に連れて行って精肉にするのだが、それ以外の売れない牛はどうするのか、と私が聞いた。そうしたら、自分は観光牧場で働いていたが、売れない牛たちを殺した肉を、切断して、ライオンとかに食べさせる肉にした、と平然と答えた。これが当たり前の人間の生き方なのだ。だからきっとこの女性は頭のてっぺんから腹の底まで人間というものは、元々こういうものだと言うことを知っている。すべてはきれい事ではない。

 日本の社会が、これからもっとゆったりと生きていけるようになるには、こういうお母さんたちを中心にして、子どもたちを集めて女たちと共に、自然に育てさせればいい。原始社会の共同体の生活に戻るべきだ。そこへ男たちは食べ物やごちそうや お金を稼いで、時々、帰って来ればいい。そういう原始共産制社会へ人類はやがて戻っていくだろう。

 そんなことができるもんか。と言う人は勝手に言っていろ。おまえたちの今の人生がそんなに楽しいとは私は思っていない。

 私は子どもたちを熱海の浜辺まで連れて行ったりした。その朝も測ったら血圧は180くらいあった。それでもなんともなかった。彼らが1月2日の夕方に帰っていたあと、私は高血圧がひどくなってボーとしていた。孫を押しつけられて疲れ果てている、「子ども疲れする老人」がいるというが、それかもしれない。

 なぜか私の家の納戸に、私の息子が子どもの時にいっぱい買ってもらった高価なおもちゃが大きな箱で4つもあった。それ以外にレゴブロックが山ほどあったはずなのだが、私が少しづつゴミで出してしまったらしい。
 私はレゴなんて大嫌いであんなもの、と思っていた。ところが、この子どもたちから見れば大変高価なものらしい。もったいないことをした。機関車トーマスも入っていた。あとは訳の分からない組み立て式の剣のようなもものもあった。全部持って行ってもらって私はすっきりした。私はそろそろ人生の終わりの身支度をしているから、余計な物をどんどん捨てようとばかり思っている。ところが、そういうのが次の世代に役に立つということがあるのだと分かった。

 高血圧でボーと、何も考えずに、老人ホームでしている老人たちがいる。自分もまったくそれと同じになっている。いつお迎えが来るだろうか、などという、農学者で民俗(民族)学者の柳田国男(やなぎだくにお)の『遠野(とうの)物語』(1910年刊)みたいなことは言っていられない。私は、私たちの目の前の人々、民衆の暮らしを、まだまだ描かなければいけない。

今年もよろしく。  副島隆彦拝

(終わり)

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