「1858」 『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』(藤森かよこ著、KKベストセラーズ、2019年11月27日)が発売される

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SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。


馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください

 今回は、藤森かよこ氏の初の単著『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』をご紹介します。発売日は2019年11月27日です。藤森氏は学問道場の会員で、SNSIの弟子たちの勉強会に参加したり、福島での活動にも参加したりしてきました。

藤森氏は桃山学院大学や福山市立大学で教鞭を執り、アメリカの政治思想リバータリアニズムの源流とも言うべき、作家アイン・ランドの著作『水源―The Fountainhead』と『利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー』の翻訳でも知られています。

 今回の『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』という長いタイトルの本は難しい学術本ではない。「馬鹿ブス貧乏」な女性に向けた人生指南書だが、それ以外の人々にとっても勉強になる内容がたくさん書かれている。読む人それぞれが抱えている悩みに対して考えるヒントになることが書かれている。人間の生老病死、愛別離苦に関わるさまざまなテーマが網羅されている。

 いつもはまえがきを掲載するが、この本のまえがきはとても長い。掲載するか迷いました。しかし、この長いまえがき(著者の藤森氏もそう書いている)には、読者を惹きつける気迫がこもっているので、敢えて全文を掲載しました。是非お読みください。必ず本文を読みたくなります。

 以下にまえがき、目次、あとがきを貼りつけます。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

(貼り付けはじめ)

『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』

■長いまえがき

●本書の著者は低スペック女子の成れの果てである

 本書の著者はブスで馬鹿で貧乏である。ただし、鈴木大介の『最貧困女子』(幻冬舎新書、二〇一四年)に描かれているような貧困は知らない。賃金労働をしなければ食べていけないし、大不況や預金封鎖などの社会的経済的大変動があれば、すぐに食い詰めるという意味での貧乏だ。
 本書の著者はブスだ。顔やスタイルで食っていけないならばブスだ。「繁華街を歩いていてスカウトされたことがない」なら、立派なブスだ。
 本書の著者は馬鹿である。一を聞いて一を知るのが精一杯である。学校の勉強もできなかったし、地頭(じあたま)がいいわけでもない。平々凡々であり、ちょっと努力しなければ、すぐにゴミになる。
 本書の著者には、輝かしき幼年期も青春期も中年期もなかった。すべてが悪戦苦闘だった。本書の著者には、輝かしい老年期もないだろう。死ぬまで悪戦苦闘は続く。
 現代という時代は、ほとんどの人間に敗北感を感じさせる。現代という時代が人間に要求するスペックは高過ぎる。
 無理しないで自然に「ありのままに」生きていけばいい? 「ありのままに」生きていたら、本書の著者はただの廃人だ。

●低スペック女子向け自己啓発本がない

 本書の著者は、ブスで馬鹿で貧乏であり、何をするにも中途半端ではあったけれども、向上心だけは人並みにあった。だから、若い頃から自分の低スペックを何とかしたくて、手当たり次第に自己啓発本を読み漁(あさ)ってきた。
 書物というものは、ただ読むだけでは単なる時間つぶしでしかない。書物に素晴らしい助言や洞察が書かれていたら、それを実践して成果を得なければ意味がない。貧乏なんだから、消費するだけの読書なんかやっていられない。
 しかし、本書の著者は、特に成果はない無意味な読書を長年続けたあげく、とうとう気がついた。
 本を書く人間というのは、もともとスペックが高い。そーいう人の書く本は、自分のスペックの低さに苦しんでいる人間にとっては役に立たない! やっと気がついた。だから本書の著者は馬鹿だ。

 しかし、本書の著者は、特に成果はない無意味な読書を長年続けたあげく、とうとう気がついた。

●たとえば本多静六著『私の財産告白』

 貧乏な人が読むべき古典的自己啓発本に、本多静六[ほんだせいろく](一八六六―一九五二)の『私の財産告白』(実業之日本社文庫、二〇一三年)がある。一九五一年(昭和二六年)出版以来、二一世紀の今にいたるまで版を重ねてきた知る人ぞ知る名著だ。
 ちょっと話が長くなる。しばし我慢して読んでください。
『私の財産告白』の著者の本多氏は、苦学のすえに東京農林学校(東京帝国大学農学部の前身)で学んだ。ドイツに留学して林学を学んだ。帰国後は、日比谷公園を始めとして日本中のほとんどの大公園を設計し、「日本の公園の父」と呼ばれた。
 そもそも明治時代になるまで、日本には「公園」というものはなかった。領主の領地と私有地があるだけで、誰でも無料でウロチョロしていい公園は存在しなかった。だから現在にまで残る大きな公園を設計した本多氏の業績はすごい。福岡の大濠(おおほり)公園も名古屋の鶴舞(つるま)公園も本多氏の設計による。
 そのほかに、本多氏は、東京駅丸の内駅前広場の設計をした。関東大震災からの復興
原案も作成した。
 本多氏は、ドイツ留学時代に指導を仰いだドイツ人教授の生きかたに感銘を受けた。
ドイツの一流大学の教授は、ただの専門馬鹿の浮世離れしている学者ではなかった。自
身の自由な学問研究のための金銭管理や資産形成にも怠(おこた)りなかった。
 確かに、いまどきの日本の大学の研究者のように、研究費や科研費(文部科学省と日
本学術振興会が担当する学術研究助成基金助成金や科学研究費補助金のこと)だの民間
の補助金だの寄付だの他人のカネをあてにしていては、真に自由な学問研究はできない。
科研費や補助金の審査に通過しやすい申請書を作成しなくては、科研費も補助金も獲得
できない。
 いくら意義ある研究でも、「大麻の安全性とその有効利用」とか、「疾病(しっぺい)製造装置としての定期集団健康診断」とか「政府崩壊後の社会構築の方法」とか「日本属国脱却法研究」とか「日本支配層とイルミナティの連携」とか「横隔膜(おうかくまく)活用による男性妊娠法研究」というテーマは、おそらく日本学術振興会によって採択(さいたく)されないだろう。
 また審査する研究者の専門分野の存在理由を脅(おびや)かす類の研究テーマも採択されないだろう。「文学は価値があるが文学研究は趣味でしかないので、文学研究に科研費投入は公費横領であることを証明する研究」なんて研究は採択されない。審査するのが文学研究者ならば。
 ところが、さすがに本多氏は慧眼(けいがん)で独立独歩の気概(きがい)ある方だった。ほんとうの研究者になるには、自分の自由になる自分自身の資産を形成することが必要だと考えたのだから。
 で、帰国後は、夫人の協力を得て、「月給四分の一天引き貯金」を実践した。四〇代からは株式投資も始め資産を増やした。山林も購入した。売れる書籍の原稿を毎日一ページ書くことを日課とした。著書は三七〇冊を超えるまでにいたった。
 おかげで、本多氏は海外調査も自費で何度もできた。それも一流ホテルに宿泊した。日本人として堂々と臆することなく威(い)を張るために。公金である科研費を使って海外の学会に出席と言いつつ物見遊山(ものみゆさん)しているような類(たぐい)の現代の日本の大学教授とは、本多氏は志(こころざし)が違った。
 なのに、そこまでして築いた資産を、本多静六氏は東京帝国大学停年時には全額寄付した。本多氏は、かくも非凡な研究者だった。
 本書の著者は本多氏の生き方に感動した。しかし、本多氏の名著は、本書の著者にとっては猫に小判だった。デブ女にピンヒールだった。
 本書の著者は、この名著を何度も読み返した。しかし、月給の二五%預金などできたためしがなかった。こんなに単純なことでさえ実践できなかった。
 いかに名著でも、いかに確実な方法が提案されていても、本書の著者のようなスペックの低い人間には実現不可能なのだ。
 この世に出版物は多い。しかし、ほんとうにスペックの低い人間にとって実践可能な方法は書いてくれていない。

●たとえば上野千鶴子著『女たちのサバイバル作戦』

 まてよ、本書の著者は女性なのだから、女性の問題を論じた本を読むべきであって、男性が書いたものでは参考にならないのではないか?
 そう思った本書の著者は、女性のための自己啓発書も随分と読んだ。中でも、上野千鶴子氏の著作は一九八〇年代から随分と読んだ。
 厳密に言えば、社会学者である上野氏の著作は女性用自己啓発本ではない。あくまでも社会科学の面から見た女性問題を啓蒙(けいもう)的に分析するものだ。
 しかし、本書の著者にとっては上野氏の著作は自己啓発本だった。女性がこの世界で
遭遇(そうぐう)するであろうさまざまな困難が、より大きな政治や社会や経済の文脈の中で鮮やかに分析されていた。個人の努力では超えることができない問題にぶつかり、自責することしかできなかった女性たちに、上野氏の著述は、より大きな視野を与えてくれた。
 本書の著者は上野氏の御著書を読むと、グジャグジャな脳の中がクリアに整理され頭が良くなったような錯覚を起こしたものだった。
 あなたが何歳であれ、女性としてのあなたが二一世紀の今現在置かれている政治的経済的社会的状況を把握(はあく)したいのならば、上野氏の『女たちのサバイバル作戦』(文春新書、二〇一三年)は必読だ。
『女たちのサバイバル作戦』には、一九八六年の雇用機会均等法の施行(しこう)から現在にいたる女性を取り巻く労働環境の変化と女性間格差拡大の問題が論じられている。決して楽観的にはなれない日本と世界の現在と未来において、女性がどうあるべきかという提言もなされている。
 上野氏は、もちろん政府や企業のすべきことも提言している。女性個人に対しては、経済的には「マルチプル・インカム」をめざすように提言している。要するに、いろんな方法で稼ぎなさいね、ということだ。
 上野氏は、自分自身の中に多様性を取り込むことも提言している。組織に終身雇用されて生きる従来の勝ち組の生き方は誰にとっても不可能になりうるという予測のもとに、さまざまなことをして稼ぎつつサバイバルしていくことを推奨(すいしょう)している。
 同時に、女性間格差を越えて社会構造的に弱者にならざるをえない女性同士の「共助(ともだすけ)」を提唱している。
 とはいえ、本書の著者は、上野氏の著作にいろいろ教えられながらも、「やっぱり私の求めるものとは違うなあ」と思わざるをえなかった。
 たとえば、いろいろなことができるようになってマルチプル・インカムを達成して稼ぐにしろ、「共助け」できる友人ネットワークを構築するにせよ、本書の著者には無理だ。不可能です。
 本書の著者はブスで馬鹿で貧乏だから、いろいろなことができない。何をさせてもうまくできたためしがない。
 それから、ブスで馬鹿で貧乏なので、傷つきやすいことが多く、他人とネットワークなど作れそうもない。面倒くさい。そもそも他人があまり信用できない。
 ブスで馬鹿で貧乏だからこそ、本書の著者は、人間というものが、いかに悪意に満ちたものであり、くだらない位(くらい)取り(自分のほうがここは上だとか、優れているとか、比較品定めすること)ばかりしがちなことを知っている。本書の著者には、そういう人々の悪意や邪気を包み込めるような大きな人間愛はない。
 また上野氏の言う「共助け」とは、相互扶助とか互恵関係だと思われるが、本書の著者は他人に有益な何かを自分が与えることができるとは思えない。
 ともかく、ブスで馬鹿で貧乏だと、ついつい自分自身にも他人にも過大な期待はしなくなる。ましてや政府や行政になど。

●たとえば田村麻美著『ブスのマーケティング戦略』
 ならば、もう少し敷居(しきい)の低い田村麻美の『ブスのマーケティング戦略』(文響社、二〇一八年)ならばどうだろうか。
『ブスのマーケティング戦略』は、自分はブスであると早々と小学校時代に自覚した田村氏の青春の記録だ。『ブスのマーケティング戦略』には、自分を商品として査定し、自分が売れるマーケットを模索(もさく)し、豊かな性体験もキャリアも男も子どもも獲得し、ブログが認められ本まで出版する過程が赤裸々に楽しく描かれている。
 この本は実に面白い。無茶苦茶に面白い。これほどに正直で率直な女性用自己啓発本はない! すべての日本の高校は、女子高校生用課題図書として『ブスのマーケティング戦略』を選ぶべきだ。
 が、本書の著者は、この素晴らしい現代日本女性の自己啓発本に対してでさえも引いてしまう。
著者の田村氏は、単なるブス (写真で見る限りそれほどのブスではない)ではない。
非常に頭のいい観察力のある女性だ。実行力も行動力も度胸もある。税理士という立派な国家資格も持っている。高校は埼玉県一番の進学校だ。立教大学経済学部出身で、立教大学大学院の博士課程前期(修士課程のこと)も修了している。二〇一八年現在で早稲田大学のビジネススクールに在籍中だ。MBA(経営学修士号)取得後は、税理士としてばかりでなく経営コンサルタントとしても活躍する予定の方である。
 ブルータス、お前もか。やっぱり、自己啓発本を書くことができる人は高スペックな
のだ。
「自分にうそをつくな! かっこつけるな! 好かれたいんだろう! セックスしたいんだろう! その愛欲・性欲を認め、エネルギーにするんだ!」と堂々と書ける女性は非凡に決まっている。
 本書の著者には、自分を商品として売り出すマーケティング戦略なんて無理だ。そんな分析力も思考力も実行力もない。だって馬鹿だもん。

●自分で書くしかないし老後対策も必要

 というわけで、この世に出版物は多いが、ほんとうに低スペック女子にとって共感できるし、実践可能な方法は書いてくれていない……と、本書の著者は、あらためて思った。
 本書の著者は、そろそろ自分の人生の果てが先に見えてきた年齢だ。だから、分不相応(ぶんふそうおう)にもこう思うようになった。じゃあ、何につけても中途半端な低スペック女子向き自己啓発本を誰も書いてくれないならば、私が書こうと。遺書のつもりで書いちゃおうと。
 現代日本には、おびただしい数の本が毎日出版されている。そこに本書の著者のような中途半端な馬鹿が書くものを加える意味はない。全くない!
 ではあるが、本書の著者には、老後対策として本なるものを書かねばならないという切羽(せっぱ)詰まった事情もある。本書の著者は、退職後に年金生活者になっても、書籍をやたらに注文する癖を矯正できない。せめて本代くらいは稼がなければ食べてゆけない。
 しかし、アルバイト的なものにせよ雇われての賃金労働はしたくない。本書の著者は、何につけても中途半端でブスで馬鹿で貧乏であるので、非正規雇用で四年間、正規雇用で三一年間の賃金労働をするのにさえも非常に難儀した。
 その楽しくない賃金労働のストレス解消のために収入はほとんど浪費したので、預金額も少ない。
 まだ現役で働いている夫がいるので、将来は夫の年金と夫の預金にたかる予定でいたが、その頼りの夫が二〇一八年秋に大腸がんのステージ3Cと診断された。
 夫の生存率を高めるべくやれるだけのことを本書の著者はするつもりだが、こればかりは神様の領域だ。
 それに加えて、国家財政破綻(はたん)に預金封鎖に新円切り替えで、庶民の預金は没収されるという噂もある。年金破綻もありえるそうだ。
 いや、日本の国家財政破綻説などは、国民から税金をさらに収奪したい人々が流すデマであるという見解もある。
 どちらが正しいのか、本書の著者にわかるわけがない。
 確実に言えることは、本書の著者の老年期も、青春期や中年期と同じく悪戦苦闘になるということだけだ。
 やっぱりね。
  ということで、収入の道を探るべく、本書の著者は本なるものを書くことにした。
 すみません。こんな志(こころざし)の低い理由で本を書くなんて。でも、これが掛け値のない真実です。

●本書の著者の紹介

 本書の著者の藤森かよこについて紹介する。
 私は一九五三年に愛知県名古屋市に生まれた。日本でテレビ放送が始まった年に生まれた。
 私は、高校生の頃から、「女だからという理由で損をする気はさらさらない」という意味でのフェミニストだった。自分で稼いで、自分で稼いだ金を好きなように自分のために消費して好きに暮らしたいだけだった。
 根が非常に怠惰なので、ほんとうは、好きなように消費できる優雅で気楽な類の家事をしなくていい高級専業主婦になりたかった。
 しかし、高収入の安全確実なエリート男を夫として絶対に獲得できるような家柄に生まれたわけではない。「玉の輿(こし)に乗る」ことができる美貌も持ち合わせていない。
 清貧で誠実な男の専業主婦となり清く正しく美しく慎ましく家事に励む生活をする気は全くなかった。私は清貧にも忍耐にも興味がない。家事はなるべくしたくない。そんな能力も体力もない。
 ならば、自分で働いて稼いで食っていかなきゃ。
 とはいえ、男女同一労働同一賃金の職は、私の若い当時は教員か医師か弁護士か官僚ぐらいしかなかった。当時の私は言語道断(ごんごどうだん)に無知であり、男女同一労働同一賃金の職種を、これら以外に知らなかった。
 これらの職種の中で、何とか私でも就けそうな可能性のある職は教員だった。義務教育の教員は無理だった。子どもには興味がない。保護者と関わるのも真っ平御免だった。残るは高校教員のみ。
 それで大学は地元の南山(なんざん)大学の文学部英文科に入学した。当時の南山大学文学部英文科(今はない)の偏差値は六〇ぐらいだったろうか。愛知県の県立高校の英語教員には南山大学出身者が多かった。私には、地元の国立大学の文学部や教育学部に合格する学力はなかった。
 有名国立大学か慶応大学か早稲田大学に行く以外は上京させないし、浪人も駄目と父に言われていた。大丈夫だよ、受かるはずないから。
 ところが高校の英語教師になるつもりだったのに愛知県立高校教員採用試験に落ちた。高校での教育実習の経験から、私は高校教員の職が勤まりそうもないと察知していた。だから落ちたショックはさほどなかった。
 しかし、ならば、さてどうしようか。
 すると、大学の英語教員になるという案が浮上(ふじょう)した。県立高校の英語教員の採用試験は狭き門だったけれども、大学の英語教員になろうとする人間の数は少ない。ならば狙(ねら)い目だ。
 大学の一般教養課程では英語は必修だ。大学の教員なら、授業があるときだけ出勤す
ればいいはず。毎日午前九時から午後五時まで働かなくていいはず。ラッシュアワーの
電車に乗る必要はないはず。夏休みもあるはず。大学の教員ならば、職場に自分の研究
室があり同僚と顔を付き合わせる必要はないはず。世間話しないですむはず。偏屈でい
いはず。
 ならば大学教員になろうと私は心に決めた。
  一九六〇年代や七〇年代は大学の新設も多かった。英語教員の採用が比較的多かった。
当時は、インターネットによる英語の自学自習システムもなかった。スカイプでの英会
話教育もなかった。英語専門学校へのアウトソーシングなどの外部に英語授業を委託し
て人件費を抑えることもなかった。どこの大学でも教養課程の英語教師を必要としてい
たので、雇用はあった。
 大学の英語教員になるには少なくとも修士号の取得が必要だと知った。だから母校の
大学の大学院文学研究科英米文学専攻(今はない)の修士課程に進学した。
 大学院では、英語教育にも文学研究にも興味はなかったので、研究の真似事をするの
に難儀した。論文なるものを書くのに非常に苦労した。
 論文を書くために買いまくり集めまくった書籍の山を眺めるたびに、「これだけ投資したのだから、絶対に元を取らねばならない!」と自分を励ましながら、どうでもいい論文を書き、どうでもいい研究発表を学会で重ねた。
 博士課程で必要単位を取得した後は非常勤講師を何年か続けながら、いくつかの大学に応募した。落選続き。地元の大学の英語教員は地元の名古屋大学出身者のひとり勝ち。もしくは東京や関西の有名大学出身者が有利。そんなあたりまえのことも知らなかった私であった。
 大学院の英文学の教授は「女の子は消費のための勉強をするべきであって、就職のことなど考えないように」と言った。失せろ、死ね、馬鹿。
 しかし、ソ連のチェルノブイリで原発事故があった一九八六年、私は岐阜市立女子短期大学にめでたく採用された。
 私は最終面接まで残ったふたりのうちのひとりではあったが、実のところ選考委員会は私ではない筑波大学出身の候補者を選ぶことを決めていた。当然だ。ところが、面接前日にその候補者が東京の大学に採用された。で、自動的に私が岐阜市立女子短期大学に採用された。奇跡が起きた!
 このときの喜びは忘れられない。これで健康保険も年金も大丈夫だ!
 私の大学院時代の後輩の女性のひとりは三七歳で自殺している。「年金のこと考えると心配で夜も眠れなくなるんです」と言っていた。私は三三歳で、やっと正規雇用の職に就けた。
 とはいえ公立の女子短大なので待遇は悪かった。名古屋から岐阜まで通うのも大変であった。長くいてもしかたないと私は思った。
 二年後に名古屋市内の金城学院大学短大部に応募して、一九八八年に採用された。ここでの採用は、選考委員にとって、地元で一番の「名古屋大学出身者より馬鹿だから扱い易くおとなしいだろう」と値踏みされてのものだった。どんな思惑(おもわく)からであろうと採用されれば、こちらの勝ちだ。これで年収は二倍になった。
 とはいえ安心はできなかった。当時から短期大学の消滅が予想されていたので、いつまでも短期大学の教員では職を失う恐れがあった。私は、あちこちの四年制大学に応募した。落選続き。やっと、八年後の一九九六年に大阪の桃山学院大学に採用された。四三歳だった。
 桃山学院大学は労働条件も非常によく、かつ学生とも楽しく過ごせた。上司や同僚にもややこしいのは少なかった。非常に非常に多忙だったけれども、充実した日々だった。
 しかし、年齢も五〇代半ばにさしかかると、ファイトが湧(わ)いてこなくなった。競争の激しい関西地域の中堅私立大学での教育サービス労働や、学内での教務関係や入試関係の仕事や、高校への出前授業などの営業活動をするのに疲れてきた。
 二〇〇八年には、すでに教師としてのやる気は消えていた。しかし、五〇代半ばで無職も困る。年金のこともある。
 そんな頃に、二〇一一年度より開設の広島県の福山市立大学に移らないかというお話をいただいた。場所を変えれば、やる気のなさに火がつくかもしれないと私は思った。
 奇しくも、あの三月一一日に大阪から広島県福山市に移動した。しかし、やはり無理だった。やる気もファイトも回復しなかった。健康問題も出てきた。定年退職を一年早め、二〇一七年三月に退職し、今日にいたる。
 これが私の履歴です。

●本書の構成

 この本は三部構成だ。青春期編、中年期編、老年期編と分かれている。老年期編がもっとも短い。私がまだ老人ビギナーだから、書けることに限りがある。ほんとうは老年期をしっかり経験した死後に書くべきだけれども、それは無理。
 少女時代編はない。子ども時代や幼い少女時代に留意すべきことは書かれていない。この本を読むあなたは、私と同じく、何をしても中途半端でブスで馬鹿で貧乏の低スペック女子だと思う。だから、子ども時代や少女時代に自己啓発本など読むはずない。
  ほんとうは、人生の競争は生まれたときから始まっている。乳幼児の時期の育てられ方は知能の発達に大きく影響を与える。一〇代の頑張りは充実した二〇代を作る。
 私の場合は、生まれてから三〇歳過ぎるあたりまで無知蒙昧(むちもうまい)であったので、その後にいろいろあがいても、遅れを取り戻すことは無理だった。まあ、しかたない。馬鹿で生まれ育ってしまったのにも何らかの意味はあるのだろう、と思うしかない。だからこそ、見える風景もあるのだろう。知らんけど。

●本書は「おすすめ本ガイド」でもある

 本書では、読めば有益な書籍もテーマに沿って紹介してある。すべて私が実際に読んで面白いし有益だと思った書籍ばかりだ。
 世に「おすすめ本ガイド」的書籍は多く出版されているけれども、私からすると、著
者の方々が取り上げる本は立派過ぎる。古今東西(ここんとうざい)の古典を並べられても困る。
 大手新聞が年末に知識人に発表させる類の「今年の三冊」なども敷居が高い。誰が読むんだ、あんなマニアックな本。新聞の書評欄も見栄を張っている感じ。読まずに書いている書評もある感じ。
 世評の定まった名著ではなく、気楽に読める類の一般書は「雑本(ざっぽん)」と呼ばれる。「雑本」だからといって内容が薄いとは限らない。有益でないとは限らない。人生を変えてくれる本が古典的名著ではなく、古書店の店先で一〇円や五〇円で売られている「雑本」と呼ばれる類のものであることは、実際に多いのだ(と思う)

●基本はひとり

 この本を手にしているあなたの立場はいろいろでしょう。独身かもしれない。既婚かもしれない。内縁関係かもしれない。同性愛者かもしれない。子どもがいるかもしれない。子どもがいないかもしれない。養子を育てているかもしれない。
 この本は、女性のさまざまな境遇の違いを敢えて無視している。どう生きるにせよ、あなたが自分で自分の人生に責任を負わねばならないことは同じだ。独身も既婚も子持ちも子なしも関係ない。
 どっちみち死ぬときは、ひとりだ。家族に囲まれてご臨終だろうが、孤独死だろうが、大地震で瓦礫(がれき)につぶされようが、核ミサイルによって蒸発しようが、大差はない。
 死ぬ瞬間に、あなたが自分の人生を肯定できるかどうかがポイントだ。何をするにしても中途半端でブスで馬鹿で貧乏だけれども、この人生ゲームを捨てずに逃げずによくやってきたね! 健気(けなげ)だったね! と自分の頭をナデナデできるかどうかがポイントだ。
 この本には、あなたにとって不快なことも書かれているかもしれない。ブスで馬鹿で貧乏なあなたは、たたでさえ不用心に無思慮に生きるはめになりやすい。そんなあなたが、それなりに世の中を渡っていくための大雑把な指針が、この本には書かれているのだから、耳障(みみざわ)りなはずだ。

●前もって書いておく大指針

 この「長いまえがき」の最後に、ブスで馬鹿で貧乏なあなたが常に常に留意しておくべきことを書いておく。
 ともかく、現実と幻想をゴッチャにしないこと。これは、現実なのか、自分の思い込みや願望に過ぎないのか、世間に流通している類のほんとうは根拠のないファンタジーでしかないのか、常に考えること。
 一般通念とかその時代の支配的考え方は、所詮はファンタジーであるかもしれないと常に疑うのは、馬鹿なあなたにとっては面倒くさいことだ。でも、あなたは馬鹿で貧乏だからこそ、この種の一般通念に騙されやすい。どうでもいいことに悩みやすい。
 現実とファンタジーを区別するということは、自分にできることとできないことを区別するということでもある。自分はひとかどの人間だとか有能だとか善意の塊(かたまり)とか錯覚しないことだ。
 カネがないとできないことを、カネがないのに、カネの合法的調達もできないのに、しないことだ。これは、個人でも組織でも同じことだ。私たちは政府ではないので、通貨発行権はない。
 こんなことあたりまえだと思いますか? ところが、あなたはブスで馬鹿で貧乏なので、こんなあたりまえのことがわからないし、できない。何とかわかり、できるようになっても、ちょっと油断すれば、元のように脳の中は現実とファンタジーがゴッチャになる。だって馬鹿だもん。
 ただし、時には、自己治癒(ちゆ)活動としてファンタジーの中に逃げ込むことも必要だ。健康にいかに悪くとも、甘い食べ物が必要なときがあるように。現実を直視するエネルギーを取り戻すために、逆説的に現実逃避もしなければならないときがある。
 私も疲れると、現実逃避でアニメの『キングダム』を視聴して、空(から)元気をつける。心が乾燥すると、韓国テレビドラマの傑作の『トッケビ』を視聴して、ロマンチックな優しい気分になる。
 また、現実の状況を超えるためのヴィジョンという積極的ファンタジーも必要だ。こ
の種の積極的ファンタジーは昔から「理想」と呼ばれてきた。
私は、この世に救済(きゅうさい)はないしユートピアも実現しないと思ってる。なのに、人類は匍匐前進(ほふくぜんしん)ながらも「理想」に向かっているとも信じている。矛盾している。矛盾していたっていい。私が矛盾していたって、誰にも迷惑はかからない。
 現実はいつも泥臭くダサくて哀しく矮小で貧乏くさくて意味不明だ。でも大丈夫。馬鹿でもブスでも貧乏でも、きちんと生きていれば、そんな現実を受け入れ愛することができるようになる。疲れたら、ちょっとの間だけファンタジーに逃げ、元気になったら、また現実とおつきあいすればいい。
 では、ゆっくりのんびりじっくり私のつっこみどころ満載(まんさい)の長話を読んでやってください。読んでいる最中にむかついても、最後まで読んでください。

二〇一九年夏
藤森かよこ

=====

■馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。目次

長いまえがき …………16
本書の著者は低スペック女子の成れの果てである …………16
低スペック女子向け自己啓発本がない …………17
たとえば本多静六著『私の財産告白』 …………18
たとえば上野千鶴子著『女たちのサバイバル作戦』 …………22
たとえば田村麻美著『ブスのマーケティング戦略』 …………25
自分で書くしかないし老後対策も必要 …………27
本書の著者の紹介 …………29
本書の構成 …………35
本書は「おすすめ本ガイド」でもある …………36
基本はひとり …………37
前もって書いておく大指針 …………38

Part 1 苦闘青春期(三七歳まで) …………43

1・1 容貌は女の人生を決める …………44
低スペック女子の青春は寂しい…………44
ブスで馬鹿で貧乏だと、もっと貧乏になる …………47
本格的ブスは美容整形手術を受ける …………51
美容整形手術をしたくないか、できない場合 …………53
普通のブスは見にくくない自分を捏造(ねつぞう)する …………54
パッケージ美人でいい …………57
青春期こそ外観改良の費用対効果は高い …………60

1・2 仕事について …………62
食える職に就ける勉強をする …………62
苦にならない仕事はみな天職 …………65
意外とちょろい世間 …………68
対人免疫力をつける …………70

1・3 自分に正直でいることの効用 …………74
ドタキャン癖 …………74
自分に正直でいるためには練習が必要 …………76
自分に正直でいると自分を受容できる …………78
自分に正直でいるとこの世の欺瞞(ぎまん)に騙(だま)されにくい …………80

1・4 セックスについて …………85
ブスで馬鹿で貧乏だと性犯罪にあいやすい …………85
とりあえず男を見たら性犯罪者と思う …………87
世界はまだまだ無法なジャングル …………89
強姦され妊娠した場合の対処 …………91
若い女性は人間嫌いなくらいが妥当 …………97
性交は通過しておく …………98
結婚するなら国語能力のある男性 …………101

1・5運のいい人間でいるために …………107
損の貯金と大川小学校事件 …………107
運の良くなる方法あれこれ …………112
ポジティヴ・シンキングは危険 …………115
スピリッチュアル詐欺師に関わらない …………118

1・6 学び続けること …………120
国語能力をつける …………120
読むものは何でもいい …………122
心を守る読書 …………124
税金と社会保険について学ぶ …………127
マナー本と手紙サンプル本の効用 …………131
馬鹿に最適な語学学習 …………134

Part 2 過労消耗中年期(六五歳まで) …………139

2・1 中年の危機 …………140
中年期は苦しい …………140
人生に突然の飛躍や覚醒はない …………144
しのごの言わず賃金労働に勤(いそ)しむ …………148
生活費を十分に稼ぐ夫がいるなら家事と育児に専念すればいい …………149
中年期に見えてくる日本の仕組み …………151
中年期に見えてくる世界の仕組み …………155
ピラミッド社会における中年のあなたが実践すべきこと …………159

2・2 若さとの別離としての更年期 …………166
更年期(こうねんき)に関する確認 …………166
更年期障害とは …………168
更年期実例観察―家庭編 …………171
更年期実例観察―職場編 …………174
働く女性は更年期で本格的に男社会の壁を感じる …………175

2・3生き直しとしての更年期…………179
女は誰でもふたり分の人生を生きる …………179
更年期は自己の転換変換上昇を模索(もさく)する時期 …………181
私の更年期体験その1 …………182
私の更年期体験その2 …………187
おばさんよ、大志を抱け …………192

2・4 依存症について …………196
みんな依存症 …………196
安全弁としてのプチ依存症 …………199
依存症が文化を創ってきた …………202

2・5 性欲について …………205
女性が性欲を直視する困難さ―ボーヴォワールの場合 …………205
女性が性欲を直視する困難さ―ハンナ・アーレントの場合 …………207
女性が性欲を直視する困難さ―アイン・ランドの場合 …………209
女性には三人の男性が必要? …………212
『夫のちんぽが入らない』の衝撃 …………213
老年期に入るまでに自分の性欲を消費しておく …………215
四人の男性が必要という説もある …………219

2・6 年下の人間との関わり方を学ぶ …………221
現代はヒラメ人間受難時代 …………221
ヒラメになりようがないブスで馬鹿なあなたの強み…………225
他人はみな情報の束(たば)であなたの教師 …………226

2・7 お金について …………229
金儲けも貯金も蓄財も特殊な才能が要る …………229
その日暮らしが歴史的には普遍的 …………232
「自分のお金」について考えていれば現実から遊離しない …………234
『となりの億万長者』だけ読めばいい …………237
カネを失くすことは厄落としになる …………241

2・8 さらに学び続ける …………244
中年期こそ最後のチャンス …………244
読書対象を広げる …………246
地頭(じあたま)だけに頼っている人はいない …………248
フェミニズム運動の恩恵を受けている現代女性 …………250

Part 3 匍匐前進老年期(死ぬまで) …………257

3・1 日本の現代と近未来は老人受難時代 …………258
馬鹿は中年期の終わりまでには死ねない …………258
長期的に見れば老年期はより充実したものになる …………260
国民の三人にひとりが六五歳以上になる二〇二五年 …………263
長い長い長い老年期 …………266
年金財政破綻への不安 …………269
病院が高齢者のセイフティネットではなくなった …………271
高齢者をターゲットにした犯罪の跋扈(ばっこ)…………275
高齢者のモデルがいない …………280
高齢者差別社会 …………283
高齢者が高齢者を差別する …………285

3・2 馬鹿ブス貧乏女の強みが発揮される老年期 …………288
徒手空拳(としゅくうけん)に慣れている …………288
貧乏を怖がらない …………290
老いればみなブスになる …………294
ミステリーゾーンを進むのは慣れている …………296
ひとりでも寂しくない人間になる …………299
蛇足 私の「ひとりでも寂しくない人間でいる方法」 …………303

3・3 身体メンテナンス …………306
問題は口腔と歩行 …………306
からだは肛門から舌までの一本の管 …………307
歩行移動能力の保持 …………313
3・4 勉強は死ぬまで死んでもする …………317
学びなおし …………317
読みなおし …………321
次世代に無責任にならないために新しい情報にもアクセスする …………323

3・5 人生最後の課題としての死への準備 …………328
終活は断捨離から …………328
高齢者施設はまだまだ発展途上 …………330
高齢者ひとり暮らしへの公的支援を活用する …………333
ひとりで死ぬことはいい、問題は死体の処理だ …………335
死んだら終わりじゃないと思っていい …………338

あとがき …………342
紹介文献リスト(紹介順) …………346

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■あとがき

 この本は書くのに、五ヶ月かかった。もちろん毎日書いていたわけではない。体力も
能力もないので、数日書いたら、数週間は休むといった調子だ。しかし、まさか五ヶ月
もかかるとは思わなかった。
 
 二〇一九年の二月一二日に、出版コンサルタントの尾崎全紀(おざきまさのり)氏から本を書いてみませんかとお話をいただいた。
 尾崎氏は、私のブログ「アイン・ランドに関係ない藤森かよこのBlog」の記事を読んでくださっていた。尾崎さんとは面識はなくSNS上での知人だった。
 尾崎氏は、サッサとKKベストセラーズの編集者である鈴木康成氏を紹介してくださった。
「私のような低スペック女子の人生論みたいなものなら書けると思う。一ヶ月ぐらいで書けると思う」と、私は尾崎氏に答えた。そうしたら、五ヶ月かかってしまった。
 この五ヶ月の間に参議院議員選挙があった。尾崎氏は「NHKから国民を守る党」から大阪で立候補なさった。「NHKをぶっ壊す!」と言いながら忙しく選挙活動で走り回る尾崎氏の多忙さにつけこんで、私はいったんは提出した原稿を書きなおしさせていただいたりした。
 私は、翻訳はしたことがあるし、論文もそこそこ書いてきた。アメリカ文学関連の共著の本も出版してきた。しかし、書籍一冊分の分量の文章を書くのは初めてであった。六六歳にして初めてであった。
 本一冊分の分量の文章を書くというのは大変なことだった!
 プロの書き手の人が、あれだけいっぱい本を出版できるのは、やはり才能が違うのだ。力量が違うのだ。
 これからは、安易にひと様が書いた本について気軽に論評するのは、やめよう。
 私に声をかけてくださった尾崎氏に感謝します。ありがとうございます。
 KKベストセラーズの編集者の鈴木康成氏に感謝します。ありがとうございます。
 素敵な装幀をしてくださった大谷昌稔(おおたにまさとし)氏とカバーイラストを描いてくださった伊藤ハムスターさんに感謝します。ありがとうございます。
 素晴らしい「警告コメント」を書いてくださったジェーン・スーさんに感謝します。ありがとうございます。

 本書を書くことは、私にとっては、自分の人生をふりかえり、残り少なくなった人生をどう生きるかを考えさせる契機となってくれた。
 二〇一八年一〇月に夫が腸閉塞で緊急入院し、大腸がんが見つかって以来、私は不安や疲労のためにストレスが溜まり、体調もすぐれない。
 両親の死は経験し、それなりに愛別離苦(あいべつりく)については考えたことがあった。しかし、配偶者の大病や死の可能性に直面することは、親のそれらに直面することよりも、はるかに苦しく不安なことだ。
 賃金労働生活から解放されて無職の日々をのんびり送っているうちに、私は迂闊にも錯覚してしまっていた。「おじいさんとおばあさんは、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」的日々がずっと続くような気分でいた。
 そんなはずはないのだ、やっぱり。

本書を書くという仕事をいただけなかったのならば、私は、その不安や恐怖から距離を置くことができなかったかもしれない。自分の死についても考えることを真剣にしなかったかもしれない。
 本書で書いたように、私は、幸福感と感謝に満ちて死ねると思う。しかし、その前に消耗し尽くさねば。空っぽになるまで自分を使い倒さなければ。ぶっ倒れるまで生き切らなくては。
 私の初めての単著を読んでくださった方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました!

二〇一九年秋
藤森かよこ

(貼り付け終わり)

(終わり)

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