「1768」 『英文法の謎を解く』再訪 「仮定法の文」 の巨大な謎 。 ×「かもしれない」という卑怯で愚劣な日本語のコトバを、廃語(はいご)にすべきだ論 (第1回・全2回) 2018年8月22日

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 副島隆彦です。今日は2018年8月22日です。今日は英語の勉強をします。

本気で、英語、英文 について、考えたい人は、きっと、収穫が大きいですから、私の、この文を、真剣に読んでください。 私、副島隆彦に、とっての、 20歳代、30代歳の 知能、才能の、投入があります。 私は、以下の文を、今、本気で、 私の読者たちに 読んで、考えてもらいたい。

 第1巻目が 出版されたのは、1995年だから、もう22年前だ。この年に私が書いた『英文法の謎を解く』という本があります。全部で3巻本です。「続」と、完結編」があります。

 これは、筑摩書房の ちくま新書 から出しました。これの「英文法の謎を解く」の第1巻目の、123ページからの第8章「仮定法はなぜむずかしいか」という章について、今日は、徹底的に、話します。

それから、卑怯者、自分の責任を回避する、ずる賢い人間が、日常で、よく使う、「・・かもしれない」 という オカシナ 日本語を、そろそろ、国民を上げて、使わないようにしよう。廃語(はいご。obsolete word アブソリート・ワード)にせよ、という、私、副島隆彦の主張を、これに付け加えます。

物事(ものごと)は、出来る限り、自己の断固たる 決断と、主張を貫いて、「・・だ」「・・・です」で、断定、言い切り、断言形 の 短く言う、書く のがいい。 それが、頭のいい人、優れた人物の生き方だ。 私、副島隆彦は、この系統に属する 人間だ。 つねに明確(めいかく、エクスプリシット)で、潔(いさぎよ)い生き方を、していたい。そのように、堂々と生きて来た。


英文法の謎を解く (ちくま新書)


『英文法の謎を解く』123ページ

 ここの話をするだけなんですが、何がそんなに重要かというと。 
 今から私が話すことがわかると、日本の大学入試のときの、 偏差値で75ぐらいになるんですよ。
 だから東大、京大に受かる連中で、英語というものを秀才としての知能で、よくわかっている人たちだけが、ここの大きな、壁、秘密を一気に超えている、そういうハイレベルの問題なんです。

 このことを、私、副島隆彦は、最初に言っておきます。だから高校1年生でも、16歳ぐらいで数学の微積(びせき。解析学)がわかる連中がいる。そのレベルなんです。

 知能が低いと、ここのところは、わからないんです。一生、分からない。英語が出来るようになりたい、話せるようになりたい、と、言っても、ここの 壁を越えないと、 「英語 という勉強の 山」は、超えられない。

 私は、偏差値68 ぐらいの人間だった。早稲田大学法学部 程度だから、のちに、33歳の時から、予備校で教えていて、5年ぐらいかかって、ようやく、この壁、秘密が、わかったんです。

 私は、英語で、一緒懸命に、アメリカの政治評論の本とか、言論誌を、20歳の頃から、ずっと、独力、自力で、読んでいたような人間だ。だから、それなりの理解力を持っているんだけど、それでも英語教師をやって、ようやくわかったんです。それぐらい、大変な、壁(かべ)だった。


英語学習の難しさのイメージ

 それで私は、『英文法の謎を解く』を書いて、「続編」と「完結編」で50万部売れたんです。これは私の勲章なんですよ。このときから、私の生活は、楽になった。その後も、貧乏もの書き、評論家を続けましたが、それでも、本が売れると、生活が安定する。

 この本を書いた5年前に、研究社という英語の辞書を出して、日本で一番威張っていた英語学習の権威的な出版社、と、東京外語大学及び東大の英文科の教授たちを、私が、名指しでたたいた。彼らが編集した日本の英語辞書が、大間違いだらけである、という本を書いた。それが 「別冊宝島」(宝島社刊)の『欠陥英和辞典の研究』(1989年)という本です。

 このあと、裁判になって、争いがあった。だから、私は、日本の英語学者、英語教師たちからものすごく嫌われた。 それでも『英文法の謎を解く』が、その5年後に出て、バカ売れしたんです。ただ、英語教師たちの、私への憎しみはさらに増した。その後、私が、筑摩書房とあまりつき合いがなくなった。

 日本の 大学の文学部英文科(えいぶんか)を出た人たちで、英語教師になった者たちが、私をヒドく憎んだ。 よくも、「英文科卒(そつ)の 私たちを、バカにして、顔に泥を塗ってくれたな」と、彼らは、私、副島隆彦を 激しく憎んだ。 それなのに、彼らは、私の この本を買って、コソコソと、みんな、読んだ。  そして、さらに、不愉快になった。 自分たちが、愚か者だ、ということを、私が、さらに彼らの脳に、証拠、証明、 理論付きで、突き付けたからだ。

私は、苦労に苦労を重ねて、自分が、日本国民のために、真剣に、真実の知識、思想、学問を、して、その成果を公表してきた。 あとは、ひたすら我慢するしかない。「この 副島隆彦 という男が、書いて、本にしてきたことが、どうも、真実のようだ」 と、 分かってくれる人が、全国に、すこしずつ、出来来てくれることを、私は、ずっと、堪えに堪えて、待ち続けている。そうやって、20年、30年が経(た)った。 我ながら、苦労の多い 人生だ。

途中に、私の人生で、いろいろなことが有った。今日は、この大事件(笑い)のことは、書きません。

 こういう背景があって、私の人生の、35歳ぐらいのときの闘いの、私が、発見して、独自に築き上げた理論が、この本には、山ほど詰め込まれているんです。ただの英語の勉強の本、ではないのです。
今からでも、この本を、 読んでください。 副島隆彦という、真実暴(あば)きの言論人が、それほどに、気合いを入れて、本気で書いた本ならば、きっと、大変なことが書いているだろう、と、分かる人たちは、今から、読んでください。

 私は、この本は、文化勲章をもらうに値する、と、平気でこの本の中でも何カ所も書いています。でももらえません。まだ、もらっていません。それでも、この本の、内容の凄(すご)さを、分かる人は、たくさんいる。日本の英語教師たちは、ほとんどが、私の、この本を読んだあと、ひれ伏したのです。彼らは、私のずば抜けた、頭脳に、降参した。だから、この本は、2年間ぐらいベストセラーになって、売れ続けた。 それでも、私への、憎しみがあるから、私は、ちっとも、この分野での私の仕事を、正しく評価されていない。

 今から私が、書くことがわかると、あなた(=読者)は、とんでもなく重要なことに、気づくんです。だから今日は、S、V、O、C とかの5文型理論 とか、私が、大変な特許に相当する重要な指摘をしていることが他にもいくつもあるけど、 今日は、ここでは触れません。

 今日は、この第8章の「仮定法の文」が、どれぐらい難しいかということだけでお話しします。英文の例文をを見せながら、話しますよ。

 例文を示します。

 If I am you, I will not do that. この thatはitでもいい。

I will not do such a thing. でもいい。「私は、そんなことはしないよ」という意味です。
I will not do it.「もし私があなたであるならば、私はそんなことはしないでしょう」の will がここにあります。これは「ただの条件の文」と言います。

 それで、If I am you,  「イフ・アイ・アム・ユー」 、「もし私があなたであるならば」と言うけど、私は、あなたには絶対になれないんです。しかし、これは、「私があなたになる、成り代わる 」ということを「仮定」してしゃべっていますね。 そうしておいて、「私だったら、そんなことはしないでしょう」と言っているわけだ。わかりますね。

 そうすると、ここから、一気に、ぽーんと、高いところに、飛びますよ。飛躍するんです。
この飛躍がわかると、偏差値70に、なるんです。何がそうか、というと。このことは、高校2年生ぐらいの英文法 で習うんですよ。習うことになっている。 今から私が、言うのは、大変、難しい、「仮定法・過去」といいます。それは、

 If I were you, I would not do that. 「イフ・アイ・ワー・ユー、アイ・ウッドント・ドウー・ザット」

これを私が、正確に訳しますよ。
「もし私があなたであるならば、私はそんなことはしないだろうになあ」、「しないでしょうねえ」となる。

 しかしこれはおしゃべり英語ですから、もうちょっと実感を込めて訳しましょう。そうすると、「私があなただったら、そんなことはしないわよ。あなたはバカだなあ」と言っているんです。「おまえはばかだなあ」という意味がこの文には、込められている。この were と would の中に、それが入っている。 このことの恐ろしさを、日本人は気づいてない。

 ここには、相手に対する、嫌味、皮肉、中傷、当てこすり、さらには、脅迫的な言葉遣いまでが、このwereと、would というコトバ(単語。word ワード)に入っているんです。

 wouldと could と should とmight と 四つあって、これらの、現在形は、中学校1年生で習う。will、can、shall、mayですね。 shall (シャル)という言葉は、最近、アメリカ英語では消えている英語だからもう教えたくない。 とにかく普通 will は「でしょう」、can は「できる」、shall は「でしょう」、may も「でしょう」なんだ。ところが、これを、「かもしれない」という変な日本語に訳す。

 過去形というのは、past tense(パスト・テンス)といいます。ヨーロッパ語の。文法理論に、時制(じせい)というのがあって、「その文が、話されているときに、時間の流れ(過去、現在、未来)と時間の幅」のことです。

 will たちは、助動詞で、auxiliary verb(オウギズィリアリー・ヴァーブ)というんだけど。「助」の「動詞」ですね。 「動詞を助する」という意味でしょう。

 過去形の助動詞である、 would、could、should、might を使った途端に、とんでもなく恐ろしい世界に飛び上がるんです。普通の英語国民、ヨーロッパ人、アメリカ人、シンガポール人含めた香港でも、カナダ、オーストラリアとか、英語国民 (ネイティヴ・イングリッシュ・スピーカー)は、これを朝から晩まで、使っているんです。

 だから、前記した、 If I were you, I wouldn’t do that. は、「もし私があなただったら」と日本語で訳して、ここに 「たら」が出てくる。 ここに、「たら、れば」の 仮定的表現があるから、だから、仮定法の文 と日本語では言うけど、これは間違い。これは正しくは叙想法(じょそうほう)といって、「叙述(じょじゅつ)」の「叙」に「方法」の「法」と書く。

 この叙想法(じょそうほう)を、しっかり、教えるのは、実は、駿台予備校の伊藤和夫(1927-1997)の『英文解釈教室』という本だけです。 恐ろしいことだけどね。今でもそうだと、私、副島隆彦は、思う。私が、「英文法の謎を解く」を、書いて、全国の英語学者、英語教師たちに、ショックを与えても、まだ、いまでも、本当の勉強秀才たち以外は、はな垂れのウスノロ君たちだから、まだ、分かっていない。

 ただの仮定じゃないんですよ。 叙想法(じょそうほう)という 難しい日本語の文に変わったのだ。これは、日本の普通の高校英語教育では教えないことになっている。いや、教えられない。なぜなら、英語教師たちが、実感で、しっかりと、分かっていないから。

 今も、日本国の、とんでもない現実、現状です。偏差値70 から上の人たちだけが、伊藤和夫の『英文解釈教室』を読んで、このことを、なんとか、何となく、理解するんです。


伊藤和夫

 これは、恐らく22年たった今でもそうだ、と私は思う。だから If I were you のところは、「俺がおめえだったらよお」となります。そして、「俺は、おめえみたいなバカじゃないから、そんななことはしねえよ」 「でもおまえは(今からでも)するよ、するんじゃないの。おめえは、ホントにバカだからなあ」と、目の前の相手(友人)に向かって、言っているわけ。

 このwould は ものすごく、重要なコトバなんですよ。たったの「ウッド」で一言なのに。だから If I were you の前の半分(従属節=じゅうぞくせつ=という)、が消えても、後ろの文、
I wouldn’t do that. 「アイ・ウドント・ドゥー・ザット」 だけで、「オレ(私だったら、そんなことしないね、でも、あなた(おめえ)は、ばかだから、するんじゃないの」と、いうことになります。ここが、日本人のほとんとどは、みんながわからない。

 どんどん、こういうことを私は、このあとも、言っていきます。疲れたかね? まあ、我慢して、私の話を聞きなさい。

 例文の 主語を取りかえます。I と you を取りかえると、If you were  I (me) だと、ー Iというかmeでもいいけどもー you would not do that.「もしあなたが私であるならば、あなたはそんなことをしないでしょうね」、「でも、私はアホだから、どうしても、やってしまうんだよ(情けない)」となる。

 「その愚かなことを、私というバカはやってしまいそうなんですよ」「どうしようもないんだ」「悲しいよー」という意味が、ここには入っているんです。 自分を主語にして、 wouldやcould、should、might を使ったら、自己慚愧(ざんき)というか、自分に向かって自分で恥ずかしがっている、残念がっている、悲しがっているを通り越して自己卑下(ひげ)である。

 「私はばかだなあ」と、現在の時点で、恥じている。決して過去のことの反省では、ありません! 今、この時点(現在)で、こいつは、やってはいけないことを、やりそうなのだ。 これが、この were と would には、入っている。ここが、重要! 分かるかね。 分かる人だけ、分かれ。他の、凡才、通常人(普通の能力)の人たちは、まあ、このカベは、どうせ、越えられないだろうなあ。 

私、副島隆彦が、これほどに、かみ砕いて、懇切丁寧に、説明しても、どうせ、分からない者は、分からない。それでも、今、このとき、この would、could、should、might の 恐ろしさを、少しだでも、感じなさい。

 このことは大変なことなんだ。だから、お母さんが、自分の5歳の男の子や女の子に向かって、
You will not do it. 「 ユー・ウォウント・ドゥー。ザット」 だったら、簡単だ。「あなたはそれをしないでしょう」と言っているだけ。「やったらダメよ」の意味が少しはっている。

 will not は、短く、won’t 「ウオウント」というんだけど(これぐらいは分かるだろ)、will notで、単なる未来ですよね。「そんなことはしないよね」 なぜなら、 because you are good boy (girl).「なぜなら、あなたはいい子だから」という意味が入っている。

 ところが、これが自分の子供に向かって、

You would not do that. 「ユー・ウッドント・ドゥ・ザット」

 は、「あなたは、それをしないわよね。でも、どうも、やりそうだなあ。このガキは (自分の子ながら、いやになる)」になるわけ。「アナタ、オマエ、これ、しないわよね。もししたら絶対に、許さない。ひっぱたいたる 」という意味が、 この wouldn’t 「ウッドント」には、入っているんだよ。
このことが、ものすごく、微妙で、重要で、難しいの。 だから、数学の微分積分(解析学。かいせきがく)なの。分かりなさい。 副島隆彦からの命令だ。

  You couldn’t do that. 「クドゥント」もそう。「あなたがそんなことをするとは思わないけど、もしやったら大変よ」ということになります。ここでは、can の 「出来る」(能力的に可能、許可されているから可能 に 意味はなくなる。 「やらないわよねー。でも、バカだから、やりそうだなあ。20%ぐらいは。このアホは」と、いう意味になる。

 これを you shouldn’t do that. だったら should 「シュッド」は 日本では、「べき」「~するべき」と教えることになっている。だから、「あなたはそれをするべきではない」と訳す。だいたい、これで、この訳文は、正しい。だけど、本当に本当は 「するべきじゃないのよ、したら許さないからね」で、実は命令に近づいている。 命令 と 禁止の must not 「マスト・ノット」だったら、そのまま、禁止だから、You must not do that. で、「してはだめだ」と「禁止」と言ってる。
だけと、よく似ているけど、 You shouldn’t do that.は、「したらコワイからね、後で 」となります。

 つまり、ここではもう、目の前の相手に対して、警告、脅迫、非難というか、強制 が入ってくるんです。 You shouldn’t do that.  You might not do that. も同じ。
「やらないわよね。ここにあるお菓子を勝手に食べたらだめよ、食べたら後で、あなたはみんなに叱られるよ。みんなで食べるものなんだから」という意味が入っている。

 だからwould、could、should、might の 使い方の怖さ が、日本人は、みんなわからないんです。だから、日本語への訳文も、プロの翻訳家でも、おかしな事になる。おかしな訳をしている人たちがいる。英文科を、秀才で卒業して、プロ(ウ)の翻訳家になっても、そういう人が多い。

 「かもしれない」と、「あなたはそうするかもしれない」と、バカなコトバを使っている人が、ものすごく多い。だから、いつまでも日本人は、英語ができない。実感で分かる英語と日本語のカベの越え方が、分からない。 この would、could、should、might は 、実際の英語世界で、朝から晩まで使われているんです。だから、ここがものすごく恐ろしいんです。

  これと、よく似ているが、偏差値55 (平均的な日本人の知能)でも、できなきゃいけないのは、最初の文に戻ると、If I・・・  の後の、be動詞が、 had been、「ハッドビーン」 になる場合だ。
この been は、「ベン」とほんとは、「ハッドベン」と短く読むんだけど、

If I had been you, I would not have done that . 「イフ・アイ・ハドベン・ユー、 アイ・ウッドント・ハヴ・ダン・ザッツ」

は、would プラス have プラス p.p.(パスト・パーティクル 過去分詞 ) で、「仮定法・過去完了の文」と習う。このように、絶対に、日本では習う。日本全国、どこのバカ高校でも、習う。習うことになっている。 これは偏差値55 あれば、できる。


『英文法の謎を解く』136、137ページ

この ・・・,I would not have done that. は、「もし私があなただったならば、私はそんなことはしなかっただろう」となります。

 ところがこの例文は、「私はあなたではなかったので、私はそのことをしませんでした」というだけのことで、英文の形上は、非常に難しそうに見えるけど。この「仮定法・過去完了の文」というやつは、大して難しくない。これは「 裏切られた過去の事実」というだけであって、be が、had beenになって、後ろの方が would not have done になったからといって、大したことはないんです。

 「裏切られた過去の事実」だから、実際はそれが起こらなかった。だから、しなかった、というだけのkとおだ。これを普通は、日本の高校の英語の勉強の中では、「反実仮想(はんじつかそう)」といって、「事実に反していることを仮に想う」とか、バカな英語教師たちは、今でも、生徒たちに、教えてる。みんな、そのように習ったんだよ、ホントに。

 ところが、その一歩手前の、ここに過去形の、were とか、would が来るとき、もう死ぬほど難しい。

この壁を越えると偏差値70です。これがどれくらい大変なことかというのを、もうちょっと別の英文でいうと。

「1+2=3」というのは、英文を、実際に、読むときは、 one plus two equals three.でいいんです。

 でも、これを英語国民の小学校教育では、2と1がひっくり返って、
If you add two to one、 と読ませる。 2たす1ですね。 「あなたが2を1につけ加えるならば、you will getでもhaveでもいいんだけど、 you’ll get three. 「ユーウィル・ゲット・スリー」

「あなたは3を得るでしょう」 これは「ただの条件の文だ」。わかりますか?。 何も、仮定なんかしていないんだよ。

 これを頭の真にいい人向けの、本当の、英文法学では、直説法(ちょくせつほう。インディカティブ・ムード indicative mood )といいます。これがわけわからない。今のたいていのアホの、日本人の英語教師たちは、今でも、これを、「直接法」だと、思っている。そういうアホが、山ほどいる。

 おそらく、 日本の中学、高校の、英語教師の8割は、今でも、「直説法(ちょくせつほう)」というのが、分かっていない。だから、それと対立関係にある、ぶっ飛んだ世界を表現する、「叙想法(じょそうほう)」との区別が付かない。

 法というのは、mood ムード という文法理論だ。これは日本人によくわかりません。難しい英語文法理論で「方法」の法と書いて、ムード mood という。「ムード奏法」と、音楽に仮託して話すと、少しは、分かるかな。そのうち、私が、また、この 「mood (ムード 法)理論」についても、教えます。

 だから、「3+2は5」 は、「もしあなたが、2を3に足すならば、あなたは5を得る」でいい。

If you add two to three , you will get (have) three .

だ。 ところが、この文の If you・・・ の 文 、即ち、 if 節 「イフ・クローズ」 ( if clause 、conditional clause 条件節(じょうけんせつ) ) すなわち、部分の文(ぶぶんのぶん)の動詞を過去形にして、 

(4) × (誤文) If  you added (アッデド) two to one , you would (ウッド) ・・・

と書いたら、この文は、大間違い。 こんな英文はあり得ない。書いてはいけない。ということになります。 分かりますか?

ここが、分かれば、あなたは、英語(他のヨーロッパ語 も) の文 というものが、分かったことになる。 私が今、言ったこと が、分かれば、「ただの事実の文」 と「叙想法の文」の区別が付く。 ここで、区別 が付く、か、付かないか、で、その人の知能が、分かる。ここが、難しいのです。 

ここが分かれば、英語国民( ヨーロッパ近代人でもいい )が持っている、重要な、思考の回路、脳のしくみ、というものが分かる。 私が、このことで、このあとも書いて説明することが、分かってくれれば、ありがたい。 ここで、何か、ハッと気づいて、「そうか、事実の文と 空想の世界 に 飛んでいって、しかし、そのことを目の前に、自分に話す、ということは、嫌み、皮肉、誘いかけ、軽い命令、軽い脅し の 表現なのだ」と、気づく。


『英文法の謎を解く』126、127ページ

あなたが、東アジア人の土人(原住民)として人生を終わるか、それとも、 モダーン・マン( modern man ヨーロッパ近代人= 今から、500年前の 西暦1500年代(16世紀)に、始まった 思考   )が、分かるかの、瀬戸際となる。 

この(4)の 英文の 例文 (誤文。間違いの文。書いてはならない文) の 動詞 ( verb ヴァーブ)が、過去形の added (アッデド。付け加える) となり、 主節(しゅせつ)の方で、助動詞 would (ウッド)に変えた文を、 無理矢理、なんとか、かんとか、訳してみると、次のようになる。

「もしあなたが2を1に足すと、足すならば 、あなたは 3を得るだろうになあ。3を得るんだけどなあ 」となる。ここで、日本人は、ピンとくる。それは、おかしな日本文だ、と。この日本語訳 を 口に出して読むと、 「1足す2は、3なんだけどなあ」とか、「3になるんじゃないの。よく分からないけど。確信は、持てないけど」 と、なって。「 アラー。ヘンだなあ。なんか、ヘンだなあ」と、それが、おかしいことと気づく。誤訳(ごやく)ではないのだ。この訳文自体は、ただしい。間違っていない。  その前の、間違っている(4)の例文だ。 英文の例文の方が、誤文(間違った文。書いてはならない文)なのだ。

ここでは、「・・・だろうになあ」などと、訳す文を書いてはいけない。絶対にいけない。 なぜなら、 「2足す1は、必ず、絶対に、3 」だからだ。これは、「事実の文」だ。仮定法(かていほう)の文とか、ではない。 それを、日本では、 If you ・・・と、 if節(いふせつ)を使っているから、

「この文は、仮定法の文だ」 と 日本国民のほとぼど、100%が、思い込む。現に思い込んでいる。 このことが、大間違い。 悪いのは、文部科学省だ。 文部科学省が、 英語公(こう)教育で、ウソを教えているからだ。 文科省の中で、他のいろいろの教科、学科の中の一つとして、国民の英語教育 を管理し、全国の英語教師たちを、上から監理(かんり)している、 教育官僚の 学者たちの、知能が、足りない。言語(げんご languege ランゲッジ)研究が、低劣、能力不足だからだ。 

  国民公(こう)教育を 指導する、能力の欠如、だからだ。 英語学者のくせに、英文法(ヨーロッパ語の文法)を 教える力が無い。彼ら、ボンクラ官僚学者たちが、低脳のままの集団だからだ。

だから、今でも、日本の英語教育は、世界一、ヒドい。 どうしようもないぐらい、低劣で、愚鈍。そして、このことを自覚している 責任者たちが、いない。 だから、私、副島隆彦が、20代の時から、ずっと、怒って、本に書いて、告発(こくはつ)してきた。

 If clause = if 節 、「もし・・・ならば」 の 文の形を、しているものは、それは、仮定法過去の文だ、と、日本の 文科省の公認の 英語公(こう)教育では、教える。 そうではない。違う! それは、「ただの条件の文」あるいは、「事実世界の 文」と言うのだ。

「 A という物質 に B という 化学物質を 加えると C という 物質になる、変化する」 というような、事実の世界、 サイエンス( 近代学問)の世界の、事実に関わる文なのだ。

この ” If S V ・・・, (コンマ) S V ・・・ ” という 文の形が、このままコンピュータのOS(オウエス。 これが、コンピュータの土台になっている。マシーン言語と呼ばれるもの ) を作っている、 アルゴリズム である。 

 この If SV , SV・・・という記述法で、コンピュターに書き込むことで、世界中の、コンピュータも、PCも、スマホも、 全部、動いていて、ソフトウエア も、全部、この書記方法で、出来ている。 システム・エンジニーア( SE エスイー)と、呼ばれる人たちは、この書記法を、知っている人たちであり、この言語を、コンピュータとしゃべっている人たちだ。

 先ほどの英文の 例文に戻って、それに対して、「それをやりさえすれば、いいのにねえ。あなた自身のためになるのに。でも、アナタは、どうせ、しないでしょうねえ。バカだから 」 と、目の前で、相手に向かって、言う 場合は、それは、叙想法=じょそうほう=の文 (サブジャンクティヴ subjunctive mood の文)という。 

この場合は、文の形 が、前の方の動詞は過去形になって、うしろの方の 動詞 have や get に would (ウッド)という助動詞が付く。 そうすると、「バカだなあ、お前は」と、微妙な世界に飛んで行ってしまう。そういう 人間世界での、情感の籠(こ)もった、言い回しになる。かつ、「そうしたらいいのに。どうして、やらないの」 あるいは、「きっと、そう、なんだろうなあ。でも自分には、自信が無い」 というような時に、この 「推量、推測、推断」の would が、使われる。

 英文の中に出現する。 そして、こう言う微妙な言葉遣いの コトバを、私たち日本人も、朝から晩まで、日本語(日本文)でも、現に使っている。

 だから、上記の (4)の、英文は、× であり、書いてはならない。書いたら、誤文、大間違い (wrong ウロンブ)になる。 なぜなら、それは、「もし、あなたが、2に1を加えたら、3になるだろうになあ」というオカシナ文になるからだ。「2足す 1は、3」だ。 これは、断定形にして、決めつけて、はっきりと言い切るべき「事実の文」「サイエンス(近代学問)の文」だ。

 「1+2は3です」 という文は、たとえ、if clause イフ・クローズで書かれていても、それは、「ただの条件=節=の文」だ。 事実を表明している文だ。算数(数学)の世界の、事実の文だ。事実、fact は、事実だけをそのまま、明確に書く。
1に2を足したら必ず3、と決まっている。決まっているということを事実という。だから、ここでは 動詞を、ed にしたり、 will を would に 変えることをしてはならない。出来ない。やったら、誤り、間違い、正しくないこと となる。

ここで、どうして、副島隆彦が、こんなにしつこく、執拗に、繰り返し、クドクドと同じことを書くのか。 このことを、読者の皆さんは、ここで、本気になってください。私、副島隆彦が、これほどに、本気で、何かを伝えようとしているのだから、これまでに、私の本を真剣に読んできた人たちは、ここで、いい加減に、「ああ、分かった。分かった。 微妙な使い方をするときの、 would ね。 私は、勉強秀才だったから、知っていたよ」あんどど、偉そうな、態度にならないで、ここは、もっと、時間を掛けて、自分の脳(頭。思考、 thinking ability スインキング・アビリティ)を、もっと使って、考えなさい。

×「1に2を足したら、3になるのになあ」 という 日本文を使ってはならない。これは 有ってはならない、ということが、ようやく、分かりますか? なぜなら、1+2は、必ず =3 だからだ。 絶対的に、 3だ。 これを、 「3なのになあ」 「3になるかもしれないなあ」などと、言うような文を、言ってはならない、書いてはならない。

ここの場面では、「そんなことをしたら、あなたは、きっと怖い目にあうよ」よとか、「おまえはバカだなあ」という文とは、全く、違う。世界が違う。もう、そろそろ、わかってほしい。ここが、分かれば、「ただの条件の文の 世界 」 と、「スーッと、微妙な言い方の世界 に 飛んで行く、 叙想法=サブジャンクティヴ =の世界 」 との 違いは分かってくる。 ここが、原住民(土人)と、ヨーロッパ近代人(モダーンマン)の違いだ。

ここで、副島隆彦には、ひとつ 業績が有る。 私は、if 節 や、 When S V  「あなたが、○○するときに、 や Because  S V ・・・ {なぜならば・・なので} のような、 接続詞(せつぞくし。コンジャンクティヴ)を使う文で、 この 節 (clause
クローズ) のことを、 「部分文(ぶぶんぶん)」 、「ひとつの文(センテンス)の中の、部分の文」と名付けた。 これは、日本英語学、日本英文法学への、私、副島隆彦の貢献であり、業績だ。 たった、この 「 節(せつ)というのは、部分の文だ」 と、私が、自著『英文法の謎を解く』(1995年刊) の中で、書いて説明しただけのことで、これで、私の、日本国民への、大切な、プレゼントだ。 私が、今、書いていることを、分かる人は分かる。日本の英語教師たちの中に、500人ぐらいは、私、副島隆彦のこの主張を、深刻に、真剣に受け留めた人たちがいる。だが、この人たちは、私には、近寄って来ない。勝手に、自分の知識として、このあと、使っただけだ。

 もう一度、説明する。 接続詞 というのは、 一番単純なものは、and 「そして」 や but 「でも、しかし」 や so 「だからー」「それでね」 のような、接続詞もある。これは、「 文(正確には、部分の文だから、節)を繋いでいる コトバだ」 と、分かる。これを、等位接続詞(とういせつぞくし)と言って、簡単な使い方をする接続詞たちだ。If S V・・・ のような、「従属節(じゅうぞくせつ)を含む文」とは、違う。

それでも、「接続詞で、文を繋(つな)ぐ」 という意味では、同じことだ。 だから、私、副島隆彦が、 「節(せつ)とは、ひとつの文(ぶん。センテンセス)全体の中の、部分文である」という 定義を、与えたことは、これだけでも、私の業績だ。 文化勲章に値するのだ。 いや、たったこれだけではない。 他に、数十個の、重要な、発見が、前述した、私の本『 英文法の謎を解く』 (ちくま新書。1995年刊。さらに2冊あり)には、書かれてる。 今日は、これらの、私の 発見、業績のことは、もう、説明できない。    

 しつこく執拗(しつよう)に、元に戻ります。

さっき、非難、中傷、嫌み の文だ、と言ったでしょう。(5) I wouldn’t do that. 「アイ・ウドント・ドゥ・ザッツ」 、「私だったらそんなバカなことしないね (お前とはちがうんだよ)」は、 目の前に、話している、相手、友人、がいる。 

これは、「私だったらそんなことはしなかっただろうに」 の (6) I wouldn’t have done that.「アイ・ウッドント・ハヴ・ダン・ザッツ」の、 「私だったら、そんなことは、しなかっただろうに」 とは違う。 これは、「裏切られた過去の事実の文」であり、すでに、過去のことを話している。 これは、高校2年生で、まじめに勉強している人たちなら、全員、知っている。 「仮定法過去完了の文」と、日本の全国のすべての高校で、教えられている。この(6)の文を理解することは簡単だ。

しかし、これと、(5)の 文は、根本から違う。(5)は、目の前の相手に向かって、「今」言っている。過去ではない。現在だ。 それを、日本の英文法学では、(5)は「仮定法過去の文」だ、と教えている。これは、間違いだ。誤りだ。 日本の英文法学を、訂正、しなければいけない。学会の内部での、間違いを、公然と、日本の英文法学者たちが、恥さらしを覚悟で、指摘し合わなければいけない。
この(5)の文は、「 私だったらやらないよ。でも、どうも、あなたは、それをやりそうだよね。バカだからやるんじゃないの」と、友人である相手に、面と向かって、言っている。 友人や家族だから、言えるのだ。「私だったらしないわよ」と言っている。「でも、あなたは、やりかねない。私は、親身になって忠告しますよ」と、相手の目の前で、言っているのだ。これが、I wouldn’t do that.  「アイ・ウドント・ドゥー・ザッツ」 だ。

 自分が、今、相手に、嫌味(いやみ)を言っいると分かっていてでも、親友を柔らかく脅してでも、助言し、忠告しようとしている。それでもなお、相手は今からそれをしようとしている。2割ぐらいは、まだ、やりそうなのだ。 「私だったらやらないわ」の、この「たら」のところの恐ろしさが、日本人は真剣に考えていない。自分の国のコトバだから、どうにでも、自由に使える、と思っている。 ここが、外国人である我々にとっての、英語 の勉強 の恐ろしさだ。

 だから、この、「バカだなあ、おまえは」という言葉を、私たち、日本人も、朝から晩まで使っている。「 それをさっさとやったら。どうしてやらないの」と。 「それはあなたバカかだからだよ」と、面と向かって、言っている。私たちは、本当にこうしゃべっている。人間は、朝から晩まで、こうやって、お互い言葉のやりとりをしている。

 だから、しつこく書くが、日本の英文法では仮定法といっているけども、本当は何かを仮定しているんじゃない。 仮定(かてい。コンディショナル)なんかしていない。相手への、嫌味、中傷、皮肉、どうかすると軽い脅しとして使っている。あとは、ややバカにしている。それを自分で自分に向かって使ったら、 I am stupid.「私はバカです」と言っているに等しい。 

それが、 (7) I would do that . 「アイ・ウッド・ドゥー・ザッツ」

「オレは、バカだからなあ。どうしても、たばこを、吸ってしまうんだよ。やめられないんだよ」と、使う。私はアホです、という意味のときにも、このwould、could、should、mightを使う。

 だから (8) I might not do that. を、×「私はしないかもしれない」と 「かもしれない」で訳す。私、副島隆彦は、この「かもしれない」が、大嫌いだ。 日本人は、今こそ、「かもしれないな」という、オカシナ、ヘンな、言葉を、捨て去るべきだ。徐々に使わないように、消し去ってゆくべきだ。日本語から、「かもしれなーい」を、撲滅して行くべきだ。

(8)の文の 正しい訳文は、「私は、しないだろうなあ」「私は、それをしないでしょう」でいい。 でも×「するかもしれない」なのだ。 だから、私たち日本人は、麻薬のように、この、いやらしい、「かもしれない」から、離れられない。他に、代替する、適切なコトバを、私たちは、まだ、見つけることが出来ない。

I may not do that. だったら「 私は、そんなこと、しません」 「しないでしょう」でいい。 mayでもwill でも、ほとんど同じだから、 I  will  not  do  that. でも同じだ。 それに対してI might not do that. は「私は、たぶん、そうはしないだろうけど。でも、やりそうなんだよ。バカだから」と、自分に向かって言っている。ここの微妙なところが、人間という生き物にとって、朝から晩まで非常に重要だ。

 もう一つ、例文を、今度は、『英文法の謎を解く』の中からのものを、引っ張り出して、使ってみます。 これ以上やると、もう皆さんが、うんざりして、嫌になるだろうから、あと一回だけにします。 我慢して、私に、付いて来なさい。

この本の131ページの、 例文 ⑦ で、 

If it is fine tomorrow , we will go for a drive .

「もし、明日、晴れるならば、私たちは、ドライブに行きましょう」という文。これを普通、「晴れたら」と、安易に、「たら、れば」で訳すからいけない。正確に、「晴れるならば」としなければいけない。 「たら、れば」を、いい加減に、無自覚に使うから、英語の文が、正確に読めないのだ。 「晴れたら」とやらないで、「晴れる『ならば』 」と、私は、現在形で訳しているでしょう。「私たちはドライブに行きましょう」 「行くでしょう」で、この 「でしょう」が、willです。

 ところが、このisを、were 「ワー」に変えられるか、といったら、変えられるんです。If it were fine tomorrow, ・・・・ と変えることは出来る。

ここで、were「ワー」が、正しい英文の書き方なのだけど、普通、英語国民は、おしゃべりのときは、If it was  「ワズ」 と言う。 学校の教師や、高学歴人間たちは、wereと書かなきゃいけなん、だけど、 今では、ジャーナリストや新聞記者レベルだと、wasを使う。平気でやります。崩れているんですよ。

 If it was fine tomorrow , we would go for a drive.

は、「明日、どうも雨が降りそうなんだけど、もし晴れるならば 、ドライブに行きましょう」だ。 これで正しい訳文だ。 これを、敢えて、「 行くんだけどなあ」 と、まで、実感を込めて訳してもいい。優れた翻訳家は、周囲の情景に会わせて、そのように、 この would を 正確に、訳している。

we would go for a drive は、 「私たちはドライブに行くだろうねえ。でもどうも、雨が降りそうだなあ。だったら行くのはやめようね」という意味が、この wouldに入っている。この、 we would go for a drive. に入っている。だから、そろそろ、皆さんは、この wouldの恐ろしさをわかるべきだ。 ここがわからないと偏差値70にならない。

 それに対して、今から言うことは、偏差値55の人でわかる。ちょっと頭のいい子はわかる。
If it had been fine yesterday , we would have gone for a drive.

これは、いわゆる、仮定法・過去完了の文 ですから、「もし昨日(きのう)、晴れていたならば、私たちはドライブに行っていただろうに」ですね。 「行くだろうになあ。行くんだけどね」とは違うでしょ。 「行っていただろうに、実際は行きませんでした」と言っているだけで、ここには嫌味、皮肉、中傷や、不安な感情の揺れはない。「昨日、晴れていたら行っていただろうに。実際は、雨になったので行きませんでした」と言っている。

ここには、「するのになあ」はない。 ここが大事。 感情の揺れがない。嫌味、皮肉、中傷もない。これは「ただの裏切られた過去の事実」だ。それに対して、 If it is ・・・のisが、were になって、 

  If it were fine tomorrow , we would go for a drive .

と言ったら、目の前の天気が、どうも雨が降りそうなのだ。それでも、まだ、今は、 fineで、晴れている。だから、「このままの天気が続くならば、行くだろうねえ」と、wouldを使って言っている。 ここは 、 would、could、should、might、の4つだったら、何でもいい。この4つのうちのどれが入って、使ってもいい。 ここでの、「私たちは、するだろうなあ」の「なあ」が恐ろしいんです。

 ここがわかると英文というものの、最高度での、ずむかしい所を越えて行ける。
これらの例文で使われている、if節(if clause 、条件節 の部分文 =ぶぶんぶん=)がを、使わない=書かない、で、後ろ半分の帰結節(きけつせつ) の、 we would go for a drive . 「ウイ・ウッド・ゴー・フォア・ラ・ドライブ 」だけでも、微妙な表現として使われている。ここがわかると、英語の一番難しい壁を越えたことになる

 今、私が、言ったことは、日本の勉強秀才たちはわかっている、ようで、実は彼らも、18歳ぐらいでは、わからない。 ただし、おしゃべり英語の使い手たちは、この壁を「体で、実感で」越えているようだ。 文法理論なんか抜きで、バイリンガルとしての、合いの子さんとしての、自分の人生環境で、おしゃべり英語として、壁を越えている。

こういう人たちを、「英語が、ペラペラの人たち」とか言うのだが、本当にそうかなあ、と、私、副島隆彦は、疑っている。 やはり、きちんと、これらは、理屈(理論)として、英文法を、学んだ人でないと、この苦労のカベは、越えられないだろう。

 日本人でも、耳がものすごく、よくて、いわゆる、音楽脳(おんがくのう)を、して、英語国民の 発声(はっせい)している、音声(おんせい)と、音(おん。フォニックス)を、聞き分けて、聞き取れる人たちが、このカベを越えているようだ。だが、そういう人は、極めて限られている。 10万人に1人ぐらいだろう。 この、問題は、大半の日本人にとって、絶望的に、困難な問題だ。

 さらにしつこく、would 「ウッド」に戻る。 You wouldn’t do that. は、「あなたはそれをしないわよね。やったら大変よ」と、ちょっと脅迫が入っている。 
You shouldn’t do that . も、ほとんど同じだ。 これは、 「あなたはそれをやるべきじゃない」で 、ほとんどの日本人は、出来る。これでいい。だが、より正確には、「あなたはそれをやるべきではないんよ。もしやったら、叱られるよ」なのだ。だから、軽い脅迫、脅し、そして、「やるなよ」の、 命令の文 に、限りなく近づくのである。 
だから、 = You must not do that . 「 おまえ、それをするんじゃないぞ」とほとんど同じだ。

 You couldn’t do that. も、同じだ。 それを、「あなたはそれをできなかった」と、高校2年になっても、訳す人は、日本の英語教育では、落ちこぼれになる。だが、大半の、95%の日本国民は、このように「 あなたは、それをすることは出来なかった」とやる。 誰も、この 訳の 何が間違いなのか、教えてくれない。教えてくれる能力が無い。 公立学校の中学校の 英語教師たちでも、この程度の 低脳(てのう)が、今も、大量に、たくさんいる。

日本人のほとんどは、couldを使っていると、「できる」の過去形だと思っているから、I couldn’t do that.は「私はあれができなかった」と英語教師たちでも訳す。 前後の文脈(ぶんみゃく。コンテキスト)から、この英文を、「私は、そんなこと、しないよ」と訳せる人は、相当の、頭のいい人だ。

I couldn’t do that.は、実感を込めた、生の英語で、その場で使われる時は、I might not do that. と同じだ。 「私は、おそらく、そういうことはしないでしょう(それでも、わずかに、そうする可能性はある)」なのだ。

You may not do that . なら、 「あなたは(おそらく) それをしないでしょう」で、このmayは、 will と ほとんど一緒 だ。 近い未来のことで、「でしょう」と言っているだけだ。 「だろう」でいい。 それに対して、 You might not do that . は、「あなたはそれをしないだろうね、でもやるんじゃないの。やったら大変だよ。困るのは自分だよ」という意味が入る。

 このようにして、would、could、should、mightの恐ろしさが、ようやく、日本人は、分かる。それは、私、副島隆彦が、しつこく(執拗に)、この英語のコトバ問題に、こだわって見せるからだ。 この would、could、should、mightは、日常の英文の中で、いっぱい使われている。NHKの英会話のテキストや、 同時通訳の人たちでも、この 壁を越えている人と越えていない人がいる。 「あなたはそれをしないかもしれない」とか、ヘンな訳す人がプロ(ウ)にも、いる。

 それに対して、上気のの英文を、「政府は、それを しない可能性があります」と、わざとバカ丁寧に訳すこともある。法律の文章は、どうしても、そのようになる。 
最近は、この would  を、「・・する可能性がある」 と訳すことで、「・・かもしれない」を使わないで、回避する同時通訳の人が、出てきている。 「かもしれない」が、気持ちの悪いコトバだと、分かっているからだ。 

だが、今も、大半の、同時通訳者 (サイマルティニアス・イインタープリター)と 翻訳家(トランスレイター)は、まだ、この「かもしれない」を、廃語(はいご。アブソリート・ワード)に出来ないでいる。捨て去ることが出来ない。私、副島隆彦でさえ、捨て去ることが出来ない。 would は。 「だろう」で「でしょう」でいいのだ、と突っ張り通すことが出来なくて、困っている。

日本語ペラペラ風の外国人の中に、 「かもしれない、かもしれない」と、すぐに使う人たちがいる。あれは、どうも、耳障(みみざわ)りだ。日本語を実感でわかっていない。合いの子(混血児は、もう、差別語か?) で育って、頭のいい人たちだけが、このカベは、越えている。 would not do を、 「しないかもしれなーい」と言う、嫌な日本語を、私たちは、もう、廃止にすべきだ。 「しないだろう」「しないでしょうね」でいいんのだ。

 「しないでしょうねえ」の「ねえ」のところが、わかっているかどうかが、英文を読んでいくときものすごく大事だ。「かもしれない」とか、「かもしれなかった」という日本語は滅ぼしたほうがいい。ニュース番組を見ていても、今も、朝から晩まで「不確かなことや、曖昧(あいまい)表現や、慎重であることばっかりで、表現トラブルを避けるために、言い切りや、断定を避けるために、NHK は、やたらと、「であるかもしれない」で文末を終わらせる。もう、それは、変な日本語だ。 言い切りの、断定でいい。 あるいは、せめて、「でしょう」でいい。

 ところが、この私でも、文章を書いていて、どうしても、「かもしれない」を使う。嫌なのだが。 「明日、首相は、その件について、政府見解を発表するかもしれない」と訳してはいけない。「発表するでしょう」でいい。それを、「発表する可能性がある」とか訳すようになった。 何とかして、この 不確かなことへの、表現の 壁を越えようと思って、「の可能性がある」という日本語が現在、多用されるようになった。これも、どうもよくない。

would、could、should、might への日本語の、ピタリと決まる、適切な表現を、日本国民が、これから、売ろうして、皆で、造語(ぞうご)して行かなければいけない。

 もう、これ以上、難しいことは、説明したくないのだが。 私は、昔、英文法の本の他に、ドイツ語文法の本とフランス語文法の本を、かなり 調べた。 そうしたら、conditional( コンディショナル) という言葉と、subjunctive (サブジャンクティヴ)という言葉とconjunctive ( コンジャンクティヴ)という言葉は、、ヨーロッパ語の、各国の文法理論で、違っている。本当は、統一すべきことなのだ。 

それぞれの国の文法学者 (権威的な、典型的な、御用=ごよう=学者たちだ)という愚かな連中がいて、天才的な言語学者が出現してくればいいのだが、今は、そういうヨーロッパ人もいないようで、やっぱり頑迷に、愚か極まりない、「それぞれの国語理論」を作っているようだ。

フランス人で、フランス語文法理論とかだけ、やっているフランス語文法学者は、やっぱりバカだ。日本の国文法(こくぶんぽう)学者たちが、バカなのと同じだ。 この権威を振りかざすコトバ学者たちは、皆、一緒で、 自分の国の言葉だから、何とでも自分たちの実感に合わせて、自分たちで勝手に文法理論をつくっている。 外国人から見たら非常に迷惑ということを平気でやっている。

 だから、例えば、古くからの、英語文法が、築き上げた、 subjunctive mood 「サブジャンクティヴ・ムード」 「接続法(せつぞくほう)」を、 すべて、 conditional ( コンディショナル 「条件法」)で、まとめ直して、すべてを、これで、片付けおうとする、イギリス人の英文法学者たちがいる。大変、迷惑だ。彼ら自身の、学問犯罪だ。

ドイツ語文法理論でも、旧来の 「接続法」を、 conditional で、一括(ひとくく)りにしようとしている。  

駿台の伊藤和夫の本に載っている「叙想法」(サブジャンクティヴ・ムード)は、「接続法(コンジャンクティブ・ムード)」の一部、一種なのだ。 私、副島隆彦のコトバ、表現では、「部分文と、部分文をつなぐときに、生じる、コトバの使い方のルール」 だ。

「もし私があなたであるならば」と、ここで、始めから嫌味が入る。ここのところを叙想法の文という。 If I were(was ) you , だ。

 私はあなたという人間になりかわることはできない。でもそれを、脳の中だけで想像で情景をつくるから、 If I were you で were という過去形の言葉を 使うことで、「時間差攻撃」のようになって、そこで、異次元のことを表現することを可能にした。

これを、動詞が過去形だから、過去形の文だ、と習うからいよいよ頭がおかしくなる。これは時間軸の、過去、未来とは違う。 それ自体が、空想の世界に飛んでいって、移っている。すなわち言葉が加速(アクセラレイション)している、あるいは微分(びぶん。ディファレンシエイト)している、ということです。

 別の世界にぶっ飛んでいる。別の世界に飛んでいる、ところが、それを、目の前の相手に向かって、それを使っている。 だから、それが本当は、非常に難しいの表現法なので、数学の微積(びせき)に等しい、と私は、ずっと主張している。こで、「あれ? たしかに、ヘンだよね」 と、 私の読者が、気づいてくれると、ありがたい。ここで。ポ―ンと、別の世界へ飛んで「 私だったらしないだろね」と、言っている。このことが分かると、偏差値70から上になる。勉強秀才かつ、生来、ずば抜けて、頭がいい人間ということだ。普通の人間には、この 「ポーンと別次元に飛んでいる」と分からない。

 このことが分かることが大事だ。ところが、この「難しい理論」を、いわゆる、英語ペラペラ人間たちは、理論抜きで、体で、生活実感で、超えている。しかし、彼らは、逆に、日本語のほうに、同じことを、移しかえるときに、大きな困難を感じるだろう。

 だから、ドイツ語文法理論、フランス語文法理論と 英文法理論で、それぞれ、呼び名が違う。Conjunctive  mood は 「接続語」 と訳す 。 接続法については、もう、もう、今日は、説明できない。 接続語は、 andとbutとtherefore(なぜならば)とか。あるいはwhen「の時」とかbecause「なぜならば」とかを、使う文だ。簡単に言えば、接続詞を使う文のことだ。 

この conjunctiveと subjunctiveというところに、まだまだ、秘密がある。もう、これ以上やると皆さんの脳に大変な負担にかける。だから、初めに戻って、英語の文では、 would、could、should、might の 使い方がが、どんなに大変かということに少し気づいてくれれば、その人は、その人は、大変に重要なことに気づくのだ、で、ひとまず、終わりにします。

(続く)

副島隆彦 拝  

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