「1744」 映画『マルクス・エンゲルス』を見た感想を書きます(第1回・全3回) 2018年5月9日

 副島隆彦です。今日は2018年5月9日です。
 今日は、『マルクス・エンゲルス』という映画を、私は、2月に、試写会で見ましたので、それに対する映画評論を話します。The Young Karl Marx が原題ですから、「若き日のカール・マルクス」という映画です。日本語のタイトルは「マルクス・エンゲルス」になっています。


『マルクス・エンゲルス』

 この映画は世界の歴史上の共産主義という思想をつくった2人の大思想家の話です。よくもこんな大作の素晴らしい映画が、今ごろできたかと、私は驚いています。この映画はカール・マルクス(Karl Marx、1818-1883年)の生誕200年記念ということでつくられました。


カール・マルクス(左)とフリードリヒ・エンゲルス

日本では2018年4月28日から6月15日まで東京の神田神保町にある岩波ホールでロードショーです。岩波書店という、今は大変潰れかかって苦しいけれど、日本の大正時代からの100年間の社会主義運動や労働運動の総本山みたいな感じで、東京大学出版会よりも名前が売れて、日本の左翼運動の理論とそして思想の元締めみたいな出版社です。


岩波ホール

※岩波ホールの映画「マルクス・エンゲルス」関連ページへはこちらからどうぞ。

 私も岩波文庫やら岩波から出ている本に大変お世話になってきた。しかし1960年代から日本共産党と若者たちとの間の激しい分裂があって、私はその若者たちのほうの流れに入っているので、日本共産党系と仲が悪かった。岩波書店はあくまで日本共産党的な体質をずっと残しました。

 まあ、それはいいんだけど、この映画をどういうふうに評論・評価するかと、非常に難しい。ただ恐らくこの映画は、大変な映画なんだと考えなければいけない。すなわちカール・マルクスは1818年に生まれて、ロンドンで64歳で死んでいます。1883年ですね。盟友であったフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820-1895年)は2歳年下ですが、さらにマルクスよりは12年長生きして1895年まで生きています。


映画の予告編

ということは、20世紀に入る直前の時代です。マルクスについて語るというのは、私の14歳ぐらいからの歴史と重なるわけで、ここから先は日本知識人としての副島隆彦の50年にわたる私の個人史ではなくて、マルクスたちの本を読んできた私の歴史ということになります。だから東アジアの外れの日本の知識人層にマルクスとエンゲルスが与えた影響についても語らなければいけない。

 それで恐らくこの映画は、今の中国の若い知識層の人たちにものすごく受けるのではないかと思う。爆発的にこの映画は評判がじわじわと上がっていくはずです。マルクス主義、共産主義は、全面に近いぐらいに否定されて、嫌われて、日本社会の表面からは消えたような状況になっている。だからこそいいんだというのが副島の考えで、全てが焼け野原になって燃え尽くして、全てが破壊されて、家の土台も残っていないぐらいに壊されて、何もない遺跡みたいになってしまったところから、また新しくマルクスの思想が芽生えてくると考えるべきです。


マルクスの墓に詣でる中国人たち

 さすがにこの映画『マルクス・エンゲルス』は、知識人しか見ないだろうし、意味は理解できない。それでも日本にもまだ20万人やそこらはマルクスの思想を引きずりながら生きている、若い30代40代の学者たちがいるはずです。その背景には500万人ぐらいの、60代70代になったじいさんたちがいる。80代もいるでしょう。

 彼らの世代に左翼思想、社会主義思想の形でまだ息づいていますから、決して少数派の思想ではない。だから日本の知識人たちの思想の根幹のところをつくった男の話ですから、これは実は大変な映画なんです。

 知識・思想などに何の興味もない大衆庶民には縁がない世界ですから、あまり私も彼らにこびを売ってわかりやすく説明する気ももうありません。ただ、1843年のシーンからこの映画は始まるのですが、1843年と言われても、日本の普通の人には何の意味もないわけで、中国でアヘン戦争が終わったころですね。


アヘン戦争の様子

 大英帝国であるイギリスが大変悪いことを東アジアで行ったのです。それでアヘンを無理やりたくさん中国人に買わせて、吸わせて、中国帝国はぼろぼろになっていったわけです。その20年後ぐらいから日本は幕末の動乱に入っていく。1853年、54年のマシュー・カルブレイス・ペリー提督の日本遠征のときからと言うべきでしょうが、同じそういう時代なのです。だからマルクスたちの政治運動というのは、マルクスが24歳のときから始まっているわけです。

 この話をする前に、やはりこの映画をつくった監督のラウル・ペック(Raoul Peck、1953年-)という人物について、私の驚きを書いておかなければいけない。ライナーズノートに、この監督ラウル・ペックの言葉というのがあって、後でこれは引用しますが、この人はなかなか鋭い男です。よくもまあこんな映画をつくったものだと驚く。共同脚本家であるところのパスカル・ボニゼール(Pascal Bonitzer、1946年‐)という人と2人で一生懸命構想を練ったんですね。お金は誰が集めたかはわかりません。ただこの時期にこれだけの映画ができたということは、驚くべきことです。


ラウル・ペック


パスカル・ボニゼール

 このラウル・ペックという人は、何と西インド諸島というか、カリブ海のハイチで生まれています。ハイチの海側といったら、行ったこともないからわかりませんが、カリブ諸島です。ここにはなぜかフランス人やドイツ人が暮らしています。植民地にして、そこの支配者として生きていました。

 当然、ハイチは、きれいな観光地で、海辺の高級リゾート地のようになっている。しかし多くの貧しい原住民もいるわけです。ペックは、ここで生まれて育った男で、ベルリン工科大学を出ているので、インテリです。お父さんの仕事の関係かどうかわかりませんが、コンゴやアメリカ、フランスでも育つとなっている。それで、ドイツ人なんですね。ところがハイチの文化長官も、1996年にしている。かつ2010年にパリのフランス国立映画学校の学長にもなっている。だから特殊な人物だと思います。

 もう70歳ぐらいになると思いますが、このラウル・ペックという人が、自分がドイツに帰ってきて、ドイツの大学で一生懸命カール・マルクスの思想をずっと大学で授業を受けたと書いています。だから年季の入ったマルクス主義者なので、ここは驚きです。

 だからこの映画を見て驚いたのは、ドイツ語とフランス語、そして英語まで出てきまして、場面場面で言語がまざっているんですね。半分ぐらいはフランス語で話しているんだけど、マルクスもエンゲルスもドイツ人ですから、奥さんのイェニーともドイツ語で話している。ところがパリで政治活動家や知識人たちと話すときは、フランス語でまくし立てているわけです。それでこのカール・マルクスを演じた俳優であるアウグスト・ディール(August Diehl、1976年-)は、40代くらいかな、ドイツ語でしゃべりながら途中からフランス語でも話せるというような人間です。当然、英語ぐらいはできる。


アウグスト・ディール

 この映画のつくりのおもしろさは、三つの言語がまざりながら場面がずっとつくられています。どういうことかというと、ヨーロッパ知識人というのは言語の壁を大体越えていたようです。大体ドイツ人でもフランス語でしゃべって、フランス語で論文を書いたりしています。ロシア人でもドストエフスキーたちはフランス語ができたようです。それでも外国人が学ぶわけですから、そう流暢にはならないと思いますが、ヨーロッパ知識人というのは言語の壁を越えられるのが当たり前、一般庶民は無理でした。

 だから私が驚いたのは、パリに政治亡命してきたマルクスが激しい議論をフランス語でフランス人の思想家、活動家たちと議論できるわけで、またそのようにこの映画が描いているということです。だからこういう描き方はとてもアメリカの映画ではできません。今のアメリカ、白人で、高学歴の連中でも、もう自分の言語は英語しかできません。フランス語なんかやろうと思っても、もう無理なんです。

 だからヨーロッパというところは、言語が分裂したのが不思議なぐらいで、やはり知識人階級はもともとはラテン語ですから、ラテン語が書かれている文、文字で古典のヨーロッパ人全ての知識人の文字、文調ですが、Vulgar Latin、俗ラテン語という形で1500年代ぐらいからフランス語とイタリア語とスペイン語に分裂したわけです。でもこの3カ国民は今でもゆっくりとお互いに話すと通じるんだそうです。フランス人、イタリア人、スペイン人は。

 しかしゲルマン語であるジャーマン、ドイツ語が北のほうから覆いかぶさるように来ていますので、ドイツ系の連中はフランス語やイギリス語を話すのは大変だったと思います。マルクスも英語は相当下手だったと言われていますが、それでも英語というのはある意味で粗雑な言語でして、ドイツ人、フランス人の知識人から見たら鼻で笑われるぐらいの言語だったようです。イタリア語というのがあと一つあるけれども、ここはもうローマ帝国のころから比べると非常に没落していまして、1500年代のルネッサンスの後は、力のない国に転落していました。

 ですからこの映画のすごさは、ヨーロッパ知識人というものの生き方、動き方が描かれているわけです。しかも政府に反逆して、政府を徹底的に批判する言論を行っている知識人たちの動きですから、私が驚くはずです。私にとっての、14歳のときからのあこがれの対象であり、中学、高校、大学の勉強もしないで、主にこの政治思想の本ばかり読んできた私の人生にとっては、感慨深いを通り越すぐらいの驚きなんです。政治思想というのは、実は宗教と全く一緒です。私の宗教の教祖様というか、創業者の人たちが描かれているわけで、もう唖然とするしかない。

 それで、もう日本の普通のあまり知能の高くないアジア庶民にこんな話をしても無理なんです。ただ、岩波文化の中で、左翼の文化の中で生きてきた人が、それでも500万人もいますからね。なめた国ではないんです。ただ、この人たちがみんな一人一人の人生に敗北して、鬱屈して、あまりいい思いをしていなくて、70歳80歳になっているんです。彼らはもう自分自身の人生の政治社会問題の陰でひどい目に遭っている。失敗していますから、黙りこくってしまっている。

 今の20代の連中でも知能が低い、潜在的には頭がいいんだけど政治思想や訓練を一切受けていませんから、ほとんど知能の低い状態にあるのです。人に対して知能が低いという言い方をするのは非常に失礼なように見えますが、これはもうどうにもならない事実です。知能が高くてたくさんの政治思想の勉強をした人間と、そんなことと何もかかわりなく、毎日楽しくテレビも見て、若者文化の中にどっぷりつかっているような低学歴の人間たちと一緒に扱うわけにはいかないのです。

 ただし、この間死んだ西部邁(にしべすすむ、1939-2018年)というのは、編集者とも話したけれども、ひねくれ者でして、自分が新左翼運動の始まりの、元祖のところの1人なのに、保守思想に転向したものですから、大衆への反逆という考え方をつくってしまった。大衆をものすごく侮蔑して軽蔑するわけです。それを50年間もやり続けた男です。大衆や庶民を知能の低い人間たちとして、腹の底から侮蔑しているわけです。侮蔑する本を50年も書き続けて、それで自分自身が絶望感の中で死んでいったわけです。おかしな男なんですが、東大教授にまでなっているこの男の魂の残酷な乱れというか、哀れな感じになるんですね。


西部邁

 私、副島隆彦はそういう態度をとらない。知能の低い、勉強をしていない人々を能力では差別しますが、人間として差別しているわけではない。政治思想をいくら勉強したからといって、偉い人間になるわけはないのですが、だからといって知識・思想の勉強を一生懸命やった人間を一般庶民程度の知能の低い連中から対等に扱われるわけにはいかないのです。このあたりが難しいところです。

 だから今ごろこんな共産主義などという亡霊みたいな何だかもう汚れまくって穢(きたな)らしくなり果てた思想の話は復活するのか、という重要な問題だ。それはやはり簡単に言えば1917年からのソビエト革命と、それからその影響をずっと受けた1930年代、40年代です。それから戦後までの毛沢東が実現した中国共産主義運動の地獄の悲劇の中で、ロシアでも2000万人やそこら餓死したし、牢屋に入れられて死んでいる。中国でも、1億人ぐらいが大躍進運動と文化大革命の中で死んでいる。

 だからもう血みどろの地獄の果てで共産主義思想というのを味わっていたということで、滅んでしまったわけです。滅んでしまった、さっき言ったように焼け跡の瓦れきの中から、またこの思想が芽吹いてきている。この奇妙さ、おもしろさに注目しなければいけない。だからこんな映画がよくできたものだと言うと思う。

 が、しかし同時にこれはものすごくよく計画された動きであって、恐らく共産主義思想というものがもう一回人類の中に大きく沸き起こってきます。そのときにはソビエトと中国での残酷な、血みどろの大量殺人の歴史を乗り越えながら、次の時代に向かう人間社会のあり方の思想がもう一回試されている。だからカール・マルクスという男に集中させながら、物語はどうしても進むわけです。これは日本の知識人、急進リベラル派、すなわち左翼の連中全体にかかってくる課題なんです。

 その内部のいろいろな細かい議論は私は今はしませんが、全部知っています。ただこの映画に即して私は驚いたことを話さなければいけない。それは1843年の4月のプロイセン政府、ですからベルリンのプロイセン国の政府で、木材窃盗取締法という法律ができて、それで庶民が、当時は暖房もまきで煮炊きしているわけですから、まきをとりに山に行く。そうしたら、このプロイセン政府の役人たちが馬で踏み込んできて、一般庶民を殴り散らすわけです。それで山に入って、王様の山から勝手に落ち葉というか、枯れ木をとったら、それは犯罪であるといって殴られたり殺されたりしていたわけです。

 それに対して若いカール・マルクスは24歳ですけれども、『ライン新聞(Rheinische Zeitung)』というのがあって、それに書いていた。激しい批判をしているわけですが、ここから始まっている。24歳です。この『ライン新聞』をどこで出していたのかわからないのです。フランクフルトなのかケルンなのかわからない。ただライン地方の新聞ですから、かなり幅広いところに生まれた。日本人ごときがと言いますが、日本の東アジア土人ごときがヨーロッパ政治思想を簡単に理解させることも私はしたくありません。日本の普通の庶民というのは、やはり土人は土人なんです。


ライン新聞

それをわかった上であえて言いますが、このときのドイツ人、フランス人の知識人層というのはすさまじく頭がいいのです。頭の悪い人間が、頭のいい人たちに向かってねたみ嫉妬であれこれ言うなと言っております。副島隆彦はずば抜けて日本国内では頭のいい人間ですが、いかんせん土台のところが日本土人社会の中にどっぷりつかって生きていますから、これは感情的なる必要もないぐらいにまず明確に言っておかなければいけない。

 ですから、当時の1843年4月というところに焦点が当たって、この24歳のマルクスがプロイセン政府というドイツ人の国ですが、もうウィーンの神聖ローマ帝国はぼろぼろに崩れまして、そして1804年かな。ウィーンにヨーロッパ皇帝を名乗ったナポレオンが攻め込んで、入り込んできて、ウィーンは、ナポレオンに降伏して、遠慮してしまいまして、神聖ローマ帝国の皇帝をやめてしまうのです。そしてオーストリア・ハンガリー二重(にじゅう)帝国の一応皇帝という名前になるんですね。オーストリアは小さな国になっていくのです。

 それに対してベルリンを中心にしたヴィルヘルム1世、2世のプロイセンという国が帝国になっていくわけで、この時代なので、同時にドイツ人というのは豚肉とジャガイモ、ハムしかないような、どん百姓の国だ、と実はフランス人からは思われていた。事実、そうなんです。だけどドイツがものすごい勢いで産業と技術の面でものし上がってきた時代です。

 フランスはものすごく威張りくさっていたんです。それは雨がフランスは降って、イタリアとフランスは小麦が幾らでもたくさんとれたんですね。それに対してドイツはもう砂漠みたいなところで、きちんとした穀物栽培ができない。寒いということもありますけれども、雨が少ないでしょう。それで、ようやく豚とか牛のふんを入れて、三圃(さんぽ)農業というのをやって、ようやく農業生産ができるようになった。それがドイツなんです。これがドイツとフランスの大きな違いです。

 ※古村治彦のブログ「古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ」で、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載された映画『マルクス・エンゲルス』の映画評をご紹介しています。興味のある方は、こちらからどうぞ。

(続く)

このページを印刷する