「1716」 忍者の歴史と全体像を理解する(第1回・全2回) 2018年1月15日

 副島隆彦です。今日は2018年1月15日です。今日から2回に分けて、忍者の話をします。

 忍者というのは、今の日本国民にとっては馬鹿みたいな話ということになっています。
幼児か、少年しか興味をもたない。
だから、忍者のことを研究した本はありません。日本の歴史学者や史実(しじつ)歴史小説家で、忍者そのものを大きく扱った人はいないし、作品はない。忍者に関する記録はほとんど残っていない。歴史上の古文書(歴史史料)がない。だから、歴史学者が文献の研究をできない。

 だから、忍者について研究した学者はいません。ただ、このことが逆に恐るべきことで、「忍者って何ですか」という話になると、誰もわからないということになる。だが、忍者という言葉の中に込められた、日本人の血の中に流れているある種の恐れに満ちた気持ちはある。

そして、この20年間ぐらい、欧米白人たちの間で、日本の忍者に対する、強い憧憬(しょうけい)を伴う熱気が生まれている。 だから、私たち日本人の側からも、いくら遅れても、忍者研究をしなければ済まないのだ。


忍者ハットリくん(藤子不二雄Ⓐ作)

 でも、一番簡単に言うと、日本人にとっての忍者とは、「忍者ハットリくん」になる。そのモデルになったであろう、服部半蔵正成(まさしげ、1542-1597年)、と 正就(まさなり、1576-1615年)は実在していた。

あと、忍者の話となると、私の世代では、少年漫画の、「伊賀の影丸(かげまる)」というのがあった。
昭和40年代(1965年から70年ぐらい)に、少年漫画に、連載された、横山光輝(よこやまみつてる)という、当時の有名な漫画家によって描かれた。

 このほかに、「カムイ外伝(がいでん)」という漫画が有って、これは、相当に、古くさい、古色蒼然とした、忍者ものの 漫画に見えるが、本当は、1970年代にも、「ガロ」という先鋭な、時代の先端を行く、漫画を載せた、高級な漫画誌に載った。 白土三平(しらとさんぺい)という、伝説になっている漫画家が描いた。 組織を離れた、抜け忍 の非情 な生き方を、描いて、人気があった。

 これらの漫画に描かれた忍者の話は、別の機会にする。  戦国時代の、忍者は、ラッパ、スッパ、間諜、諜者(ちょうしゃ)、忍び、などと呼ばれて、戦場で暗躍した。後方攪乱(こうほうかくらん)や、暗殺もやった。見つかって捕まれば、当然、惨殺された。

 江戸時代になると忍者は、公儀隠密(こうぎおんみつ)という言葉になる。この公儀隠密も、記録はほとんど残っていない。いや、全く残っていません。この人たちは国家スパイですから、恐ろしい人たちで、人殺しでも何でもやった。暗殺をする。日本全国に、300あった藩の中に、潜り込んでいって何十年もそこで暮らし、家族も作り、その藩の秘密を盗み出す。謀略政治というものを徹底的に行った者たちだ。彼らの活動の証拠は一切残っていない。あとに何も残さないことが、忍者、公儀隠密の 鉄の掟、血の盟約 だったのだろう。


服部半蔵正成

 なぜ私が、忍者を大きく取り上げるべきだ、と決めたか。それは、忍者は外国でものすごい人気になっているからだ。欧米白人と、決めつけるが、アメリカだけでなく、ヨーロッパ人たちの間で、忍者の人気はものすごい。日本人が気づかないうちに、外国人たちは、日本の富士山をあがめるようになっていた。

 日本といえば、フジヤマ、ゲイシャ、マダム・バタフライ(蝶々夫人)、ゴジラ、忍者 である。この5つが日本人をあらわしている。本当にそうだ。まさか、そんな、と思うのは、「外側(外国世界)からの目」を自覚しない、原住民だからだ。 1に、フジヤマ、2に芸者(日本の伝統的な高級売春婦のこと)、3に、プッチーニ作のオペラ、マダム・バタフライ、4に、ゴジラ、 そして、5に、忍者である。 これが、一番、大きな日本理解になっている。だから、忍者を無視しては、日本の国のことを外側から見た目で考えられない。

だから、日本人の側も忍者論を準備しなければいけないし、もうすぐ「忍者学」という学問ができると思う。それの先鞭をつけるという意味で、私は忍者について調べた。

 伊賀の国の上忍(じょうにん。上級忍者)として、服部家、百地(ももち)家、藤林(ふじばやし)家の三つの家柄があった。この上忍三家が忍者についての明確な理解の中心になる。三重県の地図をあけると、県北西部に、2004年までは、上野市だったが、今は、伊賀市になった市がある。そこに伊賀上野城があり、忍者屋敷がある。 ここに、もの凄い数の外国人、欧米白人たちが、毎日、集まっている。





伊賀市、名張市の地図

 この伊賀と 名張(なばり) を探訪したことを、私は自分の本に、既に書いた。伊賀市から真南に20キロのところに名張市(なばりし)がある。忍者のふるさとは、この伊賀市と名張市の両方だ。今からもう13年ほど前に、私は地元のロータリークラブに呼ばれて名張市に行き、翌日、伊賀市に連れていってもらった。ロータリークラブの幹部の人と一緒に、伊賀のまちの中を自転車で回った。伊賀上野城にも行き、そこにある忍者屋敷も見学した。


伊賀上野城

私は、自著の『闇に葬られた歴史』(PHP研究所、2013年)の中の一章で、松尾芭蕉(まつおばしょう、1644-1694年)は忍者だった、とはっきり書いています。松尾芭蕉が忍者だったということは、同じ俳諧師(はいかいし)の、 与謝蕪村(よさぶそん、1716-1784年)や、向井去来(むかいきょらい、1651-1704年)など、俳人と呼ばれている人たちも、忍者だったのだ。

 彼らは、武士なのか町人なのか商人なのか今でもわからない。刀を差していたので一応武士らしいけれども。足が非常に丈夫で、頑強な体をしていたから、1日40キロぐらいは平気で歩けて、日本全国を徘回(はいかい)して、連歌(れんが)の会を、各地で開くことを表の活動とした。彼らは、治水事業や土木事業を指導、指揮したりもした。頭も相当よかったひとたちだ。


松尾芭蕉(左)

 この伊賀上野を治めた大名は藤堂(とうどう)家だ。戦国時代からの武将で、藤堂高虎(とうどうたかとら)が、1608年に移封されて、藤堂家がこの伊賀上野城の城主となった。しかし、藤堂家の血筋はすぐに途絶えている。名前だけの養子の大名だったようだ。江戸時代、ずっと、伊賀上野藩は、城代家老が最大権力者で、この家老が、江戸幕府の中の伊賀者の頂点だった。代々の名前がよくわからない。江戸時代の前半の、公儀隠密の一番トップは、この伊賀上野城の家老職だ。


藤堂高虎

 伊賀組(いがぐみ)という形で、江戸城の中でも、城門の見張り番の鉄砲隊としてして存在した。江戸城には本丸と西の丸があって、将軍は引退すると西の丸に移った。明暦(めいれき)の大火で、天守閣が焼けて以来、江戸城に天守閣はない。今の皇居は、この本丸の跡地は、私も行って見た。本丸に入っていくほうに、伊賀者が200人ぐらい鉄砲隊で詰めていた番所跡がある。皇居は、この辺りは公開されていて、今でもこれらを見ることができる。

 藤堂高虎は、身長190センチぐらいのとても強い武将だった。これを秀吉が取り立てた。高虎は、そのあと家康にも付いた。藤堂高虎は外様大名だったが、家康には譜代大名格として重用された。私は、これらのことはもう既に本に書いた。

 名張市のロータリークラブに呼ばれて、夜の食事会があったとき、名張市の外れの高級な旅館に行く途中の林の中に、百地(ももち)と書いてあった地名の札や板が有った。、あ、ここが、百池の里なのだ、と私は、分った。 百地丹波(ももちたんば、1556-1640年)のふるさとはここだ、と私はびっくりした。こういう霊感に近い、鋭さが私には生来ある。百地というコトバに、私は、そのとき何の見識も無かった。 たまたま招かれた先の名張市が百地の里だった。この百地丹波 という男は、地元の豪族ですが、忍者の歴史では、非常に重要な人物だ。そこから山の方に10キロも西に行くと奈良県だ。だから三重県の一番の山奥だ。地図で確認して下さい。ここが忍者の里だ。伊賀者は、名張と伊賀でできている。

 伊賀市から、20キロ北に滋賀県甲賀(こうが)市がある。途中に 加太(かぶと)峠 がある。この峠を北側に越すと甲賀市である。ここには、甲賀者と呼ばれる忍者の里があって、甲賀流21代目の、元気なじいさんが、アメリカとかあっちこっちで、FBIの捜査官たちに、ただの空手や柔道を教えるのではなく、忍術の武術を教えている。小柄な体で、大男のアメリカ人たちを、相手を素手で、打ち倒す技術を今も教えている人がいる。この人は名前(川上仁一、1949年― )氏とだけ、書いておきます。伊賀者、甲賀者は、お互いに敵対し対立しているように見えるけれども、そうではないらしい。江戸時代になってその両方を統率したのが服部半蔵(はっとりはんぞう)の系譜だ。


甲賀市の地図


甲賀流忍者屋敷

 今では、服部半蔵は武士であって忍者ではないと解説されている、が、そんなはずはない。服部半蔵の系譜は、1700年代になるともう力をなくしてしまった。 1710年から、紀州藩(今の和歌山県)からやってきた185センチぐらいの身長があった8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね、1684-1751年)を守っていた恐ろしい忍者集団がいた。ふにゃふにゃした弱い者(6代、7代将軍)を、これ以上将軍にしては、徳川家が保(も)たない、それではだめだ、ということで、紀州藩2代目当主徳川光貞(みつさだ)が、湯殿(ゆどの)係の百姓女に産ませた元気な男の子を、周りの忍者たちが育てた。兄弟の軟弱な者も殺して、のちの吉宗を藩主にした。さらに、紀州(和歌山県)よりも、御三家の筆頭の、尾張の徳川宗春(とくがわむねはる、1696-1764年)をも押さえつけて、1716年から8代将軍吉宗になった。


徳川吉宗

 この吉宗の御庭番(おにわばん)衆が、全国を秘密警察のネットワークで厳しく監視した。これで、徳川氏(=幕藩体制)を立て直した。吉宗の「享保の改革」で世直し=政治改革 が行われたから、さらに140年、徳川幕府が続いたのだ。普通、王朝や王国は、3代か4代、120年か130年ぐらいで潰れる。だが、江戸幕府が、260年ももったのは、8代将軍吉宗があらわれたからだ。紀州で育てた吉宗を江戸に連れてきて、痴呆であった7代将軍を始末(暗殺)して、取りかえた。このときにどうも江戸城内で伊賀者は力を失った。

 その後は、紀州のお庭番と呼ばれる恐ろしい公儀隠密に取ってかわった。全国に300諸藩あるうち、譜代大名たちは、今のただのサラリーマンで、一応松平家を名乗っているだけの能なしたちで、へらへらした連中でした。外様は、戦国時代を生き抜いて、徳川氏に屈服しただけだから、強くて優秀な大名と家臣団がいた。 徳川家の支流の親藩(しんぱん)たちが、反乱を起こすわけがない。だから、薩長土肥、加賀の前田、仙台の伊達といった有力な外様大名たちのところに、1藩当たり何十人もの公儀隠密が潜り込んでいた。

 隠密(忍者)たちの本当の仕事は、有力外様大名が、抜け荷、すなわち密貿易をやっている証拠をつかむことだった。もう戦争の時代ではないので、算術がものすごくできる秀才の勘定方(かんじょうがた)が、抜け荷や密貿易で大きな財産をつくって、貴金属を含めた、高価なものをたくさん蔵に隠していた。そして、それを大阪で秘密で大商人たちに売ったりして藩の資金を作っていた。彼らは、探りに入ってくる幕府の隠密たちとの、非常に激しい、血みどろの争いをした。それが、「太平の世」と呼ばれる江戸時代の裏側の、真実の日本史だ。抜け荷=密貿易の証拠をつかまれ、弱みを幕府に握られた藩は、お取り潰しや、国替えの 厳しい制裁を受けた。 藩の廃絶に等しい措置だ。

 忍者の話に戻すが、百地丹波は、伊賀組の支配者の家柄だ。
 2002年に、アメリカに、国際スパイ博物館が、オープンした。アメリカ合衆国の首都のワシントンD.C.に、国際スパイ博物館 International Spy Museum には、日本の歴史上のスパイである、日本の忍者の研究の結果も展示してある。 この博物館で、日本の5人の忍者を中心にした忍者研究を、アメリカの歴史学者がやってしまっているのだ。これには私たち日本人が驚くしか無い。日本の歴史学者たちは、もう、ぽかーんとするしかなくて、困ってしまう。

 歴史上の日本の5人の大物忍者のうちの、まず、1人目は、加藤段蔵(かとうだんぞう、1503?-1557?年)だ。この人は、伊賀とは関係ない。 戦国時代に、関東を治めた、室町時代からの名家である上杉家の家臣の、長野業正(ながののりまさ、1491-1561年)という重臣に仕えていた忍者である。彼が、忍者の元祖だ。元祖だと、アメリカの学問(=科学研究)によって、そう、認定されたのだ。
加藤段藏 は、幻術、妖術を使って、生きている牛を丸ごと飲み込んだりして、「鳶(とび)の段蔵」「飛びの段蔵」(「鳶(とび)加藤」「飛(とび)加藤」)と呼ばれた人だ。これは1500年代の戦国時代の前半の話だ。

 上杉家はやがて力が弱くなって、上杉謙信(うえすぎけんしん、1530-1578年)が養子の形で入って、関東台地で、戦国時代を生き延びた。小田原にあった北条家は、1590年秀吉の攻撃で潰されたが、その後も上杉家は生き残った。上杉景勝(うえすぎかげかつ、1556-1623年)と、直江兼続(なおえかねつぐ、1560-1620年)が、優秀な人物だったので、この2人で、あっち行け、あっち行けをされながらも、しぶとく、権力者の転変期を生き延びた。そして、今の山形県の山の中の、米沢とか米内沢(よないざわ)といいますが、そこに追い詰められたけれども、それで江戸時代を生き延びた。上杉家は江戸幕府にいくら潰そうとしても潰せなかった。忠臣蔵(=赤穂浪士)の騒ぎも、どうも上杉家を潰そうとして、5代将軍、綱吉と側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしあやす)と、そのブレイン(知能)の、荻生徂徠(おぎうそらい)が、仕組んだものだったようだ。

 武田信玄(たけだしんげん、1521-1573年)と、上杉謙信は、川中島の戦いで、必死に4回、戦ったが、この時期に、加藤段蔵は敵の武田信玄のもとに潜り込んだ。彼は、自分が命からがら上杉氏の越後から逃げてきた、ということにして、実際に何人かのスパイ(にんじゃ)を殺して見せて、信玄に仕えた。しかし、信玄を暗殺しようとして、失敗して殺されたらしい。それぐらい、真実の戦国時代は、恐ろしいことが、山ほど有ったのだ。


武田信玄

 ワシントンの歴史博物館が認定した、日本の5人の大物忍者の、2人目は、さっき言った百地丹波だ。1579年に織田信長(おだのぶなが、1534-1582年)の伊賀攻めがあった。これが大事だ。詳しくは説明できない。 信長が、1568年に、形の上での将軍である足利義昭(あいかがよしあき、1537-1597年)を奉じて天下布武(てんかふぶ)という形で、岐阜から京都に入ってきてもう10年目だ。信長は、自分の言うことを聞かず、服属しない者たちを、平定しなければならない。京都まで出てこいの、出頭命令にも従わない大名たちを、自分で攻め滅ぼしに行かなければいけない。それで、1579年に伊賀攻めを行ったわけですが、実際は、二男の信雄(のぶかつ、1558-1630年)にやらせた。しかし、失敗した。

 伊賀勢は、山岳地帯だから、夜襲をかけたり、攪乱戦法をとったり、背後から攻めたり、上から石や材木を投げ落として、5万人の織田軍を撃退した。あの恐ろしい織田軍を撃退したというので、伊賀者はこのとき非常に有名になった。


織田信長

 ところが、そこから2年目に、今度は、信長自身がもう二男の信雄(のぶかつ)に任せてはいられないということで攻めてきて、攻め滅ぼした。という日本語を使うと語弊があるが、重要なお城を三つぐらい落として、刃向かう者たちは皆殺しにして、言うことを聞く者たちは、生かしておいた。そして服従させた。徹底抗戦派は、皆殺しになるが、それ以外は鎮圧後は、土下座して命だけは助けてくださいとなった。それが、世界中の、どこでも起きた、人類の歴史だ。

 ところが翌年、1582年4月に、なんと、信長が本能寺の変で殺されてしまった。そうすると、時代がまた一つ変わって、次は秀吉の時代が来る。

 忍者たちが伊賀攻めを撃退した話は、今、映画になっている。・・・・

 余計な話だが、長男の織田信忠(おだのぶただ、1555-1582年)は、本能寺の変の直後に二条城で殺された。三男の信孝(のぶたか。神戸=かんべ=信孝)は、武将として才能はあったが、結局、信長の重臣であった柴田勝家たちと組んだことで、秀吉に自殺させられた。

 信孝の辞世の句は、凄絶だった。
「昔より主(あるじ)を討つ身の野間(のま)なれば 報(むく)いを待てや羽柴筑前(はしばちくぜん」というものだった。 「秀吉よ、主君を裏切った男であるおまえに、私は、恨みをのんで死んでやる」という、激しい憎悪の辞世の句である。 それに較べて、次男の信雄(のぶかつ)は武将の器でなくて、なおなよしていて、そのために、ずっと生き延びてしまって、みっともない男だ。
 最後は、なんと、家康のお伽衆(おとぎしゅう)といって、夜、お話をする係になってしまったのだ。京都のお公家さんみたいな野郎だ。しかし、このために織田家は、この信雄の系統が細々と残っていった。

 5大忍者の、3人目は高坂甚内(こうさかじんない、?-1613年)だ。 
 武田信玄の息子の勝頼(かつより)が、1582年に天目山(てんもくざん)で滅びた。織田信長軍の先陣、先兵、先頭部隊は徳川家康だった。家康は、岡崎藩主で、三河大名であった松平元康にすりかわった忍者だ。この大きな真実を、私、副島隆彦は、一所懸命に本に書いた。 『信長はイエズス会に爆殺され、家康は、すり替わった』(PHP刊、 2016年)である。

 三河大名(みかわだいみょう)だった松平元康(まつだいだもとやす。岡崎城主)を殺して成り代わった、徳川家康は、始めから、信長の忍者だった。 私の本を読んで下さい。

 家康は、信長の命令に忠実に、武田攻めをして、自分で実際にやって手柄を立てたけれども、武田の軍団が、攻め滅ぼされて死にかかったところを、「わしの家来になれ」と、その多くを、助けて、自分が召し抱えて家来にした。 ここが、家康の、忍者出身で有ることから来る、恐ろしいまでの才能だ。

 信長が甲府まで、勝頼の首を、自分で首実検(くびじっけん)するために、岐阜から急いで駆けつけて、自分で領地の検分を行う。そして、ここはおまえにやる、ここはおまえにやるという「国割り」をすした。そして信長は、富士山の向こうを通ってぐるっと回って東海道を進んで、琵琶湖のほとりの安土(あづち)城に帰ってきた。そして、安土城で大宴会をやって、家康に向かって、「おまえは鉄砲を買いにさっさと堺の港に行け」と言った。

 一方、明智光秀には、「さっさと秀吉を助けにゆけ。秀吉が、毛利攻めで困っているから、備中(びっちゅう)に行け」と、この宴会のさなかに命令して、さっと動かした。信長から、明智が、頭をたたかれたから、明智は信長に憎しみを持った、というような話はずべてうそだ。 武田を滅ぼして3カ月ですから、信長たちは、もううれしくてしようがない大宴会だった。だから、「イエズス会が京都の本能寺で、周到に準備して、信長を、高性能の爆薬で爆殺した」という副島説が正しい。私の本を嘉さない。

 やっと大物忍者の話に戻る。武田勝頼が滅んで、その家来だったのが高坂甚内(こうさかじんない)だ。大事な話ですが、前述したとおり、信長に攻め滅ぼされた伊賀の衆たちの中で、信長に恨みがあった忍者たちは、あちこちに散って、逃げ延びた、と言われている。散ったけれども、実際は多くは、徳川家康に仕えたのだ。


徳川家康

 家康自身が伊賀者だから。服部平太夫(はっとりへいだゆう)という男が、天竜川河口の掛塚(かつづか)という、河口の港町にいた。家康は、そこに逃げ込んで、三方ケ原の戦い(1572年)のときも生き延びた。

 家康の真実の奥様は、この「鍛冶屋の服部平太夫(へいたゆう)あるいは、平太(へいた)の娘の、西郷局(さいごうのつぼね)だ。それが産んだのが、2代将軍秀忠(ひでただ)だ。このことは、もうはっきりしている。だから、真実の家康は、浜松城に17年いた。これは、日本の歴史学界が、むにゃむにゃと秘密にしている。今も通用している、ウソの、家康像では、 三河大名である岡崎城主の松平元康(まつだいらもとやす)だから、ずっと、岡崎城に、いなければ、おかしいはずなのだ。 それが、なんで、
17年間も、家康は、浜松城にいたのか。 日本の、歴史学者、歴史評論家ども、この、おかしさに、
まともに、答えてみろ!  副島隆彦は、自分の生涯の残りを掛けて、この場面でも、真実のために、闘うぞ。

  甲州武田(今の山梨県)が攻め滅ぼされると、生き延びた甲斐の武士たちは、忍者上がりの家康に救われるようにして家来になっていった。だから甲府は家康のものになった。

 そして江戸に幕府を開く。関東台地全体は、その前の北条氏の小田原に本拠を置く北条早雲(ほうじょうそううん、1432-1519年)以来の5代――そのうち4代、5代は切腹したが――は、滅ぼされたけれども、まだ、不平不満の残党がいた。その残党の中に風魔小太郎(ふうまこたろう)というのがいた。
 
 これが忍者で、北条氏の残党を集めて、盗賊団になった。上杉氏は、もう北の方に移動させられていた。江戸開闢(えどかいびゃく)というが、江戸城を大きく改築した。

(それより早い、1500年代の始めに、太田道灌=おおたどうかん=という優れた、天才級の、立派な武将が、江戸城を作って、守っていた。しかし、主君で有る上杉氏が、道灌を殺した。なんと、無念なことをしたことか。)

 家康が江戸に移動して家康はまだ生きているが、この風魔小太郎を前述した、忍者の高坂甚内(こうさかじんない)が征伐して全滅させた。

 百地系や服部系の忍者たちも、徳川家に仕えた。風魔小太郎を討伐、鎮圧した後、高坂甚内は自分が関東台地、その後にいう、関八州(かんはしゅう)の盗賊団になっていって、彼もまた征伐されたらしい。実際は 甚内は、逃げ回りながらも、1613年に、マラリアで弱っていたところを捕縛されて、処刑された。今の浅草橋(あさくさばし)に、甚内神社という小さな神社があって、8月12日が高坂甚内の命日で、ここでは今でもお参りがあるそうだ。

 次の、4人目が、最初に言った服部半蔵正成(まさなり)。家康に、真実の長男も二男も生まれたからもう要らないということで、家康は信長の許可をもらって、三河大名であった松平元康の息子、信康(ぶやす)を20歳で、殺した。 

 歴史学者は、信長が殺せと言った。とか、武田とつながっていたから、奥さんの瀬名姫(せなひめ。築山御前 つきやまごぜん)を、殺せという命令で、と言って泣く泣く殺したというけれども、それはうそで、本当は最初からすりかわっていたから、自分の父親、主人が、すりかわっていることを信康と、築山御前は、知っていた。だから、殺されたのだ。 今でも、浜松の人たちは、その 築山御前が、殺されたあとのお寺とか、真実を、よく知っている。 

 信康を二俣城(ふたまたじょう)で殺した。奥さんの築山御前は、浜名湖の隣の佐鳴湖(さなるこ)という小さな湖があって、そこのほとりで切り殺された。そのときに使われた刀を妖刀(ようとう)村正(むらまさ)といって、それが江戸城の中に、300年間、恐ろしい刀の言い伝えとして残った。

 そのとき信康を自分の手で殺したのが、服部半蔵の二代目である正成だ。泣く泣く殺したというから、どうも、松平信康のご養育係みたいなことをしていて、この男に殺させたのだ。冷酷に殺したから、逆に、徳川家康は正成を信じた。そして、自分の秘密警察長官にした。それが、今の皇居の西側に残っている半蔵門だ。今も、日本の警察は隼町(はやぶさちょう)とか、半蔵門のあの辺にいる。そこからさらに、ずっとどんどん、真西に向かうと甲州、山梨県までつながっている。いざというときは徳川将軍は甲州に逃げることになっていた。

 甲州街道の一ノ宿が、新宿内藤町(しんじゃくないとうちょう)だ。内藤家は、甲府藩の家老の屋敷ということになっている。内藤家は忍者の頭目だ。 今の新宿内藤町は、「新宿2丁目」と呼ばれて、ゲイ、ホモの世界的メッカだ。この新宿2丁目あたりが内藤町だ。新宿御苑の中も内藤町で、あそこに忍者の親分がいたということだ。

 服部家は、その後どう続いたか、わからない。服部半蔵は、さっき言ったように、伊賀と甲賀の両方を統率して、家康に直接仕えた秘密警察長官だった。しかし、その時代が過ぎたら、さっき言ったように、伊賀者の出番がなくなったようで、もう全く仕事をしなかったようだ。消えてしまったか、消されたのだろう。

 5大忍者の5人目が、藤林長門守正保(ふじばやし・ながとのかみまさやす)だ。この人は、最初は武田の重臣だった山本勘助(やまもとかんすけ)に忍術を教えた、とか、駿府(今の静岡市)の今川義元にも仕えていたとか言われている。正保(まさやす)の孫に、藤林保武(ふじばやしやすたけ)という武士、おそらく直参(じきさん)か上級旗本だろう、がいて、この人が、『万川集海(ばんせんしゅうかい)』という本を書いた。この本が、今や、重要な歴史資料となった。これがほぼ唯一と言っていいぐらいの、忍者に関する重要史料だ。この『万川集海』という歴史文書を中心にして、三重大学の山田雄司(やまだゆうじ)教授 が、1冊の本にした。これが、 日本の歴史学者による、唯一、と言っていい、忍者研究の大事な論文集だ。2014年に、『忍者文芸研究読本』に収録されて発表された。
今、欧米白人の、忍者研究家たちに、山田教授は、引っ張りだこの人気である。三重大、という、忍者の聖地の、伊賀の国立大学の先生による、忍者研究、ということで、すでに、欧米では、大人気である。

 山田教授は、この中で、概略、次のように述べている。「(伊賀上野城の)伊賀流忍者博物館で、自分が見つけたというか、出して見せてもらった、これまで誰も研究していない忍術書である『当流奪口忍之巻註(とうりゅうだつこうしのびのまき、ちゅう)』という手書きの古文書などを収集している。『万川集海』には、酒と色と欲の三つをかたく禁制し、ケフリ(蹴鞠のこと。古代のボール蹴りの遊び)を楽しむべからずとあると。だから、酒と女と物欲が忍者の最大の敵であって、それに溺れてはいけないとか、そういうことが書いてある」と。あとは、「絶対ばれないように動けと」か、「秘密で動け」とか、「忍(しのび)は、目立ってはいけない」とか、そういうことがずっと書かれている。それが唯一と言っていいぐらい、現存している、忍者についての史料だ。

 しかし、藤林保武(ふじばやしやすたけ)は、藤林長門守正保の孫ぐらいで、『万川集海』を書いたのは1650年代らしい。「人の知ることなくして巧者(こうじゃ。巧みなる者)を上忍(じょうにん)とす」とか、「勇名もなし」、つまり、「勇ましい名前など周りに立ててはいけない」とか、「あとあと記録に残るようなことをしてはならない」とか、そういうことばかり書いてある。

これで「副島隆彦の忍者論」の前編の終わりです。

(つづく)

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