「1532」番 来たる 6月7日(日)に 横須賀市で私の講演があります。 いらしてください。「軍港 横須賀の150年の歴史」にちなんだ話をします。 副島隆彦 2015年5月27日日
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副島隆彦です。 今日は、2015年5月27日です。
今週末の5月31日の私たちの定例会(講演会)に来てください。当日払いでも結構です。申し込みはコチラへ →
http://soejima.to/cgi-bin/kouen/kouen.html
上に載せましたのは、 来たる6月7日(日)に、私が 神奈川県の 横須賀(よこすか)市で講演します講演会の内容です。 お時間のある人はお集まりください。 横須賀市民でなくても自由に参加できます。
場所は、ベルク横須賀大ホール(勤労福祉会館)という場所です。 申し込みの詳細もこの宣伝チラシに載っています。 午後1時半から5時半です。 参加料は1000円です。
当日、会場で払ってくださってもよいそうです。ですから、当日に会場に来てくだされば、十分入れるでしょう。満員で締め切り、ということはないでしょう。 その時は、私が、会場の外まで出て行ってなんとか対処します。ですから、気軽にご参加ください
ホームページは、会場までの地図など、参考に見てください。
ホームページからの受け付けは終了していますが、当日受付で、入れます。
http://kokucheese.com/event/index/290715/
演題は、「副島隆彦さんが語る 軍港開設と敗戦までの裏面史 」です。
以下は、私が、この講演会の主催者である、 この3月まで横須賀市議(元社会党)そしていた 一柳洋(いちやなぎひろし)氏のお誘いをいただいた、時からのメールのやりとりです。この文章を読んでくだされば、当日、私が、何を話すかが大体わかります。
主宰者(主催者)の意思に従うのが、講演者としての 心構えと方針というものです。
この講演の準備で、私は、これから大変です。それでも乗り掛かった船であり、一柳氏の これまでの 横須賀での頑張りに 深い敬意を表して、出かけることにします。 時間の余裕を見て、無理をしないで、お時間のある人は、どうぞお越しください。
副島隆彦拝
●今の横須賀市の様子、向こうに米海軍基地が見える(副島隆彦 撮影)
(転載貼り付け始め)
Sent: Friday, January 30, 2015 9:53 AM
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Subject: 講演依頼
講演依頼
副島隆彦様
初めて直接にメール致します。
私は学問道場の会員(****番)で、横須賀市の市会議員をしております一柳 洋と(いちやなぎひろし)と申します。
今年は、敗戦後70年ですが、横須賀では小栗上野介(副島隆彦注記。おぐりこうずけのすけ 、忠順=ただまさ=、旗本の上級武士で、幕末の勘定奉行。立派な人物 )らによる軍港開設と造船所開設(1865年 )の150周年に当たります。
今年は市を始め「軍港開設150年記念」の多くの催しがあります。が、カタログのように歴史をなぞることと、アメリカと激しく戦ったのである昭和の日本海軍のことには触全くれずのイベントが殆どです。
私は、2005年から10年に亘って先生の著作を読み、また学問道場に入会してからは、かかさず学問道場の講演会に参加しております。なぜ幕府 (明治新政府時代の始まりよりも早く)は、横須賀に軍港を作ったのか。から始まり、昭和の日本海軍は、一体何を大きく誤まり あるいは操=あやつ=られて、あれほどの愚か極まりない、負ける戦をしたのか。そしてそのあと、アメリカに屈服して、今の日本の従属構造があるのかを、副島さんに語って頂ければと存じます。
なおご存じと思いますが明治政府になって、横須賀製鉄所の初代責任者は、“長州5(ファイブ)”の山尾庸藏(やまおようぞう)です。
(副島隆彦加筆。山尾は、1866年に帰国して、まだ、存在した長州藩に出仕していたが、明治3年=1870年=に初めて横須賀に赴任している。だが最高責任者にはなっていない。 このときは、後藤象二郎(ごとうしょうじろう、土佐の藩政=はんせい、家老職=の家柄である)が、横須賀の民部太輔=みんぶたいすけ=で横須賀製鉄所の最高責任者だった。明治(太政官、だじょうかん)政府では、元勲の次ぐらいに列した。後藤は、どうも、日の目を見ていない。あの武器商人グラバー・三菱(岩崎)弥太郎(同じ土佐出身)と争って、高島炭鉱の所有権を巡って、裁判をしたりして揉めている。副島隆彦加筆 終わり)
山尾庸三そして帝国海軍は、イギリス式になる多くの軍艦の造船や、それから日本海海戦(1905年5月27、8日)の真実などもお話頂ければと存じます。テーマは「横須賀軍港150年の真実」でお願いします。
時期は4月頃でお願いしたいと思います。ご都合で平日ならば夜間、土日ならば午後開催で行いたいと思います。たっぷり2時間ほどお話しして頂ければと存じます。
2015年1月30日
横須賀市議 一柳 洋
横須賀市議
一柳 洋 さまへ
副島隆彦から
メールをありがとうございます。
私に横須賀市での 講演の依頼をいただきました。
一柳さまは、学問道場の会員であり、すでにケンカ道場でもお会いしていますので、私は安心して お引き受けできます。
講演の演題も、「「横須賀軍港150年の真実」 を、私なりに 今から歴史の史料を 集めながら、弟子たちの協力をもらって内容を作ります。山尾庸三の ことは、姫路工業大学の物理学の教授の 下条竜夫(げじょうたつお)氏にくわしく聞きます。彼の論文があります。 (略)
現在の横須賀市は米海軍の直轄都市の感じで、空母ジョージ・ワシントンの母港(ホームポート) のはずです。 ベース(基地)内の山の上に 太平洋艦隊の司令官の屋敷があって、そこに表敬訪問(ひょうけいほうもん)に自動的に連れて行かれたと、評論家の森田実(もりたものる)氏が、私に語ってくれました。 そのような場所に、私、副島隆彦が無防備に行くわけにはいきません。 ただし、私は真実暴(あば)きの言論人ですから、 自分の言論に余計な自主規制はしません。(略)
万事よろしくお願い致します。今後とも 親しくお仲間としてお付き合いください。
副島隆彦拝
2015年2月6日
一柳洋 から
副島様
お世話様です。6月7日(日)のご講演(午後1時から5時)の会場は、京急線の横須賀中央駅から徒歩5分ほどの所です。ベルク横須賀大ホール(勤労福祉会館)で、中央駅は横須賀で一番大きな駅で快速も止まります。横須賀中央駅は品川駅から50分ほどです。
JR横須賀駅は軍港の側にあり閑散としています。横須賀市には、200人以上入る会場は5カ所ありますが、ここ以外は特急が止まらない駅や駅から歩いて15分かかるとの所しかありません。もう一カ所ありますが演劇、演奏会用舞台(500人)なので会場費が高く講演会ではあまり使いません。
私は海軍航空技術廠(しょう)のすぐ側の町で、戦後4年半たった時に生まれたので小学校の頃までは、随分と旧軍の施設が残っていました。また近所、親戚には海軍工廠(かいぐんこうしょう)や軍関係への勤め人が多く、また市会議員になってから付き合いましたが、町内に真珠湾攻撃やミッドウエー、最後は南太平洋海戦に出撃して死なずに帰ってきた97艦攻(きゅーなな・かんこう、艦上爆撃機 )のパイロットがいました。
その人とは酒を飲みながら何度か話を伺いました。この人が言うには、「ミッドウエー海戦での空母撃沈の時は、今日は雷撃(らいげき)出撃はないだろう、と俺たちは言われて待機していた。そしたら、突如、飛行甲板に敵機から爆撃を受けた」と言っていました。
空母加賀は、艦橋(かんきょう)が最初にやられたので艦長等は即死で、飛行長の判断で搭乗員全員は燃える加賀から駆逐艦に乗り移り帰ってきたから、自分は沈むとは思わなかった」と言っていました。
「今日は出撃はないだろう」と艦上の攻撃隊だった飛行士たちが証言している、ということは、その後の海軍が言い続けた大嘘の「運命の5分 」 はなかったと言うことです(沢地久枝さんが暴露しました)。山本五十六(やまもといそろく)聯合艦隊司令長官、は、始めから負けるように仕組まれて、そえでミッドウエーで4隻の主力空母を失わせられたのだ、と推測されます。
そうでなければ戦(いくさ)が余りにも稚拙(ちせつ)です。アメリカの力を舐(な)めきっていた、だけでは説明がつきません。その一月前の5月、井上成美(いのうえしげよし、海軍次官。大臣の次)が、珊瑚海(さんごかい、コーラル・シー。オーストラリアとニューギニア島の間の海域)海戦( 1942年5月7日、ポートモレスビー攻略作戦 )で、米機動部隊(きどうぶたい、タスク・フォース。日本の連合艦隊に匹敵する) にかなり返り討ちにあって、空母翔鶴(しょうかく)が大破させられ、多くの搭乗員を失っています。が、その戦訓がそのあと全然、生かされていません。
副島先生が言うとおり、海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、彼らは始めから敵と内通していた英米派だった。 海軍は、陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。先生のこの指摘に、あの“海軍善玉、陸軍悪玉(陸軍が戦争の元凶を作った)“論 を書き続けた言論人、評論家たち は、どう反論するのかと、私はずっと疑問に思っています。
(副島隆彦 加筆。 彼ら歴史の偽造者、捏造者たちは、文藝春秋、新潮社から戦後、多くの戦争ものの歴史本を出版してきた。その頭目は、阿川弘之=あがわひろゆき)=である。彼が、『米内光政(よないみつまさ、海軍大臣)』、『井上成美(いのうえしげよし、海軍次官)』、『山本五十六』の ”提督(ていとく)3部作“ の 嘘(うそ)八百の戦争伝記ものを書いた。
彼らは、これから、真実の炎で、焼き殺されなければいけない。 本当に、海軍の攻撃隊として現場にいた戦闘機乗り(パイロット)、真実を知っている者たち、および艦隊の下士官や、整備士、艦隊機乗りたちは、戦後ずっとブツブツと、真実を語り続けてきた。それを、アメリカの手先代表の、文藝春秋と新潮社が押し潰してきた。
無念に死んでいった多くの戦闘員の同僚( 戦友 )たちへの、深い悔恨と、彼らの怨念(おんねん)に包まれている。今からでも大きな真実を語ろうとする者たちの声を、集めなければいけない。そしてどんどん表に出さなければいけない。 騙されて殺されていった、本当に勇敢だった、日本軍人・兵士たちの怨霊=怨霊=が、私たち、後続する日本人に取り付いて離さない。
私、副島隆彦は、自らが鬼となって、これらの真実を書き続け暴き続ける覚悟である。割り込み加筆終わり)
米内(光政、よないみつまさ。開戦時もずっと海軍大臣だった。副島隆彦注記。こいつが軍人では最大のアメリカの手先。極東軍事裁判でも、絞首刑になったのは、東條英機以下6人陸軍ばかりで、あと一人は外交官の広田弘毅=ひろたこうき=だ。海軍は、ひとりも死刑になっていない。起訴さえされていない。 このことのおかしさを、日本国民は、真剣に考えなければいけない) の終戦工作も、スターリン頼みだったのであり、随分と日本国民を犠牲にしたものです。
井上成美は、ご存じのように横須賀の西海岸の長井(ながい)で、生涯を終えています。彼は美化されています。戦後は井上は、自衛隊の式典には一切出てこなかったそうです。
戦後70年、戦争の真実を突き止めようとしている人は、横須賀でももう殆どいません。
軍港をなぜ幕臣の小栗らが開いたのか、も、外交・軍事の視点と倒幕派の薩長(さっちょう)、とりわけ長州5(ファイブ、五傑(ごけつ)とも言って、持て囃され始めた。 副島隆彦注記。1863年=文久3年=5月12日に密出国で横浜港から、イギリスに向かった。尊王攘夷の嵐が吹き荒れている最中に、である )や、薩摩スチューデント(その2年後に、同じく、イギリスに育てられるべく、1865年、3月22日、五代友厚、松木洪庵=新路刑部=ら薩摩留学生が密出国した)の事も、先ほとんど語られません。
先生にお願いして、今まで一度も語られなかったことを聴衆に暴いて、目から鱗の講演会にしたいと思います。
一柳 洋
●自衛隊の艦船(よこすかシティガイド協会から)
From: Ichiyanagi Hiroshi
Sent: Saturday, March 07, 2015 7:48 AM
To: 副島 隆彦様
副島様
先日はお目にかかれて有り難うございました。
6/7の講演の件で連絡します。先生のことですから当然スライド・ショウなどの資料をお作り頂けると思いますので、軍港都市150年の資料作成代としてご査収下さい。
1部 幕府による軍港開設と倒幕派の裏にいた英国エージェントによる、帝国海軍の(フランス式からの)英国式化(への変更のこと)。
2部 昭和の海軍の誤り。海軍は負け戦ばかりして、そのあと、現在のアメリカによる占領状態に持って行った。それはなぜか。
維新後の明治3年(1870年)、頃横須賀製鉄所を幕府から引き継いだ新政府は山尾庸藏を日本代表の横須賀製鉄所 所長?(肩書き不明)として就任させています。この辺のいきさつも是非明らかにして頂きたいと思います。市は本当の歴史を全く調べる気がありません。
Sent: Saturday, March 07, 2015 6:39 PM
To: Ichiyanagi Hiroshi
Cc: SoejimaTakahiko(副島隆彦)
Subject: Re: 講演の件
一柳 洋 さまへ
横須賀市会議員
副島隆彦から
メールをありがとうございます。先日は、金融セミナーのお越し下さりありがとうございました。控室でほんの少し お話出来まして 嬉しく思います。
さらに上記のメールをいただきました。了解いたしました。
ただし、私は、日本海軍や軍事史の研究の歴史学者ではありませんので、 一柳さまに、相当 お手伝いいただきまして、横須賀市の 歴史の 資料の 収集を 今のうちからお願い申し上げます。
一度は、私が 市の図書館や史料編纂室に 出向いて、直接、お見せいただきたいものもあると、思います。ですから、そちらへの調査は、5月中旬の平日の 午前中からということでいかがでしょうか。一柳さまに ご案内やご紹介をいただきたい。公表されている資料だけから、お話するしかありません。 副島隆彦拝
2015年3月11日
一柳洋 から
副島様
「横須賀市の 歴史の 資料の 収集を 今のうちからお願い申し上げます」の件です。
横須賀の工廠(こうしょう、兵器、軍艦の製造工場のこと)と航空関係についての研究は既にいろいろなところでやられていますし、軍艦、航空機開発についても刊行物はたくさんあります。但し、横須賀市の図書館には裏面史を知るような蔵書はないと思います。
むしろ今回講演頂きたいのは、カタログ化している歴史年表にない点です。ざっと書きますと以下のようになるかと存じます。
1部 については、薩長の裏にいた英国の存在やフリーメイソンの影響。
幕府とフランスが契約した軍港と工廠づくりを継承した明治政府の横須賀造船所の初代責任者が山尾庸藏だった事 は本当か?
山尾庸藏と長州5(ファイブ)の事。明治10年(1877年、西南の役で、西郷隆盛たちが新政府に嵌められて、不満分子として殺された) には全ての仏(フランス)技術者が帰され、それからの帝国海軍は、一気に英国式になりました。が、その経緯。日英同盟(1902年から1920年まで)での英国の目的。日露戦争と英国。日本海海戦と英国の指導。 米英は、日本海軍にどういう内通者を置いたか? 海軍のフリーメーソン人脈は?
なお今から10年前(すなわち2005年)までは、現在の米海軍基地内のメイソン(リー、協会、マソニック)のロッジ(会衆所、かいしゅうじょ)場所は分かっていました。写真もあります。 が、老朽し解体後は、何処に移動したのか、横須賀市役所の役人に聞いても分かりません。
2部 は先生が主張する米内、山本、井上の“海軍反戦トリオ”は、戦争開始前からのアメリカへの内通者で、日本を負けるように仕組んで、今の日米安保体制に持って行った私もと思います。 なお、この企画で最初は半藤一利(はんどうかずとし)氏に連絡を取ろうと思っていましたが、彼は山本擁護派なので、止めました。
そして日中戦争の裏側。ワシントン軍縮条約(1922(大正11)年、そして1930(昭和5)年ロンドン軍縮条約。日本は、建造する軍艦の数を制限された)からの海軍内の対立。戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。文藝春秋と新潮社から、戦後、沢山の本が出た )と、アメリカ政府 およびフリーメーソン組織との関係は。
また日本海軍内の対米戦強行派である石川信吾(いしかわしんご)、神重徳(かみしげのり)らの中堅佐官クラスは、実はどうだったのでしょうか?
文春派の言う陸軍や政府に対して「アメリカとは戦えない(とても勝ち目はない)」と言い出せずに、海軍のメンツだけ考えて国や国民のことを考えず、そして米内、山本らの奇策を止めさせることなく 戦略なき真珠湾攻撃をアメリカにまんまと仕組まれて、させられた、と言う日本海軍の事情について。
ミッドウエー海戦( 副島隆彦注加筆。 真珠湾攻撃=開戦=からわずか半年後、1942年6月5日。これで、日本は、大切な主力空母4隻 「赤城(あかぎ)」、「加賀(かが)」、「蒼龍(そうりゅう)」「飛龍(ひりゅう)」が撃沈されて失う(「敵空母「ヨークタウン」を航行不能にした」)という決定的な敗北を喫した。
・空母「飛龍」(1939年7月5日、完成直後)
・空母「飛龍」(1942年6月5日、ミッドウェー海戦時)
これで日本の太平洋戦争での敗北は、早くも決まった。山本は、ミッドウェーから数百キロ後方で、戦艦大和の艦橋に居た。大和、長門、陸奥の主要戦艦3隻は、安全な海域にいて「大名行列」をしていた。山本五十六は、3隻の主力空母が、ミッドウェー(ハワイと日本の間の小さな諸島の海域)で被弾して沈没した時は、幕僚たちと将棋を指していた、と言われる。
大和からは無線で指令を出していて無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。
あの時ミッドウエーで死んだ、 勇敢な本当の帝国軍人の無念の戦死者 たちの怨念が、今も日本国民の中に立ち込めている。今もなおアメリカの手先を自認している者ども、おのれらの恥多き人生を深く、真の英霊たちに向かって恥ぢよ。
この時の、空母「飛龍(ひりゅう)」にいた、山口多聞 (やまぐちたもん)少将( 第2航空戦隊司令)
の戦い方と死に方こそは、帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。
・山口多聞 (やまぐちたもん)少将
敗戦後も、おめおめと生き延びて、「私たち海軍は、平和主義だった」などと、よくも、あの恥知らずの、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。 文藝春秋、新潮社よ、産経バカ右翼は論外)お前たちの歴史の偽造を、私、副島隆彦は絶対に 許さないからな。
アメリカのCIAが、編集して、日本の電通(という悪業の限りの日本国民洗脳の尖兵の広告会社。テレビ局、新聞社を広告宣伝料の払いで支配している)が、その日本語版を管理しているウィキペディアでさえ、次のように、正確に 山口多聞の 潔い最期を描いている。
( 転載貼り付け始め)
1942年(昭和17年)6月、(山口多聞少将は)ミッドウェー海戦に第二航戦司令官として空母「飛龍」で参加。 ミッドウェー島基地攻撃中にアメリカ機動部隊(きどうぶたい)発見の報告を受け、南雲忠一(なぐもちゅういち)長官に、「直(ただち)二、攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と電文を送り、帰還部隊の収容をあきらめ、陸上爆弾装備中の部隊の発進を急ぎ、敵機動部隊に攻撃することを意見 具申した [注釈 1] 。しかし、南雲司令部は帰還したミッドウェー基地攻撃隊の収容を優先させた[22]。
主力四空母中「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が、敵(の)急降下爆撃により大被害を受けると、第8戦隊 旗艦「利根(とね)」」と機動部隊 全艦に対し、山口多聞少将は「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執(と)ル」と発光信号を発した。
また「飛龍」艦内には、「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と通報した。第2航戦先任参謀(せんにんさんぼう)伊藤清六中佐の手記によれば、山口は攻撃隊搭乗員(パイロットたち)に、「飛龍一艦、少數の飛行機を驅(か)つて、敵空母2隻に全艦隊の仇(かたち)を報じ得たるいはれ、なきにあらず。體當(たいあた)りでやつて来い、俺も後(あと)から行くぞ」と訓示した[23]。
山口多聞は、「(我が艦)飛龍には他の空母の艦上戦闘機もあるので上空警戒機で阻止できる」という判断をした。戦艦「榛名」が敵機を発見し、触接警戒しているので警戒を厳にし13機を上空に上げていた。が、急降下爆撃機SBDドーントレス(の編隊、スクアドロン)の攻撃を受けて、飛龍は、飛行甲板が破壊され、発着艦不能となった[25]。
山口は(空母飛龍の)総員を集合をさせ、「皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇(かたき)を討ってくれ。ここでお別れする」と告げ、一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納した。
( ウィキペディアからの 転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。こういう真に勇敢で、よく職務と責任を全うし、潔く死んでいった日本軍人の指導者たちがいるのである。 山口多聞は、「飛龍」の賀来(かく)艦長と二人で飛龍と共に沈んだ。
山口多聞は、南雲忠一・攻撃隊の艦隊指令長官に 無線で怒っている。 そして、このように主張したのだ。
「今頃になって、爆撃隊の爆弾を積み替えるなどということをやっていては、空母艦隊自身が、敵機の編隊の襲来の餌食になるだけである」 それよりは、「 もう ミッドウエー島を空爆した帰還部隊 の空母への収容をあきらめて、(海に不時着させてもいいから)、それよりも、攻撃部隊が現在装着(そうちゃく)している、陸上爆弾装備のままで、発進を急ぎ、敵の機動部隊(きどうぶたい)を攻撃することが大事だ。陸上攻撃用の爆撃であっても、敵の艦隊に打撃を与えることは出来る」
山口多聞の、 この考えが現場の戦争指揮官として正しい。 バカどもは、何をやっていたのか。
南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官)ども !!! 許さん。 それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。 お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。 お前たちを、これから、日本国の真実の歴史の法廷に、引き釣り出す。
私は鬼になってでも、化けてでも出て、戦闘で死んでいった真の日本の英霊たちの怨霊とともに、お前たちの 大犯罪を、明るみに出して、日本国民の公知の事実として、断罪する。 そうしないと、真の帝国軍人たちの英霊たちが浮かばれない。
アメリカの手先になり尽くして、それでもなお、右翼、愛国者を僭称している、穢(きたな)らしい、今の日本の、勝共(しょうきょう)右翼、産経右翼、ワック誌一派ども、よーく。覚えておけよ。真の愛国者というものが、どういうものかを、お前たち、歪み尽くした、アメリカの手先、家来どもに、私、副島隆彦が、鉄拳制裁、海軍入魂棒(にゅうこうんぼう)で、教えてやる。
真の愛国、右翼なら、すべてのアジア人種と共に、欧米白人たちの偽善の世界体制と闘う、と言う、「アジア人同志団結せよ」の大(おお)アジア主義者でなければいけないのだ。
今の、安倍晋三たち 奇っ怪な宗教団体が乗っ取っている日本政府をいやがり、一番、危惧しているのは、天皇と美智子皇后と皇太子(次の天皇)である。
お前たち、逆賊の、アメリカの手先どもとの、 私、副島隆彦の死ぬまでの闘いは続く。ここからあと、また、一柳洋(いちやなぎひろし、横須賀前市議の 文章を続ける。副島隆彦の割り込み、加筆終わり)
ミットウエー海戦で敗退したあとも、大本営は、山本の大敗北の責任を追及して、連合艦隊長官から罷免することをせず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。
そしてそのあとの、ガダルカナル戦線以降の南方での負け戦ばかりだ。艦船の搭乗員の大量損耗で敗戦を早めさせ、最後は特攻(とっこう)で優秀な若者たちを数千人も殺した(副島隆彦注記。 主に知覧(ちらん)航空隊から、海軍2500名、鹿屋(かのや)陸軍航空隊から、陸軍1500名、 合計4千人ぐらい)。
戦後、野村吉三郎 (のむらきちさぶろう、海軍大将のあと1941年1月から駐米大使。 副島隆彦注記。コーデル・ハル米国務長官と、日米開戦を回避するための外交交渉をした。 野村は、始めからアメリカと内通していた。外務省の来栖三郎=くるすさぶろう=が手助けに行ったときには、もう手遅れ。来栖はアメリカと繋がっていない )
らは、敗戦後の、朝鮮戦争時、警察予備隊とは違う海上警備隊をアメリカに作らせて貰い(海軍再建 )、米海軍指揮下に入る(そして今日までつづく)。 野村は、宣戦布告をハワイ攻撃から1時間後にハル国務長官に手交しに行った男ですが、これもフリーメーソン系でしょうか?
海軍が負けて今の 安保(アメリカの属国)体制下にある、との評価はどうなんでしょうか。
この様な裏の流れと今まで語れてきた横須賀のことを、リンクさせて話して下さい。
横須賀市の図書館に出向くことは私は厭(いと)いません。また横須賀には人文博物館があり、学芸員もいますが、政治・外交・軍事の点から見た横須賀軍港の歴史という話を私は聞いた事がありません。どのような資料をお探しか、ご指摘下されば教育委員会の学芸員に親しいのがいますので、聞いてみますのでご指定下さい。5月の連休明けに一度横須賀においで頂くのがよろしいかと思います。 一柳 洋
From: 副島隆彦
Sent: Saturday, May 23, 2015 4:02 PM
To: Ichiyanagi Hiroshi
Subject: 横須賀調査の お礼
一柳 洋 さまへ
副島隆彦から
5月19日の 横須賀での私の現地調査と史料集めを 丁寧に企画して下さり、十分の目的を達成いたしましてありがとうございます。 一柳さまの これまでの生き方の 堅実さと実直さも、よく分かりました。
あの小さな方の湾口で、「なぜ市議選に出なかったの。応援していたのに」 と、一柳さんのご出身の浦郷(うらごう)地区の通りすがりの支援者が、声を掛けてきたのが印象的でした。史料を準備してくださった図書館や、博物館の 学芸員たちや司書たちの 、あなたへの畏敬(いけい)を含んだ、折り目正しい対応にも、 よく これまでの活動が見て取れました。 重ねてお礼を申し上げます。
お送りいただきました、 6月7日の 講演会の当日の 広告文(チラシ)の 画像も改めてお送りいただきありがとうございます。 打ち合わせましたとおりに、なんとか、自分の能力の限りで、準備して 行います。
その前に5月31日の、東京で、弟子たちと学問道場の定例会がありますので、その準備でも手間取っています。まだ一週間有りますので、突貫工事で横須賀の軍港150年間の歴史を概観して、特定の人物たちに 光を当てる作業をします。
広告文(チラシ)は、5月28日ぐらいから、学問道場の 今日のぼやき で、宣伝します。 あと10日しかありませんが、関東圏で集まってくださる人が増えることを祈ります。 終日お付き合いくださった、ご友人にもよろしくお伝え下さい。 副島隆彦拝
副島隆彦さまへ
一柳洋から
本講演の準備できつい、とのことですが、よろしくお願いします。
横須賀市民は、自分たちの市がまさに植民地であることを何とも思わない風土です。海軍が負けてその年の秋から海軍の技術将校や工廠、航空技術廠(しょう)関係の軍属達の自分の就職先として、米軍への売り込みが始まりました。朝鮮戦争が始まる(1950年6月25日)と、基地従業員を多く雇いまして横須賀海軍ベースは、本市の「一大基幹産業」となります。
帝国海軍に続いて米海軍の軍都・横須賀になりました。昭和27年(1952年)からは、海自(かいじ)が属国海軍としてアメリカ海軍に協力。
ベトナム戦末期には、米海軍の佐世保集約の噂も立ち上がりました。が、安保体制によりアジアにおける拠点である米海軍基地として、74年から空母の母港(ホームポート)化となり、今に至り、5千人の日本人基地従業員がいます。米軍の兵士と家族がベースに2万人暮らしています。
敗戦後、海軍解散となり途方に暮れる中、米海軍(と日本政府)が雇ってくれたので、以降、米海軍様々(さまさま)となりました。かくいう私の父も、昭和26年に、漁師を辞めて米海軍ベースに務め、26年後に無事定年退職しました。
沖縄と違い海兵隊(マリン・コー Marine Corps)がやっていることは、基地警備くらいで目立ちません。海軍の将校・下士官は余り乱暴狼藉を働かないので、余計、米軍への地元市民の抵抗感はありません。たまに兵隊クラスの黒人が人殺しなどの重大犯罪を犯します。
ベトナム戦争時は基地の町なのでベトナム反戦で盛り上がりました。米兵の中にも、特に黒人は、ベトナム反戦運動に好意的、デモにも連帯のサインを送ってきたり、下士官兵クラブ前のチラシ捲きでも、よくビラを取ってくれました。チラシを取り上げようとしたSP(ミリタリー・ポリス、憲兵)に抵抗して検挙された白人水兵もいました。
当時の社・共(しゃきょう)の既成政党は、ベトナム戦争時、ベトナムで北爆と南爆をしている通常型空母 の横須賀への入港時(一挙に 3,4隻入るときもありました)にも、何ら抗議をせず、それなのに、アメリカの原潜が入ってくると、大同員かけるので非常に違和感がありました。
さて講演ですが、打ち合わせました通り、第1部はお任せで問題ないと思いますが、第2部は、今まで殆ど本市では真剣に語り合ってこなかった事柄です。忌避し過ぎてきて戦後70年、今は、これらの歴史の事件を理解する人が極めて少数になって論議が成立しません。
幕末(今から162年前、1853年、4年の2回来た)に、「ペリーに開国してもらった」と言うのが市是(しぜ)で、キャッチ・フレーズが「開国の街」というのですから泣けてきます。また歴代アホ市長達が横須賀の売りとして海軍カレーやネービーバーガー(B級グルメ)などを流行らせています。
ですからポツダム宣言、サ条約とセットである安保条約をよく読んでいる者が極めて少なく、属国の屈辱感を持っている者はさらに少数です。私が所属しました社会党が壊滅させられ、反安保、保守の非米、対米不服従 を公言する者は私の知っている人で市内に数千人くらいでしょう(40万人が市の人口)。 共産党もこの20年、「安保破棄」とは言わなくなりました。私も2期目までは社会党でしたから、分断策に乗せられたのだと反省しています。
私が言いたいのは、海軍首脳は始めから負けるように作戦を立て、陸軍を太平洋に引きずり込んで、南太平洋の島嶼(とうしょ)に配置して敵潜水艦と機動部隊に輸送船団は次々と沈められ、陸軍兵士を餓死と玉砕(ぎょくさい)に追い込みました。海軍も陸戦隊(りくせんたい)や基地の設営部隊は見捨てられました。
真珠湾、ミッドウエーも山本五十六の指揮した作戦は、アメリカを奮い立たせ、虎の子の主力空母をほとんど沈めさせに出撃(発進)させたようなものです。ガダルカナル戦の元となった、米豪(べいごう)遮断作戦の積極策も、石原完爾(いしはらかんじ)が言うように、終末攻勢点(しゅうまつこうせいてん)を遙かに超えており(副島隆彦注記。あまりにも遠隔地まで、陣地を広げすぎて)負けて当然で、戦略なしも良いところでした。
それよりは、しっかりと島嶼防衛を固めて海戦要務令(かいぐんようむれい)に定めるところの、(防御戦に徹して)漸減邀撃( ぜんげんようげき 、迎え撃って段々と敵を減らすこと )をした方が、結局は負けるにしても理にかなっています。い号作戦(この最中に山本五十六は撃墜される)における航空戦も、未帰還機が当然、多数出る状況を真剣に検討した形跡がありません。対空兵器と対潜兵器の決定的な差が海軍敗戦の根本です。
わざと負けて、現在の日米安保体制(にちべいあんぽたいせい、 永続敗戦状態 )にしたのではないか、というのが、私は今でも信じたくはないですが、海軍上層部の親米派がやったことでしょう。
陸軍の頑迷派も、ソビエトに対する対峙線として、押さえるべきは満州国だけで手を打っておけば良かったものを、中支や北支にまで攻め込み、中国(蒋介石)に持久戦に持ち込まれ、英米は援●(えんしょう)ルートで、中国支援をして中国と日本の戦争を長引かせた。これは、今の尖閣を巡る構図と全く同じでは無いかと思ってしまいます。
そう言う意味で「昭和の海軍はなぜ誤ったのか」を先生に指摘して頂ければと思います。特攻を始めたのは海軍であり、マリアナ海戦で連合艦隊は壊滅し、以降近代海軍としては崩壊していた。それなのにその後1年間も戦争を継続した。そのために、同胞200万人以上を殺し、米軍の空襲や原爆投下、満州引き上げ の悲劇等で多くの民間人の命を見捨てた。この責任も誰も取っていませんし、メディアも“海軍反戦トリオ”“海軍3提督”とかの虚構は作るものの、真の敗戦責任を問うた事がありません。
操られてアジア人どうし戦わさせられる愚、を悟るべきと言う、先生の日頃の指摘を結論にして頂ければと存じます。
それと、戦後の自衛隊の役割について観念論はあります。が、具体に誰から何を守る為にあるのか、とか、今の兵器調達や運用配備について具体な論議が何も無いことに私は疑問を持っていました。が、分かりました。具体に国会でこの議論をやると自衛隊はアメリカの属国軍隊であることがばれてしまうから、だからそれをしないのだと言うことが分かりました。以上感想と希望を申し述べました。 一柳 洋
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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