「1515」 「思想対立が起こした福島原発事故」相田英男 第2章 「札束で引っぱたかれた科学者達」をシリーズで短期連載します。(第2回)2015年3月5日

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副島隆彦を囲む会の中田安彦です。

2015年3月5日です。

 前回に続いて、相田英男さんの寄稿論文、「「思想対立が起こした福島原発事故」第2章を掲載します。第三回は会員ページに載せてそれで第二章完結の予定です。第三章は届きましたら随時掲載します。

 第二回目はいよいよ日本の原発導入の影で暗躍した中曽根康弘の登場です。
左派物理学者がこのアメリカ製原子炉導入をどういう思いで見ていたのか、この論文でしっかりと私も勉強し直したいと思います。日本学術会議という組織についても詳しく触れられており、興味深い論文です。

(以下、論文貼り付け開始)

2.4 「札束でひっぱたく」の真実

 武谷三男には、仲間の研究者達と協力して執筆した「原子力発電」(岩波新書、1976年)という有名な本がある。この本の前書きで武谷は、1952年秋の学術会議総会での茅・伏見提案について、以下のようにコメントしている。

―引用始め―

その夏頃、日本学術会議の茅誠司氏と伏見康冶氏が秘密裏に原子力計画を進めていることを、八月の終り頃になって素粒子論の若手研究者達が探知し、問題にしはじめた。これは政府部内に原子力のための委員会をつくり、それによって研究費をとろうという計画で、政府、自由党の政治家と連絡があるらしいということであった。原子力こそ計画をたてるならフェアに公開に討論を大いになすべきなのに、暗々裡にやっていることが若手学者達から非難のまとになった。

―引用終わり―

上の武谷の話では、茅と伏見の二人が隠密裏に計画を進めたことが問題であるような書き方がされている。しかし、事実はこの提案はべつに秘かに計画されたものではなく、学術会議の規則に従って伏見が淡々と手続きを行っていただけであるらしい。ここでは前節に続きまたしても、広重徹の「戦後日本の科学運動」から学術会議での伏見の対応について引用する。

―引用始め―

茅・伏見提案の立役者伏見康冶は、まえまえから原子力問題に関心を払い、個人的にいろいろ調べていたが、一九五一年十月の学術会議総会で、翌年発行する(引用者注:サンフランシスコ)講和条約のなかに“原子力研究の禁止事項が含まれぬよう”要望することを提案した。これはけっきょく採りあげられなかったが、さりとて、日本では原子力研究をやるべきでないという反論がだされたわけでもなかった。
(中略)
さて、一九五二年七月二十五日に学術会議の運営審議会が開かれた。その席上、茅誠司(引用者注:当時は学術会議副会長)は、十月の学術会議総会で“原子力委員会の設置を政府に対して申し入れるため、今から学術会議としても、特別委員会の設置を考える等その準備を進めて行ってはどうか”と提案した。審議の結果、“十月の総会に政府に対し原子力委員会設置について申し入れをおこなうこと、を提案すること”がきまり、第四部(理学)のなかで案を作って各部長に連絡し、まにあえば総会前に運営審議会に提出することがきまった。

第四部では茅のほか、部長の岡田要(おかだよう、動物学者)、副部長の藤岡由夫(ふじおかよしお、物理学者、理研の仁科研出身)、幹事の坂田昌一と萩原雄介(はぎわらゆうすけ、天文学者)の五名が協議して、伏見に原案起草を依頼することにした。翌二十六日、岡田は伏見あてに、“政府に対し原子力委員会設置について申し入れをおこなうこと”を提案することを決定したについては、その原案を作ってほしい旨の手紙を送った。この経過からみると、この間、ことは学術会議の機関をへておこなわれており、ことさら秘密裡に進められたとはいえない。しかし、事実としては、一般の研究者はこのようなことが進行していることを全く知っていなかった。

―引用終わり―
 
 引用文にある「運営審議会」とは、学術会議の各部(全部で7部)から部長以下4名が出席して、会長・副会長の司会の下で、後日開催される大会の議題や進行を決めるものであるという。その席で茅は、事前に伏見から要望されていた議題について説明したが、その内容は“政府に対し原子力委員会設置について申し入れをおこなうこと、を提案すること”という、なんともまどろこしいものであった。その際には、第四部会の幹事として坂田が出席していたが、その場では特に厳しい反論はなされなかったようである。

 伏見によると、原子力開発に関する具体的イメージなど、第四部会の幹事達には誰も持てなかったため、まずは事前の調査資料を作ってくれとの注文が伏見になされた、という。伏見は別に武谷が指摘するように、秘密裡にことを進めた訳ではなく、学術会議の責任者達の合意を得ながら、手続を行っている。坂田を通じて武谷にもこのような伏見の動きは当然伝えられていたと、私は思う。

 伏見は夏休みを使って国内の複数の大学研究室に出向いて、基礎実験に必要な重水、天然ウランの日本国内での確保等から調査を進めた。しかし、8月の終りに素粒子論グループの若手で、南部陽一郎と一緒に東大から大阪市立大に飛ばされた早川幸男(はやかわさちお、後の名古屋大学学長)が伏見の下に現れて、強い抗議を行った。これ以降、伏見の調査活動は、素粒子論グループの連絡網により、瞬く間に全国の研究者に広まることとなる。各地の大学や民科支部において、伏見の調査活動への抗議声明が発表され、東大、阪大、神戸大等に説明に出向いた伏見は、連日吊し上げられる事態となった。

 10月後半の学術会議総会を前にして、茅、伏見、坂田、朝永の4名が協議を行い、提案内容を「原子力委員会設立を政府に申し入れることの可否を検討する、委員会を置くことを、提案する」と修正することになった。総会直前の学術会議運営審議会はこの結論を了承し、第四部会が認めればこれを第四部会提案とするが、認めない場合は茅・伏見両名の個人提案とすることを決めた。

 しかし、10月23日の学術会議第四部会での審議では、第四部会提案とすることが5対21の大差で否決された。これを受けて結局、翌日の学術会議総会では茅・伏見の連名での提案がなされた。本来は、第四部会からの正式な提案を目指して準備をしていた伏見であった。しかし肝心の総会前の第四部会の会合では、激しい反対活動に押されて支持がほとんど得られなかったため、やむを得ず茅・伏見個人の提案の形になった、という事である。問題の学術会議総会では、激しいやり取りが行われた末に、原爆被害者である広島大の物理学者の三村剛昂(みむらよしたか)による、有名な涙の熱弁がとどめとなり、茅・伏見提案は取り下げとなってしまう。

 茅・伏見提案への反対論が激しく盛り上がった理由については、広重の説明などを踏まえると、大きくはふたつ考えられる。ひとつは、茅・伏見提案の時期が、サンフランシスコ講和条約と重なったことである。講和条約はアメリカに代表される西側諸国家との間だけのものであり、ソ連、中国などの東側国家との、正式な国交は未締結のままであった。講和がこのような「片側条約」であったことが、左翼主義者達に大きな動揺を引き起こしていた。

 民科の項で述べたように、終戦直後の占領下では、GHQのニューディーラー達により日本共産党に対する積極的な支援が行われていたが、1948年頃から「逆コース」の流れが起こり、アメリカの容共的な姿勢に急速な変化が生じていた。1950年になると共産主義者を公職から追放する「レッド・パージ」も活発化したことで、左翼主義者達は様々な防衛策を強いられるようになった。民科で進められた「国民的科学」の運動はその代表的なものである。
 
 このような情勢の下で原子力研究に着手することは、研究が遥かに先行していたアメリカとの結びつきが強まり、その結果として、当時は帝国主義化と同義であった資本主義化の流れが日本で加速されるであろうことに、科学者達は大きな不安を感じていた。GHQのニューディーラー達の指導の下で想い描いていた、「労働者自身の民主革命による理想社会の到来」が困難になることが、彼らの大きな問題であった。「ミスター学術会議」こと福島要一等の「民科系」の学術会議員の活動も、このような反米の雰囲気に拍車を掛けていた。

 茅・伏見が反対されたもうひとつの理由は、原子力研究が科学者達の自由な研究活動を阻害して、国家による研究の統制を招く可能性である。当時の科学者達の間では、戦争中の翼賛体制に多くの科学者達が取り込まれて、自由な発言が奪われたことが、大きな反省事項として、度々議論に挙げられていた。科学者達は、研究活動が国家と安易に結びつくことを極度に警戒しており、研究に多額の資金が必要となる原子力研究は、科学者から自主性を奪い翼賛体制の復活に繋がるとみなされたのである。

 この点に関しては、現代における研究者達の、産官学の連携によるプロジェクト研究の大規模な推進と、多額の予算獲得競争に明け暮れる活動を考えると、隔世の感がある。研究者の信用を著しく失墜させたSTAP細胞の事件も、「かわいいお姉さん研究者」の印象を積極的にPRことで、政府や民間企業から多額の資金を引き出そうとした理研の姿勢が、問題の核心であることは明らかである。当時の学術会議での科学者達の考えは、このような姿勢とは真逆であったということである。その中で、政府との連携による原子力研究の必要を訴えた、茅と伏見の考えは、固定観念に囚われない「時代を先取りした発想」といえるのかもしれない。

 この時代の日本の科学者達に存在した、国家からの束縛を嫌い、「過度に」自主性を尊重する考え方は、後の東大総長の矢内原忠男(やないはらただお)による、政府へのある要望の形で、原子力開発に大きな影を落とすことになる。

 学術会議総会で否決された茅・伏見提案であったが、その総会の最後に副会長であった法律学者の我妻栄(あがつまさかえ)から、「学術会議として原子力に背を向けるだけではなく、将来の原子力開発をどのように進めるかについて、審議するための委員会がせめて必要ではないのか」という提案が出された。どさくさに紛れて、この我妻提案はすんなり総会の承認を得ることが出来たが、広重によるとこの我妻の案は、茅・伏見提案の内容と実質的に何ら変わらないものであったという。

 「片方はさんざん批判された一方で、もう片方が問題無く承認されてしまったことは、不思議なことであった」と、広重は少々皮肉を込めて書き残している。この時の学術会議総会では、議論がヒートアップしたことで、参加者全員が実のところは審議の内容を冷静に考えていなかったことが伺える。

 この我妻提案を受けて、学術会議の下部組織として第39委員会という組織が設立された。第39委員会は物理学者だけではなく、法律学、哲学などの社会科学系の学者も含めたメンバーで構成されて、原子力の進め方について討議された。しかし伏見の期待に反して第39委員会の議論では、原子力研究の開始は時期早々であるという消極的な意見が、繰り返し出されるだけであったという。

 日本で袋叩きにあっていた伏見を尻目に、海の向こうのアメリカで一人気を吐く日本人物理学者がいた。カリフォルニアのバークレーにある、ローレンス研究所に留学中の嵯峨根遼吉である。学術会議設立の立役者でありながら総選挙であえなく落選した嵯峨根は、東大を離れて再びローレンスの下で研究を行っていた。後の科学技術庁の原子力局長を務めた島村武久(しまむらたけひさ)が、後述する「島村研究会」の席で述べた発言によると、嵯峨根はアメリカでおとなしく研究に打ち込んでいただけではなく、日本から訪れた政治家や財界人を研究所に招き、原子力についての積極的なPR活動を行なっていたらしい。

 当時アメリカから日本に帰国する際には、鉄道などで一旦カリフォルニアまで出た後で、船なり飛行機なりを利用するのが一般的であった。島村によると嵯峨根は、同時期に米国留学していた朝永振一郎や菊池正士とは違った「異常な感覚」を持っており、アメリカでの視察を終えて帰国する前の日本の要人達に、最先端の研究設備を紹介しては、原子力開発の重要性を訴え続けていたという。

 53年に中曽根康弘がハーバード大学の「サマースクール」を終えて帰国する際にも、嵯峨根の元を訪問して原子力についての話を聞いている。島村の話では、中曽根が原子力に関心を持ったキッカケは、嵯峨根から吹き込まれたからではないのか?という可能性が強いらしい。日本にいた時には原子力にほとんど関心を示さなかった中曽根は、嵯峨根と会って話して以来、態度を大きく変えたといわれる。

 カリフォルニアでの嵯峨根の行動は明らかに、アメリカ‐日本の間における原子力技術に関するインフォーマント(情報提供者)の役割を果たしている。自分には確かな証拠はないが、おそらく戦後のアメリカは、当時のハイテク最先端ともいえる原子力技術を使って、周辺諸国との政治交渉で優位に立つための戦略を練り続けており、そのための協力者を支配国から集めて教育し、活動させていたのではないかと思う。その日本代表の協力者が嵯峨根であったではないだろうか。島村が嵯峨根について語っている「異常な感覚」とは、インフォーマントとしての側面を指していると思える。

 ただし、本論考の目的は「戦後のアメリカによる原子力技術を用いた世界戦略」について解説することではない。アメリカ側の動きについて書くには、英語の公文書を紐解く必要があり、自分には手に負えない。それでもGHQが、嵯峨根を戦後すぐにアメリカに戻すことを認めたのは、以前の師であるローレンスの下で勉強させる以外の、裏の目的があった可能性が高いと思える。

 翌64年の3月に国会に提出された原子力予算のきっかけは、2月の終盤に斎藤憲三(さいとうけんぞう、TDKの創立者でもある)を代表とする改進党の国会議員数名が、秋田からの選挙活動終えて列車で帰京する際の話で出されたと言われている。しかしその話合いの席には中曽根はいなかったという。たまたまアメリカで嵯峨根から話を聞いてきた中曽根が、その直後に斎藤達から話を聞いて計画に乗っかって、途中から「さも自分で全て考えてやりました」と居直って吹聴したのが、有名な「中曽根氏予算」の真相ではないかとも思える。そうすると、日本の原子力開発をスタートさせた真の立役者は、カリフォルニアで中曽根に吹き込んだ嵯峨根ということになる。インフォーマントとしての嵯峨根の面目躍如である。

 茅・伏見提案から1年後の1963年12月に、アメリカ大統領のアイゼンハワーが国連総会で、原子力技術の民間への解放を提案する「アトム・フォー・ザ・ピース」の歴史的演説を行った。アメリカが原子力技術を他国に公開することを想定していなかった伏見は、このニュースを知った時に、日本が自発的に原子力研究を進める事が難しくなるかも知れない、との不安を感じたらしい。外堀は徐々に埋められつつあった。

 広重や「中山本」が繰り返し指摘するように、当時の学術会議の科学者達は、自分達の外の状況が急速に変わりつつあることに無頓着であった。軍国主義思想と封建的な学術体制の打破が最重要課題であった終戦直後から、朝鮮戦争の特需を経て社会が貧困から徐々に脱することで、産業界には経済復興に役立つ科学への要望が高まりつつあった。占領軍を引き揚げさせた後のアメリカも、共産ソビエト、中国への防衛拠点としての日本の経済復興を後押ししていた。原子力技術の民間利用も、日本を経済復興させるためのアメリカが用いた切り札の一つであった。

 政治家、財界人達から見ると、学術会議内での科学者達のやり取りは、日本経済の復興協力など全く視野に入れていない、まどろこしくて仕方がないものであった。そして遂に、彼らがしびれを切らす時がやって来た。

 年が明けて2月27日に、学術会議第39委員会の主催により、「原子力に関するシンポジム」が多くの学者を招いて上野で開催された。様々な分野の学者から前向きな意見を聞いて、満足して大阪に戻った伏見であったが、その数日後の3月4日の朝に伏見が新聞で目にした記事が、改進党の中曽根康弘、斎藤憲三議員等による、衆議院での原子力修正予算の提案であったという。

 当時の学術会議長に選ばれた茅誠司と、第39委員会委員長の藤岡由雄の2人は、記事を読んだ直後に、改進党まで出向いて予算の取下げを要望するも、「あなたたち学者がぼやぼやしているから、札束でほっぺたをひっぱたいたのだ」と、中曽根にあしらわれたのは、有名な話である。中曽根はこの発言を別の代議士のものと否定しているが、藤岡は自身の回想で、この発言を中曽根本人から聞いたと述べている。

 ここまでくれば、中曽根の「札束でひっぱたく」という発言の意味はあきらかであろう。ようするに「お前たち学術会議の学者達の手を借りて、日本経済を立て直すつもりなど、もはや我々にはない」という、体制側からの絶縁宣言である。「共産党や民科に引き回されて、大局を見ようとしないアカがかった学者達など、我々は今後は相手にしない」ということである。

 その後の原子力開発の道筋は、この「中曽根発言」の内容に、正に沿うように進められることとなる。「民主的な活動」ばかりを優先する科学者達に、政治家の方から三下り半が突きつけられたのであった。

2.5 藤岡ミッションと二つの秘密文書

 ここではまず、2012年9月の新聞赤旗に掲載された一つの記事を紹介する。1954年の「中曽根予算」提出当時の政治家や官僚達が、思想家としての武谷、坂田の影響力を、極めて警戒していた事実が示されている。

-引用始め-

2011年9月4日(日)「しんぶん赤旗」

日本政府 原子力推進の“障害”と
民主的学者 排除リスト
54年「極秘」報告書

 日本で初の原子力予算が計上された1954年当時、日本政府の関係者が原子力政策の推進にあたり、自主的・民主的な研究を目指す原子核物理学者を“障害物”とみなし、「極左」「左」などと思想選別し、排除を考えていたことを示す「極秘」報告書が明らかになりました。

 「極秘」報告書は、東京工業大学の山崎正勝(やまざきまさかつ)名誉教授が米国立公文書館所蔵の米国務省解禁文書の中から発見しました。54年2月24日付の文書で、日本語の活字で書かれています。タイトルは「日本に於ける原子核及び原子力研究の施設及び研究者について」。

 同報告書の表紙には、文部省の福井勇(ふくいいさむ)政務次官(自由党衆院議員)と通産省工業技術院の駒形作次(こまがたさくじ)院長の氏名と肩書(いずれも当時)が英語で手書きされています。同年9月27日に在日米大使館から米国務省に送られています。

 報告書は「原子力問題が面倒な理由の一つは、左翼の反米運動の材料として使われているためである」と述べ、学者を名指しで非難。坂田昌一名古屋大学教授や武谷三男氏を「素粒子論研究者の極左派」だとして、「最も強く、保守政府の下での原子力研究に反対している」と敵視しています。

 坂田氏は、素粒子物理学の新しい発展の道を開き、世界的に著名な研究者です。同氏の研究室には、後にノーベル物理学賞を受賞する益川敏英氏もいました。武谷氏は、坂田氏らと「素粒子論」を研究していました。

 報告書はさらに「極左思想をもつ指導者によって統合されている最大の組織は民主々(ママ)義科学者協会」だとし、原子核物理学関係の会員・同調者として坂田、武谷氏のほか、伏見康治氏(後に公明党参院議員)、中村誠太郎氏らの氏名を列挙。「(科学者の国会とされる)学術会議々(ママ)員の中には、民科を背景とする議員が多く、約40名に及ぶと言(ママ)われている」と報告しています。また「中立系の学者の大部分」も「米国に依存することを排している」としています。

 日本の主要な原子核物理学者の大学・研究所別一覧表も掲載しています。備考欄で「極左」「中立」「右、米国と関係深し」などと各学者への注釈を付けています。

 報告書は、日本政府の原子力政策に批判的な研究者らを排除し、米国依存で安全無視の原発建設を推進するため形成された“原子力村”の原点を示すものです。

日米が共同で画策

資料を発見した山崎正勝(やまざきまさかつ)東京工業大名誉教授の話

 この「極秘」資料は、文部政務次官だった福井勇が吉田茂政府の下でまとめたと思われる。当時、アメリカでは、水爆に反対したオッペンハイマーなどの科学者が追放される事件があった。この資料から、日本でも、原子力開発から政府方針に批判的な科学者を排除する意図があったことが分かる。「極秘」資料が、アメリカ大使館を経て米国務省に渡っていたことは、日米政府共同で進歩的・左翼的科学者の排除を進めていたことを示している。

-引用終り-

 相田です。この文書を発見した東工大名誉教授の山崎正勝氏は、戦前の理研の原爆開発などの記録を研究されている科学史家である。上の赤旗の記事には詳しく書かれていないが、この衝撃的な内容の文書が書かれた1954年2月24日は、中曽根等による原子力予算が国会に提出される直前(予算提出の新聞発表は3月2日)にあたる。さらに著者の一人の駒形作次が所属していた工業技術院とは、国会で承認された原子力予算2億6千万円の運用先としてあてられた、当時の通産省下の政府機関である。これから予想されることは、修正予算提出の前に政治家と官僚達との間での根回しがされており、その中でこの秘密文書が作られたことである。

 そもそも工業技術院とは、学術会議と同じく終戦直後にGHQのケリー等により、日本の工業技術を回復させることを目的に作られた組織である。「中山本」によると、戦時中の日本軍による科学動員体制を分析したアメリカは、研究組織間の連携が日本では全く取れておらず、持っている人材力や技術成果を引き出せていない事が、技術開発の最大の問題であるとみなしたという。この結論を背景に、政府下にバラバラに分かれていた国立の研究施設や工業試験所を集約して、一元管理することで、国内産業の復興を加速させる組織の設立を、ケリー等は日本政府に提言した。

 当初のケリー等の計画では、工業技術庁という権限の大きな組織として計画されていたが、学術会議の学者達が政府に逆らい続ける弊害などを反省し、政府側で管理しやすいように、通産省の下部組織の「院」として修正されたという。現在の産業技術総合研究所という組織が、旧工業技術院の流れを受け継いでいる。当時、その工業技術院長を務めていたのが、東大電気工学科出身の技術官僚の駒形作次であった。

 さて改進党の斎藤憲三達が、秋田から電車で帰京する際に原子力予算を持ち出したのは、2月20日であったという。この日付が正しいとして時系列を辿ってみると、斎藤達の考えが政府関係者に内々に伝わり、4日後にはこの文書が作られたことになる。実質的にこの文書は、1日位の特急作業で書かれたと推測される。このような書類が予算提出に先立ち準備されていたということは、当時の政治家や官僚達の間で、物理学者達が抱えている左翼思想が、原子力開発を進める際の最大の障害になる、とみなされていた事実である。武谷、坂田の存在は、体制側にとって極めて重要視されていたのである。

 当然ながら中曽根もこの文書を読んでいたであろうと、私は思う。その結果が「札束でひっぱたく」発言に繋がったことは、容易に推測される。

 この山崎氏の発見した秘密文書の全文を読もうと、ネットなどを調べてみたが見つけられなかった。ただし、同時期の東京新聞にも山崎氏のおなじ文書の紹介記事があり、こちらには物理学者達のリストの一部が、抜粋されて掲載されていた。それによると

・武谷三男 極左
・坂田昌一 極左
・湯川秀樹 中立、内心は右
・嵯峨根遼吉 右
・菊池正士 やや右
・伏見康治 原子力開発に熱心、左

その他、茅誠司、藤岡由夫、朝永振一郎、については「中立」と記載されている。

 ここで注目すべきは、伏見康治が原子力開発に熱心であるにもかかわらず「左」とみなされたことである。伏見は当時、左翼学者の集まりである民科の副会長として活動していたことが、体制側に問題視されていたのである。

 山崎正勝氏の著書「戦後日本の核開発:1939~1955 原爆から原子力へ」(積文堂、2011年)の記載によると、この秘密文書は福井と駒形により米国大使館に持ち込まれたらしい。当時、科学アタッシェとして東京に駐在していたO.ラポルテは、伏見について第一級の理論物理学者と評する一方で、民科のメンバーであったことから「よく知られた共産主義者」とみなしていたという。同時期のアメリカでは、原爆開発のリーダーを務めたオッペンハイマーが、共産主義者の疑いを掛けられ、原子力委員会により公職追放されていた。アメリカにおいても当時は、左翼系物理学者達の活動は看過出来ない重要案件であった。不幸にも伏見はこの流れに巻き込まれてしまったのである。

 この文書は同年9月にはアメリカ国務省に送付されたという。そして実際にこの秘密文書が効力を発揮したと思われる、一つの事実が存在する。1954年の12月に、藤岡由夫を団長とする15人のメンバーが、一月以上にかけてヨーロッパ、アメリカに渡り、原子力開発の状況について視察を行った。この視察団は工業技術院に計上された原子力予算の用途の一つとして計画されたもので、視察団の一員として伏見も加わっていた。伏見はこの視察団を「藤岡ミッション」と呼んでいる。

 しかしながら、どういう訳か伏見一人だけ英国への入国ビザが発給されないまま、日本を出発することになった。視察団はイタリア、フランスを巡ってイギリスに向かう予定であったが、その途中で伏見に一つの知らせが届く。その内容は、伏見は“fellow – traveler” であるためイギリス政府は入国を認めない、というものであった。「フェロートラベラー」とは直訳すると、「旅行に一緒にくっ付いていく者」、ということであるが、その前に実は「共産党への」という記載が省略されており、意味するところは「共産党の発言に従う者」ということである。即ち伏見は「共産党のシンパ」であると、イギリス政府にみなされたことで、入国を拒否されたのである。

 藤岡の判断により、伏見は理研の物理学者の山崎文男と一緒に、著名な原子力研究者のバーバー博士会うために、訪問先をインドに変えて、その後に日本に帰国した。藤岡ミッション自体は充実したものであったものの、伏見は、「フェロートラベラーとの烙印を押されてしまっては、自分はもはや原子力研究の場に出る資格を失ってしまった」という、寂しい気持ちが込み上げて来たことを、自らの回顧録の「時代の証言」に記している。

 伏見の「時代の証言」のなかにはこの視察団15名全員の名前が記されているが、そこには何と、上記の秘密文書を書いた福井勇と駒形作次の二人が含まれている。視察団が出発する際に、メンバーリストが問題の秘密文書と合わせて訪問国に送られ、「左」と認識された伏見がイギリス入国を拒否されたであろうことが推測される。流石の伏見も、視察団の一員の中に自分の素性を告げ口する者達がいたことは、想像出来なかったであろう。

 学術会議で最初に原子力を提案した際には、左翼学者達からの猛反対により取下げられた伏見であったが、政府が正式に原子力に取り掛かる際には、今度は自分が共産主義者との疑いを掛けられて、主要メンバーから外されてしまったのである。伏見もまた、1/3電荷の粒子の存在を受け入れられずにノーベル賞を逃した坂田昌一と同様の、悲運の物理学者であった。

 さて話はここでは終わらない。1955初頭に藤岡ミッションのメンバーが帰国した後、工業技術院の中で海外調査報告書をまとめる際に、「ある事件」が起こっている。それについて触れた朝日新聞の記事を以下に引用する。

-引用始め-

「原子力委の設置、裏に偽装報告 55年 初の海外調査団」
(朝日新聞2011年7月17日)

 政府が1955年、原発を導入するために初めて派遣した海外調査団の報告書が、原子力委員会の設置を推進する内容に偽装されていたことがわかった。作成に関与した旧通商産業省の初代原子力課長(故人)の偽装を認める証言が、文部科学省の内部文書に記録されていた。

 文書は85~94年、日本の原子力行政の重鎮で、原子力局長や原子力委員を務めた故・島村武久氏が、原子力政策にかかわった政治家や官僚、学者など33人を講師として招いた「島村研究会」の録音記録。A4判620ページにわたって文書化され、文科省が製本したものを朝日新聞が入手した。

 政府は54年12月、初めての原子力予算で、物理学者を団長とする15人の「原子力平和的利用海外調査団」を派遣。4班に分かれて米英仏やインド、スウェーデン、デンマークなど14カ国を巡り、原子力行政の組織体制を調べた。

 調査団は帰国後、原子力を推進・開発する政府の機関について「各国の統括機関はほとんどすべて委員会の形をとり多頭。各方面の意見を十分に入れるためと思われる」と報告書に明記して、集団指導体制による委員会の設置を日本でも急ぐよう提言した。

 事務局として作成にかかわった旧通産省工業技術院原子力課の初代課長の故・堀純郎(ほりすみお)氏は88年、「島村研究会」に招かれ、「(トップに)委員会 をつくっているのは米国だけで、ほかにはどこもない」と指摘。フランスは「役所」、イギリスは「公社」だったにもかかわらず、「(諸外国は)どこでも委員 会だ。だから日本でも委員会を作らなくちゃいかんと強調した」と偽装を証言した。

 さらに「若い事務官がこんなうそ書けるかと憤慨した」とも証言し、のちに資源エネルギー庁次長となる豊永恵哉(とよながけいや)氏が偽装に抵抗したことを明らかにした。

 豊永氏は朝日新聞の取材に「委員会は米国にしかなく、責任があいまいになり、日本になじまないと思った。むしろしっかりした行政組織を作るべきだと上司に進言した」と話す。

 政府は報告書をもとに原子力委員会を56年に発足させ、初代委員長に正力松太郎国務相、委員にノーベル物理学賞の湯川秀樹氏、経団連会長の石川一郎氏らを起用。著名人を集めた委員会を設け、米国の水爆実験で「第五福竜丸」が被曝(ひばく)した事件による原子力への世論の逆風を弱める狙いがあったとみられる。政府が公表した報告書の偽装は、原発導入期からの隠蔽(いんぺい)体質を示すものだ。(山岸一生)

-引用終り-

 相田です。この記事に書かれた海外調査団とは、「藤岡ミッション」であることは疑いない。ここで触れられている「島村研究会」とは、正式名称を「島村原子力政策研究会」と呼ばれている。科学技術庁に設けられた原子力局の局長を務めた島村武久が、引退後に戦後初期の原子力開発の経緯を記録に残す目的で、様々な関係者を招いて原子力に関する講演を行ったものである。その際の記録が近年になり発見されて、文科省により文書化され一部の関係者に配布されたという。

 NHKによるドキュメンタリー番組でも「島村研究会」は取り上げられて有名になった。その番組の内容は、「原発メルトダウンの道」(NHK ETV特集取材班、2013年、新潮社)という本に纏められている。島村研究会では全部で33名の人物が招かれて、様々な出来事についての話をしており、伏見も学術会議での提案の際の状況について述べている。

 上の朝日の記事によると、工業技術院原子力課の初代課長の堀純郎という官僚が、1988年に「島村研究会」に招かれて語った話の中に、「藤岡ミッション」の報告書を纏める際に、内容について偽装工作を行ったと証言したという。

 さて、工業技術院の官僚達が行ったとされるこの「偽証工作」の、一体どこが問題なのであろうか?朝日新聞の山岸記者によると“原発導入期からの隠蔽(いんぺい)体質を示すもの”であることが、問題であるらしい。しかしそんなことは、はっきり言ってどうでもよい。事実を“隠蔽”することなど、「原子力村」の関係者だけではなく、左翼の反原子力運動家達もやっていることである。左翼活動家も「隠蔽工作」を行っていた事実については、本論考の第3章で私がはっきりと触れる予定である。

 私が考えるに、より大きな問題は “隠蔽した事実” にあるのではなく、偽証により生じた原子力開発の体制自身にある。以下にその理由の詳細を述べる。

2.6 「何でもあり」になってしまった日本の原子力体制

 先の朝日の記事で堀氏が述べた「偽装」の内容とは、原子力開発を推進するための政府の基本体制に関するものである。日本では原子力政策を取り纏める最高組織として、1956年に原子力委員が設置された。委員長は科学技術庁長官が兼任し、他の4名の委員は科学者、実業家、元官僚等から選ばれた有識者が、3年を任期として順次交代する、というシステムであった。

 このような委員会形式が採用された理由の一つは、「藤岡ミッション」の報告の中に、「各国の統括機関はほとんどすべて委員会の形をとり多頭。各方面の意見を十分に入れるためと思われる」という、趣旨の記載がされていたからであったらしい。

 しかし、この工業技術院が作成した報告には偽証があった。堀氏の話では、フランスは「役所」、イギリスは「公社」の組織を取っており「(トップに)委員会 をつくっているのは米国だけで、ほかにはどこもない」のが実情であった。にもかかわらず「(諸外国は)どこでも委員会だ。だから日本でも委員会を作らなくちゃいかんと強調した」という、事実と全く異なる趣旨で、報告書が作られてしまったらしい。

 問題の核心は、その結果作られた原子力委員会という組織自体にある。日本の原子力委員会は原子力政策に関する決定力が、実は非常に弱いのである。

 成立直後の原子力委員会は、初代正力委員長の強引な主張により、イギリス製のコールダーホール型原発を導入する道筋を作った。しかしこの決定は、科学技術庁長官としての正力個人が暴走した結果であり、原子力委員会の組織的な議論とバックアップがあった訳ではない。正力引退後の1960年以降になると、原子力委員会は他の政府系審議会や電力会社等が提案した内容を、ただただ承認するだけの、お飾り的な組織となってしまう。

 日本の原子力委員会は、行政権を有する国家公務員法3条委員会ではなく、単なる政府への諮問機関に過ぎない8条委員会である。原子力委員会が8条委員会である事実は1960年代の国会審議の中で、島村武久がはっきりと認めている。8条委員会であるということは、原子力委員会の決定事項は単なる一つの考え方にすぎず、その決定を採用するか否かの最終判断は、政府や国会議員が下す、ということである。後から役人や政治家達のさじ加減で、どうにでも変えられるということである。

 ちなみに、福島事故の後で、菅直人の肝いりで作られた「原子力規制委員会」という組織は、環境省の外郭団体であり、こちらは行政権を有する3条委員会とされた。こちらの決定事項は、行政判断とされるために、強制力を持っている。後から作られた規制委員会の方が、本来の原子力政策の中核であるべき原子力委員会よりも、上位の決定権を有するという、なんとも倒錯した状況に、日本のシステムはされてしまっている。

 日本の原子力委員会に権限がほとんど存在しない事実は、福島原発事故後の国の対応を見てもよくわかる。福島事故の原因に関する「事故調査報告書」と名の付く資料が、「国会事故調」、「政府事故調」、「民間事故調」、「東電事故調」といった、4種類も作成されていることは、誰もが周知の事実であろう。しかし何故、4種類もの「事故調」が作られる必要があるのであろうか?一体その中の、どの「事故調」が最も権威があり、信頼に足る内容なのであろうか?本当のところは、実は誰にもわからない。

 本来ならば「事故調」は一つに纏めて出すべきだと、誰もが考えるであろう。その「事故調」を纏める組織は何処かというと、当然ながら日本の原子力政策の最高決定機関である原子力委員会の筈である。原子力委員会の手で、1本の「事故調」を纏めることが、本来すべき事なのではないだろうか?しかし原子力委員会は、福島事故後の混乱した状況を収拾してリードするつもりなど、はなから諦めているように、私には思える。ガバナンス能力が著しく欠如していることが、日本の原子力委員会の最大の問題であるのだ。

 朝日の記事では、豊永恵哉氏という当時の若い事務官が「委員会は米国にしかなく、責任があいまいになり、日本になじまないと思った。むしろしっかりした行政組織を作るべきだと上司に進言した」と、インタビューで語ったそうである。豊永氏は「こんなうそ書けるか」憤慨して、上司に強く抵抗したという。原子力委員会の設立前から、委員会形式ではガバナンスが弱まることを懸念する声が、官僚の中でも挙がっていたのである。

 なぜ、政治家や官僚トップの連中達は、原子力政策組織の権限を意図的に弱体化したのであろうか?その謎の鍵は、当時の工業技術院長の駒形作次にあると、私は考えている。上の富永氏が強く抵抗したという上司の一人は、間違いなく駒形だろう。駒形の真意はおそらくは、その前の赤旗が暴露した秘密文書の中にあると私は思う。即ち、駒形達は、武谷、坂田影響下にある左翼的な科学者達が、原子力政策に関与することを防ごうとしたのである。

 原子力政策の推進を原子力省、あるいは庁のような、強い権限を持つ独立組織で進める場合を考えてみよう。強い組織で一元管理するには、組織の中に相当数の科学者、技術者達をプロパーのスタッフとして採用する必要があるだろう。単なる政策案や行程の書類作成を行う文系官僚達だけでは、原子力政策の適切な立案と遂行は不可能な筈だからである。しかし、当時の状況では、原子力専門の研究者を集めようとすると、どうしても武谷、坂田の関係者を避けることが出来なかったのではないのだろうか。左翼物理学者達を早々とリスト化し、その内容をアメリカと共有していた駒形達には、左翼学者達に原子力開発をリードさせることなど、許しがたいと思えたのだと、私は考える。もしくは、中曽根等の政治家達が駒形に指示して、報告書を「偽装」させたのだろう。

 日本の原子力開発のスタート時に、科学者達の中に左翼思想が強く残っていたことが、その後の体制に大きな影響をあたえてしまったのではないのだろうか。原子力委員会の権限が非常に弱体のまま走り出した代償として、日本の原子力政策はボトムアップ型の、どんな提案内容でも、その当時の委員会メンバーのさじ加減で認可されてしまうという、何でもあり型のシステムになってしまっている。提案された技術内容の詳細については、厳しい照査も行わず、やろうとしても照査できる研究者が、原子力委員会には誰もいないのである。委員自体が数年の間に交代していなくなってしまうため、誰も責任を取ることもない。このようなトップ組織の体制がユルユルでスタートしてしまったことが、福島事故を招いた大きな要因の一つであることは、疑いようがない。

(以下次回)

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