「1429」 【寄稿・偉人伝の裏側を見破る】 自由民権運動の父・板垣退助はフリーメイソンだった!~伊藤博文のフリーメイソンネットワークに加入した板垣退助~津谷侑太(つやゆうた)筆 2014年2月5日

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自由民権運動の父・板垣退助はフリーメイソンだった!~伊藤博文のフリーメイソンネットワークに加入した板垣退助~

津谷侑太(つやゆうた)筆

●板垣退助はなぜ偉人なのか。

板垣退助は現在では「自由民権運動の父」として偉人として讃(たた)えられている。なぜなのか。それは板垣がフリーメイソン、ユニテリアンであるからだ。副島隆彦(そえじまたかひこ)氏がフリーメイソン=ユニテリアンであると決め付けているので私もそれに従う。私は盲目的に副島隆彦・先輩研究員である石井利明(いしいとしあき)両氏の考えに従っているわけではない。私なりにこの両氏の考えが真実であると推測してのことである。

 石井論文から板垣退助に関係すると私が考える部分を引用する。

(引用開始)

 平野貞夫氏は、『ジョン万次郎に学ぶ』の中で、「ジョン万次郎は、日本人で初めてのユニテリアン信者であった。その生涯をふり返ると、自分の言動に責任を持ち、救いは自分で勝ち取るものであり、人類全体が救済されるべきものであるとの教えどおり生きたといえる。」と書いている。

 ジョン万次郎がフリーメーソンであったという説は、ユニテリアンとフリーメーソンリーの同質性から来るにちがいない。海外に出て行った日本人の多くは、差別されることが少なくなかった。だから自分たちを差別せずに、親切に接してくれるユニテリアンのネットワークに入る事が、万次郎と同じく自然な事だった。

(引用終了)

 ジョン万次郎はフリーメイソンであることは私も知っていた。しかし、ユニテリアンに関しては私は全くの無知である。石井氏は平野貞夫氏の著書を引用している。平野貞夫(ひらのさだお)氏は高知県出身、旧土佐藩の出であり、現在は小沢一郎氏の盟友として政治活動をしている。平野氏は坂本龍馬の本も出しており、土佐藩のネットワークに精通している。私はジョン万次郎がフリーメイソンであり、なおかつユニテリアンであったとすれば、副島・石井両氏の論説は正しいと考えた。

 だから、私は板垣退助をフリーメイソン・ユニテリアンであることを決め付けることにした。おそらく、ジョン万次郎が板垣退助を育てた張本人であろう。

 フリーメイソンとは何なのかは石井利明氏の論稿を読んでいただきたい。

 私はこれから板垣がフリーメイソンであることを徹底的に証拠をあげながら立証していく。実は板垣がフリーメイソンであると知るのに最適な事件がある。
 それが板垣退助の「洋行(ようこう)問題」である。

 板垣退助で最も有名なエピソードといえば、現在の岐阜県岐阜市で自由民権運動の遊説(ゆうぜい)していたときに暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず!」と叫んだことだろう。現在では板垣のこの発言は創作であったことがわかっている。私はこのエピソードから不思議に思ったのは板垣は日本全国を遊説している。また、板垣と同志である自由民権運動家たちも全国を飛び回っている。当時は列車があったものの、交通費は膨大なものとなったはずである。また、党員の活動費もいる。板垣はどうやってこの費用を捻出していたのか。

 それを探る上で重要なのが板垣の洋行問題であると私は考える。1882年に岐阜で板垣は襲われたあと、マスコミは板垣を善玉として報じ、政府の人間を悪玉とすることで板垣の人気は鰻(うなぎ)登りとなった。政府の弾圧にも負けない板垣という立派なイメージを得たわけだが、それに水を差す事件が起きる。1882年、11月に板垣は自由党の党首である板垣は突然洋行(ようこう、ヨーロッパ留学)を発表してしまうのである。この洋行を板垣は同志である自由党員たちに話していなかった。

 この洋行発表前までに自由民権運動を支援し、板垣のパトロンとなっていたのが三菱財閥の総帥であり、造船業で成り上がった岩崎弥太郎(いわさきやたろう)であったと私は考えている。板垣にとって岩崎は後輩の土佐藩士で二人は親密な間柄であった。その根拠となる文章を歴史評論家の大橋昭夫(おおはしあきお)氏の『後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と近代日本』(三一書房・1993年刊)から引用する。

 後藤象二郎は元土佐藩士で自由党のナンバー2、板垣とは幼馴染(おさななじみ)である。

(引用開始)

 象二郎はもちろんこと、板垣とて岩崎の三菱との関係は密接であり、このような三菱攻撃は、はなはだ迷惑であったが、最早かれらに制止のできないような状況であった。
(大橋昭夫『後藤象二郎と近代日本』237ページ)

(引用終了)

「このような三菱攻撃は、はなはだ迷惑であったが」とあるが、板垣がヨーロッパに行っている間、自由党は星亨(ほしとおる)という人物に乗っ取られてしまった。星は伊藤博文の子分であり、自由党へのスパイだった。この星が立憲改進党の大隈に資金援助していた岩崎弥太郎を「海坊主」と攻撃した。これを迷惑がっている板垣の心情から板垣が岩崎攻撃を嫌がっていうことがわかる。

「板垣とて岩崎の三菱との関係は密接であり」とあるが、私はこの文章から板垣は三菱財閥から資金供与を受けていたと判断する。この時代の政治家や財界人が金のやり取りを記録にして後世に残すはずがないと私は考える。岩崎家の親戚であり、元土佐藩士の馬場辰猪(ばばたつい)という人物がいるのだが、この人物が板垣の自由党にいたのは板垣が三菱財閥から資金供与を受けていたからだろう。このあと政府から資金供与を受けて板垣は洋行に行く。

 この小論では板垣の洋行問題を見ながら、板垣が伊藤博文・西園寺公望のフリーメイソンのネットワークについて詳しく見ていくことにしよう。

 まずは板垣が行った自由民権運動とは何なのかを解説する。
 260年続いた江戸幕府を討幕したのは薩摩(さつま・鹿児島県)・長州(ちょうしゅう・山口県)・土佐(とさ・高知県)・佐賀の四藩だった。板垣はこの中の土佐藩出身である。しかし、明治新政府ができると薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視が政府の実権を握り、板垣退助や肥前の江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくましげのぶ)、薩摩の西郷隆盛らは反体制派に追いやられてしまう。1873年に政争で公職から追放された板垣は江藤新平や佐賀の副島種臣(そえじまたねおみ)らと愛国公党を結成。1874年に民撰議院(みんせんぎいん)設立建白書を政府に提出。つまり「国会をつくれ!」ということを板垣たちは政府に要求したのである。

 しかし、政府は時期尚早としてこれを退けた。1881年には政府が10年後に国会開設をすると宣言。板垣は主に土佐藩出身者を集め、自由党を結成。10年後を見据えて選挙活動を開始した。これによって、日本にも民主主義が花開くかに思われた矢先に板垣が岐阜で襲撃を受けたのである。このとき、同志社英学校の新島襄(にいじまじょう)が見舞いに駆けつけている。このときは板垣は土佐藩や新島と同じアメリカ系のネットワークに入っていた。この直後に板垣はこのネットワークを裏切って、寝返ることになる。板垣が新しく加入したのは明治政府の指導者たちである伊藤博文、西園寺公望、岩倉具視、井上馨らのイギリス・フランスに近い者たちのグループだった。

 その過程を詳しく見てみよう。反体制派の板垣退助に何が起きたのか。

●板垣の洋行問題

 1882年11月に板垣は海外留学をすると発表した。板垣は野党の自由党党首であり、立憲改進(りっけんかいしん)党の代表である大隈重信と協力体制にあった。せっかく板垣・大隈体制で体制派の伊藤博文を追い詰めていこうとしていたのに板垣が職務放棄で外国に行ってしまった。これで野党の協力体制は無茶苦茶になって空中分解する。そうなると得をするのは体制派の伊藤博文である。

 板垣退助は奈良の土倉庄三郎(どぐらしょうざぶろう)という資産家からもらった金であると釈明した。確かに土倉が資金援助してきたのは事実であるが、洋行問題の黒幕は伊藤博文であったのではないかと私は考える。伊藤は板垣に洋行を勧めた張本人であったからだ。

(引用開始)

 伊藤がヨーロッパへ旅立つ前のある日、板垣が突然伊藤を訪問したことがあった。この訪問の意図ははっきりしないが、創立まもない自由党に対する政府の厳しい姿勢について、注意を促すとともに、自己の政治理念を、明治十四年政変を通じて実力者の地位を確固とした伊藤に改めて伝えたかったのであろう。
 明治政府の中では比較的進歩的で中道路線をとっていた伊藤も、この頃では、保守的な井上毅らの理論的ブレーンの大きな影響があって、プロシャ流の君権主義に近付き、板垣とは相入れなかったが、二人は率直に語り合い、この中で、伊藤は近くヨーロッパへ外遊することを打ち明けた。
 そして、伊藤はさらに、板垣に対し、「今、ヨーロッパの政治制度をみならい、それに従って国会を開設すべきだとの論調があるが、そのように主張する君こそ外遊して、かの地の古今からの政治、人情、風俗を知るべきだ。その実情を知らない者が、ヨーロッパの政治制度を美化しているようなことがあるが、それは民衆を誤らせるもとである。」と言葉をつないだ。
 幕末から維新にかけて数回の米欧への視察の経験のある伊藤の言動だけに、板垣の心をついた。板垣は、伊藤からヨーロッパ訪問の必要性を説かれて大いに心が動いた。
 本来ならば最大の野党自由党の総理である自分こそが、まずもってヨーロッパに出かけ憲法調査を行わければならないのに、自分は一度の外遊の経験もない。ここで、板垣は旅費でも工面できたら自分もヨーロッパへ行く意思のあることを述べた。(大橋昭夫『後藤象二郎と近代日本』223ページ)

(引用終了)

「幕末から維新にかけて数回の米欧への視察の経験のある伊藤の言動だけに、板垣の心をついた」と大橋昭夫氏は描写しているが、要するに板垣退助は体制派の伊藤博文に説得されてしまったのである。つまり、板垣は体制派に入りたいがために今までの主張である自由民権運動を捨ててしまったのである。驚くべき裏切り行為だ。伊藤博文は明治政府の最高指導者であり、数々の謀略を実行してきた筋金入りの悪人の権力者である。その伊藤からしてみれば、新政府軍に加わったのに体制派の薩長(さっちょう)ではなく、土佐藩だからはじき出されてしまった板垣など、ポストと金をちらつかせればすぐに食いついてくる小物に見えたのではないか。板垣のような金持ちのボンボン息子でいざというときに腰砕けになるような男だということは冷酷な現実主義者の伊藤に見抜かれていた。

大橋昭夫本によると板垣の洋行費調達に動いたのは伊藤のブレーンである井上毅(いのうえこわし)だった。その井上は三井財閥から洋行費を調達していた。

(引用開始)

 この井上の1882年(明治一五年)で終了する三井の陸軍省官金取扱御用を三カ年延長するとの提案は、三井にとって大きな利益をもたらすものであり、三井が対価として、板垣、象二郎の外遊費用二万ドルを拠出することなどは、安いものであった。二万ドルが政治献金でなく、賄賂であることは明白であり、政府の自由党工作は成功した。
三井側も外遊費用を拠出したことを認めており、一九五七年(昭和三二年)に発刊された『三井銀行八十年史』は、「有名な板垣退助の洋行費支弁(明治一五年)なども、官金取扱期限の問題にからんでいたとはいえ、政治的な情実に巻き込まれて、毅然たる態度に出ることのできなかった弱点の現れとみるべきものであろう。」として、担当の西邑虎四郎総長代理副長を批判している。(大橋昭夫『後藤象二郎と近代日本』226ページ)

(引用終了)

 西邑虎四郎(にしむらとらしろう)は三井財閥の幹部であり、上記の引用文によれば板垣に金を出したのは西邑である。三井財閥と伊藤博文が密接な関係にあったことが板垣洋行の秘密から見て取れる。
 そして伊藤博文の背後にはヨーロッパのフリーメイソンのネットワークがあった。

●伊藤博文と西園寺公望のフリーメイソンネットワーク

 このことを裏付けるように板垣は外遊のときにフランスでフリーメイソンと深い関わりを持つジョルジュ・クレマンソーというフランス人と会っている。

(引用開始)

 それでも政治家のクレマンソー、文豪ユーゴー、学者のスペンサー、パリ・コミューンの闘士だったエミール・アラコスなどに会っている。(榛葉英治『板垣退助 自由民権の夢と敗北』110ページ)

(引用終了)

 クレマンソーはこのとき、下院議員である。のちに総理大臣となり、第一次世界大戦のフランスを率いた。1882年当時は42歳である。
 
そしてクレマンソーにはもう一つ裏の顔があると私は考えている。それはフリーメーソンとしての活動家の顔だ。これより時代がずっと後になるが、第一次世界大戦のあと日本の皇族である東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)はフランス留学することになった。そして留学先で会ったのが老齢になったクレマンソーだった。稔彦王にクレマンソーに紹介したのはクロード・モネという画家である。

(引用開始)

このモネーの家で、有名なクレマンソーに紹介されたのです。彼はフランス政界で「ティグル」(虎)という異名をとっていて、見るからに精悍な男でした。(東久邇稔彦『やんちゃ孤独』96ページ)

(引用終了)

 このようにしてクレマンソーと稔彦王は会っている。このあと、稔彦王は帰国して元老である西園寺公望(さいおんじきんもち)に会いに行っている。ここで稔彦王は日米戦争が起きる可能性があると西園寺に言って、同意を得ている。この小論ではあくまで板垣退助のフリーメイソン人脈を調べていくので、重要な話であるが割愛する。

(引用開始)

私は日本に帰っても、あっちこっちで、この日米戦争必然論をしたがだれも相手にしてくれない。みんなそんなことはない、あまり心配しすぎるといって相手にしてくれなかった。陸軍の首脳部にも話したが、まるで信用しません。ただ一人、西園寺公だけはよくきいてくれて、
「国家の最高責任者は、よく注意しなければならない」
と共鳴してくれました。やはり西園寺公は偉かったと思います。(東久邇稔彦『やんちゃ孤独』106、107ページ)

(引用終了)

 西園寺公望は実は板垣洋行に深く関わっている人物である。板垣は洋行し、フランスのパリのアパートに滞在していた。このとき、板垣の監視役としてそばにいたのが若き日の西園寺公望である。

(引用開始)

その板垣退助はパリでどんな生活をしていたか?西園寺が岩倉右大臣に送った報告がある。
「(前略)板垣、後藤洋行後の状況を申し上げます。二人がパリーに到着したのは昨年の十二月で、小生はベルリンに居りました。
(中略)
 これではせっかくの洋行も無益と考え、著名の人物などにも紹介をし、議院見物などもさせました。しかし何分頑固で、欧州の英雄運用の妙などは決して解らず、ただ理学に偏しているようです。」(榛葉英治『板垣退助 自由民権の夢と敗北』109ページ)

(引用終了)

 西園寺公望が岩倉具視に送った手紙を見ていくと、「著名の人物などにも紹介をし」とあるから板垣にクレマンソーを紹介したのは西園寺だったのだろう。西園寺はフランス・ソルボンヌ大学に留学したことがあり、クレマンソーとは同級生だった。西園寺公望と伊藤博文は仲のよい先輩と後輩の関係で西園寺の娘の結婚も伊藤が世話した。のちに西園寺は伊藤のつくった政党である立憲政友会(りっけんせいゆうかい)を引き継ぎ、伊藤の政治的後継者となっていく。公家上がりの西園寺だが、伊藤の子分でもあったのである。

 つまり、板垣退助は伊藤博文・西園寺公望の人脈を通して、次々とクレマンソーら著名人と会っていたのだ。これは板垣が伊藤のネットワークに入ったことを意味していると私は考える。

 このネットワークこそが小論の冒頭で触れたフリーメイソン・ユニテリアンだったのではないかと私は考えている。その証拠に東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう、昭和天皇の叔父)という皇族がフランス留学のときに留学を支援した中心人物は陸軍の上原勇作(うえはらゆうさく)だった。上原もまた、フランス留学経験がある。さらに陸軍の山県有朋(やまがたありとも)、田中義一(たなかぎいち)といった当時の陸軍最高指導者たちも稔彦王の留学を後押しした。

(引用開始)

 はじめは世界大戦の直後だというので「まだ早い」という説もありましたが、当時の参謀総長だった上原勇作(うえはらゆうさく)元帥が、「大戦直後だから早く行け」というわけで、上原元帥が宮内大臣と外務省に直接交渉していました。山県元帥も、
「早く行って、大戦後の情勢をよく見て来なくてはならぬ」
という意見でした。むかしの人は偉いと思いました。ほかの人たちは「うまいことをした」といって抗議したくらいでしたが、元帥二人の努力で、大戦の翌年の大正九年四月半ばに日本を出発しました。田中義一(たなかぎいち)大将も、もとから懇意にしていたので、わざわざ私を送ってくれました。(東久邇稔彦『やんちゃ孤独』65ページ)

(引用終了)
 
 この上原勇作がフリーメイソンだったのではないかと私は考えている。この考えは私の独創ではない。歴史評論家の落合莞爾(おちあいかんじ)氏やフリーメイソン研究家の太田龍(おおたりゅう)氏らが唱えていた。
 上原は陸軍でフリーメイソン研究をしていた陸軍軍人の四王天延孝(しおうてんのぶたか)にそのような研究をやめるように説得した。
 四王天は回顧録に次のように書いている。

(引用開始)

演習間ある夜、予は元帥の宿舎に谷参謀長と共に呼ばれ色々の話もあったが、終にユダヤ問題に及び結局“君の様な前途洋々たる将官がアンナつまらぬ問題に没頭して何になるか、モウ止めて軍務に専心してはどうかね”と言うて予の返答を待たれた。これに対し、青年士官の時から特に御推輓を受けて来た閣下に言葉を返すのは失礼ではありますが、自分はツマラナイ問題と思っていません。併し仰の如く現役軍人であるから、あれを打切る場合が二つあります、即ち第一あれが真につまらぬ問題と判ればスグ止めます、第二には重要な問題と思っていても、誰か私と同じ方向で同じ熱意を以って研究する人が大学教授でも実業家にでも出て来れば明日にも止めますが今その二つの目途の立たぬ内はやって行き度いと思います。但し私は軍務を抛擲してやっているのでは無く、夜九時十時から時には十二時頃迄外国から取寄せた書物などを読んで研究おしているので、職務を怠っているのではないことを御諒承を願いますという意味を述べた。併し諒承は得られず不機嫌で御別れをした。
(中略)
 越えて数日防空演習講評の日、前陸軍大臣でユダヤ人問題に充分な理解を持って呉れた白川大将が予を小蔭に呼んで、“君はこのたび退めて貰う事になった、但し現陸軍大臣の宇垣を恨むなよ”と諭された。こんな事に立至ることは予て期したることであるから、格別驚きもせなかった。(四王天延孝『四王天延孝回顧録』206ページ)

(引用終了)

 このように四王天はユダヤ問題、つまりフリーメイソンを研究していたら上原から呼び出され、研究を辞めるように言われた。そして従わなかった四王天は陸軍を首になるのである。この経緯を考えれば、四王天のクビを切ったのが上原勇作であることは明白だ。1929年(昭和4年)の出来事だった。上原は72歳、山県有朋亡き後の陸軍のトップである。

 フリーメイソンと日本陸軍、全く関係ないと思われる二つはこうして結びついていた。

 上原もフリーメイソンだったのであろう。だから、四王天を弾圧したのだ。その根拠に上原が育てていた東久邇宮稔彦王は1957年にフリーメイソンに入会している。これは陰謀論ではなく、公表されている事実である。つまり、稔彦王はフリーメイソンの上原の推薦でフランスに留学し、クレマンソーに会った。そしてクレマンソーから「日本に帰ったら私の仲間である西園寺君に会いなさい」とおそらく薦められたのではないか。だから、陸軍軍人の稔彦王は無関係であるはずの政治家の西園寺公望に会いにいったのである。

 話を元に戻すと板垣退助は西園寺公望のフリーメイソンのネットワークに入ったということである。このとき、ベルギーに伊藤博文がいて、フランスに来たときに板垣は伊藤と会っている。

 伊藤博文はフリーメイソンの信者だったのであろう。伊藤は元長州藩の武士で幕末に英国留学もしている。そして、帰国後に長崎に行って、イギリスの商人から武器に買い付けをしている。この商人がトーマス・グラバーでこの男もフリーメイソンの信者である。その証拠にグラバーは明治時代に来日したアメリカのグラント大統領を迎えている。このグラント大統領は公然としたフリーメイソンの信者としての顔を持つ。

(引用開始)

 グラント将軍といえば南北戦争の時の北軍の将軍であり、ジョージ・ワシントンを記念したフリーメーソンの殿堂にも名を連ねているフリーメーソンの会員で、第18代アメリカ大統領である。そのフリーメーソン大統領が明治12年6月に長崎を訪れているのだ。(鬼塚五十一『坂本龍馬とフリーメーソン』39ページ)

(引用終了)

 そして来日したグラント大統領はグラバーと会っている。

(引用開始)

 「米国前大統領来港接待記事」によれば、グラントは来日のおり、グラバー邸に宿泊の予定だったが、米領事マンガムとグラバーが犬猿の仲だったため、マンガムのてこ入れにより、当時、新設されたばかりの新町の師範(しはん)学校校舎を宿舎にしたと記録されている。(鬼塚五十一『坂本龍馬とフリーメーソン』39ページ)

(引用終了)

 これだけではまだ偶然といえるかもしれない。しかし、鬼塚五十一(おにづかいそいち)氏というフリーメイソン研究家がグラバーがフリーメイソンであるという証拠を発見している。鬼塚氏は1980年代からフリーメイソン研究をしてきて今も存命であり、太田龍氏よりも昔から活動している研究家だ。『坂本龍馬とフリーメーソン』という本は出版は2007年だが、鬼塚氏によれば雑誌「ムー」の1988年1月号に載せた「倒幕(とうばく)の志士(しし) 坂本龍馬はフリーメーソンだった」という記事を再掲したものであるという。鬼塚氏は長崎市生まれでこの記事を書くために現地長崎で取材もしている。グラバーの家であるグラバー園にも行っているわけだが、そこで鬼塚氏はフリーメイソンに関わる驚くべき事実を発見する。

(引用開始)

 グラバー園は、長崎市内の南山手(みなみやまて)に位置し、そこは鶴(つる)の港(みなと)といわれる長崎を一望する風光明媚(ふうこうめいび)な場所だ。私も子供のころから何度も行き、よく知り尽くしている場所だった。
 (中略)
 そして広さ3万平方メートルの園内を歩きながら、私はいつのまにかフリーメーソンのシンボルマークを捜していた。それは執念(しゅうねん)とかいうかっこいいものでなく、半分ヤケクソのような気持ちだった。
 歌劇『蝶々(ちょうちょう)婦人』を記念した泉の前から、下に降りる階段に向かおうとしたとき、その私の目に不意に飛び込んできたものがある。それは石柱の門だ。そのふたつの石柱の上の頭石(かしらいし)を見て驚いた。足がガクガクと震えてきそうだった。
 なんと、そこには私が捜し求めてきた、あのフリーメーソンのシンボルマーク、定規(じょうぎ)とコンパスが刻み込まれている。あった!そこにはフリーメーソンのシンボルマークがあった。(鬼塚五十一『坂本龍馬とフリーメーソン』21、22ページ)

(引用終了)

 この本の23ページには鬼塚氏の撮った石柱の写真が載っている。グラバーの家であるグラバー園にこのような石柱があったということはグラバーはやはりフリーメイソンだったのである。私は以上の証拠をもってグラバーがフリーメイソンであると判断する。ちなみにフランスで板垣退助の面倒を見ていた西園寺公望は日本でグラバーが死去したとき、葬儀に参列している。

グラバーの子分だった伊藤博文にしてみれば、野党の代表である板垣退助をフリーメイソンのネットワークに引き込んでしまえば、政権運営が楽になると考えたのだろう。民衆を自由民権で煽って、政府批判をしていた人物を黙らせれば、伊藤博文の思うような政権運営は可能である。そして、伊藤の思惑は板垣退助がフランスに来た時点で成功していた。板垣はこの後、政府で副総理にまで上り詰め、体制側で出世していく。板垣はフリーメーソンのネットワークに入り、急速に体制のなかに入り、出世していったのである。明治の日本をフリーメイソンが動かしたということが板垣退助の奇妙な行動からも裏付けられていたのである。

(参考文献)

大橋昭夫『後藤象二郎と近代日本』(三一書房・1993年)

鬼塚五十一『坂本龍馬とフリーメーソン』(学習研究社・2007年)

四王天延孝『四王天延孝回顧録』(みすず書房・1964年)
 
東久邇稔彦『やんちゃ孤独』(読売新聞・1955年)

榛葉英治『板垣退助 自由民権の夢と敗北』(新潮社・1988年)
 

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