「1423」 明治期の慶応義塾で 最先端の学問を教えたのは ユニテリアン(フリーメイソンリー)だった 石井利明(いしいとしあき)研究員 2014年1月11日

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 「 明治期の慶応義塾で 最先端の学問を教えたのは
  ユニテリアン(フリーメーソンリー)たちだった 」

石井 利明 (いしいとしあき)筆

 福沢諭吉とフリーメーソンリー

 ( 副島隆彦です。今日は、2014年1月18日です。冒頭に割り込んで書きます。 
 この石井論文は、非常に重要なので、私が、勝手に、石井君の口頭での許可をもらって、再度、手を入れました。私、副島隆彦の筆が入ったことで、却って、著者の石井利明くんの書きたい真意を邪魔したかもしれない。それでも、読み手=読者にとっては、より明確に、私たち副島学派の思想、学問 研究の 成果を知ってもらいたいので、敢えて、このような加筆、修正をやりました。 ゆえに、もう一度、この重要論文を、会員諸氏は、しっかりと読み直してください。 副島隆彦割り込み終わり )

 慶応義塾の創立者の福沢諭吉はフリーメイソンリー Freemasonry と深く関係していた。
 
 多くの人は両者は結びつかないと考えるだろう。私が「福澤諭吉と フリーメイソンリーの深い関係」を書く理由は、福沢が生涯をかけて目指した“自主独立”の本当の思想の意味を皆さんに知ってもらうためだ。

 フリーメイソンリー( 組織、団体としては、フリーメイソンでは足りなくて、語尾に「リー」―ry が着く。フリーメイソンだと個々の会員のことを指す。 He is a Mason . と使う ) と言えば、日本では恐ろしい闇の組織で、世界を裏あるいは上からからあやつっている秘密結社である、と考えられている。この秘密結社の問題についてはこの稿では触れない。

 私のこの小論では、「都市伝説」と化している、闇に隠れた秘密結社の世界は、一切、登場しない。それよりももっと重要な、世界基準での大きな 思想理解を皆さんに紹介する。

 明治の日本を代表する啓蒙(けいもう)思想家で、偉大な教育者であった福沢諭吉は、ユニテリアン Unitarians という、キリスト教の一派である プロテスタントの大きな宗教派閥(今でも欧米社会に存在する)の宣教師、牧師たちと、ものすごく深い関係を築いていた。 このユニテリアンという特異なプロテスタント教団は、フリーメイソンリーに非常に親近性、類似性を持った人たちである。両者は歴史的に強い結びつきをしている。

 一緒に、17、18,19世紀の全ヨーロッパの宗教、思想運動を、引っ張ってきた(牽引=けんいん=して来た)と言っても過言ではない。

 幕末と明治維新に出来た慶応義塾が、やがて創立者の福澤諭吉の手で、大学になっていった時に、教壇に立って教えていた外国人たちの多くは、ハーヴァード大学から来たユニテリアン教会に属する宣教師(せんきょうし。ミッショナリー)兼(けん)学者たちだった。彼らユニテリアンを招聘(しょうへい)したのも福沢諭吉、本人の強い意志だった。

 なぜ、福沢はユニテリアンを招いたのか?

 私は、福沢がユニテリアン( Unitarians 、ユニタリアンとも読める )たち を招聘する経緯(けいい。いきさつ)を調べてみた。そして分かったのは次のことだ。 日本は、19世紀の100年間、世界覇権国(せかいはけんこく)であったイギリス(=大英帝国。「ブリティッシュ・コモンウェルス」 という)の強い影響下にあった。 遠隔操作されていたと言っていい。 

 その代表が、日本国の初代の内閣総理大臣であり、、その時代の日本の最高権力者であった伊藤博文(とうひろふみ)である。彼もまたユニテリアンのネットワークに入っていた人だ。 そして、私が、あれこれ調べて、解明したことは、驚くべきことに、福澤諭吉は、明治政府すなわち明治日本という国家を、イギリスの軛(くびき)から解き放ち、自立させようとしたのだ、ということだ。

 そのために、イギリス人ではない、アメリカ人のユニテリアンの宣教師でもある大学教師たちを、盛んに、ハーヴァード大学から日本に招いた。ここに驚くべきほどの遠望に満ちた真の天才であった福沢諭吉の姿がある。

 福沢は、日本をイギリスの支配から脱出させようとするために、勃興しつつあった次の世界覇権国であるアメリカの、古都ボストンのユニテリアン(フリーメイソンリー)たちの力を借りたのだ。これこそが福沢が目指した真の”自主独立”だったのだ。

この小論を読み進めていただけば、この大きな事実を納得してもらえるだろう。

ユニテリアンとフリーメイソンリー

まず、フリーメイソンリーとユニテリアンのどこが似通っているかを説明する。

 重要な事は、ユニテリアンもフリーメイソンリーも、その信仰の中心に“理性(りせい)”を置いている。重要なコトバである 理性(りせい reason リーズン。ドイツ語なら、Vernunft フェアヌンフト )については、この小論では論じない。 副島隆彦のこれまでの 理性、合理への言及を参照して欲しい。

 この「理性なるもの」をユニテリアンは、自分たちの信念(信仰)の中心に置いている。 この理性が、やがて神 God に取って代わったのだ、とまで言っていいだろう。この 理性信仰、理性崇拝のことを、これを少しだけ 難しい言葉に言い換えると、“理神論(deism デイズム)”という。 この 理神論(デイズム) を、あと一歩、さらに突き詰めると、何と、「神 God の否定」である 無神論( atheism エイシイズム)になる。 

 この デイズム Deism 理神論(神の存在の合理的な説明)から、 Atheism エイシイズム (神の存在の否定である 無神論 )への 発展、成長のことを、ヨーロッパの、16世紀、17席、18世紀、19世紀の全努力と言っても過言ではない。

 フリーメーソンリーの起源は14世紀とされる。当初は、よく知られているごとく石工組合(いしくくみあい)だった。中世のヨーロッパ中のお城や教会や諸都市の建物を建築して回った石工(メイソン)たちの自主的な互助会の組織であり、それがヨーロッパ全体で横の連帯を作っていて、すべての都市に存在した。北アメリカの諸歳にも出来ていた。このフリーメイソンたちによって、アメリカ独立革命(1776年、独立宣言)も成し遂げられたのである。この事実は、今や、隠すべきことではない。

 この石工の同業者のネットワークが全ヨーロッパに広がっていた。 石工たちは、仕事で呼ばれて、他所(よそ)の国の城砦を建設に行くときに、このフリーメイソンリー Freemasonry の組織の横の連帯(これが、友愛=フラタニティだ)に頼った。

 この石工組合が、イギリスでは、新たに生まれ変わったのは、18世紀のはじめ、1717年の6月24日のことだ。この時、ロンドンにそれまであった四つのフリーメイソンリーのロッジ(会衆所)が、合同して一つの大ロッジと成った。この出来事以後のフリーメイソンリーを、近代(モダン・)フリーメイソンリーと呼び、これ以前のものを旧(オールド・)フリーメイソンリーと呼ぶ。そしてそのように区別する。

 なぜ、区別するかといえば、この時、フリーメイソンリーは、初めて政治結社になり、公共の世俗の世界で自分たちの影響力を高めることを目指す理念の組織となったからだ。

 ロンドンの大ロッジ設立会議の名誉議長となった クリストファー・レーン 卿は、この会場で、以下のように宣言した。

 (『フリーメーソンリー』 湯浅慎一(ゆあさしんいち)著 P8 から 引用 始め)

  フリーメーソンリーは、もはや自然の石から教会堂を建てるのではなくて、理性(りせい、リーズン)である精神から神殿を建てるのである。理性なる神の知恵の導きによって、人間の粗野な理性が照らされ、研がれて神的になり、自らが神殿とならなければならない。

 (引用終了)

 この宣言の内容は、フリーメイソンリーが、理神論(りしんろん。デイズム)を武器にして、それまでのただの神殿から、新しい神殿(観念の権力)を獲得する意思表明をしたことが分かる。

 次にユニテリアンと理神論(りしんろん)との結びつきについて説明する。

 ユニテリアンは、他のプロテスタントの宗派よりも、もっと強く、激しく 理性(りせい、あるいは、合理性=ごうりせい= ratio ,ラチオ、レイシオ )を自分たちの信仰の中心とした。だから、理性では説明できない、キリスト教の正統派 (ローマン・カトリック)の 原理(ドクトリン)である、三位一体(trinity 、 トリニティ)を、公然と否定した。 

 彼らユニテリアンは、三位一体(トリニティ)を否定し、神の唯一性( unity ユニティ)を信じる人々( Unitarians )である。正統派のキリスト教会が信じなさいと強制する三位一体(さんみいったい)を信じない。だから、ユニテリアン ( unity – arians ユニティアリアン) 自分たち自身をそのように呼び、かつそのようにまわりからも呼ばれた。

 三位一体とは、神が、一つの実体(サブスタンス)であるとともに、「父なる神」(ゼウス)、「子なる神(イエス・キリスト)」、そして、「聖霊( せいれい 聖神。ホウリー・スピリット)」の三つの姿を同時に持っていると信じることだ。 つまり、「神 God は、三つ分れているが一つであり、一つではあるが三つに分れている」ということだ。私には、これ以上のことは理解できない。

(副島隆彦です。 今日は、2014年1月11日です。 ここに私が割り込みます。実は、冒頭から、ここまでを、今、私が、石井利明 君の、この 非常に優れた「福澤諭吉とユニテリアン(教会)、フリーメイソンリー」論に すこし手を入れて、加筆して読みやすくしました。ここからあとは、石井くんの文章で、すんなりと読み進んで、 「 なるほどなあ~ 」と腹の底から、腑に落ちるでしょう。 この石井論文には、日本人が、ヨーロッパ、アメリカ世界を本当に理解してゆく上での、重要な読み破りで、日本で初めての、素晴らしい解明があります。 副島隆彦 割り込み終わり)

 もっとも、このように私が感じるのは、皆も同じようで、三位一体は人間の理解を超えているため「理解する」対象ではなくて、もっぱら「信じる」対象である。どっぷりと頭から信じるべき教義(きょうぎ、教理。ドグマ)であることが、カトリック教会では強調されてきた。 この三位一体の原理を使って、自らの権力を最大限に拡げたのがキリスト教会である。ここに、キリスト教の最大の秘密そして、巨大な騙(だま)しがある。

 この大きな騙しを否定したのがユニテリアンたちであった。ユニテリアンは、イギリスだけでなくオランダや他のヨーロッパ諸国にも存在する。彼は、だから同時にピューリタン(清教徒)の一大勢力である教団である。彼らは、三位一体を否定した事で、他のキリスト教会(大きくは、ローマン・カトリック。そして イギリス国教会、そして、同じピューリタンに属するのだが、長老派=プレズビリアン=スコットランド・カルヴァン派。それから、メソジスト、泥臭いバプティスト) たちの敵となった。 ただし、クエーカー教徒とは親和性がある。

 ユニテリアンもフリイメイソンリーも、果たしてどこまで神(ゴッド)の存在を信じていたのかについて私は疑っている。なぜなら、当時のキリスト教世界では、自分は神の存在を、疑っている、信じていない、などと言う事は許されないことだった。 神の存在を疑うと、公言することは、十分に危険なことだった。だから、ユニテリアンたちは、神の存在問題を、「私は、イエス・キリストという人の言葉を信じる」という形にして、自らの理性を 摂理(せつり、プロビデンス)とするという事にしたのだ。フランス大革命も、この自然の摂理(プロビデンス)を神の代わりに置いている。 摂理は、理性、合理と共に、やがて神に取って代わるものだ。

 この理性を中心に、ユニテリアンとフリーメイソンリーの両者は合わせ鏡のように似通っている。

福沢諭吉の目指したこと

 福沢諭吉は、生涯、一個人にも、日本国にも、独立自尊(どくりつじそん)を説き、自らもその通り生きた。

 明治政府が誕生すると、少しでも学問を修(おさ)めた誰もが役人官僚になりたがった。なれない者は、政府に近づいて少しでもおこぼれにあずかろうとした。この風潮を福沢は蔑(さげす)んだ。

 個人同様に、日本国も当時の世界覇権国(はけんこく)、イギリスの属国であった。明治維新がイギリスの世界戦略の一コマであったことを、その渦中(かちゅう)にあった福沢が知らないはずは無い。英国を後ろ盾にした西南雄藩が勝つ事を知っていたから、明治元年、江戸城の無血開城があったあとの、不満分子の幕臣(ばくしん)たちが立て籠もって、上野山で戦闘(上野の彰義隊の戦い)があった。この時も福沢は、平然と、黙々と、義塾で経済書の講義を続けていた。 今になって、刀など振り回す者たちの愚かさを腹の底から知っていた。

 福沢は覇権国に武力で立ち向かう愚かさを知っていた。私は、独立自尊のために啓蒙思想家、教育者になったのだと思う。その過程で、イギリス王国 から独立を果たしたアメリカというデモクラシーの元祖の国を研究した。

 アメリカの独立宣言の中にある啓蒙思想家のジョン・ロックの自然権(しぜんけん)の思想を学んだ。啓蒙思想(エンライトンメント、 Enlightenment )は 独立自尊に欠かす事が出来ない。だから福沢は、この自然権(ナチュラル・ライトnatural right )を、「天賦(てんぷ)人権論」という言葉して日本に広めた。

 それが有名な『学問のすゝめ』の中の、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」である。『学問のすゝめ』の初が出版されたのは、明治5(1872)年だ。

ユニテリアンもフリーメイソンリーも、大きくは啓蒙思想という共通点がある。

 福沢はキリスト教の排斥(はいせき)者として知られている。彼が攻撃の対象としたのはカソリックであった。カソリックが持つ権威主義的で押し付けがましく、上から目線の威圧的な態度に対してであった。啓蒙思想は反カソリックである。断固として反カトリックである。 だから、カソリックの敵はユニテリアンであり、フリーメイソンリーである。今現在に至るも、そうである。 思想、宗教は、敵の敵は味方という原理で動く。

福沢諭吉と宣教師たち

 宗教には関心が無いと一般に考えられている福沢諭吉だが、生涯で19人もの宣教師たちとかかわっている。その内訳は英国人12人( 内9人がSGP / 聖公会 )、米国人が7人。これは、福沢ほどのレベルの人物でも、当時は、宣教師以外の西洋人たちから、知識、思想、情報を学ぶ事が難しかったことの表れだ。それ以外の選択は無かったのだ。

 福沢が初めて親交を日本で結んだ西洋人は、A・C・ショー というイギリス国教会(聖公会)の中のSPGの牧師である。アレクサンダー・クロフト・ショーと福澤が出会ったのは、『学問のすゝめ』が出版された翌年の明治6(1873)年9月25日だった。

 19世紀における英国国教会(聖公会。 アングリカン・チャーチ Anglican church ) の海外布教は、主として2つの宣教団体、SPG( エス・ピー・ジー The Society for the Propagation of the Gospel in foreign parts 英国海外福音宣教会 )と、CMS( シー・エム・エス The Church Missionary Society 英国国教会宣教会)に大きくは、内部が分かれて行われていた。

 国教会(聖公会 せいこうかい)は、大きく内部が、高教会派(ハイ・チャーチ)と低教会派(ロー・チャーチ)の二つに分かれている。現在もそうである。 高教会派は、カソリックとそっくりで、教会の権威、奇跡(きせき、ミラクル))を重視する。それに対して、 低教会派(ロー・チャーチ)は、個人の救済に力を入れる、という特徴がある。大事なのは、ハイとローの区別で、この区別は、そのまま英国における身分や階級の上下と一致することである。だから、伝道組織も高教会派の SPG と低教会派の CMS に分かれている。

 A・C・ショーが属していたのは、高教会派の SPG の方である。イギリスの権力者側、体制側とも言っていい。そのため、彼は着任すると同時に、英国の外務大臣グランヴィル伯爵から日本駐在イギリス公使館付チャプレンの外交官の身分を保障されている。チャプレン (chaplain) とは、教会に属さない施設や組織で働くキリスト教聖職者(牧師、神父、司祭など)のことだ。

 英国国教会(アングリカン・チャーチ)の牧師たちは、同時に、当時の世界覇権国であった大英帝国の情報将校でもあった。国教会のトップは、国王や女王(当時は、当然、ビクトリア女王、1901年逝去。この時が、大英帝国のピーク=頂点 )である。だから、ハイチャーチは、イギリスの国家権力に直結する大きなエスタブリッシュメント(支配階級)であった。だからショーは、英国公使館、在京の英国人から尊敬される特別な立場に居た。

 こうした背景から、福沢はショーを色々な面で支援することになる。

 まず、福沢は、来日の直後に、ショーを自分の子女(息子・娘たち)のための住み込み家庭教師として雇った。併せて、慶應義塾の倫理学教授の職を与えて、教壇にも立たせた。 このあと、福沢はショーのために、自宅の隣に、わざわざ西洋館まで建てて住まわせるほどの熱心さを示した。両家の間の小川には、お互いに行き来できるように“友の橋”と呼ばれた立派な橋までが架けられた。そして、ショーは福沢から慶応義塾で聖書を教える事も許され、信仰を持った学生たちに洗礼まで行っていた。

 福沢自身はキリスト教徒ではないが、彼の家族にはショーから受洗を受けた者が多い。三女の俊(とし)、四女の滝(たき)や、福沢の孫の清岡暎一(えいいち)(慶応義塾大学法学部教授)などで。いずれも英国国教会、つまりは聖公会信徒としてショーが建てた聖アンデレ教会で受洗されたクリスチャンである。聖アンデレ教会は現在も存在する。

宣教師たちとの本当の関係

 このように福沢が支援し、家族ぐるみの付き合いがあるのだから、福沢とショーの関係は、非常に良好なものだと考えられてきた。その証拠に、二人の関係は、福沢が死ぬ、明治34(1901)年まで27年間も続いた。

 しかし、それは果たしてどこまでの深い結びつきだったかを、私は疑っている。

 二人の交友関係は、互いの損得(そんとく)抜きには考えられない。

 ショーは、キリスト教の排斥者である福沢との交友の理由を「ミスター・フクザワは、教育の問題に関する限り、この国ではもっとも著名な一人だからです」と本国に報告し、了解を取っている。エスタブリッシュメントである彼は、福沢を利用して、英国の利権、教会の利権(信者の獲得)の拡大を図りたいということだ。

 では、ショーは福沢個人をどう思っていたか?

 ショーによる福沢の人物、能力評価は、『福沢諭吉と宣教師たち』(白井堯子(たかこ) 著 ○○年刊、○○社 )という本の中に載っている。この本の中の、ショーが明治7(1874)年2月21日に本国宛に書いたの報告書から知る事ができる。

 (『福沢諭吉と宣教師たち』p123 から引用開始 )

 (ショー自身が書いた本国への報告書の文面から) 

   英国で考えられている日本像は誤りが多い。長い間、鎖国をしていた国には神秘のヴェイルが掛けられてきた  が、日本は半開(half-civilized)の国である。 (中略) 日本はこれまで箱の中に閉じ込められてきた  が、今やその蓋(ふた)は取り外されたのである。しかし、文明とは、宗教心と切り離された時には、人間の知性  を真に進化させえないのだ。にもかかわらず、ここでは、ハンブル( 引用者注: 粗末な、卑しいという意   味)な 唇(くちびる) から、バックル、J・S・ミル などの言葉が発せられる。

 (引用終了)

 石井利明です。 このようにショーたちは、ビクトリア女王直結の情報部員だから、日本に対する分析の内容は手厳しい。

 まず、日本は半開(はんかい)の国だと定義されている。 未開の野蛮国ではない、が文明国ではない。文面から彼は、日本が文明国になれない原因を、道徳 と 信仰心の欠如と考えていたことが分かる。その例として、ショーは、日本人の労働に対するモラルの無さに触れている。 一言でいって、明治の一般的な日本人は働かなかった。銭はあれば使ってしまうし、無くても何とかなった。 農民たちにはまだ勤勉(きんべん)の思想は、植えつけられていない。町人たちの下層の庶民層には、「宵越しの銭は持たない」という、江戸の気質がそのまま続いていた。

 このショーの報告書の中で、「ハンブルな(卑しい)唇」と揶揄(やゆ)されているのは、福沢諭吉にちがいない。

 なぜなら、福沢の学問や教育の中心は、当時の英国の最先端学問である功利主義(こうりしゅぎ、ユーティリテリアニズム)や自由主義(リベラリズム)を説いた、J・Sミル、ハーバート・スペンサー、ヘンリー・バックルであったからだ。彼らの学問は、キリスト教会が抑圧した 金儲けや贅沢(ぜいたく)といった人間の快楽の追及を、積極的に認めたため、宣教師たちから嫌われた。それを福澤は日々、慶応義塾の教壇に立って教えていた。

 彼ら宣教師は、西洋基準での(キリスト教の信仰心に裏打ちされた)道徳心の無い日本人は、功利主義や自由主義の、金儲けや快楽を学ぶレベルには達していない、と考えただろう。 日本人が、J.S.ミルのような当時のイギリスの最先端の思想である、リベラル派の啓蒙思想家の本を読んで、それを理解しようとすることは傲慢(ごうまん)なことだ、と考えた。 

 また、ダーウィンの進化論 ( 進化論は「神が人間を創った」を否定する ) を日本人が知ることを嫌った。その進化論を、聞きかじった半開の日本人から、逆に自分たち、イギリス国教会(こっきょうかい)= 聖公会 (せいこうかい)、ハイ・チャーチ)の宣教師たちが、キリスト教の人類創造の神話を、公然と嗤(わら)われるのも我慢ができなかった。日本人から嗤(わら)われるるのは、自分たち文明国人たるイギリス人のエリート階級の人間の意識が許さなかった。

 だから、日本にとって、融和的(アピーズメンタル)、表面は同情的である、とされる国教会(アングリカン・チャーチ)の宣教師であるショーですら、福澤諭吉を理解できなかった。 福沢たちが、必死の思いで、日本は急いで最先端の学問を導入しなれば、西洋列強(ヨーロピアン・パウアズ European powers )に対して,
日本の自立が危ういのだ、と切迫した危機感で感じていた。この福澤たちの危機感を、ショーたちは理解できなかったし、また理解したくもなかった。なぜなら当時の日本は、まさしくイギリスの属国(庇護国、従属国)だったからだ。

 独立自尊を唱える福沢が、自分たちの大英帝国を仮想敵国(かそうてきこく)としていたことを、ショーが知らないはずがない。

 福沢とショーの本格的な交流が始まったのは、明治7(1874)年の2月からだ。この頃の福沢が、日本の独立を脅(おびや)かすかもしれない国の一番手として考えていたのは、まさしく日本の近隣諸国(アジア諸国)に侵略していた大英帝国であることは間違いない。

 翌年の明治8(1875)年に出版した『文明論の概略』の中に、「我日本の殷艦(いんかん)(筆者注:戒(いまし)めの例えとなるもの )として印度(インド)の一例を示さん。英人が東印度(ひがしインド)の地方を支配するに、其(その)処置の無情(むじょう)残刻(ざんこく)なる、実に云(い)うに忍びざるものあり」と書いている通りである。

 福沢の苦悩は、ショーと論争することで解決したりはしなかった。
 知識、情報、それに道徳律となると、当時の日本人で最高の頭脳である福沢でも、ショーに太刀打(たちうち)ちできない。覇権国イギリスのエイジェント(代理人)であるショーから、学ぶべき事は、まだまだ多い。一方、ショーは福沢の日本国内の豊富な人脈を利用したかった。ここに両者の妥協点があった。

 当時の福沢の正直な気持ちを、実際に会って、見聞きして、日記に残した人物がいる。それは、明治8(1875)年に1、5歳で日本にやって来たクララ・ホイットニーという少女だ。 クララは、父が商法講習所(現在の一橋大学)の教師として招かれたため日本にやって来た。クララは、後に、勝海舟の三男、梅太郎と結婚する(所謂(いわゆる)、“できちゃった婚”だ)。 勝の家には青い目の嫁がいた事は、余り知られていない。

 (『勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉』p430 から引用開始 )

   1877(明治10)年11月28日
   以前は、ショー氏一家も、ミス・ホア(筆者注:英国国教会の女性宣教師A・ホアのこと)も、福沢氏と一緒に   住んでいましたが、福沢氏は、この人たちの「高教会派」的思想が気に入りませんでした。

 (引用終了)

 高教会派(ハイ・チャーチ)というのは、前の方で説明したとおり、プロテスタントの属する国教会でありながら、国教会は、その教義と組織は、かなりカトリック的である。そして、本当の実体は。カソリック以上に保守的であって、英国では上流階級が所属する宗派である。 要は権力志向の組織であって、権力や利権のために、世界支配を維持するために、自分たちの言っていることとやっている事が矛盾しようが知った事ではないという組織である、というのが私の理解である。

 だから、覇権国イギリスの力の源泉である、彼らの資本主義のやり方は功利主義そのものである。それなのに、それを日本人が学ぶ事を認めない、という偽善性を持つことになる。 彼らは、大英帝国の世界中の属国群を管理するためには何でもやる。 福沢は、この彼ら英国人エスタブリッシュメントの偽善的で残酷な本性に気づいて、怒り、そして警戒している。私にも、その気持ちは実感で分かる。

 彼らの偽善に対する福沢の反発が書かれている先の日記の記述が、翌年に書かれている。

 (『勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉』p592 より引用開始)

  1878(明治11)年7月12日

    私は福沢氏の所に行きました。ご在宅だったのは幸いだった。私は彼とゆっくり話したくなる。私が男性だ   ったら、彼を自分の教師として誇らしく思ったでしょう。しかしそれは不可能でしだ。彼には哲学的な閃(ひ   らめ)きがあって、下手な百科辞典 よりもずっと役に立ちます。 福沢氏は、私のアルバムに、「私は文明   の中に光を見出す事ができない」、「文明国(引用者註: すなわちイギリス国)の中に文明を見出す事がで   きない」と書きました。

 (引用終了)

  このクララの日記を読むと、当時、43歳の福沢が、18歳のクララに、自分の悔しい気持ちを素直に吐露(とろ)していたことが分かる。また、クララにとっても、福沢は、決して仰ぎ見るような存在ではないことも伝わってくる。ある意味、ふたりは対等に近い。これが、文明国から見た半開の国、日本での、イギリス白人と日本人との知的レベルにおける厳しい現実だった。

福沢諭吉とユニテリアン

 イギリス国教会=聖公会(せいこうかい)の宣教師を教師としている限り、『福翁自伝』に、「 我が慶応義塾を、西洋文明の案内者、西洋流の一手販売、特別エゼント(ママ)にせん」と書いた福沢の願望を実現する事は出来ない。真の目的である英国からの自立など、もってのほかだ。福沢は、この現実をどのように打開しようとしたのだろうか。

 その答えが、ユニテリアン教会との接近だった。

 福沢とユニテリアンとの出会いは、早く明治3(1870)年まで遡(さかのぼ)る。

 この年、福沢は腸チフスに罹(かか)り、生死をさまよった。この時、彼を救ったのがドクトル・シモンズだった。シモンズの妻がユニテリアンであったことが、彼と同様の宣教医であったヘボン(江戸時代に来日。ヘボン式ローマ字の考案者。明治学院初代総理 )の『ヘボン書簡集』の中に書かれている。そして、どうやら、シモンズ医師もユニテリアンに改宗していたらしい。

 腸チフスの治療以来、福沢とシモンズは親交を結ぶ。その関係は、福沢が明治16(1883)年に、長子の一太郎と、捨次郎を米国留学させるに当たり、シモンズに滞米中の二人の息子の保証人 兼(けん)後見人を頼むまでに発展した。両者の信頼関係は強く、夫妻は自分たちがアメリカに居る間の一時期、長男の一太郎を呼び寄せ、自宅に下宿させていたほどだった。福沢はシモンズを“外国人中の最親友”とまで明言している(『福沢諭吉全集 第18巻 』 p170)。

 福沢にとって、ユニテリアンのシモンズは、言っている事とやっている事が違わない、信頼できる人物であったのだろう。

 アメリカでは、福沢の二人の息子たちはシモンズ夫妻のユニテリアンのサークルに自然と溶け込んでいき、彼らのことを父親に報告した。長男の一太郎は、父に宛てた明治20(1887)年11月29日付け の手紙に、「ユニテリアン教を慶応義塾に広めた方が良いでしょう」 という大胆な提案までしていたこと(『ユニテリアンと福沢諭吉』p82「一太郎の大胆な提案」)が書かれている。

 そして、諭吉も、この一太郎の提案を否定していない。それどころか、この手紙を塾員たちにまで見せている。福沢はユニテリアンを受け入れた、ということだ。

ユニテリアン・ネットワーク

 アメリカには、ジョン万次郎の時から築かれた ユニテリアン・ネットワークがすでにあった。

 福沢諭吉が、安政6年(1859年)に、日米修好通商条約の批准交換のための使節団として咸臨丸の使節随員として渡米した時の通訳も、ジョン万次郎だった。福澤は、万次郎から直接、多くのことを教わった。

 遭難した漁民である万次郎は、助けてくれた捕鯨船(ほげいせん)の船長のアメリカ人に引き取られ、船長夫妻が住むアメリカ東海岸のニュー・ヘッドフォードで暮らし始めた。 夫妻は万次郎を学校へ通わせようとした。しかし、彼の入学を許可する学校は無かった。 東洋人の万次郎を受け入れてくれた学校は、ユニテリアン系の学校しかなかった。ユニテリアンの信条には、人類皆兄弟という教義があるから、日本人の入学を認めてくれたのだ。渡米した福沢の息子たちも、ユニテリアンのシモンズを頼って、このネットワークに加わったと考えるのが自然だ。

 平野貞夫氏は、『ジョン万次郎に学ぶ』(…年、・・・刊) の中で、「ジョン万次郎は、日本人で初めてのユニテリアン信者であった。その生涯をふり返ると、自分の言動に責任を持ち、救いは自分で勝ち取るものであり、人類全体が救済されるべきものであるとの教えどおり生きたといえる。」と書いている。

 ジョン万次郎がフリーメーソンであったという説は、ユニテリアンとフリーメーソンリーの同質性から来るにちがいない。海外に出て行った日本人の多くは、差別されることが少なくなかった。だから自分たちを差別せずに、親切に接してくれるユニテリアンのネットワークに入る事が、万次郎と同じく自然な事だった。

 友人の居ない、頼れる人の居ない弱い立場の外国で生活する日本人にとっては、このことは極めて切実なことであり、生きる術(すべ)といってよい。誰のお世話になったか、ということが一番重要なのだ。この人脈は、日本人にとってキリスト教の宗派を超えて共有された、というのが私の考えだ。

 ユニテリアン擁護(ようご)の動きは、国民に道徳律を持たせようと考えた明治政府からも出てくる。日本の最高権力者であった伊藤博文と、その関係者である金子堅太郎(かねこけんたろう。セオドア・ルーズベルトの学友、同窓 )と 森(もり)有礼(ありのり)(駐米国大使)らが。ユニテリアン宣教師の招聘(しょうへい)に動いた。

 なぜなのか?

 それは、若い国である日本国の中枢に居る彼らには、西洋列強との交渉ごと、例えば、不平等条約の改正に対しては道徳が不可欠なのを分かっていたからだ。道徳を持たない野蛮人 とは平等に付き合えないというのが西洋人の持ち出す理屈だった。 また、伊藤たちは道徳律を持った国の軍隊が強いことも知っていた。彼ら明治の日本の指導者たちが、その道徳律をユニテリアンに求める動きは、日清・日露戦争に勝ち、天皇が宗教的役割を確立し、自分たちで自立的に、教育(きょういく)勅語(ちょくご)、軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)が行き渡る時まで続いた。
 
 このような政治的、国家的な必要の背景もあったから、福沢の二人の息子は、アメリカでユニテリアン協会と接触した。勿論(もちろん)、父、諭吉の承認のもとだ。アメリカでの招聘(しょうへい)には、ハーヴァードを卒業した金子堅太郎が、伊藤博文の命を受けて日本国の代理人として動き、大きな役割を果たした。

 こうして、最終的に、ハーヴァード大学神学部を卒業したユニテリアン宣教師、アーサー・メイ・ナップ(Arthur May Knapp 1841-1921)が慶応義塾に招かれる事となった。

 明治20(1887)年に来日したA・M・ナップを、伊藤博文は、すぐに自分の湘南海岸の大磯(おおいそ)の自宅(滄浪閣 そうろうかく)に招いた。ユニテリアンの道徳律を国家運営に生かすことを伊藤は考えたのだ。

 国内にもユニテリアンを支援する人々のネットワークが出来ていた。

 そのネットワークには、東洋美術の西洋への紹介者であるアーネスト・フェノロサや、大森貝塚の発見者で日本に進化論を紹介したエドワード・モースたち、お雇い外国人、旧尾張徳川当主の徳川義礼(よしあきら)、日本赤十字の創始者で枢密顧問官、大蔵卿を歴任し老院議長まで務めた佐野常民(つねたみ)たち、知識人や指導者層の人々がいた。彼らは、正統派キリスト教(ローマン・カトリックとイギリス国教会)が、ダーウィンやスペンサー、ハックスリーたち自由思想家の進化論的考えを認めようとしないことに不満を持っていたのだ。

アメリカ建国と福沢とユニテリアン、フリーメイソンリー

 ここで少し戻って、アメリカ建国とユニテリアン、フリーメイソンリーの関係について説明する。なぜなら、私は、ハーヴァードとユニテリアンの関係を調べていて、驚くべき大きな事実を知ったからだ。 

 ハーヴァードというアメリカ最古の大学(まさしく、ユニテリアン教会の修道院として始まった)には、アメリカの縮図があった。どうも、これまでの日本人が抱いてきた、ピューリタン的アメリカ建国の神話の綺麗ごと(ピルグリム・ファーザーズの一団によるプリマス植民地の開始、という神話)で、アメリカを見ると、その真実の実態が見えなくなってしまうのだということも分かった。

 アメリカは、清廉(せいれん)・潔白(けっぱく)を旨とするピューリタン(清教徒)が建国したのではない。この建国神話はウソだ。 アメリカでは、多くの人々が独立の前から、ヨーロッパから渡って来た者たちの間で、急速に世俗化していた。世俗化(セキュラー せぞくか、secular )とは、金儲け主義、合利主義( 副島隆彦によるrational の本当の訳 )のことだ。

 現実には、アメリカ建国=独立よりも前に、ボストンなど大きな町の上層階級は聖公会(どこにも顔を出すワル)やユニテリアンにどんどん転向してしまっていた。 この上流階級の金持ちたちが、政治的なリベラル派を形成し、アメリカ独立運動の中心となっっていった。彼ら世俗化したアメリカの商工業者たちが、イギリスの国王による課税強化に怒ったのが、建国の本当の原因だ。始まりは、お金、税金、課税の問題だ。

 ゲイリー・ノース(Gary Kilgore North、1942年 -)という、アメリカ合衆国の経済学者、神学者、歴史学者は、『Political Polytheism (政治的多神教、 ポリティカル・ポリシーイズム ) 』という本で、大変興味深い事を紹介している。 訳本が無いので、以下、筆者による試訳だ。

(Gary North, Political Polytheism, ICE, TX, p.676より引用開始)

   18世紀初頭、北部ヨーロッパにおいて、三位一体説に反対するヒューマニストたちは、非国教徒(ノンコンフ  ォーミスト)の教会員や、理神論者(デイイスト)たちと結託して、市民権の基準を変えようとした。
  市民権は、それまでは明確にキリスト教に基づくものでなければいけなかった。

   しかし、啓蒙主義の左右両翼の人々、すなわち、スコットランド経験主義者(エンピリシスト)とフランスの  自明的な合理主義者(ラショナリスト)たちは、どちらも新しい市民の概念を提唱していた。
  すなわち、「聖書の神への信仰を告白しなくても得ることができる市民の地位」を築こうとしたのである。

  1788年に合衆国の法律に採用されたのは、この市民に関する新しい概念であった。

  (原文)
   in the eighteenth century in Northern Europe, anti-Trinitarian humanists combined    with dissenting (non-State-established) churchmen and Deists to restructure the      existing basis of citizen-ship, which had previously been explicitly Christian.

    The two wings of the Enlightenment, Scottish empiricism and French a priori       rationalism, both proclaimed a new concept of citizenship: citizenship without     a required profession of faith in the God of the Bible.

    It was this new concept of citizenship which was ratified into law in the        United States in 1788.
 
  (引用終了)

  石井利明です。 ここに書かれていることは、 例えば、ヨーロッパではキリスト教に改宗しないユダヤ人たちは、市民権を与えられず、ゲットー(貧民窟)に閉じ込められる状態が長く続いていた。ここに書かれた、新しい概念の市民たちが、アメリカの新興の富裕層である者たちが指導して、銃を持って戦って建国したのがアメリカの本当の姿なのだ。建国の運動には、ピューリタンはどこにも登場しない。

 ゲイリー・ノースは、この本の中で、

「植民地のアメリカは、ピューリタンの、三位一体神を信じていたのだが、アメリカの建国時に、ワシントンやフランクリンらのメイソン会員たちによって、「ユニテリアンの神(理神論の神)」にすげかえられたのである」

と、説明している。私には、このすげかえは、日本で明治維新勢力の勝利した途端に、尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)の思想を、打ち捨て、(ほうむ)り去った事が重なって見える。

 ここに、ユニテリアンとフリーメイソンリーの“理神論の神”が再登場した。

 ユニテリアンとフリーメイソンリーは、アメリカの建国に大きな役割を果たした。
 アメリカ建国の精神は合衆国憲法に反映されており、それは17世紀のヨーロッパで最高級の啓蒙思想家のひとりであるジョン・ロック( John Locke 1632-1704)が創作した自然権(ナチュラル・ライツ)の思想を 明文化したものだった。 このロックの大思想を日本に紹介したのが、福沢諭吉である。福澤諭吉は、だから日本のロッキアン (Lochean 、自然権派。 自然法=ナチュラル・ラー派ではない。人権派=ヒューマン・ライツ派は、この時は、まだ地球上に出現していない )の草分けである。

 私は、福沢が、このアメリカ建国の事実、すなわち、啓蒙(けいもう)の本当の姿である合利(rational ラチエオナル )によって、アメリカ合衆国は、イギリス帝国から独立したのだ、という事実を知っていたのだと思う。

 やっと、ここで福沢が目指した日本の姿と、ユニテリアン、フリーメイソンリーが結びついた。つまり、大きな枠組みで考えれば、福沢は英国と対抗するためにアメリカ建国と同じくユニテリアンの力を借りたのだ。このように私は考える。例えるなら、大英帝国に対する属国群の共同解放戦線の戦略である。

慶応義塾とハーヴァード・ユニテリアン

 こうしたアメリカの建国の実体とハーヴァード大学は直結している。

建国後、アメリカでは、しばらく、保守派(これは、その実体は、長老派=スコットランド・カルヴァン派であろう)と リベラル派 の共存が続いた。が、19世紀に入ると両者の関係は悪化する。その舞台となったのが、まさしく古都ボストンのハーヴァード大学だった。1805年、ハーヴァード大学の神学職を巡る選挙でリベラル派が勝った。 すると、“ ユニテリアン論争 ”が巻き起こり、両派は決裂した。

 カルヴァン主義である保守派は、「彼らリベラル派は、偽装したユニテリアンだ」と決め付けた。そして、リベラル派を、ローマ・カトリックがやったように異端者(ヘレシー)のように扱った。その実、ハーヴァード大学にいたリベラル派とは、ユニテリアン教徒なのだから、保守派の言う事は事実だった。

 しかし、ところが、正統派カルヴァン主義は、この論争でリベラル派に敗れてしまい、ハーヴァードを去らなければなくなった。 ユニテリアン=フリーメイソンリーの理神論(デイスム)が、ハーヴァード学内で勝利したのである。 

 アメリカ国のキリスト教内部での闘いでの勝利者は、まさしくユニテリアン(フリーメイソンリー)だったのだから、それが当然だ。 当時のアメリカの一般の人たちは、ハーヴァード大学の神学部をユニテリアンのものと見ていたし、実際もそうだったわけだ。

 ここまで来ると、福沢が、啓蒙思想 に基づいた、功利主義や自由主義を教えてくれる人材を、ユニテリアンのハーヴァードに求めた、つながりが見えてくる。まるで、そうなるのが当たり前だったかのように、と私は思う。

 ナップは翌明治22(1889)年10月にハーヴァードから、さらに三人の教授を連れて戻ってきた。

 慶応義塾の大学校化は、福沢親子のユニテリアン人脈と知識人の要望、ユニテリアン教会の布教活動、そして政府のキリスト教による国家の道徳律の輸入というそれぞれの思惑が密接に関係して誕生したのある。

 ところが、この招聘(しょうへい)が、普段から宗教を非難していた福沢の言動の不一致だとして新聞紙上で叩かれた。

 ユニテリアンのナップを通じて慶応義塾に三人の教授が招聘された事は、慶応義塾と米国ユニテリアン協会の同盟が結ばれた事を意味し、慶応が宗教性を持ったのではないか、ということが疑われた。私は、確かに、この時、慶応義塾は宗教性を持ったのだと考える。経緯からして当然だ。

 しかし、慶応義塾がユニテリアンと宗教同盟を結んだ、などと認めることは、日本の宗主国(そうしゅこく)である英国に対して危なくて出来ることではなかった。この時、ナップは、機転を利かして、招聘された三人は、ユニテリアンの教会の信者ではないことから、ユニテリアン主義を教派でなく、リベラリズムの“運動”として捉(とら)えるべきである、という論陣を張った。そうしてこの慶応義塾の宗教性の問題から福沢を救った。

 この三人の教授は宗派にこだわらず、確かに、進化論を教え、聖書の批判を受け入れる自由思想家であり、ユニテリアンと殆ど変わらない宗教思想を持っていた。つまり実質的にはユニテリアンだった。また、そのような人たちだからこそ、日本人に最先端の思想や科学を教える事が出来た。

 これが、福沢諭吉が慶応義塾にユニテリアンの教師たちを立たせるまでの過程である。

まさしく福澤の行動は、偉大である彼が打ち立てた独立自尊の信念と一致している。彼は、無謀な負け戦に引き込まれず、思想家、教育者としての生涯を全(まっと)うした。日本を属国として扱う英国に対して、勃興する新興大国あるアメリカの自由思想と、ユニテリアン理神論を自分たちへの支援勢力とした。そして、部分的にであれ、着実に日本国が、自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けたのであること。分ってもらえましたか。

(了)

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