「2220」 原節子と小津安二郎監督(第4回・全4回) 2025年10月10日
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副島隆彦です。今日は2025年10月10日です。
原節子と小津安二郎の話の最終回です。
だから、前後するが、やっぱり1937年に、最初言ったとおり原節子が16歳のとき、「新しき土」で計画的にドイツ側が日本の若い女優を大事にした。そのベルリンの後、ニューヨークからハリウッドに4カ月かけて行っている。だから、お金持ちというか、そのときのさっきの写真のすごさ。原節子はきれいだ。だから、もう16歳で世界を、ハリウッド映画界まで見ている。ということは、もう日本の映画界は貧乏で下品で、教養がないみたいに原節子は16歳で見えてしまっている。だから言われたとおり演技はやっているけど、一生もう打ち解けなかったと思う。私はそのときの感じは大きいと思う。
180センチある日本のモデルの冨永愛(とみながあい、1982年-、42歳)も同じだろう。冨永愛なんかも、18歳ぐらいでパリとか連れていかれている。世界の水準を、もう見ちゃっているから。日本に帰ってきて、いくらきれいなモデルさんといったってテレビ女優でもやるしかなくなる訳だ。あんなやつに女優なんかやらせたって、背が高いだけで大したことない。餅は餅屋で、モデルはモデルとしてしか輝かない。テレビ女優やらせてもだめだ。だから、場面の出し方という問題があるからな、そこは大事なことで。
冨永愛は17歳のとき、この雑誌「ヴォーグ」に載った写真から本格的に世界で活動を開始した。
原節子の悪口を言いたくて言っている訳じゃないんだけど。あと一つはマッカーサーに差し出されたという鵜沢だけ立ったけど、そんなことはなかったというのが真実だ。マッカーサーは日本に奥様を連れてきているから、一番きれいな女優を1人出せと言う訳がない。アメリカ大使館の裏に公館があって、ホテルオークラの反対側で、オークラとつながっている地下道がある。毎日のようにマッカーサーは映画を見ていたという。日本の映画を見る訳はないけど――あ、見たのかもしれない。「新しき土」も見たんだと思う。それで、原節子をきれいだとて言ったらしい。だけど、原がマッカーサーに差し出されたということはないというのが真実だ。
ただ、歴史的に実はproconsul(プロコンスル)という言葉が古代ローマ時代以来あって、軍事総督と訳す。proconsulという勝った国のローマ帝国の将軍は、占領した国の一番きれいな王女様を差し出されて寝るというルールがある。それがヨーロッパのルールだ。そういうことをやる。マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich、1901-1992年、90歳で死)なんかもそういう役の映画をやっている。彼女はドイツ人の中の、ハリウッドへの裏切り者ですから。もうその話はしないが、すごくきれいだったみたいだけど、原節子は日本のマレーネ・ディートリッヒと言われたんじゃないか。
マレーネ・ディートリッヒ
1940年に戦争が始まる前、「嫁ぐ日まで」と同じ年に「支那の夜」という映画が大ヒットした。これで李香蘭(りこうらん)、本名は山口淑子(やまぐちよしこ、1920-2014年、94歳で死)が20歳で出ている。もう中国で「あわれ春風に」、「夜来香(イエイライシャン)」という歌を歌った。相手方は長谷川一夫(はせがわかずお、1908-1984年、76歳で死)で流し目が非常にきれいと言われた。あの人は歌舞伎というより映画俳優だ。東宝の看板スターの長谷川一夫と満洲映画協会(満映)の看板スターである李香蘭との共演で、中華電影公司というのが上海ロケの撮影協力をした。この映画の挿入歌の「蘇州夜曲(そしゅうやきょく)」が大ヒットした。これはもうすごかった。
「支那の夜」(1940年作)
この「支那の夜」という映画は、どうも裏側に甘粕正彦(あまかすまさひこ、1891-1945年、54歳で死)憲兵隊大尉がいた。甘粕正彦は、1923年の関東大震災の、どさくさのときに、無政府主義の作家で社会運動家の大杉栄(おおすぎさかえ、1885-1923年、)と婦人解放運動家で作家の伊藤野枝(いとうのえ、1895-1923年、)を殺して井戸に捨てた、甘粕事件が起きた。
大杉栄と伊藤野枝
甘粕が後に満州映画協会の理事長になった。1945年に満州帝国の大連(新京特別市)で服毒自殺した。この満州映画協会の建物を私は見に行った。敗戦の日の8月15日から5日経った20日に、そこにいた日本人の金持ちの奥様たちと一緒に、お茶飲んだ後、服毒自殺した。
甘粕正彦
だからこの甘粕正彦が本当は「支那の夜」という映画を日本国策映画として、つくったと思うんだけどね。アメリカとの戦争が始まる前だから日本が最高級に金持ちだったときです。中国との戦争では中国国民党も共産党もぼろ負けですから、日本軍のほうが武器弾薬ものすごいからね。
「支那の夜」での長谷川一夫と李香蘭
原節子論というのは、私が独自のものを打ち出せたかどうかは分からないんだけど、やっぱりここまで書いとかなきゃいけない。石井妙子は助監督だった何とかを好きだったとか書いている。性関係ぐらいあったかもしれない。それを義理の兄の熊谷久虎(くまがいひさとら、1904-1986年、82歳で死)監督が怒って、その助監督を追放するんです。その義理の兄の熊谷久虎ともできていたという説もある。だけど、そういうことを言い出すと切りがない。大女優のとりっこみたいなことがあったと思う。
それでもやっぱりダンディズムを突き詰めていたという小津安二郎を原節子は好きだったんでしょうとしか言いようがない。ということは石井妙子の負けだ。そこは冷静に言わなきゃいかん。NHKの2003年の「小津映画『秘められた恋』」が最高だ。
小津は、小田原の都小路の清風楼というところにいた芸者さんとつき合っていたという。当時、待合茶屋と呼ばれた。待合茶屋だって、お茶屋だって似たようなものだ。要するに旅館のふりをした高級売春宿だ。今も小田原に都小路はあるんだと思う。そこの森栄という芸者さんだ。その人とずっと小津は長いつき合いをしている。
それを原節子は知っていたから、小津と結婚しなかったというのは当然だ。こういうことがYouTubeの小さな番組にいろいろとぺたぺた出ている。言う言葉がないくらい暴かれている。案外、日本人が知らない。YouTubeの中で目立たないんだけど、1作、NHKの「小津映画『秘められた恋』」を見たら、これが全てだ。やっぱり今村昌平が全部べらべらしゃべっている。私は、今村昌平とは一回、会って挨拶したことがある。それは、斎藤史門(さいとうしもん、1954-2014年、60歳で死)の新築祝いの席だった。斎藤義重(さいとうよししげ、1904-2001年、97歳で死)という戦後のピカソと呼ばれた芸術家がいて、その息子さんが斎藤史門だ。
斉藤史門
斎藤義重
彼が大磯から山の中に入ったところに家を建てて、そのお祝いがあったときに今村昌平が来ていた。自分の映画学校をつくった。私は今村昌平をあまり好きじゃないんだ。ロケーションを一生懸命やった監督だった。代表作は「楢山節考」(1983年作)と、もう一作は何だろう、「ええじゃないか」(1981年作)はひどかった。あと一作、「うなぎ」(1997年作)でも、カンヌ映画祭でグランプリをとっている。でも、ろくなものはない。私はあまり好きじゃない。
「楢山節考」(1983年作)
今村は、別に人をいじめる感じの人ではなかったと思うけど、やっぱり小津安二郎の映画のきれいさとかがないんだ。政治問題にかかわっていくんだけど、いい加減なんだ。だけど、1983年に「楢山節考」をつくったときに、何と「戦場のメリークリスマス」を大島渚(おおしまなぎさ、1932-2013年、80歳で死)監督がつくっていて、そこでデヴィッド・ボウイ(David Bowie、1947-2016年、69歳で死)と坂本龍一(さかもとりゅういち、1952-2023年、71歳で死)がホモの軍人同士で抱き合うみたいな、嘘みたいな話を入れちゃった。だから、私はあんまり好きじゃなかったけど、カンヌで必ずグランプリをとると言われていた。同じ制服のウィンドブレーカーを揃って着たりして、みんなが大挙してカンヌに押し寄せたらしい。
「戦場のメリークリスマス」(1983年作)
これががっかりで、「戦場のメリークリスマス」じゃなくて、「楢山節考」がグランプリを取った。坂本スミ子(1936-2021年、84歳で死)という「楢山節考」のおばちゃんと、小津安二郎もよく知っていた常務みたいな人だけが現地に行っていて、激賞された。だけど坂本スミ子が麻薬をやっていると、わあわあ騒がれて、もう何だか。緒形拳(おがたけん、1937-2008年、71歳で死)の嫌らしいセックス映画みたいな感じで、実は日本国内では「楢山節考」は評判が悪い。ヘビをネズミがかじるシーンとか、そういうのばっかり。鳥がわあわあ飛んでいるとか、ろくなもんじゃない。だけど、今村昌平としては原作者の深沢七郎(ふかざわしちろう、1914-1987年、73歳で死)とつき合いがあって、深沢の了解も全部得て映画化した。でもやっぱりよくない作品だった。
吉田喜重(よしだよししげ、1933-2022年、89歳で死)という監督がいて、これは小津とぶつかったわけでもないんだけど、松竹をやめちゃった。この人が政治映画を撮っている。「エロス+虐殺」(1969年作)とか、あと有名なのは「戒厳令」(1973年作)とか、いろんな作品を撮っている監督だ。その吉田とも原節子は仲がよかった説があるんだけど、吉田はインテリで東大を出ている。
「秋津温泉」(1962年作)
吉田喜重
それで大ヒットしたのは吉田喜重が、家庭もので、どかんとヒットした作品が1作ある。「秋津温泉」(1962年作)だ。岡山の山の中の奥津温泉というところを舞台にして、何年かに一遍しか会わない旅館の女将(おかみ)と、そこをぶらぶらっと訪ねてきた結核の作家の男の愛。心中に失敗して女の人だけ死ぬんだけど、それが受けた。
これは岡田茉莉子のデビューから100本記念作品だった。岡田茉莉子と吉田喜重は結婚したけど、長いつき合いだ。長門裕之(ながとひろゆき、1934-2011年、77歳で死)もこの映画に出ていた。
こういう話をし出すと切りがないのでもうやめる。やっぱり最初に戻って、原節子が輝いているのは紀子三部作の「晩春」と「麦秋」と「東京物語」なんだ。日本国内映画は、これでピークだ。ただ、小津は世界レベルの賞はもらっていない。だから、世界的評判は溝口健二(1898-1956年、58歳で死)と黒澤明のほうに軍配が上がっている。一番年上なのは溝口だ。でも彼らみんな学歴がない。専門学校出みたいな人たちで、とにかく死ぬほど映画が好きだったんだろう。きっと周りも気合いが入っていたんだろう。それで、小説家みたいなものなので、監督が自分で脚本書きもやっている訳だ。そうすると、時代の一番華やかなところに来た。ロケーションをやるだけで何千人もの人が集まっちゃうというのは、もう祭りを通り越している。
左から:小津、黒澤、溝口
過去の話だが、そこのすごさを日本人の誰かが書いて残しておかなきゃいけない。ということで、私は原節子と小津安二郎の最後の10年間の死ぬほど愛し合っていたという話が一番基本に来るべきだと思う。監督が女優に演技指導するから、抱き合うに決まっている訳だ。そのときの激しい愛し合い方が中心にないといけないと思う。これを知らん顔して、演技がうまかったとか、そういう話じゃないんだ。男と女が本気で抱き合って、愛し合わないと本当のよさは映画に出ない。だから、きらきら輝く原節子の、この3作での輝き方は異常だ。ただ単に原節子を白く浮かび上がらせるようにきれいに映したとか、そんな話じゃない、これ。原節子が異常な輝き方をしている。これが分からなかったら、原節子論にならない。
だから、「見ろ、石井妙子、おまえを超えたぞ」だ。NHKの「小津映画『秘められた恋』」をYouTubeで見てください。
つけたしをする。1951年に成瀬巳喜男(なるせみきお、1905-1969年、63歳で死)の「めし」という映画に原節子が出ている。原節子は別に輝いていない。相手は上原謙(1909-1991年、)。何がすごいかって、浮気かなんかしているんだろうけども、どうということがない映画。だけど、最後に女の一生は結局、自分の結婚した男の人と最後まで添い遂げることだという結論でおさめちゃった。馬鹿みたいだけど、それがものすごくよかった。馬鹿みたいな結論だ。
「めし」(1951年作)
成瀬巳喜男
この原作者は林芙美子(はやしふみこ、1903-1951年、)で、林芙美子の絶筆。途中で死んで新聞連載が止まっちゃった。最後を、どういうふうにするか分からなかった。この「めし」の映画では、川端康成が監修した。
「放浪記」の森光子
だから、林芙美子というのは『放浪記』(1939年)で有名で、女流作家を目指して苦労しながら、女給、バーのホステスみたいなことをしながらさまよっている女だった。それを新劇の女優の森光子(1920-2012)が舞台で2017回、通算上演した。「放浪記と言えばでんぐり返し」と言われ、劇中最大の見所とされていた。東山紀之とつき合っていた森光子が、全国のおばさんたちに死ぬほど受けた。
「誰が選んでくれたものでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」というセリフが死ぬほど受けたんですよ。全国の女たちが、それを見に行ったんです。『放浪記』の舞台を、森光子は、50年弱ぐらいやっていたんじゃないか。
まあ、新劇だから受けたんで、映画にもなったと思うんだけど、私は知らない。それでも、その林芙美子の絶筆だというところと、つまんない結論にしているところが、成瀬巳喜男の「めし」のすごさだ。もう成瀬巳喜男の巻はやらない。
(終わり)
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