「2219」 力石幸一著『名画は知っている 恐ろしい世界史の秘密』が発売 2025年9月25日
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SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。今日は2025年9月25日です。
今回は、力石幸一著『名画は知っている 恐ろしい世界史の秘密』(ビジネス社)を紹介する。発売日は2025年10月1日だ。
『名画は知っている 恐ろしい世界史の秘密』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに飛びます
著者の力石幸一氏は徳間書店の編集者で、長年にわたり副島先生の著作の編集を担当してきた。また、私(古村)の著作の編集を担当していただいている。
力石氏は、編集者をしながら、美術研究をライフワークとしてきた。力石氏は、2013年6月29日開催の「副島隆彦の学問道場」の定例会「いい加減にしろ!マイケル・グリーン」にて講演を行った。
画面左の「副島隆彦講演ビデオ」欄から注文できる。その後も研究を続け、今作『名画は知っている 恐ろしい世界史の秘密』が生まれた。
以下に、まえがぎ、目次、あとがき、副島先生による解説文を掲載した。是非お読みいただき、手に取ってご覧ください。
(貼り付けはじめ)
まえがき ── 芸術は「美」である以上に「真実」
力石幸一(ちからいしこういち)
なぜ西洋絵画と世界史をつなぐような本を書こうと思ったのか。本書を手にとられた方は、頭のなかに大きな疑問符が浮かんでいるに違いありません。
美術はもちろん歴史の専門家でもない人間が、絵画芸術と世界史について語ろうというのですから。まずはじめに、そもそもの理由について、説明しておく必要がありそうです。
それは2006年10月でした。上野の東京文化会館にハンガリー国立歌劇場のオペラを観に出かけました。マチネーだったので公演が終わってもまだ陽が高い時間です。せっかく上野にいるのだから絵でも見て帰ろう。
そんな軽い気持ちで、国立西洋美術館で開催中だったベルギー王立美術館展に行くことにしました。そのときは、まさか、この展覧会が私の絵画観を一変させてしまうとは、思いもしないことでした。
展覧会場に入って正面に展示されていたブリューゲルの絵に少し心が動きました。『イカロスの墜落のある風景』という題名です。ブリューゲルの名前は知ってはいたものの、確か農民画家と呼ばれていたはず……くらいの知識しかありません。
少し先に、同じブリューゲルの『鳥罠のある風景』もあったのですが、こちらは同じブリューゲルとは思えない、どこか偽物のような感じがしました(実際にあとで調べてみると、息子のピーテル・ブリュゲル2世の模写絵でした)。
そして18世紀ころのオランダ絵画によくある大きな肖像画がこれでもかと並んだ展示室にうんざりしながら、次の展示室にまわったときに、ある1枚の絵の前で、私はふいに立ち眩(くら)みのように自分の体がゆらゆらとゆれるのを感じたのです。
絵のなかに自分自身が取り込まれてしまうような眩暈(めまい)に襲われました。その絵とは、ポール・デルヴォーの『終着駅』(図0 -1)でした。
すっかり夜のとばりが降りている駅のプラットホームに一人の少女がひっそりと立っています。最終の電車が駅を出ていくようです。少女は最終電車に乗り遅れたのでしょうか。
前方にはアンテナのような架線が見えて、その上に三日月があります。右側には月明りにしては妙に明るい白い壁の家々が並んでいる。幻想的なその絵を見ただけで自分の存在がゆさぶられるような感動が襲ってきたのです。
この絵は自分の頭の中にある夢の世界そのものではないか。この絵を頭の中に入れて持ち帰りたいという衝動にかられるほどでした。絵を見るだけで、それほど強く心を動かされたのは、人生初めての体験でした。そして、少しおおげさにいうと、この絵によって、私のなかで絵画を見る回路が、一気に開いたような気がしたのです。
しばらくデルヴォーの絵の前で呆然としていました。そのうちに、最初に見たブリューゲルの絵が気になってきました。何か謎めいた絵だと感じていたからです。そこで入口近くの展示まで戻って、ピーテル・ブリューゲルの『イカロスの墜落のある風景』(図0-2)をもう一度じっくり見直したのです。
海岸に面した丘の上の畑で牛にスキをひかせた農夫がのんびりと農作業をしています。海には大型船が浮かんで多くの水夫が一心不乱に作業をしている。その手前の海面にポチャーンとイカロスが海に墜落していて、その足だけが見えている。
ところが釣り人も犬をつれた羊飼いも、そして帽子をかぶった農作業をしている農夫もイカロスの失墜を見ていない。というより、イカロスの存在を無視しているのです。そのとき、この絵が何を言おうとしているか、私のなかで明確なイメージが見えてきたのです。
イカロスの失墜は、ギリシア神話にある有名な説話です。クレタ島の塔に閉じ込められた天才的な工人ダイダロスが、大きな翼を蜜蝋で体に密着させることで鳥のように空を飛べるようになります。
そして息子のイカロスにも翼をつけさせて大空に舞い上がる。それを農夫と羊飼いと釣り人が見上げて驚く。ダイダロスは、あまり高く飛べば太陽の熱で蜜蝋が溶けて飛べなくなると息子のイカロスに注意を与えたにもかかわらず、イカロスは自らの力を過信して傲慢にも太陽にも届けとばかりに天高く飛びあがり、太陽の熱で蜜蝋が溶けて墜落してしまう。
このイカロスの失墜の物語は、神にも届く塔を建てようとしたバベルの塔と同様に、人間の傲慢(ごうまん)さをいさめる説話だとされるのですが、ブリューゲルの絵で見ると、どこかちぐはぐで、おかしなところだらけです。
まず変なのは、イカロスが天高く舞う姿に驚くはずの農夫も羊飼いも釣り人もイカロスを無視しています。もっと言えば、船で作業する水夫たちもイカロスの存在とはまったく関係なしに自分たちの仕事に没頭しているのです。そして、天高くのぼっているはずの太陽はなんと西の海に沈もうとしているではありませんか。
ここではこれ以上詳しく述べる余裕がありません。結論を先に言えば、ブリューゲルはこの絵で、イカロスの物語をどこかあざ笑っていて、何かを見ないようにしているように感じられたのです。それは別の言葉で言えば無関心ということです。
ではブリューゲルは、何に対して無関心だったのか。その疑問はキリスト教と西洋近代の歴史に深くかかわりがあるはずだという確信が私の頭のなかで大きく広がっていきます。
その謎を解くために、私は世界中の美術館を回ることになります。イタリアのウフィツィ美術館、スペインのプラド美術館を始め、ベルギーからオランダ、ドイツなど、ヨーロッパの有名美術館をくまなく見て歩きました。この本に解説と推薦をいただいた、副島隆彦先生と一緒にウィーン、ロッテルダム、アントワープなどの美術館を回ったこともあります。一度ならず二度訪れた美術館もかなりの数になります。
本書は、そうした私の美術探究によって世界史の謎を解こうという試みです。何と無謀な、と思われるかもしれません。しかし、絵画のなかには画家たちが生きた時代の真実がこめられているのです。だから、その画家たちの真実を汲みあげることができれば、彼らが生きた歴史の秘密に迫ることができるはずなのです。
一般に、絵画芸術は美術とも呼ばれるように、「美」というものをどう捉えるのかという風に理解されています。学校教育においても「美」について、その技法や構図、描写の特性などについて学びます。しかし、あえて言いますが、「美」は絵画にとって1つの属性にすぎません。
1枚の絵画には、作者である画家が、その人生のなかで刻印された、ありとあらゆる感情がこめられているはずです。理想と現実のはざまで感じた絶望や希望など、人間として生きた証がそのまま絵には描き込まれている。それらは作品のなかである種の思想として結実していると言ってもいい。それを感じ取るのが絵画を鑑賞するということなのだと、私はあのポール・デルヴォー体験から思うようになっていました。
よく、芸術を鑑賞することについて、いろいろな観方があっていいし、そのほうが面白いと言う人がけっこういます。しかし、私はそうは思いません。芸術から直接放射されてくる真実の光をそのまま受け止めなければ、芸術を正しく理解することはできないと思うのです。芸術とは作者にとっての真実をそのまま伝えることのできる最高度のコミュニケーション・ツールなのです。
もし私のこの仮説が正しいとすれば、絵画はすぐれた批評(クリティーク)の手段となりえます。そのような視点から絵画芸術を通して、その絵が描かれた時代の真実を浮かび上がらせようというのが、本書のもくろみです。
何を大風呂敷を広げているのかと言われそうですが、これまで世界の誰も言ってこなかった話が、少しはできるのではないかと思っています。本書を読み終わったときには、あなたの芸術と世界史に対する理解は大きく変わっているかもしれません。楽しみながらお読みいただければ幸いです。
力石幸一(ちからいしこういち)
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『名画は知っている 恐ろしい世界史の秘密』◆目次
まえがき ── 芸術は「美」である以上に「真実」 2
第1章 フランドル絵画がイタリア・ルネサンスの起爆剤となった 15
ルネサンスは地中海世界の大変動によって始まった 16
『ポルティナーリ祭壇画』が『ヴィーナスの誕生』に与えた衝撃 21
その後のトンマソ・ポルティナーリ 42
第2章 ヤン・ファン・エイクがキリスト教に背を向けた 49
ヤン・ファン・エイクというとてつもない革命児 50
肖像画のポーズの取り方も北方ルネサンスがルネサンスに影響を与えた 65
『宰相ロランの聖母子』というとてつもない傑作 67
『聖母を描く聖ルカ』は、『宰相ロランの聖母子』への反発から描かれた 80
『アルノルフィーニ夫妻の肖像』という画期的な肖像画の真実 84
「中世の秋」ではなく、「近代の春」ではなかったのか 92
第3章 謎の画家ボスの奇想という毒の正体 107
ファン・エイクを継承する者としてのボス 108
『快楽の園』はボスの作品としか考えられない 111
プラド美術館の見事なキュレーションのぜいたくさ 115
樹木人間はボスその人ではないか 116
ブルゴーニュ公国とハプスブルクの結婚 120
カトリック教会の堕落とボスの芸術の意味 135
第4章 ブリューゲルは農民作家などではない 137
北方ルネサンスの3人と日本の琳派の3人 138
ヤン・ファン・エイクの思想を継承したブリューゲル 145
スペイン軍による宗教弾圧がブリューゲルの作品に落とす影 151
十字架の横に配置された絞首台の意味とは 155
ブリューゲル自身がしばしば自らの作品に登場する理由 158
ボスの継承者としてのブリューゲル 162
ブリューゲルはなぜ風景を作品に描き込むのか 166
ブリューゲルの絵にはなぜ時間が流れているのか 175
ブリューゲルを「農民画家」とするのは間違い 179
バベルの塔はなぜつくりながら崩れているのか 186
絞首台とカササギが訴えかけてくるブリューゲルの遺言 194
第5章 なぜネーデルラントから近代が始まるのか 197
キリスト教中世から近代への移行に成功したネーデルラント198
エラスムスとルターの自由意志論争から浮かび上がるもの 201
「個人」というパラドキシカルな存在を生みだしたカルヴァンの教義 204
デカルトがアムステルダムで見た個人主義 205
ネーデルラントでなぜ自由主義が生まれたのか 207
バンコ・デ・メディチはなぜ破産したのか 210
ポトシ銀山からの銀の大量流入がスペインを衰亡させた 215
資本主義の秘密は銀行の「貸付」にあった 218
あとがき 221
解説文(副島隆彦) 225
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あとがき 力石幸一(ちからいしこういち)
ピーテル・ブリューゲルの『イカロスの失墜のある風景』を見たときから、ずいぶん遠くまで旅してきたような気がします。
絵の話かと思ったら、近代資本主義の話になっているじゃないかと、ここまで読まれた方はあきれているかもしれません。しかし、ブリューゲルの絵を見続け、さらにヤン・ファン・エイク、ヒエロニムス・ボスの絵を知ることで、私のなかに中世から近代に至るヨーロッパの風景が見えてきたのです。その風景を追いかけていくうちに、自分なりの近代理解ができあがってしまったのですからしかたありません。
「まえがき」で述べたように、絵画芸術に目覚めるきっかけは、ポール・デルヴォーの『終着駅』という絵でした。あのとき、一瞬立ちくらみのようになったことの種明かしをすると、じつはあの絵の遠近法が微妙に狂っていて、見ている自分の位置がはっきりしなくなることで夢のなかのような幻想的な感覚に陥ったのでした。
音楽や演劇や映画などの芸術は時間によってドラマが進行します。ところが、絵画芸術には静止した画面があるだけなので、時間概念がなくて意味をとりにくいとずっと感じていました。ところが、デルヴォーの絵を見たことで、じつは絵画にも時間が存在していることに気づかされたのです。デルヴォーは、遠近法を操作することによって空間を延長したりゆがませたりすることで時間をつくっていました。ブリューゲルの風景にも時間が流れています。その絵のなかにある時間は永遠の時間です。そして、それは一瞬の永遠なのです。限られた時間を生きる私たちは、永遠は一瞬であり、一瞬は永遠であるというパラドックスのなかにあります。音楽や演劇などの時間芸術においても、究極的な感動はある瞬間に表れます。そのとき、感極まった一瞬に私たちは永遠を見ることができるのです。
考えてみれば、この世界はパラドックスだらけです。自由という不自由があれば、富という不幸もある。善と悪は裏表で、真は偽に一瞬でひっくり返ります。
この本を通してずっと、ルネサンスや北方ルネサンスの画家たちの絵を見てきたのは、そこにどんなパラドックスが隠されているのかを探す旅だったようにも思います。
最後の結論となった資本主義の精神と利子の問題もその例外ではありません。近代資本主義が始動するときには、必要だった利子と個人のあくなき成功への欲望という要素は、いま否定されるべきものになろうとしています。
大きなバブルが崩壊するごとに紙幣を刷り続けてきた副作用として金利が低下し、日本ではマイナス金利まで経験しました。人間の限りない欲望は環境破壊を引き起こし、貧富の格差による分断が不可避となっています。従来の資本主義の原理はどんづまりにまで追い詰められています。これは大きなパラドックスではないでしょうか。ちょっと大げさな言い方になりますが、われわれはこのパラドックスの解決なしに未来を生きることは不可能なのです。この本が、そんな大きな問題を考えるきっかけになってくれればと念じています。
本書のような奇妙な本の企画を認めていただき、出版のために奔走してくれたビジネス社編集部の小笠原豊樹さん、そして企画書を見て出版を即決していただいたビジネス社の唐津隆社長のお力添えがなければこの本が出版されることはありませんでした。本当にありがとうございました。
また、副島隆彦先生には、この本の原型となる話をした際に、即座に学問道場の自力講演会で話すよう促していただきました。さらに出版にあたっては身に余る推薦と解説文をいただきました。副島先生とは何度もヨーロッパ各地の現地取材に同行させていただき、この本でも紹介した名画の数々も一緒に鑑賞しました。その際に議論した内容も本書に反映することができました。ここに記して深甚なる感謝の意を表します。 2025年8月 力石幸一(ちからいしこういち)
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解説文(副島隆彦)
この本の著者である力石幸一氏が、彼自身の生涯の執念である、日本人が理解するべきヨーロッパ中世絵画の要諦を一冊の本にまとめた。著者と共に喜びます。氏は、私の金融本を20年以上にわたって担当した。
この本の構想について、私はずいぶん以前から情熱を込めて何度も聞いていた。ぜひ出版すべきと私も督励(とくれい)した。ちょうど彼が徳間書店の役員を退任した時、私が主宰する学問道場の自力講演会で話してもらった(2013年6月29日)。
1時間半くらいの講演だったが、冒頭で「芸術は真実言論です」と話し始めて、聴衆の興味を魅(ひ)きつけた。その模様はDVDに収録してあるので、いまでも見ることができる。
しかし、ヨーロッパ絵画論を一冊の本にまとめることは講演のようにはいかない。膨大な量の関連資料に当たって、骨格をしっかりとつくらなければならない。この本の出発点としてヨハン・ホイジンガ著の大作『中世の秋』(中公文庫)を中心テーマに置いている。
ホイジンガのこの作品は、ヤン・ファン・エイクの作品群が表現しているブルゴーニュ公国(現在のフランス東部、ドイツ西部、ベルギー、オランダあたりまでを含んだ国)の歴史・文化を掘り下げた世界的な名著である。氏はこの本を標的にして、批判する。ホイジンガはヤン・ファン・エイクの芸術について、『中世の秋』で次のように言う。
ファン・エイクの自然主義は、美術史においては、ふつう、ルネサンスを告知するひとつの徴表と考えられているのだが、
むしろ、これは、末期中世の精神の完璧な開花とみてしかるべきものなのである。
ホイジンガは、ファン・エイクには「中世の思想」しかなかった、と書いている。「中世は終わった」のだと書く。それに異を唱えて本書は、このホイジンガの認識は誤りだ、と。
ルネサンスは、ヨーロッパに人文(じんぶん)主義を生み開花させた。だがその花は咲き続けることなく、短い命を終えてしまった。このことは、ヤーコブ・ブルクハルト著の『イタリア・ルネサンスの文化』への違和感の表明でもある。その批判、反論の中核にカトリック教会批判がある。
ファン・エイクが瞠目(どうもく)すべき名画『宰相ロランの聖母子』などで示した、カトリックへの鋭い批判精神は、その後も長く北方ルネサンスのなかに生き続けた。その精神が西洋の近代(モダーン)の隆盛へとつながった。
つまり、北方ルネサンスは「中世の秋」ではなく「近代の春」を用意したのだと強力に論じている。
ファン・エイクに続いたのが、ヒエロニムス・ボス(ボッシュ)であり、このボスを継いだのが、ピーテル・ブリューゲルだ。この3人のオランダ近代絵画の天才画家は、同時代を生きたわけではない。少しずつずれる。作品に表現されるカトリック批判の思想を脈々と継承したのである。
この3人のオランダ画家が共有した新しい政治思想に注目したことが、本書の優れた着眼点になっている。ここに本書の真骨頂(しんこっちょう)がある。
そして、この北方ルネサンスの3人の画家の絵画思想の継承が、何と、日本の琳派(りんぱ)における俵屋宗達(本阿弥光悦)、尾形光琳、酒井抱一の3人の仕事に表れている、とするところに著者の優れた感受性(本質を見抜く力)を見る。
絵画芸術について、「美」はひとつの属性(アトリビュート)にすぎない。絵画には、その時代を生きた作者の真実がそのまま表現されている。作品から放射されるその真実の光をどう捉(とら)えるのかが重要なのだ。
本書のなかにその実例が名画の鑑賞ごとに次々と展開される。よくある美術ガイドブックなどとは次元が異なる優れた解釈は、驚きの連続である。著者は美術の専門家ではないから、学術的な観点には欠けているだろう。だが、その鑑賞眼力には確かな手ごたえがある。
ファン・エイク、ボス、ブリューゲルの3人の生きた時代をつないでいくと、まさにヨーロッパ近代(モダーン)が生まれていった過程にぴたりと重なる。
彼らの作品には、カトリック信仰への強い不信がさまざまなかたちで反映されていることが如実に指摘される。力石氏は、ブリューゲルはカルヴァン派の思想家だ、と断言する。
このことは、ブリューゲル研究者の森洋子明治大学名誉教授に対する痛烈な批判であり、明確な追及、論難である。ブリューゲルの作品を次々に見てゆくと、彼がカルヴァン派であったことを前提にしないと、その作品を十分に理解できないことがわかってくる。
そして、西洋的な「個人」はカルヴァン派の信仰の中からしか生まれないという結論は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の主張と重なりあう。
しかし、ウェーバーがカルヴァンの救済の予定説(プレデスティネイション・オブ・サルヴェイション)から導き出した、「成功する人間は必ず救われる」とする企業家(資本家)の個人の存在だけでは、資本主義は始動しない。本書の著者は、そこに利子の存在を加えるのである。
ルネサンス期(西暦1400年代。クワトロチェント)のフィレンツェにおけるメディチ銀行をはじめとする初期の大銀行( 両替商(マネーチェインジャー))たちは、今日の銀行業のほとんどを行なっていた。
しかし、ひとつだけ除外されていたのが、「貸付け」であった。お金を貸すことはできても、カトリック教会は利子(インタレスト)をとることを禁じていた。利子なしに「貸付け」ができるはずがない。
この「貸付け」が、乗数効果(マルチプライアー・エフェクト)を生んで資本(カピタール)を拡大させるメカニズムである。これこそが資本主義(カ ピタリスムス)の最大の秘密だと著者は明確に書く。
私の師匠であった小室直樹先生は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の謎解きに熱中していた。日本のウェーバー研究の泰斗(たいと)で第一人者であった大塚久雄教授と2人で長時間話込んでいた。小室先生が生きておられたら、本書の結論をどのように評価しただろうかと、興味が盡(つ)きない。
ヨーロッパ(泰西(たいせい))名画たちの読解から始まり、中世から近代に胎動した世界史の動きを、その中心を見据えるためにおそらく50回以上のヨーロッパの美術館、遺跡巡(めぐ)りを敢行した著者の人生の奮闘に深い敬意を表する。
まだ豊かだった頃の出版社のカネを原資にして、幾度かそれに同行した者として、ヨーロッパ近代資本主義(モダーン・カピタリズム)の誕生の秘密に絵画筋から迫った本書が、多くの読者に受け入れられることを強く望む。
2025年8月 副島隆彦(そえじまたかひこ)
(貼り付け終わり)
(終わり)
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