「2216」 原節子と小津安二郎監督(第2回・全4回) 2025年8月26日
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副島隆彦です。今日は2025年8月26日です。
原節子と小津安二郎の話の2回目です。
二流監督で終わった人たちがつくった映画は粗い。とにかく画質が粗い。黒澤は、そこは厳しかった。二流、三流の映画監督で終わった人たちの作品では、俳優たちが何をしゃべっているかを聞き取れない。あれは、本当にいかん。1950年代、60年代の日本映画は歴然と技術というか、能力の差が出る。何をしゃべっているか分からないのは、本当に困る。だから、そうならないように、その自覚があったのが巨匠たちだ。
私は、原節子のきれいさを引き出した小津は偉いと思う。原節子は小津映画の中で、きらきらと輝いてしゃべる。「晩春」よりも「麦秋」のほうだと思うけども(「麦秋」は「晩春」の焼き直しみたいな映画だ)。その中のセリフだったと思うけど、「私はお父さんと二人で暮らしたい。お父さんが大好きなの」という言葉がある。もう父娘2人の関係がおかしい。
この映像から、「小津と原には肉体関係がある」という感じがありありと見える。原節子が死ぬほど輝いている。これ、見たら分かります、そういう目で見たら。もう、ここまで女がきれいに見えるというのは珍しいぐらいすごいことだ。この副島隆彦の眼力というのはすごいものなんだ。みんなは、こういうことを言えないが、私はそういうところは厳しい判断をする。原節子の、そのシーンが最高だ。
行きおくれの29歳の娘という役で出ていたかな。真実なんだ。「晩春」を撮ったとき、当時29歳だよ。やっぱりそうだ、「麦秋」ではなく、その「晩春」の中で「お父さんとずっといたい」というセリフがあった。「お父さんが好きなの」と、近親相姦を思わせる、危ない、怪しい話だ。 当時の小津安二郎と原節子に激しい肉体関係があって、かつこれが10年間続いている。確かに、その頃の小津はものすごくダンディだった。
岡田茉莉子
杉村春子
八千草薫
ダンディで、他の女優岡田茉莉子(おかだまりこ、1933年-、92歳)と、あとは誰だろう、八千草薫(やちぐさかおる、1931-2019年、88歳で死)じゃないもう一人。杉村春子(すぎむらはるこ、1906-1997年、91歳で死)はおばさん役で、憎まれ役で、新劇運動の大御所ですから、いつも顔がちょっとゆがんだ悪いおばさん役をやりながら、味わいが深い。
他の、いわゆる大女優と言われた人たちもみんな小津安二郎に恋い焦がれてキャーキャー言っていた、というんだから。実は、小津は有馬稲子(ありまいねこ、1932年-、93歳)以下、他の女優とも肉体関係がある、どうも。真実は、そういう男だった。業界が、それら全部を隠し通した。
有馬稲子
小津は小田原にいた芸者さんとずっとできていた。でも鎌倉に、昭和26年(1951年)に家を買った後は、お母さんと2人で(小津は明らかにマザコンだった)住んでいた。その鎌倉の家に小田原の芸者さんは、何十回も来ているらしいんだけど、一緒には住まなかった。 それで、原節子にしても、その小田原の芸者さんとずっと小津はつき合っているって、愛し合っているって知っていたから遠慮した。結婚はしなかった。
このNHKの「秘められた恋」が偉かったのは、小津のたった一つの日記の中の言葉で「人と契るなら、浅く契りて末遂げよ」を、主要テーマ、主要旋律にして番組をつくったことだ。「男と女が関係を持つならば、浅く関係を持ちなさい、そして末まで長く性関係を続けなさい」という意味の言葉。これでこの番組をつくった、NHKのディレクターが賢い。この言葉を小津が日記に書いたのが31歳だという。初めて原節子と出会ったときは46歳だった。
だから、このNHKの「小津映画『秘められた恋』」が一番すばらしい。これがYouTubeに載っているから、たくさん並んでいるサムネイルというんだけど、爪(ThumbNail:親指の爪)がざーっと並んでいて、そこのある。これを見てください。小津については、これを中心に見ないといけない。
ほかにアップロードされているもの、映画そのものもあるが、それはそれでいい。勝手な評論を、業界人がYouTuberとして載っけているやつは、ためにはなるけど、大したことはない。やっぱりこのNHKの「小津映画『秘められた恋』」が、もう決定的に重要だ。このことを私は言いたかった。これ中心に見ないと何も分からない、小津安二郎に関しては。そこまで言い切れる。あとはさっき言った紀子三部作のすごさで、日本の戦後の映画界のピークを突いている。
1963年に小津が60歳でガンで死んだ。そのお通夜のときに、原節子が号泣して、そのまま引退してもう二度と映画界には戻らなかった。彼女が43歳のときだ。そこから95歳で死ぬまで、何年だよと言いたいけど、52年、一回も出てこなかった。50代、60代までなら鎌倉の家の庭に出てきたり、買い物に行ったりしたらしい。恐らく70歳ぐらいを越すと――周りで日本版のパパラッチみたいなのがいたんだろう――嫌がってもう死ぬまで出てこなかった。ずっと家にいて、家の中で新聞や本を読んだりしていたそうだ。14歳で学校を辞めているから、やっぱり本を読むのが楽しかったんだろう。それでもう、原節子は映画業界に絶望していた、という見方が正しいと思う。
老いた原節子(右)
なぜなら私の眼力だけど、原節子は14歳で松竹大船に雇われて、16歳で2本目、「新しき土」(1937年)という、ほんとはドイツと日本の合作で、日本側監督は伊丹万作(いたみまんさく、1900-1946年、)ということになっている作品に出た。伊丹万作の息子が映画監督の伊丹十三(いたみじゅうぞう、1933-1997)で、その妹が大江ゆかり()です。ノーベル賞作家の大江健三郎(おおえけんざぶろう、1935-2023)の奥さんなんです。伊丹と大江は、故郷が一緒で愛媛県だった。
大江健三郎と伊丹十三の関係家系図
伊丹十三も、ちょっと精神状態がおかしくて、「マルサの女」(1987年作)とか、「ミンボーの女」(1992年作)とか「お葬式」(1984年作)とかつくった。彼は、飛び降り自殺の形で死んだけど、暴力団に脅迫されたりして殺されたんだろう。暴力団を描いた映画つくったからということだと思う。
1937年1月、ベルリンの日本大使館。左から『新しき土』で共演したドイツ人女優のルート・エヴェラー、ゲッペルス宣伝相、原節子、武者小路公共(きんとも)大使
それで、原節子が一番きれいなのは実は16歳のときだ。16歳で、ドイツのベルリンに行ったときの写真が見つかった。横にヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels、1897-1945年、47歳で死)宣伝大臣がいる。ゲッベルス宣伝大臣は恐ろしい男だ。ヒトラーが死んだのを確認してから自分たちも家族みんなで子供6人と、首相官邸の中で死んだ。そういう恐ろしい男で、ヒトラーに次ぐナンバー2だ。
「新しき土」のポスター
そのゲッベルスが1937年に、「新しき土」の映画をつくることを許可して、支援した。ゲッベルスの横に並んで映っている16歳の原節子が一番きれいだ。それでその右側が武者小路公共(むしゃのこうじきんとも、1882-1962年、79歳で死)というドイツ大使です。左端にちょっと背の高い女がいて、横を向いていますけど。ドイツ語では「サムライの娘」というタイトルらしい。アーノルド・ファンク(Arnold Fanck、1889-1974年、85歳で死)というドイツ人の監督が撮った。この「新しき土」は、2012年に75年ぶりに日本全国でリバイバル上映された。それまでの75年間は、消されて、なくなって、見れなかった。日本のきれいな女性と何とかの愛の物語みたいにしたんだと思う。
このドイツ人監督のファンクが日本に来たときに、ほかの女優たちを見向きもせず、そこを通りすがった端役の原節子を、「この子がいい」と日本の女優代表にした。すごいことといえば、すごいことだけど。 言ってしまえば原節子が「白人とのあいの子さんじゃないか」という噂がずっとある。私は今でも少し疑っている。
原節子は、ただの横浜の生糸問屋会社の孫娘だとは思えない。恐らくクオーターぐらいかもしれない。だけど、ほかの女きょうだいとは似ていないっていうから、分からないんだ。彼女だけものすごくきれい。女は16~17歳が一番きれいかもしれない。だんだんきれいじゃなくなる。この真実が実はあって。副島隆彦はこういう女観察のところは鋭い。このときのドイツでの原節子を見れば、みんなも納得する。
『殉愛』(講談社、2012年)
西村雄一郎(にしむらゆういちろう、1951年-、73歳)という映画評論家が、原節子の本を書いている。『殉愛』(講談社、2012年)という本だ。愛に殉じるだから、2人が本気で愛し合っていたとなる。
それはそうなんだけど、その表紙の写真がすごい。原節子と小津安二郎が2人で並んでいて、原節子がもうおばさんだ。これ、いかにも楽屋で、はげの小津安二郎と並んでいる。きっと小津が死ぬ2年ぐらい前に撮ったものだろう。だから、1961年じゃないかと思う。原節子も、もう40のおばさん。ですから「もう引退する」と思ったはずだ。このときの原節子はもう、まるぽちゃだから。
私は、原節子が80、90歳ぐらいの写真が1枚だけ、YouTubeの中にあって何かの拍子で見た。びっくりした。
そうすると、43歳のときに小津安二郎が60歳で死んで号泣した後、引退してしまったのは、「美しくない自分を見せたくない」という、当然の行動だったと私は思う。既に当時、永遠のミューズとか、永遠の処女と言われていた。私らも何となくそう思っていた。
ところが、小津と原がどういう男女関係だったのか、それが知られることを業界人が嫌がって、ずっと教えなかった。YouTubeの時代になったから、そういう関係がささやき出された。NHKがいくら2003年に「小津映画『秘められた恋』」で真実を放送したといったって、そんなものでは噂は広がらない。業界人はみんな知っていたと言うけど、私みたいな人間が遠くから、この二人の関係の真実を知ったのはYouTubeの時代になったからだ。原節子のことをいろいろ書いているやつは他にもたくさんいるが、みんな大したことないな。
このNHKの「小津映画『秘められた恋』」と、石井妙子が『原節子の真実』についてを、しゃべり下ろしでのインタビュアーに答えている番組ぐらい見れば、あとは映画そのものを見さえすればいい。
本『原節子の真実』でわかったのは、最初に原節子が恋をしたのは矢澤正雄(やざわまさお、1915-2004年、89歳で死)という男だったということ。矢澤正雄はベルリン・オリンピック(1936年)にも出た、英語で言うスプリンター(sprinter)、短距離走100メートルとか200メートルの選手だ。この人が、原がドイツに撮影で行くことになったとき、ドイツについて教えたことがきっかけで、つき合うようになった。矢澤が軍隊に徴兵されて帰ってきて、よかったねというつき合いまでしている。しかし、原節子は、1年に3作か4作、映画に出て忙しいから、その後、矢澤とは縁が切れた。
矢澤正雄
原節子は1920年生まれ。私のおやじより3歳上だ。そうすると今も生きていれば100歳以上だ。彼女は、戦争の時代をずっと生きている。先ほどの日独合作映画「新しき土」(1937年)とかでもてはやされた訳だから、本当は気合いが入っている、戦中派の女だ。戦争翼賛映画をいっぱいつくっている。「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年作)とか、「望楼の決死隊」(1943年作)だ。女の役で主演だと思う。なぜなら「新しき土」でもうデビューしているから、女優としては主演でやる。ただ、戦闘場面に行く訳はない。
「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年作)
「望楼の決死隊」(1943年作)
戦争が終わったとき、原節子は25歳。そこから「わが青春に悔なし」が1946年で、戦争の次の年だ。1947年に吉村公三郎(よしむらこうざぶろう、1911-2000年、89歳で死)という名前も知らない監督が撮った「安城家の舞踏会」という作品がある。これもYouTubeで10分、20分で見られる。この中でも原節子は、かなりきれいな姿で出ている。この安城家という華族様、貴族が滅んでいく姿を描いている。確かに立派なきれいな家に住んでいた。しかし、天皇家だけを残して、華族は財閥解体と華族制の廃止で滅んだ。映画の中で、「自分たちが滅ぶということを、私たちは知らなければいけないのよ」みたいなことを言って、無表情の感じで出ている。
「わが青春に悔なし」(1946年作)
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「安城家の舞踏会」(1947年作)
(つづく)
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