「2165」 源氏物語の最後の宇治十帖を書いたのは誰かについて話す(第2回・全2回) 2024年11月24日

副島隆彦です。今日は2024年11月24日です。

間が空いてしまったが、源氏物語の続きをこれから話していく。前回の文章へは以下のリンクから飛ぶことができる。

※「2156」 源氏物語の最後の宇治十帖を書いたのは誰かについて話す(第1回・全2回) 2024年9月28日
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源氏物語の登場人物相関図

そうすると、藤原道長(ふじわらのみちなが、966-1028年、62歳で死)の最後の愛人である源明子(みなもとのあきこ・めいし、965―1049年、85歳で死)の真実の相手の男は、さっき言った藤原伊周(ふじわらのこれちか、974-1010年、37歳で死)だ。これが『源氏物語』の中で柏木中将(かしわぎちゅうじょう)として出てくる。これはものすごく大事なことだ。ただ、私が、がつんと暴き立てた真実にかなう国文学者はいない。ただ、みんなが気付いている。柏木中将(藤原伊周)と女三宮(おんなさんのみや、源明子のこと)が、藤原道長に内緒で赤ちゃんをつくっちゃった。それが「薫中将(かおるちゅうじょう)」という。薫(かおる)ともいう。この陰鬱な話につながっていく。

藤原伊周関連の家系図

この薫中将は一応、形上、道長の息子ということになっている。天皇にはならない。この人についてはよく分からない。

藤原道長の家系図

それでは、「薫中将とは誰か」という話が実はある。私もまだ探索していない。ただ、道長には、さっき言ったように、藤原頼通(ふじわらのよりみち、992-1074年、83歳で死)という立派な長男坊がいる。おやじに無理やり女と別れさせられたりしている。その女は雲居雁(くもいのかり)とかいう。これも、自分のおじさんの家系の、藤原道隆(ふじわらのみちたか、953-995年、43歳で死)の家系の娘。それで、道長に対して不愉快だった。真面目な二代目、道長の長男で、我慢に我慢の人だ。頼道は偉い。全然知られてない。頼通の時代の50年間は、知られていないが、ものすごく優秀な男だったと思う。トラブルを起こしていない。我慢に我慢の人だから。

だから、一回戻るが、柏木中将(藤原伊周)と女三宮(源明子)が不倫の子を産んで、これが復讐の物語となる。つまり、自分(藤原道長)がやったことと同じことを自分もされたということだ。これで死ぬほど感動する、これが『源氏物語』を読む最大の喜びになる。ほら見ろ、おまえも、因果応報と言うんだけど、同じことで苦しむんだぞということだ。

苦しんだかどうかも知らないけど。だから実は、やっぱりこの女三宮、源明子(みなもとのあきこ・めいし、965―1049年、85歳で死も、その相手になった道隆の息子の藤原伊周(ふじわらのこれちか、974-1010年、37歳で死)、すなわち柏木中将も苦しんで死ぬ。もしかしたら殺されたかもしれない。

藤原伊周が、だから憎しみを込めて、一寸釘を立てて呪いをかけたという罪で、一旦、大宰府に流された。それで、もう一回、罪を許されたんだけど、そのときはおばさんの藤原彰子(ふじわらのあきこ・しょうし、988-1074年、87歳で死)がかわいそうだからと言って戻したけども、もう何の力もなかった。

だから、これが宇治十帖の内容だ。陰鬱な話なんだ。どうやら私の考えでは、頼通の後の代からはもう、藤原氏は宇治に引っ込んじゃったんじゃないかと思う。都の真ん中にいると怖くて、危ない。白河天皇(しらかわてんのう、1053-1129年、77歳で死)と軍人、暴力団みたいな平氏がのさばっているから。それで、宇治で滅んでいったんだと思う、真実はどうもそうだ。

だから、この副島隆彦の暴きの恐ろしさはね、10年、20年後に分かる。やっぱり副島の言うとおりだとなる。このことの凄さは、今のおまえら程度の知能じゃ分からない。おい、NHKと言いたくなる。いくらおまえらが裏側で、国文学者の中の一番頭のいいやつを使ってすばらしい物語に仕立てて見せても、副島にはかなわないからな。今から言っとおく。

だから、「宇治十帖」を書いたのは大弐三位(だいにのさんみ)、すなわち紫式部の娘だ。これは、歌が下手だからと、どうも文章が下手だと読み破った、やっぱり与謝野晶子(よさのあきこ、1878-1942年、63歳で死)は偉いと思う。どうも下手だと。文章が下手だと言い切った。これは本当だと思う。それで、「宇治十帖」は訳の分からない終わり方をしている。

与謝野晶子

さっきの話でいうと、藤原頼通が我慢の人で、道長の息子なんだけど、何と、もっとど汚い話は、一条天皇の奥さんになった定子をかばうようにして、お兄さんである藤原伊周が、自分も位が高いですから、道長の最後の愛人の女三宮(源明子)に手を出して、赤ちゃんを産ませた後、死んだ。何というか、大事なのは、死んじゃった藤原伊周、すなわち柏木中将の奥様にきれいな人がいた。その人に頼通が手を出している。ほぼ強姦するみたいにして自分のものにしている。だから頼通も決して甘くはない。

『源氏物語』夕霧の関係図

頼通は、50年間、最高権力者をやった。やっぱり、ここが最大級におもしろい話かもしれない。その奥様にしてみれば、あと頼る人がいないから、最高権力者の愛人になったほうがいい。気があったかもしれない。強姦じゃないかもしれない。そこのすごさが源氏のすごさだ。この人たちがやることは、近親相姦と乱交パーティーに決まっている。それを書いたら許さんぞと谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886-1965年、79歳で死)が言われた。どうかすると世の中全部、近親相姦があちこちいっぱいある。その物語だから、文学というのはすごい。イギリスの小説『嵐が丘』のところで私が語ったとおりだ。

谷崎潤一郎

最大級の驚きは、さっき言ったように、女三宮が柏木中将の子供、薫を産んだこと。この驚きが、最後の最後の驚きだ。『源氏物語』の中では、夕霧(ゆうぎり)という名前で出てくるのが頼通だ。

もう一人、今度は、もうあんまり話したくないけど、匂宮(におうみや)という、これは男だ。これがまたプレイボーイの遊び人で。これがまた、柏木(藤原伊周)と女三宮(源明子)の息子の薫中将と、匂宮が浮舟(うきふね)という女をを奪い合う。

薫中将と匂宮の関係図

匂宮というのは、後三条天皇(ごさんじょうてんのう、1034-1073年、38歳で死 在位:1068-1073年)の息子と考えられるが、そいつと薫中将が浮舟という女を奪い合う。争って、競って、この話が続く。それで終わる。最後、「夢浮橋(ゆめのうきはし)」という話でね。この浮舟が、何か、流れが速い宇治川に身を投げて、それで終わるんです。

後三条天皇の家系図

ところが、真実はどうも、これは国文学者たちが書いているが、川に身を投げていない。どうも本当は、比叡山の源信(げんしん、942-1017年、76歳で死)という有名な坊主がいて、助けられたんじゃないかと言われている。この源信というのは、『往生要集(おうじょうようしゅう)』(985年)という阿弥陀経の重要な、日本人が書いた漢文の立派な阿弥陀経の論文があり、これの著者だ。どうも源信のところに、助けてくれと逃げ込んだらしい。比叡山の中の僧坊に逃げて、そして、北のほうにある大原にかくまわれて死んだらしい。『源氏物語』というのはそこまでの話だ。

源信

だから、この辺のことが何となく大きく分かれば、日本国民の財産になる。ああ、そういうことだったのかと、分からせて初めて、副島隆彦は日本国の知的遺産そのものになる。なるほどと思わせれば勝ちだ。

夕霧は、すなわち頼通なので、さらに息子の頭中将(とうのちゅうじょう)というのがいて、これが、藤原師実(ふじわらのもろざね、1042-1101年、60歳で死)になる。それで、中君(なかのきみ)というのが出てきて。この女についても、薫中将と争う。匂宮がこの中君を奥様にしちゃう、それで、中君と異母姉妹だった浮舟を取り合いっこした。

藤原師実の家系図

この師実というのが、1094年に白河上皇に圧力かけられて関白を辞めて、死ぬ直前、1101年に出家している。これが道長の孫だ。これで藤原家は終わり。なぜなら1108年から平正盛(たいらのまさもり、?-1121年)が権力握ったから。

だから、ここで言っておかなきゃいけないのは、平氏と源氏と言うときの、この左馬頭(さまのかみ)ね。土間に座っている。北面武士(ほくめんのぶし)といって、殿上に上がれない、お屋敷の板の間に上がれない人たち。これがやがて力を奮った。

このときの源氏や平氏と、いわゆる最初の源氏は違う。源氏というのは天皇の子供か孫だけど、もう天皇になれないので臣下に下った人たちという意味だ。でも、まだ最初の100年、200年ぐらいは武士じゃないんです。武士に落ちていった、刀を持って、ガードマン、暴力団をやる人たちとは違う。ここが日本人は分かっていない。

平正盛の家系図

だから、『源氏物語』の源氏は、後の、1100年代から後にあらわれる、刀を持って、俘囚(ふしゅう)、アイヌ、東北地方を征伐に行くことで権力を握った八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ、1039-1106年、68歳で死)の清和源氏とは違う。最初の清和源氏とか桓武平氏と言われている。天皇が娘と息子をいっぱいつくったけど、もう天皇になれないから臣下に落ちた人たち。だから天皇の子なんだけど、養子で出された人たちのことだ。

清和源氏の家系図

光源氏、藤原道長の正妻である紫の上、源倫子(りんし・みちこ・ともこ、964-1053年、90歳で死)は源雅信(みなもとのまさのぶ・まさざね、920-993年、74歳で死)の娘で、道長の正式の奥様で、死ぬほど愛していたことになっている人。これが紫の上だ。しかしまあ、道長はほかにすぐ愛人をつくっちゃう。

源雅信の家系図

だからね、この間、NHKでやっていた、源俊賢(みなもとのとしかた、960-1027年、69歳で死)というのがいて、一条天皇に使えた4人のインテリ(一条朝の四納言[しなごん])がいる。源高明の息子ですから、道長の愛人の源明子の兄。今度のNHK大河は非常に大事にしている。この4人のインテリ。漢文がさらさら書けて、和歌が詠める。ハンサムだったかどうかは知らんけども、とにかく和歌がさらさら詠めると、女たちがみんな「キャーッ」と騒ぐのね。すばらしいわとなった。

源高明と俊賢の家系図

ヨーロッパでいうと、ルートヴィヒ・ベートーヴェン(Ludwig Beethoven、1770-1826年、56歳で死)みたいなのは、ほとんど真っ黒けの顔してチビだったというんだけど、すばらしい音楽をつくっただけで、天国につながっている音をつくった人だから、周りの貴族の奥様たちやら、大金持ちの女たちがキャーキャー騒いでいるのと一緒で、文学ができるというのは、もう死ぬほど尊敬された。

尊敬されたのが、藤原行成(ふじわらのゆきなり・こうぜい、972-1028年、56歳で死)と、これはもう日本人は割と知っている人は知っている、藤原公任(ふじわらのきんとう、966-1041年、76歳で死)、それから、藤原斉信(ふじわらのただのぶ、967-1035年、69歳で死)というのがいて、もう一人が源俊賢(みなもとのとしかた)だ。この人が従二位になった後から出てきた。従二位というのは、二位なので、ものすごく格が高い。妹が源明子だから。

明子も、お父さんは源氏で、源高明だから格が高い。道長だって源氏なので、前の宇多天皇とか醍醐天皇の孫とかひ孫。そこが大事だ。その辺になると日本人はもう訳が分からなくなる。私が何とか教えなきゃいけない。大変なことだ。

もう一人、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは、936?-995年)。これは習うことになっている。『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者。これだって藤原兼家(道長の父)の愛人だ。それで、藤原道綱というのを生んだ。だから藤原道綱母ということになって、高校時代では『蜻蛉日記』の著者とか言って教える。何じゃ、それはとなる。実態は愛人。だから、愛人と書けば分かりやすいのに、うだうだ書くもんだから、みんなが訳が分からないことになる。

だからね、もう今は大事な話はして驚かせた。驚くんだけど、知能があるかどうか。私が皆さんに。困ったもんだなと思っている。でも、私が暴くだけ暴いておく。俺の言っていることが嘘だと言ってみろ。真実しか言っていない。「そんなこと分かっていたけど、ただ、言わなかっただけだよ」と言って私に反論するやつがそのうち出てくるかもしれないが

もう一回繰り返す。左大臣だった源雅信の娘が道長の正妻である源倫子だ。『源氏物語』では、それが紫の上。源雅信は左大臣ですから、そのときの道長のお父さんよりも格が上だった。お父さんの兼家は右大臣だったと思う。その源雅信の妻が藤原穆子(ふじわらのあつこ・ぼくし、931-1016年、86歳で死)。まあ、そんなことはどうでもいいことだ。

だから、道長のお父さんが権力を握って、次男坊だったのに、藤原兼家が長男坊の家系を潰していった。潰された道隆の息子、孫たちが復讐する話、それが『源氏物語』全ての中心だ。復讐の物語といえば、それだけのことで、分かりやすいことなんだ。

だから、道隆がころっと死んじゃったもんだから、東三条院すなわち藤原詮子が、遊び人だった道長を立てるとなった。次男坊の道兼も何かころっと死んじゃって、五男坊だった道長が、本当は村上天皇の最後に産んだ子なんだけど、道長が権力者になった。

道隆の奥さんの高階貴子(たかしなのきし・たかこ、?-996年)というのがいて、父親は成忠(たかしなのなりただ、923-998年、76歳で死)。この2人が夫婦仲よかったというふうにNHKでは描いていました。だけど、もうこれ以上言うと、みんなが混乱を通り越して訳が分からなくなるからもう言わない。

だから大事なのは、藤原道長の実の父親は村上天皇。それが最後の愛人にした、藤原芳子(ふじわらのほうし、?-967年)という女がいて、女御になっている。女御というのは天皇の奥様。それが女房からはい上がったかどうかは分からないが、そんな下級の女じゃなかったと思う。産んだ赤ちゃんが2歳のときに死んでしまった。このことを発見した業績が副島隆彦にある。

村上天皇からの家系図

藤原芳子の家系図

実際にはその赤ん坊が藤原兼家にもらわれていった。その長女さん、義理の姉になる藤原詮子(せんし、962-1002年、40歳で死)と、15歳ぐらいのときにセックスをして、お姉さんが20歳ぐらいで、円融天皇(えんゆうてんのう、959-991年、33歳で死)の息子ということになっている一条天皇を生んだ。この真実は私の大業績だ。ところが、うわあ、やっぱり副島隆彦が真実を見抜いたよと、先々言われるだろうけど、今は誰も言わない。

その前の花山天皇((かざんてんのう、968-1008年、39歳で死 在位:984-986年))とか冷泉天皇(れいぜいてんのう、950-1011年、62歳で死 在位:967-969年)もちょっとおかしい。知恵おくれというか障害者。この村上天皇が頭がよかったというか元気で、能力があった。元気で能力のある天皇は「親政」という、直接政治をやる。醍醐天皇というのと、この村上天皇は親政をやった。他の天皇は、ふにゃふにゃしていてパアだった。このパアだということを言わないのがいけない。だから天皇はね、もう4人に3人はパアなんだ。時々しっかり者で、自分で政治をやると、周りが迷惑するというか、藤原家をいじめようとする。それが日本の歴史だ。

花山天皇をめぐる系図

それでちょっと言うと、花山天皇というのがいて、無理やり辞めさせられたんだけど。この花山天皇に教育係で雇われたのが、紫式部のお父さんの藤原為時(ふじわらのためとき、949-1029年、80歳で死)だ。一生懸命、漢文とか、できもしないのに教えた。

この人が梅壺というところに住んでいた。内裏の中のね。この梅壺という言葉は重要で、実は東三条院、藤原詮子は梅壺女御と呼ばれていたと歴史書に書いてある。

さらに戻ると、みんなが高校1年で習う『源氏物語』の、最初だけはみんな知っている。桐壺帝というのが出てくる。帝(みかど)。で、桐壺更衣というのが出てくる。桐壺という壺にいた。この壺がお局のことだ。

御所の後宮

何のことかというと、真ん中に小さな庭があって、そこに何の木を植えていたかでお局の名前が決まる。藤を植えたら藤壺だ、梅を植えたら梅壺だ、桐を植えたから桐壺だと決まっている。その周りに部屋をもらって、そこに女中から、はしためから、女房たちがぞろっと仕えていた。

それが内裏の天皇のいるところに夜、呼ばれてセックスの相手するときに、周りの女御たちが、自分も天皇と寝ている女たちが、うんちの入った箱を散らぼらかしたとか、それで裾が汚れたという話から始まっている。『源氏物語』は女の嫉妬の話から始まった。

で、そのうち、場所をかえてもらった。紫宸殿(ししんでん)の、天皇の寝るところに一番近いところにかえてもらったという話だ。皆がそれを高校1年生で習っている。私から見れば、馬鹿みたいな話だ。副島隆彦がずば抜けて頭がいいのは、そういうのが頭に残っているからだ。何だろうこれはと思ったことがずっと残って、謎解きをしないと気が済まないようにできている。

だから、これでお局様の意味も分かったと思う。誰かが教えなきゃ分からない。これで終わる。

(終わり)

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