「2156」 源氏物語の最後の宇治十帖を書いたのは誰かについて話す(第1回・全2回) 2024年9月28日

 副島隆彦です。今日は2024年9月28日です。

 『源氏物語』を題材にしているNHK大河の「光る君へ」の31回目(8月18日放送分)を見た。それでぴんときて、さっともう前回の続きをやっておかなきゃいけない。副島隆彦が実は大発見をしているのだが、誰も認めてくれない。それは、日本の国文学者たちの中の一部は気づいているはずだけど、表で絶対言わない事実がある。それは、光源氏と言われている男は藤原道長(ふじわらのみちなが、966-1028年、62歳で死)だと、はっきりNHKが踏み切ったのはすばらしいことだった。

紫式部役の吉高由里子(左)と藤原道長訳の柄本佑

ドラマ全体の相関関係図

 これまで、それすら言わないで日本の国は成り立っていた。源氏物語は道長の人生そのものをほぼ忠実に描いている。このことはもうほぼ事実である。

ドラマの相関関係図(紫式部の家族)

 このNHK大河では、紫式部(むらさきしきぶ、973-1025年?)という女と道長が愛人関係にあって、ついに赤ちゃんまで産んだ。娘の名前が大弐(だいに)の君(999-1082年?)という。それが「宇治十帖(うじじゅうじょう)」と呼ばれている『源氏物語』最後の十帖、つまり十章分を書いたと私も思う。その前の3つがあって、その辺ぐらいからはもう道長が死んだ後の話だ。

宇治十帖の登場人物たち

 私はやっぱり、与謝野晶子(よさのあきこ、1878-1942年、63歳で死)が唱えた、宇治十帖を書いたのは大弐の君だというのが事実だと思う。つまり紫式部の娘だ。これが6歳ぐらいの女の子の形でNHK大河に出ていた。で、母親と喧嘩をしている。実の父親は道長なので、あり得る話だ。これはなかなか鋭いなと、私は見た。

与謝野鉄幹と与謝野晶子

 紫式部という女は、恐らくブスだったと思う。ちっともかわいくない。お父さんの藤原為時(ふじわらのためとき、949-1029年、79歳で死)が、実は『源氏物語』を全部書いている。それをきれいな字でさらさらさらっと清書したのが紫式部だ。

 この為時は、受領(ずりょう)層という、官位は正五位下だった。若狭国というか、今の福井県、越前の国の国守をやりに行っているぐらいだから、県知事ぐらいになっている。だから偉いといったら偉いんだけど、京都の公卿、公家の世界ではぎりぎり殿上人だった。しかし、上級貴族の公卿(くぎょう)ではなかった。五位から上しか殿上、すなわち、柱の上に段があって、そこからがちゃんとした建物だけど、その上に上がれない。廊下のところにも行けない。でも一応、その下ぐらいのところには行ける。

官位のヒエラルキー

 為時は、道長のお父さん(藤原兼家[ひじわらのかねいえ、929-990年、61歳で死])にくっついていて、それで少しはいい思いをしなきゃいかんということで。為時たちはインテリなんだ。中国語、漢文が読める。大学の講師のような、一応教授職をやっていて、上の位の若い貴族たちを教育する係だった。

 それで、「まひろ」という名前で出てくる紫式部が、実は道長の子を産んでいる。あり得る話だ。なぜなら、紫式部たちは「女房」と言われている階級。女房というのは名前もないような人たちで、実は、この女房たちは性的に犯し放題だった。この女房たちが、扇子を顔に当てて、ひそひそと噂話して回る。「廊下ひばり」というのをやって、あちこちの、何とかの局(つぼね)の、お局様のところを噂して回る。女房たちは、実はセックスの相手として自由だった。だから、子供が来てしまったら、身を引いて、どっかで子供を産んで育てる。そういう人たちだ。

女房

 ところが、女房階級に落とされかかったけど、落ちないで、何とか奥様として待遇を受けて、上に出世した女もいる。だから、あり得る。大したもんだなと私は思っている。

 要するに、女は男にくっつくことで、特にその子供を産むことで、はい上がっていく。女同士というのは、ものすごく厳しい警戒態勢にある。これは今の女たちもそうだ。私の奥さんたちも多分みんなそうだけど、自分の弱点を絶対さらさない。自分の友達にも言わない。

 うちの奥さんは、私の知っている、うちの奥さんの友達の女性に、私の悪口を絶対言わないんだそうだ。女とはそういう生き物だ。自分の私生活や何かの恥になることとか、自分の欠点は、仲のいい女友達にも言わない。それは、この女房たちの世界にはっきり生きている。女の敵はみんな女だ。それがよく分かる。

 だから、弱点を握られちゃいけない。自分がどの貴族の男と性関係にあるかとか、ばれちゃいけない。でもまあ、何かばれるとは思う。これが大前提だ。

 ということで、前回までに話したことの続きになるんだけど、副島理論では、道長がとんでもない男で、自分が左大臣という最高権力者になった。天皇以外で最高の地位に就いた。しかし、太政大臣にはわざとならなかった。摂政という身分で、天皇の後見人みたいな、天皇のお父さんみたいな形になる。なぜなら、本当に天皇のお父さんだからだ。これはNHKも、日本の文科省も絶対認めない。

 副島理論では、もうこれは、一条天皇が道長と、そのお姉さんに当たる藤原詮子(せんし、962-1002年、40歳で死)、これが女権力者になって、東三条院という、院号というのを初めてもらった女だ。この院というのは、江戸時代になっても、徳川家康の本当の実の生みのお母さんが於大(おだい)というんだけど、そのおばあちゃんが華陽院(けよういん)という院号をもらっている。

藤原道長の家系図

 でも本当の本当は、副島しか知らない真実は、このお姉さんの藤原詮子、東三条院と道長が、もう20歳のころからできていた。それで産んだ子供が一条天皇だ。これは言っちゃいけないことになっているんが、真実である。

 ただし、本当は詮子と道長は実のお姉さんでは。お姉さん、弟じゃない。なぜなら「源氏」物語だから。これをいくら私が言っても、もうみんなが知らん顔すると思うけど、『源氏物語』というのは、戦争時代に入って、五、六、七位にすら上がれない、貴族ですらない左馬頭(さまのかみ)で、馬の口取りと呼ばれたのが武士階級だ。武士階級が勃興してきて、それで平氏、平家が、平忠盛(たいらのただもり、1096-1153年、57歳で死)というのが出てきて、白河天皇(1053-1129年、76歳で死 天皇在位:1073-1087年)とべったりくっついて、真実は、もう藤原家を根絶やしにする。これも日本史学者たちがあまり言わない。もうね、すごかった。その正盛の息子が清盛(たいらのきよもり、1118-1181年、63歳で死)だ。

平清盛の家系図

 宇治という、宇治の平等院は有名で、平等院だけは今も残っているけど、それ以外、その周りにたくさんあった藤原一族の、道長の墓でも全部たたき壊されて、全く残っていない。しかも、昔は雑木林か何かになっていたらしい。今は全部壊されて住宅街になっている。

宇治平等院鳳凰堂(頼道が1052年に建立)

 私は奈良から京都に行く途中に見ている。宇治川のほとりの、平等院のあたりからこっち、もう全部、全滅。お墓は全く残っていない。それぐらい白河天皇、白河上皇になるんだけと、平氏が藤原氏の墓を叩き壊して回った。だから、実際のところは、藤原貴族はそこで滅んでいる。

 でも滅んだのが、道長から実は80年後。道長の息子の頼通(よりみち、992-1074年、82歳で死)というのが50年間、お父さんの時代まで合わせると60年間、摂政、関白、太政大臣をやっている。立派な息子だったらしい。その次の息子の藤原師実()が名前が残っている。実際の権力を握っていたみたい。しかし、白河上皇にやられちゃって、この頼通が1074年に死んだ後は、もう10年ももたなかった。それで藤原氏は終わり。

藤原頼通の家系図

 それで藤原貴族は終わりだけども、終わらない。やがて戦国時代までずっと続いて、京都にべったりしがみついている。御所にいて、一条、二条、九条というのもここから分かれて出てくる。それから近衞(このえ)、鷹司(たかつかさ)。五摂家(ごせっけ)と言う。これが藤原貴族だ。

藤原四家と五摂家

 今、甍(いらか)と言うんだけど、大きな立派なかわら屋根で残っている、京都の真ん中にあるのは冷泉家(れいぜいけ)という藤原氏の一族で、家や格式とか、お花とか、お行儀とか香道とか、ああいうのを握っている家元だ。この冷泉家は五摂家ではなく、羽林家(うりんけ)に属している。そこだけが今も建物がずっと残っている。

冷泉家の邸宅

 昭和になってから首相になった近衛文麿(このえふみまろ、1891-1945年、54歳で死)は「氏の長者」だから。明治になってから何でか、九条家が一番威張っていたのに、いつの間にか近衛家が氏の長者という。これは織田信長も氏の長者と言った。近衛家が藤原氏のトップになっている。でも、もう軍事力や経済力はない。ただ、格式だけすごい。それで、侍たちに位を上げることで、恐らく何百両も取った。そういうことをやって、ずっと残った。

近衛家と細川家の家系図

 明治になってから藤原貴族が復活して、どうもそれが、岩倉具視(いわくらともみ、1825-1883年、57歳で死)だ。これはもう凶状持ちというか、幕末の維新の武士たちと一緒に動いている。刀抜いて殺し合いまではやらないけど、激しい運動をやったわけね。

岩倉具視

 もう一人が三条実美(さんじょうさねとみ、1837-1891年、53歳で死)だ。これも三条家で、清華家(せいがけ)といって五摂家よりも1つ下の公家。もう1人が、もうこれは昭和に入るんだけど、元老と呼ばれた西園寺公望(さいおんじきんもち、1849-1940年、90歳で死)。西園寺家も藤原貴族だ。だから昭和に至るまで、藤原貴族は復活したということになる。

三条実美

西園寺公望

 その後が、昭和の戦争の時代に近衛文麿が首相で出て、その文麿の妹さんが嫁いだ先が細川だ。で、できた息子が細川護熙(ほそかわもりひろ、1938年-、86歳)だ。ところが、細川護熙から見たら、近衛文麿の息子、長男で文隆(ふみたか、1915-1956年、41歳で死)というのがいた。これが帰ってこなかった。シベリア抑留されて死んだということになっている。

近衛文麿(左)と文隆

細川護熙(2020年頃)

 上海にあった東亜同文書院という、日本が中国侵略のために中国研究するための大学があって、それがその後、戦争で負けた後、豊橋というところに戻ってきた。第15師団というのが豊橋にあった大きな軍隊だが、それが消えちゃったから、そこに帰ってきた、それが愛知大学だ。

東亜同文書院

 この近衞文隆は、東亜同文書院では教授でも何でもなくて、職員だったと言われている。でも、ソ連に抑留されて殺された。本当にソ連が殺したかどうか分からない。それを細川護熙たちは、おじさんが帰ってこないと言って心配していた。文隆は、自分のお母さんのお兄さんだったから。だから、これで実は藤原貴族は途絶えた。直系は残ってない。文隆で滅んだ。そう考えなきゃいけない。

 だけど、藤原貴族は、明治になってから復活したと分かったと思う。それで、江戸時代も形だけは残っていて、宮中の、御所の中にべたっと貴族様でいるんだけど、武士の時代には力がない。でも、そういう大きな理解をはっきり書ける人間は今、副島隆彦だけだ。これは国文学者、日本史学者どもを総なめにして、私のほうが議論すれば勝つ。

 それでもとへ戻すと、藤原氏としては、道長とその息子の頼通が最高権力者だった。大事なのは、一条天皇が道長の実の息子だということだ。ところがNHKの大河では、天皇は立派でハンサムできれいなのがやっている。NHKは天皇を絶対に悪く言わない。もう藤原家まで、ということにして本当に、そのお父さんということになると、円融天皇(えんゆうてんのう、958-991年、32歳で死)なんて、あれは知恵おくれだ。身体虚弱で、子供なんかつくれない。だからその奥様だということになっている藤原詮子が、子供ができる訳がないから、自分の弟の藤原道長と子供を産んだ。それが一条天皇(いちじょうてんのう、980―1011年、32歳で死)だ。

天皇家の略系図

 一条天皇が25歳ぐらいのとき、おやじに逆らった。本当のところは、道長が父親だと知っていたはずだ。それなのに、臣下のくせに天皇である自分をこんなに馬鹿にしてと爆発した。何の力も与えないで全部、藤原道長が政治を壟断(ろうだん)した、支配したということで怒った。自分には何の権限もないと怒り狂った直筆の手紙が残っている。それを宸筆(しんぴつ)という、天皇が自分で書いた汚い字の日記みたいなのがある。それにはっきり書いている。「偽臣乱国」といって、家来のくせに国を乱したと非難した。とんでもないやつだとそれで書いちゃったもんだから、ばれちゃって、お父さんに追放処分になって、もう天皇を辞めろと言って辞めさせられて、その後すぐ死んだ。

 その次が三条天皇で、これはもう、自分の娘に産ませた天皇だ。それに嫁がせているのも自分の孫だ。後三条、後一条とか続いていく。あと、朱雀(すざく)天皇とか、どんどんつながるのであるが、まあ、みんな操られ人形の天皇だった。

 だから大事なのは、一条天皇が冷たい感じでNHKのドラマに出てくる。父親のことを嫌っている。なぜなら、定子(ていし、976-1001年、23歳で死)という、藤原道隆(ふじわらみちたか、953-995年、42歳で死)の娘を死ぬほど愛していたというのは本当らしい。定子がよくいじめられて、1001年に死んだ。道隆の長女なので、いじめられて死んだ。何とその前に、これは日本史学者たちも知らなきゃいけない真実で、一条天皇には2人、皇后がいた。なぜなら、自分の娘を一条天皇の奥さんにしたのだから。

一条天皇をめるぐ家系図

 源氏物語を読む人は誰でも知っている、道長の長女であり、一条天皇の奥様である、藤原彰子(しょうし、988-1074年、86歳で死)という。これが漢字が分かんないもんだから、みんな訳が分からなくなって、さっきの道長のお姉さんだけど、実は2人で子供、一条をつくっちゃった詮子(せんし)と彰子(しょうし)の区別がつかない。困ったもんだ。

 これが一条天皇の奥様なんだ。道長の長女だから。この彰子が本当にものすごく長生きしている。それで、このおばさんの藤原詮子、東三条院から、男の操り方を徹底的に習っているはずだ。だから最高実力者だなんだと言って、上東門院(大女院)という。藤原彰子は、自分の旦那なんかよりもずっと長生きしている。

 これも中宮で、女御から中宮に上っていて、中宮と皇后で、正妻が2人いたことになっている。でもこれは、一条天皇の死ぬほど愛していた定子を1回、追い出している。それは、政治力がなかったからだ。これも一族の、藤原北家というんだけどね。

藤原道長の家系図

 道長のお父さんの兼家(かねいえ、961-995年、34歳で死)は次男坊だ。それに対して、格からいうと兼家の長男坊の家系が、この藤原道隆の家系だ。道隆の長女が定子。簡単に言うと、定子がいじめられた。一条天皇が定子を、いとこ関係みたいなものだけど、死ぬほど愛していたのに無理やり別れさせられた。それで彰子というのを、道長の娘をもらわされて不愉快でしょうがない。だから形上、一回、皇后ということにしたの。でも、一回出家した女だからといって、わざといじめて、並ばせなかったりして、結局、定子を死なせる。

 この定子のお兄さんがいる。これが非常に重要だ。藤原伊周(これちか、974-1010年、37歳で死)という。この伊周が非常に重要で、これが宇治十帖の話の中心だ。道長はまだ生きている。道長は、自分の正妻の奥様である紫の上というのがいるわけね。それを12~13歳の初潮があったころから自分で引き受けて育てた、若紫だ。紫の上が理想の奥様として育てた。どこからか、もらってきて、連れてきた。ところが、紫の上が死んじゃって、死ぬほど悲しんだ。と言いながら、ちゃんと別な愛人がいる。これが女三宮(おんなさんのみや)という。



源氏物語の登場人物相関図

 だから、NHKの大河でも「道長のもう一人の妻」と書いているけど、これ、真実は源明子(みなもとのあきこ、めいし、965-1049年、84歳で死)という。これは若い女で、道長の最後の愛人だ。これが最後の愛人だから、すばらしい話でね。何と真実の真実は、この最後の愛人である源明子が赤ちゃんを産む。だっこして抱えたら、どうも自分の子じゃないと道長は気づく。ぱっと気づくけども、黙っている。何も言わない。

藤原道長の家系図

 ただ、本当の自分の死ぬほど愛していたことになっているけど、男だからそんなことは分からない。最後の愛人の、源氏の中では女三宮、真実は源明子。これ、家柄はいい。源(みなもと)だから。

(つづく)

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