「140」 2025年3月 伊豆旅行①
副島隆彦です。今日は2025年3月23日です。
私は、2年前に出した狂人日記の2冊目(狂人日記。戦争を嫌がった大作家たち、祥伝社新書 2023年10月刊)で谷崎潤一郎を扱った文学論をやりました。その本では川端康成も論じていますが、その後続として今、企画しているのは、もっと突っ込んだ川端康成の評伝です。
狂人日記。 戦争を嫌がった大作家たち
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2025年3月に、伊豆半島の 湯ヶ島(ゆがしま)温泉に行きました。そこにある「湯本館」という旅館を訪ねた。ここは、川端康成(1899-1972、72歳で死)が「伊豆の踊子」を執筆した場所として有名です。川端はこの旅館にかなり長く泊まった。10回以上は通った(一高生だったころから晩年までに)という。1年近くの長逗留をしたこともあると、旅館の今の女将さんが言っていました。川端がこの湯本館に最初に来たときというのは、あちこちの宿に宿泊を断わられたあげくにたどり着いた、ということも教えてくれた。湯ヶ島温泉のことを、私は前に文を書いたことがあるけれども、実はよくわかっていなかった。もう一度行ってみて、いろいろわかりました。それですから今回は、川端の「伊豆の踊り子」をテーマとして追っかけながら、話をします。
(伊豆半島)
■修善寺温泉 (熱海市から車で45分、33km)
伊豆半島の真ん中にある 修善寺温泉(しゅぜんじおんせん)は、夏目漱石や井伏鱒二などの文豪が滞在した湯治場として名が知られている。「菊谷」という宿屋があって、ここで1910(明治43)年8月に病気療養に来ていた夏目漱石が血を吐いて倒れた。胃潰瘍で胃の壁が擦り切れて大出血した。これが俗にいう「修善寺の大患(たいかん)」です。当時はまだ明治の終わりですから、戸板に乗せられて、今の伊豆急ですけど、真っ直ぐ北に戻って三島まで戻って、御殿場周りでぐるっと回って、それであの “こうづ” 、国府津 と書いて、こうづ っていうところまで降りていって、そこからいわゆる東海道で大磯とかを通って、東京に運ばれていったわけです。なんとか命は取りとめて、そのあと何年か来ていましたが。
それで修善寺は今も大きな温泉地ですが、それより5キロ北の長岡温泉はかなり滅んでいるというか、今は住宅街。 畑の中の温泉宿が、今は鉄筋ビルになっていますが、てんてんてんとある感じです。
■「伊豆の踊子」と川端康成
「伊豆の踊子」は、川端が旧制一高生(第一高等学校)、今の東大駒場教養部ですが、18歳の時からもう旅行を始めていて、そのころの実体験を元にした小説だ。高下駄を履いて、弊衣破帽(へいいはぼう、剛気で衣類や身なりにこだわらないこと)といってボロボロの服と破れた帽子をかぶって、マントを着て、いわゆるバンカラの恰好で、伊豆を一人で旅行したと。3泊4日なんですけどね。三島まで電車で来て、いや電車じゃないよ、まだまだモクモクモクの蒸気機関車で来て、そこからずっと歩いて下田まで行って、そこで旅芸人の一座と出会った。一座に14~15歳の、踊り子ということになっているけど、本当は踊りをやりながら旅先の宿で少女売春をやっていた女の子がいた。旅芸人一座は、各温泉宿に泊まりながら移動していたから、彼らと道づれみたいなかんじで、川端が一緒に歩いていたわけです。彼らが泊まった 湯ケ野(ゆがの)温泉というのが、小説の中の印象的な一場面として出て来るんですね。修善寺から車で40分、南へ31㎞のところにあります。そこへも立ち寄りました。川端たちはその前日は、修善寺で泊まったと思うんだけど。
■湯ヶ島温泉 (修善寺温泉から南へ 車で19分、13km)
それで私は、今回ようやく、湯ヶ島温泉をしっかり訪れることができました。2年ほど前、狂人日記②を書いたころにも立ち寄りましたが、激しい雨が降っていて、あまり見ることができなかった。今回は天気にも恵まれて、前回は満室で予約が取れなかった湯本館に泊まることもできました。有名な旅館です。建て増し してるから鉄筋が手前の方にあるんだけど、部屋の数は15ぐらいしかない こじんまりとしたいい宿屋です。昔の温泉場(おんせんば)だったところはきっと大理石で作り直して、今は女風呂になっています。こっちが古い方で、新しい方は男用の、20~30人に入れる大きな温泉になっている。私はなんとか恵まれて、玄関がある古い本館の上の、木造の一番いい部屋に泊めてもらった。一部屋だけある内湯がある部屋。そこに泊まって気分が良かった。だから天皇陛下が泊まりに来ても、湯本館とかに。この部屋なんですね。特別に、そんなに豪華で綺麗にしてるわけじゃないけど、やっぱりこの木造の建物がしっかりしてる。
(湯本館)
旅館の向こう側に川が流れていて、その先がもう狩野川(かのがわ)の源流なんです。「出会い橋」って橋が、300mぐらい上にあります。天城峠付近から流れ出した本谷川(=ほんたにがわ→浄蓮の滝→滑沢渓谷)が、湯ヶ島温泉のここで 猫越川(ねっこがわ)と合わさって、狩野川になる。
(湯ヶ島温泉マップ)
■旧天城トンネル (湯ヶ島温泉から南へ 車で17分、12km)、標高710m、1998年に国登録有形文化財
国道414号線を、修善寺温泉→湯ヶ島温泉を経由してさらに南に10km進むと、水生地下(すいしょうちした)という所があります。ここから国道、いわゆる下田街道の脇道を入っていくと、500メートルぐらいの道沿いに、川端康成の碑がある。もうすっかり苔むして、手入れもろくにされていないようだ。車で通ったら気付かないでしょう。この近くに水源の沼みたいなところがあるんですね。だから、このあたりが 本谷川(→狩野川)の源流だと思います。その先1キロ半ぐらいで、旧天城トンネルに着きます。国道414号の脇には、トンネルに至るための看板があるんだけど、わざと目立たせないようにしているのかちょっとわかりにくい。2年前、ここ(副島隆彦の学問道場)のぼやきに、「天城越え」に関連して、愛新覺羅 慧生の事件(天城山心中 あまぎさん しんじゅう)のことを書いたあとに、旧天城トンネルも見に来ました。今回はトンネル脇の登山口から山道に入ってみました。その話はあとでします。
(川端康成の碑)
(天城トンネル)
■天城峠 標高834m
ちょっとしたハイキングの気分で(でも一応トレッキングの恰好をしていてよかった)、旧天城トンネルトンネルの入り口の脇からずっと登って行って、天城峠と、それからもう少し先の 向峠(むかいとうげ)を目指して歩きました。天城峠に行ってみて、びっくりした。そこの秘密がようやくわかりました。ここは、普通の人が、観光のつもりで行くところではありません。「千尋(せんじん)の谷、とても深い谷のこと」底みたいに、落ちそうな、幅1メートルもないような山道をですね。天城トンネルの裏から、とにかくずっと上がっていくんです。標高で言うと、トンネル横の登山口から天城峠まで120メートルぐらい上るんですね。谷底が見える。崩れ落ちそうになっているところもあって、老人はもう、ちょっと無理ですね。ちょっと足踏み外すと5、6メートル平気で落ちそうです。私は地下足袋 風の作業用の靴をわざと履いていってよかった。
(天城峠への山道入り口、道標には天城峠まで500m、25分と)
西欧人が開発した高級なりっぱな登山靴がありますけど、日本の近場の山歩きには、あれは却ってよくないな。底が硬くてね。ヨーロッパ人がアルプスを歩くための靴ですから、ちょっと日本の山とは違うんですね。日本の山は砂利、玉砂利がずっとある山ですから、地下旅のように足の裏に直接石ころが感じられるような靴が一番いいんです。それと三角鍬(さんかくくわ)といって、長い棒の軽い三角のへさき がついている鍬を、登山用の杖代わりに手に持っていて、それで体を支えて地面で食い止めながら歩いたのでよかったです。転びませんでした。でもこんな、千尋の谷をなんとまあ、30分以上歩いて、ようやく天城峠に到着したんです。
(天城峠)
それで、昔は馬を連れてここまで必死で上がってきたんだな、というのがよく分かりました。しかしこれは、難所という言葉がある通り、大変な道です。普通の女の人たちでは無理でしたね、ここの道を山道を越えるのは。相当体力のある男と、なんとかどうしても荷物を運ばなきゃいけない人たちだけだったでしょう。
今回はっきり分かったことがあります。1900(明治33)年に起工した 旧天城トンネルが、ドイツ人の技師だと思うけど、当時のドイツの山岳トンネル掘削技術が導入されてようやくできたんです。このトンネルが通った1905(明治38)年に、湯ヶ島温泉の「湯本館」も開いたと女将が言っていました。だから、その年に、大変な物流が生まれたんですね。初めて、下田からなんとか普通の人でも歩いていけるようになった。その道を、川端康成や伊豆の踊子たちが行ったり来たりしながら通ったんですね。
だから、この 天城山隧道トンネル(あまぎさんずいどうとんねる、通称:旧天城トンネル)がなければ、下田街道は成り立たないんですね。明治38年より前は、ほとんど行き来がなかったということです。山賊山男(さんぞくやまおとこ)とか、木こり、あと炭焼小屋みたいなことをやってる人たち以外は通ってませんね。それぐらい険しいところです。
だから私の大きな発見は、1905年に西洋式の 天城トンネルができるまでは、ほとんど人間は、商人たちでさえも、ここを通らなかった。ということです。それがわかった。だから今行くととんでもない です。もうハイングって言葉はほとんど死んじゃっていますが、トレッキングそのものですね。登山に近いですけど。今日歩いたのは、距離としてはたった6キロ、旧天城トンネルの入り口から往復6キロぐらいしか歩いてないのに、実際のところ、もう20キロぐらい歩いた感じになりました。多少のトレッキングの心得のない女の人は危なくて行けません。それがわかってよかった。
それで、伊豆半島のど真ん中が天城山系で、その一番上に近いところをうろうろ歩きましたので、それがよかった。他にもいろんなことがようやくわかりました。
言葉としてなら「天城峠」というのがあるはずだと分かるけど、実際行った人はほとんどいません。なぜなら、恐ろしい、トレッキングにしては谷底に落ちそうな細い道を行かなきゃいけないのでね。観光地にならないです、あれでは。
それから、天城峠からもっと先(道標には1.3km、30分と)にある向峠(標高905m)付近の天城山心中事件のあった現場を目指しました。そこも国家体制と天皇家としては秘密にしたい、となっている。それなのに石川さゆりが歌った「天城越え」っていう歌だけは大ヒットして、今でも歌われてて。その真実の話は、清および満洲国皇帝・ラストエンペラー愛新覚羅 溥儀(ふぎ)の実弟の溥傑(ふけつ)。その長女である、愛新覚羅 慧生(あいしんかくら えいせい)、当時19歳がね、学習院大学の同級生と無理心中して死んでしまった。「天城越え」は、本当はその歌なんですね。
(伊豆旅行②へつづく)
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