「57」 中国の秘密結社、青幇・紅幇などの誕生の歴史と、麻薬(アヘン)取引の隆盛と、それをやがて日本侵略軍が愚かにも資金源にしたこと。これらの歴史知識をまとめて載せます。2007.9.2

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副島隆彦です。今日は、2007年9月2日です。

以下に載せるのは、現在も存在して、世界中の中国人(華僑)世界に広がり、さらには、中国共産党の中枢にまで及んでいる、中国の秘密結社の青幇(チンパン)・紅幇(ホンパン)などの誕生の歴史の知識を載せます。

 それと深く関わってきた、麻薬(アヘン)取引の禁圧を目的とした、中国側の愛国的な、反イギリス帝国主義(植民地主義)の闘いであった、「アヘン戦争(1839年から40年)」を境にした、中国国内での阿片(オピアム)の隆盛があった。

 そして、それらをやがて、愚かにも中国大陸に、世界政治の謀略に乗せられて、深くのめり込んでいった、日本侵略軍の資金源にしたこと。これらの歴史知識をまとめて載せます。

 ここに載せた文章群は、ネット上で拾って集めた論文の寄せ集めであるために、それぞれの出典と、書き手(執筆者)が、はっきりしません。いずれも相当に優秀な、日本人の中国研究学者たちだと思います。

それと、中国人名のうち、私たちには、どう読んでいいいのか分からない中国字で表記された、(日本では、奇怪にも漢文と言う)人名がある。それと組織・団体名と都市の名前などである。

 それらを、どう読んだらいいのか、分からない場合は、副島隆彦が、かってに、日本ひらがな表記の、いわゆる、「訓(くん)読み」=日本語発声表記 に、便宜的に、しておいた。あとあと、表記間違いがあれば、随時、訂正します。
副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

民間宗教と秘密結社

 民間宗教 古い時代には道教(どうきょう、タオイズム)の原型になった天師道(てんしどう)・五斗米道(ごとべいどう)が、元(げん)以後では、仏教系の白蓮教(びゃくれんきょう、弥勒仏=みろくぶつ=による救済を求める) が反乱の指導原理を提供することがあった。

 清代の秘密結社「会党(かいとう)」
清の時代になると、南中国を中心に村レベルで存在する秘密結社=会党 が反乱の核に―― 哥老会(かろうかい)、天地会(てんちかい)、三合会(さんごうかい)などの会党が出現する。

 幇会(パンフェ)
 近代の会党のなかには「~幇(パン)」=「~組」と名のる組織も出現――青幇(チンパン)・紅幇(ホンパン)などか有名。

 秘密結社の起源
 秘密結社は 反清復明(はんしんふくみん) =「清を滅ぼして明を復活させる」をスローガンとすることが多い。その起源は「明の遺老」が 清打倒の意志を民間に残したもの(革命家の孫文もそう言っている)とされるが;

 そのとおり、南明の残存勢力が民間に残ったものとする説と;
じつは清の中期の人口爆発の時期に成立した村々の互助組織が、後から「反清復明」という「伝説」を自分たちの起源として持ちこんだもの; の2説がある。

 清代中期以後の情勢 人口が爆発的に増加 → 農地を求めて多くの人びとが南中国の山岳地帯に入り、新たに土地を開拓して住み着く(それでも生活できなくなった人たちが海外に移住し、現在の中国系の人びと=華人の祖先となる。台湾の「本省人」も同じ)。

 これらの土地では官僚の支援は十分に期待できない → 住民どうしの互助組織として会党が発達か?

会党の活動
 会党の役割 互助組織としての活動が基本である。飢饉などの自然災害に共同して対処する。 役人の圧力などにも村を守るために共同で対処する。 遠隔地の同じ会党のメンバーどうしが便宜を与えあい、助け合う。

 会党の両義性 会党の組織が民衆反乱を組織するために機能することもある。しかし、民衆反乱から地方を防衛するための役割=団練の支持組織としての役割を果たすこともある。

 太平天国の乱
 太平天国の乱 1850~64年(始期を1851年とする区切りかたもある)、広東省出身の 洪秀全(こうしゅうぜん) がキリスト教を掲げて清朝に対して起こした反乱。反乱勢力は「太平天国」を称し、南京を天京と改めて首都とし、南中国の広い範囲を支配した。

 「乱」という呼びかたには非難するニュアンスがあるため、「太平天国運動」・「太平天国革命」などという表現を使うことも多い。

 伝統的な面と新しい面
 伝統的な面 秘密結社の勢力が広がっている南中国で、宗教的な秘密結社が起こした反乱だった。

 反乱の核となった結社は洪秀全が設立した 拝上帝会(「上帝会=じょうていかい=」とも) で、他の宗教系秘密結社と手を結んで反乱を起こした。

 新しい面 拝上帝会は古くから存在する結社ではなく、キリスト教(プロテスタント)を掲げる新興宗教結社だった。

 洪秀全と拝上帝会
 洪秀全とキリスト教 南中国の少数集団 客家(ハッカ) 出身の 洪秀全 が、科挙の受験のために訪れた広州でキリスト教布教のパンフレット『勧世良言』を入手 → 洪秀全が以前に見た「幻」をこの布教パンフレットによって解釈し、洪秀全は; 神の子であり、救世主イエス・キリストの弟であり、自身も救世主である ということを確信した。

 拝上帝会の結成 洪秀全はその教えを広めるために拝上帝会を結成 → 広東から広西省の省境一帯に布教する。

 その教義 中国の(儒教の)経書や民間伝説を取りこんだもの――孔子を「誤りが多い」・「邪悪」などとしつつも、全面否定はしていない。

 「憑依(ひょうい、霊のとりつき」の信仰 太平天国では「天王」を称した洪秀全が最高指導者だが、他の幹部に上帝(神)や天兄(イエス・キリスト)が憑依することがあり、そのときには洪秀全のほうが下になる。

 金田村決起
 迫害を受けた洪秀全は、1850年、広東・広西省境の金田村(きんでんそん)で決起 → 翌年、新たな王朝を樹立し、これを 太平天国 と名づける。

 太平天国の政治
 天朝田畝(てんちょうでんぽ)制度 農民に土地を均分する土地制度――「井田」論の系譜を引く。 男女の平等など 男女を平等とし、女性の「纏足(てんそく)」を禁止、「畜妾(ちくしょう)」なども禁止した。また、辮髪(べんぱつ)を廃止して髪を伸ばした(そのため清からは「長髪賊」と呼ばれた)。

 纏足(てんそく) 成長途中の女性の足を布で固く縛って、足が大きくならないようにした。これを纏足という。女性の足は小さいほうが美しいとされていた。纏足をした女性は自在に運動することができない。ただし、それほど楽でなかったはずの家事もこなしていたのであり、それほどその不自由さばかり強調するのも正しくないという議論もある。客家の女性には纏足する習慣がなく、それが太平天国の纏足廃止につながっているとも言われる。

 郷勇(ごうゆう)の結成
 曽国藩(そうこくはん)の衝撃
 太平天国勢力の北上のルートにあたった 湖南 で、服喪のため帰省していた官僚 曽国藩(そうこくはん) は、「キリスト教の民衆反乱勢力」の拡大に強い衝撃を受ける――これは 名教の奇変 である → 王朝防衛だけではなく、儒教防衛のための戦いに立ち上がる。

 「郷勇」湘軍(しょうぐん)の結成 曽国藩は太平天国と戦うために団練を巨大化した地元の義勇軍「郷勇」を結成 ―― これを 湖南軍=湘(しょう)軍 と名づけた。 財源は国内関税 釐金(りきん)(百分の一税) ――関所を通る貨物の値段の100分の1を徴収する。 将兵は地元で信頼の置ける人物を集めて採用する。
 郷勇の結成 湘軍に続き、李鴻章(りこうしょう)の淮軍(わいぐん)など郷勇の結成があいつぐ。

太平天国の滅亡
 混乱する首都 天京(南京)に首都を定めた後、天王は教義研究にふけり孤立 → 側近の内紛で首都は混乱し、有力幹部の翼王 石達開(せきたっかい) は首都を脱出。

 太平天国の制度も整備される――煩瑣な官僚的形式主義が表面に。

 太平天国の滅亡 湘軍・淮軍に外国人部隊も参加して天京を包囲 → 天王は天からの天兄の来援を待ちつつ自殺?

 そして伝説へ
 南中国と石達開の伝承 首都から脱出して湖南~四川省へと流亡し、最後にとらえられて処刑された石達開は、「まだ生存している」など各地に伝説を残す。

 革命の「種まき機」 そのなかには、のちに中国共産党軍の最高指導者となった 朱徳 や毛沢東もいた――19世紀後期~20世紀前半、広東省・湖南省などはさまざまな立場の革命家を輩出する地方となる。

 天にかわって道を行う
『水滸伝』の世界
「天にかわって道を行う」(替天行道) 中国の古典的口語小説で、英雄義賊小説『水滸伝』の主人公の義賊たちの合いことば。

「中国を知るには四書五経より『水滸伝』を」(宮崎市定) 儒教の経典より広く読まれ、中国の民衆の心性と響き合ってきた。

 科挙官僚の外に生きる人びと 『水滸伝』の英雄たちのリーダー 宋江(そうこう) は、科挙官僚の下で働く下級官吏、その他、村の私塾の教師、道士、僧侶、漁民、商人、武官・武将、さまざまな職人、無頼漢などが集結している――いずれも科挙官僚の世界の外にあり、科挙官僚からは軽蔑されていたような人たち。

 民衆の天、民衆の皇帝
 民衆には、「皇帝‐官僚」とは別の「天」があり、官僚の皇帝とは別の皇帝がおり、「科挙官僚になる偉い人」とは違う親しみやすく頼りになる「旦那(だんな)」としての士大夫(したいふ)がいる――それが民衆反乱を支える心性となった。しかし、(民主主義に進まなかったという批判は別にしても)それが民衆反乱を性急な「王朝化」志向に駆り立てた。

●  2005/5/5
マフィア-3 ~中国マフィア~  マフィア

中国系黒社会(くろしゃかい)と呼ばれるチャイナ・マフィアは、中国大陸に約150万人、香港に約20万人、台湾に約10万人、アメリカにはニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、モントレパーク、カナダのトロント、バンクーバー、ヨーロッパでは、ロンドン、アムステルダムを中心に暗躍しており、最近では日本に大量に送り込まれてきています。

 特徴としては、ロシアマフィアと同じく政府と結託しており、中国共産党や司法は、賄賂で公然とつながっており、マフィア育成を手助けしている事は、南京大学の蔡少卿(さいしょうきょう)教授も指摘しているところです。

 中国のチャイナ・マフィアの歴史は、17世紀の清王朝に遡ります。 漢民族の明(みん)王朝は、南京を根拠地に洪武帝が1368年に建国しましたが、1636年、満州族の清に破れ、清王朝が成立し、1644年に首都は北京に移されました。

 この時、異民族支配に反感を抱いた漢民族である明の敗残兵と、貧民街の労働者が集まってできた、幇会(パンフェ)と呼ばれる秘密結社が出来ました。 幇会で代表的なものには、洪門会(ホンメンカイ)で、現在、華僑の中核をなすグループであります。 また、上海を活動拠点とする青幇会(チンパンカイ)も有名なところです。

 現在のチャイナマフィアは、上海を拠点とする「上海幇(しゃんはいぱん)」、香港を本拠地とする「14K」、「和勝和」、「新義安」、「和字頭」、台湾を本拠地とする「洪門天地会(ほんめんてんちかい」「三合会(さんごうかい)」「青紅幇(チンホンパン)」「竹連幇(ちくれんぱん)」などがあり、全世界にネットワークを築いています。

 上海を例に取ると、すりを中心とする「新疆グループ」、詐欺を中心とする「貴陽グループ」や「安徽グループ」、窃盗を中心とする「蘇北グループ」、強盗を中心とする「東北グループ」、車や船の盗みを中心とする「温州(うんしゅう)グループ」などがあるといわれています。

 政府からの支援もあり(お金に名前はかけないので、断定出来ませんが、日本からのODAも貢献しているのでしょう)、急速に力をつけてきており、アメリカではイタリア系マフィアが仕切っていたヘロインを、中国系が乗っ取ったとされ、その冷酷無比さは、イタリアマフィアをはるかに凌ぐ物で、ヨーロッパでも麻薬・売春を仕切り、銃撃戦なども起こし、恐れられてきております。

 しかしながら、やはり注意しなければならないのは日本であり、新聞にも良く出てきますが、蛇頭(じゃとう;スネークヘッド)がマフィアをも含む中国人を大量に不法に密入国させており、彼らによる凶悪犯罪は増加の一方を辿(たど)っています。
 福岡での残虐な一家4人殺害も記憶に新しいところですが、マフィアでない留学生がこの残忍さですから、、我々の理解をはるかに超えています。反日教育の影響も少なからずあるのだと思います。もちろん、中国の人達とも仲良くやっていかねばなりませんが、国家ぐるみで悪意を持って日本に送られてきた人達や工作員もいるという事は、平和ボケの日本人は留意しておく必要があるでしょう。

● 『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』(著:福本勝清。中公新書)

 いわゆる清末民初、袁世凱(えんせいがい)が洪憲皇帝を称した時、思いもよらず、彼は四面楚歌の状態に追い込まれ、憤死。北洋軍(ほくようぐん)は馮国璋(ふうこくしょう)の直隷派、段祺瑞(だんきずい)の安徽派、さらに張作霖(ちょうさくりん)の奉天派に分裂し、混乱のきわみに陥った。

 安定した治政者がおらず、各地の軍閥は防災はおろか、ひたすら収奪に血道をあげる。折悪しく、大災害が襲う。民国という時代は「一言で言い表すと、今の一年よりも次の一年のほうが、さらに悪くなるとしか思えない年月がずっと続いた時代だった」。

 そんな中で、先日『文化大革命十年史』を読んだ中で出てきた人名がちらほらと顔を出す。1913年、15歳の彭徳懐は、飢えた農民とともに地主の屋敷に押し入り、故郷を追われる身となった。

 同じ年、賀龍(がりゅう)は哥老会(かろうかい)に入り、さらに1916年、二十数名の若い農民を率いて塩局(税務局)を襲撃、ついには県城まで攻略してしまった。当初蜂起した賀龍たちの武器は「包丁」のみであり、「二本の包丁だけで蜂起した男」賀龍の伝説が生まれる。また、朱徳(しゅとく)は「雲南軍閥の一員」と書かれている。

 さて、本書では「緑林(りょくりん)」と「土匪(どひ)」の違いが書かれている。いうまでもなく「緑林」は『後漢書(ごかんじょ)』に記された、湖北省緑林山にたてこもった王匡(おうきょう)、王鳳(おうほう)らに由来するもので、「山林や沼沢に集まり、官吏や土豪に対抗した武装集団、群盗」で「大義を掲げる」ものとしている。

 一方、「土匪」とは土地の盗匪であるが、両者の区別は明確なものではなく、本書では「緑林とは身内や近隣以外にも、貧乏人や弱い者を略奪の対象としなくなった土匪」という定義もしている。

 さらに、民衆宗教結社(代表的なのが白蓮教系)、天地会などの会党(秘密結社)、紅幇(ホンバン)、青幇(チンバン)などの幇会についても書かれている。とりわけ、土匪と幇会とは、農村に根拠をもち首領の力で集団が維持される土匪と、都市(商工業や交通)に根拠をもち、会党ゆずりの系譜性を継承する幇会といった形で対比している。

 また、それゆえに幇会(パンフェ)は、自らの首を絞めることになるので城鎮(じょうちん)をまるごと破壊しようとはしないが、土匪はそんなことに頓着せず、城鎮を攻める際は略奪、放火の限りを尽くす、とある。例えば、1922年、老洋人という巨匪が安徽省の阜陽という城鎮を襲い、「城内は焼き尽くされ、瓦礫と化した」。

 なお、阜陽はもともと安武軍という軍隊が防衛の任にあたっていたが、老洋人襲来と聞き戦わず逃げていた。兵士たちは、匪賊が引き揚げた後に戻ってきて、「混乱に乗じ各店、各家に押し入り~賊の強奪を免れた~金品を奪い去った」という。軍より賊の方がまだましだった、というような話は、中国史を読んでいるとよく出てくる。

 また、1938年6月、蒋介石が日本軍の南下をくい止めるため「黄河を切れ」と命令し、結果としておびただしい水害の犠牲者を出したことも書かれている。たしか、春秋時代の会盟に、黄河の堤を切ることを禁じたものがあったな、と思った。

 誘拐業は土匪の主要な金づるの一つである。以前別の本で、日本だと、幼い子どもを誘拐して親から身代金を取ろうとするが、中国では儒教の関係で老親を誘拐するケースが多いと読んだことがあった。

 本書では、「若い女を人質にすることはあまりない」とあった。要するに、「一晩(ところによっては三日)土匪のもとで過ごすと汚されたとみなされ、世間体を気にする家族が身代金を払おうとしなくなる」そうなのだ。

 一方、張寡婦(ちょうかふ)という土匪の女性首領は、誘拐した女性を大切に扱い、忍び込もうとする者がいたら、仲間であっても即座に撃ち殺したそうだ。よって、「張寡婦に誘拐された娘は大丈夫だ」という評判が立ち、女性であっても身代金が取れたという。ブランドイメージを確立することによって新たなビジネスチャンスを開拓した例といえるだろう。

 本書には背高く伸びたコーリャン畑は土匪やゲリラにとって格好の隠れ家であるという内容もあった。鞏俐(コンリー)や姜文の姿が目に浮かび、「紅いコーリャン」という映画タイトルを想起するのは私だけではないだろう。

 想起といえば、1927年、敗走中の毛沢東は、井岡山(せいこうざん)を根城(ねじろ)とする、もと緑林の袁文才(えんぶんさい)、王佐(おうさ)を訪ね、革命軍が井岡山に身を寄せる同意を得る。そして、「袁文才を復党させるとともに、王佐をも熱心に説得、ついに入党させてしまう」というくだりは、まるでちょう蓋(ちょうがい)・呉用(ごよう)らが、王倫(おうりん)が首領をしていた梁山泊(りょうざんぱく)に入り、乗っ取ってしまうくだりのようだ。

 その後1930年に、党中央は「流邙」決議を出し、緑林出身者を排除しようとする。毛沢東は、彼らをかばったが、事情に通じていない彭徳懐(ほうとくかい)が袁・王を処分してしまうくだりも 「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる」の悲哀を連想した。

 その他各地でも、多くの犠牲を払いながら革命運動を先導してきた地元インテリや無頼たちが、後に党中央から派遣された幹部たちにやっかい者扱いされ、粛清されていったようである。

 あと、毛が意気消沈している敗走紅軍の兵士たちの前で「賀龍同志は二本の包丁で身を起こし、今じゃ一軍の長だ。我々は今~二個大隊人間がいる」と励ました話も印象深い。

 理屈ではないのだ。「なごやかに、微笑みながら、部隊の前に立つと、みんなは思わず笑いながら手を叩き始めた」。「毛沢東同志が恐くないなら、我々だって何も恐くないさ」 と何となくそんな気にさせる。先日読んだ『中国人の機智』という本で毛を「稀代のレトリシアン」と評していたが、言葉だけではなく醸し出す雰囲気そのものが違うのだろう。

 本書巻末で、中国でリーダーとなるには「打抱不平」(ダーバオブーピン) が一つの条件であるとあった。本書の別のところでは 「目の前で、見知らぬ他人が困っていても、あえて親切にするには及ばないし、たとえそうしなくても、なんの痛痒も感じないという中国人の典型的な態度」とある。

 これに近いことを私は北京に旅行した時に経験した。万里の長城の城壁の上の方で、誰かが水筒を落としたのだ。見ている限り、中国人は上から水筒が転がってきても知らん顔をしている人ばかりで、多少なりとも手を伸ばそうとしたり、「大変だ」と関心を持っているのは外国人だけのように思えた。

 近畿ではよく奈良へ遠足に行くが、たいてい誰か若草山で水筒の蓋を落とす。そうしたら、みんな競うように拾ってあげようとするように思う。

 話を戻す。「打抱不平」とは、「他人が不公平に扱われることに我慢ができず、あれこれ世話を焼くこと」と定義されている。「他人の窮状に無関心」が大勢だからこそ、「打抱不平」が衆望を集めるのだろう。そして、毛沢東は稀代の「打抱不平」だったに違いないと思う。

● 『日本・世界の再生』・歴史に学ぶ
日中戦争の問題点を検証する(第80話 阿片争奪戦)

 阿片の原料植物ケシは文明の発生とともに栽培されていたと思われるが、メソポタミアでシュメール人による栽培がもっとも古いと考えられている。

 支那では紀元前203年、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の「垓下(がいか)の戦い」で、項羽と虞妃(ぐき)とのロマンスにケシの花が出てくる。

(2006/8/4)
歴史研究家:岡崎溪子

第80話 阿片争奪戦

 阿片の原料植物ケシは文明の発生とともに栽培されていたと思われるが、メソポタミアでシュメール人による栽培がもっとも古いと考えられている。

 現在のバクダッドの南部から発掘された約5000年前の粘土板には楔形文字でケシの栽培、ケシ汁の採集について記述されている。

 阿片が採れる「ケシの花」についての由来は紀元前8世紀のギリシャ神話にある。眠りの神ヒュプノスの子、モルペウス(夢の神)の名前から、夢のように痛みを取り除いてくれる鎮痛剤「モルヒネ」が名付けられた。

 もちろん、ケシの実の乳液である阿片(モルヒネ)の効能のこと。地中海東岸に自生していたケシの花から医療目的に阿片を精製した。

 支那では紀元前203年、項羽と劉邦の「垓下(がいか)の戦い」で、項羽と虞妃(ぐき)とのロマンスにケシの花が出てくる。 劉邦の大軍に包囲された項羽は別れの宴を開いてから最後の出撃をし、虞妃も自刃して殉じたが、彼女の死んだあとに赤いヒナゲシの花が咲いた。 そのため人々はこの花を「虞美人草(ぐびじんそう)」と呼んだ。ということは、古代からケシの花を一般的に栽培していたことを証明している。

 ケシの花には阿片が採れる種類と採れない種類があるのだが、いずれも花の大きさは9~12cmくらいで、色は深紅、赤、赤桃、紫、白など種類が多い。当初は観賞用と間違えて栽培したであろうと思われる。

 ところが漢字の罌粟(けし)は漢名からで、実の形が罌(もたい・液体をいれる口のつぼんだ 甕(かめ))に似ていて、種子が粟(あわ)に似ているのでこの字がつけられたことを考えると、すでに阿片が採れるガク(実)の部分を認識していたことを示している。漢方薬では「阿芙蓉(あふよう)」の名で麻薬成分の鎮痛効果や催眠効果、鎮咳効果などに利用されている。

  中国での阿片のおもな栽培地は涼しい高地を多く持つ雲南省と貴州省であった。日本には室町時代に入ってきた。

 1600年に設立された英国東インド会社は、1623年にインド西海岸スラトに商館を設立し、以後インド全域における覇権を確立する。

 阿片は当時すでにヨーロッパからトルコ、ペルシャ、と、東アジアへ広がっていた。17世紀ころから中国人のあいだに、煙草にインド産阿片を混ぜてパイプで吸う習慣が広まった。ヨーロッパではワインなど飲み物に入れて飲んでいた。

 明代ではおもに上流階級だけの贅沢な嗜好品だったが、やがて19世紀中期になると労働者階級にも及んだ。個人主義で、2千年の長きにわたって道教の耽美的な影響をうけた支那人が快楽を追求し、阿片のとりこになる下地はすでにできあがっていた。

 これをイギリスはインドで生産し、清との茶の取引での交換商品とするべく普及に努めた。1834年、インド産阿片はついに2400トンになる。これは中国人がどんどん阿片の魔力に溺れていった事実を物語っている。

 ついに林則徐(りんそくじょ)による阿片廃棄処分などの強行策が清朝でも取られたことにより、1839年11月3日、アヘン戦争の火蓋がきって落された。 清の敗戦で南京条約(なんきんじょうやく)が結ばれ、阿片は国中に広まり、成人男子の約半数が中毒になったといわれる。

 大がかりな生産地も各所にできるようになる。他国にアヘンの貿易を迫り、アヘンの密輸を認めないからと戦争を仕掛け、武力で民衆を虐殺し、その上さらに、国土の一部を取り上げて賠償金まで取るのだから、まさに世にも醜悪な条約である。

 この理不尽なヨーロッパの行為は、隣国日本に衝撃を与えずにはいられなかった。当時、長崎でこのアヘン戦争についての詳報に接した吉田松陰は驚愕した。平戸滞在中に松蔭はアヘン戦争に関する「阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)」、「阿片始末(あへんしまつ)」を読んだ。松蔭は弟子たちに欧米の非道さを語った。同時に阿片の恐ろしさも弟子たちは現実感を持って理解した。

 のちにアメリカと結んだ「日米修好通商条約」の第四条には、「……阿片の輸入厳禁たり。もし亜米利加商船三斥以上を持渡らば、其の過量の品々は日本役人是を取上べし」と、阿片の医薬品目的以外の持ち込み禁止を明記している。

 1870年(明治3)、明治政府は日本最初の麻薬取締法を制定している。政府は阿片煙草の取締りと同時に、医薬用阿片の取扱規則を定め、すべての薬店で所持している阿片の品位・量目の報告と、医師に売り渡した際には、薬店と医師双方に品位と量目を届け出るよう命じた。日本人が阿片に犯されなかったのはまさに賢人たちの警告のおかげである。

 東南アジアの華僑たちが好んで吸引したため、ベトナム、タイ、ラオス、ビルマ(現在のミャンマー)、インドネシア、台湾など、各地で生産された。

 中でも有名なのが「黄金の三角地帯」である。ビルマのシャン丘陵からタイ北部、さらにはラオス山岳部にかけてケシ栽培に適した高原地帯が広がる。この地域は三角形を形どっているため、いつしか「黄金の三角地帯」と呼ばれるようになった。

 1939年以前は専ら密輸されたが、世界大戦によりトルコやインドからの阿片輸入が減少の一途をたどると、インドシナの需要に応じるため一気に栽培が盛んになったのである。

 日本が満洲に入ったころ、張作霖は満洲で阿片を栽培していた。張作霖は自分も息子の張学良も阿片を愛飲し、女色(にょしょく)も盛んである。張作霖だけではない。各軍閥は自分の軍隊を維持するため自分の勢力範囲で阿片を栽培していた。

 クリスチャンでもありながらソ連共産党員であった馮玉祥(ふーぎょくしょう) は、1921年、河南督軍に任命されると、西北部農村に阿片の強制栽培を命じている。

 馮玉祥は一貫して反蒋介石の立場をとりながら、1929年(昭和4)の中・ソ紛争でソ連との国交が断絶すると、国民政府に帰り、以後、反蒋行動やスパイ活動をしていた。1925年(昭和元) 6月5日のソ連共産党政治局中国委員会の決定で同年10月1日までの軍事政治工作支出予算として、77万5734ルーブルと23万1226ドルを受け取りながら、阿片栽培までやって私服を肥やしたのである。おまけに蒋介石からもちゃっかり資金をもらっている。

 黒竜江省を根拠地とする馬占山(ばせんざん)も馬賊上がりの軍閥である。どじょうひげをはやした小躯で無学な馬占山も阿片の愛好者であり、自領地で阿片を栽培し、密貿易をしていた。

 熱河を根拠地とする湯玉麟(とうぎょくりん)は天津、奉天にも豪壮な邸宅を構えるほどの資産家である。これはひとえに阿片の利益による。熱河産の阿片は上質で甘みがあり人気が高かった。

 軍閥は天津や上海で阿片を売る裏社会の青幇(ちんぱん)や紅幇(ほんぱん)に渡し、巨額の利益を得ていた。青幇は、もともとは宗教結社「羅教(らきょう。白蓮教と並ぶ反体制結社)」から派生した互助会的な性格の、水運業者や水上生活者によって結成された秘密結社である。

 フランス租界に拠点を置いて社会の暗部に深く広く勢力を広げていき、やがて阿片密売や賭博などの元締めとなる。刃が湾曲した青竜刀を使うのが特徴。

 当時の青幇は、杜月笙(とげっしょう)、黄金栄(こうきんえい)、張嘯林(ちょうしゅくりん)の「三大亨(親分)」に支配されていた。彼らは商売を掌握する一方、恐喝、誘拐なども繰り返していた。

 紅幇(ほんぱん)は、天地三合会(てんちさんごうかい)系の、主に湖南から四川にかけて勢力を張る秘密結社で、上海でも活動していた紅幇は、哥老会(かろうかい)系が核となっている。刃が直刃の刀を使うのが特徴。

 もともと幇会というのは相互扶助的な側面が強いため、青幇と紅幇の両方に所属している者もいた。1920年代の紅幇は、闘争目標であった清王朝が倒れ、幹部たちが中国軍部や政界の要職についてしまったため、もっぱら阿片や売春など商売に力を入れていた。

 杜月笙
 若き青年実業家にして社会福祉事業家。フランス租界の参事にして2つの銀行の頭取であり、支那人中等学校の設立者。大きな黄色い歯、長い腕、剃り上げた頭と突き出た耳が印象的な痩せた男性で、長い白い絹の中国服に絹のソックス、ヨーロッパ風のブーツ、山高帽を身につけていた

 柔和な物腰で、上海の名士すべてと交友があり、孫文や蒋介石とも友人だった。貧しい家庭に生まれ、果物屋の店員となるが、やがて南市の顔役となり青幇のメンバーになる。そこで頭角を現し、阿片商人のカルテルを組織し、フランス租界すべての阿片窟からパイプ1本につき1日30セントの税金を徴収。申告漏れがあればフランス租界警察が摘発に入るという仕組みを作り上げた。

 またブラック・スタッフ・カンパニーという恐喝組織を作る一方で青幇を利用して誘拐をおこない、自らがその仲介人を務め、身代金の半額を手数料として受け取ることも多かった。

 やがて黄金栄、張嘯林と並ぶ青幇の首領であり、1920年代以後、事実上上海の影の支配者となる。1927年のゼネストの際にはフランス租界警察本部長、参事会長スターリング・フェッセンデンらと会合。共産党を排除する条件としてフランスから5000丁のライフルと弾薬を得ることと共同租界内の通行権を獲得。

 さらに浙江財閥ら支那商人より巨額の資金を得ていた。自宅は要塞にして阿片の流通拠点として知られている、エドワード7世様式の3階建ての邸宅で、1階ごとに女優出身の妻を1人ずつ住まわせていたという。

 黄金栄
 ビッグスリーの1人。フランス租界の警察署長にまで上りつめ、その地位を利用して阿片、賭博、売春の3事業で莫大な財と権力を獲得。1930年代には大世界(だいせかい)を買収して、健全な娯楽施設から麻薬から売春までの歓楽街へと変貌させた。黄家公園(桂林公園)ももともとは彼の両親の墓碑を置くために作られた場所だった。紅幇のメンバー。

 張嘯林
 青幇のビッグスリーの1人。阿片取引によって黄金栄、杜月笙に次ぐ青幇の重鎮となったが、杜月笙が国民党支援のために上海を離れている間に、日本軍と結託して自分の地位を固めようとしたため暗殺されたらしい。

 1932年(昭和7)に満洲国が建国され、翌年の熱河作戦において、熱河も満洲国に組み込まれた。こうして満洲国ができてみると、軍事費以外にもいろいろと多額のお金が必要になった。

 創設期には軍閥の懐柔もおこなわれていたし、住民の人気取りもしなければならない。日本の特務機関は予算に載せるには憚(はばか)られるような大金も必要である。いちいち詳細を東京に報告すると認められないおそれがあるので、満洲でお金を工面することを考えた。

 手っ取り早いのが、軍閥時代の阿片栽培をそのまま引き継ぐことである。奉天特務機関長・土肥原賢二(どいはらけんじ)大佐は熱河(ねっか)の承徳(しょうとく)で湯玉麟(とうぎょくりん)が持っていた阿片・ヘロイン製造工場を入手したのを利用しようと考えた。

 しかし、関東軍のなかには石原莞爾(いしはらかんじ)や多田駿(ただはやお)などの良識派もいるので、台湾や関東州(かんとんしゅう、満州のことか?副島隆彦注記) での阿片政策を持ち込んだ。つまり、専売局を設けて闇の部分から表に出し、住民が安価な値段で阿片を入手できるようにして、しだいに阿片中毒者を減らしていくようにしたのである。

 台湾ではこの政策が成功し、住民の阿片中毒患者が激減した。しかし、満洲は広い。しかも軍閥の阿片栽培の仕事にあずかって利益を上げていた阿片商人や農民たちからは反発があがった。

 なお法令は大正13年の「関東州阿片令」を適用した。昭和9年に第二条の「関東長官」を「満洲国駐箚特命全権大使」に改め、第三条、第四条第八条の「関東長官」を「大使」と改めた。

 満洲国専売総局は阿片商人、吸引者、ともに登録させた。「清査制度」が設けられ、栽培地を指定し、許可制にした。阿片商人を集めて「土薬股份有限公司(どやくこふんゆうげんこんす)」を作った。

 土薬公司がケシ栽培者の農民から阿片を集買する、その阿片を政府機関の清査官署がすべて収納し、集買価格の10分の9を集買手数料として土薬公司に支払う。収納阿片は政府が一手に内外に「配給」すなわち販売する。ケシの開花期には飛行機で巡回し、密作地には爆弾を投下したり、威嚇して阿片の栽培地の拡大を防いだ。

 ところが専売を始めると低価格なので人気が出て、阿片が足らなくなり、天津の闇商人から購入して大連経由で密輸入することもあった。満洲国は建国当初の政府予算の見積もりを6500万元としたが、そのうちの15、6%に当たる約1千万元を阿片の専売収入から計上していた。

 モンゴル人も満洲国の一員であるから、南蒙古が漢民族の国民政府の支配下にあるのを黙って関東軍がみているわけはない。張家口(チャンチャコウ)、大同、包頭(パオトウ)を順次に接収して自治政府をつくらせていたのを統合して、1939年9月1日、蒙古連盟自治政府を樹立させ、徳王を主席につけた。

 北モンゴルがソ連の支配下にあることを考えれば、当然国境問題も起きてくるのが予想される。実際騎馬民族の国境意識はあいまいで、何度交渉してみても解決しない。となると、軍備を充実する必要がある。

 満洲中央銀行は蒙彊(もうきょう)銀行に資金を貸し付けたが、これといって産業のないモンゴルでは返済のめども立たず、阿片の栽培を奨励して軍事費に当てた。ここでケシの栽培の指導をしたのが二反長音蔵(にたんちょう おとぞう)である。

 音蔵は明治8年に大阪府三島郡福井村に生まれ、水田の裏作としてケシ栽培を始める。二宮尊徳に憧れ、ケシ栽培で福井村を繁栄させようとした。

 その成果は「裏作で四百円以上の高収入があるので、今日では当村には一名の貧乏人もない様になった」と語るほどになり、これを日本全国に広げようと、自費でケシ普及に走り回った。蒙古連合自治政府に招かれたときは70歳だったが、ケシ栽培の第一人者であった。

 阿片は関東軍の財源としても段々重要になっていき、金額も増えた。そこで土肥原は熱河作戦の輸送を担当した坂田誠盛に密輸を担当させ、天津に運ばせた。天津では日本租界の淡路街に茂川秀和(もかわひでかず)大尉につくらせた「茂川公館(機関)」で受け取った。茂川公館は情報謀略活動をおこなっていたが、阿片の密輸も始めた。茂川は到着した阿片を裏社会の青幇に売り渡したのである。

 なにしろ密輸の護衛が関東軍の憲兵隊であるから匪賊に収奪されることもない。まことに安全で確実である。たちまち商売繁盛になった。

 ところが坂田は張家口でヘロイン製造工場を立ち上げて生産者になってしまった。そこで1936年春、関東軍は熱河阿片の輸送と天津での密売管理を里見甫(さとみはじめ) に委託した。里見甫は上海の「東亜同文書院」を卒業し、「満洲国通信社」の社長を経て華字紙「庸報 (ようほう)」の社長となった。ジャーナリスト畑を歩んできただけに、人脈もあり、性格も温厚で、その上度胸もあり、金銭に執着しないところが土肥原賢二の信頼を得た。

 里見甫は支那側の取引相手に盛文頤(せいぶんい)を選んだ。盛文頤は清朝末、日本の財界と提携して湖南省大冶鉄山を興し、八幡製鉄などに鉄鉱を供給した郵電部大臣・盛宣懐の甥に当る。日本との関係が深く、おまけに秘密結社の青幇を通じて阿片密売のネットワークを持っていた。里見は「宏済善堂」という会社を立ち上げ、密売金から自分の手数料8%を差し引いた金額を関東軍に納めていた。

 支那事変が勃発すると日本軍は北京、南京、徐州、を占領して親日支那人に自治政府を樹立させた。これらの費用は、ほとんどが日本側の負担である。また、戦争は蒋介石を追ってまだまだ続くのだから当然戦費もかさむ。日本国民に増税を課しても焼け石に水である。

 そこで阿片商売を拡大することになり、1938年(昭和13)12月16日に対支那中央機関として「興亜院」が発足した。表向きは支那占領地における政策策定、経済開発、思想文化統制などが目的になっているが、簡単に言えば阿片の利益を公平に配分する機関である。

 さて里見の阿片商売は飛躍的に利益を出した。上海派遣軍高級参謀・長勇(ちょういさむ)大佐の進言によりペルシャ産の阿片を扱うことにしたからである。宏済善堂 がペルシャ産阿片で儲けた利益は約2千万ドルになったが、興亜院に支払った。翌年には蒙古阿片も扱った。これはほとんど中華航空の飛行機で運ばれた。

 阿片売買による利益は興亜院 が管理し、3分の1が南京政府(汪兆銘=おうちょうめい=政府)の財務省に、3分の1が阿片改善局に、残り3分の1が宏済善堂に分配されていた。汪兆銘政府の仕掛け人は参謀本部第八課の課長で謀略担当の影佐禎昭(かげささだあき)である。里見のもとには多くの軍人たちが金をねだりに訪れた。気前のよい里見は大金を与えた。

 阿片の密輸には民間企業も深くかかわっていた。特に三井物産は1895年(明治28) 日清講和条約により日本の台湾統治が始まり、1897年(明治30)に台湾阿片令が発布され、阿片の専売制を敷いたときから、三井物産は台湾総督府専売局 に独占的に阿片を納入していた。

 関東州でも1915年(大正4)以後は「財団法人 大連宏済善堂」が、すでに阿片を専売していたが、1924年(大正13)関東州阿片令が発布され、正式に台湾同様、住民と阿片商人に専売方式の詳細を示した。1929年(昭和4)以降は関東庁専売局が阿片を専売していたが、三井物産はここでも阿片を納入していた。

 関東州阿片令
 第一条 阿片吸食の許可を受けんとする者は本籍、住所、氏名、年齢及職業を具し関東長官に願出ずべし
 第二条 関東長官前条の願を受理したるときは其の指定したる医師に於て阿片吸引者なりと認定したる支那人に限り之を許可す
 第三条 前条の許可を与うるときは之に一日の吸食定量を指定し吸煙証を下付す     吸食定量は之を吸煙証に明示す関東長官は定時又は臨時に阿片吸食の許可を受けたる者を検診せしめ吸食定量の指定を変更し又は許可を取消すことあるべし
 第四条 吸煙証を亡失したるときは其の再下付を願出ずべし
 第五条 阿片吸食の許可を受けたる者は阿片又は阿片吸食器具を譲受くることを得     阿片吸食の許可を受けたる者は其の指定せられたる吸食定量の十日分以上の阿片を譲受くることを得ず但し旅行其の他已むを得ざる事由に因り所轄警察官署の許可を得たるときは此の限りに在らず  阿片吸食の許可を受けたる者は前項の制限を超えて阿片を所持することを得ず
 第六条 阿片吸食の許可を受けたる者は吸煙証を提示するに非ざれば阿片又は阿片吸食器具を譲受くることを得ず
 第七条 阿片吸食の許可を受けたる者は阿片小売人以外の者より阿片又は阿片吸食器具を譲受くることを得ず
 第八条 阿片の販売を為さんとする者は本籍、住所、氏名、年齢業務所及履歴を具し関東長官の許可を受くべし
其の業務所を変更し又は支店若は出張所を設置せんとするとき亦同じ
 前項の許可を受けんとする者法人なるときは其の名称、主たる事務所の所在地、定款、業務所代表者の氏名及住所を具し願出ずべし
 第九条  前条の許可を受けたる者は阿片を製造し又は之を輸入することを得
 第十条 前条の阿片販売人は一人を限り之を許可す
 第十一条 阿片販売人は阿片小売人又は阿片の買入を許可せられたる製薬者以外の者に生阿片又は阿片煙吸食器具を譲渡することを得ず
 第十二条 阿片販売人は関東長官の指定したる薬種商に限り薬用阿片を譲渡することを得  医師、歯科医師、獣医若は薬剤師薬用阿片を要するときは所轄警察官署の証明を受け指定薬種商に其の譲渡を請求すべし
 但し調剤用として一年を通じ二十五瓦以下を譲受けんとするときは警察官署の証明を要せず
 第十三条 薬用阿片は前条に依る場合の外医師、歯科医師若は獣医の処方箋を以てするに非ざれば之を譲渡し又は譲受くることを得ず
 第十四条 阿片及阿片吸食器具は特に許可を受けたる場合の外大連港以外の地を経て之を輸入することを得ず
 第十五条 阿片販売人に於て一定期間に輸入すべき阿片の種類及数量は関東長官之を指定す  阿片を輸入せんとするときは其の種類、数量、用途、仕出地、輸入取扱者の住所、氏名及輸入の経路を具し其の都度関東長官の許可を受くべし
前項の阿片を輸入したるときは当該官吏の検査を受くべし
 第十六条 阿片販売人に於て販売すべき阿片の数量及価格は関東長官之を指定す
 第十七条 阿片販売人は帳簿を備え阿片の受払を明確に記載すべし前項の帳簿は十年間之を保存すべし
 第十八条 阿片販売人は阿片の受払に付毎月十日迄に其の前月分を関東長官に報告すべし
 第十九条 阿片の小売を為さんとする者は本籍、住所、氏名、年齢、職業、営業所及履歴を具し関東長官の許可を受くべし其の営業所を変更せんとするとき亦同じ
 第二十条 前条の許可を受けたる者は阿片煙管及阿片吸食器具を製造し又は阿片吸食器具を輸入することを得
 第二十一条 阿片小売人本籍、住所、氏名を変更し又は廃業若は死亡したるときは十日以内に本人又は其の家族より関東長官に届出ずべし
 第二十二条 阿片小売人は阿片販売人以外の者より阿片を譲受くることを得ず
 第二十三条 阿片小売人は阿片吸食の許可を受けたる者より吸煙証を提示したる場合の外阿片及阿片吸食器具を譲渡することを得ず
 第二十四条 阿片小売人は第五条の制限を超えて阿片を譲渡することを得ず
 第二十五条 阿片小売人及指定薬種商は阿片及阿片吸食器具の買受帳及売渡帳を備うべし  阿片又は阿片吸食器の買受帳には買受の都度其の種類、数量、価格、年月日を明確に記載すべし
阿片又は阿片吸食器具売渡帳には売渡の都度其の種類、数量価格、年月日及買受人の住所、氏名、年齢其の他特に関東長官の命じたる事項を明確に記載すべし
 第二十六条 阿片小売人及指定薬種商は阿片又は阿片吸食器具の受払に付毎月五日迄に其の前月分を所轄警察官署に報告すべし
 第二十七条 阿片販売人及阿片小売人及指定薬種商は其の業務に関し関東長官の命じたる事項を遵守すべし
 第二十八条 第五条第二項同第三項、第六条、第七条、第十一条第十三条、第十四条、第十五条第二項同第三項、第二十二条乃至第二十四条及第二十七条の規定に違反し又は第十五条及第十六条の指定に違反したる者は一年以下の懲役又は二百円以下の罰金に処す吸煙証を譲渡若くは貸与したる者につき亦同じ
 第二十九条 第十七条、第二十一条及第二十五条の規定に違反したる者は百円以下の罰金又は科料に処す
 第三十条 阿片販売人又は阿片小売人未成年者又は禁治産者なるときは本令の罰則は之を法定代理人に適用す
 第三十一条 阿片販売人又は阿片小売人は其の代理人戸主、家族同居者、雇人其の他の従業者にして其の業務に関し
本令の規定に違反したる者あるときは自己の指揮に出でざるの故を以て処罰を免がるることを得ず
 第三十二条 法人の代表者又は其の雇人其の他の従業者法人の業務に関し本令の規定に違反したるときは其の罰則を法人に適用す
 法人を罰すべき場合は法人の代表者を以て被告人とす
 第三十三条 阿片販売人又は阿片小売人阿片に関する罪を犯し若は業務上不正の行為ありたるときは其の業務を停止し又は許可を取消すことあるべし

 軍人は未知の土地に行くとき、阿片を持って行った。当時は満洲や支那奥地では貨幣が各軍閥が乱発する軍票であったりして統一されていなかったので、阿片はお金としてどこでも通用した。

 1937年(昭和12)に支那事変がおきると、三井物産は中支那派遣軍特務部からの命令で藤田勇(ふじたいさむ)からペルシャ阿片の輸入を開始した。藤田勇は元報知新聞記者で、仕掛人から阿片密売の豪商となり、数々の謀略の陰で暗躍した人物。

 上海の日本軍特務機関の楠本(くすもと)大佐の証明書があったので信用した。ただちにペルシャ支店に注文を出し、160ポンド入りを1400箱購入し二度に分けて船で上海に届けられた。受取人は里見甫である。こうして三井物産は1938年から1940年(昭和15)までに70万4千ポンドのペルシャ阿片を輸入した。

 太平洋戦争開始後は国際収支問題から大蔵省の許可が得られなくなり、ペルシャ阿片の輸入は打ち切られた。これに代わって蒙彊(もうきょう)産阿片が増産されたが熱河(ねっか)阿片とともに三井物産が輸出を独占的に請け負っていた。

 「昭和通商」は陸軍が指導・監督し、三井、三菱、大倉が出資し、重役も三社から出して1939年4月に設立された会社である。正社員だけで3000人、臨時社員も入れると6000人にも及ぶ大企業でありながら実態がほとんど不明の会社である。

 大商社の別働隊として戦争にまつわるダーティな部分を担い、歴史の闇に消えた会社であった。それまでは三井物産と大倉組でおこなっていた武器輸出をおこなうために設立されたが武器輸出だけでなく戦地での物資調達や阿片も取り扱った。

 もちろん阿片で利益を得ていたのは日本軍だけではない。孫文も裏社会とは深く関係していたから後を継いだ蒋介石も当然阿片の栽培も密売もおこなっていた。上海の顔役・杜月笙(とげつしょう)に対しては挨拶に出向いてご機嫌伺いをしていた。日本軍との戦いで南京を追われ、長期化して軍事費が常に不足していた。

 雲南、貴州、をはじめ各地で栽培される阿片を買い取ってもらうには、なんといっても杜月笙の販売網が必要だった。ところが日本側も甘粕正彦(あまかすまさひこ)、里見甫が杜月笙と懇意になり、杜月笙も次第に日本側に傾いた。しかし、蒋介石との取引はずっと続いていた。

 黎(リー)族が原住民の海南島は、蒋介石の統治時代にケシ栽培を試みたが、熱帯の気候のためことごとく失敗していた。1939年(昭和14)に日本が占領すると、「厚生公司」を立ち上げた。治安が非常に悪く、治安維持にお金がかかるのに日本からはお金が来ない。

 そこで里見の指令で日本人スタッフがケシ栽培に挑戦し、1942年(昭和17)雲南種と広東種で10月種まき、2月に収穫する方法で 900アールの畑で収穫にこぎつけた。終戦まで日本軍の経費を阿片でまかなったのだが、こうなると、完全に阿片を戦争の道具に使っている。阿片中毒患者を少しずつなくしていくという日本の当初の目標には反している。戦争が長引くと無辜の民が阿片に巻き込まれていく一例である。

 1949年(昭和24)、毛沢東率いる人民解放軍との戦いに敗れた国民党軍の一部は雲南省から国境を越えてビルマ(現・ミャンマー)に逃れた。彼らは資金源としてケシ栽培に目をつけ、シャン州周辺のラフ族やワ族などの少数民族を支配してケシ栽培を強制した。

 そして世界中に広がる華僑ネットワークなどを利用して世界の非合法阿片の約3分の1を扱う麻薬シンジケートを掌握していく。しかし、ウー・ヌ首相が1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。

 日本国内でも戦前戦中はケシの栽培が盛んで、和歌山県は全国一の生産量を誇り、乳液採取の時期には学校は「ケシ休み」になり、子どもも手伝った。

 毛沢東率いる共産党も陝西(せんせい)省の延安で阿片栽培をしている。1937年(昭和12)に蒋介石から延安に定住することを認めてもらった毛沢東は、1941年(昭和16)6月にドイツがソ連に侵攻したのを見て、毛沢東はモスクワからの資金援助が途絶えた場合のことを考えて、阿片栽培を始めた。

 毛沢東はこれを「革命的鴉片(阿片)戦争」と呼んでいた。3万エーカーの土地にケシを栽培して畑の周囲にコーリャンを植えて隠した。結果は大儲けだった。たった一年で今の価格で言うと、6億4000万ドルもの大金を得た。こんなおいしい商売はない。そこで翌年も阿片の栽培をした。

 ところがこの大量の阿片を引き受けてくれる密売人がなかなかいない。当初は旧知の国民党のトウ宝珊将軍に販売の便宜を図ってもらった。トウ宝珊将軍は「阿片王」として有名であった。

 しかし、あまりにも大量の阿片が市場に出回ると値段が安くなる。トウ宝珊も自分が損をするのは嫌なので、全部は引き受けない。延安は黄河上流の黄土高原にあり、一大消費地の上海からははるかに遠い。道中の輸送の危険を考えると密売人は不安であり、大物は動かない。延安の阿片は生産過剰になってしまったのである。

 1944年にアメリカ人宣教師とジャーナリストが延安を訪れることになり、毛沢東は阿片の栽培をやめた。延安の人々はあいも変わらず重税に苦しんでいたし、ものすごいインフレになった。おまけに阿片中毒になる農民まで出ていたからである。

● 歴史研究家:岡崎溪子
 岡崎溪子ホームページ:http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
「三仙洞探検記」(岡崎溪子著、文芸社)

『おんな独りアフガニスタン決死行』(岡崎溪子著、アルファポリス社)

(2) 「マセマティック放浪記」 2003年9月10日
Mathematics Odyssey September 10, 2003

ある奇人の生涯 (31)
上海裏社会と大世界

 フランス租界の一角に位置する大世界(ダスカ)は、まさに上海の夜の街に咲く巨大な一輪の妖花という形容がぴったりのところであった。

 色とりどりの鮮やかなネオンと照明に彩られた、美しくも妖しくもある奇妙な形の建物にまず石田はその目を奪われた。左右に大きくのびる複雑な構造の数階建ての建物があって、その中央には、まるで巨大な仏舎利塔を近代的にデフォルメしそれに螺旋階段や何層もの展望台を付設したような望楼らしきものが立っていた。

 大世界の建物やその周辺一帯の歓楽街を漂い包む華やいだ雰囲気にはどことなく洗練されたところがあって、東洋的な風土の醸し出す情緒とはまるで異なるものが感じられた。

 その光景を一見した石田は絢爛たる光の渦の煌きの奥に底知れぬ闇の存在を直感した。しかしながら、同時にまた、目の前の光の渦に自ら巻き込まれ、どこまでも溺れ耽ってみたい気分でもあった。

 遠い東洋の地に移植された西欧の魔木が枝いっぱいに享楽の花を咲かせ、それに群がる者どもを次々に痺れ呆けさせようとしていると知りながら、なおその誘惑に抗しきれない人間の性というものをつくづくと不思議にも思うのだった。かねがね噂に聞いていた魔都上海の魔都たる所以をこの大世界という妖麗な夜の花の放つ甘い香りは何よりもよく物語っていると言えた。

 どこらともなく流れ響いてくるジャズの演奏に思わず石田は足を止め、その哀調を秘めたメロディーとリズムにしばし耳を傾けた。そして心の底まで沁み透るようなその響きにどうにも抗することのできなくなった彼は、まるでそれに誘い導かれるようにして大世界の建物の一角にある階段を上った。

 ジャズの演奏の漏れ響いてくるお店はすぐに探し当てることができた。しばし躊躇ったあと意を決した彼がそのクラブ風の店の洒落た造りのドアの前に立つと、自ら手をわずらわせるまでもなく中国人ボーイの手でさっとドアが開かれ、彼は店内の一隅にあるテーブルへと案内された。

 十分に計算し尽くされた照明に浮かぶ店内の光景に、石田は少なからず感嘆した。まだ上海に不案内な身ではあってもこの地にはもっと大きくもっと高級なクラブがいくらでもあることは知っていたし、大世界という歓楽街の一隅に位置する店ということもあったから、店内の雰囲気にはそうそう期待はしていなかった。

 だが、個々のテーブルや椅子をはじめとする調度品や装飾品のすべてが重厚そのもので、しかも、きらびやかなチャイナドレスに身を包んでテーブルをめぐり、にこやかにお客に語りかける女性たちはみなそれぞれに美しくしかも気品に満ちみちていた。彼はそんな店内の様子をさりげなく窺いながら通されたテーブルに腰を落ち着けると、とりあえずカクテルを注文した。

 店の奥あるステージでは数人の外国人たちによってジャズの生演奏が行なわれているところだった。ヴォーカル、サックス、トランペット、ドラム、ピアノのどの音をとってもゾクゾクするような迫力で、当時の日本などではまず聴くことのできない本格的な演奏だった。

 それまでにジャズに慣れ親しむ機会がそれほどあったわけではなかったのだが、石田はその音に酔い痴れその響きにひたすら圧倒されるばかりだった。

 ジャズの演奏の合間には、英語、フランス語、ロシア、中国語などで談笑する声が店内に飛び交い、まさにアジアの最先端を行く国際都市上海の面目躍如というところだった。この夜たまたま石田が覗き見たのは、大世界、さらには上海という都市全体に蠢く光と陰の世界からすればごくささやかな部分、しかもごく健全な一面にすぎなかったが、それでもなお彼の心はどこか妖しくときめきたち、不思議なまでの興奮に包まれた。そしてこれが彼の上海歓楽街における遊興体験の第一歩となった。

 英米租界やフランス租界が誕生し商工業が急速な発展を遂げるようになると、上海には福建省や広東省をはじめとする中国各地から船員や港湾労働者、各種商人、難民、さらには暴徒たちまでが大量に流入するようになった。そして、彼ら移民や流民たちは出身の郷土単位の互助組織を構成し、それらがさらに拡大して幇(パン)と呼ばれるより大規模な組織体を形成するようになっていった。

 上海に七つあったと言われる幇はその後いっそう統合が進み、最終的には紅幇と青幇と呼ばれる二大秘密結社となって上海一帯の裏社会を支配するようになった。第二次世界大戦後になって中国共産党によって上海が解放される以前には、黒社会とも称されていたそれらの幇に属する者の数は当時三百万前後だった上海の人口の四分の一にも及んでいたという。その秘密結社の一つ青幇の本拠地が置かれていたのは、ほかならぬこのフランス租界の大世界一帯なのだった。

 青幇の大亨(大親分)であった黄金栄(おうきんえい)、杜月笙(とげつせい)、張嘯林(ちょうしゅくりん)らは租界時代の上海では知らない者など誰ひとりいない存在だった。そのなかでも一番の頭領である黄金栄は、もともとフランス租界の警察の密偵を務めていたが、その有能な仕事振りをフランス租界行政当局に買われ、ついには警察署長にまでのぼりつめた。

 そして、フランス租界の実質的な監察者であるその特権を最大限に活用し、幇会三宝(幇の三資金源)とうたわれた烟、賭、娼、すなわちアヘン、賭博、売春の三事業に奔走、驚くほどに巨大な財力と権力とを築き上げた。その黄金栄が一九一七年にフランス租界内のこの地に造り上げたのが一大娯楽施設の大世界(だいせかい)にほかならなかった。

 大世界は映画館、劇場、演芸場、賭博場、各種レストランやクラブ、酒場、鍼灸院、さらには売春窟、アヘン窟までと、ありとあらゆる遊楽施設のある一大総合娯楽センターで、近くには競馬場(現人民公園)などの施設もあった。

 映画、京劇、中国雑技、演奏会、各種イベントにはじまり、諸々の賭博やアヘンなどの麻薬取り引き、秘密のものから公然なものにまでいたるまでの様々な売春と、人間の心身を慰め安らわせてくれたり、その本能的な興味や欲望を満たしてくれたりする催し物や行為の数々が昼夜を問わずに繰り広げられていたのである。

 黄金栄がその財力にまかせて造営したのは大世界歓楽街ばかりではなかった。上海師範大学に隣接している現在の桂林公園は当時は黄家公園と呼ばれていて、黄金栄が自分の両親の墓碑などを築き置いた花園であった。その広さや園内の華麗きわまりない景観は租界時代における幇という組織の表裏両面にわたる絶大な支配力をこのうえなく象徴してもいた。

 上海浦東で生まれたという杜月笙は地元の果物屋などで働いているときに青幇に入会、黄金栄にその能力と手腕を買われて頭角を現わし、黄金栄を継ぐ青幇の大頭目となった。国民党の蒋介石と通じ、フランス租界内の公館や東湖賓館、錦江飯店などが彼の上海での活動拠点になっていた。

 杜月笙は一九二九年に幇会の頭目が興した近代的な銀行としては初めての中匯(チェンワイ)銀行を設立、フランス租界内のアヘン業者や賭博売春業者のもつ莫大な資金を一手に吸い上げた。一九三四年に完成をみた中匯銀行ビルはその頃の上海においては有数の眺望を誇る高層建築でもあった。ちなみに述べておくと杜月笙は終戦直後に香港に亡命している。

 浙江省生まれの張嘯林は杭州に出て裏社会に関係をもつようになり、その後上海に出て青幇に入会した。そしてアヘン取り引きなどを通じて黄金栄、杜月笙らに次ぐ青幇の大頭目となった。ただ、張嘯林は、杜が国民党支援のために上海を離れ重慶に滞在している間に日本軍と結んで自らが上海に君臨しようとしたため、国民党政府や杜一派の怒りを買って暗殺された。

 幇会三宝と称されたアヘン、賭博、売春という三つの資金源のなかでもアヘンは幇の最大の資金源であった。金、杜、張の三人の大頭目は一九二五年に力を結集して大公司を設立し、上海のアヘン市場の独占を図りもした。租界各地には「燕子窩」という異名で呼ばれるアヘン窟が存在していたが、なかでも金陵東路や寧海東路一帯はアヘン窟の一大密集地であった。

 アヘンを取締まろうという動きも皆無だったわけではないが、現実問題としてそれを実践することはほとんど不可能な状況だった。中国人たちの住む いわる華界では軍閥警察がアヘン取り引きをバックアップしていたし、フランス租界内では黄が署長を務めるフランス警察が全面的にアヘン業者を支援して、租界自体が莫大な利益を得るという構図になっていたのだから、アヘン取締りに手をつけるなどできるはずもなかったのだった。

 杜月笙がその理事長に就いていたころの大公司は事実上中国全土のアヘン市場を支配していた。一九三〇年代における大公司の年間アヘン取り引き量は、最大で二〇〇〇トンにものぼり、フランス租界行政当局、公司、軍閥の三者のそれぞれに転がり込む収益は当時の中国の貨幣価値で一億元を悠に超えるものであったという。

 漏れ響いてくるジャズの演奏に誘われてその夜、石田が初めて訪れた大世界のお店は、それなりに風格もあり、そこに集うお客もその応対にあたる従業員も一見したかぎりでは洗練された感じの人々ばかりであった。

 だが、彼が我を忘れてジャズの演奏に聴き入っている間にも、大世界周辺のどこかでは数々の賭博が開かれ、アヘンの大取り引きの相談が進められ、さらには売春が行なわれているはずだった。しかも、西欧資本主義の洗礼を受け善い意味でも悪い意味でも爛熟しきったそんな上海の租界文化にも、暗い争乱の影が刻々と忍び寄り、その繁栄を次第に脅かすようになってきていた。石田が憧れの上海にわたり、同地においてその後六年にもわたる生活を始めたのはそのような時代のことであった。

●  第三部第二章 チャイニーズ・マフィア

 2 蒋家支配に終止符を打った江南事件

「蒋経国伝」著者の在米台湾作家、江南(本名、劉宜良)が1984年10月15日朝、米サンフランシスコ郊外デイリーシティで殺害された。暗殺実行行為者は台湾最大の暴力団、竹聯幇組長に指揮された組員2人で、事件の背後に台湾総統、蒋経国の次男孝武がいることが、明らかになった。[i]注p> この事件は蒋家の台湾支配に終止符を打ち、さらにその15年後、野党・民主進歩党(民進党)出身の台湾総統が誕生する序曲でもあった。

江南は国民党に情報を提供しながら、中国要人にも会見し、二重スパイとみなされていた。国民党側から金をもらって「蒋経国伝」の書き直しに応じながら、蒋経国の仇敵であった呉国(元台湾省主席)の伝記を執筆する準備を進め、その中で蒋経国と党の旧悪を暴露するおそれがあった。

 蒋家は、国軍情報機関と暴力団を使って江南を暗殺した。訴追された関係者は、情報工作者として育成された江南が党を裏切ったため、懲罰を加えた、と主張し、蒋経国、蒋孝武の責任は問われなかった。

事件が起きる半年前、84年5月、蒋経国が総統に再任された。江南事件は高齢の蒋経国の後継者として、孝武の名が取りざたされていたさなかに起きた。しかし江南事件に蒋孝武が関与したと米国で報じられるに及び、後継説は消えた。

 米政府は自国内で自国民(江は二重国籍の米国人)が台湾の公的機関の指示と支援を受けた暴力団に殺害されたことを追及し、台湾への武器輸出停止をほのめかして、犯人引き渡しと関係者の処罰を台湾政府に求めた。

素行の悪さや私生活の乱れから、総統候補として適任とは言いがたかった蒋孝武を蒋経国が公式に後継者から外したのは、米国からの圧力を受けてからかなり日が経った1985年12月25日であった。

蒋経国の民主化はそれ以後、加速した。野党・民進党結成(86年9月28日)、戒厳令解除(87年7月15日)、中国大陸里帰り解禁(同11月3日)と続いた。

 蒋経国は1988年1月13日、死去した。李登輝が即日、総統に就任した。それから12年。李登輝の政治改革は実績を挙げ、後継者として連戦副総統を指名した。

しかし、2000年3月の台湾総統選挙で、民進党の陳水扁候補が当選した。国民党の連戦候補は大差で破れた。半世紀にわたって台湾を支配してきた国民党は野党に転落し、日本円にして2兆円に達するともいわれる党有資産をめぐって、党内対立が表面化した。

 陳水扁は総統当選後、李登輝と協議して、唐飛・国防相を行政院長(首相)に指名し、歴史的大連立政権が誕生した。その後、唐は辞任し、民進党出身の游鍚堃(ゆうしゃくこん)が後任となった。

 李登輝は総統候補に国民党の本流を歩んできた宋楚瑜(省主席、省長)を指名しなかった。宋が台湾省政府廃止に反対するなど李登輝と確執があったことや資金疑惑が取りざたされた。宋は蒋家とのつながりが深く蒋孝武を擁立したことがあり、江南事件にも関与していた、とかつて報じられた。蒋経国の信頼が厚かった宋が、蒋家の危機に無関係であることは考えられない。

  江南事件の淵源を尋ねると、そこには戦後「小龍」と称されたアジア新興工業国・地域(NIES)の雄、台湾の裏面が露呈していた。蒋家三代の裏面史はとりもなおさず、国民党野史であり、蒋介石から陳水扁までつながる「小龍の現代史」でもある。

1 The Lords of the Rim,Sterling Seagrave,G,P,Putnam’s Sons,New York,1995.邦訳 「華僑王国」サイマル出版会 P304

1 デイリーシティーの惨劇

 西海岸のサンフランシスコから海沿いに南下したデイリーシティーは丘の上まで小規模住宅がびっしりと立ち並んでいた。このあたりは華人が多く住む 。北太平洋の寒流は米北西部の岸壁を洗いながらサンフランシスコ沖に達する。寒流のおかげで夏涼しく冬暖かい。台湾出身の作家、江南の住まいもここにあった。ヒルビューコート74番地。

 江南の家の二階書斎からはソートン海岸の太平洋の海原が望見できた。朝のさわやかな日差しが江南の住宅の奥深くまで注がれていた。午前9時20分、江南は二階の寝室から階下に降りた。

サンフランシスコの繁華街フィッシャーマンズ・ワーフで土産物屋を経営していた江南は毎朝、車で通勤していた。開け放たれた車庫には一台の車が置かれていた。夫人が子どもを送るのに使ったもう一台の車は路上にあった。自宅前の芝生は目に痛いほど鮮やかであった。江南が台所の勝手口から荷物を車に積み込もうとしていたとき、背後で「アメリカにいたら誰もお前に、教訓を与えないと思ったら大間違いだ。劉宜良」という声がした。

「なんだおまえ達はとっと出ていけ。警察を呼ぶぞ」と江南は応酬した。

38口径のリボルバーが江南の顔に付きつけられた。払いのけようとした江南の手が銃口に届くより早く、はじけたような乾いた音が響き、銃弾が江南の右顔面に命中した。江南を撃ったのは台湾最大の暴力団・竹聯幇組員、呉敦(当時35)だった。相棒の董桂森(同32)は血まみれの江南を冷ややかに見下ろし、江南の腹部にさらに2発の銃弾を撃ち込み止めをさした。

江南夫人の崔蓉芝が銃声を聞いてガレージに駆けつけたところ、犯人は自転車で逃走した後であった。二人は自転車をこぎながら人影のない草むらで、付け髭、かつら、小銃を投げ捨てた。そして、示し合わせてあったとおり路上で待ち受けていた竹聯幇関係者の車に乗り込み逃亡した。

 呉と董を現地で指揮した竹聯幇・組長、陳啓礼(41)は、二人がホテルに戻ってくると、国際電話をかけ、国防部情報局第三処代理処長の陳虎門(42)に「商売は成功した。効果のほどは明日分かる」と述べた。

「商売の成功」は暗殺の成功を意味した。

呉、董、陳の3人は暗殺4日後の19日、ヒューストンへ飛び竹聯幇関係者と会った後、20日ダラスからタイ航空機で東京へ向かった。東京でノースウエスト航空機に乗り換え、21日午後9時過ぎ、台北に帰着した。

 空港には国防部の陳虎門が出迎え、税関検査も受けず空港玄関前に横づけされていた公用車に乗り込んだ。

10月24日、陳啓礼は台北郊外の国防部情報局招待所で局長の汪希苓海軍中将(58)に会って、任務の完了を報告した。汪希苓は「大手柄だ」と笑みを浮かべ、3人の労をねぎらった。

しかし、それから1カ月もたたない11月12日夜、陳啓礼は国家安全局による全島一斉暴力団狩りで逮捕された。呉敦は25日に逮捕され、董桂森はフィリピンへ逃げた。

米連邦捜査局(FBI)とデイリーシティー警察署は29日、江南暗殺犯人が陳啓礼、董桂森、呉敦の3人であると、記者会見の場で発表、台湾当局は30日になって、陳、呉の逮捕と董桂森を取り逃がした事実を発表した。米側は犯人の引き渡しを要求したが、台湾は犯人引き渡し条約が米国との間にないことを理由に身柄引き渡しを拒否した。

陳啓礼は公安機関である法務部調査局に11月14日、台北市警察局から身柄を移され取調べを受けた。

年が明けた1985年1月10日、蒋経国は国家安全会議を招集、国家案全局に対し国防部情報局副処長の陳虎門を逮捕し、情報局長の汪希苓と副局長の胡儀敏陸軍少将(58)の身柄を拘束し軍法会議で尋問するよう命じた。

在米大使館とも言うべき北米事務協調委員会の銭復代表は、蒋経国に台湾の軍事機関が江南事件に関与している事実を米国側がつかんでおり、このまま放置すれば米台関係は抜き差しならない局面に立ち至らざるをえない、と報告してきた。

 陳啓礼は江南暗殺に至る経緯を吹き込んだテープを密かに竹聨幇構成員である米カリフォルニア州モントリーパーク、中華料理店経営、張安楽に託していた。張は香港「文匯報」にこの事実を漏らし、1月8日付けで同紙は報じた。国家安全会議はこれを受けて開かれたのだ。FBIも11日、張からテープを入手した事実を公表した。

2月27日、陳啓礼と呉敦が起訴され、4月9日、台北地方法院(地裁)は二人に、殺人罪で無期懲役の刑を言い渡した。両被告の控訴を受けて開かれた二審の高等法院は6月3日、一審の判断を支持し再び、両被告に無期懲役刑を言い渡した。

 国防部高等審判庭(軍事法廷)は4月19日、軍人3人に判決を言い渡した。殺人の共同正犯として汪希苓に無期懲役、殺人幇助罪で胡儀敏、陳虎門の両被告に懲役2年半の実刑判決を言い渡した。二審も5月30日、原判決を支持し、汪に無期懲役、胡、陳に2年半の懲役刑を言い渡した。

軍事法廷判決文は、汪情報局長が江南暗殺を暴力団員に指示した実行に至る過程を、次のように述べている。[ii][iii]注②

汪希苓は白景瑞(映画監督で汪希苓の友人)の紹介で1984年5月、竹聨幇組員の帥獄峰(映画プロデュ―サー)と会った。帥は竹聨幇が米国、フィリピン、香港などに人脈を持っており、情報局が大陸向け情報活動展開に役立つと述べ、竹聨幇の中での自分の力は限られており、竹聨幇組長の陳啓礼と会うよう勧めた。汪は竹聨幇を使うことが大陸工作の突破口となると考え、帥と白に陳啓礼との会見を手配するよう求めた。

7月28日、白は新居完成の祝宴を催し、汪希苓、帥獄峰、陳啓礼の3人を引き合わせた。

 8月2日、陳啓礼は汪希苓の招きで白、帥とともに情報局招待所に赴いた。その席で、汪は副局長の胡儀敏を陳に紹介し、(食後歓談の際)竹聯幇を陳が「正しく指導し、国家の役に立たせるよう」勧めた。陳と帥は情報局の大陸工作に協力し、お役に立てれば、と願っているが、どのようにやるのか分からないので、情報局の指導を求めた。

 汪は考慮すると約束した。そして在米華僑の問題に話が及び、汪は国家に養成された人物が出国後、国家に損害を与える言行をなす者もいる、と嘆いた。汪はその年の6月、友人の夏暁華・台湾日報元社長から、江南が汪に不満を持ち、将来、彼に不利な行動を起こすおそれがあることを知らされ、これを阻止する必要があると思った。[iv]注③

そして、この場で、江南の名を「国家に害を与える人物」の一人として汪は挙げ、「国家が養成した人材であるにもかかわらず、政府のイメージをしばしば破壊する言論をなしている」と批判した。

陳啓礼は「この種の人物には教訓を与えるべきだ。私に任せてもらいたい」と述べた。汪情報局長は陳が教訓をあたえることに同意した。

 8月14日から汪の指示を受けた胡儀敏、陳虎門の手配で、陳と帥はそれぞれ鄭泰成、謝振業の偽名で情報局訓練センターに行き、4泊5日の予定で暗号、写真技術、中国情勢などについて講義を受けた。

 8月15日午後、様子を見に来た汪は陳、帥のほか胡儀敏、陳虎門、訓練センター主任の楊志祥らと昼食を共にした。食事後、陳啓礼は江南に「教訓を与える」件を再び持ち出し、江南に関する資料を要求した。汪は「教訓」については機会を見てやるようにといい、資料は後で渡すと約束した。

8月18日午後、講習終了後、陳虎門と陳啓礼は互いに連絡先を教えあった。

9月初め汪は陳、帥の米国行きを知り、胡儀敏に江南の写真や住所などの資料を情報局第5処から取り寄せさせた。数日後、汪希苓は2人の送別会の席で自ら手渡した。

9月14日、陳啓礼は妻の陳怡帆と帥獄峯を伴い、訪米の途に就き飛行場には陳虎門が見送った。陳啓礼らはロサンゼルス到着後、同地の竹聨幇分子と会い、サンフランシスコのフィシャーマンズワーフに向かい、江南をつけ狙った。

しかし、江南が外出先から帰らず、折りからの交通ストの影響で警戒厳重であったことなどから一旦あきらめ、9月22日に陳と別れて一足早く帰国した帥は陳虎門に「フィシャーマンズワーフはストライキ中で警官が多く、江南の件は以後、機会をうかがって、またやることにする」と報告した。

9月末、陳啓礼は米国から電話で帥獄峯に、江南の件は呉敦と董桂森を使って処理しなければならない、と伝えてきた。帥はこれを陳虎門に、陳虎門はさらに汪希苓に伝えた。呉敦と董桂森が米国に向かい、米国で陳、呉、董の三者が協議し、呉、董が手を下し、陳は後方に控えて首尾を見守ることで一致した。そして、決行に至るのだが、汪希苓は上層部に事件について、自分から報告しなかった、という。

要するに、江南事件は台湾政府が関係しない、汪希苓の個人レベルの犯罪ということになる。これには汪希苓も、抵抗があったらしい。検察官が「汪希苓はかつて駐米中華民国大使館駐在武官として勤務中、江南と親交を結び、その際、江南に自らの弱点を握られたため暗殺を決意した」と「汪私怨説」を展開した。しかし、汪は公判で「江南と付き合っていたのは事実だが、武官として情報収集の職務上の付き合いであり、江南に弱点を握られていたという論告は承服しがたい。証拠があるのなら出して欲しい」と反論した。

竹聨幇の陳啓礼は(1)江南を殺害する気はなく、教訓を与えるだけの目的だったが、江南が反抗的態度をとったために射殺した。(2)しかし、江南が大陸から国民党とともに台湾にやって来て苦労したことや父親が共産党員に殺されたことなどを知り、殺害を後悔している。(3)江南に「教訓を与える」気になったのは、江南が国民党の工作員でありながら“蒋経国伝”を書いて蒋総統を誹謗し、なおかつ中国にも情報を流していた裏切り者であったからだーーと主張した。注④

陳らが主張する愛国的動機について、一審、二審とも、愛国的熱情があったことを否定しなかった。しかし、江南暗殺を買って出たのは、政府が84年5月から9月までを暴力団集中取締り期間として暴力団員の自首を勧め、自首しない者に対しては厳罰をもって臨むと発表、その処罰を免れるため、まず竹聨幇組員の帥獄峯が汪希苓に接近し、陳啓礼を引き入れた、とし「処罰逃れ」が陳啓礼の基本的動機である、と認定した。

江南が具体的に汪希苓に対しどんな恨みを持っていたのか、刑事、軍事いずれの法廷でも明らかにされなかった。汪希苓に江南暗殺を命じた黒幕の存在については触れられずに終わった。事件に関与したと報じられた蒋孝武は、台北市内で記者会見し、事件との関連を否定した。注⑤

裁判の進行中、中国情報では定評がある香港誌「争鳴」は85年3月号に「江南事件の首謀者は誰か」と題する次のような記事を掲載し注目された。

江南暗殺の主犯である陳啓礼は緑島の刑務所暮らしを終え、出所後は消防器具の販売に手を染め、かつての仲間との付き合いは断っていた。

1979年に美麗島事件が起きた後、蒋孝武、蒋孝勇兄弟が陳啓礼を訪ねた。孝勇は1948年生まれ、台湾大学政治学科を卒業、国民党が経営する中興電器公司の董事長(会長)、台湾グラスファイバー公司総経理(社長)、台湾電器材料同業公会理事長。

兄弟は蒋家に出入している顧振家という男の紹介で、陳啓礼に会い、竹聨幇を発展させ、動乱発生の際は蒋家のために働くよう求めた。陳はヤクザの世界に戻る気はなかったので、即答しなかった。蒋家ではこの頃、フィリピンの小島を密かに買収し、最悪の事態に備えていた。

蒋孝武は部下の林嘉麒を通じて陳啓礼との接触を保ち、陳が子分を率いてフィリピンのその島に渡り、親衛隊として蒋家を守るよう求めた。しかし陳は渋って返事をしなかった。

こうした接触が続いているとき、竹聨幇の子分達が警察に相次いで逮捕されたため、1981年ごろ、陳は国民党高官が利用する「自由の家」に竹聨幇の子分を集め、頭目としての復帰を宣言した。「自由の家」は台北市内の高級住宅街にあり、隣には厳家淦前総統の邸宅がある。

 ヤクザが党高官専用施設を使用するのは、考えられないことだ。蒋家の紹介で可能になったことは間違いないだろう。陳啓礼が親分に復帰してから竹聨幇は構成員7万に及ぶ台湾最大の暴力団にのし上がった。

この時期、蒋総統の健康は優れず、蒋孝武が国家安全会議執行秘書の職に就いた。蒋孝武は陳啓礼を情報局の一員とした。陳は情報局の連絡記号と番号を持った正式な連絡員として登録された。陳は情報局での連絡用の姓は鄭であった。

1984年4月、陳啓礼は初めて米国を訪問した。そのとき同行したのは蒋孝勇の部下だった。5月中旬、帰国した陳に情報局長の汪希苓は映画製作者の帥獄峯を通じ、7月末に台北郊外、陽明山の麓、天母にある情報局訓練所に入るよう連絡した。

陳と帥は10日間の訓練を受けた。江南暗殺に備えた実習であった。8月中旬、陳啓礼は陽明山にある情報局招待所で開かれていた特務会議に参加、そこで汪希苓局長は蒋孝武の命令として、江南暗殺を命じた。

「劉(江南)は国民党が養成した台湾の情報工作要員であったにもかかわらず、国を裏切り、中国共産党に通じたため、制裁を与えなければならない」―。

陳啓礼は蒋家の恩顧に報い、国家に尽くすため江南殺害を決意した。この様子は、陳啓礼がテープに詳しく吹き込んでおり、その1本は米連邦局(FBI)に保管されている。陳の命令で江南を射殺した呉敦は事件直前の1984年9月に結婚しているが、結婚の保証人は蒋孝武の叔父にあたる蒋緯国である。蒋緯国は陳啓礼と付き合いがあり、陳から楽器をプレゼントされたりする仲であった。

以上が「争鳴」の大要であった。

 蒋緯国は蒋経国の異母兄弟ということになっていたが、実は国民党幹部、戴季陶が日本女性に生ませた子であった。戴は当時、孫文が東京の大森に創立した体操学校(黄埔軍官学校の前身)の教育長で、蒋介石はその庶務課長をしていた。戴の妻がやかましかったため、蒋の子とし、蒋の第2夫人姚怡琴に上海で養育させた。

蒋緯国は台湾の私立東呉大学卒業後、ドイツに留学、陸軍士官学校に学んだ後、米ケンタッキー州の第1装甲軍団に入り訓練を受け、米マックスウェル航空部隊技術学校に学んだ。

1945年に戦車連隊長に任官、陸軍装甲部隊司令、陸軍参謀大学校長、三軍大学校長、聯勤総司令、連合作戦訓練部主任を歴任後、国家安全会議秘書長に就任した。

この争鳴の記事が出たのと同じ頃、1985年3月13日、米華字紙「北美日報」は陳啓礼の「親友」に作家の李恵英女史がインタビューした記事を掲載した。この「親友」には米三大ネットワークの一つと当時いわれたCBS放送もインタビューし同月3日付けで放映した。「北美日報」の報道内容は「争鳴」と大筋は同じだが、内容はより詳細であった。取材源は、在米中国人マフィアであることをうかがわせる。

1985年1月26日号の米華字誌「美麗島」に、一通の投書が寄せられた。投書の主は1984年末に元老クラスの国民党高級幹部と会談し、次のような話を聞いた。

蒋経国は江南問題の処理についての話は聞いていたが、具体的処理について決定していなかった。決定者は蒋孝武、沈昌煥、宋楚瑜であり、機関としては外交部、国防部、華僑事務委員会、国民党海外工作会が関与していた。

宋は後に李登輝が党主席に選ばれる際、重要な役割を果たし、さらに台湾省長から総統選挙に立候補して僅差で落選した。

1983年7月、新聞局長だった頃、宋はサンフランシスコで江南と会い、江南に「蒋経国伝」出版翻意を迫ったが、江南は最後まで首を縦に振らなかった。宋は帰国後、蒋孝武に江南の態度を報告し断固たる措置を取るよう進言した。蒋孝武は江南殺害に傾いたようだ。

1984年、「呉国との単独会見記」を発表した。呉国は1949年当時、台湾省主席で蒋経国と対立して失脚、米国にその後滞在した。江南は呉が会見後、訪中するのを手助けした。また江南自身、大陸の当局者との接触が頻繁になり、84年の国慶節(10月1日)に参加しようとした。蒋孝武は最終的に暗殺を決意した。

蒋孝武は江南暗殺について蒋経国にお伺いをたてたが、蒋経国は即答せず、総統秘書長の沈昌煥と相談するように、と言うのみであった。沈はレーガン大統領が再選され、米国の親台湾派は力があるため、江南を米国で暗殺したところで、大したことにはならないだろうと踏んでいた。

しかし老練な沈は責任を一身に負うのを避けるために、秘密会議を招集して協議した。この会議には外交部の丁懋時(てい・ぼうじ、政務次長)、国防部の張国英(副部長)、僑務委員会の曾広順(委員長)、既に新聞局長から国民党文化工作会主任に転じていた宋楚瑜が出席した。宋が党を代表して出席した。

この会議で海外華僑が国民党から離反しないように、見せしめとして江南を処刑することが全員一致で決まった。

宋楚瑜は席上(1)中国はロサンゼルス・オリンピックでの中国選手の活躍ぶりや、香港の主権回復、国内の開放政策や自由化などあらゆる機会、政策、話題を利用して華僑を取り込もうとしている(2)このため国民党は受け身に立たされており、江南を殺害するのはこうした情勢を挽回し、華僑向け工作を推進する上で有益であるーと述べた。

江南の暗殺方法について、交通事故、ガス爆発など様々な殺害方法が討議されたが、「見せしめ」のために、銃殺刑を適用すべきであるとの意見が出され、最終的には在外公館の協力の下で暴力団を使って江南を銃殺することが決まった。

沈昌煥は会議の決定内容を蒋孝武に伝えるととも国家安全局顧問の1人を使って竹聨幇と連絡を取った。竹聨幇組長の陳啓礼は蒋孝武と面談を求めたが、蒋孝武はこれに応じず、陳と電話で話すにとどめた。この電話の中で、蒋孝武は江南暗殺を自分が日本を訪問し台湾にいない間に実施する必要がある、と陳に告げた。

会議に参加した各部門は直ちに暗号電文を用いて各在外工作員に江南暗殺の手配を命じた。台湾の在米大使館にあたる北米事務協調委員会の総代表である銭復(元外務次官)とサンフランシスコ、ロサンゼルスの同会事務所長は外交部から訓令された。

江南暗殺に在米華僑は激しく反発し、犯人を追及する組織的運動を展開した。米国世論も江南事件を問題視した。ニューヨーク・タイムズのフォクス・バターフィールド(同紙元北京特派員、著書「中国」で大陸の実態を活写)が12月4日付け紙面で、国民党と竹聯幇、陳啓礼と蒋孝武の結びつきを暴露し、江南暗殺の背後に蒋孝武いることを示唆した。

 レーガン政権は、事件当時、国際テロリズムに反対する運動を展開していた。江南事件はレーガンを困惑させるに十分な事件であった。

こうした展開に沈昌煥も当惑した。台湾当局は情報工作員を犠牲にして事件を収集しようとしたが、それでは収まらず、暴力団の一斉取締りを実施し、実行犯を逮捕した。

蒋孝武ら上層部の責任追及がなされていない。蒋経国も計画に積極的に参加していないが、責任を取って辞任すべきだ。

投稿者は以上の内容の文を1985年1月17日に執筆した、としている。

 蒋経国が呉国にしこりを持ち神経質になるのはなぜか。スターリング・シーグレーブによると、呉が宋美麗と密接な関係にあったからだと指摘している。注⑥

  蒋一族は1940年代、大富豪の宋一族から上海の支配権を奪回しようとしていた。宋系統の揚子公司が欧米の人道援助物資の横流ししていた事実を突き止めた蒋経国は揚子公司総支配人の孔令侃(孔祥熙の長男、宋美齢の姉、宋靄齢は孔祥熙の妻)を逮捕し、極刑を科そうとしたが、上海市長だった呉が宋美齢に連絡し、美齢は蒋介石を動かして孔を釈放させた。経国はこれを根に持って、その後も呉を目の敵にしたという。経国は呉が自分の失脚を画策していることを知り、省主席だった呉が妻と共に乗った車に危険物を仕掛けたこともあったという。

江南は蒋家内部の恥部ともいうべき部分、政治的に鋭敏な部分を暴露しようとしていた、と蒋家からみられていた可能性が濃い。宋美齢と蒋経国は対立していたが、蒋孝武と美齢とは関係良好であった。美齢は孫である孝武の総統就任を願っていた。

蒋孝武は江南事件発生前日の1984年10月15日(事件発生は米西部時間の15日、台湾時間の16日)に自民党青年部の招きで訪日した。

空港には親台湾派の大物だった、藤尾正行・自民党政調会長(その後、文相)が出迎え、下旬まで日本に滞在、その間、中曽根康弘首相とも密かに会談した。

江南暗殺事件の犯人3人組は10月20日、ダラスからタイ航空機で東京に向かい、21日、成田でノースウェスト機に乗り換え、同日午後9時過ぎ台北に帰り着いた。犯人と蒋孝武が21日、東京首都圏の空の下に居合わせた、という事実は確認されている。

前述のシーグレーブによると、犯人が台湾国防部に米国から入れた電話は米国家安全保障局のスパイ衛星に盗聴され、ワシントンは事件の全貌と太平洋両岸の関係者全員の氏名をつかんでいた、というから、犯人が成田国際空港から東京にいる蒋孝武に電話し、米側に盗聴されていたとしても不思議はない。注⑦

米国は1985年1月22日、真相解明のため捜査官3人を台湾へ派遣した。汪希苓・情報局長と胡儀敏・同副局長の逮捕を公表した。2月6日、ケネディ、クランストン、ベル各上院議員らは、陳啓礼、呉敦の引き渡しを要求する決議案を上院に提出した。

 ケネディらは国民党の恐怖政治を非難し、米国で裁判を行うよう求めた。2月7日、米下院外交委員会のアジア太平洋小委員会は陳啓礼、呉敦の引き渡しを要求する決議案を全会一致で可決した。この決議案は4月16日、下院で387対2の圧倒的多数で可決された。

2 中央日報 1985年4月20日

3 台湾日報に江南が在職中の上司で、国民党中央党部文工会の要請を受けて、1983年12月米国に渡り、江南に「蒋経国伝」の内容変更を求めた。江南は台湾当局が代償として8000ドル支払うことを交換条件として求めた。夏は汪情報局長に伝達、承諾を取り付けた。

4 中央日報1985年2月28日、同3月22日、同5月11日。 中央公論 1985年8月号 磯野新「三重スパイ(?)江南暗殺の怪」   P324

5 台湾独立建国聯盟発行「台湾青年」1993年6月号 、P13。

同誌は「江南暗殺事件は蒋経国が命令」と題する以下の記事を掲載し た。 江南(劉宜良)の暗殺事件における、未亡人の法定代理人である謝長廷弁護士・立法委員は4月9日、江南は「呉国伝」の執筆中に、蒋介石と蒋経国の一族の機密を発見し、それを立証しようとして国民党当局に知られ、口封じに暗殺されたもので、蒋経国が命令したと語った。

 ちなみに、事件の関係者の一人で当時、国防部情報局の部長であった「陳虎門」大佐は、入獄して釈放された後、1992年10月に名前を「陳奕樵」に変え、翌年1月に陸軍少将に昇進している。つまり陳虎門にとり、江南の殺害は蒋経国総統の命令による任務遂行であった。

 香港誌「亜洲週刊」2000年7月10日―16日によると(P19)、陳虎門は、釈放後、国家安全局の東南アジア地区の顧問をしていたが、2000年7月1日、正式に情報治安の世界から引退することを決定した。陳虎門は江南事件後、タイで情報工作を続けた。陳水扁新政権成立が、早期退職の動機らしい。

6 「華僑王国」P290

7 同上 P305

2 蒋家の歴史
蒋孝武の祖父、蒋介石は1887年10月31日、浙江省奉化県渓口鎮で生まれた。介石は字(あざな)で、正式には中正という。 日清(甲午)戦争で、清が日本に敗れた1895年、蒋介石は当時、数え年で9歳。1894年12月に祖父・玉表が世を去り、翌年7月には父、粛庵も54歳で死去した。

母・王采玉と蒋介石の二人だけの一家は、清朝の不良官吏や地方ボスに目をつけられ、財産を簒奪された。渓口の旧家、地主で塩舗(塩販売)を営む蒋家は没落した。母は商店街の一角に店を出し蒋介石の学費を捻出した。

 13歳で故郷を離れ、母の郷里である嵊県葛渓の私塾に学んだ後、いくつかの私塾、学校を転々とし、1906年4月、19歳で日本へ留学した。大国ロシアを破った日本は憂国の青年にとって、あこがれの国。その日本で革命家、陳其美と知り合い革命運動に入り、その冬いったん帰国した。

 翌1907年、中国初の軍官学校、保定軍官学校に入り張群(後に蒋介石の右腕となった総統府資政)と知りあう。1908年に軍事留学生として東京の振武学校(清朝派遣軍事留学生専門の陸軍予備学校)に入学、中国革命同盟会に加盟。1910年に東京で孫文と会い、同年12月、新潟県高田(上越市)の野砲兵第19連隊に入隊した。この年の3月18日、蒋経国が誕生した。日韓併合は8月に行われている。

 1911年、長期休暇でいったん上海に戻り、10月はじめ高田に帰って間もなく辛亥革命が勃発、急遽帰国して杭州の武装蜂起に参加。高田から上海に着いたのは10月30日、24歳の誕生日の前日であった。上海で革命家、陳其美から指示を受け、杭州に向かい、制圧後、上海に戻った。1912年に中華民国が成立し、初代大総統に孫文が就任。蒋介石は再び訪日。

 翌年、さらに翌々年と蒋介石は2度にわたり上海で袁世凱(孫文の後を継いだ大総統)打倒の軍事行動を指揮した。が、2度とも失敗。1914年第1次世界大戦勃発。日本はこの機に乗じて1915年、21カ条要求を中国に突きつけ、反日機運が大陸にみなぎる。

 1917年、ロシア10月革命。この年、孫文は広州で中華民国軍政府を樹立した。蒋介石は孫文の命令で党務、軍務を統轄した。その後、黄埔軍官学校初代校長を経て、1926年国民革命軍総司令となる。しかし翌27年には下野し、日本を訪れ、田中義一首相と会談し、日本の対華侵略について認識を深める。さらに、この年、蒋介石は宋美齢と結婚している。

 ところで蒋介石は生涯4人の女性と結ばれている。注⑧

 蒋経国の実母、毛福梅とは1901年結婚。中国流の数え年で蒋介石が15、毛福梅が18。美人の誉れ高い姉さん女房だった。

 毛福梅は渓口の実家で、蒋介石の母の世話をしながら長男の蒋経国を育てた。蒋介石は宋美齢と結婚するまでに姚怡琴、陳潔如という二人の上海出身の芸妓を落籍し、妾にしている。次男とされる蒋緯国は前述したように事情あって、蒋が引き取り姚怡琴に養育させた。

 姚怡琴は1969年に台中で病死した。一方、陳潔如は1920年代初期に蒋介石と結ばれたが、蒋介石が宋美齢と結婚するに当たり、上海の「地下市長」杜月笙の世話で渡米、サンフランシスコ郊外に居住後、香港に移り、1973年、香港で客死した。

 中国国民党は1919年、共産党はその2年後、1921年設立された。水と油のごとく相容れなかった両党だが、共通点も少なくなかった。両者は1924年に第1次、国共合作を成立させたが、27年に蒋介石が反共クーデターを起こし、敵対関係に転じた。

 1928年、蒋介石は国民革命軍総司令に復職、全国統一に成功し国民政府主席に就任した。1932年、満州国が成立し、日本では5・15事件が起きた。首相・犬養毅は孫文の友人でもあり日中両国共存の道を模索したが、志半ばで、海軍青年将校によって暗殺された。

 1933年、日本は国際連盟を脱退した。蒋介石の国際社会での多数派工作が功を奏し、日本は孤立し、英米との関係は悪化の一途をたどった。

 1937年の盧(廬)溝橋事件で日中両国は全面戦争へ突入。南京が陥落し国民政府は重慶に遷都した。蒋介石が張学良に監禁される西安事件(1936年12月)をきっかけに第2次国共合作が成立。1938年、対日和平派の汪兆銘が重慶を脱出した。

 蒋経国は孫文が死去した1925年に、父の命令でソ連に留学。モスクワの孫逸仙大学に入学、政治教育を受け、1928年秋に卒業、レニングラードの紅軍軍政学校に進み、1930年6月、同校を卒業。そしてモスクワ郊外の発電機工場や農村で働いた。中国共産党代表で、コミンテルン執行委員の王明(陳紹禹)が、蒋経国のシベリア送りを主張したため、1932年にアルタイ山脈の鉱山へ鉱夫として送り込まれた。王明はモスクワに党代表として、滞在し、蒋介石の反共政策を憎悪していた。

スターリンは蒋経国を人質としてシベリアに送り、機械製造工場の技師として働かせた。1934年には4000人の労働者を擁する作業所の所長に蒋経国はなった。その作業所で蒋経国は1935年3月、ロシア女性ファンニーナ(蒋方良)と結婚した。この年の12月、長男、蒋孝文が生まれ、翌36年には娘、蒋孝璋が生まれた。

蒋経国がソ連を離れるのは1937年3月、27歳になっていた。ソ連滞在は12年半にわたった。第2次国共合作の成立が蒋経国の帰国を可能にした、といえるだろう。

1939年に第2次世界大戦が始まり、翌40年には日独伊三国同盟が成る。日本占領下の南京では汪兆銘が国民政府を名乗った。1941年、日米開戦。翌42年、蒋介石は連合軍中国戦区最高統帥となった。

蒋介石と米国の関系に不調の兆しが表れた。問題は中国共産党であった。蒋介石の目から見て、米国の認識は甘く、中共の民族主義政党の側面を過大評価している。

一方、米国からすれば、蒋介石は日本との決戦を避け、共産党攻撃に主力を割き、米国の援助を浪費する他国依存型の指導者と映った。蒋介石は日本軍を、内陸部深く誘い込み、兵力の消耗を待つ戦術を採用した。日本の敗戦は時間の問題だと思っていた。

蒋経国は1937年に帰国すると、江西省で青年問題に取り組み、1943年に江西省政府委員、1945年に国民党第6回全国代表大会江西省代表に指名された。同年6月から7月にかけて国民政府代表団員として訪ソ、中ソ友好同盟条約を締結した。

1946年、共産党と国民党の内戦が始まり、1949年、大陸は共産党の手に落ちた。

蒋経国は国防部総政治部主任に任命され、政治工作を担当した。1965年国防部長に就任するまでの間、中国青年反共救国団主任として、青年運動に力を入れ、また特務組織の再建にも当たった。69年には国防部長から行政院副院長に昇格した。同時に、国際経済合作発展委員会主任を兼ね、経済問題にも取り組み老齢の蒋介石を助けた。72年に行政院長に昇格。閣僚や台湾省主席、台北市長のポストに台湾省出身者計8人を起用、台湾人重視の姿勢を示した。

中国の国連加盟を前に、1971年、中華民国は国連を脱退、72年には日本と外交関係を断絶した。ベトナム戦争での米国の敗北が決定的となった75年4月、台北で蒋介石は失意のうちに87年の生涯を閉じた。

 蒋経国は蒋介石の後を継いで75年に国民党主席、78年、総統に就任した。蒋経国はソ連から帰国後、妻ファンニーナとの間に、次男、孝武、三男孝勇が生まれた。

蒋孝武は1945年4月25日に生まれた。原籍は浙江省奉化県である。成績不良で落第を経験しながらも何とか高校を卒業、予備役に入り、軍事訓練を受けた。1966年、21歳でドイツのミュンヘン政治学院に留学した。卒業後、米国に一時滞在、25歳で帰国した後、中国文化学院中米関系研究所で研究活動に従事。

 その傍ら、財界、党、政府の活動にも参加。国民党中央政策委員会専門委員、国軍退役将兵補導委員会参事、中央放送局主任、中国放送公司総経理(社長)、中華民国放送電視(テレビ)事業協会理事長などの職を歴任した。党の文化宣伝、組織工作などを経験した後、上記の民間放送事業に携わり、江南事件後、1986年2月、外交官でもないのに台湾商務代表団副代表としてシンガポールに転出した。

 ドイツ留学中にスイス人女性と知り合い、米国で結婚、蒋友松、蒋友蘭の一男、一女をもうけた。後に、離婚し、シンガポールで台湾人女性と再婚。兄の蒋孝文が不治の病いを患い廃人同様になったため、後継者として、蒋孝武は幼いときから周囲の期待を集めていたらしい。

 台湾警備総司令部によって台湾での出版が差し止められ香港の廣角鏡出版社によって1986年出版された「蒋家三代のロマンス」(台湾生根叢書)によると、蒋介石は蒋孝武が結婚するに当たり、1969年12月9日、次の手紙を送った。

 わが孫、武よ。お前の手紙、長い英文の詩、すべて受け取った。うれしい限りだ。祖母は病気後、右手が不自由で手紙をしたためることができない。近頃日増しによくなり心配しないように。お前たちが外国で結婚するので、(私は)出席できない。結婚したら早く帰国し、顔を見せてほしい。お前の母が米国に行き、このお祝いを届ける。本当におめでとう。祖父母より。

 細面の夫人は夫ともに帰国したが、公の場に姿を現すことはほとんどなかった。1976年ごろ、蒋孝武は離婚し、夫人は台湾を去った。「蒋家三代のロマン」によると、蒋孝武はシンガポールで再婚する前、フィリピンの著名実業家、鄭綿綿と秘密結婚をした、という。

 1984年4月2日、二人はルソン島で挙式したが、花婿が再婚、花嫁が初婚ということで、近親者のみに披露ということになったらしい。花嫁は当時20代ながら父親からみっちりビジネスの手ほどきを受け、東南アジア有数のやり手実業家として知られる。鄭綿綿は、かつて誘拐されたことがあった。被害者側の鄭家は腕利きのガンマンを雇い誘拐グループを逆襲し、十数人を射殺して救出した。

 鄭家はフィリピン有数の華人財閥で、アキノ大統領を送り出したコファンコ財閥とも親しい。政情不安のフィリピンにあって、政治的後ろ盾を求めて蒋家との縁組を承諾したのかもしれない。秘密とはいえ、挙式2年もたたずに破談になるのは、江南事件によって、蒋孝武の運命が暗転したためか。

 蒋孝武はシンガポールに赴任すると、蔡恵媚という28歳の台湾生まれの女性と結婚した。蔡が18歳のとき、友人と円山クラブの喫茶室で友人と談話しているのを蒋孝武が見初めたという。蔡はアメリカン・スクールに学び、米国留学を希望したがかなわず、結局、10年にわたる蒋孝武のプロポーズを受け入れ結婚したらしいが、蔡家の側にも蒋家を利用した節がある。

 1979年、軍が「佳山プロジェクト」という開発計画を進めた。蔡家は蒋孝武を利用して軍事機密扱いの内容を入手、外部の者に許認可権を持っていることを匂わせて5000万元という大金を巻き上げた、という疑惑である。台湾の一部マスコミによって報じられた。蔡恵媚自身、蒋孝武の関係を利用して現地への「通行証」を入手したという。このスキャンダルが明るみに出たこともあって、急遽、結婚ということになったのかもしれない。1986年4月11日、シンガポールのシャングリラ・ホテルで二人は結婚した。

 長身で顔の彫りが深く、中国人離れした風貌。射撃が好きで、竹聯幇とは江南事件の前から付き合いがあった、という。竹聯幇は蒋孝武の歓心を買おうとして美人スターを世話したのが、両者の関系が緊密になるきっかけという説もあるが、テレビ業界の有力者でもあった蒋孝武がスターと懇ろの関係になるのに、竹聯幇の世話など必要としなかったかもしれない。蒋孝武の女性関係が前妻との不仲になる一因であったらしい。

●  1995年02月07日

 上海租界の深く暗い世界
 ジャズが鳴り、艶やかなチャイナドレスが光るモダンな歓楽街だけがオールド・シャンハイのすべてなのだろうか。旧フランス租界のダスカ(大世界)で、胎内巡りを思わせる細く暗い階段を上っていると突然不安に襲われることがある。魔都と言われた上海のもうひとつの顔を垣間見ることは、今では決してできないはずなのに…

 かつて上海には租界(外国人が警察・行政を管理するエリア)があった。そこは欧米列強の中国植民地支配の拠点だった。アヘン戦争後の1846年に置かれたイギリス租界が最初だが、このとき開港された五港の中で上海は商工業港としての実力をいかんなく発揮しはじめる。

 開港後、華僑のふるさと福建・広東からの航路が活発になり、船員、港湾労働者が流入し、一部の流亡者は無頼の徒として上海に居を定める。その後海外のチャイナタウン成立過程と同様、移民の郷土単位の互助組織、同郷会館が設けられる。福建、広東人の商人がそれら同郷会館の理事を務め、各地からの流民は理事に従属し郷土グループ:幇(パン)を形成した。当時こうした幇は、地元上海グループを含めて七党あったという。

 幇の複合体である三合会(さんごうかい)系の秘密結社小刀会(しょうとうかい)は、後に長江沿いに進出した哥老会(かろうかい)と合流して紅幇(ほんぱん)となるが、1853年には南京の太平天国軍に呼応して上海各地で蜂起した。小刀会は旧城内に立てこもって清軍に抗戦。

 今も小刀会の名残を留めるヨ園北の点春堂は当時作戦本部だった。その間武器弾薬食料は租界から供給されたという。清軍は租界に攻め入ろうとしたが、阻止しようとする英米軍と小競り合いになり、このとき幇は英米軍側に加担した。

 太平天国の乱で故郷を追われた人々は上海の、特に租界に流入し、その数は1854年には2万人を越えた。従来租界内の中国人の土地取得、居住は禁止されていたが、こうした人口圧力によって1855年から中国人の租界内居住が認められ、租界人口、ひいては上海全体の人口増大につながった。

 このようにしてふくれあがった上海の租界は、共同租界、フランス租界、華界をあわせて「三界四方」と呼ばれた。現在のメインストリート南京路は共同租界の、准海路はフランス租界の中心街である。三界は各エリアごとにそれぞれ異なる行政警察機構を持っていたから、端境は取り締まりが及びにくく、流氓たちの格好の活動場所となっていた。中でも三界の接する延安東路付近は無政府状態に陥っていたという。

 紅幇と並ぶ上海の代表的秘密結社青幇の根拠地も、地理的にいくつもの無政府地帯を含むフランス租界にあった。近年「黒社会」と表現される幇に属する者は、解放前の上海300万人口の四分の一に及んだという。全き幇の世界である上海では、例えば青幇大亨(大親分)の黄金栄、杜月笙、張嘯林らは老若男女国籍を問わず誰もが知る超有名人だった。

 黄金栄はフランス租界の警察の密偵から警察署長にまで出世し、この間特権を利用して幇会三宝(烟、賭、娼)に勤しんだ。現在上海師範大学に隣接する桂林公園は、もと黄家公園と言い、黄が父母の墓碑を築いた花園である。その広さと豪華さは当時の幇の力量をうかがわせるに充分なものであろう。

 杜月笙は浦東生まれで、果物屋で働きながら青幇に加入。黄金栄門下で頭角を現した。国民党支援で重慶退避に同道した杜だが、上海では寧海西路の公館の他、東湖路の東湖賓館や戦直後に香港に亡命するまで住まった錦江飯店などが縁の場所である。

 その他、旧上海博物館は元々1929年に杜が開業した中匯銀行のビルだった。中匯銀行は幇会頭目が興した初めての近代的銀行組織で、フランス租界内のアヘン業者、賭博業者の資金を吸い上げた。1934年完成の中匯銀行ビルは、当時上海でも有数の高層建築として名高かった。

 張嘯林は浙江生まれで、のちに杭州に出て流氓と交わり、上海で青幇の一員となった。禁烟運動で杜と反目するまで後述する大公司の経営者のひとりだったが、杜が重慶に居る間に日本と結んで上海に君臨しようとし、国民党政府の不興を買って暗殺された。

 前記の幇会三宝の中でも組織を支えた大資金源は烟(アヘン)だった。金、杜、張の三人は1925年頃結集して大公司を設立し、アヘン市場を独占した。当時は租界各地に「燕子窩」と呼ばれるアヘン窟があったが、特に金陵東路、寧海東路周辺は密集地帯だった。

 アヘン窟を取り締まろうにも、華界では軍閥警察、フランス租界ではフランス警察が全面的にバックアップしていたのだから手が付けられないわけである。特に1920年代から1930年代にかけて杜が理事長を務めた頃の大公司は、全中国のアヘン市場を支配していた。当時大公司のアヘン取り扱い量は年間600トンから2000トンで、租界、公司、軍閥三者の手数料は一億元を越えたという。

 三界からは外れるが、旧日本人街についても触れておこう。バンド(外灘)からガーデンブリッジ(外白渡橋)を渡りブロードウェイ・マンション(上海大廈)の脇を抜けて西に二本目の四川北路は、虹口日本人居住区のメインストリートだった。

 当時は魯迅行きつけの内山書店や歌舞伎座、中国人作家たちのたまり場だったABC喫茶店やクンフェイ珈琲店が並び、更に北上した虹口公園の南には上海神社があった。日本人倶楽部は南に戻った共同租界内の呉淞路にあり、交差する乍浦路の中ほどには東本願寺。寺址も今では塀の支柱にわずかな面影を留めるだけである。

 以上のような租界を中心とした上海が、赤い星の出現とともに眠りについて数十年が経つ。しかし魔都の実態であった秘密結社が、今をときめく「新租界」浦東に復活しないと考えることはむしろ難しく、杜月笙直系の子孫はまたも浦東(フートン)で生まれているかもしれない。

“上海租界の深く暗い世界” から

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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