「46」 思想家アーサー・ケストラーの「信仰(宗教)と理性(科学)は、なぜ分けられるようになったか」論についての言及している文章。「37」「39」の続き。副島隆彦

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副島隆彦です。 今日は、2007年5月31日です。

 希有の思想家であるアーサー・ケストラーの「宗教と科学をなぜ分けたのか論」の解説が、以下に、簡略にしてあります。このケストラー論を書いてネットに載せた人物も、なかなか優れた理解力だと思います。こういう人ほど、ネット隠者(いんじゃ)として、自分の姓名、素性を明らかにしない。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

第2部 アーサー・ケストラー
第3章 科学思想家としての評価

 ケストラーの科学思想家としての活動は主に2つに分けることが出来る。それは即ち、「科学史家」としての時期、そして「科学思想家」としての時期である。

 それではまず、「科学史家」としての活動であるが、科学史の著作には広く定評がある。この頃の著作の代表的なものは、宇宙観の科学史をテーマにした「夢遊病者たち(“The Sleepwalkers”,1959) スリープウォーカー 」であろう。この書の序文に、ケストラーがこの書を執筆するに当たっての問題意識として以下の様に書いている。

 「第一に、科学と宗教は2本のより糸であるといいたい。

  この2つは、ピタゴラス派兄弟団のなかでは、神秘主義と学 者を、不可分な一つのものにしていたが、時代とともに分裂や 結合を繰り返した。

  もつれて結節を作ったりどこまでも平行して進むだけの関係 を続けたりしながら、最後には、今日見られるように、『信仰 と理性という〔階段のない〕二階屋』という礼儀正しくはある が、救われようのないものになってしまった。

  今日では、科学の側でも宗教の側でも、それぞれを象徴する ドグマに化してしまい、両者が共通の源から霊感を得ていた事 実が見失われるにいたった。

  過去における宇宙観進化の研究は、この観点からすると、こ ういう苦境から抜け出すための出発点がどのようなものとして 考えられなければならないかを、明らかにしてくれるとおもわ れる」

  「わたしは、かなりの期間にわたって、発見の心理学的過程  に 関心をいだいてきた。発見は人間の想像力の極めて簡明  な現れである。

   しかし真理は、誰かに見いだされ、その結果それが胸がは  りさけるくらい明白になるまでは、ひとを逆に盲にしてお   く」・・・・

   「科学の進歩は、ふつう、上を指し示した一直線のきれい  な合理的な歩みを進めてきたように考えられている。しかし  、実際には、それはジグザグ行進をしながら今日に及んだの  で、時には政治思想の進化よりもひどい場面があった。

   特に宇宙論史を見ると、それは誇張ではなく、集団的強迫  観念と統制的精神分裂症の気味があったといえなくはない。  実際、極めて重要な個別的発見の幾つかは、電子計算機的頭  脳を想像させるよりはむしろ、夢遊病者の行動を思わせるも  のであった」

 この様にしてケストラーは「革命的」と表されている科学者が如何に「革命」以前の科学の概念の枠組みに拘束されていたか、を原典を詳細に検証する事によって明らかにしている。

 従来の科学史(かがくし)のように「革命的」科学者というものを理想化・英雄視せずに、具体的な生身の人間として捉え、彼らの科学的創造に迫ろうとしているのだ。

 さらにケストラーは、ケプラーやコペルニクスを通じて、科学の発展には危機や推移の時期があって、しばしば発展の流れに劇的な変化が起こること、そして変化の後には概して新しい路線にそう安定化や過度の専門科に堕ちると指摘する。

 トーマス・クーンの「科学革命の構造」ほどは展開され理論化されてはいないものの、ここに「パラダイム」の見解と同一のものを見ることが出来る。

 なお、「夢遊病者たち」は「科学革命の構造」の参考文献の一つに数えられている。

 こういった科学史の著作に関しては「素人」故の着眼点に高い評価が与えられている様だ。「今日の科学哲学の専門家には十代な過誤が見られるが、ケストラーはそうした過誤から免れているアマチュアの一人だ」と科学哲学者ファイヤアーベントは評価する。

 人間の創造活動の源泉を究明するというこの書のもう一つのテーマは1968年に刊行された「創造活動の理論」へと受け継がれて行く。この頃が「科学思想家」への転換期であろう。

 「創造活動の理論」の中では、人間が「突然に」何か新しいことをひらめくのは何故かということを論じている。例えば科学者は、ありふれた事実と一般的自然法則との結びつきを「突然に(直観的に)」発見する。時としてその「結びつき」は既存の理論や通念と矛盾もしくは相反したものとなる場合もある。

 ケストラーはこの様な創造的変革または独創性に関する理論的説明として、「双連性(bisociation)」という概念を創出する。

 双連性とは、ユーモア、思考、芸術および科学における独創的創造といった一見何も関係ないような様々なプロセスの根底にケストラーが見い出した構造である。

 ケストラーは、その各々について一貫性を持っているが、伝統的には相互にそれぞれ退け合うとされてきた2つの準拠枠の中に1つの状況または概念を認め、この2つの準拠枠の対立を克服して新たな統合を達成するところに、新しさが生まれ、発見がおこなわれるのだと言う。

 つまり、これまで全く関連の無かった2つの認識の枠組みが、新しい平面で融合して1つになること、これこそが創造活動の本質であると考えたのである。

 このようなケストラーの「創造的変革」や「独創性」といった主張は、行動主義の基盤を否定する。

 そして、行動主義批判はその依って立つところの還元主義批判へと繋がってゆく。「科学思想・科学方法論」の分野での最も充実した著作は「機械の中の幽霊」であろう。内容については本稿第1部第3章を中心に詳述したので省略する。この著作の中でに述べられているホロンの概念の根底にはあるのは有機体的世界観である。

 ケストラーはこの視点から行動主義、新ダーウィニズム、そして還元主義(かんげんしゅぎ、reductionism リダクショニズム、全体を細かい要素にどんどん小さく分けて行くこと。副島隆彦九注記)を批判する。

 このケストラーの主張は、1968年の「アルプバッハ・シンポジウム」に結実した。

 これはケストラーの呼びかけでアルプバッハに集まった15人の著名な科学者たちが、還元主義に基づく「機械論的世界観」を論駁(ろんばく)し、人間行動に於ける人間価値を容れ得る新しい展望を持つ科学の総合をめざして論議し合ったものである。
この中には経済学者F.A.ハイエクも含まれる。

 ケストラーのこの主張は科学の他の領域からの研究者の動向と相まって、還元主義的世界観に対する疑念を抱いた新しい科学の潮流の一つを作り上げたのだ。

 しかしまだ、依然として正統科学は還元主義である。ケストラーはこれをユニークなユーモアで指摘する。「機械の中の幽霊(ゴースト・イン・ザ・シェル)」の巻末に付された「死馬に鞭うつなということについて」というエッセイがそれである。
それはこの様な内容だ。

  「ある秘密結社が陰謀の網の目を幾重にもはりめぐらせてい  る。その秘密結社とはSPCDHだ。SPCDHは
  ”The  Society for the Prevention of Cruelty Dead
   Horses” (「死馬への鞭うちを禁止する協会」)の頭文字   を取ったものである。

 ケストラーによるとこの協会の活動内容は、学問研究の場に於いて、死馬を鞭うつような真似をやめ、古くからある良識を守るよう我々に促すというものである。

 しかしそれは表向きのものであって、本当の狙いは、混乱した社会やモラルの低下をもたらすと我々が考えている「究極的原因」や理由などは、そのほとんどがもう既に消えて無くなっているか、適切な処置が講じられて除去されているのだと我々を言いくるめてしまうことにある。

 この協会の連中の言うことには、その様なことをいまだくどくど論議するのは、死馬に鞭打つような野蛮な行為である。

 ケストラーは「死馬に鞭打つな」という批判に対し、死馬は死んでいないどころかまだ元気でピンピンしていると反駁する。
 「死馬」とはこの場合、明らかに「行動主義」である。

 さてこのケストラーの「ホロン」概念であるが、ここで問題とすべきはその有効性であろう。こういった概念を導入することによりどの様な新境地が開かれるのであろうか。単なる現象記述(それはそれで意味があるだろうが)に留まってはいないだろうか。

 単にINT傾向とSA傾向の2つの相反する傾向の両極性を説くだけでは森羅万象にもっともらしい説明を加えることが出来るだけではないのだろうか。

  この批判に答えるためには、そもそもホロン概念がどの様な問題の解決を図って考え出されたかが重要である。それには「社会思想」としての評価を考えに入れるべきであろう。それは次章で述べることにする。

 さらにケストラーの著作はESP(イー・エス・ピー、超能力) などの「神秘的」領域へと踏み込むことになる。

 1972年刊行の「偶然の本質」のなかでケストラーは、最近の超心理学の発達を取り上げ、これが今世紀の素粒子物理学の発展とある面で奇妙に符合していることを指摘する。そして、この両者が相補って現代の新しい知的状況を作り出していると述べる。

 普通「偶然の一致」として無視されてしまうことをユングの”Synchronisity”の概念を用いながらシステム論的に探ろうとしている。これは前世紀に確立した還元主義的な現代の主流科学が硬直し、偏狭になっており、如何に最先端の科学とズレてしまったのかを主張しようとしているのだ。この領域でのケストラーへの評価は賛否別れるところであろう。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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