「20」 昭和初期の政治家へのテロ暗殺集団であった血盟団を率いた井上日召(いのうえにっしょう)の貴重な独白文章がネット上にあったので載せます。井上日召は、どうも今、考えても怪しい。何かもっとこの男を操(あやつ)った裏があっただろう。

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副島隆彦です。 今日は、2006年7月31日です。
以下の文章を、私は、2年以上も、ずっと気になっていて、折に触れ読み返していました。どうもまだ腑に落ちません。
この井上日召という「血盟団」の組織者で、右翼テロの大物は、どうも裏があって、この男は、共鳴した男たちが、テロリストとなって死んでいったのに、自分だけは戦後も、のうのうと生きながらえています。どうもまだ謎が解けません。副島隆彦記

(転載貼り付け始め)

http://utusemi-web.hp.infoseek.co.jp/page56.htm

「血盟団秘話」

井上日召

 私は七歳の時にお盆の秋草を採っていて、「桔梗は紫で女郎花(おみなえし)は黄色い、なぜだろう」ということに疑問をおこして以来三十年、あらゆる天地間の現象に懐疑をいだき、

無限の闇黒世界を彷徨した。人生の真とは何か、善とは何か、これの解決に死以上の難行苦行をつづけたのであった。

 大正十年の春、中国の革命運動から、ほとんど日本に亡命するような恰好で帰国し、郷里の群馬県川場村の三徳庵で修行中、十三年の五月、はからずも開悟(かいご)の機縁に恵まれ、三十年の疑問を一瞬に氷釈(ひょうしゃく)しえたのである。

 その年の七月、私は天の声をきいた。「九月五日を期して東南に向かって進め」というのである。これが私の日本革新運動に起ち上がる、第一歩だ。三徳庵から東南は、東京に当る。

 浅草妙教寺に野口日主上人という、豪傑僧がいた。頭山満翁や大連の金子雪斎翁と肝胆相照らした仲で、かねて国家革新の志をもっていた。ある日、野口上人を訪問すると、雪斎翁も上京し

て、期せずして三人の旧知が一堂に会した。その時、いろいろな話の後で、「時に井上君、かねての案をこのさい実行したいが、喋ったり書いたり、気運をつくるほうは、我々老人が当るから、君はまげて実施を引き受けてもらいたい」という。

 両翁は手軽に言うが、その内容は大変なのだ。かねての案というのは、日主上人と雪斎翁が長い間練り上げた、国家改造の具体案で、純然たる非合法である。その中に、日本の支配階級ならびに準支配階級、六千人の殺戮なんという、すさまじい項目があるのだ。

 私は二人に見込まれて、いやおうなく承諾したが、実は非合法には反対だった。私は当時、同志倍加運動で革新ができると信じていた。それはつまり五人の同志が毎月一人ずつの同志を獲得し、新しい同志がまた毎月一人ずつの同志を獲得するという行き方で、無血革命を成就しようとするものだった。しかし、この考えは甘かった。

 それはともかく、私は革新を引き受けたのである。引き受けた以上は実行しなければならぬ。さて、何から始めるか? ついでに言っておくが、国家革新というと、誰でも、その源流として、 北一輝や大川周明や満川亀太郎らを思い出す。しかし、それらの錦旗(きんき)革命派の他に、金子、野口両翁の革新計画があったのだ。それを世間の人は知っていない。金子翁の振東学舎の幹部だた、本間憲一郎すらもこれを知らなかった。

 さて、革新だ革命だと騒いでみても、決してできるものではない。根本は人だ、人間だ。私はまず私の計画を実行するに堪える人間から造ってゆかねばだめだと思った。昭和の初めに私は
茨城の大洗(おおあらい)に近い、立正護国堂を本拠として、青年の練成に余念がなかった。集った者は、主として茨城の青年で、古内栄司、菱沼五郎、小沼正ら二十余名であった。

 これに海軍の藤井斎、古賀清志らが合流し、後には安岡正篤や大川周明、西田税らによって養成された陸海軍将校や民間青年が、みんな周囲に集まって来た。安岡や大川や西田はさかんに革新を説いて、青年を煽動するけれども、決して先頭に立ってやろうとはしない。そこで和尚ならやるだろうというので、みんな寄って来たわけである。

昭和五年に時勢の急迫をひしひしと感じ、護国堂を去って東京に出た。翌六年の十月事件には、民間側の実行を引き受けたが、軍人側が不発に終わって、うやむやのうちにけりがついた。当局は私を臭いとにらんで追及が厳しくなった。当時私は小石川の今泉定助翁の屋敷にやっかいになっていたが、刑事が踏み込む一瞬前に、かねて用意の海軍大佐の正装で、自動車を駆って渋谷の頭山邸に至り、一週間ほどかくまってもらった。

十月事件の頃には、私の掌握している同志が、陸海軍の若いところと民間で、四十数名あった。

これらの連中が、十月事件のだらしない体たらくを見て、なまじりを決して起ち上がった。

「なんだ、あいつらは。革新だ、国家のためだといいながら、あるのは名利の念だけじゃないか。天下国家を売り物にする連中は、もはや相手にしない。革新は俺たちがやる」

 何しろさんざん苦悶したあげく、死のうと決めた連中である。何も慾がない。生きていることがつまらない。どうして死のうかと、そればかり考えている者どもだから堪まらない。
おりから上海事変が起こったけれども、陸海軍の連中は、誰一人出征しようと言わない。

「死なばもろともと誓った同志だ。成敗を度外視して、一挙に蹶起(けっき)しよう」 と提案した。しかし、私は、「馬鹿なことを言うな。お前たち軍人が出征しないでどうするか。お前たちは前線で死ね、国内のことはおれ達民間が引き受けた」

 こういって、なだめすかして、征途につかした。昭和七年の下旬に、私は何となく体の調子が悪く、一ヵ月の予定で、田舎へ静養旅行に出かけた。ちょうど茨城県を廻っているときに、突然
ただならなぬ異変を直感した。急遽帰京して、代々木の隠れ家へ着いてみると、古賀清志

(五・一五、海軍中尉)と四元義隆(帝大生、元の安岡門下)の目がギラギラ光っている。これ

より先、私は十月事件で頭山邸に遁れ、その後、代々木の権藤成卿氏の長屋に潜んでいたのである。

 さっそく両人を別室に呼んで、「きさまたち、何か決心しているな」と問いつめると、はたして私の留守中に、日本の最高指導者二十名を暗殺する、テロ計画を立て、実行寸前であることが
わかった。ここに至って私も、もはや何をか言いわんやで、一蓮托生、二月に行われる総選挙期間を、実行期間として同意を与えていた。

 そうして一方、実施者の人選にとりかかった。相手は西園寺、牧野、団、井上ら政財界の巨頭二十人として、これを十名で担当する。ただし一人一殺で、各人に第一目標、第二目標を与え、同志相互の横の連絡はいっさい厳禁、誰が誰を狙っているのか、知っているのは私と本人だけとした。

 しかも武器として使うとピストルは、決行前日まで渡さないことにした。私は四十数名の中から、十名の最精鋭を選定し、右の次第を堅く申し渡した。

 さて、このピストルについて話がある。これはかねてかくあるべしと予期していたので、前年秋、上海の空中戦で死んだ、藤井少佐が大連へ往復飛行を試みたときに、大連で購入を命じたものである。海軍の飛行機に積んで、本人が持って来るのだから、税関もクソもない。それを箱に入れて浜勇治(五・一五、海軍中尉)の家の、玄関の下を掘って、埋めておいたものだ。

 いっさいが完了したので、私は薬を飲んで寝ながら、吉報を待っていた。これより先に、支那に行った者に手紙を託して、南京から内地に向けてその手紙を出してもらった。能率のいい日本の特高は、ちゃんと手紙を検閲して、日召はどこか支那をうろついていると思っているだろう。万事うまくゆくはずである。

 すると、はたして二月九日の夜、小沼正が蔵相井上準之助をたおしたことが、翌朝大場海軍少尉によって報告された。そこへ四元が来て、権藤長屋にいて、万一権藤成卿氏に迷惑がかかっっては大変だから、どこかへ移ってくれという。どこかといったって、人殺しを安全に匿ってくれる家なんか、あるものか。

「しかたがない、またあすこだ」

私は降り積もった雪の中を、渋谷の頭山邸さして急いだ。

 人間の運命というものは、不可思議なものが。狙いに狙って、どう考えても助かるはずのない、池田成彬(いけだしげあき)が助かり、そう早くはいかぬだろうと思った、団が案外あっけなく殺されている。池田を狙ったのは古内栄司だ。これこそ助かりっこないはずの一人である。

 古内は謹直そのものの人物で、これが寝食を忘れて、附いていたのだ。池田の別荘、本邸、それをいちいち突き止めて、吸盤のように吸いついていたのだ。しかも本人は麻布一聯隊の営内に居住する、大蔵中尉のところで寝起きしている。警察の手の絶対届かぬ場所にひそんで、寝食を忘れて、つけねらっても、だめな時にはだめなのだ。

 井上の時は、二月八日の夕方、小沼がにこにこして、権藤長屋へ現れた。「先生、拳銃下さい」

「見つけたな」と言ったら、「ええ、大丈夫です」「そうか」といって、拳銃と小遣いを五十円渡した。

そうしたら、翌日すぐやってしまった。

 だいたい拳銃というものは、素人は三間離れたら当たるものではない。よほどの度胸と腕のある奴でない限り、当たらないものだ。そこで射つときに、相手の身体にこちらの身体をしっかり押しつけて射てば、間違いない。度胸のある者でも緊張すると震えるものだ、で身体ごとぶつけて射たないと、失敗する。

これをよく教えておいたが、二人ともちゃんと、その通りにやっている。本郷の駒込小学校の駒井重次の政談演説会に、応援に来て、車から降りたところをやったのだが、そこで

袋叩きにされて、半殺しになった。すぐに警察に引っ張ってゆかれ、またひどくやられた。それでも小沼は痛いとも痒いとも言わなかった。後で警察の者が、「あれだけやっても音をあげないとは、呆れたものだ」

と言ったが、死ぬ決心をしているのだから口を割るはずがない。それで、いくら叩いても端緒がつかめないうちに、三月五日に菱沼五郎が団をやった。この時には私は

頭山翁の家の、武道場の二階に潜んでいた。五郎のやつがにこにこしてやって来て、パッと服を脱いで、新しいワイシャツの背中を向け「先生、お題目を書いて下さい」「見つけたな」といったら、黙ってうしろを向いた。背中に南無妙法蓮華教と書いてやり、拳銃と五十円を渡した。

「行って来ます」まるで銭湯にでもゆく様子だ。しかし、それまでの彼の苦心は大変だった。彼はまず円タクの助手になって、東京の地理と団琢磨の車の番号を覚えた。それから新聞雑誌を買いあさって、片っ端から団の写真を切り抜いた。

 それから三井本館の玄関口が一目に見える三越の休憩室に座り込んで、毎日見ていると、いつも午前十一時になると、写真と同じ顔の男が、調べておいた番号の車に乗って、きちんきちんと判を捺したように出勤してくる。それだけ突き止めておいてから、翌日玄関のところで待っていると、例の車が十一時にピタリと停る。老紳士が出てくる、たった一発でおしまいだ。

 その時の状況を後で、警視庁のものが来て、あんな恐ろしかったことは、生涯に初めてだと話していた

が、その話によると、三井の急報ですぐ駆けつけたら、犯人が玄関のところへしゃがんでいる。そばへゆくと、ひょいと顔を上げて、にこにこして手を差し出した。その掌の上に黒光りする拳銃が載っている。差し出した拳銃を受け取らぬわけにはゆかぬし、取りにいって射られたら、それっきりだ。

 まわりに三井の銀行員がたくさんいるので、勇気を出して拳銃を掴もうとしたが、手が震えてどうしてもうまく、拳銃がつかめなかったと述懐していた。

 小沼が井上を暗殺したときに、警視庁では総選挙の折ではあり、政友会と民政党の党争が苛烈を極めていたので、てっきり政友会関係のテロと見込みをつけて、もっぱらその方面を探索していた。そのうち三井の団が暗殺されたので、これは民政党関係者の復讐だと推定して、見当違いを捜査していた。

 しかるにどうして事件の真相をつかんだかというと、それは金鶏学院の安岡正篤が、時の警保局長松本学に密告したからだ。事件には元安岡の門下生だった、四元とか池袋などが参画している。ここにおいて安岡はおのれに

累の及ぶことを恐れて、「あれは井上日召のやらかしたことだ。井上さえ捕縛すれば、事件は終熄する

だろう」と示唆したのである。

 これは当時、絶対秘密にされていたが、後に警視庁の役人から、私は直接聞かされたわけだ。しかも

安岡は内務省の機密費の中から、五万円受け取ったことまで、分かったのである。

 そういうわけで、私が頭山邸にかくれていることも分かった。頭山邸は警官によって、包囲された。

私は仕方がないから、「若い時に叩き込んだ剣道で、斬って斬って斬りまくり、その上で切腹するから、

そうしたらお前は俺の首を叩き斬れ。そして風呂敷に首を包んで、日召を連れてきたと、警視庁に

放り出せ」と、本間憲一郎に頼んだ。すると本間が「うん、そりゃ面白い」という。

 「とにかくその前に、この世の名残りに一杯呑んで一寝入りするから」と、そこにあった一升びんの

冷酒を六合ほどのんで、寝ていた。

 後事は古賀らに托してある。五月になると陸海軍の連中も凱旋するので、そうしたら、一挙に起こって、

わしの仕残したことを完了せよ、といいつけてある。今は心にかかる雲もないのである。

 そこへ天野辰夫が現れて、例の雄弁で滔々と、慙死の不可なるゆえんを論じ立て、警視総監が国士の礼を

もって待遇するといっているから、ともかく一緒にそこへ行ってくれ、という。考えがえてみれば、罪も

ない警官を斬るなどということは、暴挙である。そこで考え直して、結局天野の説にしたがうことにした。

 頭山邸では連日浪人の巨頭が集合して、翁に迷惑のかからぬうちに、日召を追放しようと協議を重ねて

いたのだが、肝心の主翁がうんと言わないので、困惑していたところだ。そこへ私が出頭することを決めた

ので、「本人が出るというなら、よろしい」と主翁の許しが出たので一同愁眉をひらいたということだ。

 私は昭和九年に無期懲役の判決を受けて、入所した。その間、減刑、大赦があって、昭和十五年に出所

した。監獄を出て頭山邸にゆき、「先生、私は今日から先生のことをお父さんと申し上げます。亡父の

遺言に、わしの死んだ後は頭山先生をこのわしだと思って、仕えてくれといいつけられております」と

挨拶した。

 するとコップに葡萄酒を一杯ついで、私にくれた。私は飲み干して「お父さん、この盃をお返ししても

よろしゅうございますか」といったら「うん」とうなずいたから、一杯ついだ。そうしたら、目を細くして

飲んしまった。その盃を貰って、一緒に行った橘孝三郎やほかの若い者に、お流れとして飲ましたが、

頭山翁から盃を貰ったものは、おそらく私だけではないかと思う。

 というのは、翁は酒が嫌いで、若い時から一滴も飲まないのだ。翁一代の間に、酒を飲んだのを見た人は

おそらくあるまい。翁自身も飲んだことはないと言っている。

 ある時、私がきいた。

「お父さん、あなたは全然酒を飲んだことはないとおっしゃるが、若い時には、

若い者同士の交際というものがある。好き嫌いは別として、お祭りなどで、すすめられて一杯ぐらいは

飲んだことがあるでしょう」

 すると翁が気難しいことをする、ちゃんと目を据えて、じっとこちらの顔を見つめ、

「好かんことはせんじゃった」と、断言した。

「好かんことはせんじゃった」

 一語千鈞の重みがある言葉である。

 血盟団というのは、こちらで命名した名前ではない。木内検事(元最高検次長)がそう呼んだのである、

世間に通り名になったのであるが、この事件を表面から見れば、二人の若者が二人の要人を暗殺した、

いたって簡単な事件にすぎない。しかし、裏面から見ると、国家革新のあらゆる源流支流が、ある一所に

集中して爆発した重大な事件である。そうしてまた、血盟団を基点として、五・一五、二・二六、神兵隊等

の事件に糸を引くのである。

 したがって、人物のつながりも広くて、深い。ことにこの裏に、田中光顕伯のあったことは知る者が

ない。

 昭和二年の春、私は駿河の原の松陰寺で、玄峰老師について参禅修行をしていた。ところが同志の

高井徳次郎が寺に来て、田中伯が会いたいといっているという。この話の前に私がどうして田中伯と

相知るに至ったか、それを誌しておく必要がある。

 その前に私と高井とは、日本革新について具体策を作った。すなわち下総の鹿野山を開発して資金を

作り、道場を建てて、そこに三十人の修行僧を集め、これを二組に分けて、一日交替で一組は唱題修行に

専念し、一組は百姓をしたり托鉢して、自活の糧を得る。修行期間は一カ年として、所定の期間を修了した

者を逐次全国に分散配置して、次第に日本革新の同志を獲得し、勢力を拡大してゆこうという案であった。

 二千円金を作って、それを手附けとし、高井が山の持主の真言宗の和尚に交渉した。土地借入の当事者は

誰かと問うので、高井が一存で田中光顕伯であるといった。和尚は大変喜んで、御希望に応じましょうと

いうわけだ。

 ずいぶん乱暴な話で、このことは田中伯のあずかり知らざるところだ。しかたがないので私が田中伯に

初めて面会して、書類を出し、

「かくかくの次第で手続きが逆になって、まことに申し訳ないのですが、国家のため、まげてご了承を

お願いします」と懇願した。伯は「こんなことして、あんた何をするつもりじゃ」とひどく難しい顔を

している。私は、この爺さんだめかなと思って「謀叛します!」といって顔をにらんでいたら、伯は

「謀叛」といって、書類を持って引っ込んでしまった。

 これはいけない、いよいよ談判破裂だ。維新の生き残りの志士もクソもあるものか、ひとつ爺さんを

罵倒してやろうと待っていると、すぐに来て「これでよろしいかな」。書類を見ると「八十三翁田中

光顕」と書いてピタッと印が捺してある。しめたと思ったら、

「わしは八十三だが、この節男の子も一人できた。まだ三人五人を叩き斬る気力は持っているつもりじゃ。

あんたはまだ若いんだ、しっかりおやり」ときたものだ。

 以来、すっかり伯に信頼を受けた。さて高井と二人で田中伯にまかり出ると、伯の用事というのは、

茨城県に明治天皇の尊像を建て、明治記念館を作って、伯が陛下より拝領した記念品を納めておく。一方

日蓮上人の銅像を建て、一宇の堂を建立して、ここで青年の指導養成を行うという、国家革新の根拠地

建設計画であった。この計画は現茨城交通の竹内勇之助氏の協力で、立派に実現した。

 私がこもって青年子弟を訓育した、立正護国堂は、もちろんその施設の一つだった。

 ついでに護国堂の修行の次第をちょっと述べておく。私は入門志願の青年に、まず一週間の断食を命じた。

彼らは非常な意気込みで断食を始めるが、三日もたつと悲鳴をあげ、四日目にはたいてい降参してしまう。

 断食の苦しさは中日の三,四日が峠なのだ。これを通り越すと楽になるのを知らないのだから、ほんとうに

死んでしまうと考えるらしい。それくらいなことで降参する人間に、大事が托せるものか。何度も何度も

死んだ人間でないと、決して大事は成らないものだ。鉄の扉に頭ごとぶっつかろうというのに、ちっとや

そっとの修行でできるわけがない。血盟団の実行部隊として、私が選び出した人間は、みんな鼻唄でいろいろ

難行苦行をつきぬけた者ばかりだった。

 さて、直接行動がいいか悪いかだが、これは悪いに決まってる。テロは何人も欲しないところだ。私は

政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を、実現したいものだと念じている。

http://utusemi-web.hp.infoseek.co.jp/page56.htm

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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