「5」 聖徳太子の実在を疑う(否定する)説と、「三経義疏(さんきょうのぎそ)」の聖徳真筆説への批判、打倒をした人たちが正しいだろう。
副島隆彦です。 「大山誠一説に対する疑問」という名のサイトからです。 私、副島隆彦は、大山誠一と藤枝晃(ふじえだのぼる)の説がすべて正しいと思う。
(転載貼り付け始め)
疑問2:
文字史料だけで聖徳太子の実像に迫れるのか?
■現存する文字史料には、聖徳太子の実在を示す証拠能力がない?
聖徳太子はその死後、信仰の対象とされたため膨大な「太子伝」が作られた。そのほとんどは、史実と関係のない聖徳太子信仰の産物である。しかし、多くの研究者から何らかの史実を反映しているとして、特別視されてきた文字史料がある。大山氏は、それを『日本書紀』と法隆寺系の二系統の史料に分類し、次の5つに限定する。『日本書紀』に記された十七条憲法、法隆寺に伝来した薬師像光背の銘文、同じく釈迦像光背の銘文、天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘文、そして三経義疏である。
だが、大山氏によれば、これらの文献史料のいずれも、厩戸皇子の死後かなり後の時代の作文または捏造であることは、すでに歴史学会の”定説”または”通説”であり、厩戸皇子=聖徳太子の実在を示す証拠能力がない、という。それぞれの史料について、まず大山氏の主張を聞こう。
(1) 十七条憲br> 『日本書紀』に記された憲法十七条は、儒教思想を基本とし、仏教の精神をわかりやすく説いたものである。『礼記』『詩経』『論語』『孟子』『孝経』あるいは『文選』といった中国の古典を多く引用して、臣下としての心構えを官人たちに説いている。引用した古典は十数種に及び、もし本当に聖徳太子の作品であれば、太子が中国の思想や政治のあり方を熟知していたことを物語っている。
だが、江戸後期の考証学者の狩谷掖斎は、この憲法を聖徳太子の作ではないと断じた。さらに、津田左右吉氏は、以下のような理由で推古朝の成立を疑問とし、17条憲法の文章は『日本書紀』の編者自身の手になったことを立証した。
1.第12条に「国司」の語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行なう官人のことで、大化以前にはありえない。2.憲法の全体が、君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれているが、推古朝はまだ氏族制度の時代であり、ふさわしくない。3.中国の古典から多くの語を引用しているが、これらは奈良時代の『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。
そして、聖徳太子の名を借りて、『日本書紀』の編者が官僚たちに訓戒を与えたものであると結論した。大山氏も、この津田氏の指摘はまったく妥当なものと考えておられる。
【参考】 確かに「国司」という国の長官の制度ができるのは大宝律令からで、それ以前には国司は存在しない。しかし、推古朝にはすでに地方制度がある程度組織化されて、国司的な存在の役人が派遣された可能性がある。『日本書紀』の編者は、奈良時代の対象読者を意識して、古い名称の代わりに彼らに馴染みの名称を用いたとする説もある。
(2) 薬師像光背の銘文
法隆寺金堂の薬師像の光背には、次のような造像のいきさつが刻まれている。すなわち、用明天皇が病気になり、587年に推古天皇と太子を召し、病気平癒のため薬師像造立を誓願した。しかし、そのまま亡くなってしまったので、推古天皇と東宮聖王が607年になって、この像を完成させた。銘文通りならば、用明天皇の遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子によって、この薬師像は607年に造られたことになり、聖徳太子が実在した証(あかし)となる。
薬師像
だが、銘文に刻まれた文字表現について、福山敏男氏らから多くの疑問が指摘されている。たとえば、「天皇」の語が銘文中に用いられている。しかし 君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代わったのは、唐の高宗の上元元年(674)であり、その情報は天武天皇のとき我が国に伝わり、689年(持統3)に編纂された飛鳥浄御原令において正式に採用された。中国では天皇号は定着せず高宗一代で元の「皇帝」に戻ったが、我が国では天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられて以来、この君主号を用いてきた、というのが“定説”である。
さらに、「東宮」の語も問題である。東宮とは皇太子のことで、天皇の在世中に後継者として指名された人物をいう。日本で皇太子制が成立するのは、律令国家になってからである。それ以前には、天皇が在世中に後継者を指名するという制度はなかった。そのため天皇が亡くなるたびに、血なまぐさい後継争いが繰り返されてきた。最初に皇太子に指名されたのは、持統天皇の孫の軽皇子(のちの文武天皇)で、697年(持統11)のことである。
その他にも不自然なことがある。たとえば銘文の書体が新しく、また薬師像の彫刻様式が、後から造られたはずの釈迦像より新しい。むしろ釈迦像をモデルにして造られたと推測されている。これらのことから、大山氏は、この銘文の成立時期を、上限が689年(持統3)ごろ、下限が『法隆寺資材帳』が作られた747年(天平19)とし、薬師像が607年に聖徳太子らによって造られた可能性はない、と断じておられる。
【参考】 「天皇」という君主号が使われるのは、飛鳥浄御原令(持統3年(689)制定)以後である、とする説には疑問がある。この用語が天武朝にすでに使われていたことを示す確かな証拠がある。富本銭が出土したことで一躍有名になった飛鳥池遺跡は、7世紀後半から8世紀前半にかけての総合的な官営工房跡であるが、そこからは天武朝時代の木簡7700余点も出土している。その中に「天皇」とはっきり書かれている木簡が存在する。さらに、我が国で発見されている最も古い墓誌は、668年(天智7)に死亡した船王後(ふねのおうご)のものだが、そこには「治天下天皇」の文字が使われている。
(3) 釈迦三尊像光背の銘文
釈迦三尊像
法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背には、以下のような趣旨の銘文が刻まれている。すなわち、622年(推古30)正月22日、聖徳太子と膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が病気になった。そこで、王后・王子と諸臣らが病気回復を祈って釈像尺寸王身を造ることを発願したが、二人とも亡くなってしまった。像は翌年の623年(推古31)に、止利仏師によって完成した、という。
この銘文は冒頭に「法興元」という年号が用いられている。この年号は、法興寺(飛鳥寺)の建立が始まった年を基準とした私年号であるが、大化の改新以前に我が国で公式に使用された証拠はない。また、聖徳太子を上宮法皇と呼んでいるが、「法皇」という表記は天皇号の影響を受けたもので、福山俊男氏によって後代に書かれたものであることが実証されている。以上のことから、大山氏は、この釈迦像が聖徳太子をモデルにして造られた等身大の仏像ではない、としておられる。
さらに、大山氏は銘文中の「知識」および「仏師」という表現にも着目され、これらの語の初見は、「知識」が686年(天武15)、「仏師」が734年(天平6)の正倉院文書であることを理由に、奈良時代の初め頃から使われだしたと考えておられる。
大山氏は、623年に止利仏師が作った釈迦三尊像は、670年に斑鳩寺が落雷で全焼したとき破壊されてしまったと考える。中央の釈迦像と光背だけでも422kgもある。火事の最中に持ち出すことなど不可能だというのがその理由である。したがって、現在金堂にある釈迦三尊像は、再建法隆寺が完成したとき、行信がどこからか求めてきて安置したのであろうと推測されている。
【参考】 田村円澄氏は、この釈迦三造像が斑鳩寺(すなわち若草伽藍)の中尊であった可能性があると見ておられる。『日本書紀』は、「670年(天智9)4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残さず焼けた。大雨が降り雷鳴がとどろいた」と記している。確かにすべての伽藍が猛火であっという間に灰燼に帰した印象を与える書き方である。だが、寺院関係者にとって中尊は最も重要な仏像である。何があろうと最初に護るべきであり、僧侶たちは火炎の荒れ狂う中を総力をあげて運び出したであろうことは、容易に想像できる。
若草伽藍が焼亡した後、現在の地に法隆寺として再建された。田村氏は、斑鳩寺火災の際に持ち出された本像が、金銅の中尊として安置されたと考える。その時点で銘文が光背に刻字された。刻字の上限は天武朝とみるべきで、下限は法隆寺再建からあまり時を置くべきではないと主張される。
台座内面の墨書
【追記】 実は、釈迦三尊像には光背銘文以外にも、大山氏が意図的に言及するのを避けられた文字資料がある。三尊像の台座の内側に書かれた墨書である。法隆寺昭和資材帳作成に伴う調査の課程で発見されたもので、上段部分と下段部分からなる。その下段部分に、西暦621年に当たる「辛巳年」という年号や、「書屋」「尻官」といったヤマト朝廷または上宮王家の組織ではないかと思われる名称が含まれている。
墨書は、布などの出納にあたる組織の建物の扉に使用されていた建築部材に書き記されたものと思われる。その扉の部材が、聖徳太子が没する前後に解体され、三尊像の台座に転用されたのであろう。様式的に、台座は釈迦三尊像と同時期のものと見なして間違いないという。したがって、台座に書かれた墨書は、釈迦三尊像の造像が太子が死亡した翌年の623年(推古31)に完成したことを雄弁に物語る文字資料である。
(4) 天寿国繍帳
天寿国繍帳
中宮寺に断片が伝わっている天寿国繍帳には、繍帳作成の由来が『法皇帝説』によって復元可能な銘文で縫い込まれている。銘文は、その前半で、欽明天皇から聖徳太子とその妃の橘大女郎(たちばなのおおいらつめ)に至る系譜を記し、後半では橘大女郎が聖徳太子の薨去を大いに悲しみ、太子が往生した天寿国の様子を見たいと推古天皇に訴えたので、天皇が采女に命じて繍帳二張を造らせたと記している。
この銘文も従来から比較的信用できるものとして、聖徳太子の実在性を証明する重要な史料とされてきた。しかし、天皇号が使われていることから、実際に制作されたのは持統朝以後と考えなければならない。その他にも、大山氏は歴代天皇名が和風諡号(わふうしごう)で表記されている点を問題視しておられる。和風諡号は『記紀』編纂のために、歴代天皇の呼称として新たに作られたもので、天武朝から奈良時代初期にかけて徐々に成立したとし、この銘文は『記紀』で成立した和風諡号を利用して書かれたものと考えざるを得ないとしている。
その他にもいろいろ問題があるが、この繍帳の推古朝成立を否定する致命的な証拠が、国文学の金沢英之氏によって明らかにされた。それは、聖徳太子と母の穴穂部間人皇女の死亡した日付が干支で示されているが、それが儀鳳暦のものであるという。儀鳳暦とは、唐の麟徳暦のことで、我が国では690年(持統4)に採用された。つまり、天寿国繍帳の制作時期は690年以降であり、繍帳の存在は聖徳太子の実在を証明することにはならない。
【参考】天寿国繍帳には、「巷奇大臣」とか「椋部」という文字が書かれている。こうした用事は非常に古い推古朝の遺文の文字と矛盾しない。上田正昭氏は、天平の頃にもこのような字が使われていたとは思えないとの意見を持っておられる。さらに、『法隆寺資財帳』には、天寿国繍帳を法隆寺に寄進したのは天武天皇であることが明記されているとのことである。大山氏は自説に不利なのか、この事実に触れておられない。『法隆寺資財帳』の記述が事実なら、少なくとも天武朝以前に繍帳が作られたと考えざるをえない。
上田氏は、繍帳に描かれた人物と図柄についても言及しておられる。繍帳の製作には明確に朝鮮半島三国渡来の関係者が加わっていて、彼らが下絵を描いて采女が刺繍したとされている。そこには雲気文という独特の文様や、錣葺(しころぶき)という独特の屋根が描かれているが、これらは高句麗壁画にも描かれている。天平時代の画家がこのような絵を描いたとは思えないとのことである。(上田正昭 「歴史からみた太子像の虚実」)
田中嗣人氏は、700年前後に造営された高松塚古墳の人物像に比較して、天寿国繍帳に登場する人物像は、3,4頭身でバランスが悪く、しかも稚拙であると言われる。このことは、天寿国の製作年代が西暦700年からはるかに遡ることを示しているという。(田中嗣人 「聖徳太子実在否定論について」)
(5) 三経義疏
『日本書紀』には、聖徳太子が606年(推古14)に勝鬘経と法華経を講説したとの記述があるが、経典の注釈書を作成したとの記述はない。ところが、747年(天平19)に法隆寺三綱が僧綱に提出した『法隆寺資材帳』には、聖徳太子御製と称する『三経義疏』、つまり法華・維摩・勝鬘の三経の注釈書が登場する。その成立の由来は明らかではない。この『三経義疏』が本当に太子直筆の注釈書ならば、聖徳太子の実在を証明するこれ以上聖確かな証拠はない。
『三経義疏』に関する研究は多いが、特に藤枝晃氏の『勝鬘経義疏』に関する研究は重要である。氏は十点ほどの勝鬘経の注釈書を比較研究して、聖徳太子撰と称するものは、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割が同文で、6世紀後半の中国北朝で作られたものであることを立証された。法華経と維摩経の義疏も、年代は若干下がるが、隋代から初唐の頃に作られたとする研究がある。したがって、三経義疏はいずれも中国で作成されたもので、聖徳太子御製ということはあり得ない。
しかし、『法華義疏』だけは、太子の自筆草稿本とされるのもが現存し、現在宮内庁の所蔵になっているとのことだ。この『法華義疏』に関して興味深いことがある。『東院資材帳』には、行信という僧侶がどこからか探し求めて法隆寺に奉納したという記録が残されている。行信は天平年間たくみに光明皇后に接近し、その保護を得て、聖徳太子の残した遺品を大量に探し出してきて、再建法隆寺に寄進した怪しげな僧侶である。さらに、『法華義疏』の巻頭には貼り紙があり、そこに「これは日本の聖徳太子の私集で、海の彼方のものではない」とわざわざ断っている。大山氏に言わせれば、行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたもので、ますます胡散臭いことになる。
【参考】『三経義疏』に関しては、これを聖徳太子親撰とする説は、最近の歴史学会ではさすがに少ない。そもそも『日本書紀』でも太子が『三経義疏』を執筆したとする記述はない。藤枝晃氏の『勝鬘経義疏』に関する精緻な研究で、中国から招来した品であることが立証されたと見る向きが多い。
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以上である。ここでの大山氏の論理の展開は明確である。まず、従来から聖徳太子の実在を証明するとされてきた文字史料を、5つに絞り込む。次に、それぞれの史料が実際は後世の捏造であり、聖徳太子の実在を証明しないことを、文献史学者らの研究を援用して証明する。にもかかわらず、『日本書紀』には聖徳太子の輝かしい業績が列挙されている。その論理的帰結は、『日本書紀』編纂の段階で、特定の目的のために聖徳太子の虚像がでっち上げられたと考えざるを得ない。
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文字史料に記述されていないものは存在しないとする論br> 確かに、聖徳太子の実在を証明する史料が何も存在しないのであれば、太子は架空の人物であることは論理的な帰結である。だが、この論理の展開以前に何か重要なことが抜けていないだろうか。文字史料にないと存在しないという論法は、戦後の文献史学者がともすれば犯しがちな共通の歴史認識である。大山氏の二冊の著書を読んで、まず抱く印象は、研究の対象とされた史料が文字史料だけに限定されているイコゴチの悪さである。
我が国の7世紀以前の歴史に関する文字史料は、残念ながらほとんど後世に残されていない。そんな中にあって、『日本書紀』は古代史の研究にとって卓越した文字史料である。聖徳太子を研究する場合は、奈良時代に法隆寺で作られた文献も、貴重な文字史料として利用できる。だが、いずれの史料も史実を忠実に反映しているとは限らない。『日本書紀』には当時の為政者の思惑が、寺院の史料には信仰的な修飾が加わっていることは、自明である。
したがって、これらの史料を扱うときは、史実と作文を見分ける厳しい史料批判が要求される。だが、現代の知識に基づいた史料批判は、謎のベールをあまりに剥がしすぎて、かえって歴史の実像を見失ってしまうおそれもある。文字史料が少ない分、たとえば美術や工芸、民間伝承などさまざまな分野の研究成果を総合することで、文字史料だけでは見えない部分が見えてくることに留意すべきであろう。
仏教美術の技術論や様式論からの参考意見
上記の田中嗣人氏は法隆寺の釈迦三尊像の鋳造技術についても言及しておられる。平城遷都(710年)直後に像立された薬師寺金堂の薬師三尊像は、仏像本体に”ス”もなく、たった一度の一鋳で製作されていて、世界最高の鋳造技術と評価が高い。これに対して、法隆寺の釈迦三尊像は何回かの鋳繋ぎや鋳掛けを施して製作されている。さらに本体にもいくつかのスが入っている。こうした事実から、釈迦三尊像の製造時期も奈良時代からはるかに遡ると考えざるを得ないという。傾聴すべき意見である。
法隆寺東院の夢殿には、本尊として救世観音(ぐぜかんのん)が祀られている。アメリカの日本美術研究家フェノロサによって再発見された有名な飛鳥仏である。寺伝では聖徳太子をモデルにした等身大の仏像であるとされている。寺伝が正しければ、聖徳太子の実在をこれほど明確に示す遺物はない。
文字史料を中心に自説を展開される大山氏は、この仏像が飛鳥仏であることをいとも簡単に否定される。残念ながら、否定の根拠などは一切示されない。単に”夢殿の本尊として、新たに作成されたか、行信か光明皇后がどこからか入手したものだろう”と、勝手な憶測を述べられているにすぎない。だが、美術史家の石田尚豊氏は違う。”救世観音は内外の様式からみて、明らかに7世紀前半の造像であり、太子の実在が揺らぐことは決してあり得ない”と言い切られる。
大山氏が採用しなかった文字史料
大山氏が採用しなかった重要な文字史料がある。伊予風土記逸文として、一般に「伊予湯岡碑文」と呼ばれている碑文である。聖徳太子が恵慈や葛城臣らを供として、現在の道後温泉に出かけた時、湯の岡の側のイサニハの岡に建てた碑に刻まれた文字史料のことだ。碑はとっくに無くなったが、そこに刻まれた碑文が伊予風土記に採録されていた。碑文は道後温泉のすばらしさを、六朝風の駢儷体で称えている。明治時代の近代的史学研究の草分けであった久米邦武氏は、その著『上宮太子実録』で、この碑文を太子の伝記の中で最も信頼に足る史料の一つに挙げられた。
しかし、大山氏は、この碑文が文永年間(1264~1275)頃に成立した仙覚の『万葉集註釈』と卜部兼方の『釈日本紀』に引用されて初めて出現した文章であることに注目する。そして、有職故実や古典研究が盛んになった鎌倉時代に誰かが捏造した文章であると、いとも簡単に一蹴される。推古朝のはじめの頃に、六朝時代の漢籍を踏まえ流暢な駢儷体の詩文を作る日本人がいたとは考えられない、というのがその理由だ。推古朝には、中国の文化をまともに理解し吸収していた人物などいるはずがないとする、強い思いこみが大山氏にはあるようだ。
大山氏は、太子の仏教の師であり、また外交顧問でもあった高句麗僧の恵慈が同行しているのを、忘れておられるようだ。当時、朝鮮三国から我が国に送り込まれてきた僧侶は、第一級の文化人であったはずである。聖徳太子が作成した詩文の草案を、恵慈が格調高い駢儷体に手直したことは、当然あり得たはずである。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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