「173」「共同幻想論」に到達した思想家たち ⑤
「共同幻想論」に到達した思想家たち ⑤
副島隆彦です。今日は2026年3月1日です。
「共同幻想論」に到達した思想家たち ⑤を掲載します。
■本「ショック・ドクトリン」
あとは、2011年頃に私が褒めて紹介して売れたのが、「ショック・ドクトリン」(英語: The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism , 2007)という本です。カナダ人女性ジャーナリストのナオミ・クライン(1970- 54歳)が書いた。これは「権力者たちが、戦争だけじゃなくて大きな自然災害を利用して、民衆を怯(おび)えさせて、民衆を統制しようとする」ということを書いた本です。これも共同幻想を利用する例ですね。
2011年の3・11の東日本大震災と原発事故の時に、私が「この本が大事だ」って紹介した。多くの人が手に取って、だから岩波書店が再販したんですけどね。この本も今度の私の本『新共同幻想論』の中で言及する予定です。

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【ここからwikipediaから抜粋。2007年9月に本書を出版。三十数か国語に翻訳され、日本語版は2011年9月に刊行された。クラインはシカゴ学派 (経済学) のミルトン・フリードマンを批判した。フリードマンはケインズ主義に反対して「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」と述べるなど徹底した市場原理主義を主張したが、クラインはこうした主張を「ショック・ドクトリン」と呼び、現代の最も危険な思想とみなしている。そして、近年の悪名高い人権侵害は、反民主主義的な体制による残虐行為と見るばかりでなく、民衆を震え上がらせて抵抗力を奪うために綿密に計画され、急進的な市場主義改革を強行するために利用されてきた側面に注目すべきと説く。Wikipediaからの抜粋はここまで】

ナオミ・クライン【カナダ人の作家、ジャーナリスト、社会活動家、映像作家であるナオミ・クラインは、国境を超えて、あるいは独特の過激な論調に同意できる人々の環を超えて影響力を持つ、数少ない女性知識人の一人であり、著作を発表するたびに大きな反響を巻き起こしてきた。反グローバリゼーション運動の真っただ中に出版され、ベストセラーとなった『ブランドなんか、いらない: 搾取で巨大化する大企業の非情』(1999)から、「惨事便乗型資本主義」を取り上げた『ショック・ドクトリン』(2007)を経て、気候変動の問題についての『これがすべてを変える』(2014)に至るまで、ナオミ・クラインの著作は世界規模のリサーチに基づいている。byハーパース・バザーの記事参照】
■クリフォード・ギアツの本
副島隆彦です。だから、日本民族とは何かというテーマにならざるを得ないんですけどね。とりあえずひとつだけ。クリフォード・ギアツ(Clifford Geertz 1926-2006 80歳で死)が「劇場国家論」というのを書いた。王様とその周りの民衆たちが作る物語があるんだと。

クリフォード・ギアツ【サンフランシスコ生まれ。第二次世界大戦で海軍従軍後、アンティオーク・カレッジで哲学の修士号を取得。ハーバード大学大学院に進み、文化人類学を専攻。・・・インドネシア、バリ島をフィールドとして、『ジャワの宗教』から『ヌガラ――19世紀バリの劇場国家』まで数多くの著作を生み、「インボリューション」論、「劇場国家」論などを展開し、第三世界を扱う政治学・経済学等の分野にまで広く影響を与えた。by wiki】
副島隆彦です。矢野 暢(やの とおる、1936-1999 63歳で死)という人がそれを日本に紹介した。けれど矢野は京都大学の大学院生の女性に出すという事件(1993年)を起こしてね、追放されました。ただ実は、彼がノーベル賞を選考委員だったってバレちゃった。裏側で、誰にノーベル賞をあげるかを審査する学者で、実は重要な人だったみたいです。かわいそうなことした。きっと学者たちの、内部での権力闘争か何かがあったんでしょう。

矢野 暢【やのとおる 日本の政治学者。専門は東南アジア地域研究。1986年『冷戦と東南アジア』で吉野作造賞を受賞。ノーベル賞に関するテレビ番組等にゲストとして出演するなどマスコミ露出も多く、アウンサンスーチーの京都大学留学時代の恩師とされる。by wiki】
■五斗米道も太平道も、キリスト教
中国の五斗米道【ごとべいどう 信者に五斗(=500合=当時20リットル)の米を寄進させたことに由来する。通説では後漢末に太平道に少し遅れて、張陵(張道陵とも)が、蜀郡の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の四川省成都市大邑県)で『老子道徳経』を基本にして起こした道教教団。漢中で勢力を固めた。by wiki】(ごとべいどう)の話が出て来たけど。これも呪(まじな)いの力で共同幻想を作っていたんです。民衆救済思想の始まりなんですね。この五斗米道と同じく後漢の末期に流行した太平道(たいへいどう)というのがある。この二つは創始者や拠点が違うんだけど。これらはどうも、キリスト教です。紀元200~300年には、中国にキリスト教の思想が、もう中東のほうから入ってきていたんですね。
この救済思想、「助けてあげる」という思想に人々が熱狂的に憧れたんですよ。それが日本における宗教の始まりでもあってね。それが実は、神道にもなった。仏教はもうちょっと後の紀元後400年500年代くらいからで、少しずつ日本に流れ着いてきた坊主たちが始めたんだけど、これも救済思想です。大きく言えば今の仏教だってキリスト教の影響が大いに見られる。観音様なんてマリア様そのものでしょう。このことも、私は『隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?』(2012年刊)という本に書きました。だから日本の歴史も、徹底的に大きく全体から見渡すように書き直していかなきゃいけない。それが私の『新共同幻想論』の重要な骨格です。

観音様とマリア様

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■日本人もキリスト教に熱狂した
日本でも、キリスト教への熱狂というのが2回起こりました。まずは信長・秀吉時代ですね。高山右近を筆頭に、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、福島正則、池田恒興、中川清秀・・・。高山右近は、秀吉のバテレン追放令(1587年)で城を失って、家康に棄教を迫られたけど拒否して、1613年に日本から追放されるまで前田のところに寄寓(きぐう)していた。他にも、細川藤孝、黒田官兵衛、池田光正、前田利家・・・キリスト教大名はまだまだたくさんいるよ。信長、秀吉、家康の周りの人間たち、当時の大名のほとんどがキリスト教徒になっちゃったんです。イエズス会ネットワークである商人から硝石(しょうせき)という火薬の原料を得るために洗礼したりね。
新しい思想、民衆救済の思想が、キラキラと輝いて見えたんです。それに大名や上流階級の人々、特に女性が憧れる。熱狂的に支持して自分も信者になるんですね。十字架のロザリオを持ってね。明智光秀の三女のガラシャは有名ですが、秀吉に切腹させられた千利休、秀吉の奥様の寧々(ねね)までもキリシタンだった。そのことを学問道場の田中進二郎くんが本『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社、2020年刊)に書きました。【庶民もキリスト教に?】下層階級にはそんな余裕はありませんよ。食べていくのに必死で。

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副島隆彦です。のちの江戸幕府は、カトリックの悪(あく)を見抜いて徹底的にキリスト教を弾圧・排除した。信長がカトリック宣教師たちに殺されたことを秀吉も家康も知っていましたから。前に話にでた1588年のアルマダの海戦(イギリス対スペイン)の現場にいたウィリアム・アダムスが、1600年に大砲を搭載した船で九州(大分県の黒島)に難波して、家康に仕えていますからね。ウィリアム・アダムス(イギリス人でプロテスタント)からイエズス会などカソリックの真実をいろいろ聞いたから。半年後に、その大砲を家康は関ケ原の戦いで使って、だからアッサリ勝ったんだと、そのことも私は本(『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』PHP研究所 2015年刊行)に書いた。

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人間というのは、どうしても、そういう新しい思想、「人民を救済する」とか素晴らしく見えるものに対して熱狂的に憧れるんですね。光り輝いて見える。特に上流階級の人間たちが、それにコロコロと参って入信してしまう。そうやって共同幻想を持つんです。
明治になってからもまた、キリスト教にどんどん入っていった。知識人階級が、バーッとキリスト教に入信していってね。内村鑑三(うちむらかんぞう 1861-1930 70歳で死)を通して。聖書を読んで、キリスト教を実際に信仰すれば、自分も近代ヨーロッパ知識人になれると思い込んだみたい。熊本バンドとか横浜バンドとか札幌バンドができた。

熊本バンドの主要メンバー(同志社英学校の第1回卒業式、明治12年撮影)【熊本バンドとは、1876(明治9)年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒35名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受け自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し、これを日本に広めようと盟約を交わした集団のこと。直後に熊本洋学校は閉校になり、その後新島襄の同志社英学校に移った。卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いた。by wiki】

内村鑑三【日本のキリスト教思想家であり、無教会主義を提唱した重要な人物。江戸(現在の東京都)で生まれ、彼は幼少期から儒学や英語を学んだ。後に札幌農学校に入学し、そこでキリスト教に触れた。アメリカに留学し、西洋のキリスト教思想を学びながらも、日本人としての精神文化との調和を模索した。by AI】
副島隆彦です。バカだよね。聖書なんか読んでも賢い人間になれるわけがないじゃない。そのことに有島武郎(ありしまたけお 1878-1923 45歳で死)が初めて気づいたんです。「キリスト教なんて、ダメだ、こんなの」ってね。

有島武郎【農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年(明治34年)にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送った後に1903年8月25日、横浜から渡米。米国ではハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で歴史、経済学を学んだ。社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。ヨーロッパにも渡り、1907年(明治40年)4月11日に帰国。この頃、信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れた。志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。by wiki】
だから、有島武郎の先生だった内村鑑三がショックを受けてね。【嫉妬も感じたでしょうね】そう、弟子だった有島が自分(内村)よりも学問・思想的に上に行っちゃった。アメリカに留学した有島武郎は、ベルクソンとかニーチェとかエマーソンたちの本を読んで日本に帰ってきたからね。有島は、「キリスト教はもうダメなんだよ」と気付いちゃった。それで男と女の愛の世界に行っちゃったからなぁ。既婚の編集者と不倫事件をおこして、二人で死んじゃった。
【死ななくても、お相手の旦那さんに要求されたお金を払えばよかったのでは?】いやいや、当時はそういうわけにはいかないんですよ。許されなかった。当時は姦通罪【かんつうさい 日本では伝統的に、姦通(あるいは不義密通、不倫)は重罪とされ、公事方御定書でも両者死罪の重罪とされ、協力者もまた中追放か死罪であった。また夫は現行犯の場合には姦男と妻を殺害しても罪には問われることがなかった。明治期1882年に施行された旧刑法の353条に規定され、1907年に公布された刑法に引き継がれた。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、男女平等が定められ(第14条)、男性にとって都合の良い姦通罪は同条に違憲となる状態となり、同年10月の法改正で廃止された。by wiki】があったからね。
姦通罪で告訴されたら刑事事件になって逮捕される。有島も相手の女性も、女性の配偶者から脅迫されていたんです。そんなことになったら、もうあちこちから叩かれてボロボロになる。一般大衆は一方では憧れを抱(いだ)きながらも、「不倫なんて許せない」と激しく批判するからね。そういう当時の雰囲気が、今の人にはわからないんだな。でもね、有島は立派な男で。当時は寄生大地主制というのがあって、有島武郎は北海道の大地主だった。その所有する農地を、世界に先駆けて小作人に明け渡したんです。偉い人なんですよ。
■キリスト教とは、神の「復活」を信じること
それで、キリスト教ってなんだ、と言ったらね。神の「復活」を信じることなんです。復活はリザレクションって言うんだけど、リザレクションって言葉、日本人は知らないんです。復活っていうのは神の復活だから、「イエスが死んだ。そして復活して神になった。その43日後に昇天した」という話を信じること。それだけがキリスト教信者の条件なんですよ。ユダヤ教は、「イエスは予言者のひとりにすぎない」「人類の救済はない」「リザレクションもない」という立場です。【ユダヤ教信者の条件は?】それはただ、「(モーセがつくった)戒律に従え」、それだけです。
日本では、1914(大正3)年に「芸術座」っていう劇団が、トルストイの小説『復活』を演じたんです。松井須磨子(1886-1919 32歳で死)っていう、歌も演劇もできる日本ではじめて生まれたスター女優がいてね、島村抱月(1871-1918 47歳で死)が演出をした。この演劇『復活』が日本中で大人気になって、一世を風靡したんです。芸術座の本拠地だった「芸術倶楽部」が、神楽坂の今はもうボロボロのアパートがあるところに看板だけ残っていますよ。

芸術座『復活』の絵葉書

松井須磨子【明治から大正時代にかけて活躍した日本の新劇女優、歌手。「日本初の歌う女優」として知られ、特に舞台『復活』のカチューシャ役で大ヒットした「カチューシャの唄」が有名。2度の離婚、美容整形、島村抱月との恋愛、そして自殺という波乱万丈な生涯をおくる。彼女の人生は多くの小説や映画、テレビドラマの題材となり、現在でも人々の関心を集めている。】

島村抱月【明治から大正時代にかけて活躍した文芸評論家、劇作家、演出家、小説家、詩人であり、新劇運動の先駆けの一人。坪内逍遥や松井須磨子と協力し、自然主義文学運動や新劇運動に大きく貢献した。早稲田大学の教授として教壇に立つ一方、芸術座を設立し日本に新しい演劇を広めた。彼の死後、女優の松井須磨子もこの地で自ら命を絶つという悲劇があった。by AI】
副島隆彦です。この島村抱月が演出した『復活』を、「通俗的だ」と批判したのが小山内薫(おさないかおる 1881-1928 47歳で死)で築地小劇場を設立した人です。小山内薫が、歌舞伎役者たちと一緒に新劇を始めた。この小山内薫のほうが教科書にたくさん載っているから、島村抱月や松井須磨子よりも有名です。

小山内薫【演出家、批評家、詩人。日本の演劇界の革新に大きく貢献した劇作家。「新劇の父」と称され、自由劇場や築地小劇場を設立(1924)し、新劇運動に尽力した。また、松竹キネマ研究所長として映画界にも深く関与し、トーキーが登場する日本映画黎明期に重要な役割を果たした。小山内薫の戯曲や演出は、後の演劇に多大な影響を与え、日本の演劇文化に大きな足跡を残した。by wiki】
だけど本当は、島村抱月や松井須磨子たちのほうが重要でね。彼らの『復活』が当時大ブレイクした。けれども、「復活」という思想が日本に受け入れられることを日本の体制が嫌(きら)って、わざと国民の歴史・文化として教えないんでしょう。後ろに「復活」の思想を嫌うローマ教会がいるんですがね。
松井須磨子と島村抱月を批判して陥れたのが、悪(ワル)の坪内逍遥(つぼうちしょうよう 1859-1935 76歳で死)。坪内自身も島村と同じ早稲田大学で演劇運動をやっていたのにね。坪内は芸者あがりの女と結婚していた。なのに松井と島村の不貞関係を「許せない」と猛烈に批判した。ワーワーと書いて世の中に広めたんです。いやな男なんですよ。スター女優の松井須磨子を島村が射止めたことと、島村の才能への嫉妬でしょうね。

坪内逍遥【明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。彼の代表作には『小説神髄』や『当世書生気質』があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。また、シェイクスピア全集の翻訳を行い、その偉業を記念して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館が創設された。晩年は静岡県の熱海で過ごした。by AI】
もう少し話すと、トルストイ(1828-1910 82歳で死)の小説『復活』というのは、本当は「1860~70年代に反政府運動をやったロシアの学生たちがシベリア流刑にされた、ナロードニキ運動の話」なんですけどね。ドストエフスキー(1821-1881 59歳で死)たちの体験を描いているんです。

フョードル・ドストエフスキー【ロシア帝国の小説家であり、思想家。社会主義に批判的になり、キリスト教的な人道主義へと思想を変化させた。代表作は『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などがあり、これらは人間の魂の奥底にある葛藤や救いを鋭く描き出している。ドストエフスキーは、人間の内面と社会の矛盾を深く掘り下げ、読者に深い思索をうながす作品を残した。ロシア文学の黄金時代を代表する作家の一人として、世界文学に多大な影響を与えた。by AI】

イリヤ・レーピン画 『ナロードニキの逮捕』(1880年~1889年, 1892年) トレチャコフ美術館【ナロードニキとは:19世紀後半のロシアにおける若い知識人たちの運動。彼らは「民衆の仲間になる人」として、農民が社会を変える力を持つと信じ、貴族政権や農奴制に対して批判的立場をとった。この運動は、後のロシア革命運動の原点ともなった。by AI】

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ【ロシアの貴族家庭に生まれる。幼少期に両親を失い、親戚に育てられた。若い頃は放蕩な生活を送ったが、クリミア戦争に従軍した経験が彼の人生観を大きく変える。この戦争での体験が、後の代表作『戦争と平和』に繋がった。by AI】
副島隆彦です。ドストエフスキーは、革命的なサークルの会合に参加したといって1849年に逮捕されて(ドストエフスキー27歳)、死刑宣告を受けた。けどすぐに恩赦がでて死刑にはならなくてシベリア流刑になったんです。そのあとにナロードニキ運動が始まった。ドストエフスキーはその先駆者として偉大なんですよ。こういうことを全体の流れとして見えるのは私、副島隆彦だけでしょうね。ちなみに、ドストエフスキーとマルクスとニーチェは同じ時代の人です。互いに交流はなかったけどね。
■人類学の崩壊
【①で先生は「人類学の中心が壊れた」と。それはインドヨーロッパ語族説(ランゲッジトライブ)が嘘だからってことですか?】それもあるし、それは言語学的にね、嘘っていうか、こんなもんあるのかよって説が出てきた。あとはその白人種すなわちコーカソイードと、モンゴロイードと、ネグロイードっていう黒人種ね、この3分類でやってきたんだけど。

これもね、コーカソイードが生まれたという「コーカソスってどこですか?」ってことですよ。カスピー海と黒海の間をカフカスとかコーカソスっていうんだけど、あそこが白人のふるさと(ここで生まれて広がった)だって決めつけたんですよ。今はロシアの一部とチェチェンとかの国々ですね。
ところが、ウクライナ人もそうだけど、白人種というのは、北のノヴゴロドやノルウェーとかの辺から来たに決まってるんだって。北の方の人だから太陽が当たらないから、肌が真っ白くなったんでね。彼らが南に降りてきただけなんですよ。そういう素朴なバカみたいな真実を日本人向けに言う人はいないんだよ。
あとは、その白人種とモンゴロイードとネグロイード、この3分類でやってきたんだけど、それが差別だって問題が出たんですよ。この差別問題が出てきたときに、なんか(人類学が)壊れたみたい。
それと、原住民たちの例の生活用具とか呪いの道具、槍とか盾とかお人形ね、あれらを飾ることを禁止した。「それは差別だから」ってことで。どこにも書いてないんだけど飾らないことになった。【誰が決めたんですか?】いやー、人類学の学会内部でじわーっとね。「俺たちがやってるのは差別学問だ」ってなって。【確かに差別ですよね】そのことを誰か、「私、アンスロウポーロジーをやっています」っていう人に、ゲロゲロ白状させなきゃいけないんですよ。
■国立民俗博物館
1970年にあった大阪万博(開催地: 大阪府吹田市の千里丘陵)の4年後にできた国立民族博物館、略称は民博(みんぱく)というのが今もある。 リンク 国立民族博物館←左の青字をクリックしたら、ホームページに移動します
梅棹忠夫(うめさおただお 1920-2010 90歳で死)って日本を代表する民族学者がいてね、1970年の万博のときに民俗博物館を万博跡地に作ってもらった。梅棹が民博の館長になったんだけど、ここの博物館長というのが大学教授扱いなんですよ。もっと重要なことがある。日本は戦争中に中国の張家口(ちょうかこう)に研究所を作って、梅棹がその所長になった。張家口は中国の北の方、万里の長城あたりにあって、満州と中国の中間のところです。モンゴル族、満州族もそうだけど、張家口という大きな玄関を通ってしか中国に入れなかった。そういう重要な町です。

梅棹忠雄【日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者として知られ、国立民族学博物館の初代館長を務めた。彼は「文明の生態史観」を提唱し、文化人類学のパイオニアとしての地位を確立した。また、情報産業論を初めて提唱し、情報整理法の「京大式カード」を考案した。モンゴルにフィールドワークに出かけた直後に原因不明の視力障害を患い、64歳で両目とも失明するが、失明後はそれ以前よりも多数の著作を残した。経歴・学問彼の業績は、日本の学術文化に大きく寄与し、彼の著作は多くの人々に影響を与えている。by AI】

張家口市の場所
副島隆彦です。陸軍中野学校という国家スパイ養成学校が東京にあって、体力的に優れた諜報部員(スパイ)たちを育てていた。主には士官学校を落ちた青年たちだね。彼らを張家口から送り出して、バグダッドまできていたドイツ軍と連絡をとらせようと5000キロぐらい踏査旅行をさせた。けど失敗。途中でグルカ兵につかまった。グルカ兵というのは大英帝国が訓練していたネパール人です。現地人の部隊ですね。今もいます。
中野学校のスパイを2人ぐらいずつと、馬10頭に物資を積んで、商人のふりをして大草原を行かせた。途中でみんな、敵に捕まった。全員死刑でしょうね。スパイは死刑にしていい。スパイはハーグ条約の「捕虜を虐待してはならない」という国際条約に従わなくていいから。この責任者が梅棹忠雄だったんです。日本は、大英インド帝国を北の方から攻撃しようとしたんですね。
戦後、梅棹は民族学をやった。京都大学に所属して、イラン・イラクの岩石砂漠の遺跡の発掘とかのフィールドワーク、現地の人間たちの研究をしました。私も中学校、国語の教科書にあった彼の文章を読んだ。その一つである『モンゴル族探検記』というのは、「イラクのあたりにもモンゴル族がきていた」という調査研究なんです。
人類学が民族学に名前を変えている。人類学は30~40年前は人気があったけど、今はもう、大物がいなくなった。自分たちの学会の名前さえ、何て言っていいのかわからなくなってね。民族学っていう学問も、もう人気が無くなったみたい。民族学を専攻しようという学生もいなくなった。世の中から大事にされなくなったら、その学問・学科は「いらない」となって、滅びてしまうんですよ。
「共同幻想論」に到達した思想家たち ⑤終わり
⑥につづく
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