「172」「共同幻想論」に到達した思想家たち ④
「共同幻想論」に到達した思想家たち ④
副島隆彦です。今日は2026年2月26日です。
前回からのつづきで、「共同幻想論」に到達した思想家たち ④を掲載します。
■ギリシア・ローマ文明の跡継ぎ
欧米がギリシア・ローマ文明の跡継ぎ、と先ほど話しました。でもアメリカもね、文明じゃない。アメリカも文化なんだ。一応無理やり、グリーク・ローマン(ギリシア・ローマ)文明の派生物すなわちデリバティブで、それが白人文明で近代西洋だということになっている。さらにそこから派生した北アメリカも文明だって言いたいわけよ。アメリカがギリシア・ローマ文明の現代的な姿なんだって、無理やり言えばそう言えるんだけど、でもちょっと無理があるんだね。
【ならロシアもギリシア・ローマ文明の跡継ぎと言えるのでは?】そうですよ。100年前のロシア人は、自分たちが西洋人だと思っていた。だってロシアも同じで、宮廷と知識人社会ではフランス語を喋っていたんだから。でもちゃんとは喋れない、読み書きはなんとかできたでしょう。フランス語を使えないとインテリ階級じゃないんです。ドストエフスキーなんかでも、フランス語でヨーロッパの本を読んでいる。フランス語ができないと「バカ」扱いだった。ピョートル大帝(1672-1725)のときに、ドイツ文化、ドイツ語がロシアに入ってきちゃってね。ドイツから体のしっかりした奥さん連れて来いとかね。だからドイツ語も使われるようになったけど。

ピョートル大帝【ここからwikipediaの抜粋 モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 – 1725年)、初代ロシア皇帝(インペラートル / 在位:1721年 – 1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ / Пётр Вели́кий)と称される。ツァーリであったアレクセイ・ミハイロヴィチの六男で、母はナタリヤ・ナルイシキナ。ロシアをヨーロッパ列強の一員に押し上げると、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下に据え、帝国における全勢力を皇帝の下に一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く起用して国家体制の効率化に努めた。
1721年11月2日には大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される。wikipediaの抜粋はここまで】
副島隆彦です。でも宮廷と官僚たちはフランス語。それぐらいフランスに劣等感を持ったわけです。【じゃあ一番正当に、ギリシャ・ローマ文明を受け継いでいるのはフランスなんですか?】そのように、フランス人は思っている。「ガリカニスム Gallicanisme」(フランス語)っていうんですが、フランスのカトリック教会自身がローマ教皇から独立すると言って、ローマ教皇庁をフランスのアヴィヨンに引っ張ってきた。このアヴィニョン遷都で100年ぐらい、 ローマ法王庁がフランスの南にあった時代があるんですよ【アヴィニョン捕囚:1309年から1377年までの約70年間、カトリック教会の教皇がフランスのアヴィニョンに居住していた歴史的な期間を指す。by AI】。教皇を引っ張ってきて無理やり連れてきた。 それからまた戻っていったけど。

アヴィニョン
フランスは、今は帝国じゃないけど、一時期は帝国だったんですよ。ナポレオンは一応、本物のヨーロッパ皇帝だ。 一代限りだけど、無理やり自力で皇帝になった。だからフランスのグランド・アーミー、グランド・アルメー(Grande Armé)って言うんだけど、フランス陸軍がヨーロッパ全体を支配したから。でも海軍では、イギリス船隊には勝てなかった。1805年、フランスも何百隻もの海軍の船を持っていたけど、イギリスとの戦いに負けたんですよ。このトラファルガーの戦いでイギリスがナボレンを打ち破った1805年からが、大英帝国の時代です。
と、はっきり言わなきゃいけないのにね、もごもごしててね、みんな。だから大英帝国がいつから始まったんだよという話で、1805年だって私が言うと、ポカーンとされちゃうんだよ。どう考えてもそうなるんですけどね。

トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)
その200年前、イギリスとスペインの戦いがインベーシブアルマダ(「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳)で有名な1588年のアルマダの海戦(Battle of Armada, Armada War)です。これはイギリスが勝った。エリザベス1世の時に、イギリスがオランダ独立の手伝いをするもんだからスペインが怒って攻め込んで行ったんだけど、スペインが負けちゃった。まあでもスペイン艦隊はその後100年間、まだまだ強い。フィリピンのマニラを拠点にして、日本にまでスペインの商船がたくさんやって来てね。ガリオン船っていう三本マストの高速船で。それができたのは金と銀を、スペイン帝国がまだいっぱい持ってたからだよ。日本に来ていたイエズス会の宣教師のほとんどは、マカオとゴアを拠点にしていたポルトガル人なんですが、やがてポルトガルはスペインに飲み込まれる。このあたりにも複雑な構造があります。

大航海時代【15~17世紀、ポルトガルやスペインを中心に、ヨーロッパ諸国が羅針盤や快速帆船を用いて世界規模の航海を行った時代。インド航路の開拓や新大陸(アメリカ)の到達により世界の一体化が進む一方、植民地化と大交易時代を招いた歴史的転換点である。byAI】
1600年代、1700年はまだイギリスは弱かった。でも、もう1700年くらいになると穀物市場とか マーケットをイギリスが握るからなあ。ウォルポールっていう悪(ワル)いのが出てきてね。

ロバート・ウォルポール【ここからwikipediaの抜粋。イギリスの政治家、貴族。1701年にホイッグ島の庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ政権(あるいはホイッグの参加した政権)で閣僚職を歴任した。1720年の南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。wikipediaの抜粋はここまで】
副島隆彦です。だけどアメリカに独立されちゃった(1775年~1783年アメリカ独立戦戦争)がことが、イギリスには相当な打撃だったみたい。イギリス帝国最大の失敗はアメリカに独立されたことらしいね。【アメリカの土地が広すぎたからかな】それもある。アメリカは広すぎたし、それにヨーロッパから流れ出していた人間たちは貧乏人だけど力があってね。でも彼らには格式というか格がなくて、全く威張れないんです。イギリス貴族さまに文句が言えないんですよ。
アメリカ独立宣言する前には、すでに各州が出来上がっていてね。ウィリアム・ペンっていう男がペンシルバニアを作ったりとか、イギリス国王からもらった領地で州ができていくんですよ。アメリカ人はそこのペザント、小作人たちで、領主さまはイギリス貴族なんですよ。アメリカ各州の代表が、「年貢をこれぐらいにしてくれ」とか、イギリスにまで行って年貢の交渉をやっていた。そういう真実があってね、アメリカはイギリスに頭が上がらないわけよ。フランクリンなんかもペンシルバニア州の利益代表として税金の交渉をしにイギリスに行ってたんじゃない。だから、まあそういうことですよ。頭が上がらない。今でもそうなんですよ。ボストンの、日本で言えば京都みたいなところのアメリカ人たちはイギリス英語をしゃべるんですよ、わざとね。

ベンジャミン・フランクリン【ここからwikipediaの説明。アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現行の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、1963年まで米50セント硬貨にも肖像が用いられた。アメリカ建国の父の一人として讃えられる。wikipediaの説明はここまで】
副島隆彦です。大戦後からはアメリカが帝国になった。各国にアメリカの手下というか、アメリカに服属させるための人材を選んで育ててばらまいてね。【アメリカ帝国は衰退していると先生は言う。日本を支配するために人材を育てるというのが、アメリカはもうできなくなってるんでしょう?】できなくなっている。そんなお金の余裕もないし、やる気もなくなってるしね。中国の「改革開放」のときから、中国人が大量にわーっとアメリカに行った。キッシンジャー・アソシエイツが、中国人の優秀な連中をアメリカに来させて、名門大学に配分した。彼らが後に中国に帰って、中国を豊かにしたんですよ。その一人が今、中国でNO.4の王 滬寧(おうこねい ワン フーニン 1955- 70歳)で、三大国師(さんだいこくし)の一人です。

王 滬寧【1978年に復旦大学国際政治系の碩士(修士)課程に入学、1981年に法学修士を取得した。1984年4月に中国共産党に入党、1980年代は「半月談」(新華社発行)など時事雑誌の表紙を飾る青年学者として名をはせ、復旦大学国際政治系教師(講師)、副教授(准教授)、教授を歴任し、アメリカ合衆国のアイオワ大学とカリフォルニア大学バークレー校で客員研究員にもなった。1989年から復旦大学の国際政治系主任(研究科長)、1994年から復旦大学法学院長。中国の発展には「強人(中国語版)」による開発独裁的な権威主義体制が必要と主張する「新権威主義」と呼ばれる一派の論客として活躍 bywiki】
アメリカも最初は、アメリカに従属する中国人を育てようとしたんだろうけど、できなかった。知人の知人なんだけど、日本に来た中国人のおばちゃんが私にハッキリ言った。「私たち中国人は、アメリカに騙されません。中国を捨てない。中国を裏切らない」と言った。【アメリカは(人材育成に)失敗したんですね】そう、失敗した。中国人というのは、中国というのはそういう国です。【帝国だからでしょう?】帝国が文明を作るからね。文明のレベルはもう4000年、5000年で、長さが違うから。日本は文明じゃないんだよ。日本には文化しかない【だから簡単にコロコロやられちゃう。小泉内閣のときとそっくりな感じでヘンテコな高市内閣ができた。これでまたアメリカは、日本からお金をたくさん持って行くんだ。私たち庶民はすでに社食ランチ(400円)にも行けないよ…】

高市内閣2.0
■本「菊と刀」
日本人とか日本民族という言葉に骨格を付けていかなきゃいけないから。私にはどうしても、「外側から見たらどう見えるか問題」が大事だ。そうすると『菊と刀』という本が重要になる。
『菊と刀(きくとかたなThe Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)』、のswordソードというのは刀、武器ですね。菊は日本文化の象徴でしょう。書いたのはルース・ベネディクト(Ruth Benedict 1887-1948 61歳で死)という人で、彼女はニューヨークにあるコロンビア大学の文化人類学の教授をやっていた。この人が戦争時代に日本人の捕虜たちを尋問したり取り調べて、それから日本人が書いた日記とか手紙とか読んで、「日本民族とはどういう民族なのか」という研究をやった。まだ太平洋戦争中に、ですよ。『菊と刀』に、「日本人というのはこういう人種なんだ」と書いた。日本文化を、南太平洋諸国(south pacific ocean islandsサウスパシフィック・アイランズ)の国民文化・民族文化のひとつとして描いたのね。

ルース・ベネディクト【ここからwikipediaから抜粋。アメリカ合衆国の文化人類学者。ニューヨーク生まれ。「レイシズム」の語を世に広めたことや、日本文化を記述した『菊と刀』を著したことによって知られる。1936年、コロンビア大学の助教授に昇任すると、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入するに当たって、アメリカ軍の戦争情報局に招集される。1942年より、対日戦争および占領政策にかかる意思決定を担当する日本班チーフとなる。このときにまとめられた報告書「Japanese Behavior Patterns(『日本人の行動パターン』)」を基に、「菊と刀」が戦後に執筆された。同時期に、アメリカ軍のために人種的な偏見について学問的な解説を企てた著作も発表している。米軍は、軍事的な効率と関係する人種的に動機付けられた行動に関心を持っていたと言われている。これらの活動を通して、racism(人種主義、人種差別主義)の語を一般に定着させた人物でもある。wikipediaから抜粋はここまで】
副島隆彦です。もう一人有名な女性学者がいる。ポリネシアンであるところのニューギニアからポルネオ島あたりを研究したマーガレット・ミード(1901-1078 76歳で死)という人。サモアとかその周辺の民族の家族構造とか文化とかを一生懸命書いたんです。
原住民の世界に高い文化をもつ人が入って行くとね、原住民にとっては彼らが「神」のように見えるんですね。「ホワイト・ゴッズ(白い神)」という言葉がある。白いというのは白人ということです。【スタートレック(米のTVドラマ・映画)では、ワープ技術を発明していない異星人にはファースト・コンタクトをしてはいけないって…続きをお願いします】
原住民は高い文明・文化に接すると、「神が空から降りてきた。とても自分たちにはかなわない」となる。それで呪(まじな)いや呪術【神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようとする行為、および信念。まじない・魔法・魔術など。コトバンクから】というものになっていく。

マーガレット・ミード【ここからwikipediaから抜粋。アメリカの女性文化人類学者。文化人類学の発展期にあって数多くのフィールドワークをこなし、精力的に研究を行った。また文化人類学を利用した社会評論や一般向け著作にも熱心に取組み、文化人類学の普及に多大な貢献を行った。南太平洋および東南アジアの伝統文化においての、性に関する態度を詳述したミードの報告は、1960年代の性の革命に影響を与えたとされており、ミードは、尊敬されまたしばしば論争の対象ともなる学者であった。wikipediaから抜粋はここまで】

サモア【ミードの最初期のフィールドワークは、1925年から1926年にかけて、サモア(Polynesia:ポリネシア地域)で行われた。サモアの若い女性たちと共に生活し、インタビュー・参与観察・心理テスト(文化適応した質問紙的手法)などを併用した。 彼女の主張の一つは、「思春期の葛藤・不安・性的動揺は、生物的に普遍的なものではなく、文化的条件の産物である可能性がある」という点である。すなわち、サモアでは性的開放・親子関係・共同体規範が異なるため、思春期体験も米国とは大きく異なるという考察だ。具体的には、サモアの少女たちは羞恥や罪悪感を比較的あまり抱かず、性的経験や恋愛をより自然な成長過程として扱っていたという観察が記される。
これにより、ミードは「文化が若者の行動を大きくかたちづくる」という視点を提示した。この著作はベストセラーとなり、人類学・社会学のみならず一般読者にも広く読まれた。ミードはこの作品を通じて、「私たちの常識と思われる性行動・思春期観はある文化によって固まったものであり、異文化を参照すれば多様性が見える」という主張を広める役割を得た。この点は、現代においても思春期支援・性教育・ジェンダー観の刷新などで示唆を出す源泉となる。
ブログ 心にうつりゆくよしなしごと 知られざる文化の語り部 マーガレット=ミードという知性の旅参照】
副島隆彦です。ルース・ベネディクトとマーガレット・ミード、この二人にはフランツ・ボアズ(1858-1942 84歳で死)という先生がいた。ボアズはドイツ人で、アメリカに移住した。英語はそんなにできなかったと思うんだけど。1800年代にインディアン部族の中に入って行ってインディアン研究をやったんですね。

フランツ・ボアズ【ここからwikipediaから抜粋。ドイツ人。ドイツと違ってユダヤ人であることで冷遇されないアメリカに移住しようと決意し、1887年ニューヨークに市民権を得る。
1896年コロンビア大学の講師になり、1899年教授に昇進。分立していた学部の統合の申し出がかなってアメリカで最初の人類学の博士課程が設置される。その間関連する分野をまとめるアメリカ人類学会(英語版)(AAA)の設立にも尽力。学会ではマクジー(W.J. McGee )が影響力をもち、会員は人類学者だけにしようとしたがボアズの意向で人類学者でなくとも入会できることになった。1902年マクジーが会長、ボアズが副長になった(以下プトナム、パウエル、ホルムズが続く)。人類学の四部門として自然人類学、言語学、考古学、文化人類学を掲げた。
ネイティブアメリカ諸語の研究を行ったが、そのときに影響を受けた弟子のエドワード・サピアのように言語と文化について研究はしなかった。当時の研究者の風潮(関係ない事例を取り上げて先住民は遅れているとする)に反対して文化相対主義を唱えた。wikipediaから抜粋終了】
■蕩尽理論(とうじんりろん)
副島隆彦です。ボアズが、「インディアンのある部族が、自分たちが一番大事にしているソリとか毛皮、敷物とか何とかを年に一度、火の中にくべて燃やした」と書いた。これを「蕩尽理論(とうじんりろん)」と言います。焼き尽くすんです、大切なものもすべて。ボアツには、その部族がどうしてそんな異常な行動を取るのか分からなかった。理解できなかったんでしょう。
この蕩尽理論というのは単に、「年月が経った毛皮とか織物にはもう虫がいっぱいついてるし、古くなったから燃やしたんだよ」と簡単に言えるものではないんです。燃やしちゃったインディアンの部族は、「新しいものをまた作るから古いものを壊した」というだけじゃなくて、「あえて、何か自分が一番大事にしているものを燃やした」んだと。それが人類という生き物の非常に大事な行動で、「破壊衝動」みたいなのがあるんだと。ポトラッチ・セオリーというんだけど、どうもそこに人類の大きな謎がある。
それは戦争という破壊衝動でもあるんですよ。集団発狂状態に陥(おちい)った時のね。それらは共通しているんだと思う。ただ、「なぜ人類はでそんなことをするのか」、この今も謎が解けないんです。それを一生懸命考えることが学問、サイエンスですからね。だから、ポトラッチ理論を解明することは、アンスロウポロジーの大事なところでね。大きく捉えなきゃいけないんです。
■縄文時代と弥生時代の区別はできない
ポリネシアンとミクロネシアンとメラネシアンの区別は、日本人にはつきません。よくわからない。
私は以前、池袋のホテルの前で、メラネシアンみたいな人たちが会議を開いているところを目撃したことがあります。やっぱり違います。肌とかね。顎髭とか髪の毛がぐちゃぐちゃっとなっていて、アジア系なんだけど、どうもやっぱり違うんですよね。メラネシアンとミクロネシアンも違う。でもそれに私は関わりたくない。どうせ、きっと分かんないから。

(wiki 南太平洋から)
日本人の祖先の一部はポリネシアンだという説もあるけど、それも疑わしい。ただ沖縄の人の鼻がベチャっとしてね、あの人たちがアイヌ人になったっていうのは、本当だと思いますよ。倭人たちにいじめられて、北の方にどんどん逃げて行って。鮭さえ取れれば、タンパク質が取れますから。鮭は川を登ってくるから棒でバンバン叩いたら、何千匹で獲れるわけですからね。それを塩で干したら、1年間食べられるから。
熊も鮭を食べに来る。人間と同じく、川で鮭を獲る。だからクマが神様になったんですね。熊本県の熊です。球磨(くま)川とかね、ずっと鮭が上がってきますから。鮭をいっぱい獲って生き延びた。だけど、だんだん追われて北の方に行って、ついには北海道まで行っちゃった。それがアイヌです。私は縄文人・弥生人という分類が大嫌いでね。稲作をするのが弥生人とかなんとか、そんなものはいないんだよ。日本には1万年前ぐらいからアイヌ族はいて、新石器人はいるんですがね。世界基準では、新石器はネオリシック(Neolithic)と言います。旧石器時代(Paleolithic パレオリシック)はありません。
【ここからAIによる概要:パレオリシック(Paleolithic)は「旧石器時代」を指し、人類が約200万年以上から約一万年前まで、打製石器を使い狩猟・採集生活をしていた時代。土器や磨製石器はまだ知られていない。
ネオリシック(Neolithic)とは「新石器時代」を指し、約一万年前の温暖化以降、磨製石器や土器を使い、農耕・牧畜を開始して定住生活を始めた時代(文化段階)を指す。「獲得経済」から食料を生産する「生産経済」へ転換した、人類史の重大な変革期です。AIによる概要はここまで】
副島隆彦です。今から3万年や5万年遡(さかのぼ)っても、人間はもう稲作を始めている。「弥生人は…」とか言い出したら、もう考古学が理論的に崩壊してしまう。日本でも、青森県の三内丸山遺跡(約5900~4200年前)での発見で、すでに雑穀の栽培が行われていたことが分かっています。【さらに2005年には、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に発見され、日本における稲作開始の歴史を大幅に遡らせた】

土器の表面に残る籾(モミ)の痕跡
【参考資料変化する縄文時代観(岡山県古代吉備文化財センターのホームページから)】
中国文明(揚子江文明)、揚子江は中国で長江っていうんだけど。1万年前から1万2000年前の長江の中・下流にある遺跡では、栽培稲の形跡が見つかっていますからね。だから5000年ぐらい前には、日本に米の文化が流れ着いているに決まっているんですよ。中国で戦乱があるたびに、筏(いかだ)かなんかを組んで、中国から日本まで人々が流れ着いて来ているんですね。それを認めればいい。「縄文時代」なんて定義する必要はないんです。1万年前の日本列島には200万人ぐらいいたと思う。彼らが日本民の原型を作ったんですよ。
後漢(紀元後25―220年)帝国の皇帝(光武帝)から「漢委奴国王(かんのなのわのこくおう)」というのをもらった王様が日本にいたと。福岡県の志賀島(しかのしま)で金印が見つかったということは、あの辺にいたんですね、後漢帝国の家来だった国王が。それが紀元57年かな。

志賀島
そこから約200年後。紀元後200年~220年というのが、卑弥呼(ひみこ)がいた時代ですからね。卑弥呼というのがあの辺をまとめていた。女ですからシャーマン、巫女(みこ)さんなんですよ。彼女は中国語できたようです。お祭り、お呪(まじな)いをやって、五斗米道(ごとべいどう)という神様を祭(まつ)っていてね。卑弥呼は中国のシャーマンなんです。だから中華帝国に服属していた。だけど位(くらい)はもらっていなかった。
「共同幻想論」に到達した思想家たち ④終わり
⑤につづく
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